UNKNOWN INFORMATION ( アランドロン関連何でも落書き ) ー 敬称略 −


既にご存知の情報でしたら御免なさい!( 新着情報が入り次第どんどん追加いたします )

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( The residence gate of Alain Delon in Douchy )

(  正面から撮影したドロンのアパルトマン 1988年10月23日撮影  )

ボワイアー砦、painted by Minako )

(  ドロンのお気に入りのポスター  )

( Delon at his office in New York )

( Delon and Maria Schneider in "Madly" )

( Delon's Family )

( Delon in Frank Riva with Mireille ) - from Miss.Karina

( Delon with Catherine Information by Mr. Okamoto )

interview

  • 1996年のルマン24時間耐久レースの名誉あるスターターをドロンが勤めた。
  • 息子アンソニーが父親の親権に委ねられなければならない年齢 ( 14歳 ) になり、ファベール通り ( Rue Fabert ) の豪華なアパルトマンが一人で暮らすには大きすぎ、孤独だけがつのるようになった時、ナタリー.ドロンは、一年間フランスを離れることにした。 「 14年間育てた子供から離れるのは辛いことです。今のトニー ( アンソニーの愛称 ) にとって、親の権威下に置かれることは大切です。ですから、アランも私も、この決断に同意しました。ただ、私はこの孤独に自分が耐えられるものと思っていましたが、一ヵ月後には、この息子との別れが私にとって耐え難いものであるのだと気づきました。私がしなくてはならないことは、消えることでした。だから、旅に出ようと決めたのです。独りで。自分だけを見つめるために 」  自分探しのために、ナタリーは、まず行き先を考えた。「 私は、いつでも大きすぎるほどのアパルトマンに暮らしてきました。ですから、今は、寝室、書斎、物置を兼ねるたった一つの部屋で好きなものに囲まれて暮らしたいのです」 ナタリーがフランスを離れるにあたって、小説家パスカル.ジャルダンは、一つの予見をした。 「 問題なのは、君がナタリー.ドロンを背負って発つことなんだよ。」 彼は、間違っていなかった。 ナタリーは、数週間の間、メキシコ、バハマ、ジャマイカと旅行した。そして、ロサンジェルスのプロデューサーの友人 Caroline Pfeiffer のもとに最終的に居場所を見つけた。青い壁紙の部屋に ( 彼女の部屋は、いつでも青だった。)、彼女はトランクをおろし、銅製のベッドの上に、子供の頃から大事にしているサルのぬいぐるみを置いた。 小さな円卓の上には、トニーの写真。そして、ソファの上には、二冊の本、ガブリエル.ガルシア.マルケスの 「 百年の孤独 」 と、ニーチェの 「 ツァラトゥストラはかく語りき 」 が。 「 私は、いつでも大切にされ、保護されながら生きてきました。昔は、アランが、私の全てを面倒みてくれました。彼にとって私は、小さな少女のようだったのです。 その後は、アンソニーの育児係の 「 ルル 」 でした。彼女は、私の家の家事一切を請け負い、そのあまりの優秀さに、私は、自分のシーツがどこにあるのかも知らないくらいでした。今、私は、フランスを離れて、トニーもルルもなしに、一人で生きることを学んでいるのです 」 ロサンジェルスで、彼女は、マリブビーチで泳いだり、飛行船を楽しんだりしている。しかし、まったく現実感がないわけでもなさそうだ。 「私は、亡命したわけではありません。新年度には、フランスへ戻ります。今は、単に熟考のための休暇中なのです。長期ヴァカンスは、トニーと一緒に過ごします。彼なしで、ヴァカンスを過ごしたことは一度もないんですよ 」 湿った瞳で、喉を詰まらせながら、彼女は付け加えた。 「 少しづつ彼が、一人の男性になっていくのがわかります。崇高なことです!」     - information from Paris Match 29 Juin 1979 -
  • ドロンの最後の来日は、2001年12月7日〜12日。( 2002年7月現在 )
  • ドロンのデビュー作 「 女が事件にからむ時 」 の役名は JO で、若い殺し屋の役。
  • フランス公共ラジオによると、ドロンはロザリーと別れることを決めたとドロンの知人が明らかにした。アニューシュカ(12才 ) とファビアン( 8才 ) の二人の子供を動揺させないため、別離の発表は行わない予定。( 2002年10月 )
  • メッシーヌ通りのドロン邸は1961年に購入。
  • Loiret 県の Douchy のドロンの別荘は1968年に購入。敷地54ヘクタール ( 東京ドーム11.5個分 )、プール、テニスコート付きで、鴨を放した人工池がり、鉄製の門扉にはカップルのイニシャル A.D と M.D が大きく飾られていた。ここでドロンは静けさと孤独を見つけ、好きな動物 ( 犬、猫、馬、羊、やぎ ) などと戯れた。ドロンの自慢は 「 この敷地内で採れるものだけで、何も必要とせずに1年間暮らせること 」 らしい。
  • Catherine Bleynie  のあだ名は 「 Kiki 」。
  • 1984年 Douchy の別荘の門扉のイニシャルは A ( Alain )  と C ( Catherine ) に変わった。
  • 1980年3月7日、ミレーユは心臓の手術をした。病名は狭心症。術後ドゥ−シーの別荘で静養した。
  • 1983年7月7日、ミレーユが交通事故に遭い重症を負う。この年の12月、ミレーユは回復したがアランとの破局が報じられた。その理由について、「 自分にはプライベートな暮らしがない。2人だけの生活が出来なかった 」 とアランはジャーナリストに話している。2人は別れても、親友であり続けた。
  • ドロンは1975年、イタリアのデザイナー Jansen の家具を A.D. ブランドで販売。
  • 1977年、ドロンはスイスで Alain Delon  香水を販売。その後、全世界90カ国へ広がった。
  • 1987年、ドロンが化粧品の販促で北京を訪れた時、当時21歳のオランダ人モデル Rosalie Van Breemen  と出会った。中国からは Rosalie と一緒に帰仏した。 ( この情報は、ガセネタでした。 )
  • 1992年、それまで6年間借りていたジュネーヴの豪邸を購入。パリの喧騒から遠いジュネーヴで、ドロンの長年の夢 「家庭」 を作ろうとする。 Rosalie  と一緒になってからドロンは仕事を減らし、穏やかな生活に入った。 「 疲れた。全てがぐちゃぐちゃに感じる。何もする時間がない。立ち止まる必要があった。人生を楽しみたい 」
  • 1990年11月25日、Rosalie が女の子 Anouchka  を出産。さらに1994年3月18日男の子が生まれ、アランの実父の名前を取り入れた Alain-Fabien  と名付けた。 「 これから15年〜20年の間、バラと絵画と子供と孫に囲まれることを考えると、自分は穏やかな気持ちになる 」。
  • 1961年、1968年以来の舞台についてドロンは、 「 私はまず俳優であって、役者ではないので、私にとっては挑戦です。役者とは、職業的選択です。養成学校に行き、職業を習得し、段階をクリアしていかなくてはなりません。俳優とは、偶然の産物です。売り物になるのは個性ですから、訓練もありません。もし学校があるとすれば、それは人生です。Gabin も、Lancaster  も、Alan Ladd  も、この私も、カメラの前で役をどう演じるのか教わった事はありません。私は舞台もしますが、相手は Gerad Philipe の心の息子 Francis Huster という偉大な役者です。この対面が、この戯曲  ( 「 Les Variations Enigmatiques 」 ) の呼び物となっています。 Eric-Emmanuel Schmitt  は私をイメージして 『 Les Variations Enigmatiques 』 を書いたのですが、彼は私になかなかそれを言い出せずにいました。そこで、私の友人の1人で、エージェントの  Guy Bonnet が私への仲介を引き受け、私はその戯曲をある週末に読む事になったのです。月曜日に私は Eric-Emmanuel  に電話をして、 『 私にぴったりだ 』 と言いました。二人の登場による休憩なしの2時間の芝居。中途半端なものは何もない。私はこういうのが好きなのです。不発に終わるか、完全燃焼するかのどちらかです 」。  と語った。−1992年ー

( Delon with his pet's dog )

  • 1987年にADELプロ製作のドロンのレコード ( COMME AU CINEMA=映画のように ) がドイツで発売された。A面の EXTENDED VERSION はドロンの歌。
  • ドロンは、元F1レーサーのアラン.プロストと親しい。
  • エアポート79の撮影の合間にドロンはミレーユとアンソニーとディズニーランドで遊んだ。
  • 2003年2月24日、フランス国営放送フランス3で放送されたドロンのインタビュー番組 ( 2時間30分 ) の視聴率はなんと23.5%に達したらしい。このインタビューの中でドロンは 「 私の職業人生は大成功だった。だが、私生活は成功ばかりではなかった 」 とコメントしたらしい。この番組に息子アントニーとミレーユ、そして友人の内務大臣ニコラ.サルジコも出演。司会はマルク.オリビエ.フォジエル。ドロンの出演は2年ごしの交渉の末に実現したとか。
  • ロザリーはドロンと分かれた後、別の男性と結婚したらしい。   - information by Mr. Kazu -
  • アデルプロダクションのドロンの専属秘書はベルナデットという女性で、1979年当時、彼女のドロンの秘書歴は20年。彼女は初代のドロンファンクラブの会長だったらしい。
  • 2003年3月ドイツの GREMESE という出版社からドロンのフィルモグラフィーが発売された。編集者は Roberto Chiesi。価格は16.80ユーロ。サイズ B5 版127ページ、モノ黒。
  • メッシーヌ通りのドロンの邸宅には武器のコレクションの部屋があり、壁一面にピストル、ライフルが所狭しに飾ってあった。この屋敷、日本人の感覚からするとミニシャトーと言えるほどの大邸宅。
  • 「 FRANK RIVA 」 はフランスとドイツの合作。DVD が Amazon France  で購入可 ( 但しフォーマットは PAL 方式 )。
  • 「 LE LION 」 はフランス本国で昨年 ( 2003年 ) 暮れ TV で放映された。
  • ドロン五度目の来日、1983年10月31日の NHK 朝の番組 「 おはようにっぽん 」 に出演、約15分のインタビュー。 - information By Mr. Okamoto -
  • Alain-Fabien  のニックネームは 「 アルフ 」。 ( Information By Mieko From 25 ans Feb 2004 No.293 )
  • ドゥーシーのドロンの別荘の入り口の門扉は観音開きで高さ約4メートルの鉄製で自動開閉する。ゲートから邸宅は見えず、ただただ呆れるばかりの大きな森が続く。1998年12月、ドロンはアニューシュカとファビアン君と手をつなぎこの門を通り、中へ。
  • ドロンの現在のアパルトマン⇒ http://www.hola.com/anteriores/2000/11/29/alaindelon/
  • ドロンのジュネーヴ自宅住所⇒ Rt, de Malagnous 170, chene-Bougeries, 01224 Geneva Swiss ( Delon は2005年春、この邸宅を売却 ) 。
  • 2004年1月24日、ドロンはドイツのケルンで 「 Guiness World Records 」 というタイトルの 「 LIVE TV Show 」 にゲスト出演し、同時にこの番組がドイツ Channel RTL で放映されたらしい。              - information By Mr. Antje -
  • 1999年ドロンはフランスの  「 Vivement Dimenche Prochain 」 というトーク番組に出演。その番組の中で次のように言っています。インドシナから帰国後、知り合いの映画関係者から監督を紹介され出演しないか? と誘われたが、最初は興味がなかったので断った。その後撮影していくうちにこの仕事が好きになり、カメラが好きになった。ナタリーは独占欲が強い。私は作家でもないし脚本家でもない単なる俳優だ。でもある時、自分でも創ってみたくなった。書くことは出来ないのでプロデュースすることにした。考えが浮かびストーリーが出来ると自分で監督、脚本家、役者を選ぶ。  「 甘い囁き 」 はダリダへのオマージュ。 「 Le Lion 」 はアニューシュカのために作ったし、彼女がいなければ出来なかった。子供たちの将来について、俳優は世界で一番すばらしい職業だから、出来れば後をついで欲しい。私の最大の短所は、私には長所しかないと思っていることである。私の最大の長所は私の最大の短所を知っていることである。  - information By Hiromi H -
  • ドロンの戸籍上の名前は Alain Fabien Marcel Delon
  • ドロンは14歳で初恋、彼女にいいところを見せようとバイク ( 自転車という説もある ) でアクロバットをするが、転倒、顎の傷は今でも残る。
  • 1986年の「 Le Passage 」の興行的失敗で落胆したドロンは、引退を考えながらも、1988年の最大のテレビドラマ「 Cinema 」の役を引き受けた。「 Cinema 」のギャラが 20,000,000フラン とも噂されたが、「 自分の才能に値する額を支払われた 」 とアランは答えている。民放 TF 1 は90分が4話のドラマに 60,000,000フラン という制作費をかけた。ドロンは、主人公の複雑な役柄に自分を重ね合わせた上でこの仕事を引き受けたような感があった。さらに、ドロンの台詞に 「 自分は役者になんかなりたくなかった。他に何も出来なかっただけだ。この世界は嫌いだ 」 というのがあった。敬遠していたテレビドラマだが 「 シナリオを読んで、これだ!と思った。テレビでも映画同等の質の高いものが作れると証明したかった 」  とアランは説明した。撮影もスムーズで、ドロンに感服する監督  Philippe Lefebvre とも良いムードだった。ドラマは批評家には好評を得た。ドロンはプロモーションも精力的にこなす。この時、国営テレビ局 A 2 がストを繰り返しているのを批判、 「 自分が税金を払っているのに番組を見ることが出来ない。公共機関として到底受け入れられない。蹴飛ばしてやりたい 」  と発言する。ドラマは記録的ヒットを目指すために、初回日曜夜、残り3回月曜夜に放映されたが、期待されたほどの視聴者は得られなかった。
  • ADEL Production 今は LEDA Production。 LEDA の意味は ADEL を反転して置き換えた?
  • ドロンの最も深い心の傷は、両親の離婚であると彼は言っている。     ( 2002年のドロンの発言より )

  • アランの実の父との外出は、木曜日と決まっていた。モンパルナスの映画館。しかし、彼にとってのスターは、どちらかというとボクサー達だった。1949年、敬愛するフランスチャンピオン Marcel Cerdan が、アメリカへ移動中の飛行機が墜落した。アランは、この訃報を祖母から聞いた。「 次の日、学校では、生徒も先生もみんな泣いていました。フランスじゅうが泣いたのです。彼の国葬が決まったくらいです。」と彼は、語る。この深い悲しみには、また思いがけない展開が待っていた。同じ飛行機事故の別の犠牲者、有名なヴァイオリニストの Ginette Neveu の死を彼が悼まなかったために、祖母から平手打ちを食らったのだ。「 祖母が、そのヴァイオリニストの死を悲しんでいるところへ、私が 『 そんなヴァイオリニストなんてどうでもいいよ。Marcel Cerdan が死んだんだよ、わかっているの? 』 と言った。そこへ、ピシャリとやられた。こうして当時、天才ヴァイオリニストや大演奏家について何も知らなかった私は、Ginette Neveu が何者であるかを初めて知ったのだった。彼女は、Marcel Cerdan と同じ飛行機に乗っていたのだ 」。

( Delon with Miss. Kurara Haruka at living room of Delon's apartment in Paris in 1986 )

  • 1952年、空軍パイロットを目指すが定員オーバー。海軍へ入隊したドロンは、1953年はじめ Rennes の訓練所に配属された。ドロンの認識番号は1203T53。
  • ドロンのある友人は、Francine Canovas、「 彼女の性格は鉄のようで、彼を射止めようと決めてから、出来る限りのことをし、彼を射止めた 」 と言っている。
  • 1977年4月、Alain と Mireille は同棲生活9年を祝った。二人の仲は良い、と揃って言っている。自宅の掃除はしないドロンだが、「 50種類の肉料理を作る 」 と言っている。
  • Douchy の別荘にはプライベート映画館がある。
  • 舞台 「 Variations enigmatiqus 」、共演はベテランの Francis Huster。1996年10月7日、初日。 Edwig Feuillere, Mireille Darc, Belmondo, Rosalie 等、アランの人生に重要な関わりを持つ人が多く駆けつけた。公演37回目の11月8日はドロンの誕生日、幕が下りた後、観客が 「 Happy birthday to you 」 を歌う中、ドロンは  Anouchka  と  Alain-Fabien  から花束を受け取り、涙を流した。 Rosalie が内密に準備をすすめていたのだった。ドロンは後に  「 自分の人生で最も素晴らしい一瞬の一つだった。あの世へ持っていく 」 と語っている。
  • ナタリーは自分が結婚にむいていないと悟り、Alain - Nathalie の似たものコンビの魔法の力は1968年に消えた。ドロンは離婚による息子への影響を心配したが、1968年末にナタリーはイタリアへ発ち、二人は別れた。ドロンはこの別れを、人生最大の失敗としており、4歳の息子を巻き込んだことに心を痛めた。アンソニーは丁度、ドロンが両親の離婚を経験した年齢だった。ただ、ドロンはアンソニーを引き取るナタリーに「 Delon 」姓を名乗りつづけることを依頼し、アンソニーが何か 「 目印 」を持てるようにと願っていた。
  • 1984年、Anthony Delon  が 「 A.Delon 」 という曖昧なブランド名で皮製衣類を売り出した時、父アランは、裁判を起こし、勝訴している。この件について、あるテレビ番組でアランは次のように答えている。 「 Alain Delon の息子であるということは難しいことで、 Alain Delon の息子の父親というのも難しいことです。Anthony  は私が離婚したことで不幸だと思っていますが、彼には自分が受けたよりも厳しい教育をしたかった。一人前の男とは何かを教えたかった。彼自身の人生をスタートさせる可能性を与えたかったが、彼は18歳で父のもとを去った。多分、息子は自身の存在に問題を抱えているのでしょう 」 そして数年後、Anthony はこう答えている。  「 家族はバラバラですが、許すことが大切です。父との関係は良かったことはなく、今でも良くありませんが、こういうものなのです。父とはコミュニケーション出来ませんでした。いつも急いで、絶対満足しない見知らぬ人の横で大きくなったような気がします 」 Anthony は16歳でバイクの盗みで捕まり、その後は車の盗みで刑務所を経験した。その後も幾つかの疑惑が浮上し、度々メディアを賑わした。
  • ドロンの父、 Fabien Delon  ( 愛称が Fafa ) は、1931年9月18日に映画館 「 Regina 」 をオープンした。その後、この映画館は1960年代初めに閉鎖したが、30年後に文化センター 「 Regina-Alain Delon 」がオープンされた。
  • 1956年5月1日、Toulon で退役したドロンは、 Lucien Lejeune と共にパリのピガールの安ホテルに落ち着いた。このホテルの名は「 Regina 」、幼い頃の父の映画館と同じ。ドロンはレ.アールで深夜労働をしながらの生活が続いた。そして隣の住人で女優を目指している女性、後の Dalida に出会う。
  • 1956年当時のドロンのアイドルは「 Frank Sinatra 」と「 John Garfield 」。
  • 1966年9月15日、「 Les Aventuriers 」 の撮影開始。この映画には Serge Reggiani も出演しており、彼の影響でドロンは歌に興味を示し、Jean Lumiere のレッスンの下、主題歌 ( 「 愛しのレティーシア 」 ) を自らレコーディングした。
  • 「 太陽がいっぱい 」 の海上での撮影は大変なもので、ドロン自身 「 もうやらないと決めた 」 と振り返っている。
  • ドロンの初舞台は 「 Dommage qu' elle soit une putain 」 で1961年3月29日初日。
  • ドロン二度目の舞台は 「 Les Yeux creves 」 で1968年2月初日。
  • Raoul Levy の壮大な計画による映画 「 Marco Polo 」 は未完成に終わっている。1962年冬のベオグラード、この映画でのアランのスタント代役に選ばれた Yvan Chiffre と仲良くなった。彼は 「 アランドロン自身が自分のためにアランの映画を語ってくれるとんでもない特権 」 を感じた。やがて、Yvan Chiffre の会社に税務調査が入り、計画が頓挫する。製作費用の支払いが遅れ、更に看板であるアランが抜けることを決意した。こうして1966年12月31日、破産したプロモーター  Raoul Levy は自殺した。アランは彼の死を惜しみ、後に映画 「 Borsalino 」 を捧げている。
  • 1995年、86歳の Edith  の述懐。 「 アランは7歳から男前だった。将来が予見できた。アランとは10年会っていないが、彼は気持ちを隠す。自分の事を愛していることは確かだ。 」 しばらくして、その母が死去し、アランはこう語っている。「自分が成して来た事は、母から盗んだような気がする。母は美しく、女優になりたかった。自分は怖いほど母に似ていると、毎朝、鏡に向かい合って思う。自分の顔は、自分が10歳の時に見つめていたあの母の顔と同じだ 」 アランは父 Fabien Delon  とは更に付き合いが少ない。父の死後、アランは 「 父とは関わりが少なかったが、人生がそう決めたのだ。けれど、今になって理解出来るようになった。両親は夫婦仲が悪かった。冒険家で、いろんな事に手を出していた。詩人の心があった。いまでも傍らで見守ってくれていると信じている 」 と言っている。
  • ドロンはビジネスへの意欲を隠さない。そして香水をヒットさせる。こうして 「 映画よりビジネスで儲けている 」 と言うまでになる。更に眼鏡、時計、プレタポルテ、コニャック、シャンペンで 「 Alain Deon 」 の商標を貸し、ロイヤリティーを稼いでいる。顧問は Dominique Warluzel、多くのスターのお抱え弁護士として有名な人物。敬遠していたテレビコマーシャルは2000年、  「 Alain Afflelou 」 の眼鏡の宣伝が初めてだった。日本では、ダーバン、マツダの宣伝もした。タバコにも関わりがある。カンボジアのシェアの13%を占める  「 Alain Delon 」 タバコ。このプロモーションで予定されていたバンコクへの訪問をすっぽかした事があったが、タバコ反対のデモに巻き込まれる危険を察したらしい。 ベストセラー作家  Paul-Loup Sulitzer  はこう言う。「ドロンは人が思っている以上にビジネスの才能を持っている。自分の望むものが何か分かっていて、お金を稼ぐのが好きだ。愛らしい少年のようでありながら、どうしようもなくなる。彼は偽善、危険、敵意を感じ取る。猫のようだ。吸い取り紙のようでもある 」。

( Delon with Mireille at Aix-En-Provence Villa )

  • ドロンが、強く毅然としながらもユーモアたっぷりの役を演じる 「 Parole de Flic 」 の成功は、軽く180万人の観客を集めた。ここで新しいドロンを見られるのは、ドロンが 「 KiKi 」 と呼んでいる Catherine のおかげである。彼女は 「 France-Soir Magazine 」 のために、二人について語ってくれた。ドロンは言う。「 私は偶然を信じない。Catherine は私が彼女に出会うべき道の岐路にまさにいたのだ 」 彼らの道が出会ってからというもの、Alain と Catherine は終始離れることなく、セーヌ川を望む彼らのアパルトマンで幸福な生活を送っている。柔らかく、にこやかな Catherine の傍らで、Alain は再び微笑みと仕事に対する気力を取り戻した。彼は語る。 「 彼女は Parole de Flic  のような映画にさえも私を出させてしまうような女性です。Catherine  がシナリオの最初のバージョンを読んだ時、アイデアは彼女も気に入りましたが、映画の中の私の恋人 Fiona Gelin  が最後に殺されてしまうという設定は悲し過ぎると言いました。むしろ、ハッピーエンドっていうのはどう? という彼女の提案に従って、我々は Fiona が回復するようにし、最終シーンでは、みんなが幸せな場面を見せるようにしました。素晴らしいアイデアだったと思いますよ。でも、私みたいな人間と暮らすというのは楽ではないのです。彼女はまだ、自分に向けられているマスコミの関心の重さが分かっていないのだと思います。それでも私は彼女を他人や彼女自身から守りながら、人々に公表することにしました 」 Romy Schneider, Nathalie, Mireille Darc  の後にドロンが選んだのは Catherine  だった。彼女は映画については何も知らない。が、同時に新鮮な目でこの複雑な世界を見ることができる。彼女は他の何万という同年代の女性のように働き、暮らしている。一方、Alain の知らないうちに、スターである彼と一般人を近づけている。我々はそんな Catherine に彼女のこの 「 運命の人 」について、語ってもらうよう依頼した。Alain は我々に  「 Catherine はとてつもなく恥ずかしがりですよ 」 と、事前に教えてくれたが、幸福について話す時、彼女の言葉は尽きなかった。ここでもまた愛がひとつの奇跡を起こした。はじめて Alain を見た時、私は18歳でした。 Guy Laroche  に彼がショッピングに来たのです。私は彼の美貌、笑顔にすっかり参ってしまい、普通の人とは違う大スターだけが持っているあの 「 何か 」 に完全に魅了されてしまいました。この魅力は彼ならではの鋭い眼差しにあります。今でも、Alain が私を見る時、彼が私の心の中を全て見抜いているのではないかという気がします。でも、彼が意識せずにこの魅力を出しているのも分かります。彼が人を惹きつけすぎる時、私はいつも彼のこの視線に気がつきます。そして多くの女性たちが彼に参ってしまうというのも納得いくのです。彼と暮らしていると、私たちの間に年齢差があるということなど忘れてしまいます。何故なら、彼は老いることに頭を悩まされることなく、50歳の今も、私が彼に初めて会った時のように壮麗でたくましいからです。彼はいつも自分のことを 『 上手に成熟していく良いワインのようなものだ  』 と言っています。 Parole de Flic の撮影を通して、私は未知の世界と彼の別の面を発見しました。例えば、映画のシーンが話の順序どおりに撮影されていないこと、逆に最後のシーンから撮影が始まったことには驚きました。でも、私が一番夢中になったのは、俳優として仕事をしているAlain の発見でした。瞬時に別人になりきれる能力に目を見張りました。前の瞬間には私とゆっくりコーヒーを飲んでいる彼が、武器を手にした瞬間、役が要求する辛辣な攻撃的な表情に変わる。そして、 「 カット 」 と声がかかるやいなや、彼はまたコーヒーをゆっくり飲み干しに戻ってくるのです。彼を観察すると驚くことばかりです。私の愛する彼のこの能力、つまり別人になりきれる能力を前に、時々どこまでが演技なのだろうと思ってしまいます。彼に 「 もしかしたら、実生活でもあなたは演技してたりして........」 と言ったこともあるんですよ。「 彼は爆笑してこう答えました。 『 実生活では大根役者だ 』 と。そうなのです。彼は実生活で演技をするには、あまりにも頑固で、気難しく、厳格すぎるのです。それに、Alain は特に嘘つき、ごまかしとは縁の無い人で、自分の思った通りに生き、失礼を顧みずに何でもします。その結果、うやむやを避けるために私を世間に公表しようと決めたのです。 「 君の存在を世間は知る必要がある 」 と。このように公表したことで、彼は私の位置付けをし、私の私生活を容易にしてくれました。彼は私の身になって、私が気分良く居られるように、私が場違いだと感じないようにしてくれたのです。どっちにしても、Alain Delon  との生活は素晴らしいです。私は彼からたくさん学びました。彼はたくさん与え、たくさんを期待する人ですから、彼の隣では、居眠りしたり、だらだらと楽しんだりなどはもっての外です。彼はこれが大嫌いなのです。確かに彼が正しいと思いますよ!いつも活動的で、すべてのことに手を出し、しつこいほどの完璧主義で、常にアンテナをピンと張っていて、ほんのささいな変化にもすぐ気がつく。ただ、彼が正しいとわかっていても、時々うんざりすることもあります。だから、ひどいときには、私もむっと黙り、機嫌が悪くなります。彼は自分がいけないとわかったときには、謝りにきますが、そうでなければ、私が彼のもとに行きます。何故なら、彼はかっとしやすいけれど、一方でとても優しく、情愛深く、ひどく繊細だからです。しかも、たいへん魅力的な人です。心地よさと激しさ。多分、彼がこれほど極端でなかったら、彼の魅力はそれほどでもなかったかもしれません。でも時々彼に、もっとゆっくりだらだらとしてみたら、と言いたくなります。難しいですが........。でも、私は無頓着な性格で、笑うことが好きで、人生の良い面だけを見ていますので、ちょうど釣り合いが取れています。どっちにしても、今は  Parole de Flic  の観客が180万人に達しそうなので、彼はとても機嫌がいいです。映画 「 Parole de Flic 」 のクレジットタイトルにある 「 KiKiへ 」 という短い文には大変驚きました。いつだったか Alain が映写に来た時、私はまだ未編集のラッシュを見ていたのですが、彼が 「 クレジットタイトルを見て 」 と私に言いました。すると下の方に、「 KiKi へ  」 という二つの単語が見えました。本当に素晴らしい彼の気配りだと思いました。今までとはまったく違った笑顔の彼が登場するこの映画を、彼は私に贈りたかったのです。まるで  「 こんな僕を見て欲しい 」  とでも言いたいかのように。  カップルというのは素晴らしいものです。カップルの誕生ほど素敵なことはありません。しかし素敵であり続けるには、継続していかなければなりません。恋愛においては、賢く、公正で配慮深くなくてはなりません。相手の要求を知り、受け入れなければなりません。私は、Alain には常に人がついていなければいけないと知っています。彼には私の気配りが最も大切なのです。撮影で彼が心身ともに大変な時、彼には私の存在が必要なのです。彼のリズムで、彼の時間で歩みたければ、受け入れなくてはなりません。 私にとって、まさに 「 二人の家 」 と呼べるところは、Douchy の田舎の家です。そこでは、Alain はいつも嬉しそうです。18匹の犬、3匹のやぎ、15匹の羊に、プール、トレーニングルーム、それに自転車があります。彼は日曜大工をいつもしています。誰も訪ねてこない、電話もないくつろぎの平和な時です。私は、彼が充電し、自然に戻り、孤独になる様子を見ながら、人々の私たちへの視線を忘れることが出来るのです。しかし、 「 生涯を共にする人 」 などと誰が言い切れるでしょう?注意してはいても、別の誰かが来るのを食い止めるわけにはいきません。でもAlain を失うかもしれない恐怖の中では生きてはいけませんから、今は私たちが欲しいと思っている女の子について検討中です ( Alain は一度に二人欲しいみたいですが! ) 現代では子供を偶然作るわけにはいきませんから、彼と一緒に決めるつもりです」。

( Delon with C.C and Lauren Bacall at his favorite reataurant in Paris on March 2nd in 1996 )

  • ( Alain Prost について ) 私は戦う人が好きだ。Prost はF1のチャンピオンになろうとしている。頑固さという、私が何よりも素晴らしいとする長所のおかげで。でも、私の友人である彼は、魂を無くしてはいない。彼は自分の感受性を持ったままだ。Alain は本当に立派なアーティストだ。  - Alain Delon -
  • ( Eddy Mitchell について ) もしも、彼がアメリカ人だったら、彼はプレスリーになっていただろう。彼はロックもバラードもなんでも歌える。怒鳴ることも、泣くことも、感動させることもできる。そして彼の俳優としての映画デビューは彼の多才さを証明している。Eddy は知らないが、ある絆が私と彼を結んでいる。彼の歌 「 La derniere seance 」 ( 最後の上演 ) のように、私の父も、私の生まれる前、小さな映画館を持っていた。その後、Prisunic ( フランスのスーパーチェーン ) を建設するために取り壊されてしまったが。- Alain Delon -
  • Geraldine Danon について ) 私は、Geraldine の ( 洗礼の ) 名親である。映画界での保証人 ( フランスでは、洗礼の名親も、映画界の保証人も同じ単語で parrain  という ) ではなく、彼女が14歳のとき、彼女を洗礼盤へ連れて行った本当の名親である。 Geraldine は女優としてのキャリアを選んだが、私はある種の責任を感じている。父親がプロデューサーの Raymond Danon で、名親が私では彼女の道は決まっていたようなものだった。彼女の夢は私と共演することだという。ただ彼女の恋人役を演じるとなると私は当惑してしまうだろう。でも、彼女が私を 「 パパ 」 と呼ぶのも変な気がする。- Alain Delon -
  • ( Jacques Salat-Baroux について ) 私は人生を献身的な仕事、人間愛的な献身に捧げる人に大変惹かれる。癌研究者の Mathe や、心臓病研究者の Cabrol。また Salat-Baroux もそのような一人だ。彼らは決してメディアに華々しく登場しない。影でコツコツと研究をしているような人種だ。人は、彼らが必要でないうちは彼らを忘れている。そして人が彼らを必要とする時、彼らの手は神の手となる。 - Alain Delon - 
  • 「 恋ひとすじに 」 の原作は、ドイツ文学の古典、アルツール.シュニッツラーの 「 恋愛三昧 」。 
  • アランと離婚したナタリーは 「 Nathalie Sand 」 という芸名を名乗ろうとしていたが、アランが子供のために父親と母親が同じ名前を名乗るよう希望した。
  • ドロンは財布の中に、大切なすべての人の写真を入れている。
  • Rosalie の母親はアムステルダム郊外に住んでいる。
  • 海軍に入隊したドロンの最初の相部屋の相棒は Raymond Blasco。
  • 1990年、Modigliani の 「 La Belle Epiciere 」 を実業家 Francis Bouygues と 63,000,000フランで共同購入。
  • 1977年当時のドロンの愛車は BMW 3200。
  • 「 高校教師 」の原作は 「 静けさの最初の夜 」。
  • ダーバンの馬の CF はエクサン駅から北へ30キロ上がったところにある森の中で、古城シャトー.デ.ラ.バルバンを背景に撮影された。
  • ダーバンのヨットの CF で使われたヨットの名前は 「 オデッセイ号 」。
  • 1983年当時のドロンの愛犬はJado ( シェパード )、Manu ( 黒い豹柄の柔らかい肌をしたナポリのマスチフ犬、7歳で本当は Mireilleの犬 ) 、Timy ( チベタン.マスティフ )。当時の Mireille の愛犬は Luppy ( マリノア犬 )。
  • 1983年、ドロンはため息をついていた。 「 私にはもう人生がありません。もう二人の人生ではないし、人生と呼べるものはなくなってしまいました 」 と。その頃15年間の Mireille との穏やかな愛情が幕を閉じたばかりで、彼は空白と愛の痛みに苦しんでいた。ところがこの6月 ( 1984年 )、Delon は14年前に既に会ったことのある若い女性に偶然再会した。そして、彼は少しずつ彼女を愛することを覚え、再び生きることを学んでいった。18歳の時、Catherine は、Alain Delon の服を仕立てていた有名なデザイナーの ( Guy Laroche )もとで服飾デザインを学んでいた。彼はスター、彼女は不器用で内気な子供だった。彼女は彼を素晴らしいと思っていた。ひょっとしたら、密かに恋をしていたかもしれない。しかし彼女は彼が Mireille と築いていた関係を尊重していた。しばらくのち、彼らはまたリオ行きの飛行機で偶然一緒になる。 Alain と Mireille はフェスティバルに行くところで、Catherine は彼女の夫 Didier Pironi と合流するために F1 ブラジル.グランプリに行くところだった。そして偶然はまたその後も重なる。Alain と Mireille が別れた頃、Didier と Catherine も破局を迎えていた。ついにこの6月に運命が重なり合った。Delon は後に友人にこう言っている。 「 Catherine に再会した時、病院を見つけた救急車になったような気がした 」 Timy は嫉妬深く獰猛な犬だ。主人をいつも見張って、主人に誰も近づけさせない。しかし、Catherine  がはじめて Delon のパリのアパルトマンを訪れた時、Timy は彼女に挨拶しようと飛びついた。彼女はすぐに受け入れられた。この若い彼女は穏やかで、誠実で、天真爛漫だ。社交界よりも、都会の喧騒よりも、単純な幸福や、真の友人、田舎を愛し、Alain のように印象派や、バッハ、モーツアルト、長編小説が好きだ。夜には、二人それぞれの肘掛け椅子に座り、音楽を聴きながら読書する。二人とも相手の自由を尊重している。喜劇を演ずるのが好きな  Delon は、Michel Simon や Louis de Funes のまねをして、Catherine を爆笑させたりもする。幸せな人間にいざこざはない。 Catherine と Alain は小さな日常の喜びが長年のうちに大きな幸福となることを知っている。彼女はこの愛情に満ちた暗黙の了解を、14年前彼らがはじめて出会った時から夢見ていた。
  • Anouchka のニックネームは 「 Nouch 」。   - information Miss.Karina -
  • 「 ブランなら、これは一人の野郎についての話だと言うことだろう。私のファンは多分、これはある経歴と生き方についての話だ、と思うだろう。他の人間だったら、これはその辺のどんな男とも変わらない一人の男についての話だ、とみなすかもしれない!私はただ単に、これは自分についての話だと考える。異端児で、そして、この人生を送る幸運に恵まれた満ち足りた一人の俳優の 」 2000年7月 L'insoumis  ( 1957~1970 ) - Alain Delon -

( Alain with Claudine Auger )

( Alain with Mireille at Douchy in 1980 )

( Alain with Nathalie in 1960's )

  • ( Douchy の別荘でのドロンについて その1 ) ドロンを訪ねたお客が家の外に出て、錬鉄柵の高い門が自動的に閉まると、彼は再び敷地に一人きりになり、色々な記憶が蘇る。犬たちと、そして思い出と共に。ロザリー、アニューシュカ、アラン.ファビアンは、毎年、7月の始めにならないとヴァカンスに来ない。3人は夏の間そこに滞在するが、ほとんどの時間をオランダで過ごし、アランが時々会いに行く。太陽が下の池に沈みかけて森の木々の梢をかすめる頃、アランはプールサイドを離れ、邸宅に向かい、大きなガラス窓から中に入る。彼が指を鳴らすと、スズメがすぐにやって来て彼にとまる。足元には毛並みの仲間たち、肩には羽の相棒を伴って、一つの過去と一つの歴史を背負った彼は歩む。英雄的な多くの冒険から逃れ、アラン.ドロンは一人で一つの世界に生きている。いや、二つの世界と言った方がよいだろう。彼の演じた世界、そして彼の生きた世界だ。ドロンは言う、 「 私の人生は氷山で、人々はその公的な部分しか知りません。4分の3は念入りに隠されています。家では全く映画のことは話題にならないくらいなのですから 」  ドロンは誰からも何も教わらなかった。映画の世界の大物何人かにたてついたことのある彼は、今、自宅に帰り、自分の世界に目を馳せている。映画だけに繋がっているとは限らない世界に。  「 美しいもの、傑作への愛はヴィスコンティが教えてくれました。それに関しては彼はとても教養が深かったのです。」 彼はレンブラント.  ブガッティによる動物像の一部を売った。( 作品のため、レオン.シュワルツェンベルグ教授の研究のために ) が、彼にはまだ沢山の石膏、大理石、ブロンズの動物が残っており、展覧会にも惜しみなく貸している。 「 これらの動物像なしで生きていくことはできないでしょう 」 彼はまた、赤色石版画、デッサン画、絵画、彫刻も収集している。 「 Joseph dans ses songes 」 のような逸品、レンブラントの素描、アルブレヒト.デューラーの版画がごちゃごちゃに並んでいる。 アルブレヒト.デューラーからは A.D. というイニシャルの筆跡を彼の丸い紋章に拝借している。アランドロンはいつでも15,17,18世紀のデッサンに夢中になってきた。モダンさはどこにもなく、とても古典的なものだ。 「 デッサンというものは最初の着想であり、草稿であり、最初のひらめきです。思索と気持ちと鉛筆の芯の直線的な繋がりなのです 」  彼は印象派を少し離れて、ドイツ表現主義から発祥したフォーヴィズムに傾いている。また、北ヨーロッパの画家による運動で、名前がコペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムの頭文字から作られた COBRA に敬服している。 アスガー.ヨルン、アレシンスキー、コルネイユなどの画家の絵は、子供の絵から多くの着想を得て、自然でカラフルだ。 ポール.モロー ( 彼が書き下ろした 「 太陽よ急げ 」 はアランが演じた。がドロンのリビングルームに置かれている。「 私はいつでも自分の喜びのために美術品を購入してきました。思索買いではなく。 」 沢山あるオフホワイトのソファーのうち、いつもコーヒーを飲むソファーに腰掛け、彼は、1940年にド.ゴール将軍によって呼びかけられた 「 全てのフランス人への呼びかけ 」 の写し ( これは人々が間違って解釈しているような 「 6月18日 」 の呼びかけではない。) を取り出す。彼はこの文書がフランスを離れないように、30万フランというとてつもない金額で買ったのだったが、その後、ポール.モリス、 ジャン.コー、 ミシェル.ドロワとの会食の末、レジスタンス解放博物館へ  Michel Debre を介して寄付することを決めたのだった。 「 ド.ゴールは、私が惜しむ唯一の政治家です。彼と出会うことが無かっただけに、余計に悔やまれます 」  将軍の手から直々に、軍人としてレジオン.ドヌール勲章シヴァリエを受けることが、ドロンの秘密の夢の一つだった。 ( ドロンは、ドゴールがアイルランドで散歩中の写真を2枚飾っている。)   実際は、彼にレジオン.ドヌール勲章シヴァリエを個人的に授与したのは、アランが願い出なかったものの、彼がフランスに効果をもたらしたと考えたフランソワ.ミッテランだった。 「 私は自分が保守派の人間で、反共産主義者だということ、そして人々が思うようなファシストではないということ以外は、政治に関して何も言うことはありません 」  アラン.ドロンはジャケットの折り返しに、勲章をつけない。 勲章は引き出しの中、ジャック.ラングから与えられた国家功労勲章コマンドゥールや、棺の中のロミー.シュナイダーの最後のポラロイド写真など、胸を締め付けるような個人的な文書と一緒にしまってある。  
  • Douchy の別荘でのドロンについて その2 ) 少しばかり感慨深くなって、彼は暗く簡素な一枚の写真をフレームから取り出す。サンタフェの刑務所でのカルロス.モンソンである。独房の彼を見舞いにやってきたアランに抱きしめられ、涙に包まれた空 ( くう ) を眺める。彼は三人目の妻を窓から放り出した廉で、懲役11年の刑に服していた。ボクシングファンのドロンは、60試合中56勝を収めていたヨーロッパチャンピオン Jean-Claude Bouttier とモンソンとの間にトーナメントを敷いてミドル級世界選手権を開催した経緯を語る。 ( ドロンは映画 「 若者のすべて 」 の撮影に際して、チャンピオン Sauveur Ciocca からボクシングを学んだ。 ) ドロンは、このフランスボクサー Jean-Claude Bouttier のトレーニングを完璧にするために、はじめ彼を自宅に招いていたが、最後には彼を Douchy に住ませ、芝生の真ん中のテント下に赤いビロードのリングを設置した。 木靴をはいたミレーユ.ダルクが料理をし、何皿ものビタミン過剰の食事を Bouttier や彼のコーチ Jean Bretonnel、 そしてこのフランス男と殴りあうために来た何人かの挑戦者たちに出していた。 Bouttier は、結局アルゼンチンの対戦相手に負けることになる1973年9月23日の試合に備えて、そこに46日間滞在した。ドロンはモンソンを翌年の Jose  「 Mantequilla 」 Napoles とのリターンマッチに組み込んだ。 ( この時は Douchy でのトレーニングはなしだった。) これらの試合のポスターをアランは保管している。 このスポーツ用のテントが張られていたまさにその場所で、アランとミレーユは、1976年7月、 「 友よ静かに死ね 」 の撮影クルー全員を芝生の上でのピクニックに招いた。ジャック.ドレー監督、アラン.ドロン制作、出演の映画はギャング一味の容赦ない襲撃をフランス解放を背景に描いたものだった。クランクアウトの後、映画の撮影クルー全員がこうして芝上で祝宴をして気持ちの良い一日を過ごした。( アランの恋人役を演じた二コール.カルファンは、これを昨日のことのように覚えている。) なんと多くの思い出がアラン.ドロンの記憶に生きていることか。その場所からあまり遠くないプレイルームでは、ビリヤード台、ルーレット台、クラップス台、そして他のカジノゲーム台やボーリングフロアに、紙、資料、保管された雑誌記事などが溢れている。 一方、蔵書の書棚には、希少本、製本されたシナリオ、映画アルバム、彼について書かれたフランスやその他の国の本などが収められている。 机の上には、友人の悪漢  Francois Marcatoni のために彼が文を書いた手紙が乗っている。アランは言う、「 私の友人にやくざがいたとしても、私の友情は人にとやかく言われるようなものではありませんし、誰にも、何も報告することはありません。人の行いを裁くのは私の仕事ではありませんから 」 巨大な木製テーブルの一角に、忘れられない幾つかの賛辞がごちゃごちゃに並んでいる。 制作スタッフがわざわざ Douchy にまで出向いた 「 Les Dossiers 」 の1989年スペシャル番組時のものから、フランスフィルムライブラリーが出した二つの賛辞に至るまで、何一つ紛失されていない。壁一面には犬の写真だ。 「 私を見捨てず、裏切らないと確信できる唯一の生き物です」 しかし、そうは言うが、アランはイタリアのコートメーカーの宣伝出演に OK した。「 この件に関しては、私は多少とも丸め込まれたので、その分余計に、親しくしていた大好きなブリジッド.バルドーが気を悪くしたことが悔やまれます。私は動物を大切に思うし、動物たちには少しでも苦しんで欲しくありません。自然が好きだというのに、その中で最も美しいものを何故破壊するのでしょう? 私は銃をいじることが確かに好きですが、だからといって私がハンターになった試しは一度だってありません。 コレクションするほどに銃を好きになったのはインドシナでのことでした。私の持っている銃は大した価値はありませんし、博物館の展示物のようなものではないんですよ!私の銃に対する情熱は、西部劇への称賛と結びついているのです。一緒に仕事をするはずだったジョン.フォード、アーサー.ペン、そしてサム.ペキンパーらを通じて、私はウエスタンの世界を見出しました。最も美しいは、『  ビバ!マリア 』 を撮影中のブリジッド.バルドーに会いにメキシコに行った際に、妻ナタリーのために作らせたミニチュア ( 本物の宝石でできた ) の二つのピストルです 」。

