<目次>

 トップ

 ・プロフィール

 ・やきもの作り

 ・ギャラリー

 ・からす窯通信

 過去の記事 

 ・お知らせ

 ・おまけ

 

からす窯通信2


<記事> 
新天地の暮らしと工房づくり今年の初詣は榛名神社大地の芸術祭<越後妻有トリエンナーレ>KJ先生お別れの会(川喜田二郎さん告別式)5月3日の意見広告から工房のリフォーム雨ニモマケズ雪のない正月冬じたくクリスチャン・ボルタンスキー講演会悉有仏性・悉有やきもの村の暮らし/不動様と十二様深夜の「ボブ・ディラン」路面凍結のスリップ事故家づくりがはじまって正月の当たりくじいやですえね、これって収穫のあと家の補修中之条ビエンナーレ個展「浅間を焼く」海の水はなぜしょっぱい?窯焚き・断食・窯焚き日本平和学会アート展示クリンソウ国立新美術館オブジェを作るハンガーストライキ初詣の風景白菜の豊作削らない器尖底器(せんていき)越後妻有(えちごつまり)大地の芸術祭さわらび陶芸教室志野茶碗「卯花墻(うのはながき)」を見る

 

新天地の暮らしと工房づくり 10.03.09

   雪の日の朝(2月)

 榛名山麓に引っ越しをした。
 セルフビルドで建てていた家は昨年暮れに完成したけど、工房はまだ。
 で、今、工房づくりに追われている。

 予定ではとっくに木工に取りかかっているはずだったけど、工事の進捗は遅れている。まだ基礎が完成していない。
 建築確認が出るまでに時間がかかったこと、天候不順で雪や雨がつづいていることなどが主な理由だ。
 基礎は布基礎の部分は完成したけど、土間に打つコンクリートがまだ。晴れれば、ミキサー車を手配して打つ予定。

 さて、工房づくりは遅れているけど、新天地での近所づきあいははじまっている。
 ここ、群馬の田舎で、一番大切な?(濃密な)つきあいは葬式。
 先日、さっそく葬式があった。
 隣保班(近所同士のまとまりを田舎ではそう呼んでいる)は、口見舞いにいき、通夜と葬儀の手伝いをしなくてはいけない。これが結構大変だ。
 通夜と葬式が週末とは限らないからだ。
 ところがこちらでは、隣保班の通夜と葬式は、休暇申請の理由として認められている。だから、休暇を取ってでも、通夜と葬儀の二日間、手伝いをしなくてはいけない。

 よそから来たものには、このつきあいが大変だ。
 高齢で亡くなる人は施設に入っている場合が多く、生前、面識のないケースがほとんど。手伝いをする隣保班は身内に準じる扱いだから、出棺にも立ち会う。
 「こんど亡くなったおばあさんは、こういう顔立ちの人だったのか」と、最後の別れで棺に花を添えるとき、思うことが少なくない。
 会場で遺影は見ているけど、たいていが小さく映っている昔の写真を大きく引き伸ばして飾っているので、写真を見ても、そこに映っている人が生きていたという実感がわかないのだ。
 でも、棺の中の遺体は違う。
 最後のお別れでは死出の化粧が施されていることもあるけど、生きた人が今ここに納まっているという存在感がある。
 この存在感は、老若男女、金持ちビンボーを問わず、誰にも平等だ。
 見送るものはただ、頭を垂れて合掌するのみ。

「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)」(般若波羅密多心経)
「往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 彼岸に全く往ける者よ さとりよ 幸いあれ」(般若波羅密多心経の原文(サンスクリット語)からの訳/中村元)

 さて、遅れている工房づくり。
 こちらに越してきて、陶芸教室の問い合わせもいただいているけど、 現状はそれどころじゃない。工房がまだ建っていない。完成まであと3カ月くらいはかかるだろう。

 今この原稿書いている間にも、外は雪がしんしんと降っている。すでに一面の雪野原だ。今週中に土間にコンクリートを打って、土台も組みあげたいのだけど。
 不安定な空模様がうらめしい。

 

 

今年の初詣は榛名神社 10.01.01New!

    

 新春元旦の初詣、これまでは旧碓井峠の熊野神社だったけど今年は榛名神社。
 昨年までは、家の前を流れる烏川源流のさらに奥にある熊野神社を参拝していたけど(近くにインドの詩人・タゴールの像があったのも初詣に選んだ理由の一つ)、榛名山麓に移った今年は、地元の榛名神社で初詣した。

 わが家(新しい榛名山麓の家)から榛名神社までは車で10分ほど。近い。
 ふだん、願掛けなどに縁のない私の初詣は、元旦の昼過ぎ。
 以前にも訪れたことのある榛名神社だけど、この日は山の中の渋滞にびっくり。駐車場に入れない車が道路を塞いで渋滞しているのだ。

 初詣の時間をずらすことにして、さきに榛名湖に上がって湖畔を散策。
 こう書くとかっこいいけど、湖畔は寒くて寒くて、今年はどうして元旦からこんなに寒いのだろう。連れていった犬たちを放してやっても、あまりうれしそうじゃない。
 新しい家のまわりには草地があり、かっこうのドッグランになっているので、犬たちも、以前ほど解き放されることに飢えていないようだ。
 人気もあまりない榛名湖畔はそうそうに退散。下って榛名神社に初詣する。

 榛名神社の主祭神は、火の神・火産霊神(ほむすびのかみ)と土の神・埴山毘賣神(はにやまひめのかみ)。(左の写真参照)
 祀っているのが火の神と土の神だなんて、これはもう、どろ屋・やきもん屋が柏手を打って頭を垂れる神さんそのものじゃないか。
 私の生まれ育った瀬戸(愛知県瀬戸市)は、火の町・土の町。子ども時分から聞いて育った瀬戸音頭には、次の一節がある。
 「ほんに 瀬戸瀬戸 よいところ 瀬戸は火の町 土の町〜」
 火の神さん、土の神さんを祀っている神社なら、これからも参拝しないわけにはいかない。

 ちなみに榛名神社のご神体は、本殿裏の岩山。今にも崩れ落ちそうな大きな岩が本殿にのしかかるようにそびえている(写真右)。
 この岩の威容を目の当たりにしたら、今この瞬間、無事生きていることがありがたく思えてくる? 次の刹那、大地震が発生して岩が崩れ落ちてこない限りの話だが。
 はじめこの岩が信仰の対象となり、やがて神社や寺院に発展していったと思われるのも、むべなるかな。

 榛名神社も、明治の国家神道・廃仏毀釈がはじまるまでは神仏習合の寺院だった。境内入り口には、仁王像のない仁王門が建っている。険しい山の中の寺院は、修験者にも人気だったらしい。

 余談になるけど、明治以降の神道は、それまでの豊かで多様だった人々の信仰のありようを、無理矢理一つの色に染めあげてしまったようだ。

 

 

大地の芸術祭<越後妻有トリエンナーレ> 09.09.04

 先月になるけど、「越後妻有トリエンナーレ・大地の芸術祭」に行って来た。
 3年に1回開催される野外芸術の催しで、今年で4回目。
 前回、新潟県の妻有(つまり)地域を訪れて、もう3年が過ぎるわけだ。→からす窯通信2越後妻有大地の芸術祭

 今回は、出かける前に、新潟在住の方から大地の芸術祭パスポートが送られてきた。ちょうど越後妻有のことが気になり始めていたときだったので、グッドタイミング。おかげで2日間、見てまわってくることができた。Sさん、ありがとう。

 午前9時過ぎに家を出て、昼前に十日町にある越後妻有交流センター「キナーレ」に着いた。
 ここでまず、地図とガイドブックを買う。大地の芸術祭の会場は広い。作品も各エリアに点在している。昼食をとりながら、ガイドブックを片手に、今回、見る候補作品をピックアップ。地図の上に丸印を付けていく。二日間(正味1日半)で見られる数は限られているので、エリアを絞り込んだけど、それでも広い。
 一日目は、十日町エリアだけを見てまわることにした。

     

 さっそく北部の顔入地区へ。
 陶芸作家の作品を展示する「うぶすなの家」を見る(写真右)。
 「うぶすなの家」は前回、大地の芸術祭に登場した。初参加の前回に比べると、出品作家、作品数とも減っていたのは残念。
 でも、人気は前回以上。すっかり定着したようで、中はとても混んでいた。ここはお茶や軽食などの接待があり、出品作家の器で飲食できるので、やきもの好きの観光客には人気のスポットになっている。駐車場には大型バスが停まっている。
 「胞衣・みしゃぐち」は「うぶすなの家」の奥にある(写真左)。
 この作品も前回初登場。大地を掘り抜いて作った土の空間だが、3年を経て、苔が生え、水の流れたあとが黒ずんだりして、風格が出てきた。年月の移り変わりを実感させるこの作品は、朽ちて大地に還るまで、このままここにあって欲しい。

 顔入地区のあとは、山の中にある小学校や分校などの廃校会場を3カ所見てまわった。
 すべてを書いているわけにもいかないので、一つだけ紹介すると、旧飛渡第二小学校体育館を利用して展示されている向井山朋子の作品「Wasted」は必見。個人的には、今回見た新しい作品の中ではイチバンのインパクト。
 これは私の癖なのだが、作品を見るとき解説書の類は手にしない。今回、訪問作品のセレクトで参考にしたガイドブックも、地図に場所を記したら用済みだ。車の後部座席に放ってある。
 だから、この作品会場を訪れたとき、それがどんな作品なのかほとんど頭になかった。
 会場の入り口、扉前に作者のコメントが貼ってあり、そこに女性の性について記してあるのを斜め読みしたとき、「(この作品は)ちょっと苦手かも知れないなあ」と思い、一瞬、足が止まった。でも、せっかくここまで来たのだからと、扉を開けて中に入ってみたら・・・。

 関心を持った人は、ぜひ一度、訪れてみてください。作品の中を一巡りすると、とても落ち着いた気分になります。
 ガイドブックに、作者は海外在住のピアニストと書いてあり、びっくり。
 この作品のスケール、象徴性は、他のアーティストのレベルを超えている。前回、越後妻有に登場したボルタンスキーの作品「最後の教室」に近い(と思う)。

 この日は、十日町の山の中の宿に泊まる。
 各地に散らばる作品が鑑賞できるのは午後5時半まで。残り1時間になると時計とにらめっこ。アクセルとふかして、山の中を駆け回る。
 宿の手前でアントニー・ゴームリーの作品と石塚沙矢香の作品を見た。ゴームリーの作品は廃屋の暗闇の中を人体が遊泳している。石塚の作品は、米・米・米とだけ書いておこう。

    

 二日目は、松代エリアを重点的に回る。
 はじめに訪れたのは、松代のもっとも北に位置する桐山地区。3つの作品を見てまわった。
 クロード・レヴェックの作品は期待していたけど、今一つ、作品会場の廃屋とマッチしてなかったか。過疎の村の風景に負けたか。いっそのこと、ゴームリーのように家の中を黒く塗って自分の世界を見せることに徹したほうがよかった(と思う)。
 大地の芸術祭は、世界有数の豪雪地帯である越後妻有の風土と作者の内面世界が響きあい、ときには火花を散らす格闘する場なのだ。

 つづいて、会沢地区にあるアンティエ・グメルスの「内なる旅」を見た。ここは少し山道を登らなくてはいけない。ちょうど取材があり、団体客も来たりで混んでいたけど、作者と会って話すことができた(写真左)。
 場所は山の稜線、森の中で、グメルスははじめてここを訪れたとき、聖なるものを強く感じたという。そのときの印象が作品となっている。
 ネパールでは、峠は神様の降りて来る場所といわれている。その話をすると、大きく頷いていた。作者は画家で、今、新潟県に住んでいる。

 蓬平地区の「生け花の家」を見る。前回、川西エリアで展開していた前衛的な生け花の作品を一カ所にまとめた感じ。
 生け花を習ったことはないけど、生け花ってインスタレーションなんだ、と気づかせてくれる。室内で前衛生け花を鑑賞したあと外に出ると、目には青空、白雲、緑満開の草木が飛び込んでくる。頭の上から蝉時雨が降り注ぐ。過ぎゆく夏の陽射しがまぶしい。

 松代エリアには、前回、場所が遠くてパスしたところがある。
 今回、そこ葱平地区の旧葱平小学校にある日比野克彦の「明後日新聞社文化事業部」を訪ねてみた。 作者はコマーシャル分野でも活躍する売れっ子アーティストの一人。
 だから、でもないけど「ま、たいしたことないだろう」とたかをくくって訪れてみたけど、二重の意味で意外だった。
 作品は、朝顔を育て種を全国に広げることと、地区新聞の発行。
 およそアートらしくない。この「らしくない」のが意外の1つ。
 もう1つは、2003年の第2回大地の芸術祭初参加から6年目の今年まで、ずーっと新聞を発行し続けていること。大地の芸術祭会期中以外もだ。
 最近は、新聞の発行は月刊になっているらしいけど、それでも雪深い冬も若者たちがこの地区を訪れ、この旧分校から新聞を発行しているという。
 驚いた。これはもう、アートというより村おこしの関わり方に近い。
 5代目編集長の若者と話す。
 私が過疎の村に住んでいることを告げると、編集長は、6年間新聞を発行しつづけてきても住民との間に距離のあることを口にする。私はそれを当然だと思う。
「もし、自分がここに住むとしたら、一番必要なもの、欠かせないものは何だろう。そこから考えてみると、ここで暮らす人々のことが少し見えてくるかも知れないよ」とアドバイスする。
 編集長は「今まで、そういう視点で考えてみたことがなかった」という。
 答えはなんでもあり。人、それぞれだ。
 ただ、自分に引き寄せて考えてみると、それまで見えなかったものが見えてくることがある。

 松代エリア以外にも、いくつか作品を見てまわった。その中から2つ紹介すると・・・。
 十日町の土市地区にあるジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラーの「ストーム・ルーム」は時間のない人にもお薦め。
 町中の元歯科医院の建物が作品の会場で、約10分間の体感劇場を楽しめる。終わりにクスッと笑える演出もあって、私はけっこう好きです。こういうの。

 もう1つは、前回も訪れた松之山エリアにあるクリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマンの「最後の教室」。作品は、廃校になった小学校をまるごと使っている。
 この作品は、常設展示になっていて、過去3年間でとても有名になった(らしい)。
 地元の人によると、冬でもこの作品を見るためだけに東京からやって来る人がいるとか。作品のある松之山は、雪深い新潟でも名うての豪雪地帯。
 ただ、高速を飛ばして見に来る人はここを見たら他にはどこも寄らず、さっさと東京へ帰ってしまうと、地元の人はこぼしていた。
 アート関係だろうか。コアなファンがいて、くり返し見に来るらしい。
 そういえばここだけは、校舎横の駐車場に黒塗りの高級車が何台も停まっていた。
 ボルタンスキーの「最後の教室」は、現代アートを代表する作品の一つとなり、雪深い越後の山奥で静かに息づいている。

 

 

KJ先生お別れの会(川喜田二郎さん告別式) 09.08.01

   

 先週の土曜日(7月25日)、東京へ行って来た。
 KJ法や学術調査、NGO活動などで知られるKJ先生こと川喜田二郎さんのお別れの会(告別式)があったからだ。場所は墨田区の西光寺。

 KJ先生との出会いは、1985年のネパール・カリガンダキプロジェクト。
 ネパール西部カリガンダキ川流域のシーカ谷一帯に簡易水道を設置し、薪運搬用のロープラインを複数架けようというもので、1970年代から活動を続けてきたKJ先生設立のNGO・ ATCHA(ヒマラヤ技術協力会)の活動の集大成だった。 
 このプロジェクトに参加して、85年から86年にかけて4カ月あまりネパールに滞在した。

 KJ先生にはその後、何度かお目にかかった。最後にお会いしたのは、ATCHAの取材で碑文谷のご自宅を訪問したとき。94年だったと思う。
 取材のあと、しばらくインドへ行く旨を告げると、KJ先生は元ネパール大使でインド日本情報文化センターの所長をしている方の名をあげ、訪ねてみるようにと紹介された。
 私は弟子でもないし、とくに親しくさせていただいていたわけでもないけど、このような場面では、先生はご自身のキーパーソンを惜しまず紹介された。KJ先生はそんなオープンな人柄の、そしてとくに若い人・後進にとても思いやりのある人だった。

