世尊
「仏の心に飛び込む、衆生の四つの心がけを、説きましょう。
1 卑屈な精神を捨てること
自分はとてもだめだと思う・自分の仏性を否定する考えは、仏を否定する・仏を侮辱する考えです。
衆生は常に ー自分は仏ほとけ になれるのだ、自分と宇宙は一体なのだーと意識を保つことが大事なのです。
さらに、経典を読む・唱えるなどして、その意識を言葉に出して唱えることが必要なのです。
この繰り返す行為が自分の心に自信を生み、その自信はさらに確固な大自信へと、成長させるのです。
このような経過を経た自信は、増上慢ぞうじょうまん の心には成りません。
増上慢の心は、煩悩の心なのです。 煩悩には「六煩悩」があります。
増上慢とは、悟りもしないのに悟ったと思う、小さな人間の心のことです。
本当の悟りというものは、普通の衆生は、なかなか自分ではわからないものです。
自分が解脱していることを自分で自覚できる解脱知見 げだつちけん の境地に達した人だけが、
本当の悟りが分かり得るのです。真の解脱知見の境地とは、仏の境地なのです。 「仏の十八不共法」
第1段階の悟り(卑屈な精神を捨てた)を得た人間は、いつも心が明るく、のびのびした気持ちになっています。
目の前に起きるちっぽけな出来事に 怒ったりビクビク・オドオドしません。
さらには、すべて自分の思うどおりになるような 気持ちが起きていることを感じています。
最近、なんとなく悟りを得たような気持ちになっている自分を感じる‥などの心の変化に気づきます。
人は、教えを聞くときや、教えを説くときには 低い姿勢で対応することは 当たり前のことです。
心の姿勢もそうです、態度にあらわす姿勢もそうです、謙虚な姿勢でなくては なりません。
しかし、自分の心の中に真理を思う時は ものすごく高い姿勢で望むべきなのです。
ー自分は仏の子である・宇宙である。 だから、この世はすべて自分の意のままであるーと、大きく思うことが大事なのです。
この大きな思いこそが、仏のふところに真っすぐ飛びこむ近道なのです。
衆生が自から仏の懐ふところ に飛びこみ、溶け込んでくることが、仏の「本懐・本願」なのです。
2 信と解を身に保つ
仏の懐に溶け込むには、法華経の教えの信と解を、しっかり身に保つことです。
この心があれば、仏の道の途中で脇道へそれたり、袋小路へ迷い込むことは、絶対にありません。
もしも、仏の道を見失いそうになった時は、改めて、法華経を読み直すと、必ず道(出口)が見つかります。
法華経には、あらゆる状態の衆生に当てはまる教えが説かれているので、また読み直すと
ハット目が覚めるのです。 この時、衆生自から、迷いの袋小路から脱出する道を見つけたのです。
3 信解品に示された方便の精神
法華経の教えを良く信解できた衆生は、真っ直ぐ仏の懐へ飛び込んでいける幸せな衆生なのです。
だが、五濁の悪世 ごじょくのあくせ の時代においては、窮子ぐうじ (凡夫)が、世の中に満ち溢れています。
これらの衆生を救うのが、法華経の精神なのです。法華経だけが、迷いの窮子ぐうじ を救えるのです。
それには、まづ、仏の方便の真似ごとからはじめることです。
本物を真似まね・することで、自分も本物になるのです。 中江藤樹も、知ることは行う道と説いている。
「知行合一」:「中江藤樹の言葉」
4 信と解を高める
仏の教えを、ただ受動的に受け取るだけでは、その衆生の成長は望めません。 「五種法師」
教えを、社会へ能動的に発信しなければなりません、即ち、他人へ解説げせつ することが重要なのです。
実は、自分の信と解をさらに高める最良の方法とは、この自発的行動なのです。
又、この行動が、他人の信と解も高めるのです、たいへん大きな功徳なのです。
自分の信仰の体験を人に語ることは、非常に大きな善行 ぜんこう なのです」。
この信解品第4を聞き終えた四人の声聞たちは、法華経を深く信解しんげ できました。
「薬艸諭品第5」へ