曼珠沙華(彼岸花)。

 あれほど鮮やかに、深紅な色を誇った花達も
 10月の声を聞くと、色褪せ ほんの短い
 秋の一日を楽しませてくれるのです。
  武蔵野之巾着田(日高市)
毎日のようで、毎日というわけでもない。
否定的なようで、肯定的でもあるような。
わがままなようで、いい加減なような。
泣きの入っているようで、絶望的で、未来?があるような、ないような。
まぁ聞き流してやって下さい。

10月31日(木)

晴れ。少々寒い。

 『ふぉーくそんぐ』
 ゆったりとしたリズムで、ノリが悪く、決してお洒落とはいえないと思っていた、フォークソングのアルバムを遂に買ってしまったのである。それも待ちに待って・・・・・・・。
 加藤和彦大先生の率いる『ザ・フォーク・クルセイダース』の34年振り再結成アルバムである。
 ベルエキセントリックで、洒落者で、ヨーロッパ的な加藤和彦氏もアルバムでは見るからに、初老の紳士(おじいいさん)という感じであり、アルバムのコンセプトも恐らく34年前そのものであり、それがまた何故か泣かせるのである。
 私も全曲を知っている訳ではないが、戦後(昭和)の復興〜頂点に登りつめる貴重な中間点の時期を、一時であるがまさしく支えた音楽であり、不真面目なようでいて、実に社会に対し反抗的な雰囲気も見え隠れしているが、また正直でよろしい。
 しかし、何故今なのかは私には正直分からないのである。

 『あの素晴らしい愛をもう一度』・・・高校の時?シングルもらった?
 『ヨイトマケの唄』・・・・三輪明弘の伝説のあの曲。「父ちゃんのためなら・・」
 『悲しみは言葉にならない』・・・どこかで聞いたような?
 『花はどこへ行った』・・・・・外国の男・女・男が唄った名フォークソング。
 『花(すべての人の心に花を)』・・・カラオケではなかなか歌えません。
 『白い色は恋人の色』・・・あのベッツイ&クリスが唄った曲。
 『平和について』・・・HPからダウンロードしたScreenセーバーに挿入してあった。
 なんと『老人と子供のポルカ』『帰ってきた酔っぱらい』等々
 知っている曲はこれくらいだが、暫く愛聴して、おじさん達のGROOBを感じてみようと思うのである。
10月30日(水)

晴れ。寒い。
 『原辰徳に乾杯(完敗)?』
 同級生で、巨人軍監督『原辰徳』が日本一になった。
恐らく彼は、私たちの同級生の中でも、ダントツの著名人であり成功者であろう。
 優勝監督インタビューでも、あの大観衆の中で物怖じすることなく堂々と受け答えをし、ファンへの感謝も、選手への労いも忘れる事なく、正に人生を成功した者という感じがした。  もし私が、巨人軍監督であの場にいたらあの程度のことは話せるだろうか・・・・・・・?それは到底出来るはずはない。
 残念ながら、同級生、原辰徳とは過ごしてきた環境も、人脈も、運も、試練も全く違うものであるからである。
 人生は必ずしも勝敗ではないが、西武ライオンズと同じく、原辰徳に完敗と云うところであろうか。今日のところ・・・・。
10月28日(日)

晴れ。肌寒い。
 「GO WEST」
 ジャイアンツの1番バッター清水の応援歌は「GO WEST」である。
 この曲は先頭打者清水にとってかなり励まされるであろうし、応援しているファンにとっても、初っぱな大いに盛り上がる曲であろう。
 1970年代後半にGAY風でコミックバンドかぁ?と、一見思わせる節もあった「ヴィレッジ・ピープル」と云うバンドが始めヒットさせた曲なのである。
 知る人は知っている「ヴィレッジ・ピープル」は、西条秀樹がカバーした「Y・M・C・A」、そして、ピンクレディがカバーした「ピンクタイフーン?」も「IN The Navy」をオリジナルとしてHITさせ、一時はディスコで大人気だったバンドであった。
 「GO WEST」(西へ)の大合唱に送り出され、登場した清水は、素人目に見てもあの曲のお陰で、今シーズンヒットを30本以上は余計に打てたのではないか?何となく、そんな力を秘めた音楽に感じるのは、私がいわゆる隠れジャイアンツファンの証であろうか。
10月27日(日)

