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からす窯通信


<記事>
 作品搬入の箱づくりオブジェ/秋の草花,、吾妻渓谷と八ツ場(やんば)ダム「代償は大きい」/新聞のコラムから 「政府の暴走止めよう」/新聞の投稿から井戸茶碗その後半泥子(はんでいし)の茶碗根津美術館「井戸茶碗」展井戸茶碗のテストダンマパダ(法句経)季節外れの雪「our planet 地球の記憶」日本アンデパンダン展のお知らせ旧倉淵村の家越後妻有・大地の芸術祭「オーストラリア・ハウス」群馬芸術文化協会展のお知らせ日本アンデパンダン展の終了日本アンデパンダン展薪割り・竹刈り・水簸(すいひ)「地球の記憶 1945-2011」関東の放射能汚染/群大の公開授業から空飛ぶ大窯単管でつくる小屋 Love Me Tender/なに言ってんだー福島第一原発3号機はプルサーマルで危険初詣と元旦コンサート『鳥の歌』川原で野焼きをする低火度釉のテスト個展「命のかたち『草花を焼く』」蠅(ハエ)捕り紙の夏ルーシー・リーと燕子花(かきつばた)

「からす窯通信」の記事が多くなったため、古いものは「からす窯通信2」に移しました。
  →「からす窯通信2

 

作品搬入の箱づくり 14.11.06 New!

   木箱のサイズは80×80×25p

 11月上旬は公募展の作品搬入で忙しい。
 4日は県展の搬入で県立近代美術館へ。
 5日は全陶展の搬入で前橋へ(群馬の全陶展応募作品は翌日まとめて東京に搬送)。

 県展の作品は1日に焼成したもの。3日の夜窯から出して、4日の朝梱包した。
 県立近代美術館に運んだのは昼。帰りにホームセンターによって厚手のダンボールなどを購入する。
 帰宅後は、翌日の全陶展に出品する作品の箱づくり。
 県展は作品を直接持っていくので車で輸送中に壊れない程度に包んであればいい。でも全陶展は群馬から一括して業者が搬送するので作品はしっかり梱包して箱詰めにするのが原則。

 で、夜までかかってダンボールで箱をつくった。
 サイズは約80×80×25p。下箱と上箱をつくり重ね合わせるようにした。
 これでいけると思っていたのだけど。

 翌朝、作品を入れてみたらダンボール箱の強度に不安が・・・。
 作品の重さは約20キロ。オブジェは不規則な形をしている。
 業者が安心して輸送できるようにするためには、箱はもう少しじょうぶなほうがいい。
 前橋に届けるタイムリミットは午後5時。時間はまだある。材料を木材にかえた場合の箱づくりの手順を考える。

 午前9時の開店時刻にホームセンターへ。箱づくりに必要な資材を買ってくる。
 丸のこで合板をカットして組み立てていく。昼までに原型がほぼできあがる。
 ここで一休み。
 午後一で蓋(ふた)をつくり、仕上げの面取りをする。
 オブジェの物撮りをして写真をプリントアウト。提出書類に不備がないか点検する。
 最後に作品をエアーパッキンで包み木箱に入れる。箱と作品のすき間にはスポンジを詰める。蓋をして、外側にマイカー線を二重にかけてしばると梱包は完了。
 時計を見ると午後3時過ぎ。前橋までの搬送時間は約1時間。
 間に合った。どたんばで箱を作り直したけど、正解だった。これで輸送中の事故は回避されたと思う。
 
 この時期、搬入はいつもぎりぎりになってしまう。去年もそうだった。
 作品制作のほか泥縄式に箱もつくるので、どうしてもどたばたしてしまうのだ。

 

オブジェ/秋の草花 14.10.22 New!

   家のまわりで採取した秋の草花

 先週、家のまわりで草花を採取。
 草は夏草が終わって冬草に移り変わる。夏草は背が高く、冬草は地を這うように広がる。
 今月は集中的にオブジェをつくっていて、野の草を使う。
 それで草花の採取をはじめたのだけど、まだこんなにあったのかと嬉しくなった。

 オブジェに使うのは太陽に向かって伸びる夏草。
 9月の野はあちこちで小さな草が花を咲かせているけど、月が変わると激的に少なくなる。 
 セイタカアワダチソウのような大きな草は10月になってますます盛んに花を咲かせているけど、作品で使いたい小さな草花。
 で、あちこちの草むらを徘徊して、花の残る小さな草を探し求めることになった。

 数年前、春の草花をやきものにしてオブジェ展を開催したことがある。
 春は小さな草花がつぎからつぎへと咲いて目を楽しませてくれるので、採取に困ることはなかった。
 秋は昨日咲いていた草花が今日枯れてしまうので、採取が遅れると探すのが大変になる。

 ぺんぺん草、オドリコソウ、ツユクサ、タンポポなどは春に咲いて一度枯れ、秋にもう一度花を咲かせる。
 オオバコは踏みつけられて地を這いながらも秋までしぶとく居すわっている。
 イネ科の草やイヌタデ(イヌマンマ)は秋の草花の代名詞。
 昔、イヌマンマは犬が食べるのかと思ったけど、わが家の犬たちもいっこうに関心を示さない。
 かつて、ままごと遊びで赤い実(花?)を赤飯に見立てたのでイヌマンマ、アカマンマと呼ばれるようになったらしい。

 草花の採取には一つのこだわりがある。
 それはオブジェで使う草花は、根から花まで丸ごと活かすこと。
 根、茎、葉、花とつながっていて一つの草なのだ。

 だからこれという草花が見つかったときは、園芸用のスコップをつかって根っこから丸ごと掘り出す。
 茎、葉、花のバランスが良くても根全体がうまく掘り出せなかったときや、根に瘤ができて変形しているときなどは掘った場所にそのまま戻す。

 ふだんは気にも留めない足下の草だけど、掘りあげ、土を払い、根、茎、葉、花とひとつながりの姿があらわになると、どの草花も美しくみごとで、「まいりました」の一言。
 多くは名も知らぬ「雑・草」なのだけど。
 

 


吾妻渓谷と八ツ場(やんば)ダム 14.09.25 New!

    
    

 秋分の日の23日、JR吾妻線に乗り、川原湯温泉駅で下車して吾妻渓谷を見てきた。
 吾妻渓谷はこれまでにも何度か訪れたことがある。ただいずれも車。
 こんどは吾妻線に乗って訪ねてみたのは、吾妻渓谷を走る区間が廃線になると聞いたからだ。
 乗車区間は群馬原町駅から川原湯温泉駅まで。片道20分ほどの小さな旅だ。

 吾妻渓谷行きを決めたのは23日当日。
 午前中はまだ工房でロクロを挽いていた。昼前に作業が一段落。次の作業である器の高台削りは土が少し固くなる夕方以降、たぶん夜になる。
 で、午後の時間が空いたので、明日(24日)で運行停止になるという吾妻渓谷区間に乗ってみようと思った。

 午後、軽トラで吾妻の原町に行く。近くの大型スーパーに車を留めて(帰りに買い物をする)、群馬原町駅に向かう。
 原町はよく訪れるけど列車に乗るのは初めて。駅には思いのほか人がいた。
 にぎやかな雰囲気は列車に乗ってすぐにわかった。
 乗客の多くが鉄道ファン。みなカメラを携えている。
 列車が吾妻渓谷に近づくと、線路脇のあちこちでもカメラマンが待ち構えるようになった。レンズが窓の外からこちらに向けられていて、奇妙な感じだ。

 川原湯温泉駅に着くと、そこはもうお祭りのような「ハレ」の雰囲気。
 いつもはここは閑散としている山の中の駅だけど、駅舎は都会に舞い降りたかのような人だかり。川原湯温泉駅は吾妻渓谷の入口の駅で、この日、渓谷を走る列車を撮りにきた鉄道ファンが数多く集まっていたのだ。

 これは想定外。吾妻線に乗ろうと思ったとき、鉄道ファンのことはこれっぽっちも頭になかった。
 私が見たかったのは吾妻渓谷ではじまっている八ツ場(やんば)ダムの工事のようす。
 吾妻渓谷は何回か訪れているけど、最後に渓谷沿いの国道を歩いたのは1年半前。すでに付け替え国道(バイパス)が完成していて、車はバイパスを走るようになっていた。あのとき、吾妻渓谷はまだ健在だった。
 今回、JR吾妻線の一部区間が付け替え新線に変わるのは、八ツ場ダムの本体工事がまもなく始まるからだ。

 川原湯温泉駅を出ると下流に向かって歩き始める。まもなく両側の山が迫ってきて、深い谷の渓谷になる。
 渓谷に下る遊歩道は閉鎖されていて、国道沿いを歩いていく。

 西の耶馬溪、東の吾妻と並び称された渓谷は谷が深い。両岸は木々に覆われているから、国道からは足下をのぞき込むようにしないと谷底を見ることはできない。だから、ただ前を向いて歩いているだけだと、足下の渓谷も、そこでおこなわれている巨大な基礎工事にも気づかず通り過ぎてしまう。

 ダムの工事は思ったよりも進んでいた。吾妻渓谷の美しかった河床が土砂で埋められ、コンクリートも打たれ、大型ダンプや重機が行き交うのを見るのはつらいことだった。そこではもう元に戻すことのできない工事が進んでいた。

 顔をあげると、行き交う人はいずれも鉄道ファン。足下でおこなわれていることに注意を向けることもなく、国道のすぐ上を走る吾妻線にばかり熱い視線を送っていた。

 八ツ場ダムは無用の公共事業だと思う。そんなお金どこにあるのだろう。
 水道用水も電力も足りているし、下流域の災害時の洪水調整機能もほとんど効果がないと言われている。また山間地に巨大ダムをつくっても最近のゲリラ豪雨にはなすすべがない。お手上げだ。
 土砂流入の多い日本のダムは、完成後数十年から100年でその多くが埋まってしまう。あとは原発と同じで巨大な産業廃棄物が未来永劫残るだけ・・・。

 田舎に住んでいると、ダムよりももっと身近でやってもらいたい公共工事がある。

 川原湯温泉に滞在したのは1時間。こんどは反対側のホームから高崎行きの上り列車に乗り群馬原町で下車。スーパーで晩の総菜を買って帰る。
 晩ごはんを食べたあとは工房に戻り、器の高台を削った。

 写真左は川原湯温泉駅。頭上にかかるのはダム湖をまたぐ湖面1号橋。まもなく開通セレモニーがおこなわれる。ここに写っている川原湯温泉駅一帯もダムが完成すれば湖底に沈む。
 写真右は吾妻渓谷のダムサイト付近。河床は埋められ、大型ダンプや重機が行き交っていた。

 ・八ツ場ダムについて知りたいという方には次のホームページをおすすめします。提言や資料が充実しています。
 →八ツ場あしたの会   http://yamba-net.org/

 

「代償は大きい」/新聞のコラムから 14.07.03

    週末のフリーマーケット

 2014年7月1日、安倍内閣が集団的自衛権行使容認の閣議決定をしました。日本国憲法では集団的自衛権は認められていません。これはあきらかに憲法違反です。

 憲法には、憲法を変える場合の改正手続きが定めてあります。憲法を改正する場合は国民投票にはからなければなりません。安倍首相はこの憲法に定められた改正手続きを無視して、自分の意向(解釈)だけで憲法の中味を変える宣言をしたのです。
 かっこよく颯爽(さっそう)と振る舞っていますが、やっていることはむちゃくちゃです。
 海外からも、安倍首相のこのやり方に「日本は法治国家ではないのか」という非難の声が上がっています。

 昨日(7月2日)の新聞に「集団的自衛権行使容認に物申す」というタイトルで7本のコラムが載っていました。そのなかの1つ、文芸評論家の斎藤美奈子さんのコラムを次に紹介します。


