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「ナグプール・ワルダの旅」

 3月上旬、ホーリー祭の休みを利用して、マハラシュートラ州のナグプールとワルダを訪問した。地図を広げると、ナグプールはインドのちょうどまん中にある。みかんの産地として有名なところだ。
 旅のガイドブックには、インドでいちばん暑いところ、という説明が何カ所かある。いちばん暑いところがいくつもあるのはふしぎな気がするが、ナグプールは、その「インドでいちばん暑いところ」のひとつだ。

 2月29日夜、大学で日本語の授業を終えたあと、南インドに向かう長距離列車に乗り込んだ。バラナシを午後10時に発った列車がナグプールに着いたのは翌日の午後7時。その夜は駅近くのホテルに入って休み、翌日、アンベドカル大学と仏教寺院を訪問することにした。
 アンベドカル大学は1964年に創られた仏教徒の大学だ。午前中たずねていくと、職員の人たちが笑顔でていねいに迎えてくれた。
 大学の資料をもらい、この大学の宝ともいえる『インド憲法』のオリジナル本を見せてもらった。本には、故ネルー首相や故アンベドカル法務大臣の自筆署名が並んでいた。
 午後は、仏教寺院を訪問した。住職の佐々井さんは所用で出かけていて留守だったが、お寺にいた信者の人の家に招待されて、お茶とお昼をごちそうになった。

 寺の周りには仏教徒が住んでいる。その数は5万人。ナグプール全体では約20万人になるという。ナグプールのことばはマラティー語だが、ヒンディー語に近いので身ぶりを交えて話をする。
 お寺に着いたとき、「せっかくお寺まで来たのだから、うちに寄ってお茶を飲んでいってください」といわれて信者の方の家に招待されたのだが、話をするうちに「用意しますから、ごはんも食べていってください」とくり返し勧められた。少し迷ったが、好意に甘えていただくことにした。
 気がつくとあっというまに3時間ほどが過ぎている。夕方4時に、アンベドカル大学のパーリ語の先生のお宅を訪問することになっている。お礼をいって、信者の方の家を出た。

 パーリ語の先生も仏教徒だ。家は寺から近いと聞いていた。住所メモを頼りに探していくと、歩いて10分ほどのところにあった。
 入り口の門のところに仏像がある。私たちが扉の前に立つと、家の中からかっぷくのいい先生が両手を広げてあらわれてきた。
 中に入ってお茶をよばれる。年頃の娘さんを指さして、写真を一枚撮ってほしい、といわれる。お安いご用だ。喜んでカメラを向ける。私たちは先生からパーリ語のアドバイスを受け、アンベドカル博士の書籍をそろえている本屋を紹介してもらった。
 本屋はアンベドカル通りにあった。店頭でアンベドカル博士や仏教のバッジを売っていた。めずらしいので、みやげに2個買った。店内には博士の著作が並んでいた。
 バザールで食料品などの買い物をしてホテルに戻ると、もう夜だった。

アシュラムのゲストハウス
 翌日は休養日にして、翌々日の月曜日に汽車でワルダに移動した。
 ワルダはナグプールの西南80キロにある小都市だ。この街の名前が有名になったのは、故マハトマ・ガンディーが郊外にアシュラム(共同体)をつくって、サルボダヤ運動の拠点としたからだ。
 サルボダヤは、非暴力の社会を追求したガンディーの理想郷である。日本では「万人の幸福」と訳されたりするサルボダヤは、ジャイナ教のテキストにも出てくるインドの古いことばだ。アシュラムを生活の拠点としたガンディーは、額に汗して働く農民の暮らしのなかにこそ平和な社会があると信じた。

 ガンディーのアシュラム、セワグラム(奉仕の村)はワルダの街から数キロ離れたところにある。ワルダの街とセワグラムのあいだには私立高校や大学などの建物がいくつも並んでいた。ガンディーのイメージと結びつくワルダという地名は、どうやらインドの教育産業界にとって、ひとつのブランドとなっているようだ。
 セワグラムでは、1930年代に建てられたゲストハウスに泊めていただいた。日本の古い農家と似た土壁造りの平屋家屋だ。まわりには、ガンディーたちが住んでいたという住居が点在している。どの家屋も、木の柱と土壁、かわら屋根が特徴だ。昔の日本の農村に、突然迷い込んだようなふしぎな気分になる。
 ゲストハウスのベッドで休んでいたら、明かりとりの窓からのぞき込む人がいた。誰かと思って顔を近づけたら、セワグラムを見学に来たインド人観光客だった。
「そうか。私は今、歴史的な建造物のなかで寝ころがっているんだ」
 相手も驚いたようだったが、こちらも驚いた。まるで博物館のジオラマ人形になった気分だ。

