『箭根森八幡宮縁起』


 延宝二年(1674年)、鈴ヶ森八幡宮(現東京都大田区磐井神社)神主森田良辰によって

書かれたとされる縁起は紛失し、宝永二年(1705年)四月、当社神主自性院賢教法印が、

鈴ヶ森八幡宮をたずね書き直してもらったものが現存しています。

「奥州箭根森之記」と題されたこの書は、 
「祝請古伝並再興之縁起」  と 「再興後記」 に別れ、

最後に書き直した理由が付け加えられています。


奥州箭根森之記(略)

「奥州田名部領佐井郷箭根森八幡大神祝請古伝並再興之縁起」

 下北半島の尻屋は日本の鬼門にあたり、昔から悪鬼がいて付近の住民に害をあたえていました。

住民はたまりかねて、康平五年(1062年)奥州平定にきた源頼義に、尻屋にいる悪鬼を退治して

くれるよう依頼しました。安倍貞任・宗任の反乱を鎮めた後に、頼義は尻屋の近くまで兵を進め、

浜で身を清め御幣を奉って源氏の氏神である八幡神に武運とご加護を祈りました。

 十七日目のお祈りの最中、あたり一面にわかに暗くなり、猛烈な風が吹き、逆波が翻る中、

悪鬼が現れました。すさまじい形相の悪鬼に、頼義の兵は為す術もなく次々と踏みつぶされて

いきました。その時、白鳩が一羽飛び立ったかと思うと、そこに白衣の神が現れました。

 神は神弓に神矢をつがい悪鬼に向かって放つと、矢は額の真中を射通し悪鬼を退治しました。

頼義は神功を忝み、神が矢を放った地に兜を埋め神のご加護に感謝しました。そして、神が

悪鬼を退治したとき用いた箭根石(矢じり)が数多く出土する霊地があると聞き、そこに

社殿を建造し、守護神として永久に国家をお守りくださることを願い八幡神を祀りました。

 祭事は怠る事なく行われ、神威は厳かにして遠近の多くの人から崇敬されていたと古伝にあります。



「箭根森神社再興後記」

 藩主南部重信公祈祷のため南部藩を訪れ佐井の里に立ち寄り、神が鎮座する無双の勝地と聞く

箭根森八幡宮を参拝しました。しかし、世の中の乱れにより、神主は後を絶え神社も寂れていました。

その様を嘆き、里人に八幡神の御神徳を説き、再建を進めました。延宝二年(1674年)七月、

鈴ヶ森八幡宮を当社中興の祖とし、清らかに社殿を再建し祝詞を奏上しました。

 延宝二年七月吉日。八幡宮本記再興縁起一軸、神事執行書簿一冊、森田良辰敬書し奉納し

ました。

 今の箭根森八幡宮神主自性院賢教法印が、遠路はるばる鈴ヶ森八幡宮を訪ね、「縁起を受けた

神主は親子共亡くなり、縁起をはじめその他の書も紛失してしまった」ということで、再び縁起を

敬書して奉納します。



 宝永二年四月吉日               本宮武州鈴森神主森田氏藤原姓信辰謹書



  
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