▽「代償は大きい」 斎藤美奈子

 しまった。解釈改憲なんてマヤカシの用語をいわれるままに使うんじゃなかった。集団的自衛権の行使とは「大国と結託して他国に戦争をしかける権利」のことだと、もっとハッキリいうんだった。
 政府与党は憲法9条の解釈を変えたのではない。9条を「廃棄処分」にしたのである。
 それでどうなるの?
 @国内の都市がテロの標的となる。Aテロ対策に莫大(ばくだい)な予算と人員が割かれる。B必然的に福祉予算は削減される。C海外、特に中東での企業活動や非営利活動がしにくくなる。D対中、対韓関係はさらに悪化し、東アジアの緊張が高まる。E自衛隊員に戦死者が出て、士気が下がる。F応募者が漸減し、徴兵制が現実味を帯びる。Gデタラメな法の解釈を許した以上、もう法治国家ではない。H国民の合意なく決定した以上、国民主権はないも同然。I学校で教える憲法の三原則もうそになる。
 半世紀以上かけて築いた「戦争をしない国」のブランドをむざむざ捨てた代償は、私たちに跳ね返ってくる。どこか遠い戦地の話じゃないのである。

 東京新聞 2014年7月2日 「本音のコラム」から

 

「政府の暴走止めよう」/新聞の投稿から 14.01.09

     

 喪中につき新年のご挨拶は失礼させていただきます

 今朝の新聞に画家の堀文子さんの投稿が載っていました。
 タイトルは「政府の暴走止めよう」。

 堀さんは大正生まれの日本画家。今年95歳になります。
 昭和の軍国主義がひきおこした日中戦争や太平洋戦争、空襲、敗戦は、堀さんの10代、20代とそっくり重なります。
 その堀さんが、今の自民党政権と世相があのころの国情とあまりにも似てきたと警鐘を鳴らしています。

 たぶんあのころも、多くの人々にとっては毎日の暮らしがまずあり、昨日とさほど変わらない今日、今日とさほど変わらない明日があって、ある日突然暮らしのすべてが軍国主義になったわけではなく、少しずつ受け入れていくうちに気づけばもう引き返せないほど大きく変わっていたのだと思います。
 戦争もはじめはすべて海外で勝ち戦。連戦連勝がつづくと気がゆるみ、景気が良くなるのなら、戦場が海外なら、戦争だって少しくらいは・・・と思ったかも知れません。
 ところが海外でおこなわれていたはずの戦争がいつの間にか身のまわりに押し寄せてきて、気づけば空襲の大火のなかを命からがら逃げ惑う。こんなはずではなかったのに。
 でもこれが戦争の実情です。海外、国内を問いません。そうなってからでは遅いのです。
 以下に堀さんの投稿を紹介します。

 『政府の暴走止めよう』  堀文子(画家)95歳

 国民に相談もなく、十分な説明もせず瞬く間に特定秘密保護法を衆参両院ともに通過させた現政権の独断を私は許しません。
 無謀な戦争を企て、何百万の兵士と国民の命を奪い、全国の都市を焼き、歴史が残した貴重な文化遺産を灰燼(かいじん)に帰した第二次世界大戦の苦痛。その過ちの末、私たちが得た平和憲法は、日本人の血と命から生まれた世界史に残る戦争放棄の誓いでした。
 日本が軍事行動を起こすため、政府は平和憲法を改正したいが、国民の同意を得るのは難しい。そのことを知った与党は、平和を装いながら特定秘密保護法をつくりました。「国益のため」と本心を隠し、反逆者の名目で反対意見を抹殺するため、この法をつくったと思います。
 平和を望む者を罪人にしてしまうかもしれないこの悪法は、かつての治安維持法そのものです。この法のために国民の反戦意見は抹殺され、戦争の地獄への道連れにされたのです。オリンピックに血道をあげさせ、国民を享楽的にさせた当時の国情と今の世相があまりにも似ているのに私は戦慄(せんりつ)を覚えます。
 日本は再び危険な野望に向けて暴走を始めたように思えてなりません。今こそ国民が一致団結して危険な法の粉砕を図らなければ、後世に禍根を残します。今なら入口に戻り、路線を変えられます。
 自民党の暴走を止めるのは、今を生きる国民の務めであり、責任です。
 危急存亡のとき、国の暴走を許さぬ賢い日本人になる必要があるとつくづく思います。

 東京新聞 2014年1月9日 投稿欄「ミラー」から

 



井戸茶碗その後 13.12.21

  

 12月は外作業が多かった。畑の片づけ、耕耘、竹藪の整理、残渣の焼却など。
 やることはたくさんある。
 冬になって、またイノシシが徘徊するようになった。耕耘していないところを掘っていく。ミミズを探しているのだろう。道路の山側はイノシシの掘ったあとがずーっと続く。
 畑のネットも一カ所、襲撃されていた。コーナーの支柱が傾いていた。
 力任せに押して乗り越えようとしたらしい。でも有刺鉄線が張ってあるので、いったん退却したようだ。
 竹を1本切ってきて、倒れかかっていた支柱のすぐ横に打ち込み、コーナーを補強する。
 1月、2月は地面が凍るので、外作業は年内にやっておきたい。

 秋、かなり集中的に取り組んでいた井戸茶碗のテスト。
 写真左がそのときのもの。一応、高台まわりのカイラギはでている。土色は今ひとつか。
 焼成温度は1200度くらい。
 でも、この土と釉薬ではこのあたりが限界。
 写真の種明かしすると、この茶碗では2種類の釉薬を重ね掛けしている。
 一つはカイラギのでる釉薬。もう一つはカイラギのでない釉薬(透明釉)。

 はじめ高台まわりにカイラギがでたときは喜んだけど、この釉薬では茶碗全体が細かなカイラギになってしまう。
 それを嫌って試行錯誤。その一つが上の写真。高台をのぞく全体に透明釉を薄く重ね掛けしている。
 一見よさそうだけど、釉薬の調合が違うので透明釉の釉垂れとカイラギの釉縮れに違和感がある。
 土ももっと明るさがほしい。あと伝世品はもう少しきめの細かい土を使っているようだ(カオリンを含む土)。削るタイミングも違う。

 で、このときの土と釉薬をいちど断念して、あらたな土と釉薬の原料を探すことにした。
 写真右は山で掘ってきた土。いずれも源流域で採取してきた一次粘土。 
 窯業地の鉱山ではふつう山から流れ出た土が太古の湖などに堆積した二次粘土を採掘しているけど、山奥の一次粘土だっておもしろい。雨水に洗い流されていない分、土の個性が強い。

 

 

半泥子(はんでいし)の茶碗 13.11.24

   
  

 茶陶の美術館巡りの続編。
 根津美術館の「井戸茶碗」展に続いて、菊池寛実記念智美術館で開催されている「現代の名碗」展を訪問。
 ここでの「現代」とは、昭和から平成まで。現在活躍中の陶芸家もいれば、すでに鬼籍に入っている人もいる。やきもの(茶碗)に関心のある人にはよく知る名前ばかり。

 川喜田半泥子(かわきたはんでいし)という人がいる。1878年生まれで1963年に亡くなっている。「現代の名碗」展の中ではもっとも古い人になる。
 三重県の人で職業は銀行家および実業家。・・・なのだが、個人で膨大な数のやきものをつくり、東の魯山人(ろさんじん)、西の半泥子と並び称された。ともに伝世品の写しを得意とした。

 魯山人は希代の「陶芸」プロデューサー。
 腕利きの職人を集め、多種多様の和食器をつくらせた。陶芸家というより、窯元のオーナー兼デザイナー、およびディレクターというほうがあたっているかも知れない。
 いっぽうの半泥子は、自らを素人と称し、自分でロクロを挽いてやきものをつくった。また作品は売らず、つくる先からまわりにことごとくくれてしまった。

 なーんだ、素人(しろうと)の遊びか、と思うのは軽率。
 半泥子は、ことやきものになると、日本国内の窯元(窯業の産地)はおろか、朝鮮や中国にまで出かけていって、実物に触れ、現地の空気を肌で受けとめて、作陶におよんでいる。そして自分で土を練り、ロクロを挽いた。独学を徹底した人。そのうえで「器用はキライ」と言い切り、はばかることなく「素人」を自称した。

 写真は「現代の名碗」展のポスターにもつかわれた半泥子の「井戸手茶碗 銘さみだれ」で、1942年頃の作品。
 左の写真は茶碗を正面から撮ったもの。右は裏返して撮ったもの(ポスターで使用)。
 
 「素人」を自称するだけあって、うまくはない。生まれてはじめてつくったようなヘタくそな茶碗だと思う。写真を見ただけで、ずいぶん重い茶碗だろうなと思う。
 もしこれが値段をつけて売る茶碗なら、もっとうすく削らなくてはいけないし、その前にもっとうすくロクロを挽かなくてはいけない。

 根津美術館の「井戸茶碗」展を見る前にこちらの美術館を訪れていたら、この茶碗を見ても「へたうま」というありきたりのことばをつぶやいて、ほかの作品に移っていったような気がする。
 この茶碗、おもしろいとは思う。でもやきものをつくるニンゲンの目で見れば、ヘタとしか言いようがない。

 ところが先に根津美術館で400年以上前につくられた古い井戸茶碗をたくさん見てきたからなのか、菊池美術館で最初に半泥子の茶碗を見たとき、この茶碗が違和感なくすーっと入ってきた。
 根津で見た伝世品の井戸茶碗につうじるものがあったのだ。
 その「つうじるもの」とは何か。ことばで説明するのはむずかしい。

 400年前の井戸茶碗と半泥子の井戸手茶碗をくらべると、姿形はまるで別物だ。似ても似つかないといってもいい。この茶碗に「井戸手茶碗」と名付けたのは、半泥子の精一杯の遊び心、茶目っ気か。
 朝鮮半島で井戸茶碗を挽いたのは無名の職人たちだった。その井戸茶碗を日本の大名や茶人たちが競って入手し、またたくまに高価な宝物にしてしまった。そんな茶碗をめぐる茶の世界への皮肉もこめられているかもしれない。

 先にこのブログで、根津美術館の「井戸茶碗」展について書いたなかで、伝世の井戸茶碗の本質を「素朴な器形にみなぎる凛とした潔さ」と表現したけど、半泥子の茶碗の前に立ったとき、同じ印象をうけたのだった。
 けっしてうまくはない「素朴な」、いや半泥子の場合「素朴すぎる器形」だけど、その器形に「潔さ」が充満していた(写真では伝わらないと思います。私も作品と対峙(たいじ)したときに初めて、半泥子は「これか」と了解したのでした)。

 亡くなるまでに膨大な数のやきものを残した半泥子は、ロクロにむかうとあとは一気呵成につくるタイプで、多くは「素人」の駄作、いや凡作だったと思うけど、なかには、この井戸手茶碗のように伝世品とじかにつうじるものもあった。

 昭和と平成を代表する「現代の名碗」展のなかでも、半泥子の茶碗の「格」と「潔さ」はきわだっていた。

 

 

根津美術館「井戸茶碗」展 13.11.24 New!

