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「サドゥーも楽じゃない」   二度目のガンゴトリ訪問記

 インドにはサドゥーと呼ばれる人たちが、まだかなりいる。ほとんど裸に近いかっこうで、からだに白い灰を塗って町中を歩いていたりする。持ち物といえば、先が三つ又になった杖と水を入れる小さな金属製の壺くらい。髪は伸びほうだいだが、ふつうは頭の上に束ねている。ヒンドゥー教の行者である。
 バラナシのガートでもサドゥーを見かける。とくに観光客で賑わうダサーシュワメドガートの周辺には、サドゥーがたむろしている。彼らは外国人に気やすく声をかけ、いっしょにお茶を飲んだり葉っぱ(大麻)を吸ったりしながら、少しばかりの無心をする。外国人のサドゥーも増えている。バラナシではこのごろ、南アフリカ出身のサドゥーがふえていると聞いた。

 十数年前、はじめてインドを旅したとき、ラダックのレーまでいっしょにヒッチハイクをした南インドの英語教師(もちろんインド人)は「ほんとうのサドゥーに会いたかったらヒマラヤへ行け。街にいるのは見せものだ」と教えてくれた。彼はその前年にインドヒマラヤのガンゴトリへ行き、岩小屋に独りで住むサドゥーと会ってきたのだった。

サドゥーの聖地ガンゴトリ
 ガンジス河源流のガンゴトリを訪れるのは、今回が2回目だ。10月下旬に訪問した7年前は、村人たちが冬を前にして店をたたみ、下の村へと移る準備をしていた。だから雪の舞う中をガンゴトリから上流のゴウムクまで歩いても、サドゥーに会うことはなかった。

 それが今回はあちこちでサドゥーを見かけた。ツーリズム(観光化)の波が押し寄せるガンゴトリは今、建築ラッシュを迎えている。狭い谷に新しいホテルが建ち並び、ヒンドゥー教各派のアシュラム(道場)建設も盛んだ。オレンジ色の衣を着た僧の姿も目立つようになった。はだしでとぼとぼ歩いて平野から上がってきた新入りのサドゥーたちは、ガンゴトリ寺院の門前でぼろ布やむしろで小屋掛けをしてお乞食さんをしている。
 中には、村人から敬われているサドゥーもいる。彼らはたいてい6畳ほどの広さの庵に住んでいる。朝は村人の人生相談にのり、昼は庵の前で静かに教典を読んでいることが多い。これが、ガンゴトリに住むサドゥーの理想的な一日の過ごし方なのだろうが、サドゥーの数が飽和状態に達した今では、そのような落ちついた静かな生活を手に入れるのは難しいことになってしまった。

 一部のサドゥーはガンゴトリの奥地にも入り込む。上流のボジュバサやゴウムクにサドゥーがいる。熱心な巡礼者はガンゴトリからゴウムクまで歩く。ヒンドゥー教の伝説では、天からガンジス河の降りてくるところがガンゴトリといわれているのだが、現在のガンジス河源流は、氷河の後退もあって、さらに18キロ上流のゴウムクである。ゴウムクとは牛の口という意味で、ガンゴトリ氷河の末端にあいた大きな穴から冷たい水が勢いよく流れ出している。

 7年前は雪の中をゴウムクまで歩いて引き返したが、今回はその上のタパバンまで行ってみた。標高4500メートルのタパバンは高山植物の宝庫で、白や黄色や紫の小さな花があたり一面に咲いている。目の前にはヒンドゥー教徒がシバ神のシンボルと崇める聖山シブリンがそびえている。お花畑の中に小さな岩小屋があり、そこにもサドゥーがいた。