( Delon with Nathalie and Anthony when Delon was shooting "La Veune Couderc" ) 

  • ( Douchy の別荘でのドロンについて その3 ) 邸宅訪問は続く。上映ルームの映写室には、木の手すりの上に、完璧にグリースを塗ってワックスで磨かれた馬の鞍が置かれている。 「 黒いチューリップ 」 や 「 アラン.ドロンのゾロ 」 でのギャロップ、それに灰色のジョッキーブラウスがトレードマークの彼の繋駕、馬厩舎を思い出させる品だ。彼の馬  Equileo は世界チャンピオンにもなった。夜になると、まさにコンサートとも言えるような鳥の歌が聞こえる。 「 その歌を聞いていると、ある夏の、あるコンサートを思い出すのです。動物園近くのアパルトマンに住んだローマ時代のものです。動物の鳴き声のために、私の目は夜もずっと冴えていました 」 彼は微笑む。一つの思い出が、また別の思い出を呼び起こす。この首都ローマに滞在していた時、彼はテネシー.ウイリアムスの小説 「 ストーン夫人のローマの春 」の映画版をもう少しで撮るところだった。褐色の美男子役を演じる機会が与えられかけていたが、結局はウオーレン.ベイティが、マレーネ.ディートリッヒを相手役にその役を演じた。彼女の腕に誘惑されることを夢見ていたドロンは、ひそかに目を閉じた。 ふと、彼は 「 屋根裏部屋に住み、サンドイッチをかじっていた 」 時代のガールフレンド、ダリダを思い出す。彼女とはイタリアの有名な歌  「 甘いささやき 」  を復活させた。「 また、いつもの、おなじ言い方するのね...」  アラン.ドロンは思い出の中に生きるのが好きだ。どんな思い出も、彼はすべてとっておく。こうして、彼の隠れ家の壁中には無数の物が飾られている。整理棚からは、 「 カサノヴァ最後の恋 」 のシルクの刺繍入りのベストの一つが垂れ下がり、コート掛けには、彼の多数の刑事ものの名残であるトレンチ風のグレーのレインコートがある。今度は、また別の時代。別の時。そしてミレーユを思い出す。 「 彼女はロザリーの次に私がもっとも愛した女性であり続けるでしょう 」 彼はつまずく。どの部屋のあらゆる場所にも、わざと片付けないで子供のおもちゃが転がっていて、幸せな持ち主たちの帰りを待っている。ペダル式の大きな車がジュークボックスの横に止まっている。息子のベッドの近くには、連続して撮られた10枚ほどの写真が混ざって貼られている。アランが舞台に出ていた頃に撮られたものだ。  「 Les Yeux creves 」 から30年経ったある日、アランは、エリック.シュミットが書いた 「 謎の変奏曲 」 の戯曲に惚れ込み、劇場カムバックを決心した。彼の誕生日の晩、ロザリー、Michel Marizy、Bertrand Reindoff-Petrov は、劇場案内の女性らを介して約1000個のライターを Marigny  劇場の観客に配った。最後の挨拶の時、全員が 「 ハッピー.バースデイ 」 を歌い出しながら気持ちをかき立て火をつけた。一方、俳優の下の二人の子供たちは、母親に連れられて彼にキスをしようとステージに飛び込んだ。アランは涙を抑えることが出来なかった。観衆の間では、ハンカチが飛び交っていた。下の息子アラン.ファビアンにとって、これが始めてのステージだった。彼に関しては2002年初めに  「 Fabio Montale 」 シリーズの最終エピソードの最終シーンで見ることができる。 Jean-Claude Izzo  のマルセイユを舞台とした3部作の一部で、アランがマルセイユの問題地区で町と南部地方と一体を成した刑事を演じるものだ。思いがけなく共演者となったアラン.ファビアンは ( 父親と共に演じることに大喜びして )、殺された警察の同僚マチルダ.メイの小さな男児役を演じた。ぼこぼこに怪我したアランが、腕を包帯でつって墓地から出るシーンで、彼の一番下の子供にまるで貴重な情熱を伝えるかのように、最後の対話をする相手がまさに彼だった。 Gilbert Coullier  制作 ( 制作仲間全員の仲は始めから、ぎくしゃくしていた ) で、次のシーズンにパリ劇場で、芝居を再開した時、ステファーヌ.フレスが  Francis Hunster  に代わった。アランは、予告していた世界ツアーを始めることなく、100公演した後、1月1日に公演をやめた。また、クリスマスイヴの晩とクリスマスを、子供たちや妻と一緒に自宅で過ごせるよう、当日の休演を願い出て契約によってそれを獲得した。彼が  Douchy の敷地内をそぞろ歩く時間帯に、ロザリーはよく彼の携帯電話に電話する。ロザリーは彼に注意深く気を配る。 「 私はいつか教会で彼女と結婚するでしょう。彼女は私の運命の女性であり、私の子供たちの母親です。50歳にもなって子供を得るということは、すばらしいことです。何故なら、利己心、自己中心的な面をついに一掃してしまった後だからです。ロザリーは私の精神安定であり、力であり、幸福です 」 彼らの愛情は14年来のものだ。 「 Blanc et Noir 」 を歌うヨーロッパツアーの最中に、アランはロザリーとドイツで出会った。彼はハンブルグとケルンでの、2本のテレビ番組のためにドイツにいたのだが、バックミュージシャンに欠員が出た。そして、代わりの女性もドタキャンをした。友人の一人に交代を頼んで。頼まれた彼女は歌手でもなければ、ダンサーでもなく、モデルだった。ミス.オランダ、ワールド.ミス.ユニバーシティだった。彼女は音程をとるために練習し、約束の赴いた。それが21歳 ( アランより31歳年下 ) のみずみずしいロザリーだった。 「 イメージに反して、私は誘惑者ではありません。自分が本当に夢中で恋をしている時には、カフェやレストランで何十人も人のいる前で、彼女の足元に身を投げるにちがいないとわかってはいますが 」 アランはほとんど夢に見たくらいに幸せだ。  「 実は、私は 『 本番 』 とか 『 カット!』 という言葉に囲まれていないと本当には幸せではないのです。何故なら、その時私は仕事をしているし、この仕事が好きですし、同時に別人になれるからです。 ドロンは無理をしているのではなく、孤独を愛することを楽しんでいる。今日を生きる支えとなる昨日に囲まれ、神話的な幻想を伴い、常に誇り高く、常に魅惑的で、常に反抗的で、映画をやめると決めたことについて不安すらない。  「 私は、映画スタジオで生涯を終えるつもりはありません。そんなことには耐えられません。私は映画をやめることを決め、実行しました。そして、再び舞台に上がると決め、実行しました。『 Le Chien 』 と 『 Cinema 』 の後、テレビに復活することを決め、実行しました。今、私は一通りを終えてしまったのです。もし、ファンが望むのであれば、私は失せかけた情熱を取り戻して、続けましょう。もし、望まないのであれば、私は Douchy で別のことをしていましょう 」 犯罪シリーズの何世紀かを通りぬけたシェイクスピアの王子のように、彼は大物としての名声が、時々自分の道を妨げているのではないかと疑問に思う。丹念に仕上げる喜びで管理してきた個性の輝きを今でも保ち、みずみずしい顔色のままで、彼は皺とリスクを負い続ける。燦燦とした太陽が、黄昏時の輝きで彼を赤く照らすし出す時、アランは彼の人生と過去に、まだ幼少時代の冷たい涙が輝いている青い視線を馳せる。 「 悲しく、孤独で、途方に暮れて辛い時、私は森へ大きな木々の間を歩きに行く。木は私を裏切らない。そこで私は、あの将軍のように、物事のくだらなさを理解する 」。                        - Alain Delon -       In Douchy in September 2001  

( The front door of Delon's former apartment in Paris on Oct 23rd 1988 )

( Delon at Pance Son Parfum in U.S.A )

  • ドロン、舞台 「 Les Montagnes Russes 」 を2005年4月11日から14日まで、モスクワのマヤコヴスキー劇場で公演 する予定であったが、4月1日にキャンセルされた。その理由は公式発表では、ドロンのある個人的理由らしいが、非公式筋によるとドロンの健康上の理由らしい。( Information By Miss. Karina ) 心配です!!! 迷走神経の疾患のようで症状は軽いそうです。
  • 1972年のインタビューで、ドロンはこう語っている。「 私は、自分が単なるハンサムとは違うことを、人々に分かってもらえるよう闘います。私は、スターではありません。俳優です。私が、映画界で成功したのは、ある意味、奇跡です。それまでの私の人生は、破壊的な経験の連続でしかありませんでした。考えてみれば、私のプロとしての成功を招いたのは、その当時の思い出だったのかもしれません 」。
  • ドロンがいつも右手首つけているブレスレッドは、18金の留め金具を備えたアフリカ象の髪の毛で作られている。もともとは、このブレスレットは母親象が群れを保護することを象徴して、お守りの為に身につけられたものです。この同じブレスレッドを息子アンソニー、ミレーユ、ロザリーもつけています。F1のミハエル.シューマッハも愛用者の一人です。価格はフランスで約 $ 460です。
  • 2005年5月8日付けのスイス紙ルマタン日曜版は、アラン.ドロンがジュネーヴ郊外の豪邸を 350万スイスフラン ( 約3億円 ) で売却したと伝えた。売却後もジュネーヴ近郊に住んでいるが、新住所は明らかにされていない。  以下の詳細情報は、Miss. Karina からの情報 - ドロンはこの邸宅を売却したくはなかったのだが、2005年3月に有利な条件を提示されたため、売却を決断した。彼は、この邸宅を売却価格よりも相当安い価格で購入していた為、この提案を断ることが出来なかった。この邸宅の広さは、1,480mである。 ドロンの新しいスイス.ジュネーヴの住居は、bourgeois と呼ばれる  quater de Champel 地区 ( ドロンの以前の邸宅からバートランド公園をはさんだ反対側の Bank of Rhone 近くの左側の旧市街 ) に位置しているアパートメントである。彼はこのアパートメントを借りている。
  • カンヌで最も有名なホテル、ホテルカールトンはカンヌ映画祭の時期に、世界の有名人の名誉にちなんで名づけられた7個のデラックススイートルーム をオープンした。( ショーン.コネリー、ソフィア.ローレン等 ) そしてそれらの中で最も高額な部屋がアラン.ドロンスイートである。現在 ( 2005年5月 ) この部屋は、ロシアの映画会社 「 Top Line Production 」  がテナントとして入っている。        - information By Miss. Karina -
  • Island Records の創始者 Chris Blackwell はナタリー.ドロンの邸宅を2001年もしくは2002年8月中旬、オークションで購入した。彼はアメリカユタ州サンダンスにある、6個のベッドルーム、プール、ワインセラーがあるこの邸宅を $1,210,000で落札した。
  • 2004年の舞台 「 Les Montagnes Russes 」 の大成功により、ドロンは2005年10月11日から12月16日まで、この舞台の公演ツアーをフランス、ベルギーで行う。  ( Avignon, Bruxelles, Lille, Toulouse, Bordeau, Marseille, Cannes, Montpelier, Toulon )
  • Kiki とは、2年近く前からフランスとスイスで Alain Delon と同棲している Catherine Bleynie のことである。Catherine は美しく、金髪で、明朗だ。大スターである彼の人格に圧倒されず、自分自身であり続け、二人のバランスを保っている。Kiki こと Catherine に、Alain の新作、Jose Pinheiro 監督の 『 Parole de Flic 』 は捧げられている。「 今までとは全く違う Delon を引き出してくれた彼女にこの映画を捧げることにしたのです 」 と彼は言う。雑踏や噂から離れ、彼は Loiret 県 Douchy の邸宅に私を昼食に招いてくれた。『 Parole de Flic 』の話に入る前に、彼は、シャンパンを選び、三方が庭に面したガラス張りで、一方が夜になるとプールに開かれる見事なつくりのダイニングの巨大な暖炉の周りでせっせと動き回る。薪をかき混ぜ、厚い牛肉のリブを焼く。彼の所有地は55ヘクタール近くあり、森に囲まれた池と、木製の白い母屋 ( 室内プール、電子ゲームルーム、映写室、大きな調理室が備わっている ) の周りには6棟ほどの家がまとまっている。スピーカーがあちこち目立たないように置かれ、ロックやバイオリン音楽が流れる。我々は、この Paris Match の次のページでインタビューに登場する彼の好きな 『 人たち 』 について話す。彼は、この好きな 『 人たち 』 についての記事の編集長役を楽しんでいるようだ。「 私が Caroline 王女に書きたいのはこれです…。Eddy Michel や、私の友人 Prost にはこれを質問してください...。私の代子の Geraldine Danon については、彼女をただしゃべらせておくだけで十分です...。それから、Salat-Baroux 教授は、内容の濃い話で感動させてくれるでしょう...」 などなど。もてなしは続く。この俳優は王のようだ。シャンパンは良く冷え、太陽は Douchy に様々な影を投げかける。Chatherine は、テリーヌ、サラダ、最後にチーズを持ってくる。村で買ったフランボワジエ( ケーキ )。笑い声。本当に恨み言無しで、神は自らの地上体験をよみがえらせたのではないか、と思ってしまう。このようなエデンの園にこのようなカップルを生み出したのだから。そして、私たちは Parole de Flic 』 について話す。1984年8月に映画が企画されると、Alain は、ジュネーヴで筋力トレーニングをし、撮影は今年の初め2月から4月に行われた。はじめはコンゴ( Kiki は彼に同行した ) で、次に今年特に冬の寒さが厳しかった Lyon、最後は Les Magrettes という Lyon の一地区をセットした Epinay のスタジオ Lyon 市長が現場での撮影を許可しなかったからだ  ) でだった。6月には、100%映画製作に関わったAlain が、『  I don't know  』 というこの映画の主題歌を Phyllis Nelson と録音し、映画は7月半ばに完成した。途端に検閲からのブレーキがかかる。そして映画の宣伝の4秒間が13歳以下には禁止ということでカットされた。また映画自体も18歳未満には禁止される恐れがあった。Jack Lang は賢明にもこの勧告を延期した。 そして、8月半ば、パリや大都市に先駆けて、海水浴地の120都市で映画 「 Parole de Flic 」 が公開され、口コミで評判は広まった。 Deauville で映画が公開された最初の晩、ドロンは怖いもの見たさで、お忍びでカトリーヌと見に行った。そして、一般の列に並ぶつもりでいたが、結局気づかれ客席に案内された。映画が終わると観客は絶賛し、もう一度上映するというアナウンスが流れた。 その後、ドロンはレストラン Normandy で食事をしたが、レストランの給仕長がテーブルの上に電話を置き、アランは分刻みに120の都市での観客動員数を知らされた。 第一回の上映で20,000人が入った。すべてが動き出した。パリでも上手く行くはずだ。常にリスクを避けない Delon は、映画に登場する10箇所ほどの大きな滝でも演じきった。これらは正真正銘の滝だったので、撮影の最中、凍てつくローヌ川に飛び込んだ Delon が木の幹にしがみついた時、関係者はそれが演技ではなく本当に助けを求めているのかと思った。また、彼は子供の前でピエロを演じるシーンは、本物の幼稚園児に Pinder サーカス劇場でピエロを見せると言って撮影した。ピエロを見ていた観客は、ピエロ.オーギュストが Alain だとは全く知らされていなかった。私は彼が 良い子のみんな、こんばんは。今日は良い子でいたかな? うそつきはいるかな?」 と言って、ステージに上がったところを覚えている。ピエロの Alain は10回以上も作り物の鼻を落としそうになり、袖のカフスはくっつかず、カラフルなサスペンダーを何度も引き上げ、壊れた襟に息詰まりながら、「やめて、やめて、私はうそつきじゃないわ!」と叫ぶ小さな女の子の頬にキスを迫っていた。ショーの最後に、Alain は、サーカスのファイナルパレードをする。そしてかつらと偽鼻を取る。Delon だとみんなが分かった。Delon は、我々をあっといわせてくれた。舞台裏では、彼の親指から血が出ていた。ショーの最中に怪我をしたのだ。彼はおなじみの小型葉巻を吸っていた。技術者達が次のショーのための移動撮影装置のレールを敷いている間、彼はまるでオーディション後の役者の卵のように私に聞いた。20年のキャリアと72本の映画を撮った今、恐れるものがないはずの彼が。「 彼女は今朝、来れなかったんだ。今のシーン、彼女気に入るかな?」。もちろん彼女とは Kiki のことだ。この映画は、彼女のために作られたのだから。   - information from the article by Jacques Josselin from Paris Match 6 Sep 1985 -

  • 1958年、ロミーがパリに来た最初の日、アランとブリアリは、彼女と彼女の母を 「 Lido 」 に招待した。しかし彼らはお金を持っていなかったため、ロミーが支払わなければならなかった。
  • 1958年8月22日、「 恋ひとすじに 」 の撮影中、女優 Micheline Presle の誕生日にドロンとブリアリは彼女に蛇の形をした金のブレスレッドをプレゼントした。彼女は、「 アランはいつも礼儀正しく、思いやりがあった 」 と語った。
  • ウイーンで 「 恋ひとすじに 」 撮影中、アランとロミーは、それぞれ離れて違ったホテルに滞在していた。そして、アランは夜にロミーのもとにやって来て、ホテルの正面から彼女の部屋に登った。       - information by Miss. Karina -
  • 「 パリの灯は遠く 」 で、ロベール.クライン役を演じたドロンであったが、妙なことに、このロベール.クラインという名前は、「 フリック.ストーリー 」 の彼のスタントマンの実名と同じであった。
  • 「 友よ静かに死ね 」 当時のドロンのメーク係は、 Michel Deruelle ( 女性 ) であった。
  • 「 地下室のメロディー 」 撮影中のある日、スタジオに礼儀正しい、つつましやかな男性が現れ、ドロンに一通の手紙を渡して欲しいとスタッフに頼んだ。( 手紙の中身は、私は解雇され、二人の子供を持っている。だから援助を必要としている。そして子供たちの写真も同封されていた。) そして彼は、ドロンからの返事を待った。ドロンはスタッフを通して、必要なお金を彼に与え、その男はその場を去った。しかし、翌日、似たような内容 ( より感動的な ) の手紙が Gabin に届けられた。つまり、ドロンは簡単に騙されたのである。 ( Information by Miss. Karina )
  • 1953年、ドロンがインドシナへ行く前のガールフレンドは、Madelaine Lebeau ( 女優 ) の妹。Lebeau は、ドロンの母と親しかった。 ( Information Miss. Karina ) そして、インドシナ戦線従軍中、ドロンはポケットに、パリ地下鉄の切符と彼女の写真を忍ばせていた。
  • 「 ボルサリーノ 」 の原作は、ジャーナリスト、オージェーヌ.サコマノが書いた小説 「 マルセイユの悪魔 」。
  • 「 ボルサリーノ 」 は、イタリアの有名帽子メーカーの名前だが、ドロンはこの名前を映画のタイトルに使うために自ら、イタリアのこの会社の重役たちのもとへ出向いた。
  • 「 ボルサリーノ 」 で、俳優126人とエキストラ600人がマルセイユとパリで16週間雇用された。 デラアエ、イスパノ.スイザ、ドラージュ、タルボなどのクラシックカーが借りられた。 ドロンとベルモンドのギャラはそれぞれ2億フランであった。

    ( Alain Delon and Jean-Paul Belmondo - photo from Natacha )

  • ドイツでの報道によると、ドロンは 「 ジュリアス.シーザー I 世 」 の役を ( new Asterix Film で ) 演じるらしく、撮影は来年 ( 2006年 ) から始まるらしい。そして、ドロンはまた、聖書の 「 サウル王 I 世 」 の役も演じるらしい。 ( Information by Miss. Petra )
  • アランは、彼が、50歳のとき、次のように言っている。「 国王が自らの意思で国王という職業に就くのではないのと同じように、私も、スターという職業に就いている 」 「 日本人は、私に触れたり、私の手に接吻することに大喜びする 」 「 私には、師匠もいたが、才能もあった 」 「もしも私が、政治家だったなら、Barre 氏のようであっただろう 」 「 私は、確かに50歳です。そうは見えないけれど 」 「 家庭を築き、孫が欲しいと思うようになりました 」。
  • ドロンの携帯電話 ( 2005年3月現在 ) の色は黒で、長さ 2cm ほどの太いアンテナが付いている薄型。この電話機のアウターシェルの素材は、やや弾力性のある柔らかいものである。着信音は、音楽ではなく、通常の平凡な呼び出し音である。
  • 「 太陽が知っている 」 の撮影に使われた別荘は、サントロペの高台にある村ラマチェエルにある。当初、この映画の監督、ジャック.ドレーは、マリアンヌ役に、モニカ.ヴィッティーやアンジー.ディキンソンを考えていた。
  • ドロンのタンクルーの別荘の名前は、「 プリウール 」。
  • フランソワ.マルカントニーは、ドロンとナタリーが結婚した時の立会人であった。
  • ジュネーヴのドロンの行き付けのレストランは 「 Costes 」。
  • 女性についてドロンは語る。 「 女性は必要悪だ。私は女性を理解出来ないまま、死んでいくのだろう。女性が介入すると、物事は複雑になり、ひどく恐ろしいことになり、しかし同時に想像を絶するようなことになる。彼女は我々に、ものすごい影響力を持っている。彼女らが世界を動かしているのも同然だ。彼女らが男性を動かしているのだから。選ぶのはいつも女性。これが私の40年の貧弱な経験の末の結論である 」。      −1996年 Ingrid Fallay による記事 −
  • アランとナタリーは、アンソニーが生まれた時、名前をアンソニーにしようか、グレゴリーにしようか迷っていた。
  • ドロンは言う。 「 私の出演作品の中で15本の古典作品がある。私が古典と呼ぶのは後に残っていく映画のことで、これが大事である 」。
  • 2003年5月12日、ドロンは、マルク.オリビエ.フォジエル司会のフランスのテレビ番組 「 On ne peut pas plaire a tout le monde 」( 皆に気に入られるなんて出来ない。)に特別ゲストとして出演し、ブリジッド.バルドーと映画「 軽蔑 」のワンシーンを演じた。
  • ( すずめの Peewee について ) 1999年、Douchy にて、ロザリーが、足を怪我していたすずめを獣医のもとに持って行った。水に浸したパンを一口ずつ与えると、奇跡的にも鳥は再び元気を取り戻した。足が良くなったころには、 Peewee は既に家族の一員になっていました。キッチンの大きな籠の中で飼っていましたが、ある日、子供たちに Peewee を自由にしてやらねばいけないと言う日が来ました。そして、私たち4人、鳥と一緒に外に出ました。みんなとても辛かったです。ロザリーが「 さよなら、 Peewee 」と言うと、鳥は池の方に飛んで行きました。私たちは馬鹿みたいに突っ立っていましたが、家に入りました。そして、夕方、あまり意識しないよう、また外に出ました。ロザリーが 「 Peewee Peewee 」と呼ぶと、突然鳥が現れました。キッチンの自分の場所に戻ってきたのです。ロザリーは、鳥が父親になっていて、父親としての一日の役目を終えてキッチンに戻るのだと考えました。二つの家というわけです。  2000年の夏の終わりに、鳥はまたどこかへ行ってしまい、私たちは少し落ち込みましたが、10月6日にパリで腰の手術を受け、13日に救急車で家に戻ると Peewee は帰っていました。それ以来、鳥はどこへも行きません。子供が学校に行っている時、鳥は私と孤独を共にします。私にとっては素晴らしいことです。 「サムライ」 の中で私が演じた役も、鳥を飼っている人間でした。撮影期間中のある晩、パリ13区の Rue Jenner のメルビルのスタジオは火事に遭いました。私は現場に駆けつけましたが、着いた時、素足にスリッパでパジャマ姿のジャン.ピエール.メルビルは、自分のスタジオや作品が燃え上がる大惨事に立ち尽くしていました。彼が私に言った最初の言葉は、  「 アラン、僕たちの鳥が!」 でした。 Peewee の存在は時々、何かの兆しのように思います。ジャン.ピエールのめくばせのような。
  • ミレーユ.ダルクのニックネームは 「 Mimi 」。
  • 「 プレステージ 」 の原作は、フランスの小説家ポール.モーランの小説 「 1/4秒に生きる男 」。
  • 「 危険がいっぱい 」 は、アメリカの小説家デイ.キーンの小説 「 喜びの家 」 を元に、ルネ.クレマンとチャールズ.ウイリアムス、パスカル.ジョーダンらと共に脚色したものである。
  • ドロンは、十字架の付いたロザリオをビジネス用アタッシュケースに入れて持ち歩いている。
  • 1990年のある日、ドロンはジャンポール.ベルモンド ( 彼はガールフレンドと小さな犬を連れていた。) と一緒に、パリのシャンゼリゼ通りのラルフ.ローレンの店の近くでショッピングをしていた。そこへ、私の知り合いのベルギー人が駆け寄り、二人にサインを求めたところ、ベルモンドは快くそれに応じたが、ドロンは拒否したらしい。だが、彼は今では、 ドロンの熱烈なファンである。 - information by Mr. Thiery -
  • ドロンが尊敬していたド.ゴール将軍は、生前彼のことを 「 きらびやかな才能の持ち主 」 と評したそうである。
  • ミラノで 「 ビッグ.ガン 」 撮影中のある日の夜、ドロンは、監督とスタッフ数人と、「 サンタ.ルチア 」 というレストランに夕食を取りに行くが、食事をする相手がいつの間にか30人ほどに膨れ上がってしまい。興ざめしたドロンは、ろくに食事も取らずに、勘定をしようとするが、既に監督のドッチオ.テッサリが勘定を済ませたことを知り、烈火のごとく怒り、結局ドロンが勘定を支払い、コートを着て、ポケットに手をつっこみ出て行った。

    ( Delon in "Doucement Les Basses" in 1970 )

  • ドロンは、「 あの胸にもう一度 」 ( ロケ地、イギリス、ドイツ ) というあまり彼にとって意味のない作品に出演したが、これはイギリスに自分の名前を売り込むためであったらしい。
  • 1970年3月、パリで 「 ボルサリーノ 」 がフタを開けると、最初の17日間になんと44万人の観客を動員した。
  • ドロンは日本料理が苦手。ドロンに言わせると日本料理は幅が狭く、中国料理はインターナショナルで、フランス料理は、田舎料理にかぎるとか。彼のお気に入り料理は、シュークリット ( アルザス地方の料理 )、スパゲッティー
  • 2005年9月6日、AFP 及び私の友人の Miss.Karina の情報によると、この秋に予定されていた舞台 「 Les Montagnes Russes 」 がドロンの健康上の理由 ( 心臓の血管疾患 ) でキャンセルされることになった。ただ、重大な問題ではなく、主治医からの勧めで予防的意味でのことらしい。ドロン曰く、 「この問題は私自身の怠慢から起きた問題で、医者から勧められていた、運動を怠っていたから 」。
  • Adel Production 制作の最後の作品は、1986年の 「 デーモン.ワールド 」 で、翌年1987年に新しい制作会社 「 Leda Productions 」 を設立した。
  • 1978年2月、ドロンは、ジャンヌ.モロー、ジェーン.バーキンらと、アヴォリアーズで開催された  「 The 5th Festival of Fantastic Cinema 」 に出席した。このアヴォリアーズは映画 「個人教授」 の舞台にもなった美しいウインタースポーツの町。
  • 映画 「 リスボン特急 」 の冒頭のシーンは、大西洋に面した、ヴァンデ県のサン.ジャン.ド.モンという町で撮影された。
  • 2005年10月5日、ドロン冠動脈動脈拍の検査のためパリの 「 Ambroise-Pare de Neuilly-sur-Seine 」 という病院に入院。7日に退院。結果は異常なし。 ( Information by Miss. Karina )
  • いたずら者のアメリカンシェパードは、今では、ドロンが最も信頼を置く相棒の一員である。アラン.ドロンの犬への愛情は深まる一方だ。しかし、ドロンが人を賞賛することは珍しい。唯一の例外は、GIGN ( 特殊憲兵部隊 ) の憲兵たちだ。夏の終わりのこの日 ( 2005年 )、彼は GIGN の T シャツを誇らしげに着ていた。 ( パリマッチ 2005年9月15日号より )
  • 彼の家は思い出の神殿だ。守護天使が、傷ついた男の夢に相応しい世界を此処彼処に築き上げている聖域だ。ここは、まさにアランの隠れ家である。ここで、彼は、彼への愛着を惜しみなく示す二匹のシベリアンハスキーとともにまどろむ。傍らには、本や新聞。しかし、彼を惹きつけるもの、それはいつでも過去である。今、彼は友人 Jean Cau の著作「 Contre-attaques ( 反撃 )」を読み直している。この本は発行当時、「 抵抗と自由のマニュアル 」と定義された本だった。また、沢山の写真が彼を見守っている。彼のプリンセス、ロミー.シュナイダー。映画界の後見人、Edwige Feuillere 。 そして、アイルランドで写真に写るド.ゴール将軍。この写真には、彼がまだ20歳にもならなかった頃の軍隊の指導者 Colmet 指揮官や、Lebed 将軍とその妻も一緒に写っている。また、壁には Guyot のデッサンや Synders の絵画がかかっている。ドロンはちょうど封建時代の領主が領地に引きこもっていたように、この地 ( Douchy ) に隠匿している。 ( パリマッチ 2005年9月15日号より )
  • 「 ジュリアス.シーザー I 世 」 のフランス語タイトルは、「 Asterix aux jeux olympiques 」。
  • 夏の終わりの光溢れるこの季節、ドロンは、我々を彼の王国へと案内してくれた。全てを訪問するのは不可能だ。まさに万里の長城に囲まれた、監視カメラで一杯のこの広大な緑溢れる秘密の場所を探検するには、最低3日は必要だろう。何棟もの家、庭という庭、3つのプール、チャペル、森、大きな、ヘリポート。 実際には彼は、巨大な梁のあるスイスの大きな山小屋のような、メインの家の2屋だけで生活している。レストランと同じ窯が2~3台内蔵され、プロヴァンスのテラコッタでタイル貼りされたキッチンと、3匹の犬達を伴って毎日昼寝をするリビングだ。 ( 3部屋分あるかのような大きさ ) 彼は犬達に18時きっかりに餌を与えている。彼の犬はこの3匹のシェパードだけではない。この他にも6頭ほどの獰猛な夜間の番犬たちがいる。この犬達は昼間は庭の犬小屋に閉じ込められている。アランは自分にとって痴呆が無縁でなくなってきた、ということも承知している。周知のことだが、彼は人嫌いだ。そして、有名人でいることに疲れている。50年間、普通の人として、町を散歩したり、レストランで食事をしたり、観劇するということが全くできなかったからだと言う。 「 ギャラリー.ラファイエット 」 にゆっくりと行くことができたなら…..と、彼は何度言っただろう。自分の名声が好きな一方、時々げんなりとさせられる。だから、彼は動物たちと付き合っているのだ。彼は飼い慣らした鳥 ( Peewee )を、3年間肩の上に乗せていた。今ではカラスの鳴き声を真似しながら、カラスのための俳優を演じている。最近、彼の娘の犬でオランダ風の名前の Poeky が死んだ。家族全員でこの犬を、チャペルの前の犬用の墓場に埋葬した。3年前に出て行ってから、初めてロザリーがアニューシュカとアラン.ファビアンと一緒にここに来た。( 彼は、彼女の名前を決して口にしない。) 胸が引き裂かれるような瞬間だ。犬の死のために泣いたのか、この悲痛な再会のために泣いたのか今ではわからない。この地で彼は、一族に囲まれた長老のように老いていくことを想像していた。今後は、思い出の中を行ったり来たりする孤独な王だ。彼は、美術書や豪華なオークションカタログと同じだけ、自分の映画のカセットや35ミリフィルムも所有している。二部屋分の壁は彼のフィルモグラフィーで覆いつくされているが、彼がこれらを見ることはない。この光景を見れば、彼が映画界の大物だということはすぐにわかる。世界中あちこちにいるドロン。最も偉大な人物たちと一緒のドロン。たった一人の俳優を通して見た第七芸術。ヴィスコンティー、ギャバン、ヴァンチュラ、メルヴィル、ジョヴァンニ、ロージー、デュヴィヴィエ、クレマン、 ランカスター、モンタン、シニョレ..... 「 すべて私の師匠たちだ。今生きているのは私しかいない 」 と彼は声をひそめて言った。彼の悲嘆は大目に見よう。彼が陽気ではつらつとしていたら、ドロンではなくなってしまうのかもしれない。二階へ上がる。彼のやわらかな寝室は屋根裏の繭のようである。アラン.ドロンはここで一人で眠る。彼の腰元で、ゴロゴロと喉を鳴らす三つ足の猫を伴って。 この猫は、駐車場で複雑骨折を負っていた Poupouss だ。ドロンは、獣外科の権威 Bardet 医師の力によって、この猫を安楽死から救った。どんなに多くの女性が Poupouss の代わりになりたいと思うことだろう! 彼は微笑みさえしない。 「 もしも子供たちがいなかったら、そして、変わることのない舞台がなかったら、私は別の時代、別の世界で生きているような気がしてならないのです。私の言っていることは、年寄りの石頭だとは良く分かっています。しかし、私は本当に全てを見て、全てを得てしまったのです! 」 まるで、彼の人生に溢れる素晴らしい出会いの数々が彼を無感動にさせてしまったようだ。彼は友人であり、Crazy Horse の作者であるアラン.ベルナルディンに思いを馳せる。 ベルナルディンは妻の Lova Moor とゆっくりお茶を飲んだ後、自分の頭に弾丸を撃ち込んだ。ベルナルディンは繁盛するビジネスにおける老石頭だった。自分の築いた帝国に最後の一瞥を投げて自殺したのだった。ドロンは、彼に生き続ける希望を与えてくれる女性を待っている。  「 早く彼女が来てくれないと.....」。     ( パリマッチ 2005年9月15日号より )
  • ドロンは携帯電話を5つ持っている。2つはスイス製、1つはフランス製、もう1つはイタリア製で、最後の1つは日本製の携帯電話だ。

  • ( ミレーユのアランへの手紙 ) 「 カンボジアからの帰国が少し遅れました。私は、パリマッチでの、あなたの長いインタビューを見ました。あなたは言っています、『 私は、私と一緒になる一人の女性のことを夢みています。けれども、彼女はやって来ません。 』 私は、あなたが幸せではないと感じました。あなたが我慢できなくなった世界に目を開き、見るためのちょっとした努力をした遠い昔の何回かの朝のように。あなたは覚えていますか? そのような朝、あなたは全てに怒った、そして私は、あなたの代わりに電話に応じた。私があなたを助けたり、守ることが出来るたった一つの事でした。私は、あなたの幼い頃からあてがわれた、あなたの悲しみをとても良く分かります。そして、幼少時代からの苦難を完全に克服することは不可能なことです。夜になると、あなたは少し機嫌がよくなった。そして、話をしたがった。私は、あなたに、いつも同じ言葉を繰り返しました。  「 私の愛は、 演技ではありません。あなたは、ここにいる。私も、ここにいる。アンソニーは、宝物。人生は偉大。全ての人々は、あなたと同じ。あなたは、成功した。そして、あなたは、美しい、分別がある、賢い、勇ましい..... 今日、私は、あなたを元気ずけるために、別の言葉を探している今でさえ、私は、あなたの子供たちは宝物、そして彼らには、成長する為に、未だにあなたが必要です。と繰り返したいです。私は、別の言葉を探しています。というのは、月日が過ぎ、人が 年齢を重ねると、人は、本質的な事のみを記憶する事を学ぶからです。子供たちの次に本質的な事は、あなたの才能は、損なわれていないということです。アラン、それは無傷で、そのままです。最近、あなたは、それを舞台で証明しました。他の本質的な事は、あなたが、全世界の大勢の人々を、賞賛と愛情に目覚めさせるということです。あなたは、それら両方に値します。何故なら、あなたは、苦難をもろともせず、決して弱くなく、決して不満を言わないからです。あなたが、一つの人生を面白半分に、決定的に越えた。けれど、それはまた、牢獄とは無関係であったとあなたがいつも言うこの孤独以前に、誇らしげに、堂々と越えたことを私は見た。実際に、どこへでも現れ、人々は、私たちの為に、どれほど、あなたを愛し、評価するかを言う為に、あなたに直ぐに拍手を送る。けれども、祭りが終わると、あなたは孤独を感じ、あなたの犬たちに囲まれる。私が、あなたが跪いたと想えることは、私たちが、お互いに知り合い、愛し合って以来、初めてのことです。そして、このことが、あなたの命取りになるということを私は、知っています。時に、人生は、耐え難く非常なものです。私たちは、お互いにそれを、知っています。けれども、私たちは、またそれが、回復への驚くべき力を持っているということを知っています。人生は、あなたのようです。つまり、幾度かの悲しみに満ちた朝があり、幾度かの、とても壊れやすく、慰めを与える夜があるということです。 人生には、私たちの悲しみや、私たちの傷や、私たちの放浪の旅を忘れようとする価値があると私は、あなたに言いたい。あなたが夢みているこの女性、彼女は、列車の何処かにいます。ある日、あなたは、彼女に出会い、初めて彼女を認識します。あなた自身に彼女と出会う機会を与え、あなたの孤独を遠くに投げ捨て、そして私たちの元へ、お互いに知 らないもの同士の人々が出会うかのような大きな都市の熱狂へ戻ります。人生は、疲れもせずに修復するものです。私は、愛情の中で、あなたに会うことを、既に夢みています。あなたの笑い声を聞くこと、勝利の世界に戻るあなたに会うことを。そして、あなたの心臓がくたびれているなんて、私に言わないで下さい。あなたも私も、あなたの心臓が頑丈だということは知っています。心臓は、魂です。そして、一つの太陽光線が、直ぐに、それをより良くするでしょう。あなたの光に向かって進んで!私は、あなたと一緒です 」。   - Mireille -             ( パリマッチ 2005年10月6日号より translation by Miss.Karina )

  • ドロンがミレーユより30分遅れてスタジオに来た時、雰囲気が著しく変わった。一つの電気の波、熱、緊張と歓喜の間の何か。若い助手たちは、ほのかな感動の中にいる。そして、より活動的になる。カメラのカチッ、カチッという音、この出会いの撮影は、共感に満ちたものである。ドロンは、ミレーユが、青白く、すらりとしているぶん赤銅色で、たくましい。ドロンは、ミレーユが控え目であるぶん、騒がしい。彼らは、一方が他を賛美する、願望なしに改心する理想的なカップルです。メーキャップは必要なく、ほんの少しのパウダーのみ。彼ら二人は、再び、大昔のパリマッチの表紙を飾った一枚の写真を見て、今日の写真のヒントを得る。彼らは直感に従って演じる。彼らは、携帯電話の番号を交換しあい、それから、気づかぬうちに一人の友人に電話し、彼らはお互いの容貌の印象を確かめる。彼女は、ドロンに犬たちのことを聞き、ドロンは、彼女の新しい家のことを聞く。彼らは、心でお互いに繋がっている。   - A report by Catherine Schwaab from Paris Match October 6th in 2005 issue - translation by Miss. Karina -

    ( Alain with Mireille in Nice on December 29th in 1974 )

  • 「 私のチャペルは、瞑想の場です。そこの私が眠るのです。私はそこで、35匹の犬達の墓場の横に、埋葬されることを希望しています。墓所も既に掘られています 」。  - Alain Delon -   ( パリマッチ 2005年9月15日号より )

  • 2003年、ドロンはロザリーとの別離について次のように語っています。  「 私は、男性が女性にできるこの世で最高のプレゼントをロザリーにしました。自由です。実際には私たちは2002年の夏の初めに別れました 」 。

  • ドロンは、1998年の 「 パトルイユ.ド.フランス 」 のイメージとして選ばれた。幼い頃からの夢であった兵士たちとの雄々しい飛行が、52歳にして叶ったのだった。アルファ.ジェットに乗るためには、16G という加速度の過酷な  「 射出座席適正試験 」 を受けなくてはならない。サロン. ド.プロバンスで合格通知を受けた彼は、パトルイユのリーダー Velluz 司令官の機体に乗った。夢の実現はもとより、彼は、我々にも功績を残してくれた。飛行中に感じることは、想像を絶することばかりだ。加速につぶされそうになるような錯覚は、言葉ではとても言い表せない。体験しなければならない。我々に機上の様子を伝えるため、ドロンは、目前の計器板の上にカメラを設置し、スリリングな瞬間にシャッターを切った。アクロバット飛行や、二回の宙返り、一度の横回転に刺激され続けた30分間、8機の飛行機は互いに1.5メートルのタイトな間隔で動いた。ドロンは、パトルイユ.ド.フランスにすっかり魅了されてしまったようだ。

  • Rosalie は、モデルになる前は、法律の勉強をしていた。 特に国際関係の勉強をしていて、将来は、国連などの国際関係法律分野に進もうと考えていた。 ( Information from Miss. Karina )

  • アランとミレーユは、舞台で共演する。 タイトルは、「 マディソン郡の橋 」 ( 1995年にクリント.イーストウッドとメリル.ストリープ主演で映画化された。) 2007年1月から、パリのマリニ劇場にて。フランスでのタイトルは  「 Sur la route de Madison 」。 と 2005年12月22日 ( 木 )、Radio Channel Europe-1 でミレーユが語った。   - information by Miss. Karina and Mr. Vignol -

  • 2004年7月30日、ドロンは、アニューシュカとアランファビアンと共に、モーリス島 ( リユニオン島から飛行機で約20分 ) にいた。彼らはレストラン Grand-Baie ( この島で最も美しい場所のひとつ ) で夕食をとった。彼らがここを去った後2時間後、大きな爆発が起こり、このレストランは破壊され、二人の人が死んだ。その二日後、ドロンはこのレストランで亡くなった若いカップルの葬儀に出席した。   - information by Mr.Vignol -

  • 1960年代、女優 Annette Stroyberg とドロンは恋に落ちたらしい。Roger Vadim と結婚していた彼女は、2005年12月14日、67歳でその生涯を閉じた。彼女の伝記 「 Les Liaisons Scandaleuses 」 2004 editions du Pre aux Clercs によるとドロン、ブリジット.バルドー、ロベール.オッセンはこの伝記の序文で、「 彼女は、60年代、地球上で最も美しく、かわいらしい女性であった 。」 と書いている。   - information by Mr. Vignol -

  • ドロンは、パリ.マッチとのインタビューの際に、Rosalie Van Breemen との別離を打ち明けた。15年の同棲生活と二人の子供。 ( アニューシュカ12歳とアラン.ファビアン8歳 ) 「 すべては破裂してしまった 」 彼の口から聞けた唯一の破局の理由は、年齢差ということだけだ。 「 世代の違いは大きいと思います。32歳の差です。20歳の時に、私に青春を捧げたロザリーは今、その見返りとして、人生を取り戻したいのでしょう 」 別居から8ヶ月。ドロンは、ロワレ県のドゥーシーの邸宅と、ジュネーヴのレマン湖近くの家を行き来しながら過ごしている。彼はスイスの国籍を取得したが、ロザリーはしなかった。スイス人として、身分規定のために、彼は1年のうち半年はスイスで過ごさなければならない。一方、ロザリーは落胆を癒すべく、オランダの家族の元に戻った。アニューシュカとアラン.ファビアンの親権も彼女が得たため、彼らもオランダで学校に通っている。彼らの出会いは1987年にさかのぼる。21歳だったロザリーに彼が一目惚れしたのが、真剣な恋愛の始まりだった。

