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「インドの祭シーズン」  10月から11月にかけて (P)

 バーラト通信1号を発送し終わった直後から、バラナシはお祭りシーズンに入った。日本でいえば、年末年始という賑やかな時期に当たる。
 まずは、今まで朝だけだったヒンドゥー寺院からの、マイクを通して聞こえてくる大きな音の歌が、さらに大きな音となって一日中聞こえるようになった。
 10月中旬に、ドゥルガ祭というヒンドゥーの女神の祭りがあった。カルカッタのドゥルガ祭が有名だが、バラナシでも、街中の各地に、ドゥルガ神の大きな像が奉られる。人々は連れだって、そうした像を見て歩く。そしてドゥルガ神の奉られている寺院にお参りに行く。
 10月14日の夕方から、奉られていた神像が、太鼓やラッパ、かけ声や踊りとともに、男たちにかつがれ、あるいはトラックに乗せられて、ガンジス河のメインガートまでやってくる。そして最後には、神像は河に投げ込まれる。神像がかつがれてやってくる様子は、日本の御輿や山車の祭りを連想させる。このときにはメインストリートは歩行者天国となり、本当に大勢見物人がやってくる。

 もう一つ、この4日前の土曜日の夜、正確には、日曜日、真夜中に住んでいるところのすぐそばの道をパレードが通っていった。夜中の1時過ぎ、外が騒がしいので(この間ずっと騒がしかったので、初めは無視していたが)出てみた。と、道は大勢の人で賑わっていた。クリシュナ神やハヌマン(ともにヒンドゥーの神)の仮装をした子どもたちが、豆電球の飾り付けとともに乗っている山車が、スクーターやサイクルリキシャに引かれて次から次へとやってくる。
 道沿いの所々では、マイクが持ち出され音楽やらですごい音である。夜中だというのに女性や小さな子どもまでが着飾って大勢見物にでている。
 その日は、道がきれいに豆電球で飾られていたことはわかっていたが、まさか真夜中にパレードがあるとは思ってもみなかった。延々と1時間あまりもパレードは続いた。
 ドゥルガ祭と平行してもう一つ、街の各地でラームリーラーと呼ばれる劇が上演されたが、今年は残念ながら見る機会がなかった。

 そして11月3日がディワリと呼ばれる光の祭典だった。この祭りは、インドの正月にあたると本に書いてあったが、確かにそうだと感じた。
 まずは5日ほど前から、ステンレスの食器を売る店があちこちに現れた。これはディワリのとき、新しい食器や鍋などの台所用品を買うという習慣があるためだ。家族のために、新しい食器を買い求める女性たちで店は賑わっていた。
 すぐそのあとで現れたのが神様の像を売る店だった。粘土でつくられ、きれいに色が塗られた大小さまざまな神像が並べられる。神像はラクシュミ神(繁栄の神)とガネーシュ神(財産の神)である。そのほかにも、動物や人形などのさまざまな像も並べられている。ここも像を買い求める人たちでいっぱいになる。日本の年末、人々が松飾りや鏡餅などの正月用品を買うのが思い出された。
 そして次に出てきたのが花火屋、ロウソク屋、ディワリのためのお菓子屋で、この頃には道の両側は、これらの出店でいっぱいになった。花火屋は特に子どもたちに人気があり、買うというより憧れの眼差しで花火を見ている子どもたちでいっぱいだった。

 当日夜、人々は部屋の明かりを消し、家の戸口や室内に光をともす。素焼きの皿に油を入れてともされるディパックと呼ばれる光である。そして人々は花火に興じる。しかし、花火だけですまないのがインドで、市街戦が始まったと言われても信じてしまうほどの大きな爆竹の音が延々と続いた。

 ディワリが終わったことで、これで1カ月に及ぶインドのお祭り集中期間も終わったと思っていたが、最後11月18日の満月の夜、ガート一面がディパックで飾られるという美しい光の祭りを見ることができた。
 日本人も祭好きであるが、インド人の祭りにかける意気込みや楽しみ方にもかなりのものがあると感じた1カ月間だった。(P)

<『バーラト通信第2号』 1994.12.10/禁無断転載>

 

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