結婚しても・・・
 ガンゴトリへと引き返す道すがら、チャイ屋(お茶や軽食を出す簡易休憩所)に立ち寄りながら、源流地帯に住むサドゥーについて、いくつかたずねてみた。村人の話によると、最深部のタパバンにはふたりのサドゥーがいて、ひとりは雪に閉じこめられる冬の間もタパバンにとどまっているとのことだ。
 ゴウムクには4人のサドゥーがいる。最近、そのうちのひとりがアメリカ人の女性と結婚した。彼は女性といっしょに山を下りるとき、髪を切るようにと強く言われ、床屋でばっさりと切ってしまった。だから今は一般の人と変わらないさっぱりした身なりになっているという。ヒンドゥー教の行者も恋の魔力には勝てなかったようだ。
「サドゥーは世捨て人と聞いたことがあるけど、意外とかんたんに辞めて社会に戻ることができるんだね」
「いや、彼は今でもサドゥーだよ」
「でも結婚したら、ふつうの人だろう?」
「結婚したってかまわないさ。サドゥーはサドゥーだよ」と村人は苦笑する。
 世俗を捨て、神との一体感の中に生きているはずのサドゥーが、外国人の女性と結婚してシンボルの長髪も切り落とす。それでも彼はサドゥーであるといわれると、サドゥーとはいったい何なのか、私にはわけがわからなくなってきた。

 以前、タイのお坊さんに質問され、日本の仏教について話したことがある。日本は大乗仏教で、というあたりはいい。彼らも知識として知っている。ところが日本の僧侶の生活、奥さんがいて子どもが寺を継ぐという話になったら、タイのお坊さんたちは目を丸くし、「それでも僧侶(出家者)といえるのか」と口をとがらせた。タイのお坊さんたちは、女性に触れてはいけないという厳しい戒律の中を生きている。
 サドゥーとはいったい何者なのか。このときの私のとまどいと困惑は、タイのお坊さんたちが目を丸くしたときの心境と、たぶん同じだった。

 ガンゴトリには数十年前から、冬の間も独りで住み続けているサドゥーがいると聞いたことがある。十数年前にいっしょに旅をしたインド人が教えてくれたのもそのサドゥー、マニババだった。私はガンゴトリに下ったら、この伝説化したサドゥー、マニババの岩小屋を訪ね、「サドゥーとは何なのか」を聞いてみたいと思った。
 ところが、ガンゴトリに戻ってマニババの消息をたずねると、10年ほど前に亡くなっていることが判明した。少し残念に思いながら
「彼のアシュラム(道場)は、今どうなっている?」と村人にたずねた。
「アシュラムは息子が継いでいるよ」
「えっ。息子が継いでいる! ということはマニババにも奥さんがいた?」
「もちろん」
「・・・・・」

サドゥーも楽じゃない
 ゴウムクからガンゴトリへくだる途中、下から上がってくるひとりのサドゥーとすれ違った。ふと、ヒマラヤを歩くサドゥーの写真を一枚撮りたいと思い、「写真を撮ってもいいですか」とヒンディー語で声をかけた。
 立ち止まったサドゥーは即座に「100ルピー」と言った。相手に金を渡してまで写真を撮る気はなかったので、あきらめることにして、これからどこまで行くのかをたずねた。
「タパバン」
「あなたの名前は?」
 メモ帳を取り出して質問をする私に、彼は「写真を撮らないのか」とにじり寄ってきた。
「やめとくよ」
 すると彼は、私が肩から下げているカメラに両手で触れて「撮ってくれ」と迫った。
「サドゥーの暮らしがどんなものか、ヒンディー語のわかるあんたなら知っているだろう。金がないんだ。けど生きていくためには食べなければならない。他人の施しを受けて生きていくのがサドゥーなんだ。でも近頃はお茶を一杯飲むのにも金がいるご時世だ。わかるだろ。撮ってくれ。50ルピーでいい」
「やめとくよ」
「40ルピーでいい」
 サドゥーは喰い下がった。ゴウムクにあるチャイ屋は、お茶一杯が5ルピーもする。私はこの男の行く末を案じ、ドネーション(僧や寺院への寄進)と断ったうえで10ルピー渡すことにした。サドゥーはインド人にはめずしく素直に「ありがとう」といって姿勢を正すと、マントラ(真言)を唱え、かんたんなお祓いをしてくれた。そして写真を撮るようにと促した。
 あまり気は進まなかったが、一枚だけ撮ることにした。カメラのファインダーをのぞくと、小さな四角のフレームの中で、彼がけんめいにポーズをとっている。
「サドゥーもたいへんだ」
 私は小さくつぶやいて、シャッターを押した。

<『バーラト通信第5号』 1995.10.5/禁無断転載>

 

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