何げない食事風景だが
 アシュラムの一日は、午前4時45分の祈りの時間ではじまる。平和の祈りはもう一回、午後6時にある。祈りは屋外で行われる。
 食事は一日三回。食事が午前7時半、昼食が11時半で、夕食は午後5時だ。夕食が早いのは、日没後は食事をしない決まりになっているからだ。
 食事は食堂に集まって食べる。食堂も土壁造りの家だ。石畳の床に座ると、アシュラムの係りの人がまわってきて給仕をしてくれる。メニューはいつもたいてい同じだ。ジャガイモなどの野菜の煮付けとダル(豆)スープ、それにごはんとチャパティ(小麦粉を練ってうすくのばしたパン)。ミルクや黒砂糖がつくこともある。食べたあとは屋外にある流しで、自分の使った食器を洗って戻す。
 カーストで人々が分断されていたインドでは、さまざまな階層の人がいっしょに食事をすることはなかった。食器を共有することもなかった。今では何げなく見えるアシュラムの食事風景も、ガンディーの時代には画期的なことだった。
 セワグラムに泊まった二日間はホーリー祭でバスもリキシャも止まってしまい、どこにも出かけることができなかった。三日目の朝、セワグラムの農家を訪問して、農場の話を聞かせてもらった。

「ここは平和だよ。でも・・・」
 私たちが会ったボルレさんは40代の半ば、奥さんと子どものふたりの4人家族である。
 セワグラム農場に入ったのが1970年。出身はワルダの西約200キロのマルクプール村。高等教育を受けたあと、1年間の農業研修をへてこの農場にやってきた。いっしょに入植した仲間は5人いたが、ふたりがすぐにやめて、残るふたりも1、2年のうちにここを去っていった。残ったのはボルレさんだけだった。
 奥さんと結婚したのが1972年。今ではボルレさんも、年ごろの娘さんと8年生(日本でいえば中学2年生)の息子をかかえる一家の大黒柱だ。
 セワグラム農場の組織は大きくふたつのグループに分かれる。酪農班と農業班だ。ボルレさんは農業班に所属している。農業グループの作業時間は午前8時から昼休みをはさんで午後5時半まで。農場は8つのブロックに分かれていて、100エーカーの農地を、1グループ20〜25人で耕している。収穫は年2回。秋の収穫期には米や綿、大豆、とうもろこしなどを、春には麦や豆を収穫する。
 セワグラムの本屋に、不耕起自然農法で知られる福岡正信さんの著書『A one straw revolution(わら一本の革命)』が並んでいた。私も以前、読んだことがある。ボルレさんから、福岡さんの不耕起農法についてたずねられたが、農業の経験もないので答えることはできなかった。セワグラムでは年1回、トラクターで土を起こしているという話だ。
 時計を見るとすでに8時をまわっている。あわてて立ち上がり、奥さんに挨拶をして、玄関でボルレさん一家の記念写真を撮った。これから仕事に出かけるボルレさんと、畑のなかの小道を並んで歩きはじめた。

 あとひとつだけ、どうしても聞きたいことがあった。それは26年前に入植した5人の仲間のなかでただひとり農場に残ったボルレさんが、今の暮らしをどう思っているかということだ。私の質問にボルレさんは立ち止まり、少し黙り込んだあと口をひらいた。
「満足しているよ」
「ここはシャンティ(平和)ですね」
「そう、ここはシャンティだ。でも・・・」
 でも、とことばをつなぐと、あとはボルレさんの内側からことばが一気にあふれ出してきた。
「でも、ここの暮らしもむずかしくなってきているんだ。以前は田舎だったからよかった。しかしこのごろはワルダの街が大きくなって、街が農場に近くなりすぎたんだ。生活は農場にいる分には問題ないよ。でも何かを買おうと思って街に出かけると、前は1ルピーだったものが3ルピーくらいになっている。農場のなかだけで暮らすのなら、たとえば600ルピーの給料でもやっていける。ところが農場の外に出たら1200ルピー、街では2000ルピーの給料がもらえるとなると、誰でも外の暮らしのほうがよく見えてくるものなんだ。ワルダが大きくなって街が農場に近くなりすぎた。それがいちばんの問題なんだ」

 別れ際、ボルレさんはセワグラムが直面する今日の問題を一気に話してくれた。
「万人の幸福」をめざしてサルボダヤの運動を始めたガンディーは、すべての人が平和に暮らすためには人々の欲望がコントロールされなくてはならないと考えた。ガンディーは人間の欲望をコントロールする鍵を、大地と共に生きる農民の「足る」を知る生活のなかに求めた。セワグラムはガンディーの理想を追求する実験農場だった。
 そのセワグラムでも、人々はおしよせる消費経済の波の前に青息吐息だ。インドの農村は今、たいへんなときに直面している。

<『バーラト通信第8号』 1996.4.15/禁無断転載>

 

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