  • ( ル.フィガロ 1986年3月号より )東京、大阪、福岡や京都に至るまで、我々の特派員 Pierre Laforet は、スーパースター、アラン.ドロンの凱旋旅行に同行した。彼は、生活や新しい恋人、そして政治的な意見を我々に語ってくれた。東京、大阪、福岡、京都などへ我々が密着したアラン.ドロンは、日本ではまさに生き神であった。広島訪問の際には、原爆犠牲者の慰霊碑に彼が花の冠を供える傍らで、丹念に手入れされた芝生 ( 立入禁止 ) が熱狂的な日本人たちに進入されボコボコにされてしまった。「 ママさん 」 たちが、彼を人目見たいと集まった。彼女たちは、精神分析医のように、朝まででも会社社長や役員たちの悩みを聞く会を結成し、時間によって3500~4500フランほどを受け取っている。 「 日本の女性たちには居場所がきちんとある。彼女らは、男性、異性との位置関係に不平も言わず、満足している。日本女性は外見的にも男性を真似しようとはしない。比較をしないのだ。今、ヨーロッパでは、女性たちはズボンをはいている。男性は少し前には長髪を自慢していた。全く無意味なことだ 」 とドロンは言う。「 フランスでは、日本人女性は、子供のころから従順で、人の靴を脱がせたり、気まぐれにも応じなければならないという奴隷のイメージがあるが、ばかげた話だ! 日本人女性がそのように生き、そのように育てられるのは慣習であり、我々が男性として生まれると同じように、彼女らも女性として生まれるのだ。プライドは一切傷つけられていない 」    Le Figaro - スター、アラン.ドロンの傍らで女性として生きることは、大変なことだと思います。あなたの恋人カトリーヌは、海外で初めてあなたの伴侶として紹介されてどんなリアクションを見せていますか?  Alain Delon -  「 確かに、他の人と生活するのと違って、アラン.ドロンと生きるというのはとても大変なことです。でも、カトリーヌはすべて自分で抱えています。女性にとって、アラン.ドロンと生きることの難しさとは、彼を見つめ、感嘆し、評価するということではありません。相手がスターであるという現実的な機能にあるのです。相手に適応しなければならないという問題が生じます。私は、熱狂や、喜び、興奮それに悩みを分かち合いたいと願います。ですから、もしも、コミュニケーションがとれなければ、私の横に女性が一緒にいても意味はないわけです。私は、別へと移りますよ。私の生活に亀裂が生じるわけです。私は、このようにしか生きられません 」   Le Figaro - 「 飛行機の中、ずっとあなたが彼女の手をとり、彼女の肩に頭を載せていたのが印象的でした。彼女に対するあなたの愛情に心打たれましたが、これはあなたにとっては転機でしょうか?」    Alain Delon - 「私は、転機という言葉が好きではありません。終わってからでないと、転機を上手く活かせたのかどうかわからないからです。何の転機なのでしょう? 人生の? それとも、仕事上のですか? 仕事に関しては私は心配していません。けれど、プライベートについてはあまり話したくありませんね。それでも、二つの大切な願いはあるのですが。まず、一つ目は、一人ぼっちで人生を終えたくないということです。私の伴侶とともに生きていきたいということです。二つ目は、もし遅すぎなければ、子供や孫が欲しいということです。心の底では、今まで得たことのない家庭というものを築きたいと思っているのです。転機ですか? そんなことではありません。単に自覚の問題です。ずっと以前からわかってはいたのですが、今日初めて話ました。多分、フランスからとても遠い日本にいるからでしょう 」    Le Figaro - 「 あなたは自分がどんな人間なのかいつでも自覚されていましたか? 」  Alain Delon - 「 私は控え目ではありませんが、かといって慎みがないわけではありません。私の活力は聡明さです。私は自分がどんな人間で、人からどう思われ、どんな価値があるのかわかっています。幸せな人生を送れるのは馬鹿かお人よしぐらいでしょう。聡明で完璧主義であればあるほど、ヒューマニズムや人生について分析するというのが普通です。人間をわかればわかるほど、分析するのです。そして、苦しむのです。完璧さや絶対性というのは私の人生の目的で、未だ達していないのですが、そういったものを追求すれば、聡明さが失望を呼びます。私も何度も経験しました。今では、気にならなくなりましたが 」   Le Figaro - 「 不思議なのは、ここ日本やパリでも、あなたにはあなたを圧倒的に支持する人々の近くで生きることが必要だということです。あなたを隔てる壁が同時に存在するのですがね 」    Alain Delon - 「 アラン.ドロンの場合はとても複雑です。私は優しさや愛、そして喜びをもたらしたいという強い思いがあります。でも、一人のドロンをもう一人のドロンと離して考えることが出来なくてはなりません。自分自身のイメージと他人による私のイメージです。日本では私は神のように崇められています。人々は私に触れたり、私の手を撫でたり、指に接吻することに大喜びしています。まるで、大きなバリアを越えて、教皇の手に触れ、指輪にくちづけができたかのように。彼らは別世界の人間と通じていると思っているのです。下から上を見上げて。必要であらば、足にも接吻しようと。彼らには、自分が今接吻している者の手が、自分と変わらない一人の男の手だということがわかっていないのです。この神は、ただの白人男であって、黄色人ではないということだけなのです。そして彼にも、悩みもあれば、心配事も、欠点もあり、不備を埋めようともしているのです 」。

( Alain with Kiki )

  • 1977年4月、5度目の来日をしたドロンは、赤坂のナイトクラブ 「 ラテン.クオーター 」 にお忍びで行った。

  • 2006年1月26日、ドロンは、ミュンヘンの 「 Deutscher Theater 」 で開催されたセレモニーで、第16回「 German Entertainment Prize 」を受賞した。 ( Information by Miss. Petra and Miss. Karina )  この授賞式の模様を、次のサイトで見ることが出来ます。www.diva-award.de ( このサイトは、Miss. Petra より紹介されたものです。)
  • 2006年2月25日、ドロンは、ハンガリーのブタペストで開催される 「 Opera Bal 」 と呼ばれる舞踏会にゲストスターとして招待されるらしい。この舞踏会には総勢2000人、56人の音楽家、60人のダンサー、11人のオペラ歌手が招かれるらしい。30,000本の花、1000本のシャンペン、50人のコックと共に。このパーティーは、200万人がテレビで見る。4年前のゲストスターは、カトリーヌ.ドヌーヴであった。 チケットは、290ユーロ、ディナー付きチケットは、580ユーロ。 チケット購入は、www.operabal.com     - information from Mr. Vignol and Miss. Petra -
  • ドロンは、6時間しか睡眠をとらない。朝食と同時に仕事が始まる。仕事仲間との電話、シナリオ読み、ビジネスレポートの確認、映画の執筆。そしていつでも人の話を注意深く聞く。彼は寛容さが力だと確信している。自分の利益だけでなく、映画に多額の支援もしている。彼の金銭支援や出演がなかったら出来なかった映画はたくさんある。しかし、彼は映画を自分のポケットマネーで作ったことを決して後悔しない。そういう人間なのだ。成功の中でも、失敗の中でも忠誠を失わない。トータルすると結局利益のほうが多くなる。 パリの生活から離れたドゥーシーでの週末、彼は犬の散歩をしたり、家の改装工事を見守ったり、映画を上映したりしながら過ごしている。彼はよく、家に来る労働者たちと一緒に食事をする。そのうちの一人が言う。 「 彼は何でも話しますよ。映画以外は! 彼は、我々一人一人が自分の職業について話すのを聞くのが好きなのです。どうやって私たちが仕事を覚えていったか.....とか。彼は何にでも夢中になります。とても素朴でフレンドリーです。彼の前ではみんなすぐに気兼ねなくくつろいだ気分になるんですよ 」 友人が来ると、アラン.ドロンは手料理をご馳走する。牛のリブを切ったり、料理したりすることに関しては彼に匹敵するものはいない。彼が誰かを招くことはあまりないのだが。彼は社交界に全く興味がない。自分が興味の的のディナーに参加することは彼にとって恐ろしく退屈なことなのだ。
  • 彼らは、普通にただの恋人のように過ごそうと思っていた。が、その夢も長くは続かなかった。ある早起きのイタリア人が、彼らとわかるなり、すぐさまサインを求めて来たのだ。アランの表情は閉ざされた。そして、足早にミレイユをホテル Danieli の方へ連れていった。そこでは、空港行きの舟が荷物と一緒に彼らを待っていた。またしても、夢のヴェニス、古めかしいヴェニスを二人きりで散歩するという夢は破れた。彼らが一緒に見たものといったら、二人が共演した 「 I'Homme presse 」 のロケ現場だけだった。この映画は二人の共演4作目となる。ミレイユは言う。「 アランは今のシークエンスには共演していませんが、カメラの後ろにいつもいて、私を目で応援し、アドヴァイスを与えてくれます。彼の目を逃れられるものは何もありません 」「 Jeff 」で知り合ってから、彼らはいつも一緒だ。知り合った当時、アランは Markovic 事件のために精神的に混乱していた。信頼できていつも打ち明け話を聞いてくれる相手が必要だった。ミレイユは自由な女の名に相応しく、一人で生きていた。魅了されるがままに、聞き役を引き受け、気がついたら Francois 1er 通りの大きなアパルトマンで二人は生活しはじめていた。彼らにはこの関係を公式なものにする必要性はないという。アランはいまだ、アンソニーの母親であるナタリーと婚姻状態にある。飾らずに、彼らは愛と尊重が同じ比重で存在する内密かつ持続的な幸福を築いた。はじめて、犬の餌を用意したり、拳銃を磨いている時と同じくらいにアランは幸せになった。若くして古老のアランは、好きな人たちを守り、時には支配し、彼らのためにいつもテーブルを空けておく。しかし、分別のない行動や、ばかげた発言は彼を一週間もの間無言にさせたりもする。自分にも他人にも一歩も譲らない。そんな時は、あの甘いドロンが大理石のかたまりのように硬くなる。ミレイユにとって、アランはスーパースターではない。しかし、「 少しの弱さと多くの長所 」 を持った一人の男だ。「 彼が一生私を愛するとは約束したことはない。そして、私も彼に永遠に忠誠を約束するよう頼んだことはない。大切なのは、不安を抱かずに彼の傍らで気持ち良く年を重ねていくこと。彼にも私にも扉は開かれたままです。彼が毎晩私たちのために、その扉を閉めるのを私は素敵なことだと思っています 」。
  • そこはかつてコロンブスがある秋の日の夕暮れに上陸した、太陽の光を燦燦と受けたカリブの島だった。太平洋を臨むテラスでは、一組のカップルが静かに目を閉じてプール脇に寝そべっている。彼らは、もう長い事、見つめあうのに目を見る必要もなければ、わかりあうのに話をする必要もない。そして、二人でいるために、一緒にいる必要さえもないのだ。しかし、10年も前からミレイユ.ダルクとアラン.ドロンはいつかは二人きりで、電話も、友人も、心配事もない休暇を過ごそうと約束していた。彼らの他には何もない。白い家と、浜辺と海だけ。彼らは今年、とても大変だった 「 Le Toubib 」 の撮影直後にそこへやってきた。このカリブの小さな島を彼らは忘れることはないだろう。 パリで最も美しいアパルトマンの一つ。熱帯植物が植えられたテラスで、オルセー河岸のセーヌ川を臨みながら、ミレーユ.ダルクは、ジーンズに、T シャツ、スニーカーという格好でカリブでの休暇について語ってくれた。 「 カリブの島、私の行った島は、まさに天国でした。ガイドブックや想像力のない観光客によってあまりにも使われ過ぎてしまったこの言葉を当てはめるのはちょっと馬鹿だとは思います。でも、天国という言葉以外に言葉が浮かばないのです」 「 まず、ヨーロッパの海とは似ても似つかない海があります。深い蒼の、見たこともないほどに水が透き通った、信じられないくらいに細かい白い砂の浜辺が佇む巨大な湖のようなものを想像してみてください 」  「 陸の方に上がると、今度はあらゆる色彩で目が眩むほどです。紫、鮮やかな赤、光り輝く黄色。島全体が途方もない巨大なブーケのよう 」 「 そこで、私は15日間という夢のような日々を過ごしました。15日間という期間は決して長くはありませんが、それでも冬のために思い出の保存をするには十分でした 」 ミレイユは沈黙し、灰色のセーヌ川のほうへ目を向ける。彼女はうわの空のようだ。私は彼女に、電話も隣人もなく、半日で一周できてしまうカリブでどんなことをして過ごしたのかと聞いた。 「 何もしない、ということが理想であり、完全な幸福ですね。浜辺に横たわり、何もせずに時間が過ぎていく。でもアランとは無理ね 」 「 アランは30分以上何もしないでいることができない人なんです。起き上がって、動いて、何かしていないと気が済まないの 」 「私はと言えば、彼が突然飛び込んで潜るプールや、息切れするくらいに走る浜辺や、別の島々へ向かう舟にも全部ついていきました 」 「 彼を止められるものは何もありません。時々ものすごい激しさで島を襲う生暖かい竜巻さえも 」  「 そう、本当に素敵なヴァカンスだったわ。多分、短いヴァカンスだったからそう感じるのかもしれないけど。本当のところ、私たちは、長いヴァカンスを堪能できる性質ではないのです。私は、何もしないのが好きですが、すぐに疲れてしまいます。それにアランは働いていないと生きていけない人です。仕事が彼のバランスに欠かせないビタミンというか 」  「 アランに関しては、いつも言っていることですが、本当にきちんと人に知られていないと思うの。不実でくだらないパリの小さな社交界がレッテルを貼ったような人物では全くないんですよ 」 「 アランは、無常でもなければ、冷酷なビジネスマンでもないし、ナルシストなプレイボーイでも、手の届かないスターでもないんです。彼は、とても堅くて健全で、家、家庭、忠誠心、友情、仕事相手の尊重といった、ちょっと廃れぎみの価値観に重きを置く素朴な人なのです。彼は別の時代に生きるべきだった人、古老なのです 」 「 彼を、あまりよく知らない人が生み出した彼のイメージに似ても似つかないということがおわかりでしょう 」 もう1時間もアランについて話している。アランのことだけについて。私が彼女にそのことを告げると、彼女は驚いて 「 でも何について話せというのです? 私の人生は彼の人生なのですから 」 と言う。 「 どうして自分のキャリアに執着しないのかとよく聞かれます。その答えは、単に私は、自分のキャリアなどどうでも良いということです。彼のためにいつもドアを開けておきたいのです 」 「 従属しているというわけではないんですよ。だって、このように生きることを、私が自由に選び、こうあることで私は幸せなのですもの 」 「でも、誤解しないでくださいね。私は、何もしない女性とは全く対極にいるのですから。アドヴァイスに、企画準備、管理、家事、花や木の世話は、みんな私がやっているのですから 」  「 彼にとっても、私にとっても、実際の生活は、映画でもないし ( 映画については、家では全く話しません。)、ビジネスでもなく、家事やガーデニングのようなことです。ですから、結局一番大切なことをしているのは、私になりますね 」 「 私にとって、更に大切なことは、何処に住むかではなく、誰と一緒に生きるか 」 「 アランと暮らして11年になるけれど、初めて会った時から、彼と、何処ででも、どんな風にでも暮らして行けると思ったわ 」  - information from Jours de France N 1282   1979 - 
  • ( Alain Delon Speech at DIVA 2006 in 26th January 2006  )    「 親愛なる主催者の方々、親愛なる来賓の方々、魅力的な Sophie 、すばらしい賞を、どうもありがとうございます。心から感謝致します。心から! 私の生涯の仕事が賞賛されたからです。もしも、世界に二つの特別なものがあるとしたなら、自慢のようですが、それらは私の子供たちと私のキャリアです。 私は、いつもそれらのものを世界で一番美しいと思います。そして私はそれらを私の人生に捧げます。それは私の情熱であり、そしてまたそれは大衆のためです。それは、いつも私にすべての名誉を与えてくれました。ですから、今日、私は、このうえなくラッキーですし、私の生涯の仕事に対する評価を受けたことに誇りを持ちます。加えて、今日、私がどうしても言いたいもうひとつの言葉があります。その言葉は、このうえなくすばらしい共鳴をここで見出すでしょう。私のキャリアの正に、はじめの頃、私は、本物の女神( DIVA )に、スターに出会いました。彼女は、じゃっかん20歳でした。彼女の名前は、Romy Schneider というよりは、Rosemarie Albach - Retty 。当時彼女はまだ20歳で、我々はお互いに情熱的に愛し合いました。ローマで、パリで、ベルリンで、ミュンヘンで、そしてバイエルンで。ここバイエルンは、Marienground と呼ばれる場所です。その後、彼女は、ここで私をスターにしてくれました。そして、彼女はいなくなり、私が残りました。今、彼女は68歳でした。そして私は、間違いなくすばらしい70歳です。ですから、私は、この DIVA ( 女神 ) を彼女に捧げます。特別に彼女の為に捧げます。あなたに、私のかわいいお人形さんに .....!」。   - translated to English from German by Miss. Petra - 

( Alain with Romy in July 1958  - photo from Miss. Karina - )

  • ドロンは、2006年4月14日に開催される 「 International Istanbul Film Festival 」 に 名誉ゲストとして招待され、「 Legendry Award 」 を受賞するらしい。尚、この模様は、「 CNN of Turkey 」 で放映されるとのこと。    - information from Miss. Tety -
  • 2005年10月、ロシアのある新聞社が企画した、「 Best letter to Delon 」 というコンテストがあった。結果、シベリアの女性が優勝。もちろん、ドロンは、これらの手紙は読まなかったし、勝者を選ぶこともしなかった。だが、この新聞社の記者が、この勝者の女性をパリに招待し、2006年2月28日に幸運にもドロンと会えた。   - information by Miss. Julia and others -
  • ドロンは、ベッソン、ルコント、スピルバーグから、映画への出演依頼があった場合は、検討する余地があると考えているらしい。
  • ドロンは、オランダ語を、ほんの少し理解するらしい。そして、アニューシュカとアラン.ファビアンは、フランス語とオランダ語のバイリンガル。
  • ロザリーは、ドロンの全ての作品を見ている。そして、彼女のお気に入り作品は、「 高校教師 」 と 「 パリの灯は遠く 」。これらの役を演じている彼が、衝撃的だから だそうです。
  • ( 2000年のパリマッチ誌インタビューより ) PM : 週刊 「 Newsweek 」 誌 が、トニー.ブレアを年の人に選びました。どう思われますか? AD : 本当のことを言うと、私はイギリスが嫌いです。この国はいつでも、ヨーロッパと区別されようとしてきました。みんなが右側通行をしている時に、イギリス人は左側通行。みんなが時間を変える時には、彼らは一時間の時差があります。このように他と違うことを強調するということは、必ずしも頭の良い証拠ではありません。トニー.ブレアが年の人ですか? 私はいつだって、「 何かの人 」 であり続けましたから。彼が何か特別なことをしたのでしょうか? 私にとって大切なのは、彼が20年後へ残すものです。

  • ドロンは、2006年3月1日、「 Big movie of Vermeil of Paris city 」 と呼ばれる、名誉ある賞を、パリ市長 Bertrand Delanoe から受賞した。この会場には、ドロンの子供たち ( アニューシュカ と アラン.ファビアン )、ミレーユと彼女の夫、ナタリー.バイ、そしてカルディナ.カルディナーレらがいた。ドロンは、彼の子供たちについて次のように語った。「 アラン.ファビアンは、私同様、とても繊細です。アニューシュカは、すばらしい女優になるであろうと思うが、今現在、彼女は、ジャーナリストになりたいらしい 」 そして、ドロンはまたミレーユについて、「 私のあやまちによって彼女と別れた事を後悔しています」 と語ったらしい。尚、この 「 Big movie exposition Paris in cinema 」 は、Hotel Ville で、2006年3月2日から6月30日まで開催される。 この情報は、パリマッチ最新号 ( NO.2964 9th March 2006 ) に掲載されているらしい。 ( Information from Miss. Karina and Miss. Marie-Claire )

  • 2006年3月17日、ミレーユ.ダルクが、パリにて、シラク大統領から、「 レジオン.ドヌール 」 勲章を授与されたらしい。尚、この式典に、彼女の夫と、アラン.ドロンが出席したらしい。- information from Miss. Marie-Claire -

  • ロザリーとアランは、結婚という形で愛を誓い合うことはしなかった。以前、彼は、こう言っていた。「 私は、女性の指に指輪をはめたすぐ後に、離婚するようなことはしたくないのです。だから、しばらく様子をみているのです。一生の結婚にしたいですので 」 彼はいつでも孤独と充実した愛のはざ間で生きてきた。情熱で愛し、愛される。これが、厳しい顔の裏に隠された、孤独で、悲観的で、傷つきやすい男の原動力なのではないだろうか? いつでも、女性が彼のカリスマを愛し、彼の 『 至上権 』 や他の人を惹きつけてしまう信じられないほどの魅力を受け入れてきた。「 私は、いつでも男性にというよりは、ご婦人方への私のある種の影響力を確信していました。ご婦人であれば、どんな年齢の人でも 」 女性たちは、彼が生きるために必要な自由も巧みに扱ってきた。「 私は、いつでも独立していました。独立と自由というのは、高くつくものです 」 短い恋愛もあった。モデルであり、歌手、作詞家でもある Nico 。23歳の若手女優 Anne Parillaud 。レーサー Didier Pironi の前妻 Catherine Bleynie.....。 また、ロザリーの前には、3人の女性がこのスターの心をつかんだ。ロミー.シュナイダーは言うまでもない。1959年3月22日、雑誌は、「 若娘たちの夢は断たれた。アラン.ドロン婚約 」 と報じた。5年続いた 「永遠の」 婚約者。ある晩、結婚を申し込もうと彼女の部屋の窓に小石をぶつけた彼の口からは、一言も発せられなかった。1964年に、22歳の Nathalie Canovas がアランの心を掴むと、ロミーは、もう彼とは上手くいかないことを悟った。「 私は、彼のような男性が必要としている母でもなければ、靴下を繕ったり、料理をしたり、彼の帰りを待っているような女性でもありませんでした。私は、女優であり、仕事をしたかったのです。私は、彼の成功に嫉妬していたのです 」 しかし、ロミーとアランという関係は、いつまでも尊重された。彼は、彼女への友情、忠実、そして愛情を守り続けた。「 La Piscine 」 の10年後、彼女は、語っている。「 私が、成功できたのは、アランのおかげです。彼が、私にしてくれたことは、決して忘れることはできません 」 1964年、彼は、ナタリーという無二の親友と結婚する。パスカル.ジャルダンは語る。「 彼は、もう一人の自分を見つけた 」 と。ナタリーは、アンソニーという子供を産んだ。彼らの2年間の生活は、「 ハネムーンの真っ最中に、大喧嘩するが、喜びに震えるほどに愛し合っている 」 という言葉に要約される。すぐに彼女は、自分の人生を築き、映画で成功したい思いに駆られる。「 それが我々を結びつけ、また引き離しもした 」 1967年の 「 サムライ 」 の公開一ヶ月前に、アランは、離婚を申し出た。その1年前に彼は、Dean Martin に、こう打ち明けている。「 私の妻である人は、スタジオに足を踏み入れてはいけないのです。私は、夫婦二人が、スターであるということ、イコール夫婦の終わりだと思っています 」 とは言うものの、彼は、その後の15年を優秀な女優ミレイユ.ダルクと共に歩むことになる。「 初めて会った頃から、私は、彼と、どんな風にでも、どこででも生きて行けると思った 」 と彼女は言う。「 本当の彼が、わからないまま行ってしまうということは、良くありがちです。彼は、時が経たないと心を開かないような人なのです。まるで、近くに見えるのに、一向に近づくことのできない山のよう 」 良いことも、悪いことも、手に手を取り合って、彼らは歩んだ。ミレイユが、アランに見出した少し 「 時代遅れの価値観 」 とともに.....。「 家庭、家族、誠実さ、友情、尊敬心.....。アランは、違う時代に生きるべき人なのかもしれない。彼は、本当の古老なのです 」 しかし、1983年、カップルは、破局を迎えた。この件に関して、彼は、こう語っている。「 私生活には、段階というものがあります。失敗を口にするよりも、私は、 『 変化 』 という言葉を用いたい。生まれた愛情は、成長し、変化し、絶頂期に達し、そして終わる。たとえ完全に失せてしまうのではないとしても。そして、私の星座である 『 蠍 』 にとって、愛が冷めるのはいつでも急激なのです 」。

( Alain Delon with Rosalie Van Breemen in Marseille 1980s  - photo from Mr. Philippe Barbier - )

  • アランがカトリーヌに惹かれたのは、彼女の天真爛漫さであるという。彼女は決して何にでもイエスというわけではない。しかし、いざこざを作らないように自分の意見を述べることが出来る。単純に。また、彼女は、アランと同じく馬が大好きだ。最近、彼らはドゥーヴィルの友人の経営する馬牧場で週末を過ごした。彼のサラブレッド、アドリアン、リラ、アデュー.フランソワがそこで静かな余生を過ごしている。カトリーヌは、アランが共同所有者として一部所有するアリヴィアというという名の見事な種馬にもびっくりしていた。また、野生的なサラブレッドの子馬の美しさもアランと一緒に堪能した。彼らには、共通の感動、動物や種族の純潔さといったような美しく健全なものへの共通の嗜好がある。11月8日のアランの誕生日には、カトリーヌがパーティーを開いた。二人きりで。シンプルさが第一なのである。アラン.ドロンは複雑な人間ではない。外出も少なく、社交界も避けている。彼の生活は、パリ近郊のドゥーシーの田舎と、スター、そしてビジネスマンとして活躍するアデル.プロダクションの二ヶ所で展開されるが、今では、好きな田舎に引きこもって生活するためにセーヌ沿いのアパルトマンは、あまり使われなくなりつつある。香水事業にも多くの時間とエネルギーを費やしている。彼の海外出張のほとんどは、このためである。 最近も、アメリカへ飛び、ロスアンジェルス、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどの大都市を訪問した。「彼は、フランスの世界的な成功を象徴する人物」 と、アメリカの企業の重役たちは言う。確かにそうだ。フランス的な価値観を保ちつつも、彼は、アメリカ式のビジネスをする。野心的に、しかし寛大に、前進しつつも忠実さは失わない。ここ数年、良い仕事を好む彼は、同じ仲間と忠誠的な仕事をしている。取り巻きは必要ない。ただ、彼のように物事の価値がわかり、守る事のできる、意欲に満ちた人材だけが必要なのだ。パリでは毎日、仕事仲間とビジネスの展開について話し合い、自ら書類に目を通す。ファンに対しても同じだ。自ら長い時間をかけてオフィスでファンレターを読んでいる。彼は、情熱と情熱的な生活をこよなく愛し、信頼を第一に、充実した毎日を生きている。公正でありながらも、シンプルに、且つ実直に。彼のこんな生き方が、カトリーヌと彼を一緒にしたのだろう。ドロンは、スターである前に、秋の香りを静かに味わったり、彼女や犬たちと何時間も森を散歩したりすることが好きな、生きる喜びを噛締める一人の男なのだ。彼は、ぼうっとしていることがない。都会では、几帳面に計画をたて、時間を無駄にしない。田舎では、自然と完全に融合し、自然のどんなささいなざわめきにでも耳をかたむける。カトリーヌは今、この冷たさとは正反対の心優しい男と生活を共にしている。アラン.ドロンは野生動物のように、絶えず揺らめきながら生きている。自分のテリトリーの中でないと自由になることができない。それが、彼の真実である。   - from CINE Tele Revue N 48 29th Nov 1984 -

  • 「 私はこの世で一番幸せな女性だわ!」 「 彼に会う前は、存在していないも同然だった!彼が、私の人生に入り込んでからというもの、私は依然よりもずっとバランスのとれた人間になったの 」 「 それまで、私は、一目惚れなんて信じたことがなかった。でも、『 Jeff 』 の撮影中に彼に出会った時、私は自分が熱烈に彼に夢中になっていくのがわかったの。何時間も彼を見つめては、彼の美は崇高なものだと感じたわ。私はそこに、彼の傍らにいるだけで良かった。けれど、彼は、私に、彼の強さ、見解、そして存在をもたらしてくれた 」 二人一緒に居る時、彼らは静かに暮らしている。夜遊びにはもう興味がない。彼らは家にいたり、アランの所有するセーヌ川に程近い豪華なアパルトマン ( Rue Francois 1er 通り ) で友人を呼んだりして過ごす方が好きだ。 「 私たちは、友人と集まって、喧騒や仕事を忘れて静かな夕べを過ごすことが好きです 」 「 私は、嫉妬するということがわからないの。できれば、生活を目茶苦茶にしてしまうこの嫉妬という病にかからないでいたいものね。幸せに生きたいから!」 「 確かに、アランのような男性を愛するということは簡単なことではないとわかっています。でも、愛するためには愛したいと思うだけでいいんですよ!」 「 私は、辛い時を、どう二人で乗り越えたらいいのかがわかりました。相手を息の詰まるような思いにさせてはいけない。疑ってはいけない。そして、お互いに無限の信頼を寄せ合うこと。私たちは、この三つの基本に従って、生活を築いているのです。」 「 確かに、みんなが知っているようにアランの性格は難しい所がありますね。でも、理解するのは簡単です。人から羨ましがられ、妬まれる彼は自分を防衛する必要があるのです。そして、誰かが恐る恐る彼に近づく時、彼も眉に力を入れて、意地悪そうに接するのです。でも、彼を少しでも知りはじめれば、彼が世界で一番優しい男性の一人だということがわかりますよ 」 ミレイユと貞淑さについて話そうとすると、彼女は話を遮り、「 貞淑さとは、彼女の恋愛において最も大切なものだ 」 と語る。 「 アランだけを愛しているから、という理由だけではないのです。私にとっては、愛という言葉は貞淑さという言葉と組み合わさっているのです。私は、彼のためだけに生き、彼だけによって生きているのです」 「 私は、愛に忠実です。愛している時、他のことはどうでも良くなってしまうの。全身の力で彼と結ばれていると感じます。それに、私は、彼に頼るのが好き。私たちの間で、結婚は考えられないとはいえ、気持ちの上では、彼と結婚しているも同然です。私たちを結ぶものは、公式な結婚よりもずっと上にあるのです 」 彼女はすぐに、しかし自立性も失ってはいけないと付け加えた。そして、彼女が愛する男性に関しては、彼女が従えるよう命じてくれるだけで良いと明かしてくれた。 「 私は、こういう人間なのです。私のせいではないでしょう!」 しかし、ミレイユが、あまり触れたがらない話題もある。子供に関することだ。 「 素敵なことです。私は、子供が大好き。子供の成長を見届けて幸せにするためにも、あまり年を取り過ぎないうちに、子供が欲しいわ 」 このことについてアランは、どう思っているのか、と何気なく質問をすると、ミレイユは真っ直ぐにこちらを見つめ、アランの答えは知っているけど、彼の代わりには答えられないと、とても誠実に答えてくれた。仕事や友達以外のことでは、二人で何をしているのかと聞くと、彼女は、あの愛らしい笑顔を浮かべながら、「 より良くお互いを知ろうとしている 」 と教えてくれた。時々、アランの近くにいる実感を噛締める時、ミレイユは、世界中に、このとてつもない彼への愛を叫びたくなる。でもすぐに、彼女は、幸せに生きるには、ひっそりと暮らした方が良いのだという古い格言に戻ってくる。     - information from Cine revue N 19 1974 -
  • ( ロザリー.ドロンが小さな息子に宛てたラブレター ) 大切な人について書くことが、こうも難しいのは何故だろう? それは、言い表せないものを、言葉というありふれたもので言い表そうとするからなのかもしれない。私は今、息子が目の前で寝ているのを見ている。7歳という年齢では何を夢見るのか? 私は、もう何年も夢は見ない。彼が、生きるのを見るだけだ。私の人生で一番美しい夢が叶っている。それで十分。「 俳優になっても、ヘリコプターのパイロットになれるかな?」 と今日、彼は私に聞いた。彼は、今日撮影に入り、父親と映画で対面したのだ。ほんの数週間前、私は彼が病院のベッドで緊急処置を受けているのを目の当たりにしていた。青白い顔、冷たい手。「 頭から、コンクリートの敷石の上に、2メートルの高さから落ちたのです」 と学校側は、言っていた。そして私は、たった一人で考えていた。私は、万が一アランを失ってしまった時のために、何としても小さなアランを生んで運命をコントロールしたかったのではないか? しかし、運命をあまりにもコントロールしたがったために、オリンピアの神々が邪魔をしたのではないか? そこで恐怖が生まれる。 人生が、私たちから逃げていくかのような感覚が。でも、今彼はここにいる。全ては、過去のことになった。ドロン同士の対面は、上手く行った。どっちのドロンが、より嬉しかったのかは、私にはわからない。スクリーンを見れば結果は、わかるだろう。息子には、スターの風格はない。彼にとっては、単にパパと一緒に写るだけのことだ。そして今、彼は、ベッドで眠っている。7歳という年齢、まだこれからやることが沢山ある年齢では、人生は、あまりにも楽しい。大切な人について書くのが難しいのは、愛という巨大なものに直面するからだと思う。だから、多分ここで黙った方が良いのかもしれない。    - from Paris Match N 2745 -
  • 運転席の窓ガラスが下がった時の料金所のおばさんの驚いた顔が忘れられない。突然、彼女の目の前に、あの青いまなざしが現れたのだ。彼女は、すぐにそれが誰かわかった。不意をつかれて、口ごもる。しかし、相手は、既に発車してしまっている。アラン.ドロンだ。 もう2時間近くフランス中部へ向けて我々は、車を走らせている。友情、そして忠誠のために、彼は、モンリュソンで行われるメダルの授与式への参加を了承したからだ。大抵の場合そうであるように、彼は、今日も運転手をパリに残し、自らハンドルを握っている。 「 運転すると落ち着くのです。夜でも、一人で道路を見つめながら物思いにふけるのが好きです 」 と言う。強力且つ静かな4ドアセダンの運転席で、1960年に、エンツォー.フェラーリから贈られたお気に入りの Scuderria のワッペンをつけたアラン.ドロンは、慎重に運転する。彼は、道路を危険にしているトラックを恐れている。 「 どんなに慎重にしても慎重すぎることはありません。予期せぬ死は、嫌ですから。何事も予期していたいのです。軍隊以来、私は、とても慎重です。アラン.ドロン66歳、87映画作品、40年のキャリア。彼は、日本から戻ったばかりで、まだ時差ボケ状態にある中、試写と記者会見を立て続けに行ったばかりだ。テレビシリーズ、「 Fabio Montale 」 3話の撮影のために、TF1 チャンネルが、映画を辞めた彼に 6500万フラン を投資したからだ。アラン.ドロンは、笑いながら言う。 「 視聴率が、40% 取れなかったら失敗です。ぶっ通しで撮影し、座る暇もないのですから。最初、少し落ち込みましたが、結局は途中で投げ出してはいけないと自分に言い聞かせました 」    − 車からアラン.ドロンは、オランダのロザリーに電話をする。「 キッチンにいるの? 子供は迎えに行ったかい?」 数ヶ月前から、彼らは、パリ、オランダ、ジュネーヴ、ドゥーシーを行き来する生活をしている。パリから遠く離れたオランダで子供を学校に行かせる事に決めたからだ。「 子供たちは、バイリンガルです。家では、オランダ語を話しています。アニューシュカが私に、『 どうしてオランダ語を話さないの? 』 と聞くと、私は、『 絶対に話さないよ!難しすぎるし、パパにはもう遅すぎる!』 と答えています 」 アラン.ドロンは、車内で心配事を打ち明ける。「 私の心配は、子供の成長を見届けられないのではないかということです。死ぬのは怖くありません。でも、彼らを残していくことが怖いのです。子供たちが、私が老いるのよりも早く大きくなってくれれば、と思います。子供にとって最悪なのは父親をあまりに早く失ってしまうことですから。それに、私は祖父ではなく父親でありたいのです。今の所は、子供を学校へ連れていってもそれほど違和感はありません。娘は私が 66歳 だと知っていますが、それが何を意味するのかは知りません。10年後、彼女が 21歳 になって、私が 76歳 になった時、それが数字だけの問題ではないのだと彼女はわかるでしょう 」  − 100人の招待客が集まったモンリュソンの会議室に入りながら、彼は私に言う、「見ているといいですよ。彼らは私がまるで家族であるかのように振舞うでしょうから。彼らは私を 40年来知っていますからね。でも、私は、彼らを知りません。本当に疲れます 」 今晩、市庁舎で、元軽視 Marcel Leclerc が、新市長且つ偉大な刑事である Daniel Duglery に勲章を授与することになっている。アラン.ドロンは、彼の忠実な友人の一人である。そのために、300km も車を走らせてやって来たのだった。市長のための集まりであるにも関わらず、人々の目は、彼に釘付けだ。「 ああ、私達のアラン!」 とある婦人が叫ぶ。しばらく躊躇した後、彼女は、彼に話し掛けに来る。「 アラン.ドロンさん、あなたが我々にもたらしてくれたもの全てに感謝いたします 」 彼は、写真のためのポーズを取り、人々が頼みに来るサインをする。多くの人は、「 なぜあんなに年齢よりも若く見えるのか」 「 どうして、テレビよりもずっと優しそうに見えるのか 」 と彼に聞きたくて仕方がない。最初の質問への答えは、彼の健康管理だと言えるだろう。彼は決して食べ過ぎず、飲みすぎず、喫煙もしない。彼は聡明に言う、「 今では、ドロン世代は、お母さんかおばあさんになってしまいました 」 プロらしく、彼は、一人一人に優しい言葉を見つける。人々を魅了してしまう責任を取っているのだ。翌日、モンリュソンを離れる彼は、パリジャンたちが、「 フランスの奥地 」 と呼ぶ場所での自分の人気ぶりに安心していた。「 少なくとも、彼らは1月3日、Fabio Montale に好感を持つでしょう!」 。 - information from Paris Match N 2745  2002 -
  •  映画 「 あの胸にもういちど 」 のヒロインは 『 ルパン三世 』 に出てくる峰不二子のモデルになったと言われている。

     

    ( Delon with Romy and Jane Birkin at the Preview "La Piscine" on 1st January 1969 in Paris )

  • TV シリーズ 「 Fabio Montale 」 のこの Fabio という名前に、ドロンは胸を打たれたらしい。ドロンの父 Fabien を思い起こさせるから、そして、息子の Alain-Fabien も。「 Fabio Montale 」 の最終シーンの撮影が行われたサンピエール墓地は、以前、ベルモンドと一緒に 「 ボルサリーノ2 」 を撮影した場所である。ドロンは、文化の坩堝、あちこちからやって来た移民でひしめき合うこのマルセイユという街が好きらしい。この撮影は、4ヶ月間、危険だと言われる地区で大した問題もなく行われた。ドロンは、この作品で、アラン.ファビアンと初共演した ( ドロンにとって、自分の子供と共演することは生涯ではじめてのことである。) が、ドロンは、彼が学校を長く休んだり、無駄な往復をしなくて済むように、彼の撮影を8日以内にとどめた。彼の最大の心配は、「 パパ!僕の台詞 」 だったらしい。彼は、確実に記憶していると確信していなかったらしい。彼は、母親と姉にこう言ったらしい、「 僕は、将来パパのような俳優になるんだ!」。
  • アラン.ドロンは、いつでも女性を共演者として招いて来た。それが、ベロニク.ジャノー ( Le toubib )や、アンヌ.パリロー ( Pour la peau d'un flic ) らのキャリアに大きな変化をもたらしたりもした。今回の劇場カムバックでは、エリック.アスの恋愛劇 「 ジェット.コースター 」 の相手役に、アラン.ドロンはアストリッド.ヴェイヨンを選んだ。彼女は、若い独身役で、ある夏の晩、一人でパリに残っている既婚の男性に出会うという設定だ。アラン.ドロンの誘惑者的な面が見られそうである。ドロンは、彼女に 「君の一生を左右する役になるはずだ。」 と言った。アストリッドは、「 彼をがっかりさせることだけはしたくない。」 と言う。マリニー劇場では、9月から稽古が始まる。アランとアストリッドはの間、ドゥーシーで練習している。彼らは以前にも共演したことのある仲だ。「 Fabio Montale 」 で、そして、アストリッドの書いた戯曲 「 La salle de bains  」でだった。この戯曲で、彼女は、アランに実力を示した。Philippe Hersen プロデューサーが 「 ジェット.コースター 」 のシナリオをアランに送った時、彼は、「 ある人を相手役にして良いのなら 」 引き受けると返事した。84本も映画を撮った彼だが、芝居は3本だけだ。それらの相手役は、ロミー.シュナイダー、マリー.ベルであった。アストリッドは言う。「 彼が私を起用してくれた事は、天からの贈り物です」 。     - from Paris Match N 2884 September 2004 - 
  • 映画 「 仁義 」 の当初のキャスティングは、以下の通りであったらしい。 Delon ( Delon ), Belmondo ( Gian-Maria-Volonte ), Lino Ventura ( Andre Bourvil ) and Paul Meurisse ( Yve Montand )            - information from Mr. Oleg -
  • 1984年のある日、アンヌマスで 「 Notre Histoire 」 撮影中のドロンは、ジュネーヴのカトリーヌに突然、電話をした。再開後、二人は食事をし、その後、頻繁に会うようになる。この年の、カトリーヌの誕生日にドロンは、1952年もののボルドーと、32本のバラ、リトグラフ、スロットマシーン、絵画についての本、二人の写真を入れるフレームを贈った。
  • 大統領から国家功労勲章シュヴァリエ受章者とされたアラン.ドロンは、3ヶ月前に生まれた娘アニューシュカの母親ロザリーを伴って、会場に現れた。直立不動でミッテラン大統領の眼を凝視したまま、アラン.ドロンはレジョン.ドヌール勲章を受け取った。ジャック.ラングはこのためにわざわざやってきた。また、レイモン.バールも友情のしるしに参加した。そして、3ヶ月になる娘の母親ロザリー。アラン.ドロンが、何をおいても守る二人の存在。「 公人としてのドロンは、もう一人ではありません。新しい人生の平安と幸せのために常に気をつけていかなければなりません。アニューシュカとその母親を、好奇心の的にするのはもっての外です。映画以外の場では、我々を、そっとしておいてもらいたいものです!」 ここ最近アラン.ドロンは、映画 「 Dancing Machine 」 の不発など、逆境に立たされてきた。しばしば彼の孤独は、サムライのそれに喩えられる。 孤独は、気になりません。賑やかな場所や、人のいるところが好きな人もいれば、私のように孤独を愛する者もいます」 アラン.ドロンが映画界に君臨して、30年以上になる。その間、彼は、いつでも自己満足せずに自分を、見つめてきた。「 長い間、私は、自分の容姿が嫌いでした。あまりにもなよなよとして、純粋すぎるように思えたからです。自分の外見は、自分の内面にそぐわないものでした。私が、自分の容姿を好きになれたのは、『  太陽が知っている 』 に出演してからで、すでに33歳になっていました。」 こう言う彼は今、国からの敬意を受けた心安らかな男となっている。フランス.アンテールのマイクに向かって彼は話す。「 喜びの心境です。何故なら、これは自分から頼んで頂いたものではなく、大統領直々にノミネート頂いたものだからです。大変嬉しく思います。これは、フランス映画の、いや、世界映画の歴史の中で、私が築いてきたキャリアにおける 『 功労 』 ( この言葉を言いながら、彼は目くばせをした )に対する褒賞です 」 この他に、「 フランス 」 という彼にとって重い言葉がある。ドロンにとってのフランスは、カンヌ映画祭やブローニュのスタジオ、プロデューサーたちが集まるパリ8区だけではない。彼は、アラビアでの戦争に駆り出されている兵士たちのことを思う。もしも、彼が20歳だったら、彼は、出征しただろうか? 「 もしも呼ばれたのなら10分で荷造りしていきます。インドシナでは、自分から志願したのですから。喜び勇んで国に仕えるということは、当然の大義です 」 俳優だからといって彼は演技しているのではない。アラン.ドロンはいつでも、自分の愛国心を公言することを厭わなかった。「 軍隊は、私にとって真の学校でした。17歳で志願し、18歳で入隊しました。22歳で帰郷するまで、私は、そこで規律や、敬意、勇気、上司の尊重、厳格さ、母国愛を学びました。とても幸せでした。 堅く結ばれ、博愛に満ちた直接的な関係が大変好きでした。こんな風に衝撃的な映画界にデビューしなかったならば、私は、きっと職業軍人になっていたでしょう。名兵士となる素質は全てあったのです。そして後には、もしかしたら名将となっていたかもしれません 」 赤い勲章を襟に、アラン.ドロンは、これからも忙しく飛び回っては、安らぎの家であるドゥーシーで、その疲れを癒すことだろう。そこで彼は、スターの鎧を外し、アニューシュカ、ロザリー、犬達、そして自分自身とゆっくり過ごすのだ。  - from Paris Match N 2180 on March 7th 1991 -

  • ドロンは、ナタリーと離婚したことについては、息子に申し訳なく思っていた。「 結婚に保険はかけられない。夫婦というより子供のために、結婚の価値を信じていた。家庭生活というものが欲しかった。息子アンソニーの両親は、彼がたった4歳なのに離婚してしまうのだ。私の場合とは少し違うが、それでも失敗には変わりない。アンソニーを思う時、この離婚は、私の人生で最大の、唯一の失敗となる。私は 、愛を信じない。熱情しか。」 ドロンは、私生活の面では、忙しい撮影の合間を縫って、できるだけ幼い息子に父親らしいことをしようと心がけた。パリにいる時には、ナタリーのもとへ息子に会いに通った。また、パリを離れているときには、いつでも息子に電話できるようにした。ドロンは、ある記者にこう答えている。「 この前の晩、息子が私に何と言ったか想像がつきますか?『 パパは、いつもテレビで映画が始まるときに電話してくるんだから!』 と言いやがる!」 ドロンはロケ先にはいつも息子の写真を持って行った。離婚に関しては、「 息子が12歳でなくてよかった。もしそうだったら、新聞雑誌に書かれていることを彼に隠すわけにも行きませんし、学校で友達に悪口も言われたことでしょう。でも5歳ではまだわからない。パパが映画界で働いていると思っているくらいです」 と言っている。  - information from 「 Les mysteres Delon 」 - 