  

 先日、日帰りで東京へ。秋の一日、美術館巡り。といってもこれはぜんぶ仕事。実物を前にして読み解かなければならないことがあった。
 まわったのは根津美術館「井戸茶碗」展と菊池寛実智美術館の「現代の名碗」展。あと1つの東京都美術館は「全陶展」開催中で作品が展示されている。朝、家を出て日が暮れるまで美術館。三館で、移動も含めてたっぷり一日がかり。
 いま井戸茶碗と取り組んでいるところなので、根津美術館の「井戸茶碗」はタイムリーな企画だった。
 帰りは夜、上野で友人と会い歓談、めしを食って群馬に戻る。

 さて根津の「井戸茶碗」と菊池の「現代の名碗」を見て、気のついたことを少しここに書いておくと・・・。

 まず根津美術館の井戸茶碗。今回、70を越える伝世品の井戸茶碗を見ることができた(写真左:これより先は撮影禁止)。
 じつは本物(伝世品)を見るのはこれがはじめて。
 今回、本物を上からじっくりと見てわかったことが一つ。

 それは見込み(茶碗の内側)がでこぼこしていて波うっていたこと。
 これはロクロ挽きで茶碗の形をだしたあと、腰から下の土を絞ったときに起こる現象。
 そのあと見込みにコテをあてればこのでこぼこを消すことができるけど、井戸茶碗ではそうしていない。土を絞ったあとはもう手を加えなかったようだ。
 茶陶では決まり事の一つとなっている見込みの茶だまりも、とくに作り込んでいないことがわかった。
 ロクロで茶碗を挽いたあとに下の土を絞ると、見込みの中心がへこむ。このへこんだ(沈んだ)中心が茶だまりとして見立てられたようだ。
 だから茶だまりの大きさ形はさまざま。中心のへこまなかったものはそのままになっている。指やコテで土を押して茶だまりをつくるということはしていない。

 そして井戸茶碗といえばいくつかの決まり事があるとされているけど、その決まり事すべてを満たしているのは国宝の「喜左衛門」くらいだということもわかった(写真右)。

 ロクロ目のあるものないもの、カイラギのあるものないもの、茶だまりのあるものないもの、小貫入のあるものないもの、枇杷色の発色のあるものないもの、竹の節高台になっているものいないもの、見込みに目あとのあるものないものなど、さまざま。
 高台内の兜巾(ときん:かぶとのように中心が盛り上がった形)は見ることができないので確認できなかったけど、大きさも、どんぶりサイズの大井戸から小井土、青井戸までさまざま。おなじ姿形、そろいの井戸茶碗というものは一つもない。
 
 それだけ多種多様の茶碗だったけど、70碗を見おわってふりかえると、そのどれにもやはり「井戸茶碗」という言葉がぴったりあてはまる。それは400年あまりの時を経てきた伝世品の持つ風格だろうか。
  
 いま「時を経てきた風格」と書いたけど、風格の実態は傷があり、染みがあり、欠けていて、窯から出した当初の姿をとどめているものは一つもない。使い込まれるなかで茶碗は色を変え味をつけていく。作陶が完了した時点のまっさらな作品を完成とするならば、伝世の井戸茶碗はどれも薄汚れてきたならしいものばかりだ。 

 突き放して眺めれば、よくこれだけきたない茶碗ばかりを集めたものだとも思う。
 いずれも老樹の姥桜。若鮎のみずみずしさはどこにもない。

 ただ井戸一碗一碗の輪郭、造形は昔も今も変わらない。
 そこに凛とした潔さが漂う。
 400年以上前に朝鮮半島でつくられたこの茶碗を当時の日本の武将や茶人が愛でたのは、素朴な器形にみなぎる凛とした潔さだったのではないか。

 さて、井戸茶碗の見込みがでこぼこしているという発見は私には朗報だった。
 本や資料で接するかぎり、井戸茶碗は大ぶりで、しかも手取りが見た目よりも軽いとなっている。
 外側の下半分(腰からの立ち上がり)にはロクロ目があり、ロクロ目の数は4段(5段という本もある)と書いてある。
 ロクロ挽きの経験があればわかるけど、茶碗でロクロ目をつけるとその部分はどうしても少し厚挽きになる。波打つ分だけ土を残すことになるからだ。

 ところが井戸茶碗は、このロクロ目の部分も薄く挽いていると書いてある。理由は、高台からの立ち上がりになるロクロ目の部分を削っていないから。
 ロクロ挽きでは、上部よりも下部のほうが薄く挽くのはむずかしい。下部には上部の土の重みがのしかかってくるからだ。ロクロで茶碗を挽くときは、ふつうこの部分を少し厚めに挽いてあとから削って薄くしている。
 
 どんぶりサイズの大きな井戸茶碗で、上部とおなじくらい下部も薄く挽いてロクロ目も残すとなると、そうとうな技術が要求される。
 一つのアプローチは固めの土をつかうことだろう。軟らかい土だと下部を薄く挽きあげる時点で土がよれたりへたってしまう。 

 昔の陶工たちはどのようにロクロを挽いていたのだろうか。気になっていた。
 重力に逆らってロクロを挽くことはできない。
 斜め上方に土を挽き上げるときのぎりぎりの形、重力との妥協点はどこにあるのか。
 大井戸茶碗の「喜左衛門」を挽いた陶工の技量はそうとうなものだ。
 
 今回、茶碗の内側を見ることができたおかげで、井戸茶碗の断面と茶碗作りのおおよその手順を想い描くことができた。
 また見込みの茶だまりに、ロクロを早挽きしたときにできる特有のかたちの残っているものがあって、そのかたちから当時使っていた道具を確認することもできた。

 収穫の多い根津美術館の「井戸茶碗」展だった。

 ・・・つぎに菊池の「現代の名碗」についても書くつもりだったけど、根津の「井戸茶碗」が長くなったので次回とします。

 

井戸茶碗のテスト 13.10.18

    生掛けに釉薬の二度浸しは禁物

 1週間前、最高気温は30度を超えていた。
 それが今は寒ーい。
 台風通過のあと、一気に夏から晩秋になった。冬がもうすぐそこまで来ているような。
 朝の気温は10度を下回っている。

 幸い、台風による被害はなかった(実はビニールハウスを心配していた)。
 風はけっこう強かったけど、9月の台風にくらべて降水量は少なかったようだ。
 おかげで露地の野菜も、また元気を取り戻している。

 工房では毎日、井戸茶碗のテスト。
 土や釉薬をいろいろつくっては焼成を繰り返す。
 土づくり、ロクロ挽き、釉薬づくり、釉薬掛け(施釉)、窯詰め、焼成、窯出し、検証。
 10月に入ってから、このサイクルを繰り返している。

 今、土と釉薬と焼成のテストでねらっているポイントは2つ。
 枇杷色の発色と高台まわりのかいらぎ。

 枇杷色とは文字通りく枇杷のような色のことで、焼きあがった土が釉薬を通して枇杷色に発色することが井戸茶碗の特徴の一つとされている(大井戸茶碗の場合)。
 枇杷色の発色には土に含まれる鉄分量のほか、その土を何度で焼くかという焼成温度も大きく影響する。焼成温度を変えてテストしてみると、そのことをあらためて実感する。
 だから土もいろいろ、釉薬もいろいろ、焼成方法もいろいろテストしている。
 焼成温度を変え、焼成時間を変え、酸化焼成を還元焼成に変えたり、中性炎焼成をねらってみたり・・・。
 
 かいらぎ(梅花皮)とは、高台まわりに出る釉薬の縮れのことで、井戸茶碗の見どころの一つとされている。というか、たぶん、かいらぎがなければ井戸茶碗とは見なされない。
 そこで井戸茶碗の試行錯誤は、まずかいらぎからとなる。

 単純にかいらぎだけを考えれば、焼成で縮れの出やすい釉薬をつくればいい。 珪酸質成分の多い土石原料を加えてやることなどはその一つだ。

 でもここに井戸茶碗の難しさがある。

 かいらぎの出る釉薬をつくって施釉すると、釉薬のかかった器全体にかいらぎが出てしまう。
 これでは困る。
 名物の井戸茶碗でかいらぎが出ているのは、高台まわりの削り部分だけだからだ。
 では、かいらぎの出ない釉薬で茶碗の削り部分だけにかいらぎが出るようにするにはどうしたらいい?

 テストが続きます。

 写真は1回目のテストのとき。
 井戸茶碗の釉薬は生掛けが基本。生掛けとは、素焼きをしないで直接釉薬をかけること。器はただの乾いた土状態なので、釉薬の水分を吸収すると崩れやすくなる。
 左上の割れた(崩れた)器(テスト用)は、釉薬に二度浸したもの。釉薬を厚くかけた場合のテストがしたかったのだけど、生掛けだったことを忘れてつい二度掛けしてしまった。

 生掛けで釉薬に二度も浸したら、土がもちません。

 

ダンマパダ(法句経) 2013.8.14 New!

    通夜の焼香台

 8月になって猛暑がぶり返してきた。
 ただいまオブジェの製作中。
 西向きの工房は昼を過ぎると蒸し風呂のように暑くなるので、作業はもっぱら早朝から昼までと夕方以降になる。

 オブジェはとりあえず高さ90センチのものを3体つくった。この上に直径45センチの球体を乗せる予定。3体のオブジェには文字を刻むことにした。

 以前、といっても数年前だが、オブジェに文字を刻んだことがある。
 9体のオブジェに日本でもなじみ深い『般若心経』のサンスクリット文を刻んだ。

 今回は『ダンマパダ』から3詩句を選んで刻むことにした。
 『ダンマパダ』はインドの古語であるパーリ語で書かれた仏典。現存するもっとも古い経典の一つで、南アジアの国々で永く尊ばれ愛唱されてきた。中国や日本では『法句経』の名で知られる。

 『ダンマパダ』は短い詩句の集まりだけど423詩句もあるから全部を刻むことはできない。そこで人々にもっとも親しまれている183句と、184、185の3句を選び、パーリ文で刻むことにした。

 この3句は、岩波文庫の中村元訳『ブッダ真理のことば(ダンマパダ)・感興のことば(ウダーナヴァルガ)』では、つぎのように訳されている。

 「183.すべて悪しきことをなさず、善い(よい)ことを行ない、自己の心を浄めること、・・・これが諸の仏の教えである。」
 「184.忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は<道の人>ではない。」
 「185.罵らず、害わず、戒律に関しておのれを守り、食事に関して(適当な)量を知り、淋しところにひとり臥し、坐し、心に関することにつとめはげむ。・・・これがもろもろのブッダの教えである。」
 
 183句は、中国語訳の『法句経』を通じて日本でもよく知られている。
 「諸悪莫作(しょあくまくさ) 諸善奉行(しょぜんぶぎょう) 自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」
 「いっさいの悪いことは行わず、善いことを行い、自らのこころを浄める。これが仏の教えである。」

 たぶんこのことばには、2500年前のインドに実在し、人々からブッダと呼ばれ敬われた人の教えのエッセンスがある。80歳で亡くなるまでインド各地を歩いてまわり、法(さとりをとおして得た真理)を説きつづけたブッダの教えは本来分かりやすく、だれの胸にもひびくものだった。
 「いっさいの悪いことはやめて、善いことを行ない、自分の心を浄めなさい。(それがあなたの苦しみを取りのぞく唯一の方法なのです)」
 
 7月、猛暑で体調をくずした母が入院。下旬になって容態が急変し、数日後に他界した。
 晩年の母は老いていく自身のからだに不自由な思いをつのらせていた。離れて住む私がかいま見る限りでもいっぱいいっぱい。同居する家族に迷惑をかけまいと気力をふりしぼってからだを動かす姿はほんとうに大変そうで、それでも最後まで自分のことは自分でしようとしていた。

 母は日々の暮らしの中で自分にできる善いことを行ない、人生を終えたのだと思う。

 

季節外れの雪 2013.4.21 New!

   4月21日、雪が降り積もる

 アダモの歌じゃないけど(古い!)、雪が降る。
 4月下旬になったというのに、雪が降る。
 まるで3月と4月で季節が入れ替わったかのよう。

 今冬は師走の12月から寒い日が続いた。2月までの3か月間、正月の三が日と二月の数日をのぞいてずーっと寒かった。
 こんな冬は初めて。
 2月下旬には数年ぶりという大寒波が襲来。
 あー、さぶ。
 そう思っていたら、月が替わったとたんに暖かくなった。
 3月になったばかりなのにぽかぽかと暖かく4月の陽気。おかげで桜の開花が早まり、ところによっては梅の花と桜の花が同時に見られるお花見も。

 めでたいのか。狂っているのか。
 そして4月下旬の今朝の積雪。
 やっぱり何かがおかしい。

 そういえばこのごろ、「異常気象」という言葉をさっぱり耳にしなくなりました。
 異常に慣れてしまうと、異常もふつうになってしまう。恐ろしいことです。

 世の中、アベノミクスとやらで景気が上向いたと浮かれているけど(マスコミがあおっているだけかも)、生活実感としては円安で石油が上がり、ガソリンが上がり、食料品も値上がりして、苦しくなっています。
 このこと、ごまかされたくないですね。忘れたくないです。

 忘れたくないといえば、福島第一の原発事故、今も進行中です。4基の原子炉からは放射能が出つづけています。現状は、総力を挙げて、それをなんとか小さく抑え込んでいるだけのこと。昨日も今日も明日も、福島第一原子力発電所では重大な事故が発生し続けています。

 2年前のあの日、少しぐらい夜が暗くなってもいいから原発はやめようと思ったこと、忘れたくないですね。

 

 

「our planet 地球の記憶」 2013.4.6 New!