 KJ先生といえば、KJ法の考案者として知られている(KJは川喜田二郎の頭文字に由来)。
 ラベルにアイデアを記して思考をまとめていくKJ法は、企業研修などでやった、あるいはやらされたという人も多いだろう。
 KJ法には、プラスの評価もあれば、マイナスの評価もある。
 KJ法にとって、それはKJ先生にとってでもあるのだが、残念なことは、社会でKJ法の使われる場面が、企業の研修やQC活動などに片寄っていることだ。
 一部で、鋭い批判がそこに向けられた(労働者を搾取するプログラムとしてのQC活動、そして労務管理の道具として使われるKJ法)。
 私も、その点に関しては批判に同意する。ただ、それはKJ法の運用方法(使い方)に対する批判だ。KJ法は本来、もっと豊かで柔軟性に富んだ思考法・発想法であるはず。
 KJ法への誤解の多くは、運用面に対する批判とKJ法という技術に対する評価が混同されたことから生まれているように思う( 断っておくけど、私はKJ法の専門家ではないし、KJ法のトレーニングを正式に受けたものでもない)。

 私がKJ先生に興味・関心、魅力を感じたのは、KJ法以前にある。
 1950年代から60年代にかけて、KJ先生はネパールで学術調査を3回おこなっている。そして、調査で世話になった村人たちに恩返しをしたいと思いたち、70年代に自腹で先のATCHA(ヒマラヤ技術協力会)を立ち上げたのだ。
 住民(村人)参画型のヒマラヤ技術協力会の活動は、後に数多く誕生するNGOの先駆けとなった。またヒマラヤ技術協力会がはじめた簡易水道の敷設は、その後、ユニセフのネパール援助プログラムに採り入れられたと聞く。
 こんな研究者はめったにいない・・・。

 1960年代後半、日本でもスチューデントパワー(学生運動)が盛んだったとき、KJ先生は東京工業大学の教員(文化人類学担当)だった。当時、過激な学生運動には批判的だったと聞くが、学生の主張に耳を傾けたKJ先生は大学のありようにも批判の目を向けるようになった。
 そこで、どうしたかというと、大学教育の現状は行き詰まっていると判断して東工大を辞職。自ら移動大学を標榜・設立して、テント一つで若者たちと全国各地をまわりはじめたのだ。
 こんな先生はめったにいない・・・。

 さて、話をKJ先生お別れの会に戻そう。
 会場で二人の友人に会った。
 85年のプロジェクトに参加したIさんとネパール・ポカラ在住のSさんだ。93年にネパールを再訪して以来だから16年ぶりの再会か。当時、独身だった二人も、今では中学生の子をもつ親。「変わったねえ。いや、でも変わらないねえ」と挨拶を交わす。
「変わったねえ。いや、でも変わらないねえ」を補足すると、「外観は変わったけど、久しぶりにあって言葉を交わせば懐かしさが蘇ってきて変わらないねえ」となる。

 Sさんとは以前、ネパールの地場産業としてやきもの(窯業)ができないかと話しあったことがある。彼がネパールへ戻ったあと資料を送ったけど、その後を知らない。
 で、どうなった、と聞くと、JICAの専門家が来てネパール・カトマンズ近郊の土を調べたらしいけど、やきものに適した土は見つからなかったとか。
 うーん。それだけ? それだど、ネパールのごく一部を調べただけということになる。まだ、諦めるわけにはいかない。
 またネパールを訪れる機会があれば、こんどは土探しもしてみようと思う。

 その日は、帰りに大宮でJRを途中下車。友人と会う。この友人との再会も30年ぶり。なにかタイムトリップしたような一日だった。

 ネパールの土のことを書いて、やきものとKJ先生で思い出したことがある。
 亡くなったKJ先生は、あの川喜田半泥子(はんでいし)のご子息だった。
 (半泥子は三重県の実業家で魯山人とならぶ著名な陶芸家。東の魯山人、西の半泥子と並び称せられた)

 <川喜田二郎さん略歴>
 1920年生まれ。三高・京都帝国大学卒、大興安嶺探検・マナスル登山隊科学班・西北ネパール学術探検隊などの学術調査や発想法であるKJ法の考案者として知られる。著作多数。東京工業大学・筑波大学・中部大学教授を歴任。東京工業大学名誉教授。マグサイサイ賞受賞。2009年7月8日死去。  

 

 

5月3日の意見広告から 09.05.09

  5月3日紙面/朝日新聞

 今日、9日はハンストの日。最近は、この日にからす窯通信を書いていることが多い。
 で、今日も、通信を書いている。
 ただ、原稿を書いている場所がいつもと違う。家づくり現場で書いている。

 午前中、電気の通電試験をした。といっても電力会社が行うものじゃない。
 臨時電灯から電線を一本引いているので、その線につなげてテストした。
 結果は、すべての照明が点灯して、すべてのコンセントが差し障りなく使えた。ただ、「すべての照明が点灯して」というのがミソで、点いたままの照明が1つあったので、これはあとで修理。配線手直し。

 自分で配線をしておきながらこう書くのもなんだけど、実はこの照明の配線に疑問があって、テストしたのだった。結果は疑問が正解? 
 では、こうすればいい、というもう一つの配線プランが頭にあるので、ここは後日あらためて配線し直す(家づくり日誌)。

 で、午前中に電気器具の全テストを終了して、午後、この原稿を書いている。
 上の写真は、5月3日の朝日新聞に載った意見広告(市民意見広告運動事務局)。
 テーマ・タイトルは「9条・25条の実現を」。
 サブタイトルは「戦争をとめよう!人間らしく生きたい」。
 写真でグレーに見える部分には、賛同者総数8395件のうち、匿名希望を除く7521件の名前が載っている。 私の名前がある。今回は特別に母の名前もある。
 市民意見広告運動事務局の意見広告には、これまで数回参加している。

 この意見広告運動を知ったのは、7年くらい前。自衛隊がイラクに派兵される前だった。
 当時、岩手県に住んでいた。環境権訴訟で知られる九州在住の作家、故松下竜一さん発行の『草の根通信』の読者で、『通信』に同封されてくる案内・チラシを通じて、この意見広告運動を知った。
 そのときの意見広告には、身辺多忙で参加できなかったけど、次の意見広告からほぼ年1回参加している(失念して、参加を忘れたときもあったけど)。

 意見広告の主張は一貫している(と思う)。
 戦争反対。そして、殺すな、だ。
 今年の意見広告は、憲法9条(戦争の放棄)と並んで25条(生存権)の実現を求めていて、主張は明解だ。

 戦争反対! ニンゲンがニンゲンらしくともに生きられる社会を!

 9条の戦争放棄と25条の生存権は、日本国憲法が世界と共有できる大切な条文だと思う。
 世界のあらゆる場所での戦争に反対し、世界のあらゆる人がニンゲンらしく生きられる社会を!

 日本でも、不況になってからワークシェアリングが唱えられるようになった。でも、残念ながら、報道などで知るその内実はお寒い限り。政府(中央)や行政(地方)がワークシェアリングを唱えるとき、そこには無責任さと胡散臭さが漂う。

 日本語に「わかちあう」ということばがある。
 わかちあうとは、今あるものを今あるなかで分け合うこと。

 世界には裕福な人と貧しい人がいる。あるいは、裕福な国と貧しい国。ともに分かち合うのなら、まず裕福な人のほうから自分の持てる分の中から分かち合おうとしなくてはいけない。
 この国の政府や行政は、貧しいものは貧しいものたちで分かち合いなさいと言っているように聞こえる。 自分たちの持てる分を分かち合おうとはしない。
 これは、わかちあいではない。生存権の保証には、社会全体としての分かち合いが欠かせない。

 ・・・と、ここまで書いてきて、松下さんで一つ思い出したことがある。
 以下は脱線。

 松下竜一さん発行の『草の根通信』。岩手にいたころ、おもに経済上の理由から、一度、通信の購読辞退を申し出たことがある。
 ほどなく、次号の通信が送られてきて、そこには「購読料のことは気にしないでください」という趣旨の添え書きが同封されていた。松下さん自筆の一文だった。

 その後も『草の根通信』は送られてきた。1年くらい経ったころだと思う。それまで松下さんの好意に甘えて購読料をただにしてもらっていたけど、群馬に移って暮らしも一息ついたところで、カンパという形で購読料相当額を払い込ませてもらった。
 翌年も遅れて払い込んだけど、それがカンパだったか、購読料だったか覚えていない。
 その後、松下さんは倒れ、一時、安静を取り戻したものの、帰らぬ人となってしまった。『草の根通信』も数号を経て、発行を終了した。

 生前の松下さんと面識はない。
 一度、九州の水俣を訪れたときに、帰りに大分にまわって『草の根通信』の人たちに会えないかと考えたことがあったけど、日程などの都合でできなかった。
 生前、松下さんに会うチャンスがあったとすればその1回だけ。その後、亡くなられてしまったので、会うに会えず、岩手のときに購読料をただにしてもらったお礼が言ってない。

 手元には『草の根通信』と松下さんの署名入り文庫本『明神の小さな海岸にて』がある。

 つぎに九州を訪れるときは、大分にも出向いて、松下さんの墓前であのときのお礼を言いたいと思っている。でも、いつになることか。先に水俣を訪ねてから6年が過ぎる。
 馬齢を重ねると、不義理ばかりが増えていくようだ。

 注:市民意見広告運動事務局への問い合わせは下記へ
   東京都渋谷区千駄ヶ谷4-29-12-305
   tel&fax 03-3423-0266, 03-3423-0185
   http://www.ikenkoukoku.jp/

 

 

工房のリフォーム 09.04.09

  板張りに替えた工房の床 

 工房をリフォームした。これまではコンクリートの床の上にロクロと椅子を置いて作業をしていたけど、床を板張りにして、そこに座ってロクロを挽けるようにした。

 ロクロまわりがあまりにも雑然としていたので、片づけて、こざっぱりしたくなったのだ。粉挽きの器を挽く前に・・・。

 いや、違う。ほんとうは別の理由からだ。

 先日、家づくり現場に陶芸家のIさんが訪ねてきた。会うのは半年ぶりくらいか。
 「もう、引っ越ししたかと思って」
 Iさんに言われて、頭をかく。

 たしかに、当初の予定では、昨年末までに引っ越しをして、今ごろは新たな工房もできているはずだった。
 ところが現実は・・・。
 家はいまだ完成せず。
 引っ越しの予定は、今年の1月に立てた目標のゴールデンウィークよりもあとにずれ込んで、たぶん6月になりそう。
 セルフビルドは居住が可能になった時点で引っ越しをする。だから、引っ越しをしてからも家づくりはつづく。

 現状は、日暮れてなお道遠し。
 工房づくりをはじめるのは、引っ越しをしてからになるから、新天地でロクロが回せるようになるのは夏以降のこと。この分でいくと、順調にいっても秋のお彼岸くらいか。

 そこで、思い切って工房のリフォームをした。
 今年度もここで仕事をするからだ。
 大工はいま、一番得意としている手仕事。

 風、薫る季節、またここでロクロを挽くのも悪くない。

 

 

雨ニモマケズ・・・ 09.02.09

   賢治の手帳

 今日は26回目のハンスト断食の日。国会中継を聞きながらこの原稿を書いている。

 先日、畑の土おこしをした。

 スコップを地面に突き立て、踏み込み、柄をてこのように使って土を返す。
 一連の動作をくり返して、畑の端のほうから土をおこしていく。1列おこすと汗をかく。上着を脱ぎ、最後は下着1枚になって土おこしをする。

 畑仕事はリズムだ。一定のリズムで、スコップを踏み込み、土を返すとき、からだの動きに合わせて歌が出てくる。ここでいう歌は、労働のリズムを刻むかけ声のようなもの。
 土おこしは午後に二日間おこなったのだが、 汗をかくころになると必ず口をついて出てくる歌(詩)があった。

 Strong in the rain... Strong in the wind...
(ストロング・イン・ザ・レイン、ストロング・イン・ザ・ウインド)

 スコップを地面に突き立て踏み込むときに Strong(ストロング)と発し、土を返すときに in the rain(イン・ザ・レイン)と続ける。
  Strong / in the rain Strong / in the wind 小さく声に出しながら畑の土をおこしていく。

 「Strong in the rain Strong in the wind」は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の英訳冒頭の一節。昨年、新しい訳としてジャパンタイムズ紙に掲載され評判になったもの。Roger Pulvers さんという人の訳らしい。私はほかの新聞の紹介記事でこの一節を知った。

 Strong / in the rain(ストロング/イン・ザ・レイン)
 Strong / in the wind(ストロング/イン・ザ・ウインド)
 は、土おこしのリズムにぴったりだ。
 でも、何列かの土をおこし、手を休めて息を整えるとき、「ちょっと違うかな」という思いがわいてくる。

 Strong /in the rain(ストロング/イン・ザ・レイン)
 Strong/in the wind(ストロング/イン・ザ・ウインド)
 は、畑の仕事歌としてはいい。
 でも、賢治の詩とはちょっと違うと思う。

 この英訳が評判になったのは、「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の「マケズ」を「Strong」という力強い肯定的なことばに置き換えて訳したから。
 インターネットで「雨ニモマケズ」の英訳を調べてみると、たしかにこの人の訳は傑出している。英語が得意ではない私でも、ことばが洗練されていて、一つの作品として完成度の高いことがわかる。
 インターネットの検索でヒットするほかの訳とくらべてみると、その違いは明瞭だ。

 それでも、くり返しになるけど、やっぱり違うと思うのだ。
 Strong (ストロング)という力強いことばではじめるとき、この詩を書いたときの賢治のありようとは。
 手帳から発見された賢治の「雨ニモマケズ・・・」は、ただ今の決意や明日への希望をたくした歌ではなく、最後に「・・・サウイウモノニ ワタシハ ナリタイ」と書き付けているように、病床で「サウイウモノニ」なれなかった「ワタシ」を懺悔し、また「サウイウモノニ」なれなかった「ワタシ」を、諦観のなかで静かに受けいれていく歌なのだ(と思う)。

 賢治がこの詩を書きつづった手帳の隣のページには、信仰していた法華経の「南無妙法蓮華経」という法句が、余白を埋めつくすように書きつづられている。賢治の、仏にすがろうとする思いを見るようだ。

 上の写真は「雨ニモマケズ」をつづった賢治の手帳。
 手帳には「ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ」とあるけど、私たちが目にする「雨ニモマケズ」では「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」に変更されている。
 岩手県では、夏に三陸沿岸でたびたび冷害が発生するけど、干ばつ(日照り/ヒデリ)に見舞われることはほとんどない。また、岩手県では、農家などが日雇いにでて日銭を稼ぐことを日取り(ヒドリ)とも言ったらしい。

 注: 手帳のヒドリの項は、 「佐藤隆房著『宮沢賢治-素顔のわが友-』桜地人館」を参考にしました。

 

 「雨ニモマケズ」 宮沢賢治

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモ マケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ
 イツモシズカニワラッテヰ(い)ル

 一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ 野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ 入レズニ
 ヨクミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ

 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキノ 小屋ニヰ(い)テ

 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイイ
 北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイイ

 ヒドリノトキハ ナミダヲナガシ
 サムサノナツハ オロオロアルキ
 ミンナニ デクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ クニモサレズ

 サウイウモノニ
 ワタシハナリタイ

 

 

雪のない正月 09.01.03

   

 新年おめでとうございます
 本年もよろしくお願いします

 さて、今年も元旦は碓井峠の熊野神社に初詣。
 碓井峠には、神社のほか見晴らし台がある。見晴らし台にはインドの詩人タゴール(ノーベル賞受賞)の像がある。はじめにタゴール像に新年の挨拶をしてから、熊野神社へ。

 この時期はいつも雪に覆われている碓井峠だけど、今年は雪がない。雪がないと、2駆の車でも上がってこられる。だからか、峠は車で混雑していて、見晴らし台も熊野神社も例年に比べて人が多かった。