  • ( アランと天体運行表 ) 太陽宮が蠍座で、上昇宮が天秤座にあるドロンは、人を魅了するための気高さをすべて持ち合わせている。蠍座の強い磁気と、天秤座の魅力である。蠍座の部分は、彼に権力の渇望や自己主張、そして、所有といった押さえがたい欲望を起こさせる。蠍座の人間は、人生を悲劇的にとる傾向がある。情熱に燃え、社会的野望、愛情、思想といった自分のアイデアを弄するが、その知性から出た考えをとことんまで保護し続ける傾向もある。他人に対し、知的影響力を及ぼしたり、「 人の間違いを正そうとする 」 点については、恐るべき弁護士としても発揮できたかもしれない。とはいえ、上昇宮が天秤座にあることによって蠍座の重々しさが緩和され、社交性や洗練されたエスプリといったある種の 「 軽さ 」 を彼に与えている。蠍座の興味の中心となるものが、性や死であるのに対して、天秤座では愛情が核となる。恋愛は、女性をライバルとして捉えれば捉えるほど苦い試練となるが、無制限な愛情や人間的な深い寛容は、蠍座のシニカルな面を子羊へと変えてしまう。仕事は、弁護士でなければ、常に人々、群集と関わる職業に向いている。ドロンは、政治家としても成功しただろう。どの場合でも、盛名を馳せる運命は出生時に決まっている。映画をしなかったとしても、別の分野で有名になったはずだ。

    ( Alain with Catherine who is called Kiki or Katinouchka from Delon )

     

  • アラン.ドロンは、映画のタイトルに 「 flic ( 刑事 )」 という言葉を入れるのが気に入っている。この言葉がタイトルに入った映画は、すべて成功しているからだ。

  • 「 これは、すべて彼女のためにしているのです。」 もしも、愛娘と共演するのでなかったなら、アラン.ドロンは、このケッセルの 「 ライオン 」 の TV 版をきっと撮りはしなかっただろう。アニューシュカ、彼の 「 ニューシュ 」 は、カメラの前で初めて彼と共演する。「 自分が誰なのか、誰と共演しているのか、もやはわからなくなってしまいました。私と対話する彼女は女優として私の目に写っていましたし、彼女はまさに役になりきっていました。私以上にですよ!」 これは少し大袈裟かもしれない。確かに彼女は12歳にして、父親の演技の才能をしっかり受け継いでいるといえる。アフリカのサバンナの真っ只中で、彼女は、朝の8時から台詞を練習する。父親は、彼女の 「 気高さ 」 を引き出したい。たとえ早朝であっても、彼女の出演する全てのシーンに彼は付き添う。 「 彼女は、この職業に向いています。まるで1957年にインドシナから帰ってきたばかりの自分を見ているようです。 その時、私は22歳で、アレグレは、いつでも、『 演技するな、君のままでいろ、動いて、話して、普通に歩くんだ!』 と私に言っていました。スタジオでの次の仕事の時からは、まるで水を得た魚のように楽になりました。彼女にとっても同じことです。」 しかし、慎重なアニューシュカは、自己防衛ぎみで、ドロンが 「 君はスターだ!」 と言うことにイライラする。 「 パパがその言葉を使うのが私は嫌なの 」 撮影現場以外では、彼女は、ロココ調の部屋 ( 彼女の父に言わせると 『 まさにハリウッドスターのような部屋 』 )で、練習に明け暮れる。そして、既に父親と共演した9歳の弟アラン.ファビアンのコメントに耳を傾ける。アニューシュカとの共演は、アラン.ファビアンの時のようにすんなりとはいかない。年頃の若者がみなそうであるように、彼女も自己主張するのにしばしば反抗というやり方を使う。たとえ、パパが映画界の大御所と仕事をしてきた偉大な俳優であってもだ。 「 私がどのようにすればいいというのでしょう。私は、彼女に間違った演技をして欲しくないんですよ。」 彼女が、うんざりとしたため息をつくのを聞いた時には、彼も辛かったようだ。スイス、アフリカ折衷風の小屋を拠点に、ドロン一家は週6日という撮影プログラムに挑んでいる。たとえサバンナの真っ只中で、キリンやシマウマに囲まれていようとも、サファリツアーに来たのではない。 一日足りとも、遊んでいる時間はない。しかし、朝、朝食の時間にはすべてが窓から見えるし、また、探検家のアニューシュカは、家の裏に美しいアラベスク模様の木で装飾されたレイヨウの頭蓋骨を見つけた。夕食の最中には、父親の忠告も聞かずに、二人の子供は、夜の闇に忘れられた狩猟の戦利品を探しに行く。アランは不満だ。彼にとって、子供と過ごす一晩は、街で行われるすべての晩餐にも値するからだ。 子供たちは、明るく探究心旺盛で、知性と、不思議な大人らしさを兼ね添え、躍動している。そして、父親の機嫌の変わりやすさにも巧みに対応する。時々、まるで大人のように思えることがあるくらいだ。 「 アルフ 」 と呼ばれているアラン.ファビアンは、人なつこく、観察力に優れ、姉に少しも嫉妬しない愛らしい少年だ。姉の方はというと、彼ほど感情を顕わにしない。心配性な少女と、抜け目のない女性の中間といえる。父親と娘の関係は、まるで 「 カルメン 」 を見ているようだ。 彼女は、突き放し、彼は、何度でもやって来る。かと思うと、彼女が近づき、彼が、がなり立てる。彼女が、反抗すれば、彼は、穏やかになり、彼女が険しくなると、彼はなだめる。そして、彼女が微笑む。ドロンは言う。 「 私が、彼女に狂っているのがわかるですって? 仕方ありません、隠せないんですから 」 勤勉な子供たちは、オランダ語の漫画を読みながらも、休暇中の宿題を忘れない。アラン.ファビアンは日記、アニューシュカは作文だ。今後はフランス語で。これが彼らの母親の願いである。ロザリーについての話題は、避けた方が良いだろう。彼らの別離から、もうすぐ2年になるが、傷は、まだ生々しい。怒りも冷めていない。確かに、この永遠に広いアフリカで、ドロンが、一人で子供たちといるのを見ると、かわいそうになる。しかし、今晩、ドロンは、格別な瞬間を味わう。16時現在、日が撮影にちょうど良く赤く染まりはじめる。彼は、撮影の核となる悲痛なシーンを演じる。小さな撮影クルーで、ジープに乗って、「 待ち合わせの木 」 のところまで行く。樹齢千年にもなる巨大な木で、ピニェイロ監督が目をつけたものだ。シークエンスは、ヘリコプターから撮影された。撮影が、終わり、ヘリコプターの回転翼の騒音が消えると、辺りは、再び静かな野生の美の世界となる。ドロンは、長い間、一人でこの木の下に佇んでいた。 「 これほどまでに古く、偉大なこの木に身をもたせて、木のエネルギーを引き出したい。この木は、いつでもたった一本だけで立っている。サバンナで一番美しい木だ 」 秘められた感動の瞬間。ドロンは、自分とこの木を重ね合わせて見ていたのだった。孤独、悲痛な思い、人生は過ぎて行く。撮影につき物のヒステリーを超越すれば、映画を撮るということは、時には永遠について、つかの間ながら意識させてくれる。17時には既に闇である。明日は、危険なシーンでドロンは、ジープを運転しなければならない。アフリカの共演者 Ernest は、助手席で恐怖に慄くことだろう。しかし、アランは、きっと恐怖を見せないはずだ。 - from Paris Match N 2832 September 2003 -

  • Kiki は、ドロンについて次のように言っている。 「 アランは、全てに極端な人間です。そして、彼のエネルギー、厳しさ。 『 Parole de flic 』 を撮り始めた時、彼は、ジュネーヴでの3ヶ月間、自分に絶対的な規律を課しました。毎日、ヒルトンで、彼は、プール、筋力トレーニング、ジム、きつい仕事を立て続けに行っていました。私は、彼の努力を心配しながら見ていました 」。

  • アラン.ドロンは、ジャン=マリー.ルペンの見守る中、ジャック.ラングの手から、芸術文化勲章の緑と白のリボンを受け取った。 「 この勲章は、大臣、あなたが決定したものです。私は、あなた以外の誰の手からもこれを受け取りはしなかったでしょう 」 彼の才能と30年のキャリアに栄誉を与えたこの瞬間、彼は自分の好きな人々に敬意を表した。ロミー.シュナイダー、ヴィスコンティ、エドヴィージュ.フイエール。そして、息子 ( 欠席 ) と名付け子ジェラルディーン.ダノンに語るように未来に目を向け、最後にミレイユ.ダルクのために、ジャック.ラングに 「 大切な彼女のラペンホールにも今後あなた方が色印を付けてくれることを願います。できれば、紫のがよいのですが 」 と嘆願を締めくくった。   ( ダルクは、この嘆願について事前に何も聞いていなかった。)  - from Paris Match M 2533 in 1986 -

  • 「 フランスは、もはやたいしたことのない国になってしまいました。どれだけのフランス人が、まだ残っているというのでしょう? デザイナー、料理シェフ。料理だけが世界に通用する国。これは何なんでしょうか? まさに発展途上国ですよ 」 彼は、自宅近くの丘で、こう言いながら枯葉を蹴った。黒犬のマニュは、そこいらを行ったり来たりしている。 「 自分を愛国者と呼ぶのにふさわしいのかはわかりませんが、ただ、私は、この国が好きですし、自分が後退の一途を辿るのを見るのがつらいのです 」 彼は、小さな声で 「 フランス 」 と発音する。「 ええ、確かに人々は、私が政治をすることを願っているようですね。私もしてみたいですよ。でも、今はすべて、いんちきで操られているんですよ。何もかもふざけたことです。私が、その中に入っていくことなど不可能です。私は、自分にとっての真実しか話せないのですから。公民運動も、もう過去のものです。幼稚園から、子供たちに人生とは何か教えるべきなんです。人生の基盤を。今の世の中は、権利しか追求しません。義務の方は、考えないのですから、権利だけを行使するのは簡単なことです。でも、これでは何も生まれません。義務だけが何かを建設できるのです。人間だけが、義務を持つ権利があるのです 」  セーヌ川に沿いながら、私たちは、アランが動物たちと暮らす三階建ての 「 砦 」 に到着する。庭には秘密の小道が走っている。私たちは、この難攻不落な建物に地下から入り、エレベーターでキッチンに到着する。アランは、くつろぎの表情に変わり、笑顔がこぼれる。寝室には、 「 可愛いミミ 」  とビーズの刺繍が施されたクッションが置かれている。私は、何故彼がこのクッションを置き続けているのかは聞かなかった。ミミは、一週間前ではなく、三ヶ月も前にここを去ったのであるが。 「 今、私は、むき出しになって、皮をはがれたような精神状態です。確かに外出もしないし、世間に進んで出て行かないのですがね。私は、映画界を避け、誰にも何も要求したりはしません。時々、外に出ると、人々の視線に耐えられないことがあります。まるで、襲われているかのような気分です 」 彼は、隠れ家を案内しながら、所有する絵画を解説する。テラスに開いている静かな書斎。そこで、彼は、ため息をつく。 「 女性のいない家は、明るいものではありませんね。家を活気付け、盛り立て、生気を与えるのは女性です。」1983年は、彼にとってつらい年だった。自分の一部でもあったロミー.シュナイダーを失い、彼とミレーユ.ダルクが築き上げてきた関係は、もう仕事の上でしか残っていない。彼が、あまりにも良い子に育てようとした息子に関しては言うにも及ばないし、また、彼の親しい友人しか知らない他の苦悩もあるはずだ。次の朝、アランは、大きなキッチンに食卓を用意した。カフェオレボールにありとあらゆる種類のジャム、そしてトーストにはバターが塗ってある。彼は、こわばった表情で、コーヒーメーカーに手を置く。 「 コーヒーを飲むまでは、私は話をしないんですよ。ぶつぶつ不平を言っているだけです 」 確かに、彼は、ぶつぶつ言い、犬たちは驚いて彼を見ている。その後、彼はトレーニングウエアーに着替える。背中には赤いハートと 「 I love you 」 の文字。 誰が、この彼のお気に入りの古いスポーツウエアにこんな風に手を加えたのか? 広大な庭に出ると、ポニーが主人を見つけて駆けてくる。臆病な羊たちは、草原のかなたへと姿を消してしまった。午後には、彼が 「 家族 」 と呼ぶところの人たちに会いに行く。この所有地のいたるところに、家がある。密漁監視人の家、庭師の家などだ。アランはこれらの家を、映画で一緒に仕事をした木工職人や、装飾家らに与え、改修工事をしている。彼らは、幸せだ。そして、家父長も。 「 どちらかというと、族長ではないでしょうか。彼らが、私の周りにいて、彼らのために私にできることは、すべてするというのが嬉しいんですよ。もちろん、彼らも相互で援助し合っています。私が、幸運にも手にすることができたものを、彼らと分かち合う。なんという幸せでしょう 」 彼は、今私たちが歩いている散歩道を案内する。 「 ここには、鹿たちを放す予定です。そうしたら、まさに地上の楽園となることでしょう 」。   - information from Paris Match M 2533-1932    1986 -

    ( Alain Delon and Mireille Darc in 1970s )

  • 今年 ( 2006年 ) の10月にリリースされる Francoise Hardy のアルバムで、ドロンは、彼女とドュエットを歌うらしい。    - Information from Mr. Vignol - 

  • ドロンは、何故、女性向けの映画を創らないのですか?という質問に対して、 「 私は、日没後の女性にしか興味ありません。日没前の彼女たちは、私を退屈させるだけです 」 と答えている。

  • あるインタビューで、「 よく不良役や悪役を演じてきたが、それは何故ですか?」 という質問に対して、ドロンは、次のように語っている。 「 真実は、単に映画は、金もうけのために出来ているというロマンも味気ないものです。我々の観客は、やくざものが好きなのです。泥棒が、警察を打ち負かすのを見るのが。今のフランスの映画製作者たちは、あまりにも偏狭です。私が自ら製作をするようになったのは、ベルモンドやバルドーとドロンを共演させたかったからです。でも、決していつも大金を稼ぐとは思わないでくださいね。 『 さすらいの狼 』 では、私は、大損をしましたよ。これも辛かったことの一つです。今、巨額の制作費をかけた 『 ボルサリーノ 』 では、出資者を思うとやきもきしています。でも、こんな不安は、俳優としての演技には微塵も見せてはいけないのです。観客は、何も知りません。ベルモンドと私は、製作者とスターという関係には映らないはずです。私たちは、友人同士であり、一緒にいるとリラックスできるのです」  - information from Jours de France N 784   1969 -

  • 1973年、ドロンは Youssef Khaida とともに、ギャンブルに関わる。Khaida は、Benaim とともに、アルジェリア系フランスユダヤ人界で頭角を現し始めていた Zemour 兄弟と組んで事業を始める。アラン.ドロン不許可の伝記の著者 Violet は語る。 「 彼らの共同事業とは、まず、バーに関わることでした。それに、Zemour 兄弟は、ナイトクラブ ( Le Pariscope ) も所有していました。マルカントニーによれば、アラン.ドロンは、そこに出資して関わっていたようです。マルカントニーは、このナイトクラブだけが、ドロンが Zemour 一族と関わる唯一の事業となるよう彼を支援したそうです 」 唯一の事業だろうか? その後の事の運びを見れば、それがそれほど単純なものではないとわかる。 競馬界でも、ドロンは頭角を現そうとしていた。彼は、サラブレッドを購入する。そして、何度も失敗した挙句に、馬術所を創立している。共同出資者は誰だったのか? Benaim と Khaida だ。 「 厩舎を経営するために、彼は、競馬のプロを雇いました。繋駕フランス国内チャンピオン Jacques Imbert です。彼は、かつて誘拐犯として逮捕されたことがあります。Imbert は、ドロンを評判の高いコーチ Pierre-Desire Allaire に引き合わせます。プライド杯の、三連勝式で不正が行われたのはその頃でした。Imbert の息子で騎手の Louis Imbert は除籍となりました 」 数年後、Jacques Imbert は、銃撃からすんでのところで逃れる。ドロンは、今日、ナミュールにあるベルギーで最高級を争うカジノの経営者である。彼は、カジノの株を、資産家の Jean-Claude Mimran より買ったのだ。Jean-Claude Mimran は、別の高級カジノの経営を失敗した後に、このカジノの株を所有したのだった。この一件では、ドロンも対立に巻き込まれて危うい思いをしている。Mimran にナミュールのカジノの株を提案したのは、Khaida であった。このカジノは、1982年に火事でほぼ全焼している。そのしばらく後、Mimran は、カジノの1750株を手放す。そして、ドロンと Vincent Bertella がそれを買い、経営者となった。これまで定期的に更新されてきたドロンの為替は、2001年5月に期限切れとなる。  - information from Cine revue N 41 1976 -

  • Jean-Francois Deniau とのインタビューで、ドロンは次のように語っています。「 私は、海が嫌いです。海を前にすると、自分を無力だと感じるからです。私は、陸人間です。常に、地面に触れていないと駄目なのです。火の方が水よりも恐くありません。自分をまだ防衛できるような気がするからです。海は恐いです。ですから、あなた ( Jean-Francois Deniau ) のような大航海家や、Florence Arthaud のような女性を尊敬します。私には、決して出来ないことですから。インドシナに行くまでの一ヶ月の航海はまさに受難でした。私は、海には出かけません。私は、孤独好きですし、森や山で一人になるのは好きです。でも、海は嫌です。『 太陽がいっぱい 』 を撮った時、もう二度と海では撮影しないと誓ったものです。それほど具合が悪かったのです。こういった理由で、『 Le Crabe-Tambour 』 を断ったんですが、後で苦い後悔が残りましたね。 更に、ドロンは死について次のように語っています。 「 私は、死は恐くはありません。ただ、急死を望みます。身体不能に陥るのは嫌です。耐えられません。人は、自分自身の死についてよりも、他人の死について悲しむものです。無力感を味わい、不公平だと感じてしまうのです。私は、無力や、不公平に反対です。私は、今でも30歳の誕生日の時のことを覚えています。友人の一人が、華々しく祝ってくれました。ブラジルのオーケストラを連れてきて、ブリジット.バルドーも来てくれました。そして、翌日の雑誌に載せる言葉を一言私が書くことになりました。当時、若い馬鹿男だった私は、得意になってこう書きました。『 私は、30歳になったが、そんなことはどうでもいい!』 と。でも、今では 『 私は30歳になった。幸せです。』 と書きたいと思っています 」 更に、ドロンは言う、「 人は、『 私には7つの人生がある 』 というのを受け入れないんですね。人生は、一つだけ、それだけなんです。スポーツでも、政治でも、いろいろな分野にスターがいます。でも、スターというのは手に届かない存在です。ですから、手が届きそうな状態 ( 英語で 『 reachable 』 と言った方がぴったりになりますね。) になると、下の方へ引きずり下ろす。あなたも、私も、この問題に直面しています。でもこれは、特権ですよ 」。    - information from Paris Match N 2424  1995 -

  • ナタリーとの別離以来、アランは、仕事に夢中になっている。Eddie Barclay は、「 La Capilla 」 に、ドロンのためのヨットと船員に加え、ピアノ一台と二人のミュージシャンを用意した。Barclay は、ドロンをレコード界のスターにしたいようである。今後6ヶ月、ドロンは、LP 盤を収録する ( ミシェル.ルグランによる12曲 )。10月には、ジジ.ジャンメールと、ルドルフ.ヌレエフとの共演で、ローラン.プティのテレビ番組への出演予定もある。彼は、そこで、フレッド.アステアを真似ながら、アメリカのスタンダード 「 Lady is a tramp 」 を踊ることになっている。また映画では、1969年の12月まで5作品が彼のスケジュールを占めている。今、ドロンは、取り巻きに囲まれていながらも孤独である。一人で電話付きのキャデラックに乗っている。( アンソニーは、この電話をおもちゃ代わりにし、ナタリーは、この電話を絶え間なく使っていた。) また、ある時は、一人で、ハーレー.ダヴィットソンに乗っている。しかし、いつの日かバルドーを引き継ぐだけの強い切り札を持っているナタリーは、青のディノ.フェラーリを一人で運転しているのだろうか?      - information from Jours de France N 737    1969 -

  • ナタリーは、親しい友人や、同僚たちからは、「Nat'」 と呼ばれている。

  • ドロンが、インドシナに行く時に乗った船の名前は、「 クロード.ベルナール号 」。

  • アランは、「 黒いチューリップ 」 の撮影のために、スタントマンの Yves Chiffre  と共に、ビュイックでスペインに行くことになっていた。出発前に、彼らはロミーとマネージャーの Georges Beaume  と共に昼食をとった。Chiffre は、今でも思い出す。「 食事が済むと、我々は、それぞれに分かれました。その時アランが、『 ちょっ遠回りをしていくよ。一人拾っていかなくてはならないんだ 』 と私に言ったのです。マンドリュー.ラ.ナプールの公団住宅の前で、アランはクラクションを鳴らしました。すると窓が開き、大変美しく、良く日に焼けた若い女性が出てきました。彼女は、鞄を担ぎながら走ってきました 」 その少し後、ハリウッドにいるロミーを Georges Beaume  が訪ねた。「 君への手紙が一通あります。アランが、私の出発前に、私の書類に紛れ込ませたものです。私は、何も知りませんでした 」 これが別離だった。その後も、別の女性たちが彼の人生に登場した。すべてトップクラスの女性たちだ。しかし、硬派な男を演じるには、「 美しい娘たち 」 に平伏すだけでは駄目だった。ドロンは、「 悪い美男子 」 を演じていく。若いアランは、トゥーロンのバー 「 Marsouin 」 の常連 だった。このバーは、シャルル.マルカントニーの経営する店で、その兄弟のフランソワは、当時、窃盗、加重情状のある窃盗、隠匿、兵器の所有と横流し、公務員買収未遂、また、殺人嫌疑などで、すでに裁判所の知るところとなっていた。このマルカントニーが、ドロンの人生の影の部分に存在していくことになる。戦後の、マルセイユでナンバーワンの顔だった 「 メメ 」 の娘 Marie-Christine Guerini は言う。「 アランを父に紹介したのはマルカントニーでした 」 ドロンは、このボスから息子のように迎えられる。二人は、一緒にピストルの練習をし、Lucky という名の馬を買う際にも手を組んだ。   - information from VSD N 1205   2000 -

    ( Alain and Mireille in 1970s   - photo from Mr. Vignol - )

  • ドロンの両親は、Bourg-la-Reine の小さな団地に住んでいた。母方の Arnold 家は、20世紀初頭、この地方に移り住んだ。ドロンの母 Edith は、3歳の時に母を失い、大変な資産家であった父はすぐに後妻を向かえ、Edith は、実の母親に似ているという理由でいじめの的となる。彼女はやがて家出をして、ある家で家政婦として働くが、その家は芸能界に縁が深く、彼女は、多くのアーティストたちと出会った。彼女が、Fabien Delon と出会い、恋に落ちたのもその頃 (25歳) であった。彼女が 「 Fafa 」 と呼ぶコルシカ島出身の彼も、アーティストで、自由気ままな暮らしをする映画狂であった。彼のオープンした映画館は、Edith により、「 Regina 」 と命名された。Edith は、この映画館の案内係になるために、調剤師助手の仕事を辞めた。その後、1960年代初めにこの映画館は閉鎖され、肉屋、本屋へと変わっていく様を、ドロンは、大いに悔やみながら見ていた。30年後、自治体がドロンに持ちかけたプロジェクトを、ドロンが受け、「 Regina Alain Delon 」 という文化センターがオープンした。    - information from 「 Les mysteres Delon 」 written by Bernard Violet - 

  • ナタリードロン曰く、アランは、スキーと寒さ、そしてクラゲと海が嫌いらしい。  From 「Don't cry, this isn't hard」 ( Pleure pas, c'est pas grave ) which this book was published in September 2006, was written by Natalie Delon.     – information from Ms. Karina -

  • 2006年11月16日、ドロンはパリマッチ誌主催の公式パーティー ( 3000号記念 )に名誉ゲストとして出席した。 他の名誉ゲストは、フランス国防大臣だった。    - information from Ms. Karina -

  • Francoise Hardy の New アルバム 「 Parentheses 」 にドロンが歌手として参加しているらしい。このアルバム、2006年11月27日リリースの予定。    - information from Ms. Marie Claire -

  • ナタリーはドロンと分かれた後、約20年アメリカのユタ州のサンダンスに住んでいたが、フランス人女性として、アメリカのブッシュ大統領がイラクを干渉した時以来、アメリカを離れた。    - information from Ms. Karina -

  • ナタリーが始めてドロンに出会ったとき、彼女は、スコッチスタイルのスカートを穿いていた。     - information from Ms. Karina -

  • ナタリーによると、ドロンは、思想は右でフランスの同属偏愛主義者であるらしい。      - information from Ms. Karina -

  • アランは5歳の時からピアノのレッスンを長年の間、定期的に続けていた。腕も良く、サンプレイエルで行われたコンクールでは、何度も入賞した。      - information from 「 Les mysteres Delon 」 written by Bernard Violet -

  • 1963年10月、アランは 「 Félin」 の撮影のため、再びルネ.クレマンと仕事をすることになった。今回のシナリオは、パスカル.ジャルダンに任されたが、ジャルダンはその頃、アラン.ドロンについて、長く感想を述べている。「 私の妻は、アラン.ドロンを思い起こさせる。この何の共通点もない彼らが、お互いに似ているのだ。私はアランを12年前に知った。彼は当時駆け出しの俳優で、知り合った翌日に私の車を台無しにしてしまった。その頃から、彼には何事にも行き過ぎる傾向があった。彼はすべての規格外にいた。彼は私を魅了した。彼は、彼をもっと知るために女になりたいと時々私に思わせる唯一の男だ。彼の豊かさは、その多様性にある。幾つもの人物が彼の中に宿っており、それら人物はお互いに仲が悪いのだ... 」 アランは、この映画で、アメリカの女優、ジェーン.フォンダと共演することを喜んだ。彼女は彼の崇拝するアメリカ俳優ヘンリー.フォンダの娘だった。彼女と、もう一人の共演者ローラ.オルブライトについてアランは、「 ジェーンは素晴らしい野獣で、ローラは素晴らしい文明獣だ 」 と述べている。前年と同じく、撮影中にアランは誕生日を迎え、パーティーが催された。また、このコートダジュール滞在の間、彼は、毎晩のように友人たちに会いに行った。その中のマックス.カルティエとは、レストラン 「 ラ.カマルグ 」 を共同経営していた。また、古い友人、シャルル.マルカントーニとリタにも会った。更に、この滞在中、アランは、代役のミロセヴィックからステファン.マルコヴィックを紹介されているが、この出会いが、今後の彼の人生に深い影を落としていくことになる。      - information from 「 Les mysteres Delon 」 written by Bernard Violet -

  • ドロンが寄宿舎生活をしていた時の友人は、ダニエル.サルヴァデ。彼は、1984年に女優のMonique Tarbes と結婚して、現在は建築士となりパリ近郊に住んでいる。    - information from 「 Les mysteres Delon 」 written by Bernard Violet -

  • 2006年11月6日、ドロンは、アニージラルドの75歳の誕生日パーティーを主催した。Mireille Darc, JP Mariell, Alice Dona, Muriel Robin 他多数が出席 した。  - information from Ms. Marie Claire -

  • 「 ああ、あなたベルギー人は黙れ 」 という本が 「 Vivement dimanche 」 というフランスの TV 番組の司会者Philippe Geluckによって出版された。彼は、この TV 番組から最も注目に値して面白い瞬間と引用を集めました。以下は彼の再集計です。どのようにして彼の本のタイトルが決まったのか、それはこの本の問題に関しての彼の会見談からの引用です。質問:「 あなたの本のタイトルの所以は何ですか?」 Geluck:「 我々は、ミレーユ.ダルクについて放送しました。部分的にアラン.ドロンについても。ミレーユはドロンに私達の決裂は、私にとって非常に辛かった。と告白しました。彼女は彼に 『 あなたが私を捨てた後、私がどれほど苦しんだか分かっていますか? 』 と言った。スタジオの観衆や600万人のTV視聴者の前でドロンは、青ざめた。しかし、彼は、『 はい、私は知っています。けれども、私もまたとても苦しみました。私は、私と一緒に暮らすことが簡単なことではなかったことを知っています。けれども、あなたと一緒に暮らすこともまた簡単なことではなかった 』 と誇張して答えました。そして私は、言葉をはさみ、『  これ以上、彼女を怒らせることはしないように注意して 』 と言います。彼は、私に、『ああ、あなたはベルギー人、黙れ!』 と答えます。私は、彼に、『ああ、あなたはスイス人、すべてはOKです。』 と投げ返した。『 一日で、あなたが16年間のラブストーリーを処理する時、再び私に会いなさい。』 と彼は続けた。それから私は、『 一つの私のものが29年間の間にあるので、あなたは運を持ちませんでした 』 と言った。その言葉は、彼を気絶させた。それから彼は、そのことについて話をするために舞台裏に来た。それ以来、このフレーズは、我々のチームで度々繰り返されていました 」 。    - information from Ms. Karina -  

  • ドイツの雑誌 「 Die Actuelle 」 の記事によると。アラン.ドロンと彼の息子アンソニーとの間の古い確執が再燃した。映画スターであり、成功したビジネスマンであるドロンは、自分の相続財産の相続人からアンソニーを除外したがっている。ドロンは、彼の子孫に裏切られたと感じている。ドロンは、アンソニーとの全ての関係を断ち切った。最も最近の争い事は、フランス2チャンネルの TV 番組で、俳優であるドロンの息子の外見が、彼の父親と同じように女性にもてはやされることによって引き起こされた。現在アンソニーは、妻と二人の娘たちと一緒にロサンゼルスで暮らしている。彼は、「 私の両親が一緒に生活していた限りは、全ては順調だった。しかし、彼らが離婚して以来、私の父は、彼の全勢力で私を彼の欲求不満の対象として転嫁した。私は、『 ドロン 』 という名前を呪います 」 彼の両親は、1968年に離婚した。今、アラン.ドロンは、アンソニーが、彼の約1600万ユーロ (  この数字は、おかしい?  ) 遺産を何も得ないという遺言を作成している。ドロンは、彼のより若い子供たち、アラン.ファビアンとアニューシュカに財産を分与するに違いない。アンソニーは言う、「 このようなことは、以前何度もあったつらい体験だ。しかし、それは実務的ではない。彼の金は、私には関係の無いことだ 」 。      - information from Ms. Karina on 27th November  2006 -

  • ドロンは1960年代初めにパリの8区の豪邸を購入した。この邸宅は、Massine 大通りと Bienfaisance 通りの交わる角にあった。4階建ての建物で、Bienfaisance 側には勝手口があったが、この入り口から地上階にあるアデルプロのオフィースに出入りできるようになっていた。その右側には、浴室とトイレの付いた2部屋のアパルトマンがあり、そこがステファン.マルコビッチの住居であった。建物の2階は寝室で、3階はレセプションルーム、4階は育児係の部屋だった。子供部屋には、壁紙と同じ青い枝葉模様の2重のカーテンがかかっており、その他の部屋の壁は、ベルベッドや絹などの布で覆われ、各部屋に浴室があった。主要寝室の浴室は、丸屋根構造で大変豪華な造りだった。そこには特別に設けたニッチに錫製の浴槽がはめ込まれていた。3階には、回廊へと続く階段の前に陶製のグレートハウンド犬が一対並んでいた。建物全体で700平方メートル、各階では約120平方メートルが居住空間に使われていた。   - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

    ( Alain and Nathalie in 1960s ) 

     

  • ドロンの好物は、パネ ( 表面にパン粉を付けたフライのようなもの ) したアンドゥイエット ( 臓物の腸詰め ) とレンズ豆を添えたプチサレ ( 豚肉の塩漬け )。   - information from 「Les mysteres Delon」 -

  • 1970年代のドロンは、ランチタイムには、ドリンクと水しか飲まなかった。      - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • 1970年代のドロンの運転手ジーナという人は、Ange Blanc という別名を持つ有名なプロレスラーでもあった。   - information from 「 Les mysteres Delon 」 −

  • アランの銃への愛着に関して、アランの説明と事実に大きな違いがあるようである。アランは、「 西部劇が好きなだけ 」、と主張するが、ナタリーは、夫がかなりの量の銃を所有していたと言っている。ナタリーは、夫が事実を歪めていると知っていた。そして、「彼は、些細な事によく嘘をつきます。事実を釈明するのが嫌いなので、嘘をつくのです。」 とも言っている。フランス.ロッシュは、アランが日本から持ち帰った銃について、洒落にならない経験をしたことを覚えている。1963年4月のことだった。彼女の夫 Gilbert de Goldschmidt は、東京でユニフランスの主催する一週間のフランス映画祭に参加した。フランスからは何人かの映画スターらがやって来ていた。その中には、アラン.ドロン、フランソワ.トリュフォー、マリー.ラフォレ、フランソワーズ.ブリオン、アレクサンドラ.スチュワルトらがいた。映画祭の合間の自由時間に、彼らは高輪プリンスホテルの部屋に地元の商人に出向いてもらって、真珠のブローチやネックレスなどのショッピングを楽しんだ。唯一気がかりだったのは、おそらく税関に引っかかるだろうということだった。しかし、心配はこの税関の件にとどまらなくなってしまった。アランが、日本で購入した銃を腰に付けて持って帰ると言い出したのだ。仲間たちは冷や汗をかいた。ロッシュやブリオンが説得しても無駄だった。空港の税関に着くと、アランは、非常にリラックスしていた。彼の著名度、笑顔がものを言い、税関は困るような質問をしなかったが、ロッシュは、この狂気じみた行動のしっぺ返しが後々やってくるのではないか、と心配した。「 彼は、いつでも凶器やマフィアに深い愛情を持っていました。スリルを味わうのが好きなのです 」 と彼女は言った。         - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • ビヴァリー通り612番地のプールサイドで、アランは、この世のものならぬ至福の中で泳いでいた。彼は、MGM の招聘で仕事のためにハリウッドに来ていた。彼のために、或いは彼によって、計画された数々のプロジェクトは気品もスケールも言う事なしだった。ラルフ.ネルソンは彼を刑事もの 「 泥棒を消せ 」 で監督したがった。サム.ペキンパーは、ピエール.ドリュー.ラ.ロシェルの 「 L'homme a cheval 」 の映画化の準備を進めた。また、ジョージ.キューカーは、アランとシモーニュ.シニョレやナタリー.ウッドを共演させコレットの 「シェリ」 を現代衣裳で映画化しようと企画した。このうち後の二つの計画は実現されなかったが、どうしてもペキンパーと仕事をしたかったアランは、このウエスタン映画監督の一つのアイデアに同意を示した。それは、巨額な予算でのエキゾチックな歴史的冒険描写 「 Ready for the Tiger 」 で南アメリカの斬新なリーダー役を演じる事だった。しかし、スタジオは、政治的な関わりが明白なシナリオに衝撃を受け、絶対自由主義的で政治上全く公正ではない左翼的作品にたじろいだ。計画は保留となった。 唸るライオンがトレードマークのこの映画会社は、子供の誕生まで彼をそっとして、撮影の開始を遅らせ、ロサンゼルスのスタジオでの稽古をイタリア的に手っ取り早く段取るという特権を彼に与えていた。 ジャック.パランス、バン.ヘフリン、そして官能的なアン.マーグレットらに囲まれ、アランはこうして妻の近くで、毎日カルバーシティのスタジオに通い、夜には大急ぎで大量の買い物をした。アランは、Eddie Pedak を演じられて幸せだった。獄中生活の後に自由を取り戻し、正道に戻ると決めたところで、兄から汚い仕事を持ちかけられるという役である。アランは、毎週末、ビヴァリーヒルズの家に戻った。そして、撮影が終了を迎えると、彼は、美術担当の友人の申し出を受けて、家族とヴァカンスを過ごすために、彼のクエルナバカの邸宅を借りた。家族や従者らとともに、アランは、メキシコに発ち、彼の新しい住まいの庭が、ルイ.マルがこの1965年の春に 「ビバ!マリア」 の撮影で来たときに借りた住まいの庭と隣接しているものだと知った。この後、間違った噂が吹聴されないように、George Hamilton の監督で、不精な主人公、革命家 Flores の役をアランが演じたということは全くなかったが、この思いがけない滞在が噂に信憑性を持たせていた。その頃、アランには、既に共演したことがあり、一緒に一連の写真を撮った事のあるブリジット.バルドーとのキスシーンがあった。以前、彼は、「 La Verite 」 の指揮者ミシェルを演じるために、彼女とテスト撮影 ( 彼は、上半身は裸で、彼女は、ピンク色のタオル姿だった。)をしていたが、その写真は、サム.レヴァンによって不朽のものとなり、今日では、世界で最も美しい口づけの写真とされている。アランはまた後日、ジャンヌ.モローとも撮影でキスシーンを演じた。 撮影の後には、彼女らどちらかの邸宅で皆でトランプをしたり、テキーラを飲んだり、花壇に囲まれ花びらに埋もれたプールで泳いだりした。その後、アメリカへ戻ったアランは、MGM が何度も再編を繰り返した挙句、ペキンパーの映画を断念し、MGM の映画配給会社が南アメリカに 「 地下室のメロディー 」 の販売促進キャンペーンに行くように提案しているのを知った。彼は、チリ、コロンビア、パラグアイ、ウルグアイ、ボリヴィア、ブラジル、アルゼンチンに向けてナタリーと共に出発した。アルゼンチンでは、彼は、未来の大統領カルロス.メネムと親しくなった。彼は、雲の上にいるような気分だった。いつも喝采で迎えられ、各上演の前に簡単なスピーチをし、上演後は記者会見に出席し、花束とキスの嵐の中を空港へと去った。再びカルフォルニアに戻った彼は、興味深い企画が何もなく、各スタジオの提案が、彼の望むものではないと悟った。契約によって、いったん国に帰還し、後で再びアメリカに戻って来るということも彼次第で可能だった。始めは、彼を楽しませたアメリカ風の生活であったが、今では、彼をがっかりさせていた。そして、彼は、アメリカの生活に適応して成功することは、不可能なのではないかと思っていた。彼には、パナム ( パリ ) が恋しかった。通りのざわめきに始まり、カウンターバーの匂い、ブラックコーヒーの湯気が恋しかった。青空の下、椰子の木に揺られながら、彼は、ホームシックにかかっていた。この道楽状況では、何も自分に良い事はあり得ないと悟り、彼は、荷物をまとめ、家を閉め、パリに戻った。フランスでの、その頃の流行が、複雑な個性に欠けた美男だけのものではなくなったのは、一部、彼のおかげである。今日の俳優は、ほのめかしや、曖昧な性格に満ちた背景を持っている。「 リオの男 」 のジャンポール.ベルモンドや、「 アンジェリク、はだしの女侯爵 」 のロベール.オッセンは、トップスターとなった。     - information from " l'insoumis " by Albin Michel -

  • 1980年8月、ドレー監督との7作目になる 「 ポーカーフェイス 」 の撮影に入る。この映画は商業的大成功を収めたが、撮影中にはドロンが怒って現場を飛び出すなどのハプニングがあった。共演女優 Dalida Di Lazzaro は回想する。「 撮影中に一度だけ、彼が急に怒り出し、自分の犬を連れてわめきながら車でスタジオを去ったことがありました。撮影現場のみんなは、『 ダリラ、彼を呼びに行くんだ。彼を連れて来ることができるのは君だけだ 』 と私に言いました。そこで私は、笑顔でリラックスしたアランのデッサンをし、そのクロッキーを彼に送ったのです。『 これが私の好きなドロンよ 』 というメッセージを添えて。そうしたら、彼が戻ってきたのです!私へのお礼だと言って、彼は私にティファニーの金のペンダントをプレゼントしてくれました。そこには 『 僕を忘れないで 』 と刻まれていました 」 。      - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

    ( Alain Delon with Mireille and Dalida Di Lazzaro )

     

  • ジョゼ.ジョヴァンニ原作.監督の 「 ル.ジタン 」 の撮影は、アルプス地方のグラース近郊で行われた。共演者の中には、食堂のおかみ役を演じた Henriette Marello がいたが、彼女にとってこのロケは、ともすれば悪夢と化すところであった。ある朝、アラン.ドロンは愛犬を連れて彼女の方へやって来た。陽気な彼女は、弁当を作りながら 「 おはよう!」 と声をかけた。その時の彼女は、アランがその挨拶に答える代わりに、自分の愛犬に彼女を襲撃するよう命じるとは思ってもみなかった。Henriette は回想する。「 気がついた時には、筋肉の塊のような彼のモロス犬  『 ジャド 』 が私に襲い掛かってくるところでした。とっさに顔をかばい、犬が私に衝突する瞬間を待ちました。が、結局は何も起こりませんでした。アランが犬を呼んだため、犬の暴走はトラックの鉄板にぶつかったところで止まったのです。しかし、私は大変な恐怖を味わい、また、怒りはそれ以上でした。『 何するのよ!気でも狂ったの?あなたの犬が言うことを聞かなかったらどうなったと思っているの、もう少しで私に噛み付くところだったじゃない!』 と私は彼に言いましたが、アランにとっては自分のしたことはジョークでしかなかったのです。 ジョヴァンニとの撮影自体は何らの支障もなく進んだ。「 暗黒街のふたり 」 で衝突して以来、彼らはお互いをより理解し合い、尊敬するようになっていた。

  • 「 あなたの最初の記憶は?」 という質問に対して、ドロンは、「 母親の顔。銅製の浴槽の中に私を入れている母の顔です。」 と答えている。

  • 第三回マラケシュ国際映画祭が、2003年10月3日から8日まで開催され、映画界の大御所がマラケシュに集った。2月に急死した映画祭創始者のダニエル.トスカン.ドュ.プランティエだけが不在だったが、土曜日には彼に捧げられたパーティーが開かれた。彼の妻メリータ、そして彼との間にアリアンヌとダヴィッドという子供をもうけたマリー=クリスティーヌ.パローの前で、イザベル.ユペールは、映画界がどれほど彼の不在を遺憾に思っているかを述べた。アラン.ドロンは、彼に対する尊敬の念を、彼の妻メリータに語った。このパーティーで、アラン.ドロンは、1000人もの招待客の前で、モウレイ.ラシッド殿下から勲章を受け取った。国王ハッサン二世との個人的な繋がりによる記章だが、モロッコと長年友情を深めているドロンには、計り知れない栄誉であった。その後、招待客たちは、立食ビュッフェへ移り、モロッコ料理を堪能した。翌日パリに発ったドロンは、もう一つの勲章を手にしていた。それは、共演者の一人であるクローディア.カーディナルから手渡された 「 エトワール.ドール 」だった。    - Information from Paris Match N 2838 in 2003 -

  • ドロンにとって 「 Regina 」 という言葉には、いろいろな意味がある。まず、彼の父親が経営していた映画館の名前。ドロンがデビュー前に家出して泊まっていたパリのホテルの名前。ドロンが行きつけのパリのレストランの名前。アレグレ監督のプロダクションの名前。

  • 彼らの友情は、障害や国境を知らない。アラン.ドロンとカルロス.モンソンは、モンソンの絶頂期であった1973、彼が妻アリシアを窓から投げ出した罪で服役してた頃にさかのぼる。今、この元ボクサーは、条件付きの自由を与えられ、今日、誕生日を迎えた。アランは、8月5日木曜日、サンタフェの刑務所に彼を訪ねるという最高のプレゼントをした。ブエノスアイレスの500キロ北にあるパンパの小都市で、この 「 マッチョ 」 は51年前に生まれたのだった。ここでは彼は今でもアイドルだ。モンソンは、フランスのスターを、他の10人の囚人と共有している大寝室に迎えた。