  

 4月1日で日本アンデパンダン展が終了しました。
 ご高覧ありがとうございました。

 当日は車で東京へ行き、六本木の国立新美術館から作品を搬出。
 このとき事務局で目録をもらい、あとで開いたら重大なミスを発見。

 出品作品「our planet 地球の記憶」のタイトルが「our planet 地球の記録」となっていました。
 会場で作品の前に貼ってあったタイトルも「地球の記録」。
 搬入と展示を自分でおこなっていたにもかかわらず、タイトルの誤植を見落としていました。
 
 主催者の日本美術会には昨日、メールで連絡。
 しかし、こんな見落とし、あるんですねえ。これではまったくのザル校(見落としの多い文字校正のこと)。作品の搬入と展示に気を取られて、タイトルに注意がいっていませんでした(これ、いいわけです)。

 「記憶」と「記録」では、意味が違ってきます。
 「地球の記憶」では記憶する主体は地球です。でも「地球の記録」となると、地球以外の誰か(ニンゲン)が地球を記録していることになる。地球は記憶する主体ではなく、記録される対象になってしまいます。

 ということで、遅ればせながら、アンデパンダン展の作品タイトルを、「our planet 地球の記憶」に訂正させていただきます。

 

日本アンデパンダン展のお知らせ 2013.3.5

    国立新美術館の搬入口

 3月20日から4月1日まで、国立新美術館で第66回日本アンデパンダン展が開催されます。
 テーマは「時代の表現 生きる証」。
 昨年に続いて2回目の出品になります。

 展示する作品のタイトルは「our planet 地球の記憶」。
 直径約40pのやきものを会場に8個並べる予定です。

 器などの陶芸作品ではなく、やきもののインスタレーションです。じつはこのあと、まだ2個つくらなくてはなりません。大物になるので搬入は大変そうですが、展示が楽しみです。
 みなさまのご来場をお待ちしています。

<第66回日本アンデパンダン展>
 会 期  3月20日(水)〜4月1日(月)  休刊日:3月26日(火)
 時 間  午前10時〜午後6時まで     金曜日:午後8時まで
 会 場  国立新美術館(東京・六本木) 1階展示室 
  ・初日は正午から、最終日は午後2時終了
  ・3月30日(土)のアートフォーラムUでは、話題のドキュメンタリー映画「放射能を浴びた『X年後』」が上映されます。
 

 

旧倉渕村の家  2012.10.23

 今回は、セルフビルドで家を建てるまで住んでいた旧倉渕村の家を紹介します。
 土地面積は106坪。平屋の家は建物面積20坪ですが約4畳のサンルームと約3畳のウッドデッキが付属します。
 ほかに敷地内に9畳のプレハブと倉庫があります。駐車場は車2台分の広さです。

  

 外から見るサンルーム(左)と室内(右)。ウッドデッキとサンルームが付属。

  

 8畳の居間(左)と、6畳の部屋からキッチンを見る(右)。

  

 南側から見た敷地全体のようす(左)と、家の前の風景(右)。

 この中古住宅を格安で購入していただける方をさがしています。
 詳細はメールでお問い合わせください(売買は不動産屋を通じて行います)。

 

 

越後妻有・大地の芸術祭「オーストラリア・ハウス」2012.8.22     

  

 19日と20日の二日間、新潟県の十日町で開催されている「越後妻有大地の芸術祭」に行ってきた。
 「大地の芸術祭」は3年に1回開催されるトリエンナーレ。
 「大地の芸術祭」で新潟を訪れるのは3回目。

 十日町市と津南町の里山全体が現代アートの展示場になっているので、作品鑑賞のために車で駆け巡る。
 今回の目玉の一つは、十日町の中心にある交流施設「キナーレ」にあるボルタンスキーの作品「No Man's Land」。広い中庭を古着が埋めつくし、高く積み上げられた古着を(総量9トン!)、ただひたすらクレーンがつかみあげ落とすという行為あるいは作業を繰り返す。
 即物的で不条理な光景は、シジフォスの神話、あるいは賽の河原の石積みか。一面に広がる古着は、(命の)不在と(命の)痕跡をあらわしているようだ。
 作品のスケールが大きい。会場にはクレーンの機械音のほか、ボルタンスキーの代名詞ともいえる心臓の鼓動が響き渡る。

 さて、二日間にわたっていくつもの会場を駆け巡り、たくさんの作品を見てきたけど、この「家づくり日誌」では、家づくりに関連する作品「オーストラリア・ハウス」を紹介。
 オーストラリア・ハウスは十日町市松之山地区の奥深いところにある。一帯は豪雪地帯。
 もとはこの地区にあった木造民家を改修して日豪交流の拠点としていたようだけど、3.11東日本大震災の翌日に起こった長野県北部地震(2011.3.12)で建物が倒壊し、建て直すことになった。

 「安くて、小さくて、頑丈」を条件に設計コンペが行われ、154点の応募から選ばれた新しいオーストラリア・ハウスが同地に建てられた(審査員は建築家の安藤忠雄氏ほか)。
 豪雪地帯の山の中の家ならではの設計上の工夫があちこちにある。

 まず目を引くのは三角形の造形。床が三角形の家で、屋根も三角形。
 でもこれが思いのほかまわりの景観と調和している。ひさしや軒を含めて出っぱっている部分がほとんどなく、道路に面している西側や入口のある南側には窓もあまりないので、全体がすっぽりと黒塗りの板壁に覆われていて落ち着いているからだ。造形的なデザインのわりには静かなたたずまいで、山の中にぽつんとあって違和感があまりない。
 このデザインは、建物の頑丈さと豪雪対策を兼ねているようだ。

 反対に建物の裏は巨大な移動掃き出し窓があり、窓を動かすと、3×6メートルくらいの巨大な開放空間が出現する。
 このコントラストが鮮やか。
 伝統的な日本家屋の縁側にいるような解放感がある。建物の内と外の仕切りがなくなるので、建物の中にいても外にいるような・・・。

 建築工法はツーバーフォーが基本のようだ。三角形の室内空間の一隅に大黒柱があったけど、構造強度以上にデザイン的なものという感じがした。
 だから家の中を一巡したとき、つい「これなら建てられそう」と思ってしまう。でも、この大胆なデザインは、プロのお墨付きがないと建築指導課の確認申請が通らないだろうなあ、とも。

 左側の写真がオーストラリア・ハウスの正面。入口は左手にあり、壁と一体化した扉になっている。
 右側の写真は1階の大半を占めるギャラリースペース。掃き出し窓を全開すると外とつながり、視覚的な広さが一気に増す。鏡を張った可動式の壁があり、外の景色が建物の中にも映る。
 コンペで選ばれた建築家(設計)は日本人ではないけど、自然を家の中に取り込もうとするのはとても日本的でよく考えられている。

 板で覆われた三角形の箱のようなコンパクトな家の中に、舞台を出現させる装置が隠されているわけだ。 

 それにしても・・・。
 「オーストラリア・ハウス」というアート作品を鑑賞に来たのに、いつの間にか、基礎の作りや、内装で使用している板や、建物の構造に目が走る。
 (建てるときは)鏡張りの大きな可動式の壁だけは業者に任せたほうがいいだろう。  巨大な掃き出し窓がスライドする開放空間は、梁に鉄骨を使わないとスパン強度が出ないな・・・など。

 写真にも写っている等間隔に並ぶ外柱は、造形のデザイン性と雪囲いの板を支える柱という実用性を兼ねているようだ。設計者の創意と工夫が伝わってくる。  

 セルフビルドでわが家を建てていたころの感覚がよみがえる。
 オーストラリア・ハウスをあとにするころには、すっかり設計士兼セルフビルダーの気分になっていた。

 

 

群馬芸術文化協会展のお知らせ 2012.4.17

   <群馬芸術文化協会展のDM>

 5月11日(金)から16日(水)まで、高崎シティギャラリーで第38回群馬芸術文化協会展が開催されます。
  昨年は秋でしたが、今年は春の開催。私は昨年に続いて2度目の参加になります。

 今回も、3.11以降に制作したオブジェを出品します。
 上のDMに作品の一部が載っています(中段左側の写真)。
 会場では、上のようなオブジェを4個並べて展示する予定です。

 ゴールデンウィーク明けの開催となります。
 遠出、行楽のあとは、高崎シティギャラリーへお出かけください。

<第38回群馬芸術文化協会展>
 会 期  5月11日(金)〜5月16日(水)  
      AM10:00〜PM6:00 (最終日はPM4:00まで) 
 場 所  高崎シティギャラリー 第一展示室、予備室  
      高崎市高松町35−1  Tel 027-328-5050

 

 

日本アンデパンダン展の終了 2012.4.3 New! 

    <国立新美術館内>

 第65回日本アンデパンダン展が終了しました。
 多くの方のご来場、ありがとうございました。

 最終日の昨日は午後2時まで。
 その後、搬出をするため、軽トラで上京。
 都内を走っていて気づいたのは、東京って、軽トラ、ほとんど走っていないですね。
 田舎では一家に一台という感じなのですが。
 軽トラで原宿から表参道を走るのは、なにかパフォーマンスでもしているような気分。

 午後1時に六本木の国立新美術館に入る。
 搬出は午後2時からだけど、後日行われる座談会に出席することになり、ほかの作品をもう一度よく見ておく必要があったため、1時間早く入館した。
 いくつかの作品をピックアップして、メモを取っていく。

 午後2時になり、作品の片付けをしていたら、先に案内を郵送した年配の方が見え、手土産をいただく。予期していなかったハプニングにびっくり。ありがとうございます。

 今回のアンデパンダン展では毎回、友人、知人と会っていた。
 会場が東京ということもあり、旧交を温めるのに一役買ってくれた。
 榛名の山から何度も東京へ出て行くのはちょっと大変だったけど、その甲斐はあったようだ。

 行きは高速に乗ったけど、帰りは下を走る。川越街道から国道254号線をひたすら。
 ところが群馬と埼玉の県境にかかる橋で大渋滞。原因は車3台の追突事故だった。

 帰宅は午後9時と遅くなってしまったけど、作品の搬出も無事終わり、肩の荷が降りてほっとする。

 

 

日本アンデパンダン展  2012.3.7

   東京・六本木の国立新美術館

 3月22日(木)から、東京六本木の国立新美術館で開催される「第65回日本アンデパンダン展」に、オブジェ作品『地球の記憶 1945-2011』(0.9×1.8m)を出品します。

 作品『地球の記憶 1945-2011』は、3.11以降、制作を開始したオブジェシリーズの一つ。  地球を模した球体(やきもの)を55個並べます。作品のいくつかには地域名と年月日が記載されています。

 アメリカ、ソ連(ロシア)、イギリス、フランス、中国、イスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮の核保有国が最初に核実験をおこなった日と原爆を投下した日、メルトダウン(炉心溶融)したスリーマイル島(アメリカ)、チェルノブイリ(ソ連)、フクシマ(日本)の各原発事故の発生日を記したものです。  
 1945年のアラモゴード(アメリカ)の核実験から、ニンゲンは放射能で地球をさんざん汚染してきました。
 原発事故、核実験、原爆投下の被害はニンゲンだけじゃない。地球上の生き物すべてが被害をこうむっています。
 そして地球も怒っています。