 初詣のあとは今年も、中軽井沢にあるトンボの湯に立ち寄った。念願の餅つきイベントに遭遇、3年目にしてようやくここで餅にありつくことができた。

 いつもは、このあと北軽井沢のくりの木プラザにある白銀亭というパン屋でパンを買い、元旦恒例のくじを引くところだけど、残念ながらくりの木プラザは昨年で閉鎖。本屋やスーパー、飲食店などが撤退したあとも営業を続けていた白銀亭も、プラザの閉鎖と共についに移転。
 今年はくじを引くどころか、パンを買うこともできなかった。タゴール像への挨拶からパン屋のくじ引きまでが、わが家で唯一、正月らしい恒例行事だったのだが。

 左の写真は、碓井峠の見晴らし台から妙義山方面を撮ったもの。雪がない。
 右の写真は、わが家の前に作られた道祖神(後日どんど焼きにするもの)。元旦、午前の新年会のあとに設営。やはり雪がない。

 今のところに移り住んで6年が過ぎるけど、こんなに雪のない正月ははじめて。でも、寒さ(気温)はいつもと変わらない。朝の気温は−4度前後だ。
 ただ、体感温度は、例年よりもずっと寒い。世の中が大不況に突入した昨年秋以降、私はくしゃみばかりしている。


 

冬じたく 08.12.09

   

 今日は12月9日。月1回の断食(ハンスト)の日。
 午前中は、家づくり現場へ行って作業をするつもりだったけど、今朝、予定を変更。家のまわりの片づけをすることにした。

 今年は、住んでいる家の手入れをほとんどしていない。新しい場所での家づくりにかまけて、さぼっていたのだ。庭は草が伸びたまま枯れた。裏の側溝には落ち葉がたまっている。
 やることはいっぱいある。とりあえず、側溝の清掃と落ち葉掃きをすることにした。

 側溝の落ち葉は、鍬(くわ)ですくう。1カ所に集めて積み、あとでたい肥に利用する。
 庭の枯れ草や落ち葉は、裏で燃やす。乾いた草葉は勢いよく燃えるが、濡れた落ち葉は火の勢いをそぐ。濡れ落ち葉の下に火は隠れ、白い煙ばかりが立ちこめる。

 草葉のほか、用済みの木材をいくつか燃やした。この木材も外で使っていたので湿っぽい。火の中にくべても、なかなか灰にはならず、炭化してくすぶっている。このままだと、すかすかの炭の状態で火が消えてしまうので、まんべんなく燃えるように、おきの上で木を転がす。火床のおきも、すかすかの炭がたまると燃焼が悪くなるので、よく燃えるようにかき回してやる。

 直径10センチくらいの湿った丸太を2本、燃やしていたときだ。
 丸太はおきの上で炭となって、くすぶりながら燃えている。
 ふと思い出す光景があった。
 インドにいたときのこと。
 私たちが2年間住んでいたバラナシ(ベナレス)は、ヒンドゥー教の聖地で、この地で臨終迎えれば天国に行けると言われていた。
 ガンジス河畔には、マニカルニカやハリスチャンドラといった遺体の焼却場があった。たしかハリスチャンドラには焼却炉も設置されていたと記憶しているが、ヒンドゥー教徒の多くは薪による火葬を望んでいた。河畔で、井桁に組んだ薪の上で遺体を火葬するのと、焼却炉で火葬するのとでは、厳粛さが違う。
 遺族は火葬の間、燃えていく遺体をじっと見守る。見つめる。凝視する。

 ニンゲンが燃えていく過程は、見守る人には厳粛であり、現象としては即物的である。
 火が燃えていくにつれ、積み上げた薪は崩れていき、その上にあった人の形も変わる。
 燃える薪の間から手足が出ていたりすると、隠坊(おんぼう)がやってきて薪のなかに押し戻す。よく燃えるように、だ。

 燃える丸太を見ていて、あのときの火葬場の光景を思い出したのだった。

 近親者の死に遭遇して、遺体が燃えて灰になるまでの過程を一部始終、目を凝らして見るのは、悪くない儀式だと思う。生者もまた、まぬがれることのできない死というものと、精一杯対峙している。
 焼却炉に入れて扉を閉めたら「はい、おしまい」。あとは骨と灰になるまで、別室で飲み喰いをするこの国の葬儀よりは、ずっといい。
 静かで厳かだ。

 

クリスチャン・ボルタンスキー講演会 08.10.21 New !

   

 先週の日曜日(10月19日)、東京六本木の国立新美術館へ行って来た。クリスチャン・ボルタンスキーの講演会があったからだ。

 ボルタンスキーは、私の好きな作家の一人(現代アート)。
 当日配布された資料から略歴を引用すると・・・
「1944年、フランス・パリに生まれる。死や記憶をテーマに、写真や映像、様々なオブジェを用いたインスタレーション作品を制作。ヴェニチア・ビエンナーレをはじめとする国際展への参加のほか、世界各地の主要美術館で個展が開かれるなど、フランスを代表する現代美術作家として国際的に活躍している。日本では1990−91年に水戸芸術館現代美術ギャラリーと名古屋のICAで初の個展が開かれたほか、2000年から始まった越後妻有アートトリエンナーレに参加。2006年には高松宮殿下記念世界文化賞(彫刻部門)を受賞した。」

 ボルタンスキーの作品は、これまでに数回見ているが、もっとも印象的だったのは、2006年越後妻有の『最後の教室』。廃校となった校舎をまるごと使って、一つの作品世界を作り上げている(この作品は今も見られるらしい)。→越後妻有(えちごつまり)大地の芸術祭

 講演のタイトルは「ボルタンスキー 人生と芸術を語る」。通訳を介して、午後2時から始まった講演は、質疑を含め2時間におよんだ。
 記憶を頼りに、印象的だった言葉を書き記しておくと・・・

・権力が歴史として残るのに対して、個人の生は容易に忘れ去られてしまう。消えてしまう。私のテーマは、一人一人の人間の生きた記憶を残すこと。

・権力に対して、生きた一人一人の記憶を残すという作業は、負ける戦いである。アーティストは、負け続けるものである。

・アーティストは必ず、トラウマを抱えている。たいていの場合、それは子どものころに形成されたものだ。アーティストは、自身のトラウマを見つめるなかから作品を生みだしていく。

・私のトラウマは、アウシュビッツ。ショア。父はユダヤ教徒で母はキリスト教徒だった。パリが解放されるまで、父は2年間、台所の床下に隠れ続け、生き延びた。私はその間に生まれている。

・でもダイレクトにショアをテーマにした作品は作らない。私にとって、生々し過ぎるのだ。私は、自分の作品には、ユーモアやあたたかみが少しあって欲しいと願っている。

・一人一人の人間には必ず名前がある。名前を記録することは、ほかの誰でもないその人が生きたことを記録すること。以前、世界中の人の名前を読み上げる作品を作ろうと考えた。集めた資料をもとに読み上げる時間を計算したら、○○年かかることがわかった。その間にも、人は次々と生まれ、次々と死んでいく。これは、とうていできない作品だと了解した。

・世界中の人の名前を読み上げることはできなかったけど、名前を集めることはできる。パリに、世界中の電話帳を集め、世界中の人々の名前を保存している。

・今、瀬戸内海の直島(なおしま)で作品を作っている。人の心臓の鼓動を集める作品。鼓動は一人一人違っている。心臓の鼓動は個性であり、その人の生の証だ。将来は、直島で、心臓の鼓動を保存した人が自分の鼓動をCDで持ち帰れるようになったらいいと思っている。

・今は個展をほとんどやらなくなった。(美術の)個展は、投機の対象だ。投機マネーはよくない。・・・そうはいっても大きな作品の製作には金がかかる。スポンサーが必要だ。でも、その資金は、(作品を売買する)投機マネーよりはいくらかましだと思っている。

・私の今の仕事は、作品を作るというより設計図を書くようなもの。設計図があれば、私が死んだあともプロジェクトは引き継がれていく。

 メモを取らなかったので、記憶だけを頼りにボルタンスキーの言葉を拾ってみた。とうぜん、正確性には欠ける。でも、このようなことを発言していた。
 今、日本のアーティストで、権力と個人の関係、美術作品とマネーの関係について、自分のことを棚に上げずに話すことのできる人が何人いるだろうか。

 これまで、ボルタンスキーの作品はいくつか見てきたけど、本人のものの見方・考え方にふれるのははじめて。
 講演会の内容は、予想以上にまじめで、真摯で、刺激的だった。

 クリスチャン・ボルタンスキーは、お・も・し・ろ・い。

 

悉有仏性(しつうぶっしょう)・悉有やきもの 08.07.25

   

 小窯でオブジェを焼いている。今月に入って2回目だ。

 今回のオブジェのテーマと重なることだが、最近つくづく思うのは、私たちは「やきもの」ではないかということ。

 仏教に「悉有仏性(しつうぶっしょう)」ということばがある。
 「すべてのもの、悉(ことごと)くに仏の本性が有(あ)る」という意味らしい。
 ここから「悉有仏性・悉有やきもの」という言葉を考えてみた。

 仏の本性があるように、すべてのものことごとくに、やきものとしての姿形がある。

 やきものは普通、焼いて窯から出したものをいう。
 では、何度で焼いたものをやきものと呼ぶのだろう。
 1200度? 1250度? 1300度?
 1000度以下はやきものじゃない?
 そんなことはない。昔の土器は1000度未満で焼成されている。

 じゃあ「焼く」って、いったい何なのだろう。 
 燃焼には酸素が必要だ。「焼く」っていうのは「酸化反応」(還元を含む)。
 私たち生き物は、息を吸って息を吐く。呼吸して、体内に酸素を取り入れている。
 これって、酸化反応じゃない?

 私たちは毎日、休むことなく呼吸して、体内で酸素を燃焼している。
 温度は100度でも、1000度でもないけど、私たちはずーっと、体内で酸素を燃焼しながら生きている。
 ゆっくり、ほんとうにゆっくりだけど、命を燃やしながら生きている。

 ものを焼くと、灰になる。ニンゲンも焼くと、灰になる。
 灰はやきものであって、やきものじゃない。焼け残ったもの。
 でも、これもやきものだ。生きている私たちも<燃焼中の>やきもの。

 そのように思いめぐらせ、世の中を眺めてみると、目の前に有るものすべてが「やきもの」だ。
 草花も、蝶も鳥も、魚も虫も犬猫も、もちろんニンゲンも、みーんな「やきもの」。

 宇宙は、ビッグバンの誕生以来、ずーっと燃焼し続けている。
 宇宙は、時空で形づくられた大きな入れもので、果てまで広がる一つの窯。
 宇宙が一つの窯なら、宇宙に有(あ)る私たちが、悉(ことごと)く「やきもの」だというのも、ずいぶん当たり前の話じゃないか。

 「悉有仏性・悉有やきもの」

 窯の前で、そんなことを考えていた。

  

 

「村の暮らし/不動様と十二様」08.07.10

 4月28日は、村の1班の不動様と十二様の祭りです。
 不動様は烏川を渡った対岸、十二様は県道沿いの森の中にあります。

 この日、祭りに集まったのは世話人3人と神主のあわせて4人。私以外の3人は70代、80代の年配者です。
 「子どものころはにぎやかで山車も出た」という不動様の祭りですが、今日、その面影はありません。
 不動様へ行くには、以前は烏川に架かる丸木橋を利用したそうです。ところが砂防ダムの工事で丸木橋が撤去され、道は寸断されてしまいました。
 その後、東電の送電線工事のときに橋を架けてもらったので、だれでもまた不動様へ行くことができるようになりました。でも、橋の位置がずいぶん上流に移ってしまったため、不動様への道は遠くなり、不便になりました。

 不動様は河畔から200メートルほど登ったところにあります。かつては修験者が小屋掛けして行に励んだこともあるという不動様ですが、今は訪れる人もまれで、森の中の道は荒廃しています。このため、祭り前日には、班の人が出て道の整備と草刈りをおこないます。

 祭りでは、神主がお祓いをし、世話人がしめ縄と紙垂を新しいものに取り替えます。残念ながら、私たち世話人以外に参拝する人はいません。

 十二様は、山での安全を守ってくれる神様です。
 木を切り、炭を焼いて暮らしてきた人々にとって、十二様は身近で大切な神様です。
 十二様の祭りも、今は世話人と神主以外に訪れる人のいない寂しいものとなりました。ここでも、祠の前でかんたんな神事がおこなわれるだけです。

 炭焼きなどが活況を呈していたのは数十年前の話。その後、人々の暮らしはずいぶん変わりました。植林などの営林事業も終わり、山仕事で生計を立てていた人たちは山を去っていきました。農業で生計を立てていた人は町へ働きに出るようになり、また村内で現金収入を得るために建設業の作業員になったりしました。

 不動様と十二様の神事が終わると、世話人はそれぞれの集落へ向かいます。こんどは集落にある神様を新しく飾るためです。

 集落に戻ると、年配者を訪ね、神様の場所を教えてもらいました。
 私の住む戸数9戸の集落は神様が6体。うち5体は現存していましたが、1体は不明。集落の神様は草むらの道祖神で、江戸時代から伝わるものです。
 「昔はあの沢筋あたりにあったんだけど・・・」
 不明の一体をもとめて、教えられた場所へ行くと、1本の木の下に昨年の飾りが残っていました。

 今年から、隣の集落の神様の飾りも担当することになりました。
 隣の集落は戸数2戸。ここには3体の神様があるはずなのですが、年輩の人に訊ねると、現存するのは1体だけで、あとの2体は、旧県道の改修工事と、ダム建設にともなう県道付け替え工事のときにそれぞれ移動を余儀なくされ、下の十二様に合祀されたという話でした。

 集落の神様に新しい飾りを立てて、この日の役が終わります。

 不動様や十二様は本来、明治になって急いで整備された「天皇主義の神道」とは別のものです。
 それは山の中で暮らしてきた人々の祈りの形、自然への畏敬の念を形に表したものです。だから時代が変わっても、不動様や十二様を祀る心情は、山で暮らす人々の間に受け継がれてきました。
 ただ、道路が整備され、生活様式が変わり、日々の暮らしにマイカー(自動車)が欠かせないものとなってくるにつれ、村でも、暮らしの利便性と引き替えに、自然への畏敬の念は薄れてきます。

 村の小さな祭りが衰退する一方で、マスコミでは、自然「保護」や環境「問題」が注目を集めています。
 自然「保護」や環境「問題」を論じるのはおおいにけっこう、大切なことです。
 ただその前に、私たちは、山や森、川などの自然・環境を前にして、手を合わせたこと(経験)があるでしょうか。
 ときとして私たちは、自然への畏敬の念を忘れて、机の上だけで熱心に自然「保護」や環境「問題」を論じてはいないでしょうか。

         <080605了、洞爺湖サミットの一ヶ月前 080808一部修正>

 注:『ガンジー村通信』vol.318-1 終戦記念日特集号(08.08.15)に掲載

 

 

深夜の「ボブ・ディラン」/08.05.27 New!

