ボサツマン
「今説いた教えは 菩薩衆には良く理解できたでしょうが オイラは まだ ストンと理解できてません」。
「ボサツマン君 どこが解らないのですか?」と世尊が聞いた
「はあ〜 実は どこが解らないのか わからないのです ハイ」 ……ボサツマン………ちいさな声で……
世尊 「如来」:「
「ふむ!君は解らないところが わからない ………… それは 困りましたね。
解らない衆生は どこが解っていてどこが解らないかが 解らないから解らないのです。 ……確かに……
しかし ボサツマンよ 恥ずかしく思うことは ありません。
なぜなら 仏の説く大乗の深い教えを理解するまで聞くことは 自分のためだけでなく、
諸々の衆生のためという大慈悲心の現われなのですから。 その心を 今後も大切にしなさい。
テへへ 照れる〜(^^)……ボサツマン・ごまかし笑い
では ボサツマン君の要望に応えてー四つの教えーを もう一度説きましょう。
私(世尊)は如来にょらい と成った後 苦・空・無常・無我の四つを 説いてきました。
1 苦 く ー 人生は 苦の世界である。 2 空 くう ー すべてものの差別を超えた奥にある平等の世界。
3 無常 むじょう ー この世のすべてのものは移り変わり 常のものはひとつも存在しない。
4 無我 むが ー この世のものは 互いに様々に関わりあっていて 自分だけで存在するものはひとつも無い。
と同時に 真理とは1切のものの本当の姿であると 説いてきました。
真理の教えを聞いた多くの衆生は 菩提心ぼだいしんー仏の道をめざす心ーを具え 菩薩の境地を得ました。
私(世尊)は 悟りを求める衆生に対し まづ 簡単に理解できる浅い教えを最初に説きました。
それから 徐々に深い教えを説いていき 悟りの境地へ導いてきたのでした。
つまり 私は衆生に対し 40数年間 段階を経て教えを説いてきたのです。
ボサツマンよ 仏が段階を経て教えを説く理由はなぜなのか? ここでしょう モヤッとしているのは。
世尊 ピンポーンです‥‥‥‥ボサツマン
では 説明しましょう。 ボサツマン君聞いているかな? ハイ・世尊・聞いてます ‥‥‥‥ボサツマン
ここに集まる すべての善男子ぜんなんし (仏に帰依した男子)たちよ。
私は 菩提樹のもとで仏の悟りを得ました。悟りを得た仏ほとけ の眼まなこ 、この世の1切のものを見ると
すべてのものごとは 口では言い表せないほど さまざまな姿形すがた かたち をしています。
また 衆生はそれぞれ皆 多種多様に違う性癖せいへき や欲望よくぼう があります。
故に 私は 衆生毎ごと に差がある修行の段階を吟味・考慮して 衆生をよく見極めてから
様々な方便ほうべん の教えを説いて 衆生を教化きょうか してきました。 そして 40数年が経ちました。
しかし 私はまだ 奥の奥のー真実ーまでは 言い尽くしてはいないのです。
なぜ 奥の奥のー真実ーを 言い尽くしてはいないのか その理由とは‥‥
水泳に例えると …… 初心者は 危険な深い海でイキナリ練習しては危険だ という理由と同じです。
最初は 浅瀬から少しづつ 段階的に慣れていき やがて 深瀬でも泳げるようになる練習をするでしょう。
世尊 オイラは泳げないのです…… ボサツマン
ボサツマン君 これは 君の水泳の上達法の話しではありません。 スイマセン ……ボサツマン
だが 練習生が全員が 同じレベルからスタートしたとしても
皆 個人的な資質や感覚がそれぞれ違うので 練習の成果に当然 違いが生じてきます。
さらに 個人の能力の差によっても 最初に練習する浅さ・深さが 当然 違うのも当たり前のことです。
又 水泳を習う人間の向上心も違うでしょうし その個人の練習の努力にも 当然 違いがあるのです。
よって 当然に 上達(成長)の速度にも差が出てくるのです。
ボサツマンよ いいですか 仏の道の修行も これと同じなのです。
衆生は皆それぞれ 微妙に違うので 仏の同じ説法を聞いても 理解する速度・深さに違いが出るのです。
だから それぞれの衆生のレベルの段階に合わせて 教えを説く必要があるのです。
ボサツマンよ 仏が段階を経て教えを説くには こういう理由があったのです」。
ボサツマン
「世尊 今 もやもやが消え 気持ちがスッキリしました。 そうですよね 普通にあたりまえのことですね。
初級コースをマスターしてから 中級コースに進みますもね。 ひらかなを覚えてから漢字を学びますよね。
世尊の説法に 未来の世界からオイラが参加して良いのか かなり 迷ったけど 教えを聞いて良かったです。
そして 質問して疑問も晴れたし ああ〜良かった ありがとうございました」 ‥‥‥‥ボサツマン 鼻を穴をひろげ納得‥‥‥‥
世尊
「そうですか ボサツマン君。 それは良かった。 さて つづけましょう。
法とは 心の迷いを洗い清める”水”の役割を為な します。 だが 水にも たくさんの種類があります。
海の水 川の水 池の水 湧水 井戸の水 それぞれが違うのです。 説法も同じなのです。
同じ説法でも 最初の説法とあとの説法では 云いまわしが違ってきます。
うんうん やっと 少し 解かってきた 楽しくなってきた ‥‥‥ ボサツマン
私は 鹿野園ろくやおん の「初転法輪」 しょてんぼうりん では 昔の修行仲間に対して 「初転法輪の言葉」
この世の1切のものは 表面的には違うと見えるが 奥の奥には永遠に不変のものがあると 説きました。
次に 「四諦の法門」 したいのほうもん つまり 苦諦くたい ・集諦じったい ・滅諦めったい ・道諦どうたい も説きました。
比丘びく や菩薩ぼさつ たちにも 同じような表現で 同じ意味のことを説いてきました。
「12因縁の法」 いんねんのほう や 「六波羅密」 ろくはらみつ の教えも 説いてきました。
そして今 この大乗無量義だいじょうむりょうぎ の説法でも 同じ意味のことを説きました。
これらの説法を聞いてきた衆生の耳には 私の言葉は皆 同じく聞こえていることでしょう。
そして 同じように解釈しようとするでしょう だから皆 理解に苦しむのです。
言葉の持つ意味や・含みや・深さなどが それぞれ違うということを 知らねばなりません。
意味の含みが違うから 衆生が理解する中身の程度にも 違いがでてきます。
この理解の違いが 悟りを得る速度や悟りの程度の違いなのです。 至極 当然なのです。
しかし 私は ただひとつの真理を 最初から今まで 説いてきたのです。
そして 私だけでなく 1切の諸仏(すべての仏)も 同じ真理を説いているのです。
このように聞くと 今 衆生の皆さんの頭が さらにコンガラガッテいることでしょう。
そこで 続きは 少し休憩を挿んでからにしましょう」。 ここで少しの間休憩です‥‥‥うれぴいな〜 つづく