<第65回日本アンデパンダン展>  
・会場 国立新美術館/2階展示室   東京都港区六本木   
   最寄駅 千代田線乃木坂駅、日比谷線六本木駅、大江戸線六本木駅
・期間 3月22日(木)〜4月2日(月)  休館日/3月27日(火)
   午前10:00〜午後6:00  初日は正午から、金曜日は午後8時まで   
   最終日は午後2時終了、入場は30分前まで

 

 

薪割り・竹刈り・水簸(すいひ) 2011.12.13

   冬仕度は薪の備蓄から

 12月は冬支度のとき、何かと外作業がある。
 薪づくり、竹刈り、大豆の脱穀など、作業メニューはほぼ日替わり。

 薪づくりは、長さ1mほどの原木を30−40cmの長さにカットしてから薪をつくる。原木の細い部分はそのまま使うけど、太い幹の部分は斧で割って薪にする。
 新しい薪置き場は単管で作った。単管は木や竹と違って、外で雨ざらしになっても腐らないのがいい。
 とりあえず、半分ほどの原木を薪にした。これだけで、来春までの分がある。
 わが家の薪ストーブは2台。工房と居間。日中は作業をする工房で火を焚いて、夜は居間のストーブに火をつける。いずれもホームセンターの店頭で売っているシンプルな薪ストーブだけど、室内全体が暖まり、蓄熱してくれるので重宝している。
 それと、もう一つありがたいのは燃料代。私の労働報酬を考慮しなければ(いつものことだけど)、薪も木を切り倒してつくるので、限りなくゼロに近い。

 竹やぶの整理もこの時期の仕事。
 冬は下草が枯れ、木々の葉も落ちるので、竹やぶも入りやすくなる。わが家の竹やぶはずいぶん手入れしたけど、やっかいなのは敷地の外の広がる竹やぶ。外から竹が倒れてくるのだ。
 で、倒れてのしかかってくる竹を刈る。
 切り倒した竹は、外側の竹やぶに押し返す。倒れてくる竹はたいてい大きくて重いので、これがけっこう重労働。

 昨日は大豆の脱穀をした。脱穀したあとの豆がらや茎葉は、一つにまとめて焼却する。焼却した灰を、やきものの釉薬の原料として使うからだ。
 灰は、水を張った大バケツ(45リットル)に入れる。水面に浮かぶ燃えカスなどを取り除いたあと、灰水を柄杓ですくって、バケツの移し替えをする。底には砂が溜まるので、この砂を捨てる。
 移し替えた灰水は、放置しておくと、灰が沈んで澄んでくる。このうわ水には灰から出たアクが含まれている。うわ水を捨てて、新しい水を足してやり、また攪拌する。
 この作業を繰り返して、灰のアクを抜く。これが水簸(すいひ)と呼ばれる作業。
 昨日はバケツの移し替えと砂抜きまで。

 

 

「地球の記憶 1945-2011」2011.10.7

    地球は汚染されてきた

 群馬芸術文化協会展に出品した「地球の記憶 1945-2011」のこと。

 今回の作品は、地球を模した球のインスタレーション(オブジェの配置作品)。55個の球を畳1枚ほどの広さの台の上に並べています。
 55個の球のうち、22個はプレートに乗っています。各プレートにはそれぞれ年月日を含むキャプションが書いてあります。
 2011.3.11は福島第一原発事故、1986.4.26はチェルノブイリ原発事故、1979.3.28はスリーマイル島原発事故というぐあいに。

 今回の作品「地球の記憶」は、放射能がまき散らされるようになった1945年から2011年までの地球を現しています。  

 この作品ははじめ、上の3つの原発事故を表現するつもりでした。ところが私の住んでいる榛名山麓でも毎時0.2マイクロシーベルトの放射能に汚染されていることがわかり、放射能汚染について調べるうちにとてもやっかいなことがわかってきました。
 それは過去の原水爆実験による放射能汚染の深刻さ。

 今回の福島第一原発事故の放射能汚染は、総量で広島型原爆の20倍を超え、セシウムの量では100倍を超えるといわれています。
 ところがいっぽう、1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われ、そのエネルギーはTNT換算で530メガトン(大気圏内は440メガトン)にもなり、これは広島へ投下された原爆の3万5千発以上に相当するといわれます(「ウィキペディア」から)。

 こんなにも大量の放射能(放射性物質)が、すでに地球上にまき散らされていたんですね。汚染量は、福島第一やチェルノブイリの何倍になるのか、見当もつきません。

 放射能汚染について調べたことで、作品のテーマが、原発事故から地球の放射能汚染へと変わりました。タイトルも、「地球の記憶 1945−2011」に変更。

 1945年は、アメリカがアラモゴードではじめて原爆実験を行った年。このとき3個の原子爆弾がつくられました。1番目は7月のテストに使われ、2番目が広島、3番目が長崎に投下されました。
 作品のキャプションには、先の3つの原発事故のほか、原爆保有国の最初の核実験を行った日が記してあります。

 ニンゲンのまき散らした放射能で、地球がむせている。咳き込んでいる。地球も怒っている。
 そんなイメージが伝われば。
 ご笑覧ください。

<群馬芸術文化協会展>
 会期  10月7日(金)〜12日(水)
     午前10時〜午後6時(最終日は午後4時まで)
 会場  高崎シティギャラリー第一展示室、予備室
     高崎市高松町35−1 電話027−328−5050

 (「家づくり日誌」に同じ記事があります) 

 

 

関東の放射能汚染/群大の公開授業から 2011.07.26

  7月3日/@nnistarさん作成のドットマップ

 先週、群馬大学で福島原発事故の放射能汚染についての公開授業があったので参加してきた。
 担当したのは、火山学が専門の早川由起夫教授。

 早川さんが作成した東日本の放射能汚染地図は、週刊現代に取り上げられ、国会でも社民党の質問で使われたからご覧になった方も少なくないと思う。(注1)

 放射能汚染地図は、各地の測定値を元に等値線で描かれている。地図では、福島第一原発から200キロ以上離れた群馬県山間部でも0.25マイクロシーベルトを超える汚染が明示されている。新聞等に掲載されている各地の大気中の放射線量は、群馬県(前橋)は0.028(25日)だから、その数値と比べるとずいぶん高い値になる。
 で、より詳細なデータを知りたいと思って公開授業に参加した。

 結論を言えば、事前にインターネットで早川さんのブログにざっと目を通していたから、新たな発見はなかった。
 あえてとりあげると、2001年に三宅島が噴火した際の気象シミュレーションコンピュータSPEEDIのアニメーション画像。立体画像もあって、火山灰が日本列島の各地に到達するようすがリアルだった。
 福島原発事故では、政府・官僚は今もこれを隠している。最近、ニュースなどで使われるようになったSPEEDIのアニメーション画像は一部でしかない。

 公開授業に参加して、一つ残念に思ったのはデータの扱い方。
 地図は、インターネットで知り合った@nnistarさんのドットマップ(上の写真)をもとに等値線を引いて作成している。自身の観測データ(一次データ)ではない。基礎資料として@nnistarさんのドットマップを借用しているため、早川さんの地図からはドットマップの元になった数値の出所がわからない。ブログでは、@nnistarさんのブログにリンクを張り、@nnistarさんが添付している測定値データにアクセスできるようにはなっているけど。

 授業終了後、参加者が携帯していた線量計を見せてもらった。  

  3タイプの空間線量計

 公開授業の場所は、群馬大学の荒牧キャンパス(前橋)。教室(鉄筋コンクリートの建物の中)で計った値が0.05。新聞発表の0.028とはずいぶん違う。約2倍。
 ちなみに前橋にあるモニタリングポスト(計測地点)を調べてみると、地上から21.8mの高さにある(群馬県のHP)。汚染物質は一次的には地面にたまるから、地面から離れるほど、数値は低くなる。教室の中で計った0.05という数値も、群大敷地内の土の上で計れば、もっと高い数値になった可能性は高い。

 群馬県のモニタリングポストがある前橋でも、どこで計るか、どのような条件で計るかによって数値は大きく違ってくる。空間線量は、一般に地上から1mの高さで測ったデータが使われることが多い。1mはニンゲンの生活空間の平均値か。データは観測条件を同じにしないと比較ができない。

 モニタリングポストが21.8mの高さにある前橋のデータは、「値は参考まで。実際(地上1mの生活空間)はこれより高いですよ」と考えるべきなんだろう。(注2)  

 今回、公開授業に参加してわかったこと。
 各地の放射能汚染(空間線量)のデータが不足している。データの数が足りないし、公表データの中には、前橋のように観測条件が異なっていてほかと比較できないものもある。
 そういうデータが、新聞紙上で県を代表するデータとして扱われているのは問題だ。
 身のまわりの線量は、自分で計るしかないのかもしれない。(注3)

 緊急の課題は、空間線量の計測地点を増やすことと観測条件を明示してデータを公開すること。
 各市町村は学校のグラウンドなどで計測したデータをHPで公表しているが、まだ足りない。とくに山間部。早川さんも、地図の等値線を引くにあたって、データが不足していることを認めていた。

 群大、早川教授の放射能汚染地図。
 観測データが増えれば、地図が書き換えられることもありそうだ。    

 <注1> 早川さんが作成し公表している地図や資料は、つぎのブログにあります。放射能汚染地図(図「福島第一原発からもれた放射能の広がり」)などは、ブログを参照してください。  
 →「早川由起夫の火山ブログ」 http://kipuka.blog70.fc2.com/

 <注2> 神奈川県と横浜市のモニタリングポストの発表値が低いことについて、つぎのHPが検証しています。
 →「RadioisotopeWeb」の「5.MonitoringPost」    
http://sites.google.com/site/radioisotopeweb/radioactivitymeas/monitoringposts
 ホームページ名が英語になっていますが、日本語のHPです(英語を併記)。

 <注3> 公開授業では、現在計測されている空間線量の半減期について質問があり、早川教授の回答は3年でした。空間線量で計測されるのはセシウム134と137。半減期はそれぞれ異なるけど、今回の福島原発事故で放出されたセシウム134と137の比率を考慮すると、トータルで半減期は3年になるという説明でした。
 なお、ここでいう空間線量とは、空中を漂う放射性物質の量ではなく、すでに地表に付着した放射性物質が地表や地中から発する放射線の量(値)です。このため、同じ場所で放射線を計っても、地面に近い方が値が大きくなります。

 (「家づくり日誌」に同じ記事があります) 

 

 

空飛ぶ大窯 2011.07.02

    クレーンは重さ2.3トンの窯をかるがると吊る

 昨日、大窯の移設を行った。
 打ち合わせで決めた作業開始時間より1時間早く現場へ行って、バーナーの取り外しなどを行う。

 今回の窯移動は、地元のクレーン会社に手配。工場プラントなど重機の移設にも慣れているので、クレーンだけでなく、窯の運び出しと設置も依頼した。
 ただ、陶芸の窯を扱うのははじめて。で、取り扱い注意のバーナーは私がはずすことに。

 現場は、窯の搬出先である前の陶房と搬入先になる今の工房。
 今回、クレーンを2台手配した。
 搬出先では大型クレーンが必要だけど、搬入先まで大型クレーンが入っていけなかったためだ。
 で、搬出現場に大型クレーン、搬入現場に小型クレーンを手配。

 搬出先の陶房には、以前、4トンのユニックを使って窯を設置した。でもそのときの進入経路が使えなくなったため、今回は、15メートル離れた道路からクレーンで吊るして一気に運び出すことになった。
 窯と道路の間には、庭木、電線、小柱の電柱、2mの段差がある。
 障害がたくさんあるのでうまく搬出できるか少し心配だったけど、25トンの大型クレーンはお構いなしだった。

 アームを伸ばして窯の上にフックを下ろすと、自重2.3トンの窯を高々と吊りあげる。庭木も電線もひとっ飛びだ。あとは90度回転して、窯をゆっくりと運搬車の荷台に吊り下ろす。
 近所の人も外に出てきて、この「空飛ぶ大窯」ショーの成り行きに目を凝らす。

 さて、搬出現場から搬入現場に移動すると、すでに12トンの小型?クレーンが待機していた。
 ここは1mの段差がある。クレーンは運搬車の荷台から窯を吊り上げると、工房手前の所定の位置にぴたりと運び降ろす(上の写真)。
 あとは、4人の作業員が窯の足元に台車を設置して、ゆっくり工房の中に運び入れる。
 重機の運搬に慣れているだけあって、作業はスムーズだった。

 窯が入って、残るはバーナーと煙突の取り付け。この作業は私の担当。
 煙突は天井と屋根を破って取りつけなくてはいけないし、外の燃料タンクと窯のバーナーをつなぐホースも壁に穴をあけて通さなくてはいけない。バーナーの取り付けでは耐火フェルトの交換も必要だ。
 この機会に、耐火断熱レンガのひび割れも補修して、窯をオーバーホールしておきたい。

 ・・・とういことで、窯は移設したけど、火が入るのはもう少しあと。
 でも、とりあえず、無事、窯の設置が終わって一安心、です。

 (「家づくり日誌」に同じ記事があります) 

 

 

単管でつくる小屋  2011.6.8  New !