   番組から

 先日、夜の9時頃から窯を焚き始めた。
 この時間にスタートすると、朝までは比較的のんびり窯を焚くことができる。
 窯焚きは、窯の温度が900度を超えるあたりから忙しくなるけど、900度までは、ただゆっくりと窯の温度を上げていけばいいからだ。

 この時間帯、いつもなら窯焚きの合間に本を読むことが多い。
 でも、家づくりの本や設計図面と毎日のようににらめっこしているので、本を手に取る気にはなれなかった。それに深夜2時を過ぎていた。

 こたつに戻って、録画しておいたBS番組「ボブ・ディラン:ノー・ディレクション・ホーム」を再生した(NHK、BBCなどの共同製作、マーティン・スコセッシ監督)。

 ボブ・ディランの懐かしい曲を聴きながら、1−2時間、こたつでうたた寝をしようと思ったのだ。ところが番組がはじまると、眠い目をこすりながら一気に見てしまった(ディランの曲のいくつかは10代のころに刷り込まれている)。

 この番組、映画だと思ったら、ドキュメンタリーだった。
 ディランにインタビューする。当時の関係者にインタビューする。
 ディランが売れる前の高校生のころからの映像が流れる。
 当時のフォークシンガーが出てくる。オデッタ、ジョーン・バエズ、ピート・シーガー。ビリー・ホリデイが「奇妙な果実」を歌う場面もあった。(ちなみに「ボブ・ディラン」は本名ではない。親が付けた名前じゃない。あえていえば本人が自分に付けた名前)

 ニューヨークに出て、一躍注目されるようになったボブ・ディラン。公民権運動のさ中、プロテストソングの旗手ともてはやされたボブ・ディラン。コンサート会場でエレキギターをかき鳴らし、ファンから「商業主義!」の罵声を浴びせられたボブ・ディラン。そしてインタビューに答える今のボブ・ディランおやじ。どれもが「ボブ・ディラン」だった。

 ただ、番組前半で「ライク・ア・ローリングストン」を歌っているディランを見たときだけはがっかり。歌い方が舌ったらずで、甘ったるくて、白痴っぽいのだ。
 これがあの「ボブ・ディラン」?

 振り返ってみると、10代の私が知っていたボブ・ディランは、レコードジャケットの写真と、レコードやラジオから流れてくる歌くらい。
 ディランはいつまでも私の中で「風に吹かれて」いたわけだ。

 「ライク・ア・ローリングストン」を歌うボブ・ディラン。
 好意的に解釈すれば、「朝日のあたる家」の売春婦になったつもりで、社会におさまっている人間たちの偽善的な一面に、唾を吐いていたのかもしれない(買いかぶりすぎだとは思うけど)。

 うたた寝をするつもりで、この番組を見てしまったため、翌日は眠い一日になった。

   

 

凍結路面のスリップ事故/08.03.31

   

 1カ月前の2月27日、凍結した路面でスリップ事故を起こしてしまった。
 上の写真がそのときのようす。左は自損事故した軽トラを翌日撮ったもの(レッカー車で移動している)。右は事故現場の凍結路面。 
 写真ではわかりづらいが、道は急坂で全面凍結していた。

 原因は、ブログ「家づくり日誌」にも書いたが、建築現場へ急いでいたこと。スピードを落とさないまま、この急な下り坂に入ってしまった。

 スリップしたとき、ブレーキを踏まず、ハンドルもまっすぐに保ったまま、タイヤがもう一度路面をしっかりと捕える瞬間を待ったが、軽トラはスリップしたまま氷の坂道を滑り落ちていった。

 軽トラは運転席側がつぶれたが、幸い、たいした怪我もなかった。レッカー車を手配して軽トラの移動を頼んだあと、別の車で建築現場に向かった。基礎工事の作業員に指示をしなくてはならなかったからだ。 

 ところが2、3日後にからだの内側から痛みが出てきた。腕、肩、首が痛い。指先がしびれる。夜、寝返りが打てない。それでも現場に通って作業をしなければならなかったので、薬局で買い求めた湿布薬とサポーターで急場をしのいでいた。

 基礎業者の工事が終了した26日から、私の作業も休むことにした。整形外科を受診。今は毎日、近くの温泉に行って、湯舟の中で首、肩、腕の関節を動かしリハビリに努めている。

 車を運転するようになってずいぶん経つが、事故ははじめて。
 乗っていた軽トラは中古車で、3年前に車検2年込み20万円で買ったもの。だから元は取っていると思うけど、ここで軽トラがなくなるのは痛い。
 で、半年ほど留守にするという人から軽トラを借りて急場をしのぐことにした。

 それにしても・・・。
 腕、肩、首のしびれ、痛みはしかたないとして、自損事故でほんとによかった。もし、他者を巻き込んでいたら、いまごろ、家づくりどころではなかったはず。

 事故が自損にとどまったのは、不幸中の幸いでした。

 

 

家づくりがはじまって/08.03.06

  1月3日 整地が終わって

 家づくりがはじまった。
 場所は今住んでいるところから15キロほど離れている。
 榛名山麓の標高400メートル。今住んでいるところが700メートルなので、現場に行くと暖かく感じる。

 1月は建築確認申請の書類作成に追われた。建築指導課に書類を提出したのが1月30日。確認が出たのが2月7日。
 建築確認申請はふつう建築士が行う。一般人(素人)が確認申請をすることはあまりないので、建築指導課では何度も「ほんとに自分で作るんですか」と念を押され、「大変ですねえ」と言われた。

 基礎業者を選定し着工したのが2月26日。
 根刈りをして鉄筋を組み、基礎ベース部分にコンクリートを打設したのが3月5日。来週、立ち上がり部分を作って、基礎が完成する。

 大工がはじまるのは、コンクリの乾く再来週から。予定より1週間延びてしまったが、いよいよセルフビルドの日々がはじまる・・・。

 家づくりのようすは、下記のブログをご笑覧ください。

 →ブログ「家づくり日誌」

 

 

正月の当たりくじ/08.01.31

  タゴール像の前で記念撮影

 今年の元旦も旧碓井峠にある熊野神社に初詣した。昨年も書いたが(→初詣の風景)、わが家の1年は旧碓井峠の見晴らし台にあるタゴール像への挨拶から始まる。
 インドの詩人タゴールに年始の挨拶をしたあと、熊野神社で初詣。今年も元旦参拝の大吉札をもらってきた。

 初詣のあと、中軽井沢にある日帰り温泉のトンボの湯に立ち寄った。
 実は昨年も立ち寄っている。元旦の餅つきイベントがあって、餅をもらうために列に並んだのだった。ところが昨年は私の前に並んだ人までで餅が無くなってしまった。
 その悔しさをひきずっての再訪問。昨年と同じ時間帯に顔を出すが、なぜか餅つきは行われていなかった。HPでも確認して出かけたのだが。現場にその気配はまるでなし。HPに餅つきイベント開催の時間までは書いてなかった。あるいは午前だけで終わりにしたのかもしれない。

 帰路、北軽井沢にあるパン屋「白銀亭」に寄ってパンを買う。元旦恒例のくじを引く。一昨年、昨年と2年続けてくじをはずしている。今年こそはと意気込む。

 私の前にくじを引く人がいた。当たりだった。店内が賑やかになる。くじは竹の箸。10本ほどが箸立てに入っている。その中から1本を引く。くじ引きの前には、店の人が箸立の中の箸をかき回すのだが、私は前の人が引いた「当たり」箸の特徴をしっかりと記憶しておいた。
 今年くじを引くのはパートナー。
「どれにしよう」というので、横から私が「その」箸を差し示す。
 見事、当たり。
 でもさきほどに比べて、店内の熱気は冷めている。
 これはカンニングだろうか。いや、巡ってきたチャンスをものにする小さな努力の成果だったと思いたい。

 

 

いやですねえ、これって/07.12.09

  空港の一こま

 毎月9日はハンストの日。「ガンジーの会」の呼びかけに賛同しておこなっているもので、今回で12回目。今日のハンスト終了までまだ時間があるので確定的なことはいえないが、今日が無事終われば、とりあえず1年間、続いたことになる(→ハンガーストライキ)。

 陸上自衛隊はイラクから撤退し、インド洋でアフガニスタン戦争の給油活動に従事していた海上自衛隊も日本に戻ってきた。でも航空自衛隊はイラク戦争に参加したままだ。

 先月、いやーな記事が新聞に載っていた。
 11月20日から、日本に入国する外国人の指紋採取と顔写真撮影が行われるようになったとか。入国審査で指紋の採取と顔写真撮影を行うのは、アメリカ以外の国では日本だけ。アメリカは2001年の9.11以降、戦争当事国を自称しているので、緊急避難的にそのような対応をとることは理屈の上では一応考えられるけど、日本はどうして?
 今の日本に、アメリカ以外の国で世界に先駆けてそのような排他的な措置をとらなければならない差し迫った理由があるんだろうか。そこのところが理解できない。腑に落ちない。

 海外へ行ったことのある人は想像してみよう。
 楽しみの海外旅行、その始まりの入国審査で、指紋を採取され顔写真を撮られる。犯罪者扱いを受けているようだ。これではせっかくの旅の華やいだ気分もしぼんでしまう。
 私はそういう国に行きたいとはあまり思わない。

 このニュースでもっと不可解だったのは、このような重大なことがらが、マスコミでもあまり報道されることなく、いつの間にかすんなりと決められていたことだ。
 指紋の採取と顔写真撮影。今はとりあえず外国人(外国籍の市民)だけだけど、いつか私たち(日本国籍の市民)にも適用されるかもしれない。

 いやですねえ、これって。

 

 

収穫のあと/07.11.30

  わが物顔で歩くサルたち

 今年白菜を収穫したのは11月19日。昨年より1週間遅い。
 昨年は秋が温暖だったので、10月に入って白菜の生長が進んだ。今年は夏が暑かったので、今年も昨年並の大きな白菜が収穫できるかと楽しみにしていたら、それほどでもなかった。秋になって冷え込んだからか。畑の中で植えつけ場所を変えたからかもしれない。
 今年の白菜はやや小ぶりだが、よく結球していて実が締まっているのでおいしい(と思う)。ちなみに白菜は、収穫したあと切り口を天日干しすると保存期間が長くなる。わが家の場合は11月に収穫した白菜を翌年の3月まで食べることにしている。

 今年は畑の作付けを大幅に減らした。毎年イノシシにやられているからだ。まわりの畑でもあまり作らなくなったところが多い。「イノシシにくれてやるくらいなら」という積年の思いがつのっている。
 作付けが減ったからか、イノシシの出現回数は昨年に比べて減った。11月、畑に行くと、白菜畝の隣、何も植えていない畑の地面が掘り返されている。畑は無農薬なのでミミズがいる。イノシシは白菜や大根には目もくれず、ひたすらミミズを食べるために何度か畑に来て土を掘り返していった。

 イノシシは夜、畑にしか来ないが、日中、家のまわりに来て困るのがいる。サルだ。庭に柿の木があるので、その柿目当てに来る。サルはまだ柿の実が熟さない青いころから何度も来る。
 番犬ハナはサルが来ると吠えるが、クロのほうは黙っている。2匹の犬、ハナとクロは家の両側につながれていて、双方に柿ノ木がある。でもクロは、サルが目の前の柿ノ木に来ても吠えるどころか警戒する気配すら見せないでおとなしくしている。
 「おい、昔から犬と猿は犬猿の仲だろ!」
 そう言って犬としての自覚を促すのだが、クロはただしっぽを振るだけ。
 まるで「黒ラブのわたしは祖先が外国のため、日本の犬の習慣はよくわかりません」とでも言っているかのよう。
 ハナもクロも保健所から来た犬だ。

 サルの群は柿ノ木にたかったあと、田んぼに出て落ち穂拾いをする。
 ヨーロッパの画家ミレーの「落ち穂拾い」は、収穫後の畑で人が落ち穂を拾う姿を描いている。当時のヨーロッパ社会では、落ち穂拾いは、寡婦など社会的にハンディキャップのある人たちに限って認められていた権利だったらしい。
 ところが21世紀の日本の山村では、サルが山から下りてきて落ち穂拾いをする。
 サルに落ち穂拾いの権利を認めたわけじゃないのに、うまく追い返すことができず、腕をこまねいているのが残念!

 

 

家の補修/07.11.17

  ペンキを塗り、雨樋を取り替えた

 11月中旬、家の補修をおこなった。ちょうど2年半前、このホームページを立ち上げたころ、畳の部屋をフローリングに変えたことがある。それ以来のリフォーム。  

 今回は雨樋の取り替えをおこなった。雨樋は傷む。冬に雪が積もったりすると、雪が屋根から落ちるときに雨樋にかかるためどうしても傷んでしまう。ここ数年で傷み、たわみが目立ってきたため、思い切って取り替えることにした。幸い、好天に恵まれ作業ははかどった。

 作業手順は、1.古くなった雨樋を外す。2.破風板(雨樋の取り付けられている板)のペンキを塗り直す。ついでに軒天(ひさし部分)のペンキも塗り直す。3.新しい雨樋を取り付ける。・・・になる。

 初日の作業は、古くなった雨樋の取り外し。まずはしごを立てて登る。次に雨樋と支え金具を固定している針金を切る。雨樋を外す。そして雨樋を支えていた金具を取り外す。
 作業はこれだけだが、始めてみると思いのほか手間どった。家のまわりは土で柔らかい。特に冬場に凍結する北側の地面ははしごを立ててみるととても不安定だった。ひさしには電線があったり、風呂窯の煙突があったりする。
 はしごの上の作業は、わずか1メートル横に移るだけでも、一度はしごを下りてかけ直さなくてはならない。これが結構めんどうだった。また南側には、あとから増築された4畳のサンルームと3畳のウッドデッキがあった。その部分の天井はアクリルボードになっていて、軒下から張り出すかたちになっている。雨樋を外すためには、その上に乗らなければならない。 

 初日で一番緊張したのが、この張り出し部分に乗っておこなう作業だった。残念ながら私の体重は軽くない。「ボードが破れないように」と心の内で祈りながら、ボードとボードの取り付けられている枠の上に板を渡し、その上を腹ばいになって前進する。無事、作業を終えて下に降りてきたときには、冷や汗をたっぷりとかいていた。

 二日目は雨樋を取り付けていた破風板の古いペンキ落とし。金たわしでバリになっているペンキを磨き落としていく。これもはしごの移動が大変だった。 
 午後は買い物。高崎市街に出かけ、一番の大きなホームセンターでペンキや雨樋などの資材を買い揃えた。

 三日目はペンキ塗り。破風板の前に軒天から塗ることにした。下準備として軒天と壁の境をマスキングしなければならない。マスキングテープを使って壁側に古新聞を貼っていく。これがたっぷり半日かかる作業になってしまった。午後は、やきもので使用しているエアーコンプレッサーを使って軒天にペンキを吹き付けていく。
 ここで失敗。午後になって風が出てきた。作業中に突然、逆風に見舞われることがあった。軒天に吹き付けているはずの霧状ペンキが私の顔にかかってきたのだ。あーっと思うまもなく、メガネに霧状のペンキが付いてしまった。急いで洗ったのだが、よく見ると今も少し残っている。
 反省。ペンキの吹き付けでは、マスクとゴーグルが必携。

 四日目は、雨樋を取り付ける破風板のペンキ塗り。ひさしを一部補修してから破風板にペンキを塗る。その前に雨樋の金具を取り外したときの穴をパテで埋めておく。
 破風板のペンキ塗りは楽しい作業だ。目に見えてきれいになっていくので気持ちいい。ただ雨樋を取り付けない切り妻のひさし部分には手こずった。
 今回用意したはしごの高さは4メートル。切り妻のひさしはそれよりもずっと高い。屋根瓦に手をかけ、はしごの上に片足で立ち、ペンキを塗るために伸ばす腕とは逆方向に片方の足を伸ばしてバランスを取るという、アクロバットな危ない作業を要求された。もっと長いはしごがあれば、作業はふつうに行えたのだが。

 そして五日目。新しい雨樋を取り付ける日。ホームセンターでもらってきた雨樋補修の手引きには、樋の流れをよくするために1メートルで1センチくらいの勾配をつけたほうがいいと書いてある。 わが家の雨樋は10メートル近い長さがある。両側に集水器があって下に落とすかたちになっているから雨樋の中央から左右に下げていけばいい。基準となる中央に支え金具を打ったあと、いったん糸を張って水平を出す。そして両端を5センチ下げたところに糸を止めなおして、あとはこの糸に沿って金具を取り付けていく。そして雨樋をセットする。

 問題はサンルームとウッドデッキの張り出し部分だった。アクリルボードの天井に乗って作業をしなければならない。この部分だけ、破風板のペンキ塗りも後回しになっている。
 アクリルボード一枚の幅は90センチ。それぞれがアルミの枠に取り付けられている。この枠に下から板をあて、上に人が乗ってもたわまないように支えることにした。
 アクリルボードと枠の上に長い板を渡し、さらにその上にコンパネをおいて作業足場とした。これでなんとか、雨樋の取り付けを終えることができた。
  はしごから降りてきたときは、すでにあたりが暗くなっていた。最後のほうは、手元を懐中電灯で照らしながらの作業だった。

