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「テーリ再訪」  ウッタラカンドの独立とテーリダム

 「ウッタラカンド」という言葉がマスコミの注目を集めるようになったのは、昨年の夏以降のことだ。
 ウッタルプラデシュ州(UP州)のムラヤム・ヤダブ首相は昨年7月、後進クラスのカーストに27%の保留枠を設けるという決定を下した。就職と進学の機会に限って後進クラスに優先枠を与えるというものだが、この決定に対して、後進クラスにカーストが人口の3%未満という州北部の山間部で反対運動が起こった(バーラト通信第2号、既報)。

 この地域の反対運動は、またたく間にUP州からの分離独立を求める運動へと発展していった。山間部8県 の総称である「ウッタラカンド」州の独立要求である。 9月以降、27%の保留制度の導入に反対し独立を求める住民の運動は、州政府と衝突するという新たな局面をむかえた。そしてこれまでに数十人が衝突の犠牲となっている。
 そのウッタラカンドを訪れたのは、冬の間に降り積もった雪も解け、春の陽射しが谷間を照らす3月中旬のことだった。

ダムの建設が始まった
 テーリは、ウッタラカンド8県のひとつ、テーリガルワール県の元県庁所在地である。この町を初めて訪れたのは、ちょうど1年前の3月中旬のことだった。町のすぐ隣りで行われている巨大ダム工事の現状を知るのが、そのときの旅の目的だった(バーラト通信創刊準備号、既報)。今回、訪れて驚いたのは、1年前に較べて工事がずいぶん進み、いよいよダム本体の建設にとりかかっていたことだ。
 ここでもう一度、テーリダムの概要を紹介すると、全堤長1100メートル、高さ260メートルという世界有数の巨大なロックフィルダムである。そしてこのダムの建設で立ち退きを求められている人の人数は数万人に及ぶ。
 1年前に訪れたときは、ダム建設予定地の整地が終わり土地を乾かしている状態だったので、あまり工事が進んでいるようには見えなかったが、今回はロックフィルダムの土台ともいえるコッファーダムの建設が始まり、工事現場を大型のダンプが砂煙をあげて行きかっていた。
  テーリに着いたその日、さっそくダム工事現場近くに建つ「ガンジス河を守る会(ガンガ・バチャオ・アンドラン)」の小屋を訪れ、中にいたチャンドラさんにテーリダム建設の問題点を訊ねた。

犠牲になるのはごめんだ
  テーリダムの建設には各方面から様々な疑問の声があがっている。主なものを二つ紹介すると、ひとつは活断層が多く、地震の巣ともいえるヒマラヤで、このような巨大なロックフィルダムを造ること自体、危険であり無謀ではないかというダム建設の安全性に根本的な疑問を投げかける声であり、もうひとつは住民の移転は少しずつ始まっているとはいうものの、移転補償プランの全体像はいまだに明らかにされていないという政府の対応策のずさんさを指摘する声だ。
 テーリから20キロ離れた山の上に、政府は新しい町ニュー・テーリを建設している。テーリ住民の移転用の町のはずなのだが、昨年訪れた印象では、住民移転用のアパートよりもあちこちで建設されているホテルのほうが目をひいて、ヒマラヤが見える景観を売り物にした新興リゾート地という印象が強かった。

 チャンドラさんによれば「ニュー・テーリに移転した人たちが、またテーリに戻ってきている」という。理由は仕事がないからだ。「アパートだけ与えられても、生活環境がまるで変わり、仕事も見つからないとなれば、どうやって暮らしていけばいいのか。ニュー・テーリで仕事をしているのは、観光などのビジネスで進出してきた平野部の連中ばかり。午後4時になるとバザールの店も閉まってしまう。商店主たちは夕方になると、山を下りてしまう。そんな町に移って、いったいどうやって暮らしていけというのか」。
「この地域の産業は農業。農民たちは山の斜面を切り開いて畑を作り、牛を飼って暮らしをたててきた。農民たちは自分のところでとれた野菜や乳製品をかついでテーリまで運び、バザールで売って金に換えてきたんだ。でもダムができてこの町がなくなったら・・・。20キロも離れたニュー・テーリまで野菜をかついで行かなければならないとなったら、彼らの暮らしはどうなる。やっていけないよ。移転する人たちだけじゃない。残るひとたちにとっても、この町がなくなると今までのような生活がなりたたなくなるんだ」。
「政府は、ダムの建設が山間部の地域開発にも貢献しているというが、このダムの完成で恩恵を受けるのは平野部の人間たちだ。私たちではない。貧しい山の衆である私たちが、どうして豊かな平野部の連中のために犠牲にならなくてはならないのか・・・」。
 チャンドラさんの話は続いた。

