授学無学人記品第9 じゅがくむがくにんきぼん
ー現代の意味とは違うー
学人がくにん とは 仏の教えを学ぶ人で、無学人むがくにん は、学びを卒業した人です。
この品では、阿難あなん と羅睺羅らごら の二人と・多くの弟子が、授記(成仏の保証)を授かりました。
世尊(釈尊)と阿難あなん は、従兄いとこ 同士の関係です。
思慮深く優しい性格の阿難でしたが、その兄には 暴虐ぼうぎゃく な性格の提婆達多だいばだった がおりました。
阿難は少年の時、世尊の弟子になって以来ず~と、世尊の入滅まで、お側で日常のお世話をしていました。
阿難が、常随の侍者・阿難じょうずいのじしゃ・あなん と呼ばれるのは、こういう理由なのです。
阿難の記億力は抜群で、釈尊の教えをすべて覚えていましたので
世尊の滅後に行われた「結集」けつじゅう では、阿難が記億して教えを基に、経典がまとめ上げられました。
「仏の十大弟子」:「提婆達多品」
羅睺羅 らごら は釈尊の実子じっし で、釈尊が出家する前、王子だった時の子です。
実子の羅睺羅が成長する様を見ていて、彼の素質のすぐれているのを身染めた釈尊は、
羅睺羅が15歳になった時に、王宮から呼び寄せて、弟子にしたのです。
実子のゆえに、甘え心を出さないように、弟子の舎利弗しゃりほつ が、羅睺羅の教育係りを担当していました。
多くの阿羅漢あらかん たちが 成仏の保証・(授記)・されたのを見ていて、
まだ授記されていないー阿難と羅睺羅ーは、ものすごく寂しい・悲しい気持ちに沈んでいました。
自分たちも授記されたならば どんなに嬉しいことだろうと、二人は思い悩んでおりました。
ある日、二人は同時に座から立ち上がり 世尊のみ足に額ひたい を、すりつけて礼拝して
「世尊、私たちにも 成仏の保証をお与えください。そうなれば、私たちは大変にうれしく思います。
私たち/阿難・羅睺羅の二人は、ひたすらに、仏さまに帰依 きえ してまいりました。
また、天上界・人間界・阿修羅界では、私たちのことを 仏さまの弟子として認めてくれております。
私(阿難)はいつも 世尊のお側にお仕えして 仏の教えをお護りしてきました。
とくに、同輩の羅睺羅 らごら は、世尊の実子でもあります。
私たち二人にも、授記を頂けたらば、私どもの願いが 達せられるばかりでなく、
ほかの多くの弟子や大衆の人々も 明るい希望が湧いて 喜ぶことでしょう」と、申しあげました。
その時に、阿難や羅睺羅のほか、法座の二千人の学・無学の弟子たちが、一斉に座から立ち上がり
自分への授記を願ってー右の肩を肌脱ぎして真心の意を表わしてー世尊に向かい一心に合掌しました。
世尊、阿難に授記する、
「阿難よ、あなたにも、授記を与えましょう。
あなたは、これから62億の諸仏を供養して、長い年月を修行し、やがて 仏の悟りを得て仏に成るでしょう。
そののち、多くの菩薩たちに同じ悟りを得させて、仏の教えを後世に伝える役目をするでしょう。
仏の称号は山海慧自在通王如来さんかいえじざいつうおうにょらい。 国の名は常立勝旛じょうりゅうしょうばん と名づけます。
仏の寿命は、無量千万億阿僧祇劫 むりょうせんまんのくあそうぎこう という 無限に近い長さでありましょう。
十方の諸仏も、その功徳を褒め称える、この仏の教えは仏の寿命の倍の長さを保つことでしょう」。
うひゃ~阿難も授記されて良かった、本当にうれしい‥‥‥‥ボサツマン
阿難の仏国土名/常立勝旛とは、勝利の旗印はたじるし を常に立てる、という意味ですので、
山海慧自在通王如来 さんかいえじざいつうおうにょらい の教えは、常に優れているという意味です。
仏教以前のインドでは、婆羅門バラモン 教が隆盛でした。
その婆羅門教には、数多くの教派があって、互いに宗論しゅうろん を闘わしておりました。
その問答 もんどう に勝利した僧は その門口に、自分の勝旛を立てるという慣習だったのです。
この時 法座でこの授記の様子を見ていた、新発意 しんほつち (志しを立てたばかり)の八千人の菩薩たちは
阿難はまだ、「声聞」しょうもん の境地にしか至っていないのに、
山海慧自在通王如来という、いままで授記された大菩薩よりも大きな仏の称号を授かったのには
何か特別な理由があるのだろうか?と、心の中で疑問を生じていました。
その心を察知した世尊は、座の大衆に向かって
「皆さんの疑問を解くために、私と阿難の過去世 かこせ について、話しましょう。
前世において、私と阿難は、空王仏 くうおうぶつ という仏ほとけ の許で、仏の教えを聞き学んでいました。
得私たちは、仏の悟りを具えるようになりたいと願い、発心して共に修行していた仲間なのでした。
しかし、その修行の仕方が 私と阿難では 少し違っておりました。
阿難の目標は、多聞たもん つまり、できるだけ多くの教えを聞きたいでした。
私の目標は、勤精進 ごんしょうじん つまり、教えをできるだけ実行したいでした。
この目標が違うゆえに、一足先に私が 仏の境地に達することができたのでした。
私と阿難は 過去世にて こういう関係であったのです。 ですから、
この娑婆世界で、阿難が私の弟子となり、仏の教えを護持しているのは、宿世の縁 すくせのえん なのです。
その彼は 将来にも諸仏の教えを護り 多くの菩薩たちを教化し、彼らの修行を完成させるでしょう。
阿難は、表面は多聞を願っているように見えるので、皆は、声聞しょうもん の阿難と、思っているでしょうが
阿難の前世からの本願ほんがん とは、今のこの娑婆世界の現世にて、仏の悟りを得ることにありました。
このような理由があったので、私は今、阿難の授記にあたり、大きな称号をつけたのです。
なるほど そういう理由があったのですね ……… ボサツマン
衆生は皆、菩薩行・つまり・利他行 りたぎょう の実践を経て、仏の悟りを得ていくのです。
私(世尊)は、前の化城諭品で、大通智勝如来だいつうちしょうにょらい の話と、宿世の因縁について 説きましたが、
もう一度、宿世の因縁 すくせのいんねん について説明いたしましょう。 「宿世の因縁」・化城諭品・
因とは、種 たね のことです。
その種は、無始の過去である遠いはるか昔に、大通智勝如来が下種 げしゅ されました。
そして、長い年月を経たのち、冬を耐えた草木の花が開花するように、現世に顕われてきたのです。
こういうことを、宿世の因縁 すくせのいんねん と言うのです。
大衆の皆さん、このように、私と阿難とは、前世からの深い宿世の因縁があるです」。
つづく 本願・総願・別願