 

 

中之条ビエンナーレ/07.09.19

     

 16日、中之条(群馬県吾妻郡)に行って来た。9月15日から10月8日まで開催されている中之条ビエンナーレを見るためだ。 
 ビエンナーレというのは、2年に1回という意味のイタリア語で、美術展などでよく使われることば。中之条ビエンナーレは今年が第1回目。
  中之条ビエンナーレは、昨年3回目の開催で評判になった「越後妻有トリエンナーレ(新潟県)」(トリエンナーレというのは3年に1回という意味)にならって、現代美術で町おこしをはかろうというもの。
 タイトルは「豊かな自然と温もりある里山に包まれた、故郷と美術の出会い/現代の作家による里山ふるさと美術祭」と長い。好意的に解釈すれば、 今年が第1回目でまだ知名度がないため「中之条ビエンナーレって、なに?」というところから、広報していかなくてはならなかったからだろう。

 「中之条」を、日本を代表する現代美術展の一つである「越後妻有」とスケールや作品の点で直接比べるわけにはいかないが、結論をいえば「中之条ビエンナーレ」もけっこうおもしろかった。楽しめた。(参考記事→越後妻有大地の芸術祭
 里山に展開する11の会場をまわって「なるほど」を思ったのは、風景が「越後妻有」と似ていたこと。意外だった。同じ群馬県の山村でも違うもんだ。

 「中之条」でも「越後妻有」と同じように廃屋などを会場として利用しているのがいい。廃屋と現代美術の組み合わせは相性がいい。
 それはたぶん人の住まなくなった山の中の廃屋には人の住んでいた過去の記憶が残っていて、現代美術には人々の遠い記憶にさかのぼる作者の心象風景が投影されているからだろう。
 現代美術と廃屋の関係は触媒とも似ている。作者の心象風景が場所にまつわる過去の記憶に増幅されて、作品が見る人の心に届きやすくなるようだ。・・・・ちょっと評論家のようなことを書いてしまった。

 中之条ビエンナーレを知ったのは、シティーギャラリーの個展が終わった翌日。
 うーん、残念。もっと早く知っていたら応募したのに。シティーギャラリーに並べた板碑「パンニャー」9体を、初秋の里山においたらきっとおもしろいだろうと思った。草むらの石碑のように昔からそこにあるように見えたら○だ。

 会場は11カ所もあるので車で回るのがベスト。それでも全部まわるとなると丸一日かかってしまう。どの美術展でも同じだが、見てまわるコツは、自分がいいと思った作品だけをじっくりと見て、あとはできるかぎり素通りすること。
 会場ごとに異なる里山の風景を堪能できたら、きっと素晴らしい一日になると思います。

 また11の会場ではスランプラリーがおこなわれている。スタンプを全部集めると、四万温泉(中之条)の日帰り入浴が無料になる特典つき。
 もちろん、私たちは温泉に入ってきました。
 こういうのがあるとはりきってしまうんだなあ。パートナーが。



個展「浅間を焼く」/07.09.18 New!

  森を歩くシリーズから

 高崎シティーギャラリーでの個展が終わった。
 1週間は短い。準備期間を振り返るとほんとうにあっという間だ。
 今回は初日の金曜日に上毛新聞の取材を受け、翌日の土曜日に記事が出たので、その記事を見て「来た」という人もけっこういた。遠くからも足を運んでいただいてありがたいかぎり。

 以下は会場入り口に掲げた個展「浅間を焼く」の挨拶文です。また会場のようすはギャラリー3で紹介しています。

 ・浅間を焼く・

 私の住む倉渕周辺の土は黒い色をしています。浅間土です。浅間山の噴火がもたらした軽石まじりの火山灰土です。
 活動の盛んな浅間山は、18世紀には大爆発をしました。このとき火砕流は麓の村をのみ込み、東日本一帯に降り注いだ火山灰は各地で飢饉を引き起こしたといわれています。
 今も噴煙を上げる浅間山ですが、足を踏み入れてみると、その一帯ではさまざまな動植物の命の営みを見ることができます。

 今回の個展では、倉渕を含む浅間山周辺の自然の今と、時間の流れを表現してみました。
 「森を歩く」は1と2に分かれています。1には森ではぐくまれる命たちが登場します。2には森に捨てられたゴミたちが並びます。そのいくつかはよそから持ち込まれたゴミであり、いくつかはかつてそこに人が住んでいたことを物語る名残のモノたちです。

 道祖神を道しるべに、浅間の道を歩いてみてください。 →ギャラリー3



海の水はなぜしょっぱい?/07.08.24

  DM写真/板碑「パンニャー」と土布「浅間山」

 今、窯を焚きながらこの原稿を書いている。時刻は午前1時。シティギャラリーの個展に並べる作品作りの追い込みだ。(原稿を書きはじめたのは実は眠気覚まし)
 個展案内のDMに使った上の写真は、今回展示する作品の中から2点を並べて撮ったもの。左の板碑「パンニャー」にはサンスクリット語で般若心経が刻んである。般若心経は短い経とはいえ、全文を記すとなると、とうてい1個にはおさまらない。会場には9個の板碑が並ぶ予定。
 右の土布「浅間山」は、薄い土をふわっと浮かせて作ったもの。焼けば固くなる土でどこまで柔らかさを表現できるかを追求した作品。数点作ったが、立体で薄作りなので壊れやすいのが難点。どうやってシティギャラリーまで運んだらいいのか、今から頭を悩ませている。

 日中、仕事場で作業をしているときはラジオをつけっぱなしにしていることが多い。
 つけているのは、たいていNHKの第1放送。この仕事を始めるまでは、家でFMを流すことはあってもNHKの第1放送を聴くことはなかった。変われば変わるものだ。(ほんとうはお気に入りのCD音楽を流したいのだが、仕事場にはラジオしかないので第1放送で我慢している。朝の「ラジオ体操」は嫌いなので、早朝から作業をするときはラジオを切っている)

 NHKのラジオ第一放送で、毎年楽しみにしている夏の番組がある。夏休み限定の「子ども科学電話相談」だ。
 午前9時過ぎから昼前までの放送だが、この番組がラジオから流れてくると「あっ、また夏が来たな」とうれしくなる。でもこの番組、高校野球全国大会がはじまると休みになる。高校野球に関心のない私はがっかり。放送が再開されるのは高校野球が最後の1試合(決勝戦、午後の試合)になる日から。

 そして先日、待ちわびた「子ども科学電話相談」が帰ってきた。
 昨日の放送では「海の水はなぜしょっぱいの?」という質問があった。回答者は四苦八苦。「月はどうして毎日形が変わるの?」という質問もあった。
 「子ども科学電話相談」を聴いていておもしろいのは、子どもたちの素朴な質問もさることながら、その場で答えなくてはならない大人たちのリアクションだ。
  相手の気持ちをつかむのがうまく、子どもとのコミュニケーションにたけている人もいれば、「そういう(科学の)言葉もまだ(学校で)習っていないのなら、これ以上の説明はできないなあ」と平気でうそぶく人もいる。
 自分の説明下手、語彙の不足を棚に上げて、子どもに責任を転嫁するのだからたちが悪い。教科書に書いてあるとおりの説明しかできないのなら、わざわざ各分野の「先生」を回答者にする必要はない。NHKのアナウンサーで十分だ。

 うまいなあと、仕事の手を休めてつい聞き入ってしまう回答者がいる。一人あげると、群馬昆虫の森の館長さん。この人は昆虫採集大好き少年がそのまま大人になったに違いないと思われる人で、ほんとうによく虫のことを知っている。回答は知識の紹介にとどまらず、さまざまな昆虫を飼育してきた経験にもとづいて具体的な話をするのだから、子どもたちだけじゃない、昆虫にあまり関心のなかった私もつい耳がダンボになって聞き入ってしまう。

 私の知らない虫の名前をあげて子どもが飼育法をたずねても、たいてい即座に「きみは今、その虫を飼っているの? ボクは前に飼ったことがあるけれど、その虫はねえ・・・」と答え始める。子どもの疑問や質問に一応の回答はするけど、それ以上にこの館長さんは子どもたちが疑問を持ちながら虫を飼育し観察し続けることをすすめる。
「きみはえらいなあ。ぜひその虫の観察を夏休みの間ずっーと続けてごらん。観察を続けていくと、次はこんなことも発見するかもしれないよ」と、子どもの興味を引き出すのがうまい。

 ところで「海の水はなぜしょっぱいの?」という昨日の小学生の質問、あなたならどう答えますか。

 

窯焚き・断食・窯焚き/07.08.10

  採取した土の焼成テスト、1250度。

 7月は台風と前線の影響で雨が続いた。もう夏はないのかと思っていたら、8月に入ってから連日の猛暑。群馬(前橋)の最高気温は35度前後の日が続いている。今日はなんと37度!

 7月はやきもの以外のことに時間をとられることが多かったが、個展まで残り1カ月を切る8月は制作に集中しなくてはいけない。
 7日、前に作っておいたオブジェの焼成をスタート。窯焚きが終了したのは翌8日の午前5時。徹夜でくたびれた。外が明るくなってから布団に入り仮眠する。この窯は冷めるまでに二日かかる。
 この日はテスト用のピースを用意して次の焼成テストを準備しなくてはならなかったが、徹夜明けで疲れていたのでつい作業がおっくうになってしまう。また日中が異様に蒸し暑かったのでついに作業を断念してしまった。
 夕方は、刈り払い機を軽トラに積んで草刈りに行く。7月下旬から8月にかけて草がどんどん伸びて、これ以上放置できなくなったからだ。

 翌9日、早朝からテストピース作りの作業を始めた。今回のテスト項目は主に土の耐火度を調べるもの。1230度から1250度の間で、採取してきた土がどう変化するのかを知りたい。
 その温度で溶ける土と溶けない土を見極めなくてはならない。溶けない土は胎土として成型に使い、溶ける土は化粧土や釉薬の原料としての使用法を探ることになる。
 テストする土の種類が6種類。それらの土を器に塗ってテストするための器になる土の種類が6種類。また今回テストする土には2種類の火山岩(軽石)が含まれているので、それらは擦りつぶして粉にしておかなくてはならない。

 早朝から始めたテストピースの用意が終わったのは昼過ぎだった。
 午後一で小窯に火をつける。今回は作品を焼くわけではない。土の焼成テストがほとんどなので短時間で一気に焼いてもおおよその結果を知ることができる。昨日のプランでは朝から焚いて夜までに終えるつもりだったが、昼過ぎからの焼成になったので、焼成終了は深夜になる。10時間ほどの速攻で焼いて、午後11時頃には終わりにしたいと思った。

 この日9日は今年8回目のハンストの日だった。24時間、口にするのは水か白湯だけ。おかげで朝食や昼食の時間に気をとられることなく作業に没頭できたわけだが、準備が一段落して焼成が始まると少し疲れが出てきた。
 経過時間と窯内の温度変化を示す温度計のデジタル表示を見比べながら、頭の中にある温度上昇の焼成曲線に合わせてバーナーを操作し、窯の温度を上げていく。

 焼成の合間に本を読む。窯焚きの時間はふだん読めない本を開く絶好の機会でもある。今回手にしたのは、先日亡くなった小田実さんの『世直しの倫理と論理』。岩波新書で上下2冊。30年くらい前に読んだ本で再読。あちこちに当時の書き込みや線引き、「」が印してある。手っ取り早くそういう箇所から拾い読みしていく。

 書き込みを読むとつい「若いなあ」と思ってしまう。そう思うのは、あのころと今とでは、知識量もさることながら人生の経験の量が圧倒的に違うからだ。たぶん30年以上前を振り返ればだれもがそう思うだろう。

 ページをめくっていって、終わりのほうで次の一文に遭遇してどきっとした。

<こういう運動はあくまでもひとりひとりの「私」によりどころをもつ運動なのでしょう。「ベ平連」には、「私の『ベ平連』」以外、どのような「ベ平連」もあり得ないのです。「私の『ベ平連』」があり、「あなたの『ベ平連』」があり、「彼の『ベ平連』」がある、あるいは、「小田の『ベ平連』」、「吉田の『ベ平連』」、「早川の『ベ平連』」……があって>(下巻234ページ)

 早川の2文字が目に飛び込んできたのだ。もちろんこの早川は私ではない。ここに書き込みも線引きもないことから判断すると、当時、早川の2文字に捕らわれることなく(当たり前のことだが)この箇所はフツーに読み飛ばしていたようだ。

 この日、24時間の断食は日付の替わる午前0時で終了した。ところがその1時間前に終わるはずの小窯焼成がまだ終了していなかった。急遽パンを食べエネルギーを補給して、焼成の終盤に取り組む。小窯のバーナーの火を止めたのはそれから1時間後、10日の午前1時だった。 

 

 

日本平和学会アート展示/07.07.09

   作品トルソーと詩

 6月9、10日の二日間、東京の早稲田大学で日本平和学会のアート展示が開催された。トルソー2体と詩を出展した。詩は昨年書いたものに加筆したものを掲示した。
 平和学会への出展は今回初めてだったが、人との出会いを含め、得るところは多かった。

 驚いたのは、平和学会の会長である内海さんとアート展示の会場でお会いできたことだ。内海さんには以前、東京のアジア太平洋資料センター(通称PARC)でお目にかかっている。でもそれは10年以上前の話で、多忙の内海さんが当時の私のことを覚えているとは思えなかった。
 ところが、一人でアート展示の会場に入ってきた内海さんが私の作品の前に来たとき、自己紹介につづけてそのことを話すと「覚えている」という言葉が返ってきた。内海さんからは、どうして山暮らしをするようになったのかを訊ねられた。

 思いがけない出会いがあれば、すれ違いもある。
 初日の午後のことだ。北海道に住む友人が所用で東京に来ていて、平和学会のアート展示を見に来てくれた。ところが彼が訪れた時間帯は私も会場にいたはずなのになぜか遭遇しなかった。
 そのことを知ったのは翌日、学会終了後に夜の池袋で待ち合わせ、安酒場で呑んだときのことだ。おかしいなあ。二人して何度も首をひねったが会場ではみごとにすれ違っている。不思議だった。  

 学会の研究発表には示唆に富む内容もあったがここでは割愛。初日の夜は、下北沢の友人宅にやっかいになる。久しぶりにシモキタで呑む。

 二日目の午前は、所用があり、会場を留守にする。
 午後、二日間の展示が終わり、搬出作業を始めたときのことだ。それまで会場の受付などを手伝っていた早稲田の女子学生が話しかけてきた。
 「プロフィールを拝見したんですけど、瀬戸(愛知県瀬戸市)のご出身なんですか」
 うなづくと、
 「わたし、三好(愛知県三好町)なんです!」女子学生は言った。
 いきなりローカルな話になってしまったが、瀬戸市と三好町は近い。たぶん20キロと離れていないだろう。女子学生は私が同じ大学のOBであり、加えて同郷であることに親近感を覚えたようだ。
 「作品、どちらが男性でどちらが女性か、(私が不在の時に)係りのみんなで話していたんですよ。はじめ背の高いほうが男性だろうと思ったんですけど、形を見ると背の低いほうが力強くて男性っぽい感じもするし・・・。結局わからなかったんです」

 このトルソーはまとめて5体を作っている。だからというわけでもないが、制作時点では男女の性をほとんど意識していなかった。ところが今回のように2体だけを並べてみると、どちらが男でどちらが女か、見る人は気になるらしい。
 詩のテーマは「ニンゲン」なので男でも女でも構わないのだが、男か女かで迷ったということは、このトルソー、少なくともニンゲンを模したものとして受け入れられたようだ。
 作者としてはそれで十分。 あとは足を止めた人が自由に楽しく鑑賞してください。
 自分の時間なのだから!

