随喜功徳品 (3)
  世尊 弥勒菩薩みろくぼさつ に問う                              「弥勒菩薩とは」:「阿羅漢
 「弥勒よ、今の話を聞いて、この大施主
だいせしゅ の得る功徳は、多いだろうか、少ないだろうか?」
  
弥勒菩薩
 「
世尊 この大施主の功徳は まことに無量無辺むりょうむへん なものです。
  ただ端に
 物質を布施ふせ しただけでもその功徳は大きいものでございます。
  しかも
 この大施主は あらゆる生き物を阿羅漢道あらかんどう まで導いてやり
   一切の迷いをとり除いてやったのでございますから
 なおさらその功徳は計りしれないほどです」。
 世尊
 「うむ弥勒菩薩よ
 では ここで ハッキリ言っておきましょう。
  この大施主は、宇宙間のあらゆる生命に対してあらゆる物質上の施しをしたうえにさらに
  それらのあらゆる
 煩悩
ぼんのう までも取り除いて 精神的な施しまでも行いました。 
  この大施主
稀に見る素晴らしく立派な人です。                六煩悩」:初随喜しょずいき
  しかし
この大施主が得る功徳はそんなに大きいものでは ありません。   ええ〜まさか……ボサツマン
  やはり
 大菩薩衆大衆ボサツマンはビックリしましたね。
  先に話しましたが法華経のたった一行の偈を 第50番目に聞いた人に湧き起きた感動すなわち
  その人の魂が喜び湧き起きた 
初随喜
しょずいき の功徳に比べればはるかに及ばないものです。
  いや もとから数で比較することさえとうてい不可能なほどに
功徳に違いがあるのです。
   その百分の壱千分の壱あるいは百千万億分の壱にも及ばないでしょう
  これを理解するには 財施
ざいせ 法施ほうせ との根本的な価値の違いを学ぶことです。
  財施ざいせ とは
 物質的な布施
ふせ もちろん善行ぜんこう なのですがその功徳は相対的で有限なのです。
 例えば
お金に困っている人々にお金をさしあげたとします。
 その人にとっては
 生活に役立つありがたいお金です。更生
さいせい のキッカケと成るお金はでしょう。
 しかし
なかには 感謝の心から離れて 自分の五欲にのみ執着
しゅうちゃく する人もいるでしょう。
 お金をめぐんでもらい楽することだけ考え
 怠けクセがついて抜けられなくなる人も出てくるでしょう。
 それくらいは
 まだいい方なのですが中にはごく少数の人たちですが
 お金をくれる人を
 探すことに集中する人間に成り下がってしまう人たちも 実際におります。
 こうなると
 挙句の果てに悪行
あくぎょう を重ねていき悪の道を突っ走ることに なりかねません。
 こういうことではお金を差しあげるという善行の布施行為は逆効果の結果を招いてしまいます。
  これでは 善行であるべき布施そのものが
人の人生の役に立たないどころか、
  その人を
 悪行の道に進ませてしまう行為になってしまいます。 
  この場合は
 生きたお金の使い方ではありません。 お金も悲しんでいるのです。    ユダヤの金銭観
 
しかし金銭や物質を布施すると同時にそのお金で生活を立て直す有効な道も指導してあげたならば
 布施した金銭や物質は
 その人を良く生かす手段となります。 成長の糧をさし出したということです。
 
 法施
ほうせ とは
 金銭や物質の布施と共にその人の人生がこれから良く成るように
有効的な手段を指導することです。
 このように
財施
ざいせ 法施ほうせ  同時に行う布施は有意義で有効的な結果を生みだすのです。
 だが
この財施法施の功徳はあくまでも相対的で有限なものであります。 一生で終わる功徳なのです。
                         
じゃ!どうすれば 良いのですか 早く教えてください……ボサツマン

  ボサツマンよ 焦らなくてよい。 今これから説きます。          はは スイマセン……ボサツマン
  では
 ー真の布施
永遠の布施とはなにかー それは 仏の法施
ほとけのほうせ なのです。
                     
ええ! 大施主とは 世尊のことでなかったのですか…… ボサツマン
  ボサツマンよ 君は早とちりが多過ぎます。       
……ボサツマン 無言のまま 肩うなだれ ゴモットモ……
  仏の与える
法施
ほうせ その人の一生のみならず後世までもつづく布施なのです。
  後世までも残りつづける仏の法施の功徳これ以上の功徳はありません。

  この大施主は
宇宙間の天地一切の生き物にあらゆる財施
ざいせ を長い間つづけました。
  さらに
仏の法施として仏法を説き教え 皆を 阿羅漢果
あらかんが の境地まで導きました。  阿羅漢とは
  この大施主を誰でも立派な人と言い認めています。 その通りです間違いはありません。 
  
しかし
 私は  もう1度言います。
  80年もの間
財施と法施を施した大施主だいせしゅ の与わる功徳でさえも、
  法華経の一偈が
人から人へと伝わっていって50人目の人が聞いてああ〜ありがたいと感じた
  その初随喜の功徳には
及ばないのです。
  皆さんは
まだ納得できていないようですから 次のページでも説明をいたしましょう」。
   
(4)へつづく