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「結婚は難しい」   インドのブライダル事情

 はじめてインドの新聞を読むと、日曜版にびっくりする。日本の新聞にはない「求人広告」が何ページもつづくからだ。
 手元にある「タイムス・オブ・インディア」の日曜版を見てみよう。24ページある本誌のうち、なんと9ページまでが結婚相手募集のメッセージでうまっている。「求人広告」とはこのことだ。日本の新聞の3行広告と似ているが、件数はこちらのほうがはるかに多い。ざっと数えて2000件。

 ぼうだいな数のメッセージは、さまざまな項目に分類される。たとえば「ブラーミン(ブラフマン)」とあるのは、ヒンドゥー教社会の頂点にいるブラーミンが同じカーストの相手を求めていることを表しており、「ベンガリ」とあるのは、同郷のベンガル地方出身者を求めていることを表している。
 インドは言語別に州が分かれている。おおざっぱにいって、州ごとに文化や伝統、習慣が異なってくる。インド人という意識はあまりなくて、多くの人々は「ベンガル人」とか「ラジャスタン人」と名のっている。バラナシでは、ベンガル人はベンガル人地区をつくって生活している。そのため結婚のときも、ことばが同じで文化や習慣も同じ同郷の相手を求めることが多くなる。

 結婚相手を選ぶときのもう一つ条件はカーストだ。独立後のインドは、憲法や法律でカーストによる差別を禁止しているが、人々のカースト意識はいまも根強い。
 親が大学教授で海外にも行ったことがあるという裕福な家庭の学生と話したときのことだ。カースト制度について彼の意見を聞くと、
「カーストなんて、もうほとんどないよ。今は金を持っているほうが上なんだ」といって笑ったが、彼の結婚に対する考え方をたずねたら、「親が相手を決めてくれる」。
「相手のカーストは?」
「もちろん、ブラフマンさ」。

 たしかにインドは変わりつつある。昔のようにブラフマンが社会的な地位を独占できる時代ではなくなってきた。それでも人々のあいだにカーストは今も深く根を下ろしている。結婚相手の募集がカースト別に並んでいたりするのは、結婚するときにカーストの存続を第一に考える人がまだかなりいる証拠だ。でもカーストが存続する限り、カーストによる差別も残る。
「カーストの違いなんてもうないよ」というのはたいていブラフマンだ。そして本人たちは、ブラフマンはブラフマンと結婚するのがあたりまえと思っているから、カーストがなくなるのはまだ先のことになるだろう。

「ハンサムで高収入。美人の女性を求む」
 もう一度、新聞の結婚相手募集欄を見てみよう。数行の短いメッセージに目を通して驚くのは、インド人の自己主張の強さだ。たとえば「ブラーミン」のひとりは、自分は「ハンサムで高収入」なので「家柄のたしかな美人の女性」を求めると書いている。つづけて相手に顔写真のほか星占いのホロスコープも送るようにあるのはいかにもインド的だ。人生を宿命論的にとらえるインド人(ヒンドゥー教徒)は、結婚相手を選ぶときに星占いで相性を知ることが重要と考えるらしい。

 ハンサムかどうかは主観的な問題だと思うが、インド人は自分をハンサムと名のることに躊躇しない。だから相手にも平気で、家柄のよいことや美人であることを要求する。ずいぶん差別的な内容じゃないかと思うのだが、インド人は日本人のように相手に遠慮してものを言ったり、人前で自分を正直に申告したりはしない。「ダメもと」で高い要求を相手につきつけ、自分のことになると半分くらい作り話をまじえて強く主張する。大学で人と話していてもそう感じることが少なくない。

結婚するまでデートもできない
 毎週これだけ多くの「結婚相手募集」が新聞に登場するのは、ひとつには若い男女の出会いの場が少ないからだ。
 昨年借りていた家の大家は、大学のロシア語教師だった。笑顔が明るい奥さんと、幼稚園と小学校に通う娘がいた。
 ふたりが結婚したのは10年ほど前で、奥さんもバラナシの人だった。結婚を決めたのは双方の親。当時、彼は大学院生で、奥さんも同じ大学の学生だった。それでもふたりが会うことは結婚式の当日まで許されなかった。同じ街に住み、同じ大学に通っていていも、相手を知るのは一枚の写真だけだった。
「ほんとうは会ってはいけないんだけど。彼のほうから連絡があり、結婚前に一度だけ、大学の研究室で会ったことがある」と、いつかこっそり奥さんが教えてくれた。親にないしょの話だ。

 最近の大学生たちは、もう少し自由な交際を楽しんでいるように見える。でも大学を卒業していざ結婚となると、今でもほとんどが親まかせだ。
 インドの社会は保守的で、男女の交際や結婚についてはタブーも多い。映画にあるような恋愛物語はほんのひと握りの話だ。
 私の知り合いで、ほんのひと握りの恋愛結婚をした人がいる。仮にAと呼ぼう。でもAの結婚には、うんざりするほどの障害とタブーがあった。