 

 

クリンソウ/07.06.05

   

 今年もクリンソウが咲いた(上左)。庭の手入れはほとんどしないが、暖かくなるとほかの草と一緒に地面から芽を出し、やがて花を咲かせる。この花、最近は山野草で人気らしい。同じく野草ファンの人気を集める花にエビネがある(上右)。これもわが家で一カ所、毎年姿を見せてくれる場所がある。どちらも日陰を好む植物のようだ。

 今日は断食をしている。今月は9日のハンストの日の都合が悪いため(9、10日の二日間、東京に出かける)、個人的な振替日をいつにしようかと数日前から思案していた。9日は朝から出かける。前日の8日は準備に時間をとられるので避けたほうが無難だ。残るは今日を含めて三日間しかない。

 昨日、窯詰めをした。窯に入れたのはオブジェ12個。一つの高さが90センチ近くもあるものばかりなので、窯はオブジェだけでいっぱいになった。
 窯詰めをしたあと、夕方に一度、窯に火を入れてあぶっておいた。150度まで温度があがったところで火を止める。乾燥に時間のかかる大物は、乾燥不十分のまま窯に入れて焼成すると爆発することがある。昨年一度、梅雨時に作ったオブジェを爆発させている。昨日あぶっておいたのは、焼成前に湿気をじゅうぶん抜いておくため。念を入れての一手間。

 朝起きて窯の扉を開けると、中は余熱で暖かかった。これなら乾燥も充分だろう。少し安心する。再点火して素焼きをスタートする。ほっとして台所に戻り、水を一杯飲んだら、
 「よし、(断食を)やろう」
 という気になった。今朝はまだ何も食べていない。
 今日は無理をしない。作業は、素焼きとその合間に本に目を通すくらいだ。
 午後、温度が750度まで上昇したところで火を止める。窯小屋を出て外をぶらつく。家のまわりの草むらに花が咲いている。クリンソウ、エビネなどはこの時期にしか見られない草花だ。デジカメに撮っておく。

 クリンソウは九輪草とも書く。紅紫色の花が数段輪生するのでこの名前がついたらしい。わが家の九輪草は1段目が咲いたところ。このあと2段、3段と花が続く。楽しみだ。
 でもここ数日は、この花を見るたびにクリンソウの「ク」という音から漢字の「苦(ク)」が浮かんでしまった。これでは苦輪草だ。
  そうなった理由は、先に般若心経を読んだことにある。数日前、今日素焼きをしたオブジェにサンスクリット語で「般若心経」を刻んだ。その下準備に、岩波文庫などで般若心経を読み直してみた。

 漢文の般若心経では「色即是空、空即是色」の対句が知られているが、今回読んでほかにもいくつかの字句が印象に残った。たとえば「無苦集滅道」。(この字句の「苦」がクリンソウの「ク」の音と結びついて連想されたようだ)
 これは「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない」と訳される(岩波文庫ほか/中村元訳)。
 「苦しみも(ない)」はいい。だれもが望むところだろう。ところが「苦しみの原因も(ない)」になると、読み手は自身の抱える不幸の記憶に照らして当惑することになる。私の中に苦しみはあるのにその原因がないとはどういうことか。
 続く「苦しみを制することも(できない)」では、読み手の当惑はさらに深まる。私の苦しみを静めることができないとは! そして最後にだめが押される。「苦しみを制する道もない(苦しみを取り除く方法もない)」。これでは救いも何もあったものではない。

 般若心経は、冒頭の「観自在菩薩・・・」で始まる25文字で「存在するものには実体がない」ことを宣言している。そのあとに出てくる「色即是空、空即是色」もほぼ同じ内容だ。
 ところが、なぜ「この世に存在するモノには実体がない」のか。その結論に至る思考過程・考えの筋道が書いてないので、この経を読んだだけではわからない。唯我独尊になっている。般若心経のわかりにくさは、長い経を短く縮めてエッセンスだけにしたためだとも言われている。

 でもそのわからなさが、反面でこの経の魅力にもなっている。意味不確かで妖しげな漢字の羅列はこの経に摩訶不思議な呪術性を与えていて、私たちは1200年の間、意味がわからなくてもただありがたくこの経を唱えてきた。

「世界に実体はない」のか、あるのか。般若心経の中味の議論はさておいて、この経で一箇所気に入っているところがある。それはインドのサンスクリット語から中国語に翻訳されたとき(三蔵法師玄奘訳など)、そこだけサンスクリット語の音が漢字に転写された部分で、中国人にも意味不明の漢字が続く一文だ。

「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶」(漢文)
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハー」(サンスクリット語読み)
「往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 彼岸に全く往ける者よ さとりよ 幸いあれ」(サンスクリット語からの日本語訳/中村元)

 般若心経は、日本では宗派の別なく唱えられる経だ。なじみのない漢字の羅列は隔靴掻痒でわかりづらいが、この箇所だけは、意味を知っておくと、別れの時に気持ちをこめて口ずさむことができる。
「ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はーらーそうぎゃーてい ぼーじそわか」 (漢文の日本語読み)
 中村元訳の「さとりよ 幸いあれ」は「往ける者」への呼びかけである。
「そうか、いよいよ、いってしまうのか。・・・達者でな!」
 長い間、訳すことのできない真言といわれてきたこの一文は、この世のつとめを終えて旅立つ者への、ねぎらいと祝福の言葉だった。

 

 

国立新美術館/07.05.06

   

 先日、日帰りで東京へ行って来た。目当ては国立新美術館で開催されているポンピドー展。
 高崎線で東京に向かい、JR代々木駅で地下鉄大江戸線に乗り換えて六本木へ。地下駅から地上に出て、街の変わりように驚く。防衛庁のあったところに高層ビルがそびえている。オープンしたばかりの東京ミッドタウンだ。地図を頼りに国立新美術館へ歩いていくと、そのあたりは確か米軍の施設があったところ。青山墓地の近くで、六本木といっても外れの寂しいところだったのだが、今は流行の最先端エリアになってしまった。

 十数年前、この近くで仕事をしていたことがある。路地裏の雑居ビルの2階で雑誌の編集をしていた。湾岸戦争のころだった。昼になると日本山妙法寺の僧侶が防衛庁前に姿を見せ、太鼓を叩いて反戦・抗議の座り込みをしていた。私は、都心の隠れた一等地にいまだに米軍施設があるのを発見して、国民を大切にしないのこの国の政府の住宅無策に憤慨した。

 目当ての国立新美術館は東京都知事選に立候補した黒川紀章の設計。建物もさることながら、美術館前の黄色の乗り物(上の写真左の右側に写っている)がおもしろかった。自転車タクシーだ。インドでは、サイクルリキシャと呼ばれる人力自転車タクシーが町中を縦横無尽に走り回っている。日本のサイクルリキシャはいくらでどこまで走ってくれるのだろう。

 ポンピドー展の会場は大きな建物の2階。中にはいると、ある、ある、ある。藤田、モディリアーニ、シャガール、ピカソら、いきなり著名な画家たちの絵画が並んでいる。ポンピドー美術館(フランス)は現代美術の収蔵で知られる。今回の展示も絵画、彫刻、立体、モビール、写真など多彩だった。わざわざフランスまで行かなくても、国立新でポンピドーの一部を見ることができた。

 さて、ここで印象的だった2つの現代美術作品を紹介(作品名はおぼえていない)。
 1つは8畳くらいはありそうな大きな丸い木のテーブルに多種多様の椅子を打ち付けて固定した中国のアーティストの作品。テーブルのまん中には中国語で国連憲章が書かれている。国連に集う世界各国の多様性を物語る反面、各国が利害の駆け引きに終始してなかなか一致点を見いだせない国連の実状を皮肉っているようにも見えた。
 もう一つはビデオカメラの前でひたすら叫び続けるヨーロッパのアーティストの作品。まじめに一生懸命叫び続けるうちに、息切れとともに作家の気力・体力がしだいに消耗していくのがよくわかる。肉体の生理を越えて叫び続けることはできない。人は観念で生きているのではない。この作品は、人間の喜怒哀楽も一過性のものであり、不変ではないことに気づかせてくれる。世界はアニッチャー(無常)だ。

 国立新を見たあとはお上りさんよろしく、いやわが家のワンコが散歩の時あちこちにおしっこをしていくように、六本木ヒルズ、ミッドタウンと回ってみた。それぞれに併設されている美術館を見て回ったわけではない。せっかくだからと来たついでに立ち寄ってみただけだ。
 日中、六本木界隈を歩いて気になったことがある。どこへ行っても元気のいい中高年女性のグループが目だっていた。レストランでランチを食べたり、カフェでお茶をしたりと女性たちは社交的で快活だった。それにくらべて男たちは? 女性たちが都心を闊歩するとき、男たちはどこにいるのだろう。

 

 

オブジェを作る/07.04.25

  一つのイメージがさまざまに展開していく

 今、ロクロをやめて、ひも作りでオブジェを作っている。ひも作りというのはひも状に伸ばした粘土を積みあげていく作り方。ここ数年はずーっとロクロを挽いていたので、ひも作りで作品を作るのは数年ぶりのことだ。これまでに作ったオブジェも、たいていロクロかタタラ(粘土を板状にしたもの)で作っていた。

 ひも作りは、陶芸の体験教室などではじめて湯呑みや茶碗などを作るときに手ほどきされる作り方。ロクロのような熟練を必要としないので初心者向けの技術のように思われがちだが、これがとても奥が深い。ロクロを身につけてからひも作りに戻ると、造形の自由度の大きさに驚く。
 作家が手作りを強く意識したとき、ロクロはスポーツカーのようなものといってロクロ成型から離れひも作りで作品を発表し続けたのは陶芸作家の加守田章二だ。今あらためて、その言葉の意味するところがよくわかる。ロクロなら手の覚えている形があっという間にできてしまうが、ひも作りはそうはいかない。手間のかかる分、一つを作り上げるまでに土との対話があり、形を試行錯誤するおもしろさがある。

 作り始めはおおざっぱなイメージを念頭にスタートするのだが、ひもを積んでいって基礎の部分ができあがってくると、新しい形の模索が始まる。土を内側に積んだり外側に広げたり、丸く積んでいたのをたわめて四角や三角に積み替えたりと、指がさまざまなに動いて、なんとかして新しい形が目の前に現れないかと試行錯誤する。上の写真は、銅鐸のイメージからスタートしたオブジェ。作り始めるとどんどん新しいイメージが湧いてきて、飽きることがない。

 ロクロの場合はイメージ通りの形、あるいは手の覚えている形をそのまま作るのだが、ひも作りは作っている最中にイメージが膨らんでいく。その成長するイメージを指が追いかけるわけだが、これがとても楽しい。夏の個展はオブジェ。それまではロクロの前に座らず、ひも作りで土と対話しながら、土と交わる指の感触に集中したい。

 

ハンガーストライキ/07.03.17

  インドのガンディー主義者のブックレット

 これまでも年に一回くらい断食をしていた。体調を整えるためで、たいていは1日か2日だ。はじめは意気込みすぎて一気に体力を消耗することもあったが、その後断食中もジュースを飲んでもいいことにするなど自分なりのルールを作ってからは苦しい思いをすることもなくなった。

 今年になってからは月一回、白湯だけの断食をしている。ジュースをやめたのはそれが断食をおこなうほかの人たちとの共通のルールになっているからだ。断食をするのは毎月9日。
 毎月9日の断食は一斉ハンスト(ハンガーストライキ)である。主催しているのはインターネット上で知ったガンジーの会。自衛隊のイラク派兵が始まる3年前から、派兵反対、自衛隊のイラクからの撤退を求めてガンジーの会の有志がリレーハンスト(断食)をしている。ハンストはすでに3年以上も続いているというから驚きだ。

 ちなみに陸上自衛隊はイラクのサマワから撤退したが、航空自衛隊はイラクでアメリカ軍の武器弾薬などを輸送する任務についている(マスコミは報道しなくなったが)。また、これもマスコミが報道しなくなったことだが、海上自衛隊はアフガニスタン戦争に派兵されていて、洋上でアメリカ艦船の給油をおこなっている。

 ガンジーの会では、毎月9日の一斉ハンストを呼びかけている。私は昨年この会のことを知り、半年ほどガンジーの会発行のメールマガジンを読んでみた。そして今年の正月から参加することにした。リレーハンストは責任重大だ。3年間続いているハンスト(断食)が、もし私のときにとぎれたらどうしよう。その点、9日の一斉ハンストには全国各地から大勢の人が参加する。もし一人くらいしくじったとしても、ハンストがごわさんになることはないだろう。そのように気軽に考えて9日の一斉ハンストに参加することにした。

 1回目は1月9日。日中、力仕事をしたのがいけなかった。夕方になって体力消耗。いつものようにジュースが飲めないのも、久しぶりに堪えた。こたつに入ってひたすら時間が過ぎるのを待つ。白湯を飲む。パートナーからは声が小さくなったと言われる。
 午前0時。なんとか無事終えることができた。 カルピスを湯で割って飲む。

 2回目は9日の都合が悪く、2月10日におこなった。1月におこなった白湯だけの断食の感覚を体が覚えている。無理をしないことにする。作業は室内。2回目でスムーズに終了したが、翌日11日は地区の自治会総会ともいえる契約(こちらでは年一回の寄り合い総会をこう呼ぶ)の日。朝から契約に参加。総会が終了するとその場で宴席になる。断食明けの酒で酔いが回る。家に帰って、沈没。

 3回目は3月9日。花粉症で調子も悪かったので無理はしない。一日、白湯だけでおとなしくして、24時間のハンスト終了。
 翌日、用があって東京に出向く。わが家から高崎まで車で1時間。高崎線で東京都心まで2時間。都心は驚くくらいの人また人だった。以前、東京に住んでいたのだが、山暮らしが板についた今はお上りさんだ。ぶつからないで歩くことが至難の業。若者が多いのにもびっくり。

 東京に着いたのが昼だったので食べておこうと思い立ち食いそば屋に入ったのがいけなかった。腹が減っていたのでそばと天丼のセットを注文したが、天ぷらの衣があたったのか、食べているうちに口内に炎症が発生。口蓋ののどに近い部分が腫れて痛い。断食明けを忘れていきなり外食したからだ。食事にもっと注意を払うべきだった。山奥から3月の東京に舞い降りてきて、少し浮かれていたようだ。この日は二カ所を訪ねる予定でいたが、一つで切り上げ、無理せず帰ることにした。
 

<追記>

  数学者ピーター・フランクルさんの記事

 イラク戦争、アフガニスタン戦争は今も続いている。残念ながら自衛隊に撤兵の兆しはない。ガンジーの会のハンストはまだしばらく続きそうだ。私もはじめた以上、月一回のハンストは晴れて終わりの日が来るまで続けようと思っている。

 今から16年前、ブッシュ大統領の父パパ・ブッシュがアメリカ合衆国の大統領だったとき、アメリカを中心とする多国籍軍がサダム・フセインのイラクと戦争をした。湾岸戦争だ。日本は自衛隊を派遣しなかったが、戦争協力費として1兆円を超える大金をアメリカに支払った。
 国会の審議もなく、政府がかってに決めたこの戦費支出を違法(違憲)であると訴えて、全国から1000人以上の市民が集まり、原告となって巨額な戦費支出の差し止めを求める「市民平和訴訟」を起こした。
 当時、東京に住んでいた私も原告の一人となってこの裁判に関わった。結果は地裁、高裁で敗訴、最高裁は「門前払い」の決定をした。市民平和訴訟は、組織を母胎としない市民の手作りの訴訟だったため、時の流れとともに裁判が高裁、最高裁と進むにつれて原告の数は激減した。私も2年間インドへ出かけたために途中で原告からはずれた。
 帰国してまもなく、最高裁の「門前払い」があった。最高裁まで上告した人はたしか十数人だったと思う。私も再合流した。最後の手段として、個人の立場で、数人が裁判所の訴追委員会に今回の訴訟を担当した最高裁判事の不服申し立てをおこなうことにした。
 こんなことをしたって、判決がひっくり返らないのはわかっている。でも最高裁は、日本で唯一の憲法裁判所だ。憲法に照らして違憲・合憲の判断を確定できるのは最高裁を置いてほかにない。その最高裁が、戦費支出の違法性(違憲性)を問う裁判で、原告の訴えを「門前払い」したのである。
 そのまま「はい、そうですか」と引き下がるのは悔しいし、それまでの労力がこれで泡と消えるのは残念だ。
 私は、審理しないで端から門前払いにした最高裁の判事たちを職務怠慢であるとして訴追委員会に訴えた。結果は分かっていた。ただ私たちは、最高裁の判事たちに、私たち市民の怒りの声、無念の思いをなんとしても伝えたかったのだ。