晴れ。風が強いのでこがらし1号か?
 『日清のチキンラーメン』
 昨夜は深谷駅南の『真海』へ約1年ぶりに飲みに行った。普段は飲めない新潟県六日町の銘酒「八海山」を頂き、行き帰りの車の心配もすることもなく、大して飲めない私だが、まさしく飲みに行ったという感じがしたものだ。
 上品な料理と旨い酒で、下品な?コンパニオンだったが、ろくなお酌もしてもらえなかった宴会だったが、けじめを付ける宴席であり楽しく有意義な一夜を過ごすことが出来た。
 しかし、ああいう宴席では食事的には満足しないものである。さほど箸を付けるわけではなく、まして料理が上品な分だけ「何を食べたっけ」という感じで帰宅したものだ。お陰様で12時過ぎに送り届けられ、腹が減っていたので、日清のチキンラーメンにお湯をかけて食べて眠りについた。
10月24日(木)

晴れ。今秋一番寒いか?
 「オリオンビールと首里城」
 「ご無沙汰しています」と、沖縄から発信された電子メールが届く。そこには懐かしい仲間からの文章が、沖縄の風景と共にJpegのデータとして添付してあった。 
 早速JPEGファイルを開くと、魚屋の店頭に並べてある色鮮やかな魚、よく冷えたオリオンビール、そして首里城の屋根が写っており、しばらく訪れていない懐かしい沖縄の臭いを思い出させてくれたのである。
 沖縄・・・・・・・。一度は住んでみたい場所である。
10月23日(水)

晴れ?
 『MEET』
 夜、M木氏から電話が入りお茶を飲みに行ってくる。9時10分に家を出て、1時間ほどで帰るつもりだったが、帰宅すると11時30分になった。やりたいこともあったのだが、こうやって何の用事もなく、平日夜にMeetするのも酒を酌み交わすわけでもないのに良いものなのだ。
10月22日(火)

晴れ。
 『残された時間』・・・・・・
 正月に京都へ行き、1月中に足尾の山中へ氷を見に行く。2月は宝登山へ梅を見に行き、・・・・・・。5月は戸隠善光寺へ行く。
 5月・6月・7月と、北軽井沢へ毎週のように通い、7月には大阪野反湖へ行く。6月と9月に1回ずつ伊香保へ行き、8月には北軽井沢へ行く。9月に北軽井沢へ行き万座・白根へも行き、日高の巾着田へも行く。1月・3月・4月・5月・6月・7月・8月・9月・10月に1回ずつゴルフへ行き、ウーン・・・・・他には思い浮かばず今日を迎えている。世間的に見て、私のお出かけが多いのか少ないのかは、判断は出来ないが、それでもいいのである。
 2002年の残された2ヶ月と少し、どんな風景に出会えるのだろうか?。
10月21日(月)

雨→雲。
 『強運』
 SFジャイアンツの新庄は、何と強運の星の下に生まれた男であろう。
 あの年間73本塁打のB.ボンズでさえメジャー17年目にして、初めてのW-シリーズ出場なのである。 昨年阪神タイガースからNYメッツに入団したときも、確かようやくメジャーに残れた程度の実力だったはずの新庄が、あの夢のようなW-シリーズに先発出場しているのだ。
 しかも、昨日ヒットまで放っている。おそらく、あの実力者イチロー・野茂・佐々木ですら、あの舞台には立てないかも知れないのである。
 そういう人間ているんだよなぁ。実力がさほどでも表舞台に立てる人・・・
10月20日(日)