  • 彼女の死について、アラン.ドロン以上に語れる人間がいるだろうか。彼は、彼女を情熱的に愛し、そしてその後には静かに愛した。 1968年にドレーの映画 「 太陽が知っている 」 で、彼女にキャリア復帰させようとしたのもドロンではなかったか。ロミーは、アランとの別離後、キャリアのために闘う気力を失っていた。ドイツに戻り、演出家ハリー.マイエンと1966年7月15日に結婚し、一児ダヴィッドをもうけていた。ロミーは、変わってしまった。子供に自分の全てを費やし、今まで味わったことのない、家族のぬくもりを大切にするために、もう働きたいとは思わなくなっていた。1968年、彼女の家庭は、崩壊した。離婚。彼女は、息子の親権を得るために闘った。子供と生きるために、財産の半分も諦めた。「 子供と別れるくらいなら、死んだほうがまし 」 と彼女は、言っていた。 仕事の面では、その後の彼女は順調だった。撮影に撮影を重ね、それぞれの役に全てを捧げる女優となった。叫び、不安、荒々しいまでの喜び。全てが衝撃的だった。この波乱の中で、子供のように泣く彼女を一人の男性が、いつもなだめていた。Daniel Biasini  だ。彼女は、アルコールと精神安定剤の力では、スターとしての人生の辛さをどうにも和らげられない時、彼に昼でも夜でもいつでも電話をすることができた。彼女が、二人目の子供を欲しがったため、彼女とダニエルは、1975年に結婚をした。しかし、彼女は、流産してしまう。そして、1977年、39歳の時に、女児サラを出産したのである。 母親の再婚に反発をしていたダヴィッドは、サラを前に和んだ。そして、全てが再び平穏に満ちていた。ダヴィッドは、ダニエルとも仲良く、一緒にサンジェルマン.オンレイの義理の祖父母のもとを訪れたりした。ダヴィッドは、ハンサムで、人懐っこく、繊細だった。しかし、その繊細さが彼の命を奪うことになる。1981年7月5日、彼は、サンジェルマン.オンレイの祖父母の邪魔をしないようにと、彼女の家の正門をよじ登って入ろうとした。そして、滑って鋭く尖った鉄柵の上に腹部から落ちてしまう。彼は、サンジェルマン.オンレイの病院で死亡した。この知らせを聞いたロミーは、ちょうど腎臓摘出手術を受けた直後で、疲労困憊していた。彼女の人生は、まさに試練の連続だった。 彼女の最初の夫ハリー.マイエンは、2年前に自殺しており、彼女は、そのことでも大変なショックを負っていた。それに加えて、サラの父親である Daniel Biasini とも上手く行かず、心理的な苦痛を抱えていた。彼女はその頃、アメリカンホスピタルに何週間か入院し、その間に、10キロ痩せていた。そこに、このダヴィッドの訃報が届いたのだった。それでも、ロミーは、サラのために生き、この惨めな人生に立ち向かう決意をする。しかし、人生は、またも彼女に試練を与えるのだった。彼女の心臓は、日に日に弱くなっていった。そして、この5月29日土曜日、死が彼女を安らぎへと導いたのだった。今、ロミーの眠るボワッシー.サン.サヴォワールの小さな墓場に、生前の彼女は、ダヴィッドを納骨しようとしていた。ダヴィッドは、サンジェルマン.オンレイに埋葬されていたからだ。 結局、ロミーの方がその墓に入るようになってしまった。しかし、ダヴィッドももうすぐ、この花に埋もれた墓にやってくる予定だ。アラン.ドロンは、ロミーの埋葬に立ち会わなかった。そのことについて、彼は、衝撃的な手紙の中で心境を語っている。彼は、パリ7区 Barbet-de-Jouy 通りの彼女のアパルトマンからの出棺には立ち会ったが、その後は、そっと立ち去り、教会へも墓地へも行かなかった。ロミーが、あれほど恐れていた群集を避けたかったのだ。アランは、かつて自分の愛した彼女と二人きりでいるために、一人で後日、彼女のを訪れることにしたのだった。その衝撃的な手紙は、ロミーの亡くなった晩、アラン.ドロンが、彼女の部屋で書いたものだ。彼は、彼女を優しく見守っていた。何時間も彼女の顔に、自分の顔を傾けて見つめていた。彼女の顔は、全く穏やかなものになった。この不幸から開放され、不安もいらだちも全く消えた顔だった。彼に残ったのは、彼女の思い出と、そして彼女の苦しみだけであった。

  • 1984年1月9日、ナタリー.バイとの共演で 「 Notre Histoire 」 の撮影が始まる。ナタリー.バイは、大物ぶるアラン.ドロンの存在に最初は、イライラしたものの、二人は次第に打ち解けて行った。現場で、アランはナタリー.バイの愛犬のフォックス.テリアをからかって遊んだりもした。また、自分の楽屋に彼女を簡単な食事に招いたこともあった。そのメニューは、ステーキとサラダ、そして一杯のボルドー赤ワインという簡素なものだった。この映画の役を演じるにあたって、アラン.ドロンは、何度も同じ質問を受けた。「 転機か?」 と。それに対し、彼は、次のようにコメントしている。「 ドロンの転機かって?笑わせてくれるよ。転機など存在しない。私は、いつでも自分のことをドロンと三人称で呼んできたし、これからもそれを変えるつもりはない。私の全キャリアを通して、私は、いつでも違う役を演じてきた。『 パリの灯は遠く 』 や、『 高校教師 』、『 若者のすべて 』 で演じた役に共通点があると言うのか?全くありはしない!大物俳優、つまり私のような大物俳優は、決まりきった役に閉じこもっているわけにはいかない。最近では、シャルリュスを演じたが、そこでもまた転機かと言われた。みんなマニアックになりすぎだ!私の役の選択が、私生活あるいは仕事上の変化を意味するのだと何が何でも決め付けようとするのはやめて欲しい。ある役を演じるのは、いつでも機会の問題なのだから 」。    - information from 「Les mysteres Delon」 -

( Alain and Mireille at Forum des Halles in Paris on 5th September 1979 )

  • インドシナから帰還したアランは、夜間、人手を必要としているレ.アールの問屋で、荷物を運搬する仕事に就いた。深夜に終わる激務で、明け方、シャンゼリゼ近くの Mermoz 通りの部屋に戻った。同じ階には、エジプト出身の女性 Yolanda Gigliotti が住んでいて、彼に身の上を語るようになった。彼女は、ミスエジプトとなって、フランスへ出てきたが、フランスの後見人たちの約束と支援が日を追うごとに減っていくと嘆いていた。これが後のダリダである。アランは、自分についてはあまり語らず、ただ、「 インドシナから帰ってきたばかりだ 」 とだけ言っていた。彼は、まもなく、5区の安ホテルに引っ越した。そこには Halimi 兄弟も住んでいた。兄 Benjamin とアランは、毎晩のように歓楽街へ出かけた。こうして、彼は、サンジェルマン.デプレ界隈のサン.ブノワ通りにあるバーで毎晩過ごしながら、夜遊びの雰囲気に魅了されていく。そのバーには、役者たちが多く通っていた。ルックスがズバ抜けて良かった彼は、舞台デビューのオファーを受けたこともあった。結局、その企画自体が流れてしまい実現はしなかったが、当時多くの女性に追いかけられていた彼の成功を確信する者は多かった。有名なカフェ..フロールの目と鼻の先にある、サン.ブノワ通りのあるバーで、彼は、アンティーユ出身のジジに出会った。彼女は、ダンサーだったが、ポリオにかかり数ヶ月前から両足を麻痺していた。同情した彼は、彼女の家まで送っていく。こうして、アランは、しばらくの間、彼女と幸せに過ごした。ブリジット.オベールと出会う日まで。1956年に彼と出会った時のことをブリジットは覚えている。「 その日私は、クラブ.サンジェルマンに踊りに行っていました。私にどうしても会いたい男の子がいる、と友人の一人が、私に言ってきたのはその時です。友人は、その男の子が向かいのカフェで私を待っていると言ったのです」 ブリジットの友人たちは、その青年が何者であるかは知らなかった。ただ、抜群の美貌であるとみんな口々に言った。しかし、彼女は、その見知らぬ青年に会うことを拒む。「 次の日も、その次の日も、彼は、申し込んできました。3日目になって、私は、彼に会う決意をしました。友人たちが言っていたように、確かに彼の容姿には人の目を釘付けにするものがありました。唯一困ったのは、彼が既にビールを15杯も飲んでいて、完全に酔っ払っていたことです 」 この日から二人は、「 時には花火が散ることもあったが、美しく素敵な 」  関係を築いた。彼らは、まず、7区のプレ..クレール通りの地上階のアパルトマンで同棲した。部屋の真ん中には、噴水があった。ブリジットの思い出の中のアランは完璧で、優しく甘かった。彼は、時には、貯金をはたいて、彼女に豪華な贈り物もした。「 ある日、私がロケに出かけようとすると、彼は、私にスエードのブーツを差し出しました。素晴らしいブーツで、かなり値の張るものだったはずです。彼が、どうやってお金を作ったのかは知りませんでしたが、ロケの間、ずっとそれを履いていました。また、ある時は、私が舞台公演をしていたスイスまで彼は、会いに来ました。その時、彼は、ひどい風邪をひいていたのですが、私に会いたいと言って来たのです。本当に愛らしい少年でした 」 と彼女は回想する。アランの方は、ブリジットとの関係を語ることに多少恥じらいがあったようだが、何度か雑誌で語っている。彼が、ブリジットを自分の家族に紹介し、そこから家族づきあいが生まれたのもこの時期であった。ブリジットにとって、アランは、大した技量を持たない若者だということは明白だった。しかし、彼の野心だけは大きかった。彼は、役者になりたがったが、ブリジットは本気にしなかった。「 彼は、いつもこの世界に憧れていました。彼は、とにかく有名になりたがっていました。単に役者になるというのではなく 」 アラン.ドロン自身は、次のように述べている。「 当時、私は、特に何かの職業に憧れていたわけではなかった。ただ、何であれ、何か自分が大きなことをし、成功するのだと確信していた。それが、たとえ靴下売りだったり、保険勧誘員だったとしても 」 ブリジットは、最初は、役者の道へ彼をバックアップしなかった。彼を失うのが恐かったせいだ、と言われている。「 彼が、芸能界に呑まれてしまうのが恐かったのです。でも、彼が興味を示したのはこの世界だけでした 」 ある時、彼女は、彼に、報道写真家になるように勧め、ルポライターの Francois Reichenbach に紹介した。しかし、アランは、一年も下積みで、人のカメラを持ったり、暗室で写真を現像するのは嫌だった。彼女は言う。「 彼にそんなことをする気は、まったくありませんでした。すぐにでも成功し、有名になりたかったのですから 」 彼女は、いつまでも彼の一番の願いに反対するわけにはいかなかった。そして、彼を演技のレッスンに通わせ、芸能界への道を試させた。そこで出会った最初のコーチ Simone Jarnac は、ブリジットに 「 彼は、信じられないほどの才能がある」 と打ち明けている。1957年のカンヌ映画祭に、ブリジットは正式に参加した。アランは、それについて行き、彼女が家を所有する Saint-Paul-de-Vence に滞在した。映画祭でアランは、新人俳優のジャン=クロード.ブリアリと出会った。「 アランとジャン=クロードは、コートダジュールで知り合い、すぐに意気投合しました。彼らは、同じくらいの年齢で、同じような生活を送っていました。そして、同じ将来を夢み、成功する才能もあったのです。」  と彼女は語っている。アランは、コート.ダジュールで記者たちの注目を浴びた。ある記者は、「我々は、無料の映写会を催していました。大成功でした。そこでは、ある若い青年が、奇抜な方法でカメラマンの気を引こうとしていました。彼は、明らかにジェームス.ディーンを意識して、スポーツカーを乗り回していたのです。彼の名は、アラン.ドロンといいました 」 と述べている。アランには、この世界にコネはなかった。そのコネを作るためにも、人の目を引きつけずにはおかない自分の美貌と、すべての人を参らせる自分のまなざしを最大限に生かすしかなかったのだ。ブリジットは、彼の魅力が、男女を問わず功を奏することを知っていた。「 アランは、人を魅了するがままにしていました。そうして楽しんでいたのです」 彼は、ブリアリと現地の一流ホテルに出入りするようになる。そして、Micheline Presle に見出される。「 ホテルの片隅に、抜群にルックスの良い青年がいたのを覚えています。彼は、自分の周りをしげしげと観察していました 」  同じホテルでは、記者二人とも意気投合し、ブリアリを含め4人で外出したりもした。また、アランの魅力は、その年の映画祭の審査委員長であったジャン.コクトーさえをも無関心にはさせておかなかった。母エディットは今でも、映画祭終了の数日後に受けたジャン.コクトーからの奇妙な電話を忘れられない。「 ジャン.コクトーがどうやって私の電話番号を調べたのか私にはわかりません。彼は、アランとの関係に憤慨していました。だから、私はコクトーに言ってやったのです。『 だったらアランに平手打ちでも食わせれば良かったじゃないですか 』 とね 」 と母は語る。その他、映画祭には、ロミー.シュナイダーも出席していたが、彼女とアランが同会場に居合わせたかは不明である。パリに戻ってからのアランは、多くの異常行動をとった。ある夜には、外から自分のアパルトマンの鎧戸に向かって銃を数回撃ち、損害を受けた隣人が警察に通報している。また、ある日は、ブリアリとドライブするために、ブリジットに車を貸して欲しいと頼んだ。あまりの図々しい態度に、彼女は、「 私の車はタクシーじゃないわ 」 と答えると、彼は、ブリアリの待っている外に飛び出した。この続きは、ブリアリが次のように語っている。「 彼は、僕の方に向かってくると、ポケットからピストルを取り出し、彼女の車のドアに向かって一発撃ってドアを開けた。そして、小細工をしてエンジンをかけると、僕に、『 さあ、乗らないかい? 』 と言ったのだ。僕は、恐怖に怯えた。こいつは、狂ってる 」 ブリジット.オベールは、10歳も年下の彼と、長く付き合えるとは到底考えてはいなかったが、彼のひどい性格にだんだん耐えられなくなってきた。彼女は、彼について、「 多くのことに対して自分自身に勝たなくてはならない人 」 と形容している。また、後に共演することにもなる彼の友人 Marie Laforet も彼の怒りっぽさに何度か遭遇している。「 彼が、優しく、思いやりのある行為をとるのも多く見てきましたが、彼は、時には、女性をひっぱたくこともありました。彼女らが何か彼の気に入らないことを言ったからと言って。些細なことで、彼は、我を忘れてしまうのです。そして、真っ赤になって相手に平手打ちを食わせてしまう。アランは、自分のマナーとか、教育の無さをバカにされるのが恐いのです。そして誰かがそうすると、怒り狂うのです 」  しかし、このような生活の中でも、彼は、自分の目的を忘れなかった。彼は、ハリウッドへ誘われたのとほぼ同時期に、Michele Cordoue に見出される。彼女は、「 ジェームス.ディーン風 」 の役のために若い俳優を探している有名監督イヴ.アレグレの妻だった。アランは、スターたちの集まったワイン会の会場で、女の友人 Sylvaine Pecheral を介して彼女に紹介された。アランとブリアリの共通の親友でもある Sylvaine はその時のことを覚えている。「 私にとって、アランとブリアリは、ヨーロッパでナンバーワンでしたね。ただ、彼らは無名でしたから、誰もサインをもらいには来ませんでしたが。会場では、Michele Cordoue が私を呼んで尋ねました。『 あなたと一緒にいたあの美しい青年は誰なの?』 と。『  どっちの?茶色の目の?それとも青い目のほう? 』 と私が聞くと、彼女は、『 青い目のほうよ。私に今すぐ紹介してちょうだい! 』  と言い、そこで私がアランを呼んだのです。彼女は、アランにこう切り出しました。『  実は、私の主人が、若い不良役を探しています。あなた、演じてみる気はありませんか? 』 」 こうして、アランは、翌日アレグレに会った。2時間の対談の末、アレグレは、彼にすっかり惚れ込み、この映画初心者に役を与えることに決めた。ドロンは、役を受けた理由について、「 面白そうだったし、金にも困っていたから 」 と述べている。しかし、承諾には一瞬戸惑った。アレグレは、ジャン­=ポール.サルトル原作の映画を手がけるなど、有名な大物監督で、彼と一緒に仕事をするのはこの上ない光栄だったが、この仕事を引き受けると言うことは、アメリカ行きを断念することを意味したからだ。迷う彼を、サルトルが説得した。「 君がキャリアに成功するのは、フランスだ。アメリカじゃない。故郷で1位を争う方が、ハリウッドで41番くらいの位置にいるよりずっといい 」 アランは、その通りだと思った。こうして、またしても運命が彼に目配せをした。というのも、アレグレの映画プロダクションは 「 Regina 」 という名前だったからだ。    - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

( Alain Delon and Mireille Darc in 1970s )

  • メルヴィルとの 「 サムライ 」 の撮影にあたっては、ドロンはナタリーの起用に反対した。監督のメルヴィルは、ナタリーに光るものを見出していたので、Sand という芸名で彼女を使いたがっていた。(彼女が、ドロンの妻であると観客にわからないように) ドロンの躊躇には、プライベートな理由も入っていた。マスコミは、しばらく前からアランとナタリーの不仲を書き立てていた。マルコビッチが二人の仲を取持とうとしたが、駄目だった。「 サムライ 」 の公開の一ヶ月前に、アランは、パリ裁判所に離婚調停の申し込みをした。しかし、ナタリーとの関係は、すっかり終わってしまったわけではなかった。二人は、その頃、一緒に特別試写会にも顔を出したりもしている。彼らは二人とも別々に、それぞれの仕事をしていた。10月には、二人の別居が正式に裁判所から認められた。それにより、アランは、 Avenue de Messine の住居に、ナタリーは、シャンゼリゼに近い Rue Francois 1er のアパルトマンに住むことになった。ナタリーは、こう打ち明けている。「 この頃から私とアランとの間の亀裂は、とても深いものになりました。彼は、私が女優として仕事をするのを嫌がったのです。でも、それぞれが自分の地位に固執していました。そこで、私は、いえ私たちは、離婚しようと決めたのです。私は、サントロペに家を借りて、一ヶ月そこで過ごすことにしました。息子と、育児係りの女性と、シルビー.バルタンと一緒に。ステファンは、私をそこまで乗せて行き、翌日には、パリのアランの所へ戻りました。1967年8月15日頃のこと、ステファンは、事前に何も連絡しないで突然、私の所へ来ました。その頃、マスコミは、私とアランのことを書き立てていましたから、アランが、その件について私のもとに彼を遣したと言っていました。彼は、10日ほど滞在しました。彼が到着して2、3日経った頃、私は、病気で伏せっていました。その時、私は、ステファンと関係を持ったのです。そして、彼がサントロペにいたその後8日間、その関係は続きました。ステファンがパリに戻る時、私は彼に、私たちの関係はこれで終わりにしよう、私たちは馬鹿なことをした、こんなことで友情を駄目にしてはいけない、とはっきり言いました 」 パリへ戻ったナタリーは、アランとの生活をやり直そうとした。その間、ステファンは、夫婦と同居し続けていた。しかし、ナタリーとアランの関係は、決して元通りには戻らなかった。ロンドンでのロケ期間中、アランは、ナタリーに手紙を送った。その頃、彼女は、Avenue de Messine のドロン邸に戻って来ていた。「 ステファンが私に、アランからの手紙を持ってきました。そこには私が、過去を忘れることが出来るか、ロンドンに来てくれるか、という内容が書かれていました。その晩私は、ステファンと一緒にタンクルーの家に行って、翌日にはロンドンへ発ちました 」 数日をロンドンで過ごしパリに戻ったナタリーは、もう二度とアランの住居へは戻るつもりはなかった。Rue Francois 1er のアパルトマンの工事は、まだ終わっていなかったため、Beaume のところへしばらく泊めてもらうことにした。数日後、アランも Beaume のところへやって来て、12月まで彼らはそこにいた。成功も失敗も経験したが、1968年初め、ドロンは、フランスで人気の高い有名人になっていた。ある統計によれば、彼は、フランス人が尊敬する人物の上位十位に入っていた。しかし、1968年は、またフランスで大規模なストライキと学生紛争が起こり、パリの町中で闘争が繰り広げられた年でもあった。争いが激化する中、モンパルナス劇場の支配人は、当時アランが、参加していた舞台公演を中止しようとしたが、アランたち俳優は 「 観客に応えて上演するのが我々の務めだ 」 として、公演を続けた。アランのボディーガードのために、ステファン.マルコビッチと、彼から雇われたユーゴスラビア人たちが、警備にあたったが、23回目の公演で結局は幕を下ろした。時を同じくして、アランとナタリーは、別れを決定的なものにすることを決意した。アランは、Avenue de Messine の住居に戻らざるを得なくなった。この決意の数時間前、ナタリーは、マルコビッチとのアバンチュールを彼に打ち明けた。アランは、何も言わずにそれを聞いた。彼が、そのことについてマルコビッチとその後、話し合ったかは不明だが、その6月の間、彼らは、よく一緒にパリで目撃され、二人の間に何ら諍いの兆候も見られなかった。ただ、7月の半ば頃、ステファンのユーゴスラビア人の仲間たちが、二人の激しい口論を目撃したらしい。その頃、ナタリーは、アンソニーを連れて、アルカションでヴァカンスを過ごし、7月末にパリに戻ると、Francois 1er のアパルトマンにアランを招待した。その後は、アランが、パリを離れてサントロペへ 「 太陽が知っている 」 の撮影へ出かけ、ブリジット.バルドー宅へ滞在した。バルドーは、提供できる唯一の部屋が物置を改装して作ったいかめしい寝室だけだったので、少し気詰まりだった。しかし、その部屋から裸足のまま浜へ出られるという利点もあった。ドロンが、この部屋を見たとき、彼は、ヴィトンの鞄をまだ手に持ったまま躊躇した。しかし結局、彼は、礼儀正しくそれを受け入れた。ある日、バルドーは、ピザハウスへ彼女の友人たちと一緒に行かないかとアランを誘った。アランは、彼女の友人たちを嫌っていたので丁重にそれを断った。バルドーは今でも、アランが自分よりも見張り番たちと一緒に食事をする方を好んだ、と記憶している。バルドーが戻ると、彼女は枕元に走り書きを見つけた。そこには、「 どうして君はあんな連中と何時間も共にして人生を台無しにするんだい?」 とあり、アランのサインがしてあった。バルドーはそれを悪く思わなかった。彼が今辛い時期にあることを知っていたからだ。「 当時のアランは大変不安定でした。ナタリーと別れたばかりで、ミレイユ.ダルクにはまだ出会っていませんでしたから。それに、ロミー.シュナイダーと 太陽が知っている を撮ることにもなっており、彼の心にはロミーの存在がまだ大きかったことと思います」 と彼女は述べている。彼らは、バルドーに言わせれば 恋に落ちることも可能だった が、結局は何もないまま、アランは彼女の家を後にした。「 太陽が知っている の撮影が始まり、プロダクションが別の家を借り切ったからだった。ロミーのコートダジュールへの到着は8月の初めに予定されていた。アランは当日空港へ彼女を迎えに行った。マスコミもこの ヨーロッパの婚約者たち の再会をカメラに収めようと空港に待機していた。当時駆け出しのリポーターだった Jean-Marie Molinengo は、ドロンとロミーの数少ない同時インタビューを行おうと企て、ロミーの到着を待っている間、彼はアランに、「 インタビューをしても良いですか と聞いた。アランからはOKが出た。アランは、「 実は少しばかり緊張しているんですよ。彼女を迎えに前ここにやって来たときからちょうど10年なんです。1958年でした」 と応じた。やがてロミーが到着した。再会はとても陽気なものだった。若い Molinengo はロミーに、アランとの再会が幸せかどうかと尋ねた。「 とても  と彼女は答えた。Molinengo はそこで、もう一度アランに質問をした。「 アラン.ドロンさん、先ほどあなたは大変緊張なさっているとおっしゃいましたね アランはそれにエスプリで応えた。「 ええ、当然なことですよ、そう思いませんか。私は緊張していますが、でもあなたほどではありませんよ!」 Molinengo は後年、「 確かに私は震えながら仕事をしていたのです と認めている。   - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • .TF1のテレビ映画  シネマ  におけるドロンのギャラは、記録的なもので、当ドラマの制作は、テレビ界では世界一の費用をかけて行われた。このドラマでドロンは、元ピアニストだった母親のために闘う大スターの役を演じた。露骨でもあり、また傷つきやすくもある主人公の役柄に彼は自分自身を重ね合わせた。「 これはあるスターの物語だ。が、同時に一人の男の物語でもある。人が好こうが嫌おうが、私自身でもある。私の反抗的な部分、不安、喜び、極端さ、失望、そして孤独が描かれている 撮影は順調に進んだが、一度だけちょっとしたハプニングがあった。それは、またしても彼の攻撃的な愛犬によるものだった。Bry-sur-Marne ブリ.シュール.マルヌ のスタジオに、ドロンはいつも違う犬を連れてきていた。ある日、一人のスタッフが彼に電話が来ていると知らせにやってきたが、用件を伝え終わらないうちに、彼の愛犬がそのスタッフに襲い掛かり、ズボンを食いちぎってしまった。その場に居合わせた関係者の証言によると、このような光景を前にしても、ドロンは平然としていたと言う。そして、ただ淡々と、「 この若者に新しいズボンを買い与えるよう 」、社長に願い出ただけであった。ドラマは批評家たちには好評で、アラン.ドロンはいつも通りプロモーションにも手を抜かなかった。スーツにサングラス姿で、彼は15分遅れてブリストルホテルで行われた記者会見にやって来たが、共演者たちに賛辞を浴びせた後は、自分自身の能力について、「 私は、他人には出来ないことが出来る と豪語している。

    ( Alain Delon with Ingrid Held )

     

  • 1989年、ドロンは、「 私刑警察 」 の撮影中にエピネのスタジオで怪我をしている。撮影3日目の6月のことだった。ドアを足で蹴飛ばして開けるシーンで、アキレス腱を切ったのだ。全治一ヶ月の怪我となり、彼の不在は、プロデューサー側に大変な痛手となった。映画もヒットしなかった。
  • ラ.デファンスの高層ビルの41階で、アラン.ドロンは、チャンネル5のために収録をする。この教養チャンネルで、彼は毎週水曜日、第7芸術の先生と扮する。背景は、彼が選んだものだ。彼の机上には、子供たちの写真や、セザール賞、ベルリン映画祭で獲得したばかりの金熊賞、ヴィスコンティから贈られたメガホンがある。そして、頭の中には、セザール賞受賞式の華々しい晩のことが焼き付いている。グレゴリー.ペックとの感動的な対面、アジャーニからのメッセージ、出産を控えている彼女に渡さなければならないセザール賞.....ドロンは、映画のために、好きな人たちのために、家族のためにそこに存在した。鼻眼鏡をし、このインタビュー中もずっとそうであったように、自然に。 アラン.ドロンは言う、「 私から見れば、今、フランス映画は大変な時期にあると思います。ですから、テレビの視聴者に対して、私の幼少時代の揺りかごであり、私のキャリアの羅針盤であった映画を紹介したいと思ったのです。今の時代は、ちょっと気晴らしをするにはテレビがあります。人々は、条件反射的にテレビを見るので、若者は、ルイ.ジュヴェなんかよりも 『 マイアミ.ヴァイス 』 の方にずっと惹かれているわけです。子供は、まず最初にテレビを見たがりますから。それに、映画の存在を学ぶことは、ワーテルローの戦いや、第二次世界大戦について学ぶことと同じくらい大切なことです」 。        - information from 「 Cine Tele Revue 」 No 9-2 Mars in 1995 -
  • 1989年、映画 「 ヌーヴェル.ヴァーグ 」 で、アラン.ドロンは、ゴダールと仕事をすることになる。何の共通点もないこの二人が同じ映画を作ることを、関係者は、最初冗談と思ったくらいだが、二人は、パリのホテルのバーで初めて会い、話を進めた。ゴダールは、大変内気な性格で、初めて会う人の前では、人見知りをした。ドロンは、こう語る。「 私は、ゴダールをリラックスさせようと、『ああ、偉大なるマエストロ、あなたにお会いできるとはなんという喜びでしょうか!』 と言って、彼の前に現れたのだが、ゴダールは、更に萎縮してしまった。彼は、少し舌足らずに、『 私のアイデアをどう思われましたか?』 と私に聞いた。私は、ゴダールを真似して、『 素晴らしい考えですよ!』 と答えた。すると彼が、『 では、あなたは私のレジュメを読まれたのですね? 』 と言うので、私は、『 大変興味深い内容です』 と答えた。アラン.ドロンは実際には、ゴダールの説明の半分も分かっていなかった、と別の場所で告白している。だが、彼にとって、チャレンジは、大歓迎だった。アラン.ドロンは、ゴダールのためにすべてを受け入れようとしたが、撮影中は、ドロンとゴダールと彼の妻との間に摩擦が起こった。彼女が、夫である監督の代わりにしばしば指図を出したがったからだ。ドロンは回想する。「 この仕事を熟知し、尊重する私の前で、監督の横に座っている人間が、『 テイク4にします 』 などと言う。私は、彼女にこう言った。『 お願いですから、彼 (ゴダール)に選ばせて下さい。たとえあなたが選ぶのだとしても、私の前では、そうしないでください!』 撮影は、ゴダールの希望で、スタジオを外部者に完全に締め切った形で行われた。撮影クルーは、全部で6名ほどのスタッフで構成されていたが、これまで少なくとも80人のスタッフのいる撮影現場で仕事をしてきたドロンにとっては、大変な環境の変化だった。スタジオでのゴダールは、口数が多かったが、彼の言うことには、わけのわからないことが多かったと、ドロンは言っている。「 私にとって、大変だったのは、ゴダールの言うことの曖昧さ、不明瞭なところだった。例えば、彼は私に、『 それを左に置いてみてはどうかな、こんな風に 』 と私に言う。私は、彼の言葉どおりにする。するとゴダールは、今度は、撮影の後に、『 右に置いてくださいと言ったではないですか!』 と私に言うのだ。私が、『  いいえ、左とおっしゃいましたよ。まあ、どうでもいいことですがね。あなたのお好きなようにしますから、ただ、ちゃんと指定してくださいよね!』 と答えると、ゴダールは、『 だが、それこそ私にはわからないことなのだよ。それに、右だって左だって大した違いはないじゃないか 』  と、こう出るのだった 」 公開後、アランにとっては満足のいく出来栄えにも、批評家は冷たく、アラン.ドロンは、この失敗に深く傷ついた。 「 疲れた。もはや、目標さえ失ってしまった。」何もかもが、ごちゃごちゃになっているようだ。もう何も見えてこない。自分には、映画館や劇場に行ったり、家族と共に過ごす時間さえない。この夏、4日以上休んだことはなかった。竜巻に巻かれているような状態だ。もう何もわからない。頭がくらくらする。自分の方向性を取り戻さなくては。スピードがあまりにも速すぎた。休息が必要だ。このままでは、仕事の成果を味わう暇もない。75歳になるのを待つことなどできない 」 充電のために、アランはジュネーヴの邸宅にこもることにした。その家の入り口には、二頭のモロスが、警備のために常在していた。家の中は、絵画の傑作や、彫刻のコレクションでいっぱいだったが、彫刻の一つは、死んだ愛犬マニュのメモリアル碑として庭に立てられていた。家の名義は、彼の会社の社長の名前になっていたが、これはスイスにおける滞在許可書 C を取得するまでの対策であった。     - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • 1986年当時、ロワレ県にあるドゥーシーのドロンの本宅のリヴィングルームには、室内プールが隣接していたが、その後、このプールは、10人ほどの人数を収容できる映写室に変わった。暖炉の横には、12世紀の絵画 「 狩の情景 」 が架けられている。

  • 映画 「 ダンシングマシーン 」 では、監督 Gilles Behat と Alain とのいざこざは、映画史上初ともいえるほどのすざましさだった。ある関係者によれば、「 怒り 」 と 「 ハリウッド式気まぐれ 」 のちりばめられた6週間だったと言う。まずは、ドロンだった。彼は、共演女優が気に入らず、3日間現場を放棄した。次は、監督の Behat が一日スタジオから消えた。また、フレンチディスコ界のプリンスともいえる Cerrone は、はっきりしない理由でアランにスタジオから追い出された。そして、ドロンの振付師であった Redha。彼もよくわからない理由でドロンから攻撃された。とにかく、ほとんどすべてのスタッフと衝突し、撮影現場でドロンとの衝突を免れたのはたった二人だった。彼の衣装係と原作の Paul-Loup Sulitzer だ。それどころか、Sulitzer は、友人ドロンには、勇気、友情への忠誠、そしてプロ精神という3つの大きな長所があるとさえ言っている。「 彼は、臆病者ではない。必要とあらば、相手に食って掛かることもできる人間だ。ある時、サントロペのビストロで、アランがののしられたことがあったが、彼はすぐに腕まくりをした。彼には、いつでも相手と喧嘩し、打ち負かす準備があったのだ。」 映画の批評は散々で、「 アラン.ドロンは、あらゆる製作を台無しにしている 」 とさえも言われ始めた。自殺行為に走っていると。パリの社交界からは、「 アラン.ドロン気取りしている 」、あるいは、「 ドロン様気取りしている 」 とまで陰口をたたかれるようになり、友人の Jean Cau さえも、アランの行動に疑問を抱いている。    - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • ドロンは、ロザリーの祖国オランダでは、全くのお忍びでゆっくりできるらしい。誰にも邪魔されずにサイクリングをしたりして週末が過ごせる。そして90年代半ばに、ドロンは、北海から約3キロのところにも購入した。「 ロザリーには、彼女のルーツが必要なんです。それに、半分オランダ人である子供たちにも、彼らの国を好きになって欲しいですし 」。

  • 父の娘に対する素晴らしい仕草。「 アニューシュカは、素敵な子供です。性格も強く、彼女が駄目と言ったら、駄目なのです。私に対してもですよ!彼女がしたくないことを私が指示すると、彼女は、私を見て、私の真似をするんです。眉に皺を寄せて。これには、全くメロメロになってしまいます 」    - information from 「 Cine Tele Revue 」 No 9-2 Mars in 1995 -

  • ある6月の日曜日、アラン.ドロンは、家族とともにドゥーシーで過ごしていた。56ヘクタールの私有地。家族の誰もが幸せに満ちている。大きなキッチンの L 字型テーブルには、食事の支度が出来ている。庭で育てたアジサイのピンク色のブーケを背景に、伝統的な料理が並んでいる。ドライソーセージ ( ドロンは、自分の初めての職業をいつまでも忘れることなく、誇りを持ち続けている。)、ローストチキン、フィレンツェ風サラダ、ブリーチーズ、自家製生クリームの添えられたイチゴ。唯一の例外は、1982年もののシャトー.ラブールだ。食事の後、ロザリーが子どもたちをドゥーシーのお祭りに連れて行く間に、我々は、書斎に落ち着いた。大きな部屋で、大窓は森に面している。テーブルの上には、書類や、電話、新聞、画集がある。そして、彼の前には、ある雑誌の表紙のコピーが。その表紙には、「 アラン.ドロンとロザリー。彼女は、子供を連れて家出。カップルの危機。ドロン、手痛い打撃。世界ツアー、キャンセル 」 とあった。一家の父である彼は、戦闘態勢でこう述べた。「 我々のカップルが駄目になると言う者は、全員くたばらせてやる!フランスやアフリカでこれほどの事が起こっていながら、私の悪口しか書くことがないのか。」 「 真実は、実に単純です。私は今、ベルモンドとヴァネッサ.パラディの共演で、パトリス.ルコントの 『 Une chance sur deux  』 を、コート.ダジュールで撮影しているのです。ロザリーは、オランダの父親に会いに、Voorden に行っただけで、2週間後には、逆に彼女が子供たちと、コート.ダジュールのムージャンに私が借りた家に合流する予定なのです。それでも、彼らはこう書き立てるのでしょうね。『 手痛い打撃。世界ツアーをキャンセル 』 と!これは、全然関係のないことです。私は、世界ツアーを全く個人的な理由でキャンセルしたのです。もし必要なら書類を作成してもいいですよ 」 我々は、少し外に出た。「どんな夫婦にだって、嵐のような時はあるでしょう?でも、私の家族の問題は、私だけのものです。そして、こんな陰口を言う者には、『 くたばれ!』 と言ってやります。ロザリーと私は、もう10年も一緒にいるし、一緒に人生を終えるでしょう.....アニューシュカは今7歳で、かなりのことが理解できるようになりました。学校では、友達が 『 お父さんとお母さん、喧嘩しているの?』 と彼女に聞くそうで、こんな馬鹿げたことが、子供たちの心にずっと残ってしまう。こんな卑劣な行為に身をさらすわけにはいかないね 」 車が停まり、ロザリーが子供たちとお祭りから戻ってきた。子供たちは、仲良しの犬 Maya, Charly, Snoopy に会いに犬小屋の方へ走る。キッチンのドアの前には、ゴルフのための電動自動車が止まっている。「 パパ、一周しに行こう!」 ドロンは運転席に座る。アラン.ファビアンは、彼の膝の上、アニューシュカは、彼の横に立っている。彼らを乗せた車が森の中へと消えていく間、ロザリーは、野花で溢れるプールサイドへ歩いて来た。 「 たぶん私がオランダ人だからかもしれませんが、私は各国の品種に囲まれて庭いじりをするのが大好きなのです。いつだったか、珍しい植物をこっそりと持ってきたことがありました。アランは、喜ぶと同時に、少し憤慨もしていましたが。ここにあった城は破壊されてしまったので、私は庭だけでも再現したいのです。古い文献を見たり、写真を見たりしながら。この 『 cuisse de nymphe 』  と名付けられたバラを見てください。匂いをかいでみて下さい。こんなに香ばしい花を私は知りません。私が死んだら、この花を墓に入れて欲しいです 」 アランが戻ってきた。子どもたちは再び犬と遊んでいる。 「 今回のカップルの破綻という記事については、私もアランと同じ意見です。3ヶ月前にも同じような事がありました。私は恥ずかしさで、気が滅入ってしまいましたよ。ですから、今回はちょっと行き過ぎです。アランの存在のために、私の一部は公のものとなってしまいましたが、私は二人だけのものを大切にしていたいのです。ドゥーシーは、私たちの秘密の園。天国。何にも傷つけられてはならない場所なのです」 。      - information from Paris Match M 2533 in 1997 -

    ( Delon with his pet dog at artificial pond of his base in Douchy )

  • 13年目にして初めての、ロザリー、家族とのビアリッツでのヴァカンス。彼女が夢見ていたものをアランは叶えた。自家用ヘリコプターの操縦席から、バスク海岸へ降り立った彼は、水着姿で何もしないでいることの素晴らしさを初めて味わった。世間のパパと同じように、10歳のアニューシュカと6歳のアラン=ファビアンを目で追いながら。ジュネーヴ近郊の Chene-Bougeries の所有地が気に入った彼は、1999年、スイス国籍を取得した。普段は時間に追われて、ヘリコプターで、現在チャペルを建設中のロワレ県のドゥーシーの家とを往復している。 しかし、今、ビアリッツのホテル.ド.パレで、ゆったりとした時間を過ごす彼は、「 ベッソン、ルコント、スピルバーグからの出演依頼が無い限りは 」 既に映画界からは引退を決意し、TF1 チャンネルのシリーズ 「 Fabio Montale 」 の撮影が始まるのをゆっくりと待っているだけだ。また、新学期に発売される写真集も目下 Henri-Jean Servat と丹念に仕上げている。彼は、リラックスし海を眺める。もうすぐ65歳になるというのに、砂浜の 「 アポ (ド )ロン 」 並みのボディーをしている。この前の6月には、イタリアで、週刊誌  「 Eva Tremila 」  に 「 もしも不能になったら、自殺するでしょう 」 と言って世間を騒がせたのだったが。それは、1972年に撮影した映画のテーマの暗示に過ぎなかった。        - information from Voici N 665/HEBDOMADAIRE DU 7 AU 13 AOUT 2000 -

  • ( ロザリー アランのパートナー ) Cine-Tele Revue の依頼に、彼女は、プライベートに触れる最初で最後のインタビューに答えてくれた。彼女の小さな訛りはチャーミングだ。彼女は、オランダ人である事を誇りに思っている。愛情を込めて、彼女は、パートナーについて語ってくれた。( 彼女は、アランのことを 「 夫 」 と呼ぶ。)         - information from " Cine-Tele Revue " N 46-16 NOVEMBRE 1995 -

  • 1953年の初め、アランは、レンヌ近郊の Pont-Rean 訓練所に、「 H.R.( 別格 )」 軍人として迎えられる。「 別格 」 と聞いたとき、彼は、自分がエリート集団に配属されたのかと思った。しかし、実際には、専門教育を受けるには学力レベルが低すぎる者たちが 「別格」 扱いされているに過ぎなかった。アランの落胆は大きかった。「H.R.」 軍人はまず、デッキを一日中洗うか、一般教育を完璧にするかのどちらかを選ばねばならなかった。アランが選んだのは後者だった。Pont-Rean 訓練所に着いた彼は、私物をすべて家に送り返すように命じられる。 その代わりに、彼は海軍の軍服を受け取った。ベレー帽、縞模様のアンダーシャツ、紺色のシャツ、フラップパンツ、黒いネクタイ、ピーコート、ズックの作業服などだ。認識番号の書かれた記章も渡された。この記章はチェーンにくくりつけられ、ブレスレットのように左腕につけなければならなかった。彼のお気に入りの物だったと見えて、後に 「 Parole de flic 」 に出演した際に同じ認識プレートをつけている。まもなく、アランは、5人部屋に入る。そこには、2歳年上のレイモン.ブラスコもいた。彼もまた母親の再婚相手とうまくいかずに、厳しい規律への道を選んだのだった。訓練所での生活は、学問と肉体訓練との二つが中心となっていた。 日がたつにつれ、レイモン.ブラスコはアランの性格を把握していった。「当時の彼は、今のようではなかった。とてもおとなしく、控えめで、粋だった。何よりも心根がやさしかった。」 彼はまた、アランと町にくり出した時のことも覚えている。「 その日は、彼と町に踊りに行った。夕方の6時ごろ、専用バスで訓練所に戻ろうとしたが、もう食事の時間は過ぎており、夕食にはありつけないということがわかったが、彼も僕も一文無しだった。そこで、赤十字の収容所がフライドポテトを10サンチームで売っているということがわかった。アランは、それを買おうと僕に提案したが、僕には文字通りまったくお金がなかった。彼のポケットには20サンチームが入っていた。僕は彼に言った。『 行ってこいよ。僕はバスを待っているから 』 すると彼は驚いて、『 君が外で僕を待つなんて問題外だ。一緒に来るんだ。そして、一人一皿ずつフライドポテトを頼もう 』 と言った。彼は、僕がひもじかったあの日、僕に食べさせてくれた。ブラッサンスの歌にあるように、このことは一生忘れられない。」 また、ある時にはレイモンはまったく別人になってしまったアランを兵営に連れて帰ったこともある。アランがブルターニュ美人と恋に落ちてしまったのだ。「 その時の恋は、彼の Bourg-la-Reine 時代の少年期のものとは全く違っていた。彼はその日初めて本物のキスを味わったのだ。僕は、興奮しきった彼に翌日の朝まで耐えなければならなかった。」 これらの楽しい出来事は、軍による厳しい訓練を忘れられるひとときとなった。訓練終了後、レイモンはシェルブールへ、アランはトゥーロンへと配属され、二人は別れる。5年後に軍を離れたレイモンは、もう二度とアランに会うことはなかった。 「 彼の映画界のキャリアは、新聞、雑誌を通していつも見ていましたし、彼のインタビューもたくさん読みました。でも、彼があまりにも変わってしまったような気がしてならないのです。私の知っているあの青年とは全く別人になってしまいました」 軍では、アランは、新しい家族を作ったような気がした。しかし、本当の家族とも全く疎遠になったわけではなかった。彼の母エディット.ブローニュは、息子の出征からまだ立ち直っておらず、訓練所の上官に対し、息子の兵期延長への異議を、息子の知らぬ間に申し立てていた。トゥーロンでは、週末になると彼は 「 シカゴ 」 に通った。「 シカゴ 」 とは、いかがわしい界隈に名付けられた地元民による呼称だ。そして、その地区のバー 「 Marsouin 」 の常連となり、コルシカ出身のオーナー  Charles Marcantoni ( シャルル.マルカントーニ ) と Rita ( リタ ) 夫妻に気に入られ、インドシナ出発前も帰国後も、気前良く夫妻からもてなされた。シャルル.マルカントーニは回想する。「 我々の客は、ほとんど海兵だったんですよ。彼ともこうして知り合ったんです。何故、彼を気に入ったのかというと、難しいですね。でも、客が良い友達になるということもよくあるものなんです。彼の友人たちは、うちや他のバーをはしごして、ちょっと立ち寄るくらいでした。でも、彼はよくうちに来たんです。常連でした。大人しく、愛想の良い青年だったことを覚えていますよ。17歳でした。海軍にいるのが嬉しかったのかどうか。多くの海兵たちは、契約時に支給される手当てが目当てで入ったのですから。そうでなければ、家族の束縛から逃れるためでした。同時に、彼らは戦争に係わっていたのです。戦場に行っていたのです」 アランの反抗ぶりは、トゥーロンでもすぐに将校たちや下士官らに注目されるようになった。彼は、懲罰にも恥じることなく、 「 親友がラジオを組み立てたいと言ったから、機材を盗んで一緒にラジオを組み立てた。」 と言っている。やがて、彼は契約を二年延ばして、インドシナへと出発する。サイゴンへ向かう一ヶ月の航海の間に、3度寄港しなければならなかった。エジプト、ジブチ、そしてシンガポールだ。インドシナは彼にとって、水田、目の細い女性たち、仲間といったイメージを与えた。フランスがアジアで行った植民地戦争は、政治的意識をもたらしただろうか。かつて Bourg-la-Reine で恐れられていた彼も、何故自分がこんな極東にいるのかわからなかった。 「 我々は、何故戦争が行われているのかも知らなかった 」 と、彼は語っている。彼は、インドシナの首都を、泥土の中に造られた、群集のひしめく平らな町だと捉えていた。彼は、やりきれない暑さにも、 「 常に水蒸気のために曇っていて、けっして青くはない空 」 にも不平を言わなかった。パリの流行より何年も遅れた流行、何週間も上演されるギャバンの映画、彼は、いつか自分がギャバンと共演する時がこようとは夢にも思っていなかった。「 それが、私にとって初めての最も素晴らしい映画の思い出だった。それは、フランスであり、ギャバンであった。人生において、誰もが自分の居場所から逃げてどこかへ行きたいと思うことがある。しかし、ついにそのどこかへ来たとたん、パリの地下鉄の切符や、フランス映画など、パリへと自分を結びつけるものが恋しくなるのだ。仲間も、私も、皆パリの地下鉄の切符をボロボロになっても財布の中に大切にしまっていた 」 彼は、小さな箱の中に、女優 Madeleine Lebeau の写真を貼っていた。彼女は、Bourg-la-Reine に住み、母親の店の客でもあり、友人でもあった。プロデューサー Clement Duhour の妻であり、「 Marcel Achard の愛人でもある 」 彼女に、彼は出発前に何度か道ですれ違った。彼は彼女と、彼女の妹の美貌の虜となり、妹のほうとは、しばらくの間つき合った。映画の撮影現場に連れて行ってもらったこともあった。インドシナの彼に、母は、毎日長い手紙を送り、週に一度は、バターや、鶏肉、ハム、そしてお菓子などを彼に送り続けた。しかし、アランの上司たちは、彼の母親に、 「 こんなにたくさんの荷物と手紙を受け取る志願兵は見たことがない 」 と皮肉を言った。その後、ジープ持ち出し事件で刑務所送りになっている息子を、母は、なんとか除隊させたいと考えた。 「 もう続けられそうにありませんでした。彼は、毎日を刑務所で過ごし、私は毎晩泣いていました 」 そして、ついに本国に返されることになる。復員手当ては差し引かれ、また、武器所持で更にトゥーロンで45日間拘置されなければならなかったのだが。本国に送還されてしばらくの後、遂に地中海地方を離れる時が来た。彼は、その前に 「 Marsouin 」 の常連たちに会っておきたいと思った。シャルル.マルカントーニとリタは、彼を 「 実の子 」 のように迎えてくれた。そこで、彼はシャルルの兄フランソワとも知り合う。彼は、暗黒街で名が知れていた。ドロンと知り合った時、彼には弟が紹介した無職のドロン青年との出会いは特に記憶に残らなかった。しかし、この出会いが今後、ドロンの人生に大きな影響を及ぼしていくのだった。           - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • ドロンは、1950年代におけるコブラ運動の巨匠たちやパリの学校によって表された一流の作品郡を含む彼の現代絵画のコレクションの大きな部分を売却することを決めた。そ のオークションは2007年10月15日、パリの Drouot Montaigne ホテルで20時30分から行われる。展示は12日から15日の期間。2007年5月、彼の所有する40作品の絵画が、Applicat Prazan Gallery に展示された。彼のコレクションには、Hans Hartung, Soulages, Riopelle, Maurice Estève, Manessier, Dubuffet, N. De Staël Géricault Delacroix and Millet などの他の別の作品もある。       - information from Ms. Marie Claire -