 早いもので、市民平和訴訟が終了してから10年が過ぎる。その間に日本は驚くほど様変わりした。自衛隊の海外派兵もその一つ。教育基本法が変えられ「愛国心」が強制されようとしていることもその一つ。マスコミの報道から時の政権に対する批判がなくなってしまったこともその一つ。
 今の首相は「美しい国」という言葉が好きらしいが、政治家が情緒的な言葉を口にするときは十分に気をつけたほうがいい。裏のある人ほど、表をうまく見せることにたけているものだ。
 だれだって自分の生まれ育った環境、風土を愛している。それを「愛国心」という言葉におき換えて上から強制しようとするとおかしなことになる。
 以下は昨年、新聞で読んだ在日外国人のピーター・フランクルさんの記事。多くの人に読んでもらいたいので、少し長くなるけど一部を引用します。

 「(略)愛国心は必要だと思っている。ただし、安倍首相の『美しい国』や、藤原正彦氏の『国家の品格』とか、何冊もこういう本を読んだけど、これらの本は愛国心と言いながら、国粋主義の思想。外国人が日本の悪口を言うと嫌われるから、ボクにとって一番言いにくい問題だけど。
 愛国も国粋も、自分の国を愛する気持ちは一緒だけど、愛国主義者は、自分の主観的気持ちだと認めている。でも、国粋主義者は客観的だと思っている。いつも外にスケープゴートを探して、何かをやり玉に挙げる。日本はいいけれどもほかの国は悪いとか、都合の良い比較になっている。
 自分のお母さんを愛しているのは自分のお母さんだから。世界で一番料理がうまくて、美しくて、賢いからではない。国についても、母なる国、母国、そういう愛の気持ちは大切。
 日本には優しい人、美しい場所、すばらしい文化がたくさんある。そういうことを子どもたちに感じさせるように校外活動を増やせばいい。国を愛しなさいとか、毎朝君が代を斉唱しなさいとか、強制的なやり方ではなくてね。」
(朝日新聞2006年11月8日「わたしの教育再生2/数学者ピーター・フランクルさん」)  

 

 

初詣の風景/07.01.18

   

 昨年暮れの大晦日は、神社で初詣客の接待をしていた。これは地区の祭り世話人という役を担当していたためだ。
 午後9時、浅間神社に集合。初詣客にふるまう甘酒や手袋、熊手などを用意する。2年前は甘酒当番だったが、今回は手袋を配る係りになった。

 午前0時、初詣が始まる。神社は里山にあり、社までは100段あまりの石段を上る。手袋係は階段の中段に待機していて、初詣を終えて下ってくる人に「手袋をどうぞ」といって新品の軍手を差し出す。もちろん無料配布だ。昔はこの軍手一枚が暖かかったのだろう。今は「けっこうです」といって断る人もいるが、こちらも「そんなこといわずにどうぞ」と勧めて受け取ってもらう。というのも、参拝客がめっきり減っているからだ。
 初詣の接待は午前2時で店じまいした。2時間の初詣客は百数十人。年輩の老人たちは「少ねえなあ」とがっかりしていた。

 参拝客の減少は、今に始まったことではない。2年前は大晦日の31日に大雪が降ったこともあり、参拝客は午前2時半までの2時間半で100人ほどだった。
 平日、浅間神社を参拝する人はほとんどいない。だから2年前、初めて初詣の接待役をすることになったとき、人が来ることに驚いた。でも、老人たちの脳裏には、昔の華やかで賑やかだったころの記憶が残っている。
 「昔はこの石段に参拝客が数珠繋ぎになったもんさ」
 手袋を渡すかたわら、そんな話を聞いた。

 午前2時半、家に戻る。2匹の犬が出迎えてくれた。4時間ほど布団で眠る。

 元旦は午前中に地区の新年会があるのだが、昨年、義父を亡くしているので今年は欠礼した。私の住んでいる集落は8戸。例年になく欠礼が多く、新年会に参加したのは3戸だけだった。

 元旦の朝、雑煮を食べると、犬2匹も乗せて、車で出かけた。二度上げ峠を越えて北軽井沢に出る。さらに進路を南に変えて旧軽井沢を通り抜け、めざすところは旧碓井峠だ。
 旧碓井峠に私たちがひそかに聖地?と呼ぶところがある。聖地?そう。旧碓井峠の見晴らし台の一角にはインドの詩人でノーベル文学賞受賞者のラビンドラナート・タゴールの胸像があるのだ(写真上左)。
 こんなところでタゴールと会えるなんて。初めてここを訪れたとき、思いがけない出会いに私たちは喜んだ。私たちはインドに滞在していたとき、タゴールの設立した大学を訪問し、ゲストハウスに泊めてもらったことがある。
 20世紀前半の話になるのだが、タゴールが日本に滞在していたとき、軽井沢を訪れて詩を朗読する機会があったらしい。この胸像はそのときのことを記念してあとから建てたもの。タゴールは若い人の教育にも熱心な人だった。

 さて、タゴール叔父さんに新年の挨拶をしたあとは、あらためて日本の初詣だ。旧碓井峠には熊野神社がある。いつもはひっそりした峠の神社だが、ここも元旦は初詣客で賑わっていた(写真上右)。
  おもしろいのはこの神社、社に登る石段のまん中で群馬県と長野県に分かれている。そして正面の熊野神社本宮(だったと思う)には小さな賽銭箱が二つ並んでいて、右は群馬県、左は長野県の管轄になっている。正面の熊野三宮のほか、両脇にもそれぞれ立派な神社がある。
  参拝客の列に並んでいたら、私は長野県側の賽銭箱の前に出てしまった。
 一瞬、並び直そうかと思ったが、後方に続く人の列を見て、
 まっ、いいや。
 そのまま長野県側で初詣した。
 長野県側にある神社では、元旦参拝のお札を無料で配っていた。それに気をよくして、生まれて初めて50円のおみくじを買った。(群馬県側のおみくじは100円か、200円だった)
 「大吉」が出た。 
 これはついている。新年早々縁起がいい。今年はいいことがあるぞー、と胸を膨らまして帰路についた。

 途中、北軽井沢のパン屋でパンを買った。元旦セール恒例のくじ引きがあった。はずれよりも当たりのほうが多そうなくじだった。私の前にくじを引いた人も当たり。景品の大きなパンをもらった。私の番。エイ、ヤッと引いたら「はずれ」。
 このくじをはずすなんて。隣のパートナーの視線が冷たい。お年玉に景品のパンがもらえるかと期待して車で待っていた犬たちもがっかり。

 元旦、おみくじは「大吉」でくじは「はずれ」だった。今年の運勢、ぼちぼちというところか。

 めでたさも 中くらいなり おらが正月
 (小林一茶の「おらが春」のぱくりです)   

 


白菜の豊作/06.11.23

  収穫した白菜の天日干し

 今年の畑は白菜が良くできた。春、夏はイノシシやサルなどの獣害でうんざりしていただけに、晩秋になって白菜と大根が大きく育ち実ってくれたのがうれしい。
 わが家の畑は、無農薬、無化学肥料の有機農業である。というか、いっぱんの有機農業に比べてたい肥などの投入量もかなり少ないので自然農法に近い。
 白菜を作るようになって8年目。ようやく納得のいく白菜ができるようになった。

 8年前はまだ埼玉に住んでいた。2カ所で畑を借りて家庭野菜を作っていた。小さな畑だったので白菜は10個くらい作るだけだったけど、あまり大きくはならなかった。

 岩手に移ってからも、白菜の出来は今一つ。畑は開墾して広げていった。作付け面積は格段に広くなったが、埼玉と気候が違うので、播種する時期をつかむのがむずかしかった。
 早く種をまくと生育にはいいのだが、無農薬なので虫にたかられてだめになってしまう。播種を遅らせると虫は少なくなるのだが、寒くなるので生育が悪くなる。霜の降りるのが早い岩手では生育の後れは致命傷だ。

 木を抜いて拓いていった畑は風が強かった。白菜は地面を這うような形で横を向いて生育した。9月のお彼岸を過ぎると早くも朝露が氷になった。これにはびっくりした。あわてて資材を買いに行き、白菜などの畝の上にビニールのトンネルを張った。
  凍結を防ぐ手だてだが、強風が吹き荒れるとビニールは破れ、めくられてしまった。風が収まって、またビニールを張り直す。強風とのいたちごっこだった。そんなあんばいだったから、白菜の出来はよくなかった。

 群馬に移って4年目。今年は白菜の作る場所を変えた。肥料も、いつもは畝作りのときにすじ状にたい肥を入れるだけだったが、今年は油かすも入れた。
 借りている畑は虫が多いので、定植した苗に木酢を噴霧したあとトンネルを作り、畝全体を寒冷紗で覆って虫よけとした。
 手間をかけた分、ずっしりと重い白菜を収穫することができた。白菜を作るとき、いつも「どうして○○(農薬名)を使わないんだ。使わないとみんな虫に食われちまうのに」と声をかけてくるおばあさんも、今年は「よくできたなあ」と認めてくれた。

 ほめられて悪い気はしない。今年の白菜の作り方にひそかににんまりしていた。ところが二日前、新聞記事を見てその「酔い」も覚めてしまった。
  新聞には、生産者価格を維持するため穫れすぎた白菜と大根を処分している産地の記事が出ていたのだ。白菜の豊作はわが家だけの慶事ではなかった。10月の気候が温暖だったこと。これが豊作の一番の要因。それはじゅうぶんわかっていた。でもこのようにはっきり書かれてしまうと、ちょっぴり残念な気がする。もう少し、自分のかけた手間ににんまりしていたかったのだ。

 追記:今年の白菜と大根は甘みがあっておいしい。おすすめです。

 

 

削らない器/06.11.08

  一期一会の器

 先に作った尖底器(せんていき)は削る器だった。そこでもう一つ、対極に位置する削らない器を作ってみた。

 器などのやきものの作り方は大きくわけて二つに分類される。ロクロを使う作り方とロクロを使わない作り方。ロクロを使わない作り方には、タタラやひも作りとよばれる技法などがある(詳細は省略)。
 私はロクロを使うことが多い。ロクロでは、回転する台(ロクロ)の上で土のかたまりを挽き上げたあと、切り離して板に移し、少し乾燥させてから底の部分(高台)を削り出すという作業が必要になる。
 ロクロを挽いただけでは、底の部分にたっぷりと土がついているからだ。削りだして底を作る。このとき底の部分(高台)に見られる土の削り出しの勢いを、茶陶の世界では見どころの一つとしてきた。「高台を見れば陶工の力量がわかる」という言葉は、茶碗を鑑賞する側から生まれたものだ。(昔の陶工は、ただひたすらロクロを挽いてきた。手間をかけず、一日に一つでも多くの器を挽くことで日銭を稼いできた。)

 尖底器ではこの高台を削り落とすという確信犯的な作業を行った。そしてもう一つ、ロクロ挽きの確信犯的な作業として、高台を削り出さない、削らない器を作ってみた。

 はじめに挽いたのはカップ。できる限り単純にロクロを挽く。形もそれぞれがそろわなくていい。削らないので少し重い。うーん。やはり。でも安定性はいい。底の内側だけは少し削っているが、これは乾燥の関係でここを削らないと焼成中に割れる可能性があるからだ。下のほうには土をロクロから切り離したときの手あとが残っている。

 次に一輪ざしを作ってみた。形は口の開いたとっくり型と口をすぼめた型の2種。ここでもあえて口の形がそろわないようにしている。ロクロを挽く途中で一度たわめ、形をゆがませている。底の部分には土を切り離したときの糸のあとがそのまま残っている。もちろん板に移したときの指あとも残っている。みんなちがっていて一期一会の器だ。

 最後に筒型の花器(花びん)を作ってみた。これは土のかたまりを「えい、やっ」と気迫を込めて挽き上げたもの。花器もロクロを挽いているときの土のやわらかさを表現したかったので、途中でたわめ、土のぶれやゆがみを造形に取り入れた。
 磁器のような端正な器を挽くには熟練の技が必要とされるが、ぶれる器作りもけっこうロクロの技術がいる。というのもロクロには絶えず遠心力が働いているので、成形途中で形がゆがむと一気に崩れてしまうことが多いからだ。挽き上げる土を均一にしないであえて形にゆがみを作る。ぶれているけど崩れない。崩れる直前で手を止める・・・。   

 今回の削らない器では、ロクロを挽いているときの土のやわらかさを表現してみたいと思った。削らない形の生のおもしろさが伝われば、さ・い・わ・いです。

 

 

尖底器(せんていき)/06.11.05

   

 器を作るとき、ロクロで形を挽きあげたあと、少し乾かしてから裏側を削るという作業がある。日本のやきものではなぜかこの「削り」が重要視されていて、「高台(削った部分)を見れば作者の力量がわかる」という誇張された言葉を今でもときどき耳にすることがある。

 そこで今回、高台を削り落としてみた。削り落として底を平らにしたのでは、洋食器のカップと同じになってしまうので底を尖(とが)らせてみた。名づけて、尖底器。

 いくつか作って形のおもしろさを楽しんでいたが、できあがってみると、当たり前のことだが、立たない。机の上でごろんごろんしている。大きな鉢のような器がごろんごろんしているのはけっこうおもしろいのだが、器として使おうとすると、困ってしまう。不安定だからものが入れられない。

 ホームセンターで植木鉢用の支柱を買ってきて、その上に乗せてみた。おもしろい。けど、昔、小学校の便所の入り口にあった消毒用手洗い水の洗面器に見えてきた。これでは、いかん。イメージがさがる。これはトウゲイ作品なのだ(もちろん、手洗い水を張る桶として使ってもらってもかまわないのだが、それなら洗面器のほうが安価で丈夫で軽くて、適していると思う)。これが尖底器1。

 つぎに高台をほんの少しだけ削り残してみた。鉢の口径が20センチ以上で高台の口径が2センチという極端にすぼまった形だ。もちろん安定性はよろしくない。でも、おもしろい形だ。形そのものを楽しむ器があってもいいと思う。何に使うかは、購入した人が知恵を絞って考えてください。使い道を考えなければならない、そんな器もおもしろいと思う。尖底器2。

 さて、勝手なことを書いてきたが、器が作者の手を離れて買っていただいた人に使ってもらうということを考えたとき、やはり、もう少しすわりのいい器形にする必要がある。そこで一度高台を削り落としてから(尖底器1の形)高台をつけるという形にしてみた。これが尖底器3。これならすわりもいい(上の写真)。

 尖底器3では高台の形はあえてごつごつしたものにしている。そのほうがシャープな削り面との対比が際だつからだ。また高台は割り高台風に切れ込みを入れて、高台内側の底の尖った部分が外から見られるようにしている。全体の形は平茶碗に似ていて、シャープな立ち上がり、縁の部分はやや端ぞり型になっている。お茶をやっている人が、おもしろいといって買い求められるときは、抹茶碗として作っていないので(お茶で使う場合)使いかっては悪いかもしれませんよ、と一言いいそえることにしている。

 私の作る器は、何に使ってもらってもかまわない。お茶漬けのめし碗だっていいし、小鉢や向こう付けでもいい。消しゴムなどを入れておく文房具入れでもいいし、地面にたたきつけて割ってもらってもいい。私の作るやきものは高い値段ではない。割って、ストレスを発散し、一時的にせよ家庭不和を回避できるのなら、パチンコに入り浸ったり服の衝動買いをして憂さを晴らすよりもはるかに安上がりだと思う。
 抹茶碗だって、そう、お茶こそ、ほんとうはどんな器で飲んだってかまわないのだ。茶道が精神性うんぬんをいうのなら。
 大切なのは自分の感性(精神)、今のこの一瞬を全身で感得できること。