雨→曇り→雨。
 雨の日曜日。
 今朝、暗いうちに起き出した。と、いっても外が雨のため、AM6時近くになっても暗かっただけの事である。久し振りに予定のない日曜日だったので、ボーっと過ごすうちに、BSでWシリーズ「SFジャイアンツ対AHエンジェルス」が始まってしまった。何といっても日本人『新庄』がWシリーズに初出場するのである。DHで9番打者とはいえ、MLBのWシリーズであり、ポンチョ伊東氏が生きていたなら大変な喜びであったに違いない。
 緊張感漂うTVの向こう側に反し、寝ぼけ眼でウトウトする自分が居た。
 果たしてこの一週間、この場で泣き言を述べることが出来るのだろうか?
とりあえず今日一日、充分に休息したはずである。
10月18日(金)

曇り。
 スケジュール
 慰労会/野球/結婚式・麻雀(多分?)/七五三/LIONSうどん例会。
 10月末〜11月始めにかけての週末連休のスケジュールである。よくも毎日予定ができたものだ。有難い・・・・。しかしどれも中途半端な時間帯であり、そのことだけで一日の大半を費やさなければいけないかも知れない。
 五日間のうち慰労会のみ夜だろうが、他の全ては昼食時を兼ねてやるようである。 水も漏らさぬこの日程、と言うところだろうか?
 先週みたいに仕事を持ち越さない努力を試みよう。
10月17日(木)

晴れ。どちらかというと暑い日である。
 時間はゆっくりと流れていたのである。
 早いもので10月も半ばを過ぎた。嗚呼、何というすぴーどで時は過ぎてゆくんだろう。今週は月曜日が休日だったせいか、仕事が始まったと思ったら、既に明日は金曜日である。信じられないすぴーどである。
 誰もがこんな事の繰り返しで、日一日として確実に老け込んで行き、間違いなく消滅してしまう。鉄砲玉のような、若い衆だったあんちゃんも、知らぬ間に中年となり、一見どことなく分別ある大人になって行くものである。
 19才の時にOKINAWAへ初めて行った。確かに沖縄では、人が言うように、時が緩やかに流れていた。寝坊をした朝でも、朝飯を喰い、海へ遊びに行き、遊び疲れたら、昼飯を喰って昼寝をし、また海へ遊びに行く。暗くなってきたら、海辺で泡盛焼酎を片手にバーベキュー。たらふく喰ったら、部屋に戻り何をしたっけ?
 しばらくして寝て起きるとまた朝になり、朝飯を喰い、海へ出る。そんなことを10日間?程繰り返したことがあった。
 恐ろしいほどに、時間はゆっくりと流れていたのである。
 何故か2才年上の同級生が、PLAYERSの「Baby Come Back」が聞きたいと言っていたっけ。
10月15日(火)

多分晴れ?25℃くらいに気温が上がったかもね?
 今日のTOP NEWS「24年振り、運命?の再会」
 24年ぶりに肉親と再会する気持ちはどんなものなのだろうか?
いったんは行方不明となり、死んでしまったのかと考えた人も恐らくいたのではないのだろうか。
 肉親との別れで、残された人が一番悲しまない方法は、行方不明ではないかと考えている。例えば海外旅行へ出かけ、音信不通になりそのまま帰ってこないで、死んでしまったとする。それは大変な心配をかけることだろう。しかし必ずしも、死という結果に直接結びつかず、心配はすれ死に直面する訳ではないので、悲しみより不安的な要素が主であろう。
 仮に既に死んでいたとしても、どこかの違う国で何とか生きているのでは、と希望的な考えも出来る。
 今日24年ぶりに再会した場面のNEWSを、まだ映像では見てはいないが、お互いに対面するまでは、何と声を掛けて良いものか、躊躇もするだろうし、不安もあるのではないだろうか。おかしな話だ。
 浦島太郎ではないが、50代で働き盛りだった父ちゃん、母ちゃんが、70歳以上の老人になっている。20歳前後だった青年が、おじさん、おばさんになっているのだから。運命だったでは済まされないのである。しかし、
10月14日(月)