ふたりの結婚にまわりは反対
 Aは、インドの首都デリー近郊の出身だ。男兄弟はみな銀行員になっているというから実家は裕福な家庭らしい。知り合ったのは1年前で、昨年暮れに今の家に引っ越してきたときだ。Aは同じ建物の1階の住人だった。
 デリーの支店に勤務していた銀行員のAがバラナシに赴任することになったのは昨年の秋である。でも奥さんとひとり娘はバラナシに来なかった。
「なぜ?」とたずねると、奥さんが仕事を持っているからというAの話だった。

 奥さんは月に一回くらいまとめて休暇を取り、バラナシに来て1週間くらい夫の身のまわりの世話をしていく。奥さんは、単身赴任のAが寂しさをまぎらわすために酒に手を出し、ときどき会社を無断欠勤することを知っていた。それでも奥さんは公務員の保母の仕事を辞めてまで、バラナシに来るわけにはいかなかった。それは、ふたりの結婚がふつうとちがっていたからだ。
 Aは39歳で、奥さんは2歳年上の41歳。インドでは結婚相手の女性は年下があたりまえ。それも若いほど夫や家に従順だからいいという考え方が一般的だ。Aの奥さんのような姉さん女房はめずらしく、親同士がきめる結婚ではまずありえない。
 さらに奥さんは、少数派のジャイナ教徒だった。ジャイナ教は仏教と同じころにおこった宗教で、徹底した不殺生と厳格な菜食主義で知られるが、信者はインド全人口の0.5%ほどしかいない。80%を超えるヒンドゥー教徒とは対照的だ。ジャイナ教は回教ほどヒンドゥー教と対立しているわけではないが、それでも日常生活のこまごました場面になると食生活などの習慣のちがいが出てくる。

 ふたりが結婚するときの障害はまだあった。Aが奥さんと知り合い恋に落ちたとき、彼女はすでにほかの男性と結婚していたのだった。
「最後まで相手の男がたいへんだったよ。いつも狂ったようにどなりこんできた」とAはふり返る。
 また奥さんの肌の色が黒いことも、まわりがふたりの結婚に反対する理由になった。ヒンドゥー教の影響で、肌の白い人間のほうが高貴だという考え方がインド人一般にある。それはヒンドゥーのカースト制度が、職業で人を区別するジャーティと肌の色で区別するヴァルナからなりたっているからだ。
 あるとき、結婚相手が決まったという娘さんに相手の感想をたずねたら、「写真を見て肌の色が白かったのでほっとした」といわれ驚いたことがある。白いといっても写真で見る限り灰色(グレー)なのだが、インド人はそのくらい肌の色を気にしている。

 だから、今でもふたりの結婚を不つり合いと考える一部の人は、Aにこっそり離婚をすすめるらしい。前の夫と離婚して別の男といっしょになった女性を世間は冷たい目でみている。それだけではない。彼女は年上であり、ジャイナ教徒であり、といったハンディを背負っている。
 彼女が仕事を辞めるわけにいかないのは、将来に対する不安がつきまとっているからだ。
「子どもはひとりで十分」という奥さんのことばの向こう側には、ふたりをとりまく厳しい現実がある。

ダウリの悲惨
 親同士が結婚をきめるとき、最後まで頭を悩ますのがダウリだ。
 ダウリとは、結婚のときに嫁の側が用意しなければならない持参金のことで、その額が父親の年収の何倍にもなると聞くとたいへんだ。娘を3人もつとダウリで家がつぶれるといわれるほどで、その問題点はくり返し指摘されているが、改められるようすはない。それどころか、年々豪華になる日本の結婚式と同じでダウリもますます高額になっている。
 悲惨な話も少なくない。わずかなダウリしか用意できなかったばかりに、十代の娘さんがおじいさんほど年のはなれた男性と結婚することになったり、嫁ぎ先でいじめられて殺されてしまったなどという話だ。

 インド人とダウリの話をすると誰もがその弊害を認めるのだが、自分たちのことになるとどれだけ盛大な結婚式をあげたかという自慢話になってしまう。結婚式の費用はたいていダウリでまかなわれているのだが。
 この一年間に会った人のなかで、当事者としてダウリを否定した人がひとりだけいた。ボンベイに住む人で、大学で法律を教えていた。ヒンドゥー教から改宗した仏教徒だった。
 二人目の娘さんが結婚して「肩の荷がおりた」という彼に、ダウリをたずねたら、
「私たち(仏教徒)は、ヒンドゥーとちがってダウリのやりとりはしないんだ」と、ちょっと苛立たしげな、でもきっぱりとダウリを否定することばが返ってきた。

 一部には、恋愛結婚をしたりダウリを否定したりする人もあらわれてきたが、インドではまだ結婚は家を守るためにするものという意識が強い。そういう伝統的な価値観が支配するなかで、時代の変化もはじまっている。それは社会に出て働く女性がふえ、独身でも生き生きとしている人たちがあらわれてきたことだ。バラナシでもそういう女性を何人か見かける。

<『バーラト通信第6号』 1995.11.15/禁無断転載>

 

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