( Delon sleeps with Anthony in 1960s )

  • Beatrice Barton、Alain Delon そして Domenica Warluzel は新たな3人組を結成した。TSR社の女性チーフジャーナリスト兼プロデューサーの Beatrice Barton、俳優のAlain Delon そして法律家で、「 The tele one 」 のプレゼンター兼照明プロデューサーのDomenica Warluzel。彼らは、「 BBD Polymedia 」  というプロダクション会社を設立した。         - information from Ms. Marie Claire -

  • アレグレの熱意にも関わらず、アランの起用をプロデューサーたちに認めさせることは一種の戦いであった。プロデューサーらはこぞって、当時人気の Gil Vidal を使いたがったからだ。アレグレは、自分の発掘した新人ドロンを世に送り出すため、女性スター、エドウイジュ.フイエールの助けを請うことにした。 彼は、彼女に、カメラテストのフィルムを数本見せた。フイエールは、アランに他の俳優にはない何かがあると感じた。アレグレはまた、ドロンに的確なアドヴァイスをした。 「 君には、普段の君らしくいて欲しい。いつも通りに動き、いつも通りに歩くんだ。何か特別なことをしようなどと思ってはいけない。演技したり、役を演じようとするなどはもっての外だ。君らしくいろ。そうすれば君は自然に私の映画の主人公となる。」 最初の撮影は、ヴィクトール.ユーゴ通りのケーキ屋からケーキの包みを持って出て来て、車に乗るというシーンだった。初めてのカメラを前にしても、緊張した記憶がアランにはない。逆に水を得た魚のようにリラックスしていた。 「 とても簡単で至極当たり前のことのように思えた。それに、監督が非常に良くフォローしてくれた 」 と、彼は感想を述べている。アレグレは、アランの経験のなさをスクリーンで見せないように猛烈に仕事をした。女性共演者 Sophie Daumier は、彼の映画界における初キスシーンの相手となった。その後、アランは、イヴ.アレグレの兄、マルク.アレグレ監督と2本目の映画  「 黙って抱いて 」 の撮影に入る。そこで、初めて出会ったジャン=ポール.ベルモンドとは何シーンかを共演した。まだ無名だったベルモンドについて、ドロンは、 「 ジャン=ポールは、とても風変わりな容姿をしていた。彼は、まだ人気の新人と呼べるようなランクにはいなかった。」 と語っている。これがベルモンドとのライバル合戦の始まりだったが、この時点では、アランの名前の方がベルモンドの名前よりも大きくクレジットに載っていた。こうして、彼は、映画監督や、撮影共演者たちから認められていく。が、プロデューサーたちには受けが悪かった。 「 ルックスは良いが、無名 」 だったからだ。それを理由に、彼は、何度もチャンスを逃している。そんな状況を乗り切るためにも、 「 個人マネージャー 」  的存在になっていたジャーナリストの友人、Georges Beaume の力を借りて、アランは、自分の知名度を上げる努力をする。 こうして彼は、1958年春、有名映画雑誌で有望な男性新人の一人として紹介される。アランは、自分のスターとしての将来を固く信じていた。そして、次回作品では、この雑誌に一緒に紹介された新人たちの誰よりも自分がトップに上りつめるのだと確信していた。その次の映画  「 恋ひとすじに 」 では、ロミー.シュナイダーがアラン.ドロンを共演相手に選んだ。ブリアリは、 「 彼女は、写真を見て、アランに決めた。魅力的でハンサムで、しかも彼女の知らない俳優だからという理由で 」 と語っている。アラン.ドロンは、ただ驚くしかなかった。「 それを聞いたとき、私は、正直言って、バカのようにただ唖然としているだけだった 」 ピエール.ガスパール=ユイ監督は、このロミーの選択を気に入った。そして、アラン.ドロンを人気絶頂俳優に仕立て上げることを楽しんだ。プロデューサーに、ロミーをオルリー空港まで迎えに行くように言われたアランは、気後れしたため、友人のブリアリについて来てもらった。空港には多くのマスコミ関係者が来ていた。アランは、大きなバラの花束を抱えて彼女を待っている。やがてロミーが母親と現れると、あちこちでカメラのシャッターが切られた。アランもロミーも同じように気まずかった。アランは、この時のことを、「 吐き気がするほど、居心地が悪かった 」  と語っている。 「 プロデューサーに持たされたバラの花束を腕に抱えて、バカみたいに見えたに違いない 」 テスト撮影が終わると、アランはロミーと母親マグダを 「 リド 」 へディナーに誘った。彼女らは礼儀上それに同意する。彼女らは二人ともフランス語を話せない。アラン.ドロンは、片言の英語が話せるだけだ。そこで、ドイツ語が堪能のブリアリが通訳のためにディナーに付き添った。ディナーの最中、ブリアリは心配してアランに耳打ちした。「 君、ここの勘定がいくらぐらいになるのかわかっているのかい?」 と。しかし、アランは取り合わなかった。精算の段階になった時、二人は、お金が足りないことがわかり、ロミーとその母親にそのことを打ち明けた。そして、その場はロミーが勘定を支払い二人を安心させたのだった。ブリアリは言う。 「 彼女は、スターだったが、僕たちはそうではなかった 」 確かに、アランとブリアリのギャラは、ロミーのギャラとは比べ物にならなかった。 ロミーとアランは、すぐには恋に落ちなかった。しかし、アランは、Baleares に滞在してシナリオを読んでいるロミーの元へ手紙を送った。彼女にとって、アランの手紙は完璧すぎて、「 死ぬほど退屈 」 なものだった。彼女は、礼儀上、返事を書いたが、その内容は、大変素っ気ないものだった。彼女の母親は、アランの育ちの悪さが気に入らず、娘にもそのことを論していた。撮影が始まると、ロミーは、「 ブルージーンズにTシャツ、髪はボサボサで、早口で、がさつで、必ずスタジオに遅れてくる 」 アランに何度もショックを受けるようになる。それでも、彼女は、彼の誘いを受け入れて、何度か緑のエムジーでドライブに出かけたこともあった。アランの運転は、本当に荒かった。撮影中、彼らは意識し合うと同時に、絶えず喧嘩するようになる。困った現場関係者たちは、見て見ぬ振りをすることもあった。しかし、Bruxelles で開かれた映画祭に二人が参加した時から状況が変わる。この映画祭の間、二人は一度も喧嘩しなかったばかりか、これを機に恋人としてつき合いだしたのだ。マグダ.シュナイダーは、良い気がしなかった。ブリュッセルのミディ駅で、娘に会うと、 「 ああ、あなたは、恋をしているのね…」 と嫌味を込めて言った。それに対し、ロミーは、 「 ママは、いつでも、文句を言わないと気がすまないのね!」  と言い返した。その晩、ロミーの父親が所有するレストランでの食事の際にも、ロミーと家族の間で緊迫状態は続いた。ブリュッセルでのその晩のことをロミーは、こう語っている。 「 アランは、ダンスパーティーでフランス人たちのテーブルにいました。私は、両親と一緒にドイツ人たちのテーブルについていました。ダンスの最中、彼は、私に自分のテーブルに来ないかと誘いましたが、まだ、いわゆる良い子だった私は、家族のテーブルに戻りました。そして、シャンペンを飲んで、熟考した後、突然気がついたのです。もうこれからは、家族の干渉は受けはしないと。私の中で、何かが反抗し始めた瞬間でした 」 ロミーが、大事に甘やかされて育った金持ちの良い子というイメージを一掃する行為にでるのは、それから数週間後のことだった。ウイーンロケが始まると、俳優たちは、オーストリア最高級のザッハーホテルに滞在した。この豪華な雰囲気の中で、アランとロミーのロマンスは、次第にスケールを増し、アランは、ロミーへの情熱を燃やしていく。同時に、ロミーとアランの恋は、陰口の的ともなった。マグダが、二人のファーストキスの現場を目撃すると、噂は国家レベルにまで広がった。撮影が終わると、ロミーは、アランを空港まで送っていった。彼女は、特権を利用して空港内に立ち入り、飛行機のタラップまで彼を見送った。彼が発ってしまった後は、ホテルに戻るやいなや母親の胸で号泣した。そして、48時間後には、パリ行きを決意したのだった。こうして、パリのオルリー空港に着くと、彼女は、アランに電話した。彼の声を聞いたとたん、彼女は、幸福と自由を噛みしめた。これが、彼女にとって、母親の保護を脱し、一人立ちした瞬間だった。オーストリアを発った後のアランもまた、ロミーとの別れに苦しんでいたのだと知ったとき、彼女は、一層の幸福感に浸った。アランは、個人マネージャーの Georges Beaume に、その辛い気持ちを長々と打ち明け、涙を流していたのだった。ロミーの受け入れ先となったのは、この Georges Beaume のアパルトマンだった。こうして、彼ら三人の長い友情が始まった。映画  「 恋ひとすじに 」 は、ヒットしなかったものの、アランは、自分の長年の夢を確実に実現させる方向に向かっていた。シャンゼリゼのル.コリゼのペディメントの広告には、彼の名前が大きく載っていた。       - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • アラン.ドロンは、2008年1月25日 「 Golden Eagle 」 と呼ばれる Russian Movie Academy からの賞を授与されるらしい。尚、このもようは、Central Channel of TV Russia で放映されるらしい。         - information from Miss. Karina on 18th  2008 -

( Alain Delon with Romy Schneider in 1968 )

  • 1970年3月のある朝、アラン.ドロンは、グレーのタートルネックとシェトランドのズボン姿で、「 仁義 」 の撮影現場に入った。彼は、この映画の役を演じるために、普段は栗色の髪を黒く染め、付髭を付けていた。「 ボルサリーノ 」 の主人公との混同を避けるためだという。この日の撮影は、吹雪の中で行われた。晩には、撮影クルーたちは、快適なオーベルジュ ( 小ホテル ) で過ごした。ランチ時には、ドリンクに水しか飲まないアランも、ディナーでは、多少のワインやウイスキーを味わった。宿の雰囲気はリラックスしたもので、大スターの彼も、スタッフたちと一緒になってゲームをして楽しんだ。メルヴィル監督の映画2作目にあたる 「 仁義 」 は、公開と同時に大成功を収めた。続く 「 もう一度愛して 」 では、ドロン自身の会社でプロデュースを務め、大規模な宣伝活動が繰り広げられた。それは「 ボルサリーノ 」 の際に項を成した宣伝方法で、何百台もの自家用車に映画のポスターを付けさせ、サンドイッチマンならぬ 「 サンドイッチカー 」 として、首都パリの道という道に、2週間走らせるというものだった。自家用車のオーナーたちは、広告を付けて走る謝礼として、90フラン分のガソリン券をもらった。この異例の計画には、大臣4人による承認が必要だった。文化大臣は、街の景観を損ねずに行うことという条件付きで許可を与えた。交通大臣も許可を与えるのに何ら不都合はないとみなしたが、残る問題として、 「 宣伝カーはシャンゼリゼ通り、ブローニュの森、ヴァンセンヌの森を走ってはいけない。」 という政令があった。結局、政令には、自家用車が走行する道のりを禁じる項目はなかったのだが…しかし、このような宣伝活動にも関わらず映画は、ボルサリーノほどは成功しなかった。 1971年、メルヴィル監督最後の映画となる 「 リスボン特急 」 の撮影に入る。これまで彼の役の定番となっていた悪漢から一変して刑事役を演じることについて彼は次のように語っている。「今回は刑事役なので、いつでもごろつきや不良役しか演じないと、これ以上非難されることはないだろう。敵陣営に回ったというわけだ 」 この映画は失敗に終わり、監督は大変失望した。しかし、ドロンが努力を惜しんだわけではない。監督のイメージする主人公像に近づくために、彼は体重を5キロ増やして撮影に挑んだ。太ったイメージが、サムライの主人公との混同を防ぐというねらいだった。この失敗の後、監督の側では、もう二度とアラン.ドロンとは仕事をしないと記者に発表。ドロンには、いくつかの癖があり、それが無意識のうちに出過ぎるから、という理由だった。この件について、ドロンは、 「 事実は全く逆です。メルヴィルとしばらくの間仕事をしないことにしたのは私のほうなのですよ。彼には多くの癖があります。でも、私は礼儀上、そのことを記者に公開したりしませんでしたがね。今だって、この記事のことがなかったら、あなた方にそれを話したりはしなかったでしょう 」 と反論している。続く 「 高校教師 」 では、無名で貧乏だった頃の友人ダリダのヒット曲が使われたり、タイトルを変更して監督と不仲になったりもしたが、映画は成功した。「 スコルピオ 」 では、ハリウッド映画へカムバックをすることになった。「 山猫 」 から10年の時を経て、アラン.ドロンは、バート.ランカスターに再会する。アランは、以前よりもずっと有名になっていた。ランカスターに再会した時、彼は 「覚えている?君が僕のボスだってことを?」 と言った。ランカスターは、それを聞くといつものように大笑いし、「 君のボスになるには私はもう年をとり過ぎているよ!今度は、君が私のボスだ!」 と返した。 その後の 「 ショック療法 」 は全くの惨敗だった。批評家には扱き下ろされ、観客たちは不満を表した。特にアランが、ヌードになったことで、新聞雑誌は皮肉を連ねた。この映画の画像は、今では、インターネットのあるポルノサイトで使われている有様である。アラン.ドロンが許可したものではないだろうが、彼の弁護士も全く動く気配がない。彼らがこのことを知らないのでなければ、恐らく訴訟を起こすほどの価値もないとみなされているのであろう。 しばらくして 「 燃えつきた納屋 」 の撮影に入る。この映画には、ベテラン女優シモーニュ.シニョレの他にも、当時新人だったミュウミュウが共演者にいた。監督は、ジャン.シャポーで、若い監督ではあったが、決して初心者ではなく、ロミー.シュナイダーと撮った初期の作品 「 La Voleuse 」 が大いに評価されていた。ドロンはシャポーをあまり知らなかったが、彼に対し気難しく振舞うことに決め込んだ。撮影現場ではドロンとシャポーの 意見は全く合わず、ドロンはシャポーの提案すべてに反対し、彼のアイデアを扱き下ろした。 撮影現場の雰囲気は険悪なもので、ドロンとシャポーの板ばさみとなった新人ミュウミュウは大変苦しんだ。「これ以上、彼らの不仲が続くなら私は降りるわ 」 と彼女は言っていたが、監督とドロンの争いはエスカレートする一方。ついにある日、彼女は誰にも行き先を告げずに姿を消した。関係者らは、あちこちを探したが、彼女は家にも戻っておらず、見つけ出すのは不可能だった。しかし数日後、彼女は何の前触れも無く戻ってきて、ドロンとシャポーの不仲は解決したのか、と聞いた。実際には、彼女の不在中に、ドロンが我を通して戦いに勝った形となり、撮影を指揮するようになっていた。そのため、現場は平穏さを取り戻し、こうして3週間の間撮影が何事も無く続けられた。しかし、シャポーの才能を知っていて、状況に苦しむものも多かった。優秀な監督ではあったが、アランと相性が合わなかったばかりに、シャポーは現場を指揮できなくなっていた。アランがパリへ行って留守の際、プロデュース側から現場指揮を頼まれたシモーニュ.シニョレは、間髪を入れずに、「 監督を選んだのは私たち自身です。シャポーは優秀な監督です。彼に映画を仕上げてもらいましょう 」 と答えた。 後日の記者会見でこの一件についてコメントを求められたアランは、次のように答えている。「みなさんは、私について誤解されているようですね。私が攻撃するのは凡庸な監督だけですよ。私が、メルヴィルやヴィスコンティを真っ向から非難したことは一度もありません。彼らは、大物です。確かに私は、『 燃え尽きた納屋 』 の監督を務める能力がなく、別の誰かが彼に代わる必要があったからなのです!」 。                - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • 敬愛するアラン.ドロンを動物に喩えるとしたら、「 星の王子さま 」 のきつねに似ていると私は思う。彼が、我々に飼いならされることを受け入れてくれなくては、彼を知り、彼の友人になることはできないからだ。サン.ティグジュペリのきつねはこう言う。「 あんたがおれを飼いならすと、おれたちは、もう、お互いに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたった一人の人になるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ。」と。私は、アラン.ドロンの友人であると主張するつもりはない。しかし、彼を飼いならすことができた人たちはみな、彼にとってかけがえのない存在となっているということを私は、知っている。警官であろうが、やくざであろうが、有名、無名、権力者、貧乏人であろうが、彼が際限も代償もなく与える友情は変わらない。彼は、いつでもこの友情を示してきたし、彼の実直さは、いやおうなしに尊敬の念を我々に起こさせる。 私の場合のような小さなレベルでも、私がプライベート或いは仕事で彼の助力を必要とする時には、彼はいつでも来てくれた。RTI の仕事の時のように、番組の推薦者として東奔西走することも顧みず。すべて私のために、彼の利益はまったくなしでしてくれたことだ。私の好きなドロンは、まさに君主だ。しかし、みんなが同じように敬意と忠誠を彼に寄せるわけではない。彼は、しばしば裏切られ、がっかりし、傷つき、打ちのめされたことだろう。だから、神経をまいらせないために、彼はしばしば 「 閉じこもる 」 ことが多い。私は、この仕事についてから、多くの有名人に会う機会があったが、公の場に現れるドロンを見る時はいつでも他にない感覚に駆られる。多くの視線が動き、ざわめきが空間を埋める様子…。そう、こんな雰囲気を私は他の誰が現れる時にも感じたことはない。もちろん、アランは、公の場にいるわけで、一般の人々に見られているのだから、人々が見たい彼を彼は見せている。人々が彼に認めたい人格を彼は演じる。が、このしばしば傲慢で、自信に満ち、横柄に見える、劇画化し、ゆがめられたドロンは、私の知っている情熱的で、温かく、面白く、繊細で気前のいい男とはかけ離れたものだ。たとえ試練の中でも、そして彼は本当に多くの試練を経験してきたが、彼は、不滅のように見える。今日の悪流の中にいても、彼はエネルギーを出し続ける。いつでも上を向く力を。彼が、人の存在よりも犬達と一緒にいるのを好み、一人でレヴィヨンを過ごすと決める時など、時々私は彼をかわいそうに思うことがある。また、Brando の死後、自分も死んだも同然だと、彼が私に打ち明ける時、私は、ショックに凍ってしまう。そして、彼が子供を悲しませないためだけに生き続けているのだと、私に知らせるとき、私は恐くなる。彼はよく、人は、成功と幸福の両方を一度に得ることはできないと言う。私は、彼の将来が彼にその逆を教え、人生の果てで、彼が人生にも成功したのだと思えるよう願いたい。きつねは、星の王子に、別れ際にこう言った。「 心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えないんだよ 」 と。私にはドロンがこの文を書いたかのように思える。      - the article of Marc-Olivier Fogiel -

  • Rosalie Alain Affelou が離婚しようとしているらしい。  - information from Ms. Marie Claire -

  • 2008年秋に、Anthony Delon が自叙伝を出版するらしい。  - Information from Ms. Marie Claire -
  • アラン.ドロンは、2008年春、フランスのケーブルテレビのイブニングニュースのキャスターを務めた。      - information from Ms. Marie Claire -

    ( Alain and Nathalie on 28th March 1968 )

  • 1973年、ドロンは、ボクシングの世界ミドル級タイトルマッチの主催を計画し、Carlos Monzon とフランスのチャンピオン Jean-Claude Bouttier をリングで対面させることにした。マッチに備えて彼は、数年前から所有する Douchy の私有地に Jean-Claude Bouttier を試合前の46日間滞在させ面倒をみた。地元の歴史家によると、Douchy のドロンの私有地は、かつて Neverley 伯爵の領地だった場所で、ジャンヌ.ダルクが戦いの合間に、支持者のデュノワ伯や Xaintrailles 伯らと休養した場所でもあったという。アラン.ドロンは、この50ヘクタールの敷地内を、ミニ.モークのジープで、時には9歳のアンソニーを乗せて行き来した。トレーニングの間、プールの近くには赤いリングが設置され、敷地の奥には、6キロメートルに及ぶジョギングコースが、Jean-Claude Bouttier やその仲間のために用意されていた。この私有地に入ることを許された数少ない友人の一人は、「 几帳面なアラン.ドロンと、親切なミレーユ.ダルクは、非常に釣り合いのとれたカップルだった。ミレイユは、いつも笑顔で、リラックスし、自然体で、その場の雰囲気はとても気持ちの良いものだった 」 と述べている。また Bouttier 自身も、その時の環境を理想的なトレーニング場だったと言っている。「 このような雰囲気の中で絶好のコンディションになれないということがあるでしょうか?本当に地上の楽園でした。森の中の穏やかで快適な暮らし、鳥のさえずり。この静寂はとても貴重なものでした。Douchy でこんな暮らしをした後に、マッチで惨敗することなんて許されませんよ 」 余暇には、ボクサーたちは、ビリヤード台やジュークボックスのおいてあるゲーム室で過ごしたり、また、昼食事、夕食時には、アラン.ドロン専用のキッチンで大きなテーブルを二つ並べて食事をした。しかし、最高の環境で行われたトレーニングにもかかわらず、Bouttier は結局、試合で負けた。            - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • アンソニーの二人の娘 ( ドロンの孫 ) の名前は、Lou ( 1996年生まれ ) と Liv ( 2001年8月25日生まれ )。娘たちの母親は、Sophie。

  • 「 Le Guepard 」 の撮影では、ドロンは、再びヴィスコンティと仕事をすることになった。ヴィスコンティは当初、アメリカ人役者バート.ランカスターを起用することに反対していたが、結局は折れ、それどころか、彼の身体的特徴がイメージしていた登場人物に適合するとわかった。アランは語る。「 撮影開始の数日前、ヴィスコンティは、私と共演者のクラウディア.カルディナーレに一緒に空港までランカスターを迎えに行かないか、と誘った 」 アランは、自分よりも23歳年上の大俳優ランカスターに出会った時、彼の体の大きさ、体格の良さに大変驚き、圧倒された。「 こちらが少し圧倒されるくらいだった。しかし、ランカスターの方でも実際は衝撃を受けていたのだった。彼はヴィスコンティの熱狂的なファンだったのだから 」彼と仕事を共にするうちに、アランは、彼の気さくさに感激するようになった。こうして、撮影現場には、各自が自らの母国語で話すという奇妙な雰囲気が作られていった。ランカスターと共演する最初のシーンの前、ドロンは、このアメリカの大役者のせいで、自分の存在感が薄れてしまうのではないかと心配した。そして、そのことをランカスターに隠さず伝えた。「 『 バート、君に話さなければならないことがあるんだ。そう、君に言わなければ楽になれない。僕は君に圧倒されているんだ 』 と私が言うと、彼は爆笑しながらこう言った。『 心配するな、大丈夫だから 』 撮影はこうして行われた。私は撮影中彼を、『 My Boss 』 と呼んでいた 」 この長期間の撮影中、アラン.ドロンは、ランカスターを観察し通した。撮影期間中に、滞在していた城でのこと。ある日、ロミーが、シチリアを訪れに数日間やって来た。アランによると、バートは、ロミーの魅力に無関心ではいられなかったと言う。「 バートは、彼女に魅力を感じていた。女優としても、一人の女性としても。ロミーももちろん、彼の存在が気になっていたようだった 」 シチリア出身のクラウディアも、この撮影における様々なエピソードを語っている。彼女は、アラン.ドロンの美貌に魅力を感じていた。彼女が 『 アラン.ドロンエピソード 』 と呼ぶものが、彼女の語った次のエピソードである。「 彼の魅力は、澄んだ意地悪なまなざし、筋肉質な体にありました。そして、何よりも、辛らつな皮肉。アランは、自分の魅力に自信がありました。そこで、彼は、ヴィスコンティと賭けをしたのです。私がすぐに彼に誘惑されてしまうと。ヴィスコンティは、こういったちょっと意地悪な遊びが大好きでした。ラブシーンの撮影中、アランは、私にこう言いました。『 クラウディア、僕は、偽りキスや愛無などはしたくない 』 と。でも、私には、この駆け引きがすぐに理解できました。策略を練って、本心を見せないようにしました。彼らの思う壺になりたくなかったのです。アラン.ドロンの魅力に耐えられない愚かな娘のようには振舞いたくなかったのです。ヴィスコンティはこうして、私を尊敬するようになりました。私が罠にかからなかったことが、彼の気に入ったようです。彼は、私が小さな娘ではなく、強い女なのだとわかったのです 」 アラン.ドロンのこの誘惑ごっこは、やがてヴィスコンティの激怒の的となった。クラウディアによると、その日、ヴィスコンティは、彼女がアランと演じた屋根裏部屋のシーンの出来に憤慨していたという。「 ヴィスコンティは、その機会に、アランに日頃思っていたことをすべてぶつけました。みんなの前で彼を侮辱したのです。その時のアランのことを私は覚えています。私たちは、同じソファーに一緒に座っていましたから。彼は、勇気を出そうと、ヴィスコンティに口答えしないように自分を抑えようと、私の手をとって握っていました。ヴィスコンティの怒りは、アランが彼に抱いていた尊敬心を打ち砕きはしませんでしたが、彼は自分を抑えるために、私の手をつぶれるほど強く握り締めていました 」 ヴィスコンティとドロンのいさかいには他にも理由があったようだ。「 Le Guepard 」 の撮影が遅れていたせいで、アランは、契約済みの次の撮影との狭間で不安定な状況にあったのだ。ヴェルヌイユとの 「 地下室のメロディー 」 の撮影は既に始まっていたが、ヴィスコンティは、自分の映画の役者を放そうとはしなかった。クラウディアとは、「 エピソード 」 にある一件にも関わらず、その後も長い親交が続いた。            - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • ドロンは、まだロミー.シュナイダーと正式に婚約している中、モロッコ出身のスペイン人 Francine Canovas ( 後のナタリー.ドロン ) と出会う。この出会いについてアランとナタリーの供述は異なっている。アランの側では、友人の Poniatowski 王子に彼女を紹介されたと言っている。( 彼女は、離婚調停でフランスに来ていた。しかし、その後彼女は、二度とフランスを離れなかった。) が、一方、ナタリーの側では、ナイトクラブで彼に偶然出会ったと言っている。彼女は、実名を Francine Canovas というが、フランスではナタリーと呼ばれることを好んだ。1941年8月モロッコ北部で、スペイン領出身の母と、アルジェリア出身のフランス人の父の間に生まれた。父親は、モロッコで運送会社を経営していたが、彼女が父親に初めて会ったのは8歳の時で、その後も、14歳の誕生日まで再会できなかった。こうして彼女は、母親と二人で、カサブランカの質素なアパートに暮らしていたが、1959年、18歳の時、フランス北部からの召集兵で4歳年上の Guy Barthelemy と結婚。結婚式は、カサブランカのフランス領事館で行われた。二人は、その後、モロッコで生活していくことを選ぶ。数ヵ月後、女の子が生まれ、ナタリーと名付けられたが、夫婦の関係にすぐに亀裂が入り、1963年に離婚。娘の父親が親権を取った。彼女は、最終的な離婚手続きが終わらないうちに、パリへの移住を決意したが、娘に会いに、モロッコにも時々帰っている。1963年5月のこと、彼女は、アランから「 黒いチューリップ 」の撮影で一緒にスペインに来ないかと誘われ、乗り気でついていく。その時車を運転していったのは、スモーキングジャケット事件以来顔を見なかった Chiffre だった。出発直前に、ロミー、アラン、Chiffre、Beaume の4人で普通に食事をしたこともあって、Chiffre は、ナタリーの突然の出現にただ唖然としていた。アラン.ドロンは、スペインが好きだった。撮影期間中、マドリッド近郊に、豪華な別荘を借りたが、ロミーとアランの破局の噂を聞きつけて嗅ぎ回っている記者たちから逃れるには不十分だった。ドロンは、細心の注意を払ったが、ある日、一人のパパラッチが屋敷に侵入し、ナタリーの写真を撮ったため、Georges Beaume とChiffre と共に対処することにした。 「 まずは、我々の中では最も社交的な George が、そのパパラッチにフィルムを渡すよう頼んだ。しかし、パパラッチは、煮え切らない態度を見せた。そこで、苛立ったアランが彼からカメラを奪い、フィルムを取り上げた 」 と Chiffre は述べている。その後、ドロンは、住居侵入と職業機材破壊のために訴えられ、深夜1時に警察官に手錠をかけられ警察署へ連行されたが、結局は、明け方に釈放された。 撮影は、要求の高い監督のために、ドロンにとっても、スタントマンの Chiffre にとっても難航した。二人にとって、唯一の慰めとなったのは、ナタリーの尊敬に満ちた眼差しだった。彼女は、二人の大胆なスタントを目を輝かせて見ていたのだった。一方、ロミーは、婚約が破棄されたとは信じたくなかった。1963年は、ロミーにとって人生最悪の年となった。まず彼女が目にしたのは、「 黒いチューリップ 」 の撮影現場の写真だった。「 どの雑誌にも同じ写真が載っていました。椅子に座っているアラン。そして彼の膝の上に座っている女性 」、と彼女は述べている。一時の気まぐれだと信じたかった。アランが、多くの女性を惹きつけずにはおらず、また、彼も女性に好かれることを好むということは、ロミーは承知していたが、この一件は限界を超えてしまった。ドロンとロミーが最後に会ったのは、ローマだった。ロミーは回想する。「 そこでも、いつも同じでした。私たちの間で何も変わっていないかのような。アランは、ハリウッドへ発つ私を空港まで送ってきました。離れてから、最初の数日は、いつものように電話し合い、全くいつも通りでした。ただ一ついつもと違っていたのは、噂がどんどん雑誌に載るようになっていったということです。ナタリーという女性との婚約に関する記事が 」 その後、ロミーのもとに、George Beaume がドロンからの手紙を持ってきた。彼は、「 ロミー、今、君のありったけの力を奮い起こさなくてはならない 」  と言って、彼女にその10枚にも及ぶ長い手紙を渡した。それは、別れの手紙だった。 それから何ヶ月もの間、彼女は苦しんだ。苦しみと絶望が彼女を襲い、彼女と親しい者たちによれば、この別離は彼女にとってまさに悲劇だったという。彼女の友人でジャーナリストの France Roche は、この別れについて、正式に France-Soir で発表した。彼女は語る。「 ロミーは、結婚のために何もかもをしました。彼女は、アランと生きていくために、すべてを受け入れたのです。でも、アランは、彼女にいつかこう言いました。『  いいかい、簡単なことなんだ。3ヶ月間口論しなかったら結婚しよう 』 と。彼にだって自分の言っていることがどういうことかわかっていたはずです。彼らは、いつも口論していたのですから。別れの後、ロミーは、しばらく精神安定剤を飲んでいました。夜には、信じられないほど彼女の手が震えて…それでも何ヶ月もの間、彼女は、彼を愛し続けました。彼の車にメッセージを残したり。それと同時に、彼女を誘う別の男性たちと出かけたりもしていました。きっと自分にはまだ魅力があるのだと自分に言い聞かせるためだったのでしょう 」この別れについては、また、ドロンのコンプレックスのせいであったのではないかとも言われている。ドロンは、ある日こう言っている。「 彼女は、自分が最も嫌いな階層の生まれだった。彼女のせいではない。ただ、彼女にはその階級の生き方が身についていた。彼女が20年間生きてきたものを、私は5年では消すことができなかった。二人、或いは、三人、四人のドロンがいるように、二人のロミーがいた。彼女にだってそれはわかっている。私は、一人のロミーを何よりも愛し、もう一人を同じくらい憎んだ 」 ロミーの見解は、この意見と同じではなかったが.....。              - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

    ( Delon and Dalida perform the music video shoot for their duet "Paroles Paroles" at the residence of Dalida in Montmartre in Jan 1973 )

  • 2008年11月8日、ドロンの娘アニューシュカと彼の孫が、 ドロンの誕生日を祝うために 「 Madeleine 」 劇場にかけつけた。その晩、ドロンは、盛大なパーティーを 「 Hotel Crillon 」 で開いた。ドロンとアニューシュカは、2009年9月から舞台で共演する。ですから、アヌーシュカは現在、有名な演劇学校 「 Cours Simon 」 でレッスンを受けている。アニューシュカの目の色は、片方がグリーンでもう片方がブラウンらしい。           - information from Ms. Marie-Claire -

  • 1966年、ドロンがハリウッドを離れることにしたある日、悲劇が起こった。ドロンの愛犬ブレンドがビバリーヒルズの道を横断していた際、車に轢かれて死んでしまったのだ。その日、ドロン夫妻は、パーティーを催していたが、この事故のためにパーティーは早めに切り上げられた。アランの苦しみを和らげようと、ジェーン.フォンダのエージェントは、シャーリーと名づけられた見事なシェパードを彼に贈った。この犬はまもなく、ドロンの別の犬たちと一緒にタンクルーで暮らすことになる。

  • アラン.ドロンには、犯罪者に惹かれるところがある。ヘロインの密売でポワアッシー勾留所に入れられていた日本のヤクザを支援したこともあったらしい。このヤクザは、1982年に結局釈放されているが、彼の日本帰国後、コロの絵画盗難事件の重要証人とされたり、また、アラン.ドロンが日本に行く際のボディーガードを彼が務めたりした、とも言われている。噂では、アラン.ドロンとその男は、ある店の入り口で二回に渡り写真を撮られている。東京では、この男は、アラン.ドロン.ディフュージョンの代表として振舞った。しかし、1987年に、北京で、日本の民放の特派員にこの件について質問を受けた際、「 Paroles de flic 」 のプロモーションに来ていたアランは、そのヤクザとの交友を全く否定した。         - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • 1995年、Cesar 映画祭の審査委員長となったドロンは、自分が常連となっているシャンゼリゼの有名なレストラン 「 フーケ 」 で打ち上げをした。その日のメニューには、すべて彼の映画のタイトルが付けられていた。「 Samourai 」( トリュフと春野菜のサラダ )、「 La Picin e 」 ( ホタテ貝の白ワイン煮 )、「 Monsieur Klein 」 ( 子牛のタン、アミガサダケ添え )、「 Notre Histoire 」 ( ケーキ )。しかし、この晩、ドロンは 「 Nico Icon 」 という名のドキュメンタリーがドイツで撮影されたことを知らされ、晩餐の魅力も半減した。これは彼にとって悪い知らせだったからだ。それは1988年に他界したドイツ人歌手ニコについての映画だった。彼女は生前、数ヶ月間、アラン.ドロンの愛人だった。彼らは、「 太陽がいっぱい 」 の撮影の頃に知り合った。撮影が終わると、アランとニコは、ニューヨークへ滞在。彼らは、カクテルパーティーに一緒に参加したりした。そんな二人に、1962年、息子が生まれた。映画監督 Nico Papatakis  ( 彼女の芸名も彼の名に由来する )は、この出産の目撃者となった。彼は語る。「 ある日、彼女は私に電話をしてきた。誰かと恋に落ちて、妊娠している。生むつもりだ、と。彼女は、父親の認知を獲得したいと言った。それはアラン.ドロンの認知を意味した。私が、彼は本当に認知するつもりがあるのか、と尋ねると、彼女は、『 もちろんよ、彼は私と結婚するつもりよ 』 と答えた 」 しかし、「 山猫 」 の撮影を終えたドロンは、彼女の出産に一切関心を示さなかった。彼は、友人を介して、彼女にそれがどんなに馬鹿げた頼みなのかをわからせようとした。数ヵ月後、彼女は、2歳のアルロン( 愛称アリ )を連れてアランが 「 さすらいの狼 」 を撮影するスタジオに足を運んだ。彼を説き伏せるためだった。しかしその二日後、彼女は、当時アランのパーソナルマネージャーだった George Beaume から、「 アランに会おうとするなら、スキャンダルとなる。そんな望みは捨てることだ!」 と言われる。そこで彼女は、裁判に争いを持ち込むことにしたのだった。しかし、それでもアランは認知しない。彼女は裁判に負けた。 子育てと歌手を兼務していたニコは、アリを空港やホテルに連れて歩くことに疲れてしまった。こうして、彼女は息子を、アランの実母エディット.ブローニュに委ねることにした。エディットは、アリを実の子のように可愛がって育て、ドロン姓を与えようとも考えたが、結局現在の夫のブローニュ姓を与えている。現状でドロン姓を与えたら、アリは法律上アラン.ドロンの弟となってしまい、息子ではなくなる。こうした配慮からブローニュと名づけたのだった。エディットは、息子アランについて、厳しい意見をニコのドキュメンタリー映画で述べている。「 私は大変質素に暮らしている。世間は、ドロンが私を城に住ませ、使用人を使わせていると思っているが。」また、アリを引き取ったことについて、「 家に来たとき、彼は2歳だった。座っていた私の夫の腕の中に飛び込み、ちぢこまった姿が、私たちの心を強く打った。息子 ( アラン ) に再会した時、私は彼がアリを息子と認めるものと信じて疑わなかった。しかし、アランは、私がこの幼児を引き取っていた ( その二年前からアリは既に我が家にいた ) ことを知ると、彼は、事務所を通じて私に電話をし、子供か彼か、どちらかを選べと言ってきた。私の夫は、『 お前は一人で食べていけるが、この子はまだ一人で起きることもできないのだ 』 とアランに言うように私を促した 」 また、アリについては次のようにも語っている。「 私たちが引き取る前、アリは、母親とベルギーなどあちこち移動する放浪生活をしていました。アリは、駅前や空港でポテトチップスぐらいしか食べたことがなかったのです。ある日、アリの母親は、アメリカからオレンジを持ってきました。オレンジですよ!私は、絶句した夫と顔を見合わせました。オレンジを受け取るには受け取りましたが、彼女は普通の人間ではない、と思いましたね。3年振りに我が子に会ったというのに。私は、彼女宛に小包を送ったりしていたのですよ。それもすべて戻ってきてしまいましたがね。彼女は、私たちに居場所を知らせずに、あちこちを転々としていたのです。死去する前、彼女は、私に長い手紙をくれました。アリを私に委ねると。彼女は、その手紙で私に、アリを育てて欲しいと心から頼んでいました。変わった人でしたが、私は、彼女が大好きでしたよ。彼女ほど美しく頭の良い女性に会ったことはありません。彼女が、波乱に満ちた人生を送らなければならなかったことを悲しく思います。でも、それが人生なんですね。苦しみを抱えてでも生きていかなければならないのです...」 。                - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • 1990年、新たな家庭にアランは幸せを見出した。1987年に知り合ったロザリーとの間に娘 Anouchka が生まれたのだ。彼女とは30歳の年齢さがあったが、彼は、それを自分が若返る秘訣とし、「 アドヴァイスをしましょう。自分よりも若い人と暮らすことです。いつまでも若くいるための唯一の秘訣ですよ 」 とインタビューに答えている。また、ある雑誌のアンケートで、フランス女性のセックスシンボルに選ばれたことについて、「 自分は全ての女性のために生きている、と、これまで交際してきた女性たちにいつも言っていた 」 ことなどを明かした。今は有名な歌手となったパトリシア.カースも、少女の頃は、アラン.ドロンのミーハーなファンだった。彼女のアルバム 「 Je te dis vous 」 ( 邦題:永遠に愛する人へ ) は、アラン.ドロンに捧げられている。それに対し、ドロンは、ある番組で、「 彼女は、美しい。大好きだ 」 と答えている。その二日後、二人は、フォーションのレストラン 「 Trente 」 で、聖アランの日を祝っているところを、パパラッチに撮られている。                    - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

    ( Alain with Nathalie at Orly Airport on 29th April 1965 )

  • 1991年6月、「 Cine-Tele-Revue 」 は、ドロンとエルザと 「 カサノヴァ最後の恋 」 を撮影すると伝えた。これほどまでに違う二人の俳優の対面はどのようなものになるのだろうか? この映画は、話題になりそうだ。エドゥワール.ニエルマン監督にとって、カサノヴァ役は、アラン.ドロン以外に考えられなかった。年齢も、整った容姿も、強い意志とプライドも。アラン.ドロンは言う。「 今回のカサノヴァは、必ずしもはつらつとしていなければいけないわけではないんですよ。彼は年をとり、ほぼ破産状態にあるのですから。彼は50歳です。彼の時代では、この年まで生きる人は少なかったですから、すでに大変な年寄りなのです。この役が私を魅了したのは、彼の死にもの狂いの愛の追及です 」 そして、マルコリーナ役は、しばらく歌だけに専念してきたエルザに決まった。「 選ばれた事に幸せを感じると共に、誇りに思います。いつか自分が、アラン.ドロンの相手役になるとは夢にも思いませんでした。」 とヒロインは語る。数ヶ月前、彼女は、映画界復帰のための大役を探していた。そして、彼女は、カサノヴァに口説かれる娘役が募集されていると知った。そして、主役がアラン.ドロンだとは知らずに、彼女はオーディションを受け、9月に抜擢されたのだった。それでは、アラン.ドロンとの撮影は、どのようなものなのだろうか? 「 素晴らしいです。彼は、難しいシーン、私が怖気づくような少し官能的な悩ましいシーンを撮らなければならない時に、アドヴァイスをしてくれます。彼は、本当に忍耐強く、上手くいかない時には、私を励ましてくれます 」 モンペリエから数キロの撮影が行われているモジェール城に注ぐプロヴァンスの太陽のように、現場の雰囲気はやわらかい。今日は、唯一、現場が揺り動かされている日だ。18世紀の衣裳をつけたエキストラが50人ほど登場し、そのまわりでは、技術者やアシスタントが動き回っている。エルザとアランは、そこから離れたところで、談笑している。彼は共演者に大変満足しているようだ。「 この映画の前は、私はエルザをあまり知りませんでした。監督は、本当に素晴らしい選択をしましたよ。この女性には、−彼女は既に18歳ですから女性と呼ばせて頂きますがー、彼女には大物の謙虚さと役者のセンスがあります。本物のアーティストです。彼女には本当に驚かせました 」 5,500万フランの予算がつぎ込まれたこの映画は、間違いなく1992年のフランス映画で最もスケールの大きいものとなるだろう。9月16日に撮影は始まった。ロケは、ヴェニスの前に、まずモンペリエ、エクサン.プロヴァンス、パリ周辺で行われる。アラン.ドロンは言う。「 この映画は、執着と、悪巧みと、苦悶と、そして流血の入り交じった素晴らしいものとなるでしょう。まるで、恋愛映画のように!」 アラン.ドロンについては、我々は、もう何もかもを見てきたと信じていた。が、モジェール城で、彼は、これぞ俳優魂なるものを見せてくれた。この映画の撮影現場の素晴らしい雰囲気は既に知っていた。しかし、そこに半裸で爆笑する彼を、我々は見たのだった。ところで、何故アラン.ドロンは、コートの下に何も着ていないのだろうか? この答えは、18世紀には、ある策略が色事師の間に流行していたということにある。それは、撥ね退けられた色事師が好きな女性の家へ忍び込み恋人に取って代わろうというものだった。アラン.ドロンは、ロレンツィになりすましてマルコリーナと一夜を過ごす。朝、逃げなければならない彼には、ライバルのコートを羽織る時間しか残されていなかった。これが、アラン.ドロンがドアの前で半裸で立っている理由だ。監督は、衣裳係に指示を出した。「 ここではカサノヴァは裸でいるものと考えられているんです。彼にはライバルのケープを羽織る時間しかなかったということを忘れてはなりません。他の服が下に見えてはならないのです。」 監督のアシスタントである日本人女性ヒロミは、ちょうどそこへ通りかかった恵まれた目撃者だ! 撮影開始の前に、衣裳係の女性は、衣裳を少し修正する。彼女がそのために、コートを後ろへ引張るので、ドロンは帽子で前を隠さなくてはならない。爆笑だ。「 私は、確かにセックスシンボルですが、だからといってすべてみんなに見せなくてはいけないということはないでしょう!」。                 - Cine-Tele-Revue No 43 October 1991 -