体育の日であり、おそらく秋晴れなんだろう。
 『爽秋の一日』
 「やって見せ、言って、聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」 
山本五十六元帥の言葉である。
 Y社の社長室の額入っていたものを、Y田氏がわざわざ額から取り出して、コピーしてくれたのである。本当に有難い。しかし自身で、これを額に入れておくわけにはいかないなぁ。
 しかし何とも蘊蓄(ウンチク)のある言葉だろう。早速スキャナーで撮り、コンピュータの中にしまっておくのだが、そうなるとなかなか目に止まる代物ではない。感銘を受けるのは、やはりその場限りであり、いつしか忘れてしまうのだ。そしてひょんな所からまた目に止まり、感銘を思い出す。やはり物に書いておかなければ、日常ではない物なのだろうか。
 「苦しいこともあるだろう。言い度いこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣き度いこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。」な〜んて言うのもあったっけ。
               2002年爽秋の一日が何となく仕事で終わった。

 明日はまた大変な一日になるのだろう。北朝鮮に拉致され生存している日本人達が、25年ぶりに一時帰国するのである。各メディア、被害者?家族にとっては、本当大変な一日であるはずだ。しかし今日の小泉首相の発言「(北朝鮮は)けしからん国だ。(日本人を)誘拐して、拉致して殺してしまう」には素人ながらビックリした。日本の首相が、あんなに挑発?するようなことを言っても良いものなのか? 恐らく本心なのだろうが、小泉さん口が滑ってしまったのだろう。
10月13日(日)

晴れ。正に秋晴れ。
 『コスモス祭り』〜キャベツに懐かしい香りがしたのだ。
 私の住む岡部町で『コスモス祭り』が開催された。今年で第14回目を迎える我が町を代表する祭りは、花火等を除くほとんどのイベントについて、私が属していた商工会青年部が無くては成り立たないお祭りにまで成長した。
 所属していた頃はさほど感じなかったが、離れてみてそれは確実に実感させられる。
 私が直接携わったのは丁度10年間であるが、思い返せば当初は試行錯誤の連続で、イベント企画は今から思えば大学祭程度のお遊びに過ぎなかった。企画会議とはいえ、なあなあの形ばかりの会議をほんの数回開き、STAFFとは名ばかりの無責任な組織であり、進行途中に大酒を喰らっも許される事もしばしばであった。まして終了後などは、三々五々バラバラに散ってゆき、けじめもなにもなかったものだ。
 それが10年経った現在、この見違えるような組織と団結力はどうだ。集客力は公称10万人を数え、露天商の数は数百店、フリーマーケット出店70、祭り参加者2千人以上。私の知らぬ間に、みんなの知らぬ間に、永きに亘る試行錯誤の結果ではあるが、確実に成長させてきた。
  STAFF達のあまりの熱意さから、毎週のように12時頃までマジな会議を開き、単純なことで意見の違いから、けんか騒ぎになることも日常茶飯事であった。あの頃の懐かしいメンバーは、祭りの表舞台からすっかり姿を消し、今は本当に生まれ変わった新しい「コスモス祭り」に見えるのは、私だけであろうか。とっても私が属し、一時は執行をまかせられた団体とは思えないのである。しかし、これで良いのである。

 今日、LIONS-CLUBの恒例のチャリティバザーで、野菜販売を担当した。
まず、キャベツの入った段ボールに目がいった。『嬬恋村バラキ産』の表示に不思議な感覚がした。このキャベツは、間違いなく昨日か一昨日、嬬恋村バラキのキャベツ畑から出荷され、この場に着いた物に違いないのである。もし今日、この場にいなかったとしたら、私は間違いなく『嬬恋村バラキ』周辺に居たはずだからである。キャベツに何故か懐かしい香りがした。
10月12日(土)

秋晴れ。半袖ではいられません。
 鳴くまで待とうホトトギス。
 木曜日に携帯電話が壊れてしまったので、昨日早速新しいものを買い求めた。メモリーに入っていた400件以上の電話番号は取り出せずに、当然番号を覚えているはずもなく、控えておくはずでもなく、用があっても何処へも電話をかけられない状態でいるのだ。何ともこれは不便だ。今からでは聞けない人の電話番号も入っていたので、どうしましょう。
 とりあえず、鳴るまで待とうホトトギスということであろうか。
10月11日(金)