 うーん。ここまで書いて、話が尖底器から飛躍していることに気づく。もとに戻します。
 今回の尖底器のように新しい形を求めていく作業というのは、たいへんだけどおもしろい。発見の喜びがあって。難点は、やきものの伝統的な形から逸脱していくので、あまり売れないことです。

 


越後妻有(えちごつまり)大地の芸術祭/06.08.23

 8月18日から20日間で3日間、新潟へキャンプに行って来た。新潟に出かけた一番の目的は、3年ごとに開催されている「トリエンナーレ・越後妻有大地の芸術祭」。というわけで、今回書くのはキャンプの話ではなく芸術祭の印象記。

 会場は越後妻有2市町、十日町市(旧十日町市、川西町、中里町、松代町、松之山町)と津南町の760平方kmで開催されている。
 とにかく広い。朝、家を出て、十日町に着いたのが昼ごろ。今回の芸術祭のセンターの役割を果たしている「キナーレ」という施設でパスポートと地図を買う。陶芸などの集まっている北部の地区から見てまわることにした。

 陶芸は、一軒の古民家に有名作家の作品を並べて展示していた。でも展示のしかたがありきたりで陳腐。同じようなスペースを割り当て並べて見せるだけなので、それぞれが個性をうち消してしまう。たぶん、一作家の作品だけをじっくり見たほうがよかっただろう。

    

 そのほかの作品は予想外におもしろかった。なかでも「胞衣」というタイトルの土の家は、昔、インド北部のラダック地方をヒッチハイクしたときのことを思い出した(写真上左)。また白い壺を池の上に並べた「山中堤スパイラル・ワーク」もよかった。水面に映る影がリアルでなまめかしい(写真上右)。

 この地区を見て大地の芸術祭の特性に気づいた。作品は、床の間から屋外に出て自然と共存できるだけのスケールや親和力があるかが鍵になる。残念ながら、期待していた陶芸作家の作品は、ただ器が並んでいるだけでアートとしてのコンセプトが感じられなかったので、箱庭的で盆栽のように見えた。
 もちろん盆栽には盆栽の良さがあるだろう。それを認めた上で、それでも盆栽には盆栽をよしとする場があると思う。盆栽をわざわざ山に運んで愛でる人はいないだろう。器も同じだ。

 このあと、川西の山奥の集落に移動して生け花作品を見た。生け花はどれも前衛だった。枯れ木を見立ててアートにしたり、一部屋の空間をまるごと一つの作品で構成したり、見ていておもしろかった。足を止めて見つめていると、作者の思いが伝わってくる。
  集落を歩いていると、冬の雪のすごさを思わずにはいられない。そういう地域だからこそ、太陽のふりそそぐ夏が美しく、花がきれいなのだろう。以前、岩手の過疎の村にいたことがあるので、野山に花が咲いたときのうれしさは知っている。

 翌朝、犬の散歩を兼ねてキャンプ場まわりの作品を見てまわる。林を抜けたところに忽然とあらわれる「空と大地の展望台」がおもしろかった。コンクリートの階段があって手すりがあるだけなのだが、インドの遺跡を前にしているような懐かしさがあった。早朝のさわやかな時間帯だったのもいい。キャンプ場を出て、さらにいくつかの作品を見てまわったあと松代に移動する。

 このあと見てまわった松代、松之山は名うての豪雪地帯。さほど高い山があるわけではないのに、川西と松代を結ぶ道路がトンネルになっているのに驚く。
 松代ではこの地区のセンターである「農舞台」でいくつかの作品を見たあと、北部のエリアを車でまわる。松代北部の集落をつなぐ道を走っていて不思議な気分になった。風景がどこかネパールと似ているのだ。そう思ったのはたぶん、日本中いたるところで目につくとっぴな人工物が見あたらないからだろう。集落が自然と共存するままの形で存在している(写真下右)。

    
 松代の北のはずれにめあての作品「風のスクリーン」があった(写真上左)。土で作った陶のブロック2000個を棚田に積み重ねて並べたもの。オブジェを得意とする陶芸作家の作品だが、風景とマッチしていた。私たちが訪れたのは午後2時で一番暑い時間だったが(この日の新潟の最高気温は37度!)、それでも風を感じることができた。棚田のあぜ道を登っていく途中で下から仰ぎ見たときの光景は、インドの砂漠地帯の砦跡のようだった。

 掛け値なしに笑えたのは、民家の連なる街道筋の廃屋を作品にした「天竺」。外は朽ちたままの家だが、中に入ってみると、床、壁、天井にいたるまで、過剰な装飾が施されていてすべて金ピカ。装飾はおもちゃや遊具、家具、蓮の花、仏像とさまざまだが、目を近づけてみるとどれも薄っぺらな安物や廃品で、しかしなぜかすべてが金ピカ。なにを皮肉っているのか。ここまで徹底していると、思案するよりも腹を抱えて笑ったほうがいい。作家は、世間や常識を笑い飛ばすたくましいアーティストとみた。

 松代から松之山に移り、この日最後に見たのが廃校を使ったボルタンスキーの作品「最後の教室」。これもおもしろい。まるごと胎内に入ったようで、校舎である胎内には、ここで時を過ごした人々の過去の記憶が宿っている。もしこれから大地の芸術祭を見に行く人は、お化け屋敷だと思ってここを訪ねてみてください。はじめ、意味不明でおどろおどろしかったものが、校舎をあとにするころには懐かしさに変わっているかもしれません。

 3日目、津南のメイン会場であるマウンテンパークに向かった。ここには中国の蛇窯を移築した窯がある。ガイドブックなどでは「登り窯」と書いてあるが、あの作りは中国の「蛇窯」だ。窯に興味があったので訪れた。大地の芸術祭は今回で3回目。窯の移築は第1回目、2000年の作品だ。今回はこの窯が、ドラゴン現代美術館となっている。
  中を覗いてみたら、 一匹の巨大な白龍がいた(写真下左)。窯の下の方から上までからだを横たえている。この白龍がおもしろいのは、ガラスびんを積み重ねて焼いたこと。火かげんがちょうどいいところは龍らしい形でガラスが焼けているが、火の弱かったところはガラスびんがそのまま残っていたり、火の強かったところは溶けてゼリー状になったりしている。廃品回収で集めたガラスびんを原料にしたところがおもしろい。ただ一つ気になったのは、この窯、このあとはもう使えない?

     
 そのあともいくつか見てまわった。この日は帰らなければならないので見学は昼過ぎまで。最後に見たのが清津峡にほど近い中里にある「小出の家」。ここも廃屋をアートにしているのだが、ほかとの違いは廃屋をそのままアートとして見せていること。ぬけた床は白木で格子を組み、破れた障子や襖には銅版画をセットする。それだけで床も襖も朽ちた壁も美しい。漆器のことを英語でJAPANともいうが、この家の美しさは「This is Japan」(写真上右)。

 出かける前は台風の影響を心配していたが、終わってみれば晴天、猛暑の3日間。台風が日本海にぬけたあとフェーン現象が発生して新潟は連日の猛暑。まるでインドを旅しているようだった。谷川岳を越えて群馬に戻ってきたらフツーの夏で、最高気温も30度くらいと涼しく、ほっとしている。同行したワンコたちも息を吹き返した。
 今回3日間かけてまわったけど、まだ半分も見ていない。ほんとうにスケールの大きな「大地の芸術祭」だ。

 

さわらび陶芸教室/06.08.17

 先月、重症心身障害者施設の「はんな・さわらび療育園」に行って来た。園生たちの陶芸のお手伝いだ。
 さわらび療育園は隣の榛名町にある。といっても倉渕との境。場所は榛名山の中腹だ。パートナーが働いている関係で「陶芸ができないだろうか」という打診があった。二つ返事で引き受けることにした。
 園生たちのようすについてはあるていどパートナーから話を聞いている。
 重症心身障害者施設は、知的障害と身体障害の両方を持つ人たちの入所施設だから大変だ。障害者施設と聞くとつい子供をイメージしてしまうが、「さわらび」は38年の実績のある施設なので、園生もこどもから50歳前後まで、さまざまな人がいる。

 なにができるのか、プランを考えてみた。 障害が重いので「園生が自分ひとりでつくるのはむずかしい」。でも「うつわのようなものをつくりたい」という話だった。
 さわらびでは、園生に職員がつくのでサポート上の問題はない。ただ、できるかぎり一人一人が自分でつくる、つくることに参加する形にしたかった。
 うつわは、粘土を板状のタタラにして、型に押し当て小鉢をつくることにした。制作過程がシンプルでわかりやすいからだ。さらにつくれる人はこの小鉢に装飾をほどこせばいい。うつわが園生のつくったものになる条件として、園生一人一人の指あと、手あとがうつわに残ればいいと考えた。
 うつわをつくる段階では職員のサポートが必要になるだろう。その前にまず、一人一人に土に触れてもらい、土の感触を自身の中で確かめてもらいたいと思った。

 当日配布するレジメにつぎのようなことを書いた。

1.土にさわってみよう
 土の感触を楽しんでみよう。ゆびで、手のひらで、ほほで。
 土はやわらかい? かたい? ひんやりしている? なまあたたかい?
 触感は、私たちが生まれてきたときに外の世界を感じたあの感覚。でも生まれてきたときのことなんか覚えていないよね。目をつぶって土にふれてみよう。ゆびで、手のひらで、ほほで。ふだん忘れていた感覚がよみがえってくる。

2.土に力を加えてみよう
 土をおしてみよう。土はどう動くか。土をたたいてみよう。土はどう動くか。土を引っぱってみよう。
 土がへこんだり、ふくらんだり、のびたりするね。
 土は力が加わることでさまざまな形にすがたを変える。おしたり、たたいたり、引っぱったりすることで、あたらしい形が目の前にあらわれてくる。どんな形にしようかな。

3.小鉢を作る/成型編
  (省略)

  園生たちが土にふれたときの反応を楽しみにしながら、車に土を積んで出かけた。
 ところが。
 私の認識はまだ甘かった。私がお手伝いをしたのは園内でも障害の重い人たちで、自分で土を叩いたり、伸ばしたりするというようなことはできなかった。
 職員がマンツーマンでサポートする。私もマンツーマンでお手伝いしたが、手のひらにそっと土を握らせてみたり、ほほに土を押しあてて反応をうかがうのがやっとだった。

 昨年、知的障害者の通う学校を見学する機会があり、偶然、陶芸の授業を参観した。生徒は小学生と中学生で、身体的な重い障害はなかったので、元気よく自分で土を叩いていた。
 私は今回、あのときのイメージに重ねて陶芸教室を考えていたことに気づいた。
 重複障害の園生たちは身体障害も重度だったので、自発的な行動はむずかしかった。
 事前に想定していたほどのことはできなかったが、それでもやれるだけのことはやったと思う。また機会があれば、出かけてみたい。
 二回、三回と回を重ねていけば、土の感触に興味を持ったり関心をしめす園生が一人、二人とあらわれてくるんじゃないか、そんな気がしている。
 

 

<しばらく過去の記事を一本、載せておきます>

志野茶碗「卯花墻(うのはながき)」を見る/05.12.07

 先日、ひさしぶりに東京へ。
 行き先は10月にオープンした三井記念美術館(東京・日本橋)。10月から12月までの3ヶ月間、開館記念の特別展が開かれていて、三井が所蔵する国宝や重要文化財に指定されている茶碗が展示されている。

 私は、いわゆる「茶碗」は作っていない。私が作るのは、ご飯を盛るめしわんと湯のみで、お茶の世界で使われる茶碗ではない。だから、誤解を避けるために「ちゃわん」ということばを使わないで、「めしわん(飯わん)」と呼ぶことにしている。

 それでもやきものを作っている身としては、今回の特別展、やはり気になる。
 国宝の志野茶碗「卯花墻(うのはながき)」、光悦の楽焼茶碗「雨雲」、長次郎の黒茶碗(銘を忘れた)、粉引茶碗の「三好」など、日本のやきものを代表する茶碗が一堂に並ぶとなれば、一度は見ておきたいもの。そこで午前中に仕事を終えて、午後、高崎線に乗って出かけた。

 今回の特別展は、いってみれば茶碗のオールスター。ただ一つ、私好みの井戸茶碗がないのは残念だが、それでもこのボリュームだ。これだけの展示はもう二度とないかもしれない。
 なかでもぜひ見たいと思っていたのが「卯花墻(うのはながき)」。その理由は、国宝だから、・・・ではない。

 「卯花墻」は、日本のやきものの歴史を扱う本では、必ずといっていいくらい紹介されている日本を代表する茶碗。今、私の手元にある本や雑誌だけでも少なくとも数冊にこの「卯花墻」が載っている。
 卯花墻について書かれた文章を読むと、だれもがこの茶わんを絶賛している。
 でも、なぜこの茶わんがそんなにいいのか?
 私にはそこのところがわからない。 写真で見る限り、この茶碗がそこまで特別なものにはどうしても思えないからだ。
 なぜこの茶碗が絶賛されるのだろう。私が卯花墻を見たいと思った一番の理由は、これだった。写真だけではわからない。

 志野茶碗「卯花墻」は、暖かみのある志野釉の発色とその下の緋色がとてもきれいだ。桃山時代の技術力を考慮すれば、当時としては、たぶん絶賛に値する焼き上がり(発色)だっただろう。この点は納得する。でも造形はどうか。私はその点で、大いに疑問を持っていた。
 卯花墻は、ロクロで成形したあとにへら目を入れてわざと形をゆがめている。口にも変化があって味わいがある。いかにも「茶わん」らしい造作だ。
  でも本に載っている写真は正面から撮ったものがほとんどで、それらの写真を見る限り、全体としての形はずんどうで平凡の域を出ていない。
 芯に宿る力強さが表にあらわれていない。これがどうして特別なのか。
 写真の印象では、卯花墻はよくまとまっているが、形に勢いがない。たとえて言えば、角のない牛、樹木ならさしずめ姥桜(うばざくら)だ。

 桃山時代に作られた志野茶碗という歴史的な価値を差し引いて、現在ある1個の作品として純粋に見てみたら、卯花墻はいったいどれほどのものなのか。
 そのことが知りたくて、東京に向かった。
「茶わんというより、小さなどんぶり鉢だったりして」
 そんな意地悪な思いも、ひそかに持っていた。

 ところが。
 実際に見た卯花墻は、写真とはまるで別物だった。その違いにまず驚いた。
 写真ではずんどうにしか見えなかったが、実物はちがう。これでもかというほど形は大きくゆがめられている。まるで茶碗のなかに目に見えない生き物がいて、器のあちこちを内側から強く押して今にも飛び出そうとしているかのようだ。
 おおざっぱな表現が許されるのなら、底部の腰が四角で上部の口縁が三角。これでは全体として形がゆがむのは当たり前で、どう作ったって、均整のとれるはずがない。
 初めて土に触れた人が、丸い茶碗を作ろうとして作れず、「こんなの作るの、もういやだ」と言って、うち捨ててしまった土塊のようにも見える。一言でいえば、異形。

 ただ不思議なのはこの茶碗、どの角度から見ても形がゆがんでいて、そのゆがみのありようがどれも異なっているのだが、ただ一方向、正面から見たときだけ、そのゆがみが消える。それまで惹きつけていたダイナミックな輪郭線がすーっと消えて、いかにも手のひらになじみそうな、ずんどうで暖かみのある器形が姿をあらわす。
 この変化は、意外だった。不意をつかれた。

 昔の人が茶会の席で初めてこの茶わんを見たとき、まず異様ともいえる動的な造形に目を奪われただろう。
 つぎに茶の入った卯花墻を手に取り、掌にのせて目線近くまで持ち上げると、それまであばれ馬だった卯花墻がとつぜん、羽衣をまとう慎ましやかな女性に姿を変える。
 この変化は劇的だ。ほの暗い茶室の中では、能を観るようだったかもしれない。
 この変化に気づいたとき、この茶碗の秘密をかいま見たような気がした。

 美術館をあとにして外に出る。目の前には初冬のオフィス街が広がっていた。襟を立ててビルの谷間を歩き、JRの駅へと向かう。今、見てきた茶碗の印象をそっと反芻してみた。
 卯花墻は、遊び心いっぱいの茶碗だった。
 

 

 もどる