    麦の穂が開花した/6月3日

 昨日は所要で埼玉県南部へ出かけた。
 軽トラで往復してきたけど、車窓に広がる畑の風景にびっくり。埼玉では麦の収穫がはじまっていた。

 わが家の麦畑は、先日ようやく花が咲いたばかり(出穂)。
 上の写真がそのときのようす(6月3日の朝、撮影)。
 標高400メートルのわが家と関東平野の気温の違い、地温の違いを目の当たりにして帰ってきた。

 さて、6月第1週の週末DIYは窯小屋をつくった。
 この小屋は工房の中に置いていたテスト用の小窯を外に設置するためのもの。
 窯の雨よけだから、小屋というより、小屋掛けといったほうが正しいのかも。
 大きさは底面積で1.4×1.7メートル。高さは約2メートル。

 窯小屋だから構造はシンプル。
 扉なし。三方をトタンの壁で囲い、天井も波板トタンをかけるだけ。
 柱は単管を利用する。単管4本を地面に打ち込む。基礎はつくらないので、その分、単管は深くしっかりと地面に打ち込んでおく。  

 この単管に垂木(たるき)クランプを取りつけると、板を張ることができる。
 必要な場所に垂木クランプを取りつけ、必要な長さの板を張っていけば、小屋の骨組みができあがる。
 小屋の角では板と板を組む。天井は、単管の最上部にとりつけた垂木クランプに乗せる形で枠を取りつける。
 あとは板の上で留めながら、トタンを貼っていけばいい。

 今回は、単管もクランプも板も使い古しのものを再利用した。
 さすがに板は、割れている部分や腐っているところを切り落として使ったけど、金属の単管やクランプはそのまま使えるので便利。経年変化で単管がさびるのはおもに地中に埋まっている部分。でも肉が薄くなるほどではないから、その部分をまた地中に埋め込んでやればいい。

 小屋が完成すると、いよいよ窯の移動と設置。
 砂利の上を200キロを超える重さの窯を運搬するのは一苦労。
 また窯小屋内の地面を平らにしておかなくてはいけない。レンガを敷いてレベル(水平)を出す。その上に窯を乗せる。  

 この単管小屋の利点は、つくりが簡単なことのほかにもう一つある。
 それは耐火性に優れていること。
 万が一、窯が暴走して火を噴いたとしても、小屋自体に燃えるものがほとんどない。だから延焼を防いでくれる。

 (「家づくり日誌」に同じ記事があります)

 

 

Love Me Tender/なに言ってんだー   2011.4.11  New !

 東日本大地震発生から1か月がたちました。
 被災地の皆さんにはあらためてお見舞い申し上げます。
 福島原発事故発生から1か月がたちました。
 大地震、大津波は人間の力を超えた自然災害ですが、原発事故は違います。人災です。

 ここに故・忌野清志郎の歌「Love Me Tender/なに言ってんだー」の歌詞を掲げておきます。歌でも口ずさみながら、私たちもおかしいことはおかしいと声に出して言いましょう。自粛などしないで。

「Love Me Tender/なに言ってんだー」  
 オリジナル歌詞: E. Presley& V. Matson 替え歌詩: 忌野清志郎

 何言ってんだー、ふざけんじゃねー
 核などいらねー
 何言ってんだー、よせよ
 だませやしねぇ
 何言ってんだー、やめときな
 いくら理屈をこねても
 ほんの少し考えりゃ俺にもわかるさ

 放射能はいらねえ、牛乳を飲みてぇ
 何言ってんだー、税金(かね)かえせ
 目を覚ましな
 たくみな言葉で一般庶民を
 だまそうとしても
 ほんの少しバレてる、その黒い腹

 何やってんだー、偉そうに
 世界の真ん中で
 Oh my darling, I love you
 長生きしてえな
 Love me tender, love me true
 Never let me go
 Oh my darling, I love you
 だまされちゃいけねぇ

 何やってんだー、偉そうに
 世界の真ん中で
 Oh my darling, I love you
 長生きしてえな

 ジョン・レノンの「イマジン」やボブ・ディランの「風に吹かれて」、ピート・シーガーの「勝利をわれらに」、忌野清志郎の「サマータイム・ブルース」など You Tube の動画を集め紹介しているホームページがあります。関心のある方は下のタイトルをクリックしてください。
 →「プロテストソング・トピカルソングの傑作集」

 (「家づくり日誌」に同じ記事があります)

 

 

福島第一原発3号機はプルサーマルで危険!  2011.3.19  New !

 東北太平洋沖大地震の発生から1週間がたちました。
 マグニチュード9の巨大地震と巨大津波は多くの人命を奪い、未曽有の被害をもたらしています。
 そして今、福島第1原発が大事故を発生して大災害となりつつあります。
 私の住む群馬県でも毎日、計画停電が実施されています。
 今日(3月18日)は午後6時20分から3時間、停電しました(この記事は電気が復旧したあとに調べ書いたため、アップしたとき、日付が19日になってしまいました)。

 テレビは連日、福島第一原発の建屋爆発事故を大きく取り上げています。
 1号機から4号機まで建屋が破壊され、そのうち2号機は一部ですが、ほかの3機は爆発で建屋が吹っ飛んでしまいました。各原子炉の溶融、メルトダウンが危惧されています。
 ところがなぜか今、事故への対応が3号機の放水冷却最優先となってしまいました。

 原子炉の炉心溶融はどうなった?  もう注水して冷却しなくてもいいの?
 あれほど騒がれていた原子炉の炉心溶融。もう、だいじょうぶ?
 いいえ、そんなことはありません。そんな報道は一度もありません。
 ではなぜ、事故の対応が、報道が、とつぜん3号機の放水冷却一本になってしまったのでしょう。

 調べてみたら、わかりました。
 一時的に原子炉の冷却をあとまわしにしてでも、建屋の爆発した3号機を外側から懸命に放水冷却しなけらばならない理由が。

 テレビ等ですでに報道がはじまっているかもしれませんが、福島第一原発の3号機ではプルサーマルが行われていたのです。
 ウィキペディアによると、
 ・2010年9月18日 福島第1原発3号機のプルサーマル試験運転開始。  
 ・2010年10月26日 福島第1原発3号機のプルサーマル営業運転開始。
 ちなみに福島第一原発3号機の営業運転開始は1976年3月ですから、近年、プルサーマルが可能な原子炉に変更され、昨年から運転を開始していたことになります。

 プルサーマルとは、使用済み核燃料を再利用して行う原子力発電です。
 使用済み核燃料の再利用といえば実験炉のもんじゅが知られていますが、「もんじゅのような高速増殖炉では、高速中性子によってプルトニウムを核分裂させるが、プルサーマルでは、通常の軽水炉と同様に、熱中性子によってプルトニウムを核分裂させ」(「ウィキペディア」から)ます。

 3号機の建屋に使用済み核燃料プールが併設されていた理由はプルサーマルだったからです(その後、すべての建屋に使用済み核燃料プールのあることが判明)。
 プルサーマルで使う使用済み核燃料はMOX(モックス)燃料と呼ばれています。MOX燃料は「使用済燃料から、再処理によって分離されたプルトニウムをウランと混ぜて、ウラン・プルトニウム混合酸化物燃料(Mixed Oxide Fuel)に加工したも」(「原子力百科事典ATOMICA」から)です。

 MOX燃料は、通常の原子力発電のウラン燃料よりも、あつかいがむずかしく危険らしい。
 「MOX燃料は通常のウラン燃料と比べ、放射能、とくに中性子が著しく高く、ウラン燃料より危険度ははるかに高いといわれている。中性子は金属やコンクリートでも簡単に通り抜ける。」
 「地震発生で福島原発で事故が発生した先週11日付の米紙「ニューヨークタイムズ」は、懸念材料としていち早く「日本の原発の中にはMOX燃料を使用しているものがある。今回の原子炉がこのタイプであれば、放出する蒸気はより有害なものになる可能性がある」と指摘していたという」  (以上、JCAST「外国なぜ続々避難?福島3号機は猛毒プルサーマル」から)

 調べてわかったことをまとめておきます。
 1.福島第一原発の3号機は、半年前からプルサーマルとして稼働していた
 2.3号機の使用済み核燃料プールに貯蔵されていたのはMOX燃料である(注1.2)
 以上のことは、海外では報道されているようですが、日本国内ではほとんど報道されていません。事故発生後、意図的に隠しているとしか思えない。

 以下に、素人である私の推論を書いておきます(注にも目を通してください)。
 1.3号機の使用済み核燃料プールの水がなくなりMOX燃料が溶融した場合の危険性は、1号機から4号機の各原子炉の炉心溶融の危険性よりも大きい(注1.2)。
 2.あるいはMOX燃料の溶融のほうが原子炉の炉心溶融よりもはやく進む。
 3.だから今、原子炉の炉心冷却よりも3号機の使用済み核燃料の冷却を最優先にして、放水に全力を注いでいる。MOX燃料は、それほどあつかいがむずかしく危険だ。

 福島第一原発事故は、報道される以上に多くの危険性をかかえているようです。
 東京電力、政府、マスコミは、正確な情報を伝えるべきです。

 <追記1> 原子炉に密封されているウラン燃料と違ってMOX燃料は建屋の貯蔵プールに格納されているだけです。爆発で建屋の天井と壁が崩落した現在、プールの水位が下がるとMOX燃料が外気にさらされることになり、とても危険です(注1.2)。
 <追記2> プルサーマルとMOX燃料の危険性について、参考になると思われる情報(HP)を一つあげておきます。  
 概要:プルサーマルの危険性を警告する/講演会: エドウィン・S・ライマン博士 核管理研究所(NCI)科学部長  「核情報」http://kakujoho.net/
 <追記3> チェルノブイリを取材しているジャーナリストが、3月13日に福島第一原発のある福島県双葉町へ取材に入ったときのようすを次のHPで知ることができます。  
 【福島原発】放射能による内部被ばくへ警告?緊急現地報告  「OurPlanet-TV」http://www.ourplanet-tv.org/

 <注1/追記4> 3号機の使用済み核燃料プールにMOX燃料が貯蔵されていたのは、平成22年5月の東電の次の資料などから確認できます。
 「福島第一原子力発電所3号機の燃料プールに保管中のMOX燃料の健全性の確認結果について/東京電力」
 ただその後、3号機がプルサーマルとして稼働した時点で何本のMOX燃料が原子炉に入り、何本が使用済み核燃料プールに残っているのかは不明です。このため調べてわかったこと「2」を次のように改めました。「貯蔵されているのは→貯蔵されていたのは」
 <注2/追記5> 【パリ共同】環境保護団体グリーンピース・フランスは24日、フランスの核燃料工場で再処理されたプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を積んだ輸送船が、4月上旬にも日本に向けて出発すると発表した。/日本の電力各社は、アレバ社に原発のプルサーマル用にMOX燃料の加工を依頼しており、これまで4回フランスから日本へ海上輸送されている。福島第1原発で現在使われている燃料は、このうち1999年の1回目の輸送で運ばれたMOX燃料だという。