肌寒い。
 才能はないのだろうか。
 「努力する・・・・、才能?」ジャイアンツ松井の父親が言った言葉である。
 何だか??分からん。と思ったが、野球の才能があるのではなく、努力すると言うことの才能が大切だと言うことである。さすが50本塁打を打てる息子を育てた父親の云う台詞だ。
 結果よりも、やはり過程の方が大事とも受け取れなくもない。
10月10日(木)

晴れ?曇り?
 『感激した!!』・・・・小泉さんではないが。
 久し振りにプロ野球の中継があり見てしまった。イヤ、見入ってしまった。
 ジャイアンツの東京ドーム最終戦であるこの試合、8回裏に、ヤクルトが古田の三塁打を足がかりに、3対1から同点に追いつき、ジャイアンツは9回の表、先頭打者二岡の第24号本塁打で4対3の勝ち越し。そして今日、第49号本塁打を放っている松井が登場した。
 誰もが50号本塁打を期待している場面であるはずだ。対する投手はヤクルトの本格派、美男子投手五十嵐君。異様な空気が球場を包んでいた。五十嵐君は松井に対し変化球を投げない、全てが150`以上の速球勝負である。松井のバットは完全に振り遅れ気味であり、辛うじて空振りはしないが、三塁スタンドへのファウルがようやくといった感じである。
 万事休す、松井がキャッチャーフライを打ち上げた。投手五十嵐君は、その時「やった!勝った!」と思ったことだろう。しかし、私にもキャッチャーの経験があるが、そうとう高い打球であったのだろうか、古田から変わった名も知らぬ若い捕手は、ボールの目測を大幅に誤り捕球することができなかった。「ラッキー」と苦笑いをする松井。そして五十嵐君も、ガッカリするどころかますます闘志満々に見えた。
 本当は逃げのない勝負こそが面白いのである。
 相変わらずのストレート勝負、まさしくシビレる場面である。五十嵐君の外角いっぱいに投げた渾身の速球を、松井は振り抜いた・・・・・・球場は歓喜にどよめいた。全身鳥肌がたった。小泉さんではないが「感激した。」
 第50号本塁打。・・・・・松井は素晴らしい。正直、やはり清原よりも上だ。本当に日本球界を去ってメジャーへ行ってしまうのであろうか?やはり王さんの日本記録、55本を抜けるのは、『55番』君しかいないのだ。
10月8日(火)

曇りのち雨少々。夜ザーザー降った。
 火曜日なのに仕事をしないのだ。
 今日は、ひと月に1回のペースになりつつあるGOLFをしてしまった。群馬の「ローズベイC.C」でT嶋さんの店のコンペに出場したのである。
 この強面のT嶋氏の人望には本当に感心させられる。個人の美理容店でありながら、参加者200名以上、ゴルフコンペのSTAFFが30名くらいか?これまで通算15回ものコンペを開催し、社会福祉へ毎回約30万円?くらいの寄付をしているのである。通算でも450万円もの多額寄付をしたことになるのであろうか。なかなか個人では出来ないことである。
 このT嶋氏、私より3才年長であるが、いわゆるカリスマ的存在であるのだろう。周りには常に人が取り囲みサポートし、主催者代表の挨拶をさせれば、雄弁ではないが、はにかみながらも、冗談交じりの的を射た言葉で聴衆を引きつけるのである。まるで矢沢おじさんを連想させられた。
 ある議員さんがT嶋氏の事を「ああいう性格の人間は、選挙に立てばすぐにでも議員になれる。議員に立てばいいんになぁー」と言った言葉が忘れられない。私もそう思うが、そんなことをする人間ではないだろう。
10月6日(日)