必ずUP州から独立する
 ヒマラヤを守る会(ヒマラヤ・バチャオ・アンドラン)のラトリさんは、私がテーリで泊まる宿の主人である。そのラトリさんに、ウッタラカンドの独立について訊ねてみると「いつか必ず、UP州から独立する」ときっぱり。でも、昨年の一連の衝突事件については、「背後でいろいろな政治的な動きがあるから」と多くを語ろうとはしなかった。チャンドラさんに同じ質問をしたときも「独立は時間の問題」と答えるだけで、それ以上踏み込んだ話は避けるふうだった。彼らは、昨年、派手に報道された住民と警察の衝突事件については、距離を置いているように見えた。

 ここで、ラトリさんのいう「政治的な動き」について私の知っていることを補足しておこう。それは昨年、各地でくり返された衝突事件の背後で、群衆をあおり武装した警察へと立ち向かわせ騒動を招いたグループの存在として、右翼政党のBJP(バーラティヤ・ジャナタ党)とその友好団体のVHPの名前が取りざたされていることだ。ヒンドゥー至上主義を掲げるBJPがウッタラカンド問題に関わる理由はただひとつ、騒動を大きくして州政府に揺さぶりをかけ、現在のヤダブ政権を倒すことである。
 現政権のヤダブ首相はかつて野にあったとき、ヒマラヤ山間部の住民にウッタラカンドの独立を約束したことがあった。広大な平野部とは文化も歴史も異なるこの地域の人々の間には、早くから独立した州となることへの根強い願望があった。
 しかし、政権の座に就いたヤダブ首相は、昨年の夏以降、急速な高まりをみせるウッタラカンドの独立要求に対して「時期尚早である」との否定的な態度を崩していない。ヤダブ政権誕生のときに期待を寄せたヒマラヤの人々は、今はもう遠く離れている。

 ラトリさんは、ミルクも口にしない厳格な菜食主義者だ(だからインド人が1日に何杯も飲むチャイ=ミルクティーを飲まない)。そのラトリさんが「ヤダブ首相はウッタラカンドの独立を認めないばかりか、この地域に酒類の販売を許してしまった」と不満をもらす。ウッタラカンドは飲酒に対する人々の考え方が厳しい土地柄だ。かつてテーリでも、女性が先頭に立って、町から酒類を一掃させたという住民運動の実績を持っている。

ツーリズムへの懸念
 ラトリさんは、ヤダブ首相に対して、もうひとつ大きな不満を持っている。それは平野部の資本で西洋型のツーリズム(観光事業)が進められていることだ。
 これまでインドで避暑地といえば、最北部のカシミールが有名だったが、ここ数年カシミールは、インドからの分離を求める多数派のムスリム(回教徒)とインド政府の間でひんぱんに銃撃戦がくり返される状態になっている。そこで新たに注目されるようになったのが、大型の観光開発がまだ行われていないウッタラカンドだった。
 ウッタラカンドはヒンドゥー教徒の巡礼地として古くから知られていたが、比較的最近までは町や村で泊まれるところといえば、小さな商人宿か巡礼用の宿があるくらいの素朴な土地だった。それが今では、夏のシーズンになると、ガンゴトリやバドリナートといったウッタラカンド最深部の聖地にまでバスが通うようになり、山間の道路はあちこちで交通渋滞をきたすほどである。そして聖地にも、平野部の資本が入ってきてホテルが建ち並ぶようになっている。ツーリストの多くは聖地をめざし、ウッタラカンドをバスや車で通り過ぎていくばかりだ。

 政府の進めるウッタラカンドの観光開発が「ウッタラカンドの住民をますます貧しくする」とラトリさんは憤る。
 彼はダム建設反対の運動にも関わっている。
「もしウッタラカンドがひとつの州として独立できたら、テーリダムの建設工事を差し止めることができるだろうか」
「いや、それは別の次元の問題だよ。テーリダムの建設工事は、UP州よりも上のレベルで行われているプロジェクトなのだから」
 私はちょっと短絡的な質問をしたようだった。ラトリさんは、まだまだ先は長いよ、というように落ち着いていた。

 今回の旅では、そのあとテーリから数十キロ山奥に入ったところにあるナブジワン・アシュラムを訪れた。そしてさらに一週間、ヒマラヤ山間部の村や町を訪ね歩いて、バラナシに戻った。
 ナブジワン・アシュラムは、木を守り森を守るチプコの運動(チプコ:抱きしめろの意味。実際に住民が木に抱きつき伐採から木を守ったことからこの運動が始まった)のリーダーのひとり、サンデルラル・バフグナさんとビムラ・バフグナさんの夫婦が住むアシュラムだ。
 結婚と同時に山奥の一寒村に移り住み、自給自足の生活を送りながら山の子どもたちの教育に力を注いできた二人の活動については、いつかあらめて紹介したい。

<『バーラト通信第4号』 1995.4.10/禁無断転載>

 

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