 (「家づくり日誌」に同じ記事があります)

 

 

初詣と元旦コンサート 11.01.09

    初詣の風景/少林山達磨寺

 今年の元旦は高崎の街に出かけるため、その前に初詣をすませておこうと、少林山達磨寺(略して少林寺)に寄った。
 少林寺は、高崎だるま発祥の地。七草大祭のだるま市で知られる。だから、少林寺がほんとうににぎわうのは1月6日から7日にかけて開催される夜通しのだるま市。でもだるま市当日は、交通渋滞とたいへんな人混みになる。で、少し早いけど、元旦に初詣して、昨年のだるまを返すことにした。
 少林寺は、高崎郊外の丘陵にある。足元を碓氷川が流れ、冬の晴れた日は眺めがいい。眼前の榛名山や赤城山をはじめ、遠く上越国境の山々まで見渡すことができる。

 さて、初詣をすませたら、高崎市内の群馬音楽センターに向かう。
 音楽センターは、戦後、市民の寄付などをもとに建設された高崎市のコンサートホール。この音楽センターと、戦後の市民オーケストラからはじまった群馬交響楽団(群響)は、高崎の文化のシンボルだ。
 この音楽センターで、毎年、元旦に、群響のクラシックコンサートが開かれている。今年で21回目。群馬に移り住んで丸8年になるけど、元旦コンサートに行くのははじめて。いや、それどころか、チケットを購入して、クラシックのコンサートに行くのも、たぶんはじめてだと思う。
 「行ってみよう」という気になったのは、家づくりなどが一段落して、正月が休めるようになったのと、チケット代が手頃だったこと(C席2000円)、ふとしたきっかけから昨年来、仕事の終わった夜に自宅でクラシック音楽を聴くようになったからだ。

 開演は午後1時半。今年の指揮者はベトナム国立交響楽団音楽監督の本名徹次さん。ヨハンシュトラウス2世作曲のポルカやワルツなど、ニューイヤーコンサートらしい曲目が並ぶ。
 開演前に会場はほぼ満席。クラシックコンサート初体験の私は、どんな人がどんな格好で来るのかに関心を抱いていた。会場は家族連れが多い。服装もふだんの外出着だ。私たちと同じでほっとする。
 この会場の雰囲気、「いいな」と思う。クラシックだって、もっとふつうに、気軽に、暮らしの中で楽しめばいい。

 音楽センターの元旦コンサート、曲目の演奏以外にももう一つ楽しみがある。それは、おみやげ。入場時に、クッキーや餅などの入った手提げ袋が渡される。地元企業の協賛品。ざっと見繕って500円くらいにはなるか。福袋か、お年玉をもらったような気分。正月らしくていい。つい、「来年もまた来よう」と思ってしまう。

 高崎元旦コンサートは、楽しくて、お得なニューイヤーコンサートだった。
 ちなみに、この群響の元旦コンサート。世界でいちばん早い時間に演奏されるニューイヤーコンサートらしい(大晦日から新年にかけて演奏される夜中のコンサートを除く)。調べてみたら、日本で元旦コンサートを行っているのは高崎の音楽センターと東京のサントリーホール。開演時間が高崎のほうが30分早い。

 コンサートの終わったあと、高崎駅へ友人のKさんを迎えに行く。
 音楽業界で仕事をするKさんは、私のクラシック鑑賞の先達(せんだつ)。昨年から、夜クラシック音楽を聴くようになったのも、Kさんのくれた一枚のCD、グレン・グールドのバッハ『ゴールドベルク変奏曲』がきっかけだった。

 夜は、榛名山麓のわが家で、呑み、食い、Kさん持参のCDをかけまくる。
 一軒家のわが家は隣と離れている。また二重窓とツーバイフォー工法の家は気密性が高いため、夜、家の中で大きな音を出しても外に漏れることはほとんどない。
 CDコンサートは夜が更けるまでつづいた。
 都会と違って、ボリュームを上げて音楽を楽しめるのは、山暮らしのいいところ。
 ずーっと以前は、徹夜で仕事することも多かったけど、今は朝が早いので、夜更かしすることはめったにない。
 音楽三昧となった今年の元旦は、まるで学生のころに戻ったような一日を過ごした。
 こういう正月も、いい、ですね。

 

 

 

『鳥の歌』 10.12.09

  カザルス『鳥の歌 ホワイトハウス・コンサート』

 毎月9日はハンストの日。丸一日、断食。口にするのは水か白湯だけ。
 これは、アメリカのイラク戦争と自衛隊の出兵に抗議してはじまった「ガンジーの会」のハンスト・イン呼びかけに賛同しておこなっているもの。
 初めて参加したのが2007年1月だから、今回で48回目になる。この間、セルフビルドで家を作り、工房も建てた。山暮らしは10年になる。

 「ガンジーの会」のハンスト呼びかけは、当初、自衛隊のイラクからの撤兵までを一つの目安としていた。自衛隊がイラクから戻ってきた時点で「ガンジーの会」有志による連日のリレーハンストは終了したけど、誰でも参加できる毎月9日の「ハンスト・イン」は、その後もつづいている。

 ハンストは楽じゃない。
 外作業、肉体労働をしている場合、一日の途中でエネルギーの切れるのを実感する。で、最近、ふと「やめようかな」と思うことがある。 「自衛隊もイラクから戻ったことだし・・・」
 でも、ここでハンストをやめたら、「戦争反対」の意志表示があやふやになってしまいそうだ。山で暮らす私にとって、ハンストは、まず自分自身に対する意志表示の場。ハンストをやめて、今、ハンスト以上に「戦争反対」の意志表示をできる場があるだろうか。後退はしたくない。
 朝鮮半島では、休戦ラインをはさんで緊張が高まっている。
 やっぱり、やめられない・・・。

 先日、家の裏で一羽の鳥が死んでいた。大きさは小鳩くらい、茶色の羽、ツグミか? 2年ほど前にも同じくらいの大きさの鳥アオゲラが死んでいたことがあった。原因は何なのだろう。

 レイチェル・カーソンの本『沈黙の春』は、農薬散布が土壌や虫たちを汚染し、汚染された虫を補食した鳥たちが死んで、春になっても鳥のさえずりの聞こえなくなった沈黙の森を描いている。
 今、榛名山麓で農薬の空中散布は行われていないけど、近くにゴルフ場が2つある。ゴルフ場では、芝生を維持するために大量の農薬が散布される。
 残念ながら、榛名山麓が『沈黙の春』と無縁の世界とは言い切れない。

 鳥の死骸を見つめていて、この鳥はどこから来たのだろうと思った。
 時節柄、昔の歌の一節が浮かぶ。
 「北の大地から 南の空へ 飛びゆく鳥よ 自由の使者よ」
 フォーククルセダーズの歌った『イムジン河』。
 この鳥は、北の国から飛来して、わが家上空で命を落としたのだろうか。北朝鮮、韓国、日本、中国、ロシア、アメリカ。
 鳥の世界に国境はない。

 今朝の気温は−2度。寒くなってきた。霜柱が立ち、バケツに氷が張った。
 午前中は、工房で壺とオブジェの削り・仕上げを行い、午後はハウスと畑で片づけをした。夕方、暗くなって、この原稿を書いている。図書館で借りてきたCD、パブロ・カザルス(チェロ)の『鳥の歌』(1961年演奏)を聴きながら。

 

 

川原で野焼きをする 10.10.20

   点火から3時間以上が経過

 10月16日、河川敷で行われた野焼きに参加した。
 主催したのは、ユーホール併設の子ども美術館。9月にユーホールで個展を開催した縁で、今回急遽、野焼きスタッフの一員として参加させてもらった。

 場所は高崎市と藤岡市の境を流れる鏑川河川敷。集合時間の午前9時に訪れると、川原にはすでにトタンが敷かれ、横には野焼きの燃料となる杉の背板やみみが積まれていた。杉材は、地元の製材所からいただいたもの。子ども美術館主催の野焼きパーティも今回で8回目。

 午前9時過ぎ、開会を告げる主催者の挨拶があり、それぞれが持ち寄った土器を取り出し(器よりも人形や面、恐竜が多かった)、トタンの端に置いていく。
 最初に火をおこすのはトタンのまん中。ここで30分くらい火を燃やし、火の外側に並ぶ土器を温めていく。

 まん中の火が燃えて、灰や熾き(おき)ができたら、その上に土器を並べる。背の高いものを中ほどに置いて、まわりに恐竜やお面を重ねていく。
 焼成温度は素焼きとあまり変わらないので、作品同士が接していても、焼成後に土がくっついてしまうということはない。だから、大胆に重ねていく。

 作品をまん中に積んだら、こんどはまわりで火を焚く。
「はじめチョロチョロ、なかパッパ」は、ご飯を炊くときも、やきものを焼くときも同じだ。ゆっくり時間をかけてあぶっていく。

 今回の野焼きでは、3時間を経過したあたりから火勢を強めていった。土器は炎を浴びるとすすけて黒くなる。煤(すす)で黒くなった土器が白くなるといよいよ佳境。窯場でいう「煤切れ(すすきれ)」の段階で、温度は600度以上に達している。
 窯焚きでも、昔はこの「煤切れ」が素焼きの一つの目安になっていた。

  温度がここまで上がってくると、それまで井桁状に積み上げ燃やしていた木材を作品の上に交差するように渡していく。まもなく作品全体が炎に包まれる。火勢を見ながら、残りの材をくべたら、あとは燃え尽きるのを待つ。やがて、熾きの間から、茶色っぽく焼けた作品が顔を出す。

 でもこれからが、子どもたちのもう一つのお楽しみ。
 熾きのなかに、アルミホイルで包んだサツマイモを投入。焼きいもタイムのはじまりだ。野焼きパーティー、子どもたちの一番の目当てはこの焼きいもタイムだったりして。

 午後2時半、焼きいもをほおばりながら作品を回収する。焼成中に割れたものもあったけど、ほとんどの作品が無事焼き上がった。私もテスト投入した茶碗を回収。今回使った土が火に強い土(急激な温度上昇に耐える土)であることを再確認する。
 会場の片づけを終えると午後3時。この日、子どもから大人まで数十人の老若男女が参加した野焼きパーティーも無事終了。ねぎらいの言葉を交わしながら三々五々、家路につく。

 この日は暑かった。砂利の川原に日陰なし。
 家に帰ると、日焼けと火焼けで、顔が真っ赤になっていた。


▼「子ども美術館」問い合わせ先(担当は加藤さん)
 →〒370-0829 高崎市高松3番地 NTT東日本群馬支店内
  Fax 027-326-7485
  e-mail koho@ml.gunma.east.ntt.co.jp

 

 

低火度釉のテスト 10.10.09

   2種類の透明釉をテスト/920度

 先日、新しい工房で低火度釉のテストを行った。
 低火度釉とは、一般の釉薬に比べて低い温度で溶ける釉薬のこと。

 釉薬は一般的に、1200度〜1300度の温度で溶けるように作られている。作られていると書くと他人事のようだ。私の場合、1200度〜1250度くらいの温度で溶けるように作ることが多い。1200度以上で溶ける釉薬を、低火度釉に対して高火度釉とも呼んでいる。

 今回テストした釉薬は、900度前後で溶ける低火度釉。
 この釉薬を、先の個展で展示した作品の表面に塗布して、草花の灰の定着をはかるのがねらい。焼成済みの作品の表面保護のために使用する釉薬だから、高火度である必要はない。作品の数はかなりある。大窯でも2回焚く。900度と1200度では300度しか違わないけど、燃料の消費量では倍以上の違いがある。
 今回のような場合、低火度釉で焼くほうが、燃料代の節約になる。

 釉薬は2種類の調合をテストした。
 主原料は、ガラスがもとになっているフリット。一つは、フリット約7割に長石とカオリンを加えて作った(1)。もう一つは、フリット約8割にカオリンとネズミ石灰を加えて作った(2)。