曇り。時々晴れ。(浅間)
 白根山へ登ろうと思っただけ。
 白銀亭で朝食用のパンを買い、既に紅葉の始まった森の中を車で走り抜ける。曇っているせいで浅間山はまるで見えないが、清々しい秋の高原の気配は否応なしに伝わってくるのだ。パンとクラッカーと缶ビール1本で朝食を済ませると、心地よい冷気と静けさで眠くなり、毛布を二枚出して1時間ほど至福の朝寝をしてしまった。
 しかし、 今日は娘がお供できているので、寝てばかりではいられない。有料道路(往復2040円)を奮発しドライブがてら万座〜白根へ昇ってみた。
 万座より上は既に紅葉が最高の見頃であり、人出も最高。白根山でも登ろうと思い、駐車場へ入ろうと思ったが、そこは日曜日の繁盛店並みの満車状態で、草津方面から登ってくる車が長蛇の列。行列嫌いの私はすぐさま引き返してしまった。おそらく一年のうちでも最高の季節なのであろう。
 人間の考えることは、それ程に大きな違いはないのだと言うことを改めて感じた白根山であった。
10月5日(土)

 何故かこの日の文句が消滅してしまった。
10月4日(金)

暑い。
 『嗚呼、何故望遠しかないの?』
 F町社長は、業界きっての写真家であるようだ。昨晩夕陽を観ながら明朝、榛名湖へ行く約束をしていたのである。しかし早い。早過ぎるのではないか?現在の日の出午前5時30分過ぎで、ここから榛名湖まで30分弱なのである。4時30分に起きれば充分ではないのか?
 しかしF町社長は、既にカメラマンベストを着込み、CONTAXのカメラを用意しているではないか。渋々起きて、ビールを1杯頂き、結局4時30分にホテルを出る事に・・・・・。真っ暗闇のコーナーを走る抜けると20分ほどで榛名湖に着いた。西も東も分からずに湖畔を約半周すると榛名富士の向こうがうっすらと明けてきた。よくよく見ると、駐車場にひとりふたりと人影があった。一応ここが撮影ポイントらしい。こんな平日でもカメラマンがいるのには本当にビックリ。
 素晴らしい朝日であった。今まで睡眠不足で少々不機嫌であったが、榛名富士の向こう側から朝日に機嫌も直り、久し振りに感動を見た。
・・・・・しかし、嗚呼、何故望遠しかないの?
榛名富士はとても近すぎて100oでは収まらないのである。
10月3日(木)

晴れ。結構暑い残暑?
 『伊香保紀行』
 昨夜というか、今朝というか伊香保温泉の「ホテル木暮」でようやく眠りについた。おそらくAM1時30分は過ぎていた事だろう。
 宴会は午後6時30分に始まり、席を移した二次会ではホテル内のクラブでカラオケ、三次会は部屋に戻り芸者達をチヤホヤする。嗚呼何ともったいない・・・・・。芸者とはいえ、気の利いた芸をするわけではなく、大して気づかいをするわけではなく、ましてコンパニオンを少々小馬鹿にした態度・・・・。それに対するお客様の方が、優しい言葉をかけて気を遣うあり様。嗚呼
 一応解散したのはAM12時30分で、6時間もにも渡る宴席・・・。正直疲れたはてた。私的には一次会を終えて風呂でも入り、揉み返しのきついマッサージでも受けたいところであったが・・・・・・・・・。
 寝ようとしたら、案の定これがまた大変なことになった。何と言っても初めて枕を一緒に並べる人達で、いびきの凄いこと凄いこと、でかいいびきあり、聞いたことのないいびきあり、とっても眠れる状況ではなかった。しかし、うるさいいびきに閉口しながらも、知らぬ間に眠りについた・・・・・・。
 ウトウトしていた。すると枕元で私を呼ぶ声がする、ビックリして携帯の時間を確認する。AM3時50分だった。F町社長は、一人で既にビールを飲んでいた。嗚呼・・・・・・・・・そして私にビールと饅頭を勧めるのであった。

   明日につづく・・・・・・・・・。