お経ってなに?
1 なぜ人はお経が苦手なのか? ‥‥‥‥ボサツマンも最初はそうでした。
日常で多くの人は、お経の話になると 急に顔が暗くなり 横目で睨にら み嫌悪感を表わします。
昨今は お経に無関心な人が多いです。 また 縁起悪い話と決めつけている人も多いです。
ほとんどの人は お経や仏教の教えは かなり難解なんかい なものと感じているようです。
ま 確かに 非常に深遠しんえん な教えではあります。
「結集」 けつじゅう とは?
釈尊の滅後 釈尊(仏)の教えを集大成して 後世に残していこう という動きが出てきました。
ある時 インド各地の弟子・在家の人々が一同に集まり 経典の編集作業が行われました。
釈尊の滅後 教団の統率者を務めていた頭陀ずだ 第一の摩訶迦葉まかかしょう が、議長役となりました。
記憶力bPの阿難あなん が記憶していた教えを 皆で議論して 経典にまとめていきました。
弟子たちは情熱を失わず 地道な作業を長い時間をかけて 膨大な経典が完成しました。
これを 結集けつじゅう といいます。
結集された仏教経典は その後 中国に渡り漢文に訳されて 各地に広まっていきました。
その後 経典は 漢文のまま日本に伝わり 天皇・聖徳太子の擁護を受け 急速に普及していきました。
お経が敬遠される大きな理由は 不慣れな漢文の言葉(外国語)だからなのでしょう。
妙法蓮華経は 釈尊の約50年間の説法のなかでも ー最も心髄の教えー といわれていて
数多くの仏教経典のなかでも ー最もすぐれた教えー として、世間から評価されている。
でも 一般人には 法華経の教えは深遠しんえん 過ぎて 簡単には理解できないのが現実です。
又 現代には通用しない大昔の教え故に、自分たちには必要ない、と思っている人も多いのです。
又 夢物語を好む人や風変りな人が好む教え と思われていて 自分には関係ないと考える人もいます。
確かに 哲学的な表現・幻の世界・空想の世界の話と思う場面や お伽話的感覚の話などが多いのです。
スンナリと飲み込めないのは このような理由からなのでしょう。
とくに 「如来神力品」や「陀羅尼品第26」などは その傾向が強いです。
2 法華経は 難解なのか?
釈尊が 行脚あんぎゃ しながら説法した当時のインドは まだ 文字が完成されていませんでした。
耳で聞いたことを 頭で覚えて 口で伝えていました。 弟子たちは皆 伝口でんく で聞き学んだのです。
そんな 文字も無い・学問も無い時代に もし 釈尊が難しいことを説いても 誰も理解できません。
誰にも理解できない教えならば 人から人へ伝わらず とっくの昔に 消え去っていたはずです。
仏の教えが ”ありがたい教え” として今や 世界中の多くの人に深く信じられているという事実は
釈尊が説いた教えは 当時の人々でも 簡単に理解できる教えだったのです。
釈尊がー神がかりーになって見せ 大衆を撹乱かくらん させ 押しつけた教えではありません。
又 自分勝手な思いつきや 妖術を使って教えを説いたのでも ありません。
釈尊は 厳しい修行の末に悟った 真理の法則を説いたのです。
釈尊の説いた教えは インドの人々にとってーわかりやすくありがたい教えーでありました。
釈尊の教えを聞いた当時のインドの人々の人生が 素晴らしく好転したのです。
だから 人々は釈尊を讃歎さんたん し 心から帰依きえ し 教えを信じ実行したのでした。
ーわかりやすくありがたい教えーでー自分の利益りやく になったーから、どんどん広まっていったのです。
釈尊の説く教えは 万人にとって
ー理解できる最高の教え より良く生きる現実の教え 生きる喜びが体感できて心が安まる教えーなのです。
3 釈尊は何を説いたのか?
釈尊は 長い厳しい修行の末に ー宇宙の普遍の真理ー を悟りました。
人間の本質とは? 人間はどう生きるべきか? 人間の世界はどうあるべきか?