 結果は、写真の通り。
 右側が1の釉薬で、左側が2の釉薬。焼成温度は920度。灯油窯。
 1の釉薬は、成分が完全に溶けきっていないので、表面がマット状になっている。マットをめざすならこれもいいけど、全体に白っぽくなるのが難点。今回はつかえない。ただこの釉薬も、焼成温度を1000度以上に上げてやれば、白っぽさが消えて、透明になってくる。
 2の釉薬は、完全に溶けている。施釉はスプレーの薄掛けだったけど、表面にはガラス質の光沢があった。光沢の状態から判断すると、この釉薬は焼成温度をもう少し低くしてやってもいい。たぶん、900度でもだいじょうぶだと思う。

 今、工房の引っ越しをしている。前の家にあったものを、こちらの工房に運んでいる。あの狭いところに、よくこれだけものがあったと驚いている。土、釉薬原料、釉薬バケツ、テストピース、さまざまな小道具、大道具。
  掘ったあとビニール袋に入れて積んだままになっている土など、まだ運び切れていないものもある。

 引っ越し作業の合間に、作品に低火度釉を掛け、焼成しておかなくてはいけない。
 釉薬を掛けて焼くと、作品表面の微妙な質感は失われるけど、経年変化に耐えられるようにしておくためには必要な作業(と割り切ることにしている)。

 
    

 

個展「命のかたち『草花を焼く』」10.09.16

   ユリ、オオバコ、ツユクサ、タンポポ・・・

 ユーホールで開催していた個展(9.9〜9.14)も無事終了。9月とは思えない暑さの中、高崎近郊、県内のほか、東京、埼玉、茨城からも来場いただき、ありがとうございました。
 今回の個展は、「命のかたち『草花を焼く』」というメインタイトルのほかに、「もう一つのやきもの(another clay works)」というサブタイトルを加えました。
 粘土板の上に草花をおいて焼くというシンプルな手法の作品が、通常の「やきもの=陶芸」というイメージとずいぶん異なるものだったからです。

 個展会場のイメージは、「ギャラリー4」にあります。
 →ギャラリー4

 以下に、個展会場に掲げた挨拶文を載せておきます。


 3年ぶりのオブジェ展です。展示する作品は60点ほど。春から夏にかけて、家のまわりに咲く草花をやきものにしてみました。
 この間、新天地にセルフビルドで家を建て、工房をつくりました。秋から新しい場所で活動を再開します。これからもよろしくお願いします。

 作品は、朝摘んだ草花を窯に入れて、その日のうちに焼成しました。生きている姿形を残したかったからです。
 焼く前に一度押し花にすれば、輪郭はシャープに残ったかもしれません。でも、それは草花が生きていたときの本来の姿形ではありません。ニンゲンの都合でつくられた干からびた標本です。

 作品には、輪郭のぼやけている部分もあります。ぼやけたところ、シャープなところがあって、あらためて全体を眺めたとき、草花の生きていたときの姿形が浮かび上がってくれば、と思っています。

 作品には、写真と短い文章を添えました。文章には主観が入っています。鑑賞のじゃまになる場合は、作品だけを見て下さい。

 会場では、一部、小動物や昆虫の作品も展示しています。何を感じるかは人それぞれ。不快に思う人は素通りして下さい。

 最後に、大切なお願いを一つ。
 今回の作品は、焼成温度の関係で灰が土に焼結していません。このため、触ると指跡がつきます。作品に手を触れないようお願いします。 


 

 

 

蠅(ハエ)取り紙の夏 10.08.09

    

 今年もまた、新しい家で、この伝統的な生活用具の世話になっている。
 天井から吊す、蠅(ハエ)捕り紙。
 今使っているのは、カモ井の「リボン・ハイトリ」。英語でも、大きな文字で「FLY RIBBON」と書いてあるから、海外でも使われているかも知れない。

 ハエ捕り紙。リボン ・ハイトリ。
 昭和30年代は、都市部の住宅でも、このレトロな生活用具の世話になったはず。
 すっかり忘れていたけど、10年前、山暮らしをはじめたときから、蠅捕り紙とのつき合いが復活した。
 構造は至って簡単。べたーっとした粘着性のものが紙?に塗ってあるだけ。これを天井から吊して、ハエの捕まるのを待つ。この紙に触れたハエは、手足、羽がくっついてしまい、逃れられなくなる。

 知らない人は、「敏捷なハエが、吊しただけの紙に捕まるか」といぶかるかも知れないけど、これがけっこう活躍するのだ。1本のハエ捕り紙で、1日に10匹から20匹くらいのハエを捕獲する。 ニンゲンはこの間、いぶすための線香を焚いたり、殺虫剤という名の毒ガスを噴射したりする必要はない。吊したら、あとはほかっておけばいい。ハエが、進んでくっついてくれる。

 工房に、ハエ捕り紙を2本吊した。昨年まで住んでいたところは汲み取り式の便所だったので、便槽でハエが発生したけど、こんどの家は水洗トイレ。ハエはどうやら、近くの畑に積まれたたい肥から来るようだ。

 さて、今、個展の準備に取りかかっている。作品は、8割くらい揃ったか。あと1回、窯を焚けば、間に合いそうだ。
 場所は高崎のユーホール。会場は広くて明るいのがいい。このホールを、どのようにレイアウトするか。オブジェの展示は、空間のインスタレーション。
 空間配置の大枠は搬入日までに決まるけど、細部の模索は個展の始まる翌朝までつづく。
 じつは、この、作品の空間配置を考えている時間が一番楽しい。ほかにもやらなければならないことがいろいろあって忙しいけど、配置を考えている間はほか事を忘れる。
 いっぽう、搬入当日、会場で配置がなかなか決まらないときは、「楽しい」はずの時間が「苦しい」になる。

 でも、最後は「時間」が折り合いをつけてくれる。搬入日に、どんなにじたばたしたって、作品の展示は翌朝までに終えていなくてはならないのだから。

 

 

ルーシー・リーと燕子花(かきつばた) 10.05.25

    

 テスト用の小窯を焚いた翌22日、日帰りで東京へ行って来た。1年ぶりか。
 目当ては、国立新美術館の「ルーシー・リー展」と根津美術館で開催されている特別展「国宝燕子花図屏風/琳派コレクション」だ。

 東京までの足はいつものようにJR高崎線。今回は原宿下車だったので、行き帰りとも新宿直通で乗り換えに便利な湘南ライナーを利用した。

 国立新は、原宿でJRから地下鉄千代田線に乗り換え、乃木坂で降りると便利。専用のゲートが設けられているので、雨の日でも濡れずに入館することができる。

 さて「ルーシー・リー展」。
 ルーシー・リーは、20世紀初頭、ウィーンの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。工業美術学校で陶芸を学び、いくつかの賞も受賞した。1938年、戦火の迫る中、ロンドンに亡命。その後、1995年に93歳でこの世を去るまで、イギリスで活動をつづけた。
 日本では、ファッションデザイナーの三宅一生が、ルーシー・リーと交流のあったことで知られている。

 作品の紹介は、見てもらうのが一番。いや、見てもらうしかない。上の写真にもいくつか写っているけど、磁土をベースにした独特のフォルムと個性的な釉薬が特徴だ。

 会場は思ったよりも混んでいた。思ったよりも、というのは、海外の陶芸家の作品を見に来る人はそんなに多くないだろうと想像していたからだ。
 予想は裏切られた。
 会場は、思いのほか若い人が多かった。このあと訪れた根津美術館が中高年層に人気だったのとは対照的に。

 ルーシー・リーは、昨年、NHKの日曜美術館でも特集が組まれ紹介されている。ここ数年、本も何冊か出版されたようだ。それで、陶芸の枠を超えて美術に関心のある人に広く知られるようになり、若い人たちも「行ってみよう」となったのだろう。

 かくいう私も、ルーシー・リーの個展を見るのは初めて。
 素直な感想を言えば、鑑賞を終えてあらたな「驚きや発見」はなかった。
 展示されている作品のほとんどが、以前に本などで見たことのあるものだったからだ。ただ本だけではわからないものもある。たとえば大きさ。作品は、私が思っていたよりも、どれも小ぶりだった。
 ルーシー・リーは、 大きくて重量感のあるものよりも、薄く伸びやかなものを手の中でていねいに作ることのほうが好きだったようだ。

 ロンドンにわたったルーシー・リーは、陶芸家として10年間ほどを、バーナード・リーチのもとで過ごさなければならなかった。
  濱田庄司ら日本の陶芸作家(民芸)と親しく交流するバーナード・リーチは、当時、イギリス陶芸界の大御所だった 。 リーチのお墨付きがなければ、イギリスでは陶芸家としてやっていけない。薄いモダンな器を作っていたルーシーははじめリーチから酷評され、やがて意に反して、リーチ風(日本民芸風)の厚手の器を作ることになる。

 知人の間では、もしルーシーがリーチの妻になっていたら、といううわさ話も残っているくらいだから、リーチも内心ではルーシーのセンスと技量を認めていたのだろう。でもそれはリーチの受け入れるところではなかった。リーチに評価されるためには、ルーシーは日本風の厚手の器をつくらなければならなかった。
 この間、約10年。
 やがてルーシーはリーチのもとを離れ、磁土を使ったほんらいの薄い器づくりを再開する。

 ロンドンでの暮らしは、順風満帆ではなかった。ルーシーが、陶芸家として自分の作品づくりだけ生活できるようになったのは、65歳になってからといわれている。
 今日、私たちが目にするルーシー・リーの代表作は、いずれも60代、70代、80代になってつくられたもの。そのどれもが、端正なフォルムと個性的なマチエールの釉薬に彩られているから驚く。

 ルーシー・リー作品の魅力は、表面を覆う鮮やかで独創的な釉薬と慎ましやかで端正なフォルムにある。
 いずれも寡黙。饒舌ではない。
 作品には、陶芸の主流である「伝統」や「模倣」をよしとせず、「我が道」を行くことを決めた一人の女性の芯の強さが秘められている。

 ルーシー・リーを見たあとは、青山に向かって歩く。
 国立新隣の青山墓地を通りぬけて、しばらく行くと根津美術館前に出る。

 ここに行列ができていて、びっくり。
 特別展「国宝燕子花(かきつばた)図屏風/琳派コレクション一挙公開」の最終日が翌23日だったので、最後の駆け込みか。
 ルーシー・リー展をはるかにしのぐ人、人、人。館内も、併設されている広い庭園も、人で埋めつくされていた。

 展示されている作品はどれも素晴らしいけど、残念ながら人の肩ごし、行列の流れの中でしか見ることができなかった。一枚の絵を、距離をとって、ゆっくり鑑賞することは無理だった。
 館内では、年輩女性の和服姿を多く見かけた。琳派の展示とあって、お茶(茶道)や花(華道)関係の人たちが詰めかけたのだろう。

 庭園の中ほどにある池では、カキツバタの花がちょうど満開。館内の「燕子花図屏風」はよく見ることができなかったけど、水辺に咲く紫のカキツバタは、立ち止まってゆっくり鑑賞することができた・・・。

 根津美術館を見たあとは、進路を原宿に取り、表参道を往く。
 ここも人、また人。
 表参道は、21世紀東京のファッションストリート。風体・年齢・国籍もさまざまな老若男女が、ビルと街路樹の谷間を往来する。
 かつてあった同潤会のアパートは、ブティックの入る瀟洒なビルに建て替わっていた。お上りさんよろしく、鞄からデジカメを取り出し、ストリートの風景を写真に収める。

 人の蝟集する表参道でも、目を引くのは、最新のファッションに身を包み、群集の間を軽やかに闊歩していく若い娘たちだ。

 その後ろ姿を見ていて、ふと思う。
 彼女たちこそ花。今に咲き、今を漂う旬の花。

 さきほど見た尾形光琳の「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」。
 金屏風に描かれたカキツバタのリズミカルで斬新な構図は、初夏の江戸や京の町に繰り出した娘たちの軽やかな足取りを写していたのかも知れない。