  • 20歳のロミー.シュナイダー、23歳のアラン.ドロン。二人の笑顔は、あらゆる新聞雑誌の一面を飾っていた。彼女は、ドイツの寵児。彼は、フランス映画界の誘惑者として既に名を馳せ、若い女性たちは、彼に熱を上げていた。二人は、ピエール.ガスパール=ユイ監督の 「 恋ひとすじに 」 で共演し、60年代で最もグラビアを飾ったカップルとなった。アラン.ドロンは、自ら彼女との出会い、5年間の恋愛、そして別れがどのようなものであるかを語った。ロミー亡き今、ちょうど10年前に書かれたこの文章は、大変感動的な記録となっている。まず、告白しなければならない。ロミーに出会う前、私は、愛について既に自分が何もかも知り尽くしてしまったと思っていた。そして、22歳にして誰かに愛着を持つことなど不可能となっていた。私は、始まったばかりの自分のキャリアのために大変忙しく、たとえ絶世の美女であったとしても、そのような私を虜にすることは難しく思われた。ところが、運命がまるで私に平手打ちを食らわしたかのように、こんな私の思いを打ち消した。その頃、私は、既に3~4本の映画を撮っており、どれも成功していたが、あるプロデューサーが 「 恋ひとすじに 」 でロミー.シュナイダーと私を共演させることにしたのだ。初めて彼女に会うとき、私は、礼儀だと思い、大きな花束を抱えて空港で彼女を待ちながら、この 「 歴史的 」 瞬間をカメラに収めようとしているカメラマンたちに悪態をついていた。プロデューサーに大金を稼がせると評判のロミーの目を初めて見た時、私は、彼女が好奇心と情熱に満ちた、純粋で素晴らしい少女なのだとわかった。「 プリンセス.シシー 」 のような尊大さを恐れてはいたが、実生活でのロミーは、とても柔らかい人間なのだと悟った。一目惚れ?確かにそうだったのかもしれない。でも、私は何も言わなかった。「 恋ひとすじに 」 のウイーンロケの最初の数日間は、スターである彼女に対するスタッフのちやほやぶりと、彼女の気まぐれさに私は、イライラした。しかし、彼女の仮面も長くは続かなかった。私が初日に感じ取った本当のロミーは、見せかけの威厳にもはや隠れることができなくなった。そして、私は、ロミーが私を愛していると確信するようになったのだ。この点だけにおいても、「 恋ひとすじに 」 は、私にとって恋愛映画だといえる。クランクアップになると、ロミーは、私をパリに訪ねてきた。そして、私達は、もう2度と離れないと決めたのだった。私達のこの決心を、ロミーの家族は、あまり良く思わなかった。私に会うために飛行機で往復をする彼女は、友人や、フランス、ドイツの雑誌の中傷の的となった。私は、最愛の娘の誘拐者となり、また雑誌にはスキャンダルに書き立てられ、噂は歯止めが利かなくなっていた。有産者らしく世間体を気にするロミーの両親は、取り乱し始めた。大切な娘のために、なんとか記者や世間を沈静させ、この噂を食い止めようと、本心とは裏腹に私との婚約発表をさせようと彼は考えた。こうして事は運んだ。ホテル界の王者と言われるロミーの父親は、ロミーの母マグダ.シュナイダーと共有するルガーノの豪邸にヨーロッパじゅうの記者を呼び寄せた。私は、この豪奢な日、記者の殺到を今でも忘れることができない。しかし、ただ愛し合うことだけが全てだったロミーと私はその時、この贅沢な婚約式を世間の好奇心を満足させる演出なのだと考えていた。この芝居とは裏腹に、私達の愛は、まったく自由で素晴らしいものに思えた。すべての参加者が満足する中、私達は、婚約し、そして幸福だった…それでは、何故婚姻を拒絶したのかと思われるかもしれない。その答えは、ロミーも私と同じ人種だったから、ということだ。つまり、私を愛しながらも、彼女は、女優である自分を捨てていなかった。その上、彼女は、更に難しい役に挑戦し、常に成長していきたいと願う女優だった。私達は、愛し合っていたが、二人の最大の目標は、俳優としてのキャリアだったのだ。ロミーは、完璧主義者だった。そして、猛烈に仕事をしたいと願っていた。私は、それを友人達と話し合う上で確信していた。彼女の運命は、大女優になることであり、アラン.ドロン夫人になることではないのだと。彼女は、この私の確信に苦しんだのだろうか?そうかもしれない。女性には、不思議な一面がある。もしも私が、彼女に正式に結婚を申し込んでいたら、彼女は、自分のキャリアなど投げ出していたのかもしれない。何度彼女に結婚を申し込んみたいと思ったことだろうか?私は、あの6月の晩を今でも覚えている。何週間も仕事で会えなかったロミーと私は、やっと二人だけでいられるタンクルーの 「 隠れ家 」 で落ち合うことができた。ロミーと離れていることは、私を苦しませたが、その日は、そのロミーが私の傍らにいたのだった。私は、突然考えた。「 何故こんなに狂ったように仕事をしているのか。ほとんどの時間を彼女なしで、家庭を築こうともしないで。ロミーに 『 結婚しよう、そして他のことは成り行きに任せながら二人で歩いてゆこう、私達の子供に愛を費やそう 』 と言う方が懸命ではないのか?」 と。日が明けようとしていた。私は、決断の必要性を感じていた。ロミーの部屋の窓に小石を投げつけて、ロミーが現れたら、「 すぐに来るんだ!私達の結婚をみんなに予告しよう!」と言うつもりだった。そう、あの日6月の朝、言うつもりだった。自然が美しく、彼女は、私の婚約者だったからだ。しかし、私はしなかった。ロミーの窓にただ小石を投げただけだった。その時ほど私が彼女との結婚の近くにいたことはなかった。その日は、何もかもが、考えることなしに速く自然に決定されなければならなかったのだ。しかし、時が過ぎ、私達は、また仕事に追われる日々に戻っていった。それでもある日、彼女と結婚の日取りについて決めるに至ったことがあった。ロミーは、ウエディングドレスを決め、私も結婚指輪を選ぼうとしていた。しかし、それでもだめだった。何故か?それは、私がある晩、一人の女性に出会ったからだった。ナタリーだった。彼女と私は良く似ていた。二人ともその事を好ましく思っていた。私達はよく、人前で兄妹のふりをして楽しんだ。「 私の妹をご存知でしたか?」 などと言って、人々が驚いたような顔をすると私達は爆笑した。こうして噂の兄妹ごっこをし、人々に信じ込ませながら、私達は大いに楽しみ笑った。ところで、笑いは時として我々を愛に導くことがある。ナタリーと私に訪れたのもそれだったのだ。ロミーとの別れはもちろん辛いものだった。しかし、私は、彼女にとっても私にとっても、妥協しながら家庭を築いていくよりは、二人の美しい思い出に傷をつけずに生きていく方が賢明なのだと感じていた。ロミーにもそれがわかっていた。

    ( Alain with Nathalie )

  • 1961年6月、アランとロミーは当時二人が所有していたモンテ.カルロの仮住まいで休養した。アランがアントニオーニと 「 太陽はひとりぼっち 」 の撮影に入る前のつかの間の休暇だった。7月に入って彼の撮影が始まると、二人はマネージャーが借りたローマの別荘 に移った。私道の奥には普段、外交官や、富豪が住んでいる場所で、近所には貴族らの邸宅や、日本大使の住まいなどがあった。ロミーもヴィスコンティとイタリアで仕事を続けていたため、二人はその場所でしばし一緒に暮らした。億万長者の住むこの地区にある彼らの隠れ家では、アニエスという家政婦が彼らの身の周りの世話をしていた。アランはこの若いイタリア女性と冗談を言い合うのが好きだった。彼女はフランス語がわからないものの、アランが冗談を言うたび、首を大きく前後に動かして爆笑するのだった。また、この邸宅にはバルザックやプルーストなど、素晴らしい蔵書が揃っていたが、アランはわざわざパリからレコードプレイヤーと、自分の33回転盤レコードのコレクション3000枚のうち一部を持ってこさせた。日曜はフリーだったので、二人は白のジュリエッタに乗って、ローマを離れ、館から30分の場所にあるアンツィオの海岸まで泳ぎにいった。道すがら、人々はよく彼に向かって、「 ロッコ!」 と声をかけた。アランも流暢なイタリア語で彼らに返事をし、礼を言った。春になり、カンヌ映画祭が開催されると、アランはカンヌ滞在の間に、パーティーの合間をぬって、友人を何人か訪ねている。シャルル.マルカントーニとリタ夫妻はもちろん、数年前に知り合ったシャルル.ラフィニとトニア夫妻にも会った。夫妻は、「 太陽はひとりぼっち 」 の上演が終わるやいなや、ドロンの元に急いだ。そして、トニアが難病にかかっており、アメリカで治療しなければならないと彼に告げた。気前の良いアラン.ドロンは眉をひそめることなく、すぐに千フランを彼らに貸した。翌年、彼とこの夫妻は、ラフィニがナイトクラブを経営するムジェーヴで頻繁に会っているが、ドロンによると、貸した金額は二度と返らなかったという。 その後、映画史上最大規模とも呼ばれた 「 マルコ.ポーロ 」 の撮影は、結局失敗に終わったが、アラン.ドロンはここで、スタント代役に選ばれた Yvan Chiffre と仲良くなった。冬のベルグラードでのことだ。ある晩驚くことに Chiffre は、アランドロン自らの電話を受けた。「 そっちのホテルはどうだい?」 「まあ、大丈夫ですよ 」 「 そう、こっちにはスペースが結構あるんだ。だから、君の今のホテルが居心地良くなければ、こっちへ来ても良いんだよ。ひどく退屈なんだ。一人だし、だから、君がこっちへ来たってかまわないのさ。場所だけは十分にあるんだから 」 Chiffre はこの突然の頼みに驚く。そして、自分だけがこのスターと近づきになれば、スタッフ仲間から陰口を叩かれるのではないかと恐れた。しかし電話の向こうのアラン.ドロンは執拗だ。「 君のために部屋を借りたよ。今から迎えにいくから...」 1時間後、Chiffre は豪華な部屋の中にいた。アラン.ドロンは彼に部屋と、夕食を共にするキッチンを見せた。これが、二人の男の特権的な交流のはじまりだった。二人はすぐにお互い近いものを感じた。ドロンはインドシナの戦場を経験しており、Chiffre はアルジェリア戦争に行ったことがあった。なれなれしくならない程度に、彼らの友情は深まっていった。Chiffre は自分のためだけに、スター.ドロンが映画人生を語る特権を感じていた。彼は、Chiffre が彼の映画を見たことがないと言っても嫌な顔せず、「 いいかい、パリに戻ったらお金を渡すから、私の映画を見に行くんだ 」 と答えた。ある晩、ドロンは心配そうにしていた。次の日、友人の記者の一人がメーキングオフを撮りにパリからやってくることになっており、ドロンは彼を泊めると約束していたからであった。Chiffre は部屋を空けてくれるだろうか? Chiffre はこの話を聞いて気を悪くしてしまったが、結局ドロンに部屋の鍵を渡す。「 どこがいけないんだい?たった2~3日のことじゃないか?」 とドロンは答える。Chiffre は回想する。「 どうしても部屋を空けならなかった。あの晩、私はいつもよりもずっと長く浴室で、歯を磨いたり、身づくろいをした。アランは、ベッドに横たわってシナリオを読んでいた。私は知らない人と同じベッドを共有するのが嫌いだった。特に男性とは。どれほどの女性が私の立場にいたいかと、考えたりもした。そして、私はこの部屋を空けようと決めたのだった。ドロンはシナリオから目を上げて、『 2時間も身支度をするなんてまるで女みたいじゃないか 』 と私に言った。私は、自分のベッドまで行って本を読み出した。疲れていたこともあって、お互い何も言わずに眠りに入った。次の晩、我々は遅くまで話し合った 」 。                      - information from 「 Les mysteres Delon 」 -

  • 1996年は、ドロンの年と言える。彼は、「 Variations enigmatiques 」 ( 謎の変奏曲 )で、28年ぶりに Theatre Marigny の舞台を飾り喝采を受け、また、メキシコの灼熱の太陽の下、Bernard-Henri Levy の初長編 「 Le jour et la nuit 」 の撮影をした。わざと独創さを図ったような雰囲気や大胆なシーンのため、この映画は論争を巻き起こしているが、彼のような大スターにとっては、逆に嬉しいことだ。1997年もまたドロンにとっては充実した年となりそうだ。5月には、Patrice Leconte の映画で Jean-Paul Belmondo と共演、その後、Eric-Emmanuel Schmitt の戯曲をブリュッセルをはじめとする世界各地で公演して周る。仕事面では、俳優 Alain Delon は夢見たすべてを手に入れた。40年のキャリア、堂々のスターというイメージはすたれていない。最近では、彼がゲスト出演した Anne Sinclair のテレビ番組 「 7 sur 7 」 が、かなりの高視聴率を記録した。そして、ブエノスアイレスからベルリンまで、彼は騒動を起こして歩く。何が彼をいまだに駆り立てるのか? おそらく、彼にとてもふさわしい華々しさ好みと、チャレンジャーというイメージを子どもたちに残したいという誇りだろう。中傷にも構わず...  70年代のはじめに22本もの映画を撮ったドロンは、ここ6年間で、3本の映画に出演しただけだ。「 もう二度とタンクレディ役が出来ないが、『 Le jour et la nuit 』 でアレクサンドルを演じられたことは幸せだ」 と語った61歳のアラン.ドロンは、今も現役のスターで、Visconti 風の革命的な活発さは衰えていない。喜びや苦しみとともに長年が過ぎ去ったが、この永遠の Samourai は、今もはつらつとし、勝ち誇った目、機敏な手腕で、自分に正直であり続ける。まるで、野獣が巣穴の中でもいつでも駆け出せる状態にあるように。彼が全く変わっていないといえば嘘になる。今、彼は以前とは別の希望や必要、別の優先事項がある。最優先は、彼に二人の素晴らしい子供を与えた女性、Rosalie に関することだ。「子供たちが生まれてからは、仕事をしているとなんだか罰されているように感じてしまう。私が望むのは、彼らが20歳になるまで神が私に命を貸してくれるということだけだ。人生の困難や人の非道さに備えて、彼らに十分な準備をさせ、守ってやりたい」 と彼は、強い語気で言う。世界一愛する子供、Anouchka Alain-Fabien のために、ドロンは、彼の価値観、すなわち栄誉、尊厳、友情がただの言葉ではないということを示してきたという。「 今の社会は、退廃に満ちている。この世紀はひどすぎる。何の尊敬心もない。地球はだめになっている。将来に開けられた唯一の窓は家族。人生の優先事項だ 」  愛 ( 誰もがこの言葉にそれぞれの捉え方があるが ) は、今も彼の主要な原動力だ。「 私が感じることを理解するには、60歳という年齢で小さな娘を持たなければならない。成功と失敗で人生とキャリアを築き、ある日突然この調和を発見した時、人は感嘆し続けるだろう。」貰うよりも贈る方が好きでサプライズに弱い彼は、11月8日、マリニ劇場の舞台に彼の子どもたちが誕生日を祝うべく上がって来た時、声がなかった。「 挨拶の時、客席中が、ろうそくを手に立ち上がったのが見えた。私の知らないところで、何か思いがけないことが行われているのだと感づいた時、驚きとともに嬉しくなり私は振り向いた。子供たちが手に花をいっぱい持ってやって来る。私の人生の中で、最も偉大なる幸福な瞬間だった。感動的な衝撃で、彼らの腕の中にひざまずくと娘が『 パパ、どうして泣いているの?』 と聞いた。私は、『 愛する子よ、私は幸せなんだよ 』 と言った 」。                          - from the article by Ingrid Fallay -

  • アラン.ドロンは、よく野生の狼に例えられ、彼が人を愛する事ができるなど誰も知らなかった。しかし、誰も実際には狼が巣穴でどんな風に生きているのか知らないではないか? また、ミレーユ.ダルクが、生と死の渕をさ迷った日々が、ドロンにとってどんなに辛いものであったのかも確かに彼の表情には心の底をうかがわせないものがある。しかし、手術後の彼女に注がれた視線は、この繊細な女性への深い愛情はもちろんのこと、喪失に対する計り知れない恐怖を垣間見せていた。ドロンは、ミレーユが心臓の奇形による僧帽弁狭窄症を生まれたときから患っていたことを知っていた。プライドの高い彼女は、不平不満を嫌い、それについて自ら話す事はなかったが、山歩きで、彼女が彼のペースについて行けなかったり、顔面蒼白で息切れをしたまま、休まなくてはならないような状況は度重なっていった。彼は心配したが、彼女は彼を安心させた。このような彼らの生活が昨年12月30日に、彼女の苦痛が忍耐の域を超える事になるまで続いた。その日、彼らは Douchy の二人の邸宅にいた。ミレーユがドロンの大好物のイタリアン.パスタを作り、ふたりきりで新年の訪れを祝おうと、キッチンで夕食をとった後、暖炉の近くの長いすに座っておしゃべりをしていた。突然ミレーユが両手を胸にあてた。そして、空気を懸命に吸おうと、彼女の唇は開かれたままだったが、声を出す事もなく彼女は意識を失って倒れた。アランは、自らを落ち着かせ、ミレーユにウイスキーを飲ませようとした。ウイスキーという飲み物は動脈を開く効果があるからだ。そして彼は、心臓病の専門医を呼んだ。医師はすぐに聴診し、次のように診断を下した。「 外科手術をしない限り、彼女の容態には常に危機が伴うことになるでしょう。頻度もこれから増していくと思います。死に至る可能性もあります 」 ミレーユが果たしていつ手術を受ける決心をしたのか、誰も知らない。少なくとも友人たちには、決心を固める前に占星術をしたと打ち明けている。彼女は、星占いをかたくなに信じており、有名な占星術師を何人か訪問した。彼らはみんな同じ日を弁膜症置換術の日に良いとした。それは3月7日金曜日、聖フェリシテの日だった。手術を担当する Cabrol 医師は彼女の要望を聞き入れた。それからというもの、Le Salpetriere ( サルペトリエール病院 )に本名 Mireille Aigroz の名で入院する日まで、彼女は仕事に集中して緊張感をほぐそうとした。レモン、イタリアオレンジ、ブラックペッパー、ホワイトタイム、セージ、バジリコを原料としたオードトワレ 「 Alain Delon 」 の売り出しに専念し、イタリア、スイス、アメリカで商品の成功を実現させていった。シナリオを書き、編集に立会い、夜はプライベートな試写に参加した。どうしようもない不安の中、ひとりでいたくなかったのだ。アランは、頻繁に彼女の傍らにいたが、彼女の目に恐怖の影を読み取ってはならなかったし、彼女は、懸命に不安を隠そうとしている彼を心配させたくなかった。彼らはすべての人に、この長い苦難を上手く隠し通した。手術当日の朝になっても、ミレーユは何も言わなかったが、ただ、麻酔専門医が近づいたとき、彼女は目で訴えた。「 私は、あなたがたの手中にあります。あなたがたを信頼します」 ドロンが、最も心打たれたのは、ミレーユが三日間を過ごした ICU での再会と時だった。酸素テントの下に、この世で最愛の女性の透き通るような白い顔が見えた。 心臓が打っているはずの彼女の胸部からは、2本のコードが出て、脈を調整する器具に繋がれていた。後日、彼女は冗談でこんなことを言った。「 私は、2本のコードだけで生きていた 」  手術後一週間、彼女は、ひどく苦しんだ。人工心肺手術を受けた患者には鎮痛剤を多く与えられないため、そのような患者にはうめき苦しむ事しか残されていない。ミレーユはめったに声をあげて苦しんだりしなかったが、サルペトリエール病院では、看護婦が不意にミレーユの小部屋に入ると、少しでも苦痛が和らぐ体勢を探してベッドの上に座ったり四つんばいになっている彼女に出くわす事がしばしばあった。プライドの高い彼女は、人の助けを拒んだ。彼女は、聞き分けの悪い患者で、だらだらと過ごすことを嫌がり、一日も早く活力を回復させるためにベッドから起き上がろうとしたりした。何日もの間眠れないこともあった。あの世との境から生に戻る経験をした人間には良くあることだが、眠りは死に似ているため、無意識のうちに眠る事が不安になることがる。12日後、ミレーユは、救急車も看護人も伴わず、自分の脚でパリの quai Kennedy にある二人のアパルトマンに帰宅した。彼女が寝室に入ると、そこには友人やファンからの無数の花束や手紙が彼女の帰りを待っていた。今、彼らは、数日前から Douchy に来ている。この木々に囲まれた55ヘクタールの大きな家で、これから二ヶ月間の静養をする予定だ。心臓専門医が定期的に訪れて回復の経過を記録していく。彼女は5キロ痩せ、心臓も細くなった。目には活発さが戻ってきたが、彼女の横顔や、行動の気だるさを見るとやはりまだかなり衰弱しているのだとわかる。歩く事は数歩許されているだけで、愛犬のマリノアの Luppy とはまだ当分一緒に散歩できそうにない。アランは、ミレーユが健康に不注意なことをしないよう静養を管理している。そして、二ヵ月後には心臓病のために遠ざかっていたスタジオに彼女は復帰できるだろう。そして、愛する彼のペースに息切れせずについていく事も。今、彼女は、Christine Arnothy 著作の 「 J'aime la vie 」 を読んでいる。                          - information from Paris Match M2533.1612.6F  18 Avril  1980 -
  • アラン.ドロンは、2010年に Olivier Marchal 監督の 「 Gang from Lyon 」 と言う作品で、ギャングのボス役で映画に復帰するらしい。 - Information from Ms. Marie Claire on Feb 22h 2009 -
  • プルーストの登場人物にもなり得るアラン、思い出を集めるのが好きなアランは、自宅の部屋という部屋に散らばった写真フレームを通して、過去と現在の幸福の形跡をずっと抱いている。彼は、この写真コレクションを誇りに思っている。全てとは言わないまでも、ほとんどが白黒で、そこに彼という存在のあらゆる面が凝縮されている。書斎、上映ルーム、映写室、ビリヤードルーム、彼の寝室、そして子供たちの寝室の壁という壁に。サンタフェの刑務所の独房に訪問を受けるカルロス.モンソン。映画界での彼の後見人エドウィジュ.フィエール。デザイナーが彼女に試させようとしている、桃皮のような肌触りのドレスの一つに指を滑らせて、もの思いにふけった様子で、「 このドレスにはドロン風の滑らかさがあるわ 」と言っている。「 太陽が知っている 」 のロケ中、サントロペでのディナーで隣同士になったロミーとブリジット。この二人のスターが一緒に写っている唯一の写真だ。Jean-Claude Boutier のトレーニングを見守るミレーユ。父親の肩と腕に抱かれた赤ん坊のアンソニー。ブレルとブラッサンス。アランを息子、兄弟、或いは父親に持ちたかったと、緑のインクで書いてあるモーリス.シュヴァリエ。ロザリー、アニューシュカ、アラン=ファビアンが共に、或いは別々にいるところ。フレームは所狭しと掛けられている。ヨンヌ川にそう遠くない田舎邸宅 「 La Brulerie 」 で、写真に忠実なアランは、自分のリズムで生活している。青々とした広大な芝生の真ん中に佇むプールに横たわり、2匹( 犬は他にも、雑種、ドーベルマン、シェパード、マスチフ、ベルジアン、マリノアなど14匹いる。犬たちは、鎖やアスファルトとは無縁で、邸宅の大庭園を走り回り、主人を決して見捨てる事はないだろう ) の犬に囲まれ、彼は今ひとり静かに時を過ごしている。「 Fabio Montale 」 のマルセイユ撮影のために、二日自宅を離れては、鉄柵に囲まれた家に閉じこもりに戻ってくる。彼の下の二人の子供とその母親の不在中、彼は、そこに一人で住んでいる。                   - information from Albin Michel alain delon, I'indompte ( 1970~2001 ) Henry-Jean Servat -

    ( Alain with his mother Edith on 19th September 1963 )

  • パリ16区にあるドロンが住んでいた( 2000年まで )アパートメントは、その後、 億万長者のジャーナリスト、ピエール.G が購入したらしい。 - information from Mr. Crouzet's blog -
  • Alain、君は今どこにいるのか?もう何世紀も君を見ていない。何も無い。電話さえも。私たちの間には空白ができている。Mireille と君が別れた日から音信不通だ。敵意も口論もなかった。私が君について何か言ったり、書いたりしたわけではない。そして、君が私にそんなことをしたわけでもない。何も。空白以外は。もちろん、君は有名人だから、君のことを風の噂で聞いたし、何度もテレビで見た。新聞で君の 『 恋愛 』 ( この言葉を選ぶのに苦戦したが ) の様子も読んだ。そして、君を一種の神話としているもの、また解放的であると同時に貝のように堅く ( 中に真珠があるか見たくて ) どんなナイフを使っても開けられない奇妙な混合人間にしているものは何かも見た。これらが君をスターにしている。時間の経過とともに、君の過去とともに、女性を完全に麻痺させる君の外見的な誘惑とともに。君の映画の失敗や成功。時々周りを面食らわせるような君の立場の取り方。君が発信している驚くような雑多なイメージ。これらは全く問題ではない。頂上にいようと、嵐のような人生の波乱の真っ只中にいようと、君はスターだ。合理的ではないが、そうなのだ。君という人物は、人を惹きつけ、興味を起こさせ、拒絶か賞賛の的となり、人を熱中させるのだ。それは、役者であるということの所為でも、君の恋愛人生の所為でも、君のビジネスマンという顔の所為でも、ゼロが気が遠くなるほど並んだ値段で芸術品を売買するコレクターということの所為でもない。君という人の所為だ。君がこれほどの激しさと誠実さで生きてきた矛盾に満ちた性格の所為なのだ。君は何か平凡なことが訪れるように抜け目無くふるまう。抜け目無くというのは、間違った表現かもしれない。何故なら君にあるのは計算ではないからだ。それは、爆発であり、コントロール不可能かコントロールされていない反応の連鎖だ。野生的な高慢と、獰猛な自己破壊に煽られた自画自賛だ。 君の中には、いこじでありながらも素晴らしい動物がいる。虫たちは罠にかかった時、罠から逃れるために自分の足を食べるという。君もそんなタイプだ。君は罠にはまり、自分の一部を切断して罠から逃れることができる。そして、腹ばいで巣穴にゆっくり向かいながら、自分でもわからない何かすべてを呪うのだ。人生、運命、人を。君は蠍のなかの蠍だ。自己破壊するために自分を愛し、自分を愛するために自己破壊する。そして周りにいる人たち、君が捨てるまで周りにおいておく人たちは、この君の性格の急激な変動から逃れられない。結果として、それが伝説を生む。そして伝説は広まり、君は中傷されたりもする。君は、誰も自分を理解していないとか、誰も今まで自分を理解したことがないと言い、お決まりのパターンでカーテンを閉め、孤独、巣穴に閉じこもる。君を好きなのは君の犬たちだけだ。君は片隅に入り込み、自分の傷痕を舐め、そして君は自分の血の味が好きだから、この作業に奇妙な快感を覚える。君の中には Carlos Monzon の一面がある。残酷なパンチを受け与える仕事ボクシングを君が好きなのは偶然ではない。特に Monzon を、ある日妻も栄光も人生も窓から投げ捨てたこのパンパのヒョウのような、ちょっと頭のいかれた、スーパーチャンピオンを君が好きなのは偶然ではない。彼はひとりでに人を魅了し心配させる。 君の仕事が上手く行かないという話 ( なぜなら、君の絵画販売はさっぱりだし、最新映画でつまづいてひどい評価も受けている ) ばかりか、こういう噂も聞いた。( パリではもっぱらの話だ ) 君は徐々に、Alain Delon 気取り、いや、『 Delon 様 』 気取りし、人の話を聞かず、バンカーのくぼみに閉じこもり、De Gaulle から Jack Lang に移行し、フランスからスイスへ、スイスからパリへ、パリからマラケシュへ、マラケシュからブルターニュへ移動し続けていると。それに君が争奪戦に関わっていることをほのめかすようなことも。私自身は君の Monzon 的性格にすっかり信頼を寄せている。君の心の挫折 ( これに関しては君にも罪が無いわけではない )、すさまじい 『 事業 』 と卑劣な奪い合い、君の仕事上の失敗と成功、秩序を欠いた美しい絵画への目覚め ( 後には研ぎ澄まされたが )、スポーツ、犬、Manu ( 君が嘆いた巨大な犬 ) への情熱。ありすぎるのであとは省くが、こうして君は死に、生き返る。君は狂人のように突き進む。そして、賞賛や意欲の気分によっては、間違いを犯し、それを認めず、忘れ、あるいは思い出し、準備無しに首を突っ込み、ある時は、秀いで、ある時は意気消沈したかと思ったら再び燃え上がり、人や自分に対してとても聡明かと思えば、おそろしいほどのおめでたさと盲目さを見せてくれる。 今君はどこに向かっているのか。私にはわからない。私が確信しているのは、君がどこかに向かっているということだ。この世のどんな力をしても、女性、家族の愛情、友情も君を止められない。君は燃える火を背負って生まれてきたのだ。君が消そうと走れば走るほど、火は生き生きとし君を氾濫させる。そして、君は消すために水に飛び込むような男ではないからそれは続く。どんどん悪く。どんどん良く。君は今どこにいるのか?いつも君のことを考えると私の脳はカオスでいっぱいになるが、いつも君のことを考えると私の脳はカオスでいっぱいになる思い出と君に対する友情だ。それはしばしば私の理性を混乱させる。なぜなら私は本当に君にまた会いたいのかもう分からないから。君のようなやり方で、君の影を追いかけて窓から飛び降り、袖をつかんで君を引き止め、君の頭の中の金と混ざるよう鉛を入れるために。            - information from the article written by Frederic Musso in Paris Match 13 Dec 1990 - 

  • Caroline de Monaco 「 王妃、あなたにお手紙を書かせていただきました 」。 -Alain Delon -   王妃、またあなたにお手紙を書かせていただきました。私が「 また 」 というのは、以前も書かせて頂いた事があるからです。お返事がありませんでしたので、あなたが覚えていらっしゃるのか( 私の筆跡は規則的で、字を縦長く斜めに傾いて書く癖があります )、この最初の通信があなたのもとに届いたのかどうか私には分かりません。もちろん私も不躾でしたし、あなたへの敬意に免じてあなたをお許しします。10年以上前、私がボクシング選手権を開催していた時、私は Monte-Carlo におりました。Monzon Benvenuti のリターンマッチで、あなたは、私の何列か前にご家族と一緒におられました。第2ラウンドで Benvenuti KO 負けしました。会場中が立ち上がり、リングを見つめ、刻々とカウントがされ、ゴングが鳴ると、勝者に喝采の嵐となりました。Monzon は全力で走った後の野獣のように勝ち誇った表情をしていました。私たちは彼を賞賛していましたが、突然私は誰かがリングへのウエーヴを切ったのを感じました。それはあなたでした。私たちの視線がほんの一瞬合いました。まるで、王妃であるあなたと俳優の私が公共の場外でのつかの間の知り合いであったかのように。あなたは素晴らしく、美しかった。子供時代を終え、女性としての笑顔を予見させていた。翌日、私はあなたにこう手紙を書きました。『 王妃、公国もあなたのような美しい王女がいるとは本当に恵まれています 』。 私は返事を望んだでしょうか?間違いありません。この瞬間から、王妃、あなたに私は一種の愛情抱き、遠くで心からあなたの生活にまつわるエピソードを追っているのです。辛いエピソードも幸せな話も。それも、少女だけが男性に見せられるあの視線を共有したからです。それから、私たちは良く偶然お会いしましたね。公式パーティーや知り合いの舞台裏で。ある晩、私たちはマキシムで食事をしましたね。聡明なあなたは他の人に常に気配りをして、私の仕事である俳優の世界にも詳しく、芸術と人生に関する情熱的な解釈に富んでいました。あなたはまさに周囲が思った通りのあなただったのです。いえ、それ以上です。あなたは私の手紙のことには触れませんでした。王妃という仕事は大変な仕事です。スターでいることが難しいように。そして、王妃、あなたはスターであり、王妃なのです。公人としての義務、人々の目が常に注がれている責任を負うことがどんなに大変か、私は誰よりも分かっています。苦悶を隠す強さと、不安を覆う笑顔がどんなものか知っています。よく、私は、あなたを思います。なぜなら私は、あなたの課題を知っているからです。王妃、公国はこんな素晴らしい女性がいて本当に恵まれています 」。          - information from Paris Match 6 Sep 1985 -

  • 人間一人は、この無数の銀河星雲に比べたら何でもありません。人と星は同じ微粒子から出来ています。我々は、みんな星の子供です。共に生きていこうではありませんか。何故、狂気によって物が死んでいくのか?野蛮な資本主義。情報社会。毎日おぞましいこと、犯罪があります。コミュニケーションはどんどん減って、人は雲の中を歩くようにインターネットで歩き渡り、心に要塞を作って閉じこもっている。私にとって、世界一素晴らしいことは、家族と一緒にいることです。Rosalie、二人の子供、犬たち、そして鳥、すずめの Peewee と。  - Alain Delon –  - information from Paris Match 20 Jan 2000 -

  • Frederic Musso : あなたにとって、新たなミレニアムへの移行は何か特別な意味がありますか?    Alain Delon : 私は、至福千年説の信者ではありませんし、神が概数の時に、特別恵みを与えてくれるとも思いません。世間では、2000年問題、飛行機、エレベーター、銀行で混乱があると騒がれてましたが、私にとって一番大事なのは人の心を通過するものです。事は単独に起こるわけではありません。一番卑劣なのは狂気、破壊欲です。チェチェン、コソボ、アフリカで起こっていることを考えてみてください。そして、鳥たちを汚染している海の重油流出問題も。もしも未来のためにひとつ願い事が出来るとしたら、私は無責任な人たちによってこの地球が駄目にされつつあるという事実を、政治家、つまり責任ある者達にしっかり理解して欲しいと思います。ブラジルでは、『 世界の肺 』 アマゾンが破壊されています。大昔からの環境メカニズムも狂いつつあります。世界化、石油問題、地球の温暖化...。すべてお金のため。エコロジストがやるだけやっても、本当の手段は、政治家だけが使えるものです。   Frederic Musso : 自殺したいと思ったことはありますか?  Alain Delon : 子供たちの誕生の前にはあります。人には生きる権利も死ぬ権利もあります。人は、世の中のしくみがわかった時、もう何ももたらせないとわかった時、一人ぼっちの時、自殺を必然的に考えるものです。今は、子供たちのために自殺は除外されていますが、肉体的、医学的な問題となるとまた別です。もし、寝たきりになり、癌が全身に転移したら、私は最後まで待たないでしょう。そういう状況でない限り、自殺は考えられません。  Frederic Musso : あなたは芯から Samourai の孤独が身についているようですが。あなたには友達がいますか? Alain Delon: 長年の友達がいます。彼らは必ずしも有名人ではありません。Monod 教授は 「 友情とは結んでいくものだ 」 と言いました。人はよく、「 私の友人を紹介します 」 とか 「 私の友人です 」 と言いますが、『 友 』 というとき、そこには別の意味や響きが含まれてくると思います。私の父は 「 もしこの世に一人でも友があれば豊かだ 」 と言っていました。私は孤独が好きです。それは、美徳でもなんでもありません。私の性質です。自分に課しているわけでもありません。私はこれで幸せなのです。 Frederic Musso : あなたは Loire 県にお住みですが、先日の大嵐の被害は受けましたか? Alain Delon : 400本の木が根っこから倒れました。マッチ棒のように折れたものもあります。でも、私は運が良かったです。子供も犬もみんな無事でした。フランスでは死者が出たり、家が破壊されたりしましたから。それでも、怒りのもとになることはありましたよ。8日間も電気がなかったからです。幸い家に発電装置がありましたが、それでも、始終それを作動させているわけにはいきません。パリから100キロ離れたところで、1週間電気なしの生活とは、困ったものです。特に、この国では大統領が誓願の中で、国の主要責任である公共事業、安全、連帯について強調しているのですから。Frederic Musso : あなたはいつも政治に興味を示してきましたが、今では地球規模の視野をお持ちのようですね。年の功でしょうか? Alain Delon : それは今日唯一可能な視野です。( 彼は机の上に写真を探す。夜の青を背景にした銀河系の写真で、『 You are here 』 というばからしくて目が眩みそうなキャプションがついている )       - information from Paris Match 20 Jan 2000 interview by Frederic Musso -

    ( Alain and Nathalie with their son Anthony in mid 1960's )

  • Alain Delon : 私は我が国の事を思うと悲しくなります。この国は働くこと、創ること、生きることの喜びを失ってしまったようです。連休を得ることしか考えていません。復活祭の連休、メーデーの連休、ヴィクトワール( 勝利 )の連休...  。我々の勝利はまだ遠いでしょう。 Arthur Conte : フランスの真髄は、復活にあります。フランス史の最初の法則がそうです。フランスは、立ち往生し、落ち込んでいると見える時に限って、次の瞬間、輝かしい奇跡を起こしたりするのです。確かに大きな問題を抱えていますが、個人的には私はフランスへの信頼を全く失っていませんよ。 Alain Delon : でも、今回は悪いことが多すぎます。傷痕は今までよりずっと大きいような気がします。この国は、何と言いましょうか、筋力も、魂も失ってしまったと思いませんか? それとも、中毒になっているというのは間違った表現でしょうか? Arthur Conte : あなたがそのようなことを言うのですか? 私は、あなたを常にバイタリティーに溢れ、映画製作を精力的に続け、成功に成功を重ねていくような人だと思っていましたよ。あなたにとって創造が喜びでしょう? 何故、他の人間もそうでないと言えるのですか? Alain Delon : Mitterrand 大統領を信頼できますか? 彼は矛盾だらけで危険に満ちた道を歩んでいます。いつか、『 Mitterrand のようなうそつき 』 という熟語ができるでしょう。彼は約束したことすべての逆をしています。こんなことは初めてです。確かに彼の厳格さ、誠実さは評価に値すると思います。でも、彼は出来ない約束ばかりをしています。 Arthur Conte : 真面目な話、彼は少なくとも三つの 『 大事業 』 で、引退後の引継ぎを楽にしてくれていると言えますね。第一に、少なくとも50年間は、集産主義にはならないでしょう。第二に、自分でも気付かずに、野党のリーダーがしたいことを代わりにやってくれています。第三に、ここが彼の矛盾点ですが、自由主義の効果を人々に教えてくれています。政権では自由主義的というよりは行政的だった野党の人たちにまで。 Alain Delon : 確かにそうですね。自分のしていることにいつか気がついたら、彼はどんな顔をするでしょう? でも、彼を信頼した勇気ある人たちにとっては痛いですよ。 Arthur Conte : 教訓。リーダーとなる人は、守れない約束はたくさんしないということですね。 Alain Delon : 悔しいです。なぜなら、多くの人は、社会主義派の実施や Mitterrand に幻滅したとしても、右派にはならないですからね。Mitterrand に幻滅したと言いながら、他の人には投票しないでしょう。左派への幻滅が、右派の支持に繋がらないのです。私は、特にたいした理由もなく仕方無しに Veil 派に投票した友人をたくさん知っています。また、棄権する方がいいという人もたくさんいます。 Arthur Conte : その点は、おっしゃる通りですね。 Alain Delon : でも、私は Mitterrand 自身には何の悪感情も抱いていません。悪いのは、Mitterrand が政権につくような状況を生み出してしまった前政権の人たちです。 Arthur Conte : それは、今更どうにかなることではないでしょう。もう遅すぎますし、彼らを今更非難することはむしろ有害ですね。 Alain Delon : Chirac Giscard の所為です。それでも、彼らは何事もなかったかのように右派を代表しているのですから。 Arthur Conte : 私は、あなたと全く逆で、彼らは失敗を通して多くを学んだと思います。 Alain Delon : 彼らがくだらないことを熱心に話している時、私が何を想像するかわかりますか? まるで、女の喧嘩です。そうでなければ、まるでポーカーです。彼らはゲームに何が賭けられているかわかっていない。何百万もの人々の幸せがかかっているのに。 Arthur Conte : 今、右派を責めても仕方が無いでしょう。やめましょう。 Alain Delon : ええ。でも、意味の無い口論ばかりです。いつも同じことばかり言って。彼らは気がついているのでしょうかね? だれか、彼らにはっきりと言ってやれないのでしょうか?    Arthur Conte : Le Pen について話してください。 Alain Delon : 私は彼の党で政治活動をしようなどと考えたことは一度もありません。戦闘的な政治は私の仕事ではありません。でも、彼には3つの資質があります。彼はとても気持ちの良い性格で、人々が密かに思っていることをはっきり口に出し、他の政治家と違う態度で話します。彼の語調や言葉は退屈な政治家たちに比べて刺激的です。 Arthur Conte : 私も彼と同じ時期に国会議員をつとめました。確かに、彼はとても気持ちの良い人間で、率直すぎるくらい率直で、友情に忠実です。ただ、彼には他の野党にはない自由があります。 ( 極右が政権にのぼることはまずないので、言いたいことを好きなだけ言えるという自由 )近い将来責任をとらなければならないということは全くありませんので。 Alain Delon : 確かにそうですが、肝心なのは、彼が他の誰も言わないことを言っているということです。彼は自分の分別をはっきり伝えているんですよ。私も外国人労働者達は尊重されるべきだと思いますし、フランスは有益な外国人を受け入れるべきです。また彼らにも利権のためのストをする権利があると思います。しかし、彼らがフランス人労働者の仕事をとってしまうことには納得いきません。こんな考えは、ファシストでも何でもないと思います。私は、俳優、映画のプロデュサーの Alain Delon として話しているだけです。 Arthur Conte : あなたも ( 他の政治活動をしている俳優のように )、政治野心があるのかと言われるでしょう? Alain Delon : 私は現実的です。道を歩けば、人々は私を絶賛してくれますし、サインを求めてきますし、暖かい言葉をかけてくれます。しかし、もし私が立候補したとしたら、1.4 % ほどの支持しか得られないでしょう。私も含めて他の多くの俳優たちは政治に対する意見を言っています。フランスの俳優が政治的な討論に参加することは以前はありませんでした。  Arthur Conte : 現在、一般大衆の中に不安があります。フランス各地で講演をしていると、それが良く見えます。ですから、人々が好きな俳優に政治的意見を求めたとしても、何も驚くことではありません。あなたもおっしゃっていたように、プロの政治家の証言とはまた違った政治の証言を世間は聴きたいのです。 Alain Delon : 私は De Gaulle を崇拝していました。Pompidou を尊敬していました。彼らは、今日我々が我慢しなければいけない連中とは大違いです。私には政治的野心はまったくありません。映画で十分です。Reagan のようになりたいと夢見たこともありません。しかも、Reagan は俳優としては全くだめでしたが、政治家としては見事でした。彼が大統領になって、ひどい Carter を追い出す前は、カリフォルニア州の素晴らしい州知事でした。私は、政治家ではありませんが、政治家について思ったことははっきり口にしていくつもりです。彼らが機嫌を損ねてもそれは仕方ありません。新しい中心人物が必要なのですから。 Arthur Conte : あまり厳しくならないでください。Valery Giscard d'Estaing は素晴らしい国家元首です。フランス政治の分析においては、最も優れた人物の一人です。Jacques Chirac はバイタリティに溢れた政治家で、パリ市長という任務を通して、重要な計画の運営能力を示しました。また、デマゴギーに左右されない Raymond Barre は、並外れた価値のある男で、他国からも羨ましがられています。ですから、我々彼らの味方であるべき者が、彼らを攻撃してはいけませんよ。 Alain Delon : それでは誰が Giscard にメディアに出すぎだと教えてあげられるのですか? 彼は、もっと人目に触れないよう慎むべきですよ。  Arthur Conte : 私はいつでも彼に言えますよ。主要な選挙が近づいたら、いつものように真の友人として彼に会って、厳しく話しましょう。でも、彼の判断や分析はすべて慎重です。 Alain Delon : 彼には言うことが一杯あります。遅すぎるよりは、早目がいいですよ。 Arthur Conte : 繰り返しになりますが、集産主義、国家管理主義、派閥主義に対する戦いの最中に、民主主義者同士の闘争をあおるようなことはあまり良い考えではないと思いますが。 Alain Delon : わかりました。大切なのは政治家たちがフランスのために一致団結するということです。政治家たちにはテレビで、出来合いの言葉から離れて、もっと能動的であって欲しいと思います。私が望むのは、情熱的に核心をついて話す政治家です。どんなに知的でも、ロボットのような人に投票するのは嫌です。ロボットは、Fabius Chevenement Attali ( すべて左派の政治家 ) のような連中だけで十分です。彼らはみな、すたれたイデオロギーの機械的な奴隷です。野党の人間は機械的なロボットであってはならないのです。 Arthur Conte : テレビを通してすべて裁かれてしまいますね。 Alain Delon : 私はほとんどテレビを見ません。ボクシングの試合以外は。これも今では、テレビであまり見られなくなってしまいましたが。私が一番不満なのは、フランスのチャンピオンたちに闘争心がなく、厳しいトレーニングをコツコツと積むことが出来ないところです。これらチャンピオンたちは、我々の国を象徴していると思いませんか? 長期にわたって継続的に君臨できないのです。一試合では見事な成績を収めても、すぐに没落。真の男がいないのです。柔な国には、柔なスポーツ選手しか育ちません。それでも、野党のリーダーたちの欠陥に気がつくくらいの頻度ではテレビを見ています。彼らがテレビで見せることといったら、柔なことばかりです。  Arthur Conte : 批判しているだけではだめです。分析批判は簡単です。解決策と具体案を提案するなら別ですが。 Alain Delon : 最終的には、もし誰かを支持しなくてはならないとしたら、病前の Pompidou のような、真剣で堅固な人を選びます。私が気に入るのは、事実をはっきり言うことの出来る人です。たとえ、言い方が人に気に入られないとしても。考えていることを恐れずに口に出すことのできる 『 きっぱりした人 』 です。 Arthur Conte : あなたは悲しい悲しいと言っていますが、映画ではあなたの役は全て悲しい役です。それに、あなたの好きな英雄は Attila のようですね。 Alain Delon : それに好きな音楽家はワーグナーで、好きな画家はミレーで、『 晩鐘 』『 落ち葉拾い 』 が好きです。戯曲のヒロインで最も好きなのは、メッサリーヌです。もっと明るい役を演じることもできます。実生活では、私は明るい人間ですから。ただ、良い環境は必要です。世間は、私がビジネスに興味津々だと思っているようですが、そんなことはありません。多少のリスクを負ったり、失敗の際には責任をかぶることもできます。俳優としては、失敗を経験したことはありません。映画 『 Monsieur Klein 』 でのプロデューサーとしての失敗はあります。でも、私はいつも体当たりして困難の中で挑戦してくことが好きなのです。私が悲しいとしたら、社会状況が現在、霧に包まれた状態で、偽善者や、計算高く腹黒い連中、ごまかしが多すぎるからです。私はごまかしが大嫌いです。人間の長所で私が一番好きなのは偽善者でないということです。だから私は犬が好きなのです。犬は絶対に裏切りませんから。       - information from the dialogue with Alain Delon and Arthur Conte in Paris Match 18 May 11984 -