普遍の真理とは いつでも・どこでも・だれにでも・時代を問わず当てはまる ー理ことわり ーのことです。
釈尊は 真理を悟り如来にょらい となった後 入滅までの約50年もの長い間、
足の土ふまずが板になってまで インド全域を歩き廻り 多くの人々にー宇宙の普遍の真理ーを説きました。
この釈尊の説法を弟子たちが後に 結集けつじゅう したものが お経なのです。
つまり 我々が毎朝唱えたり 仏事で唱えられているお経とは 真理の経典なのです。
50年もの長い間 膨大な経典・教え・を説法された釈尊は 人間ワザとは思えません。
釈尊は 宇宙に遍満へんまん する 久遠実成くおんじつじょう の仏なのですね ‥‥‥ボサツマン
お経とは 宇宙に遍在する仏が 人間・釈尊の肉体を用いて説いた 宇宙の真理なのです。
釈尊の50年の説法は 教えを聞く衆生の理解力に応じて また 衆生の個々の違いなども考慮して
その時・その人・その地に適した 色々な譬えを用いて説いたので 膨大な経典となりました。
釈尊の「方便」を用いた説法も それはすべて ー宇宙の普遍の真理ーを説いたものです。
では 釈尊が生涯をかけて説いたー宇宙の普遍の真理ーとは何か……
ズバリ 釈尊が喝破かっぱ しています 人間は仏ほとけ であると。
お経とは 宇宙に遍満する久遠実成の仏が 釈尊の身体と言葉で説いた 普遍の真理をいいます。
「三宝印とは」:「本仏/迹仏」
4 釈尊の遺言と、それ以降
釈尊の遺言ゆいごん は ーすべての現象は移り変わるゆえ これからも怠らず努めよーでした。
釈尊が作った教団を 誰に任せるなどのことは 何も残していません。
故に弟子たちは 釈尊の滅後 それぞれに自分の考えのままに 布教活動をしていました。
釈尊がご在世ざいせ の間は 比丘びく 比丘尼びくに たちも 優婆塞うばそく 優婆夷うばい も 皆一緒に
釈尊の説法を聞いて修行していました。
比丘びく 出家の男。 比丘尼びくに 出家の女。 優婆塞うばそく 在家の男。 優婆夷うばい 在家の女。
彼らは 仲間として法を学び法を広めていたが やがて 出家と在家に大きな溝が出来てきました。
年月が過ぎ 広いインドの各地区には 各々のグループが形成され 各々の考えで活動していました。
しかし 教義の統制がされてないため 年月がたつにつれ 教えは形骸化けいがいか していきました。
釈尊が説いた本当の精神が徐々に失われ 教えにも布教活動にも すこしずつ違いがでてきました。
結果 出家人は 教えを説いて人々を救うことよりも 自分たちの権威と生活を優先させるようになり
あえて 経典を難解に解釈したり 在家には真似できない荒修行などに 精を出すようになっていきました。
つまり 教え重視の集団と 形式重視の流派と 大きく分かれていったのです。
一部の出家者の間では ーなぜ戒律を守るべきなのかー という理由など お構いなしに
ただ 戒律を守ることだけが重要なんだと 主張する教団も増えてきました。
或あるいは 哲学的に難しく教えを説き 自分たちの権威を高める出家者たちも 多く輩出はいしゅつ してきました。
すると 真理の教えであるお経は 大衆や在家者からどんどん遠いものになっていったのです。
さらには、
ー釈尊みたいに仏の境地に達したいけれど 我々凡夫にはとうていできるわけがないーという考えや
ー自分の修行で精いっぱいなので 他の人々を導くことはできないーという考えなど
また ー自分だけがこの世の苦しみ・悩み・から開放されて解脱するだけでいいのだー などの
片寄った狭い考えが強い小乗しょうじょう の集団も形成されていきました。
大乗仏教 小乗仏教
やがて 在家の信者たちが ーこのままではダメダ、釈尊が説いた本当の教えの心を戻さなければならないーと考え
仏法(仏の真理の教え)を正しく伝えていくために、ひとつの教団を成立させました。
これが大乗だいじょう 仏教の始まりです。
大乗だいじょう とは 悟りの世界(仏の世界)に至る 良い乗り物という意味。
ボサツマン
「なぬ!つまり 釈尊の教えを広めたのは 在家(一般大衆)の人々ということなのか?
確かに世尊は ー仏の教おしえとは 在家のための教えなりーと 法華経の説法で説いていました。
オイラは 法華経の説法会せっぽうえ に 時空を飛びこえて参加していたんだ。 えへん(威張ることないだろう)
釈尊は 出家・在家を問わず すべての人間に 平等に法を説いておりました」。
その後 自分たちこそが 釈尊の教えを伝える仏教教団である と互いに主張し合い
小乗仏教教団と大乗仏教教団の対立は ますます深まっていきました。
小乗仏教の名は 大乗仏教側が付けたもので この名は差別的呼称だと 強く意見がありました。
そこで 1950年に行われた世界仏教会議では
小乗仏教は 上座仏教じょうざぶっきょう 、大乗仏教は 大衆部だいしゅぶ という名が 正式に決まりました。
1950年頃の日本といえば まだ昭和の時代で 太平洋戦争が終了したばかりの頃です。
上座仏教(小乗仏教)は タイやビルマに広まり 大衆部(大乗仏教)は 中国を経由し日本に入ってきました。
ですから 日本の仏教の基盤は 大乗仏教(在家仏教)なのです。
ただ1乗いちじょう のみ
釈尊入滅・700年後の頃には 大乗とか小乗とかに分けること自体 間違いである。
ー釈尊の教えに大乗も小乗もない、教えはただ1乗いちじょう の真実の教えのみーという信念の弟子たちが
大勢集まって 1乗教え(真理の教え)の集大成として 書き残したものが、妙法蓮崋経です。
それ以来 法華経こそが 釈尊の教えの神随しんずい であると 定説になっています。 次のページへ