    ( Alain Delon with his dog in 1963 )

  • 部屋の中に黒い犬が二匹。気高く、警戒心が高く、時々獰猛だが、ほろりとさせられることも多い。左の一匹はMANU ( マニュ )、7歳。右の一匹は Alain Delon、48歳。二匹とも極限の孤独状態にある。父親から息子への愛情、息子から離婚したばかりの父親への愛情のようなものが生まれている。Mireille Darc の犬である MANU は、快活な犬で、病中の彼女に気力を与え続けたが、今では、『 Darc-Delon 』 というフランス映画のシンボル的なカップルは終わってしまった。新聞、雑誌や噂好きな大衆の格好の餌食となっている。「 で、あなたが与えていた美しいカップルというイメージはどうなってしまうのですか?」 「 私はイメージを与えたことなどありません。人々が私の意志とはうらはらに、勝手に騒ぎ立てていただけのことです。ですから、こんな私を見たあなたも私生活を守るように気を付けることですね。私はもう人生を変えはしません。私にはもう人生がありません。もう二人の人生ではないし、人生と呼べるものはなくなってしまいました 」。傷ついた男の苦しみ。愛犬と同じ眼差し。そして、こちらが戸惑うような率直さ。「私の仕事が、特にビジネスが、現在これ以上上手くいくということはないようなので、もしかしたら別の部分はこれ以上悪くはならないかもしれません。人生は、一方で運を与え、他方で運を引き取るようになっていますから」。 「 人生があなたから Mireille Darc を引き取ったとお思いですか?」 「 人生が彼女を私から取っていくのを私は止める事が出来ませんでした。でも、これからもずっと残っていくはずの別の絆が私たちの間にはあります」。その絆は尊重するとして、世間は Alain Delon に対して単にこう言いたいのだ。もしかしたら、彼は有毒で、彼に触れる全てを痛めつけるのではないか、と。この蠍はそれを良く知っていて、肯定するだろう。そして、こう付け加える。「 私は 『  人々  』 を傷つけましたが、良いこともたくさんしたと思います。そう言われますし 」。『 人々 』 とは、もちろん女性たちのことだ。そして多分、他の誰よりもまず Romy Schneider という一人の女性のことだろう。この3時間のインタビュー中、私が一度も彼女の名前を出さなかったのにもかかわらず、彼はまるで呪文のように何度も彼女について話した。 彼は、彼と同族の理解し合える彼女を奪ったこの俳優の世界を恨めしく思っている。「 彼女は、栄光、才能、天分と引き換えに得たものに、つまり人々の視線に、耐えられなくなっていました。彼女は、傷痕、裂け目だらけになり、身包みはがされ、むき出しにされたばかりか、皮まで剥がされていたような状態でした。常に犯されているように感じていた彼女の苦悶、苦しみは計り知れません。Marilyn Bardot Martine CarolJane Russell も同じ苦悩を味わいました。俳優は女性の職業ではないのかもしれません。これを理解できる人は本当に少ない。Romy Isabelle Adjani は、私と同種の人間ですが、彼女らが天分と引き換えに得たものは、これほどの犠牲、苦しみなのです」。ブルーグレーの目の際には、Romy Schneider を回想してか少し水滴が見える。周囲には、この亡き女優の写真があちこちに飾られている。彼お気に入りの写真は、彼女が 『 La Piscine 』 の撮影のためにフランスに戻ってきた時のものだ。彼はニース空港で彼女を待っていた。彼女は大きく微笑んでいた。『 ヨーロッパの若い婚約者たち 』 は再会し、映画ファンから避けられていた Romy Schneider はその後、第二の輝かしいキャリアを描く。 Alain Delon は彼女についてまた語る。女優に厳しい年齢を敵にまわしながら。「 女優たちが化粧をして、年齢が分からないように悲痛な戦いをしているのを見ると、私はいつも年齢にひどい不公平があると思います。私は48歳で、堂々と年を言えます。自分の年は、まず人の視線で感じますが、今のところ、何ら変わった様子はありません 」。Alain Delon の人生には横這い状態がない。ただ変化が、そして多分、ますます孤独で 『 野生的な 』 新しい分岐点がいつもあるだけだ。総分析、検討、再スタート、反省は彼には似合わない。ただ突き進み、失敗でさえも絶対に後悔しないのが彼だ。「 出演して後悔した映画は一つもありません。一度も仕方なしに出演したり、強制されて出たことはありません。時々、テーマや製作チームの選択を誤ったことはありますが、いつも自分で全て決めてきました。私が出演した68~70本の映画は刑事ものばかりではないということを、さも驚くべき事実のように言う人がいますが、私はあらゆる種類の映画をあらゆる客層のために撮ってきました。人の記憶は、いつも最後の映画にとどまってしまいます。ですから、Melville 監督作品や、『 Le Guepard 』、『 Le Professeur 』、『 Mr.Klein 』、『 Rocco et ses Freres 』 があったことを思い出してください」。ViscontiMelville は、彼が決して忘れることのない巨匠である。Alain Delon のスタジオには、彼自ら Visconti のローマの邸宅で撮った Visconti の写真と、『 Ossessione 』 や 『 Rocco et ses Freres 』 などの初期の映画で、この監督が使っていたメガホンがある。また、カメラの接眼レンズに釘付けになっている Delon の写真の上に書かれた Jean-Pierre Melville の献辞 『 私が監督ではなくてプロデュースをする初めての映画では、このようなあなたの表情を見たい 』 も、置かれている。この献辞を読めば、Alain Delon が自らの初監督作品 『 Pour la peau d'un flic 』 の最初の映像に寄せた献辞がよく理解できる。 Boulogne のスタジオ内にある彼の事務所兼アパルトマン兼住み処には、他に2枚の写真がある。一枚は、ソフト帽をかぶり、きっと薄い唇を結んだ Jean Gabin の見事な写真のポストカードで、もう一枚は Dalida di Lazzaro である。Joseph Losey Luchino Visconti Proust にあこがれたように、Alain Delon は、Visconti の思い出として Volker Schloendorff 監督の『 Un amour de Swann 』 に最近出演した。スワン役 = Delon、シュルリュス役 = Brando というキャスティングに決まっていたが、しばらく後には、Delon が年輩のシュルリュス男爵役を演じるようになり、劇場ポスターでは、Jeremy Irons Ornella Muti に続いて3番目になってしまう。彼は、たいしたことはないと言っているが。この映画公開前には、Romy Schneider Shirly Mac Laine のように彼が 『 とても意識している女優 』 Nathalie Baye との共演で、Bertrand Blier の 『 Chambre a part 』 ( この映画は実際には 『 Notre histoire 』 というタイトルで公開されています。) も撮り終えているだろう。そして、その少し後には、Andre Techine 監督の 『 Lune de Miel 』 ( Pascal Bruckner の原著 『 Lune de fiel 』 をこんなタイトルに変更するとは、なんということか。映画界の人間は、縁起かつぎが好きである。) も。相手役にはおそらく Chatherine Deneuve が起用されるだろう。また、その間にも、『 映画界の公務員 』 になりたくない Alain Delon はビジネスにも力を入れるだろう。なぜなら、この男の3つ目の顔は、彼が自称するよう 『 ビジネスマン 』 だからだ。馬、ボクシング、ヘリコプターを経て、また新しいものに心奪われるまでは現在のところ、Alain Delon ブランドの香水、時計、スカーフ、ネクタイ、ベルト、ワイシャツなどが94ヶ国に広まっている。彼は日本と香港から先日帰国したが、その地で女性店員たちとのカクテルパーティーに出席し、彼女らを魅了する海外スターの第一号となった。秋の始めにはアメリカにも行った。( アメリカでは彼のブランドは百貨店で販売される )また、近東、アラブ首長国連邦、南アメリカ、そして彼にとって最初の市場で本社所在のスイスでも商品を購入することができる。フランスでは、あまり真剣に受け止められなかったため需要を待った。フランスは商売下手で成功しすぎることに警戒心が強い国だ。 Alain  Delon はいつも生活保護受給姿勢のフランス人のこんなメンタリティーが嫌いである。 「 言うまでもなく、左派の責任です。すでに Giscard の頃からこの問題は始まっていましたが.....。この有様を見てください。考えの狭さ、腹黒さ、ねたみ、それに、何という矛盾でしょう。家族基盤を再構成しようとする一方で、妊娠中絶や成年18歳を合法化しています。パリ中の壁という壁は、蝿取り紙のように広告がへばりついています 」。「 それでは、他の人たちのように、積極的に政治に政治コミットをなさったらいかがですか?」 「 いいえ、私はデカルト派の妥協しない性格で、軍人、将軍、現場型の人間です。政治家ではありません。それに、どの党に属すれば良いのでしょうか。政党が欠けているのではありません。足りないのは優秀な人材です。もしも De Gaulle 将軍が今いたら、私は彼に地の果てまで着いて行ったでしょう。今では、彼と敵対していた Mitterand を含め、みんながみんな De Gaulle 将軍を模範にしています。私は Pompidou も好きでした。世間では、ただの繋ぎの大統領と言われていましたが、彼のような繋ぎならまた欲しいと思います 」。 Alain Delon の考えはエスカレートし、極右への共鳴にまで至る。「 極右的な考えを包み隠さずに見せることが、勇気ある行為だなどと言わないでください。もしも、勇気というものが人々が密かに思っていることをはっきり言うことでしたら、密かに思っているだけの人々が臆病なのでしょう 」。Alain Delon が道徳的な話を始めると、聞いている側もまた彼の社会人としての責任に説教をしたい気持ちに駆られる。ちょうど我々の頭上には最新映画 『 Le Battant 』 のポスターがある。ピストルを手に、暴力を賛美しているかのような。Alain Delonは答えて言う。「 我々の映画は無害です。現実はしばしばフィクションよりもひどいことがあります。Spaggiari 事件、郵便列車事件、それにテレビニュースで流れるもの 」。 「 それでは、あなたの言うことに 100% 耳を傾けたとして、行き着く先はあなたの息子さん Anthony ということになりますね?」 「 もちろん父親としての責任はあります。優しく接したら良いか、力ずくで接したら良いのか、威厳を用いるべきか、愛想を用いるべきか、イライラしながら考えるのは辛いです。『 Alain Delon の息子 』 でいるのは容易いことではありませんが、『 Alain Delon の息子の父 』 でいるのも容易いことではありません。忍耐には慣れています。私は強い人間ですから 」。Alain Delon は、続ける。「 あなたにも関わることなのですよ、Patrick、強い人間というのは。良い仕事をする人間は話題になります。番付にも登場しますし、新聞紙上では、P.P.D.A. ( この対談の聞き手 Patrick Poivre d'Arvor のこと。彼の通称で略称。) と呼ばれたり、Bebel Jean-Paul Belmondo のこと。) などと呼ばれたりして、嫉妬や恨みに会ったり、人々の様々な意味での関心の波に呑まれたりもするでしょう。自分の殻に閉じこもることになるでしょう。そして、その時ひとりぼっちだと感じるでしょう。分かる人はごく少数です。世間に対して、『 知らないことを話題にしないで、黙れ 』 と、言いたくなりますよ 」。そして Alain Delon は、頭を離れない Romy Schneider についてまた話し始める。「 人は、孤独の中に長く居すぎると、苦しみに襲われたり、時には死に至ったりもします。彼女は衰弱死しました。それが、彼女の病名です 」。「 あなたにもこういうことはありますか?」 「 ええ。でも、おそらく彼女らと同じ状況にはならないでしょう。私には男性特有のエネルギーがあります。死のうと決めたら即断行です。苦悶の時期は私にもありました。正常な男で、『 自殺したい 』 と言ったことのない人はいないのではないでしょうか 」。十字架の付いたロザリオをビジネス用アタッシュケースに入れて持ち歩いている Alain Delon のセリフだ。( ロザリオがキリスト教的で女性的な物だという事をほのめかして、彼の自殺に関する発言との矛盾を指摘している )彼は、私がその矛盾に気が付いたと気づき、気まずい様子だったが何も言わなかった。十字架のロザリオは、彼のブルゾン、ブルージーンズ、ベルトにぶら下げられた鍵、 象毛でできたブレスレットには似合わない。たばこも酒も飲まず、昼食を摂らず、果てには少しの運動もしない彼の厳格な生活習慣とも似合わないものである。我々の隣では、MANU がうなっている。この MANU Delon という二匹の犬は顔を見合わせる。山猫もずいぶん遠くに行ってしまったようだ。           - information from the article by Patrick Poivre d'Arvor in Paris Match 16 Dec 1983 -

( Alain with Nathalie at the location spot Congo of the movie "Les Aventuriers" in 1967 )

  • この夏 Christine Angot と共に Alain Delon に会った時、彼は Rosalie との別れという耐え難い出来事に失望と孤独を隠せぬ状態だった。その後、状況は急展開し、Anouchka Alain-Fabien の母親である彼女は、めがののビジネスマン、別の Alain と結婚した。( Alain Delon は、15年間の Rosalie との生活で、彼女と婚姻関係は結ばなかった )Delon 行きつけのこのレストラン『 Costes 』 では、彼が来るといつも空気が変わる。しかし、彼に接するウエイトレスたちも、様子を伺う客たちも、彼がたった一人でも12匹の犬と、三つ足の猫 ( 車に引かれていたところを拾ってきた ) と一緒に新年を迎えたとは想像もしなかっただろう。もちろん、招待はたくさんあったのだが、彼はこう考えていた。「 もし何かするのなら、緊急医療サービスで働く友人を手伝いに行きたい 」。同じような辛さを人前で堂々と噛み締めて行ける人は多い。しかし、彼にはもうそれを続けることはできない。今、彼は、パートナーたちとの失敗にも関わらず築き上げてきた自らの血族にしがみついている。つまり、兄弟のように仲がいい3人の子供たちと2人の孫たちにだ。若かりし頃の彼を思い出させる落ち着いた Anthony とは、真の合意に達した。まだ小さな子供たちに対しては、彼はどちらかというと甘い。そして、夕食の席でも堂々と12歳の娘の携帯の留守電にメッセージを残す。テーブルでみんながびっくりしているのにも構わず、「 いとしい子よ、今どこにいるんだい?電話してくれるよね 」 と哀願する。以前、下の子供たちは遠隔地オランダに住んでいた。今は近くにいるとわかっているのに手が届かない。Paris Match : あなたの孤独な幼少時代について話して下さい。Alain Delon : 4歳の時、両親が離婚したので孤独な子供時代を過ごしました。母が薬剤師助手として生計を立てていたため、私は里子に出され、Fresnes の退職した夫婦 Nero の家で育てられました。私は彼らを本当の家族だといつも思っていました。Paris Match : 愛に飢えていたと思いますか? Alain Delon : 愛情はたっぷりもらっていました。しかし、愛とは別のものです。私の両親は二人ともその後の人生をやり直したので、それぞれに新しい子供がいます。ですから、9歳になった時、私は寄宿舎に入れられました。私は少し負担になっていたのです。その後私は、聖ニコラ修道学校の寄宿舎を3回ほど追い出されました。Paris Match : 手におえない子供だったのですね。Alain Delon : 『 ひどい子供というのは、ひどく不幸な子供だ 』。私は15歳の時、この中等部を退学し、17歳で海軍に( 親は大喜びでした )入りました。私はまたも私を排斥した彼らを憎みましたが、こうしてインドシナ半島に行きました。 Paris Match : あなたはいつも軍隊のことをまるで家族のことのように話しますよね。Alain Delon : 私は根っこから軍国主義的な人間で、軍隊とは一国の脊髄であると考えます。私がしてきたことすべて、そして現在の私と成功があるのはこの軍隊のおかげです。5年間の軍生活が私に尊敬、規律、厳格とは何かを教えてくれたのです。大変誇りで感謝しています。Paris Match : 時々、ご自分があまりにも厳格すぎると思いませんか?Alain Delon : 私のような公人は、時として知名度が人物を先回りしてしまうことがあります。 Delon Alain を超えてしまっているのです。常に肩に荷を背負い続け、あちこちに姿を現し、演じ続けなくてはなりません。本当にとても疲れます。そのため私は鎧を鍛えなくてはならなかったのです。ただし真の私は必ずしもみなさんが知っている私とは限りません。私は複雑な人間で、私の中には半ダースほどの人間が住んでいます。彼らの仲はとても悪く、常に争いです。穏やかな人に気難しい人。激しい人と優しい人.....。そこから、私のぶっきらぼうな怒りや、胸を裂くような悲しみ、粗暴な放棄、苦悩が生まれるのです。Paris Match : お子さんを得たことで、あなたは丸く、自然になりましたか? Alain Delon : いいえ、私は最初の子 Anthony を38年前に得ました。人生の一大事でした。しかし、そこで歴史が繰り返されてしまいました。私と子供の母親との仲は長続きせず、息子は私が彼の年齢の4歳の時に私がいた状況と同じ状況に入りました。人生最大の恐ろしい失敗でした。私が経験したことの中で、絶対に二度と起こしたくなかったことを起こし、とても辛い残酷な時期でした。その時私は、「 自分は何をしてもだめだ。自分の味わったことを繰り返すことしか私にはできないのか 」 と思いました。そしてまた今回も、みなさんご存知のように、まさに同じ事が繰り返されてしまいました。私の12歳と8歳の子供たちに。私にとって、家庭、子供に関することは失敗の連続です。Paris Match : しかし、あなたとお子さんたちは、強い絆で結ばれていると感じますが.....Alain Delon : 子供たちは私の命です。彼らよりも大事な物はこの世にありません。特に、二人の小さな子たちはそうですね。Anthony は、もう善良な立派な男性になりましたから。小さい子たちはまだ無垢な時期にあり、苦しんだことがありません。私は彼らの人生に待ち構えている苦しみから彼らを守りたいのです。彼らの人生初めての大きな苦しみが父親の死ということになって欲しくないので、出来るだけ長生きして、気丈でいたいと思います。Paris Match : 彼らの前ではあなたの威圧さは消えてしまうような気がするのですが、あなたはどんな父親ですか? Alain Delon : 私はいつも威圧的に見せかけています。というより、いつも極端なのです。子供たちに対して私は、優しく何でも受け入れ、認め、何でもしてあげますが、突然、厳しくなったりもします。しかし、やはり子供たちには完全に参ってしまうのが常で、特に、娘の前ではそうです。彼女の望むような父親でいようとしています。Paris Match : それはあなたの新たな一面ですね。Alain Delon : いいえ。Anthony の時も、彼の母親と離婚するまではこうでしたよ。彼が、4~5歳の時、彼の望むような父親でいようとしていました。しかしその後、私は彼を失いました。30年前の法律は、父親に養育費の支払いと、涙を拭うためのハンカチぐらいしか認めてくれませんでしたから。Paris Match : あなたは60代にして 『 若い 』 父親ですね。Alain Delon : 私は父親であると同時に祖父でもあるという奇妙な立場にあります。Anthony の子供たちの年齢は彼らの叔母と叔父、つまり私の下の子供たちの年齢とほとんど一緒なのです。子供たちにとって、私は祖父の年齢にあります。子供たちが学校から出てくるのを待っている時、外見上は私は若く見えるので違和感ありませんが、内面は他の両親たちととても違います。しかも私の子供たちは、ゲームボーイやDVD に囲まれ、私よりも2世代も進んでいます。昔とは子供の育てかたが全く変わってしまいました。Paris Match : つまりあなたが経験した軍隊の規律ももう適用できないということですね。Alain Delon : 確かに。今では兵役もなくなってしまいましたし、若者たちにとって軍隊とはプロだけの仕事になってしまいました。この規律と尊敬の道徳が一様に叩き込まれなくなってしまったのは嘆かわしいことです。Paris Match : 以前、Anthony とあなたの諍いはよく話題になりましたが。Alain Delon : 父親と息子という関係はいつも難しく、Delon 家だけの問題ではありません。私たちの問題は、彼が学校を退学になり、兵役に行くのを拒否し、私に反抗的、拒絶的になった思春期に訪れました。17歳の時に私は軍隊にいましたが、彼はその年齢の若者らしく馬鹿なことをしていました。彼が母親と住んでいたことも複雑でした。Alain Delon の息子であるがために、彼は自分自身を確立しなければならず、とても苦しみながら生きていたのです。確かに、強力な親のコネのおかげで物事がスラスラと行くこともあります。しかし、「 Alain Delon の息子と一緒にナイトクラブに行った 」 という類の偽の友情や好意もあります。Paris Match : 雑誌では、あなたが認知したがらなかった子供 Ari Boulogne についてもよく取り上げられましたが。Alain Delon : この辛い話を向けられてからもう40年になります。30年前に裁判所はこの件について判決を下したはずですが.....Mireille Dumas Ardisson は彼らがどんなに人を苦しめているのか分かっていません。おそろしく犯罪的です。もう既に過去の人となってしまったこの青年は、精神的にもろいばかりか、ある日彼が本当にくじけた時、彼の周りには誰もいなくなってしまいますよ。Paris Match : あなたも批判されるともろいと言われますが。Alain Delon : 私は、キャリア、仕事面で批判されるのには耐えられません。人間的面では、好きなことを言ってもらって構いません。全く気にしませんから。しかし、仕事面では、99%非難の余地はないはずです。実際、俳優としての悪口を言う人はとても少ないです。Paris Match : 人間的面 - 俳優的面というあなたの分裂症は、心の平安にあまり役に立っていないと思うのですが。Alain Delon : 信頼できる友人がある日、「 Alain は全てに才能がある。幸福になること以外は 」 と私を描写しました。この言葉は私をぞっとさせ、その時私はそれが本当なのだと悟りました。人間は、私が40年来味わい続けてきたような成功を保ちながら、さらに幸福でいられるようには出来ていないのです。スタール婦人は、「 栄光は幸福の輝かしい喪である 」 と言いました。私の幸福は、充実、喜び、失望の瞬間に途切れ途切れに存在しています。Paris Match : これら極端な瞬間は、俳優という仕事によってさらに色濃くなりましたか? Alain Delon : もちろんです。私は80本の映画に出演し、そのほとんどが主役です。80通りの人生と言ってもよいでしょう。だから、俳優というのは他の人に比べて老いるのが遅いのです。政治家もそうです。アドレナリンが元気にしてくれるのです。Paris Match : 身体や顔の衰えを辛く思うことはありますか? Alain Delon : いいえ、まったく。最初は、私の内面と全く一致しない自分の容姿が好きではありませんでした。映画ではほとんどメイクを断ってきましたが、若い時にはあまりにも童顔だったので、ペンシルで輪郭を強調しなければなりませんでした。今では、歳をとることは苦ではありません。年齢とともに生きていかなくてはなりませんから。50歳の時、私は肉体鍛錬に飽き、やめました。そして、好きな物を好きなだけ食べていますが太りません。Paris Match : 美容整形についてはどう思われますか? Alain Delon : 美容整形は女性のためのものだと思います。私自身は絶対にしません。なぜなら、たいていは整形したとわかるからです。男性に関しては賛成できません。それに、女優たちの唇が整形によって不幸にも腫れ上がってしまったのを見ると恐ろしくなります。こういう悪い面しか見えません。Paris Match : 女性について話していただけますか? Alain Delon : 私の人生はすべて、女性たちのおかげです。軍隊の後、私の初めての社会生活は女性のおかげで開始しました。私は芯からロマンチストで、いつでも情熱をもって女性を愛してきました。キャリアの中でしてきたことは、Rosalie, Mireille, Nathalie, Romy すべて私が一緒に暮らしていた女性のためです。彼女らのためにいつも最も偉大で美しく、強くありたいと思っていました。なぜなら、私にとって大切なのは私が愛し、私を愛する女性が私に注ぐ視線だからです。いつも彼女たちをうっとりさせたいと思っています。Paris Match : あなたの前のパートナーは12月12日に結婚されましたね。 Alain Delon : もし良ければ、このことについては後日お話させてください。いわゆる 『 商業結婚 』 の話に、子供たちや孫たちを引き合いに出したくないのです。たった1年前、私は女性にできるこの世で最高のプレゼントを Rosalie にしました。自由です。実際には私たちは夏の初めに別れました。この自由を彼女は受け取り、周知のことをしました。             - information from the interview with Catherine Schwaab in Paris Match DU16 AU22 JANVIER 2003 -

( Alain Delon and Mireille Mathieu with Pele in 1970s )

  • Paris Match : 最近あなたが健康上の理由でツアーを取り消されたと聞いたのですが。どこが悪いのですか? Alain Delon : 私の身体の中でいつも最も弱かった部分、心臓です。この血管の障害をフランス一の男と分かち合うことが出来て誇りに思います!もっとも、私は田舎にいて、彼は病院にいましたが! Paris Match : あなたは親しい人たちには、ここのところあまり調子が良くないと言っているようですね。何故ですか? Alain Delon : 自分を哀れに思うことが私は嫌いなのです。そんなことは出来ません。要は全体的なことなのです。一種の倦怠感というか、時は過ぎ、友人達は次々といなくなっていく。年はとるし、家族はバラバラ。「 再びやり直した 」 という家族の話を聞くと、やりきれなくなります。これらの家族は 「 やり直す 」 前には、「 バラバラ 」 になっていたんですよ!このことについては誰も触れませんがね。でも、これは死ぬほど辛いことです。Paris Match : 若くしてアイドルになったということが、時々あなたの現実感覚を妨げてはいませんか? Alain Delon : その逆です。そのことが私の現実感覚をより強化しました。もしも私にこの現実感覚が無かったならば、こんなに不幸ではなかったでしょう。明晰さは、幸福の癌ですから。 Paris Match : もしも今あなたの傍らに女性がいたら、きっとあなたは幸せを取り戻すと私は思うのですが。Alain Delon : 私もそう夢見ていますよ!本当に全身で願っています。待っています!Paris Match : 最近あなたが舞台に出演した時、多くの女性たちがあなたに魅了されていましたね。うっとり魅了され、完全に参ってしまっていたようですが! Alain Delon : 確かにそうです。芝居をしている時ほど、多くの誘いを受けたことは今までにありません。短い手紙や、携帯メール、それとなくアピールされたり、真面目に誘いをうけたり、ひそかに誘惑されたり、何でもありです。かなりのずうずうしさで!確かにそうなんです。でも、私の側でビビッとくるものがないのですから、仕方がないではないですか... Paris Match : でも、ビビッとくる時には一歩踏み出してみなくては。それとも、その感覚はいつも即時なものなんですか? Alain Delon : そうです。いつもそうでした。「 彼女こそが!」 という即時的な確信です。1000分の1秒です。一ヶ月もかかるものではありませんよ! Paris Match : 25~30 歳くらいの若い女性と一緒にいることを想像していますか? Alain Delon : いいえ。どちらかというと、成熟した人、人生や別れが何たるものかを知っていて、賢い人です。本物の女性ということです。全てを教えなくてはならない若い女性はだめです。ピグマリオンごっこはもうこりごりです。 Paris Match : で、スイスや、緑に囲まれた豪邸や、このような遠隔地にいて、出会いがあるとお思いですか? Alain Delon : いいえ、ここにいては無理でしょう。待っているのですがね。そうでなけれなこの人生にけりをつける覚悟です。 Paris Match : 死ぬということですか? 自殺をするのですか? 本気で考えているのですか? Alain Delon : しょっちゅう思います。その時のことを想像しています。自殺をしないでいることの方が難しいのです。しないために、塾考することのほうが。行為に移るのは、ごく簡単なことです。 Paris Match : でも、何故自殺をしなければならないんですか? Alain Delon : 精神状態にいちいちめそめそしたくないのです。ご周知の通り、この3年間は、私にとって大変辛い3年間でした。私は二人の子供たちを情熱的に愛しています。彼らの誕生を長すぎるくらい待ち望んでいました。そして、遅くして彼らの父親となりました。この家族の断絶は、私を大いに傷つけました。彼らと2週間に一度、週末にしか会えないということは耐え難いことです。もうすぐ70歳になるというのに、私はこんな状態なのです!ですから、確かなのは、私は神に私の死ぬ日を選ばせない、ということです。 Paris Match : 敷地内にチャペルを建設されましたね。 Alain Delon : 私のチャペルは、瞑想の場です。そこに私が眠るのです。私はそこで、35匹の犬達の墓場の横に、埋葬されることを希望しています。墓所も既に掘られています。 Paris Match : あなたを幸せにできるものは、あまりないようですね。Alain Delon : 私は継続的な幸福というものを信じません。子供が誕生し、家庭の中で育っていくのを見ながら、私は大変強い幸福の瞬間を経験しましたが、幸福が激しければ激しいほど後の悲しみは一層増します。私は幸福には「 縁のない 」人間なのです。幸福ではなく、成功には縁がありましたが。両方一緒には上手くいかないものです。Paris Match : あなたはよく、現在のあなたがあるのも、成功し、全うできたのも、女性たちだけのおかげであると言いますよね。そのことについてお聞かせ下さい。Alain Delon : 繰り返しますが、女性たちが今の私を創ったのです。私はいつでも彼女たちを眩惑し、彼女たちの目の中に、私が最も美しく、偉大で、強いのだということを読み取りたい一心で頑張ってきました。最初の妻ナタリー、そしてロミー、ミレーユ或いは私の子供たちの母親など、彼女らの眼差しの中に、私はこの私でいることの原動力を見つけ、すべき事を成してきたのです。それは今でも変わっていません。私は、私が誰かを好きな時の愛し方と同じように、愛されたいのです。全力で、情熱的に、熱狂的に...。45年間、彼女たちのために私は頂点にいたかったのです。もしも私が政治家だったなら、首相の座を狙っていたことでしょう。少なくとも!もしも私が、神のように容姿端麗な Villepin で、マリー.ロールの瞳の中に、「 あなたが一番素敵で、偉大で、強いのよ!」と読み取っていたのなら、私はきっと、最高の Villepin となっていたでしょう。Paris Match : 今では、あなたの10匹の犬達があなたを幸せにしているようですね。Alain Delon : ええ。私の人生では、犬達はいつでも幸せを与えてくれました。子供と同じです。動物嫌いな人には、犬と子供を一緒にするということが理解できないかもしれません。でも、本当のことなのです。私の子供たちがここにいる時には、私には13人の子供がいることになります。彼らが遠くにいる時には、10人の子供です。そこに私の猫も加わります。私にとっては、猫も犬も、ハンディを負った子供のようなものです。人間としての美点を持ち合わせ、人間の短所は少ない子供たちです。知性、感知.....ただ、限られた方法でしか表現できず、10年ほどしか生きられないのです。Paris Match : パスカル.ジャルダンはあなたについて、蒼い瞳の中に幼少時代にさかのぼる涙が光るのを見た、と書きました。Alain Delon : そうです。全てはその頃にさかのぼるのです。Paris Match : 両親に捨てられた子供... Alain Delon : そのことについては、あまり考えないようにしています。悲嘆に暮れ、孤独な時、私は一人で話しながら、私の腕の中で死んだ母を呼ぶのです。「 どうして、私をあんな風にしか愛せなかったのか?どうして、私は見捨てられた孤独な子供だったのか?」と。それと同時に、もしも私にこの不幸な幼少時代がなかったなら、この私になることは出来なかったと思うのです。Paris Match : そして、多分それほど孤独ではなかったでしょう。Alain Delon : 多分...。家の中で私は、まるで私一人が生き残った悲惨な家族旅行から帰ったような気分でいます。ヴァカンスに行って...そして...以前と変わりない家、空っぽの家に戻った自分。空っぽでありながら、詰まりすぎている家。ビュフォンは「 人は苦しみのせいで死ぬ 」と言いました。私が幸せなのは夜だけです。ベッドに入って、私の猫 Poupouss が三つ足でシーツによじ登り、私の腰元に身を落ち着ける時だけです。私は彼に手を置き、彼はのどをごろごろといわせる。その瞬間、私は本当に幸福です。そして、死んでもいい、と思うのです!     - information from the interview with Catherine Schwaab in Paris Match DU 9 AU 15 MARS 2006 -

  • Rosalie Van Breemen が Roverto Agostinelli とドイツの教会で2010年夏に結婚式を挙げたようである。

    ( Alain and Nathalie in Venice 1960s )

  • ドロンは、1962年のドイツ映画「 Die Rote 」に a passenger として出演した。Helmut Kautner のドイツ映画「 Die Rote 」( The Redhead )は、Alfred Andersch の小説が原作である。そして、1962年6月30日にドイツで封切りされた。また、1962年の The Berlin Film Festival でも上映された。ほとんどの出演俳優たちは無名であったが、Gert Frobe ( 多くのフランス映画に、ベルモンド、ギャバン、バンチュラらと出演している )がスター俳優として出演している。別の興味深い事実は、ドロンがそれまでドイツ映画に出演したことが無かったということである。この映画のほとんどが、イタリアのベニスで撮影された。ドロンは、1962年3月、「 Marco Polo 」の撮影中であった。だから友情出演だったのであろう。この映画、フランスでは「 La femmerousse 」( Red woman イタリア語で「 La rossa 」 )というタイトルで公開された。アメリカでは、「 The Redhead 」というタイトルで既に公開されていた。    - information from Mr. Oleg  And he has to be inserted above information into IMDb as below http://www.imdb.com/title/tt0056429/fullcredits#cast -

  • ドロンは、「 ジェフ 」の共演者に、自ら思案の上、ミレイユ.ダルクを起用した。「 バルドー、ドヌーヴ、ダルクの他に、どのフランス女優と私が恋人役を演じられるというのか?」とアランは言っている。また、この映画には、駆け出しのフレデリック.ド.パスカルも出演した。フレデリック.ド.パスカルは、アデルプロの社長でもあるアランとの出会いに大変喜んだ。少なくとも、映画が公開されるまでは...。彼は語る。「 当時、私は、建築現場などで働いており、映画にはあまり出ていなかった。『 ジェフ 』の撮影に私を呼んだのはアランだった。彼は私に悪役を与えた。最初は端役だった。しかし撮影開始から数日後、ラッシュを見ていたアランは、大変感激し、脚本を書いたジャン.コーに私をストーリーの最初から最後まで出演させるように頼んだ。こうして私は、最後に彼を殺す役を得たのだった。この件に関しては、アランは本当に良くしてくれたと言える。」その証拠として、クランクアップの数日前には、アラン.ドロンがフレデリック.ド.パスカルにある提案をした。アランはフレデリックに才能を見出し、自分の事務所で彼をスターに仕立て上げたいと考えたのだ。 「 Artmedia を出るんだ。後は Georges Beaume が君を引き受けるよ。私の言うとおりにすれば、君はスターになれる。」とアランは、フレデリックに告げた。フレデリックは、スターという言葉に拒否反応を覚えた。「 私は別にスターになりたいとは思っていなかった。しかし、あまりアランには逆らわないようにした。彼に対しては、誰もあまり逆らってはならないのだ。さもないと、自分が馬鹿に仕立てられる。」1969年4月、映画公開から数日後、フレデリックは Chambiges 通りのアランの事務所に出向いた。事務所のドアには、アルブレヒト.デューラーのものと同じ形の A.D. のイニシャルが掲げられている。そのドア越しからはいつものようなタイプライターの音や、電話のベルは聞こえてこなかった。アランがいつものように紺ブレを着て、グレーのスラックスを穿いていたか、フレデリックは忘れてしまったが、しかし、その時のアランの異常に強張った表情だけは今でも忘れることができない。アランは映画「 ジェフ 」の悪評に腹を立てていた。ストーリーの対話から出演者に至るまで映画は、あらゆる雑誌で扱き下ろされていた。しかし、フレデリックに対する評価は少し違った。中でも、ヌーヴェル.オプセルヴァトゥール誌では、「 万能の俳優 」としてフレデリックは賞賛されていた。 フレデリックは、何故アランが今日、自分をこんなに冷たく迎えるのかわかった。彼を訪ねてきたフレデリックに対しアランは、「 何の用だ?欲しかったものがこうして紙に現れたんだろう?さあ帰ってくれ。君は大の大人なんだから自分でキャリアを築けるはずだ。」フレデリックには驚きが隠せなかった。アランの反応がわからなかった。アランはフレデリックが批評家たちを丸め込んだと思っているのだ。批評家などフレデリックが一人も知るはずがないのに。その後、何週間か、フレデリックは電話や手紙でアランに説明を求めた。しかし、返ってくるのは沈黙と侮辱だけであった。フレデリックが人間不信に陥った瞬間であった。今では田舎でゆったりとした生活を楽しむ彼だが、いまだにアランの行動が理解できない。 - information from " Les mysteres Delon " -  

  • ナタリーは、1962年当時、カサブランカの Roches Noire という町にある映画館「 Roxy 」のキャッシャーをしていたらしい。

  • アランは、映画「 冒険者たち 」のレティーシア役にナタリーを起用して欲しかったらしい。  - information from Joanna Shimkus -

  • 周囲が期待したように、アランとナタリーの関係は、1964年春に正式なものとなった。婚約パーティーは、アンティーヴのナイトクラブ、ラフィエアスタの浜辺で盛大に行われた。ドロンにとっては格好の場所で、ナタリーと水遊びやボートをする以外にも、一人でパラセイリングに挑戦したりもした。この社交パーティーにはパリの有名人が続々と集まった。 パーティーから4ヵ月後の1964年8月13日、彼らはある役場でひっそりと結婚式を挙げた。フランソワマルカントー二は、この挙式に呼ばれた数少ない人物の一人だった。この秘密の式が意味するものは何だろうか?彼らの友人たちは、長い間、式は翌年の秋、アメリカで行われるものだと聞かされていた。秘密はナタリーが妊娠8ヵ月だったことにあった。このことがマスコミに知られれば、大変な騒ぎになるに違いなかったのだ。ある記者は、「こうして、北アフリカ出身のスターの卵は、ロミーシュナイダーとドロンとの別れの後、多くの美女たちが物欲しげに見ていた地位を手に入れた」と書いている。 また、アランがこの結婚によって変わるのかどうか疑問視していた者もいる。友人のパスカルジャルダンにとっては、この結婚はショックだった。「彼がナタリーと結婚した時、私は、彼らがあまりにも似ていることに驚いた。彼はもう一人の自分を見つけたのだ。彼女は彼が女になったようなものだった。 彼女は彼の恋人でありながら、同時に妹のようでもあった。」式が終わるや否やアランは、ロンドンに飛んで、「黄色いロールスロイス」の撮影をした。 - information from Les mysteres Delon -

  • 1964年、アランドロンはベルモンドがフランス一位になったことに苛立っていた。ヘラルドトリビューンのインタビューに彼は次のように答えたという。「アメリカや日本で有名なのはこの私だ。それに、アメリカ人は私を必要としている。 彼らは世界市場の47%を一国だけでシェアしているが、私が行けば、残りの53%も彼らのものになるだろう!アメリカでは、良い映画を製作するためのノウハウが整っている。フランスでは、時々赤字を出すようなアマチュアしかいない。私のような自立した俳優はフランスでは嫌われるのだ。 私は俳優同士の集まりにも参加しない。」彼のこの発言は、本心だったのか、それとも新聞社の罠だったのだろうか。とにかくこの発言はフランスのマスコミで大騒ぎとなり、取り沙汰された。この記事が報道された時、アランドロンはロンドンにいた。当然のこととして、彼はこのような過激な内容に驚いた。 そして、友人のアドヴァイスに従い、新聞社を告訴することにした。まずは、ヘラルドトリビューン社の社長宛てにテレグラムを送り、断固としてこのようなインタビュー受けていないと主張した。その後は、フランスのフィガロの社長に宛てて、祖国フランスや友人ベルモンドに対してこのような過激な発言は決してしていない、と送った。 やがて彼は、家族同伴で、自家用車のフェラーリと愛犬のグレートデンの「ブレンド」とともに、15個のスーツケースを携えてアメリカに上陸する。アメリカでは、彼の発言に関する記事は、どちらかというと好感を呼んでいた。 人々は、ドロンが実際に発言したかどうかは別としても、同じ内容を考えぐらいはしただろうと思っていた。 彼は、アメリカでは「太陽がいっぱい」以来、フランスで最もロマンチストな俳優として知られていた。この「フランス版ジェームズディーン」を歓迎するため、アメリカの大物プロデューサーEddie Fisherはハリウッドのセレブがこぞって集まるパーティーを催した。 長男が生まれた数日後、アランはハリウッド第一作目の撮影に入った。プロダクションからは豪華な別荘があてがわれていた。また、ナタリーが出産する際に、ドロンが冷静さを保てるようにと、現場のスタッフたちも大変気を遣っていた。 しかし、この映画はヒットせずフランスでもアメリカでも失敗に終わった。「あんなへぼなシナリオと、気まぐれな監督では、アランドロンに才気を発揮しろと言っても無理だ。」とある批評家は書いている。 そんな中、ドロン夫妻にとっての息抜きとなったのは、ある作家に付き添って行ったメキシコ、アカプルコでの滞在だった。滞在場所には、フランスから、ブリジットバルドーやジャンヌモローらがロケで来ており、夜には彼らと合流し、お祭り騒ぎとなった。 ドロン夫妻のヴィラは、ブリジットのヴィラに接していた。ハリウッドへ戻ると、Reader the Tiger のプロジェクトが取りやめになったことで、アランはMGM を激しく非難した。このことで、アメリカの大手映画会社と彼の関係が悪くなる。 そしてこの知らせを聞いたフランスの事務所でも、アランドロンはアメリカではうまく行かないのではないか、と噂され始めた。しかし、このような対立にも関わらず、ハリウッドでの私生活は彼にとって何にも勝るものだった。 アンソニーと一緒にいる時間をたくさんとり、ナイトクラブへはたまに顔を出すくらいだった。 また、彼はその頃、撮影でスペインにも行っているが、この映画の撮影中には、珍妙な事件があった。ドロンがアルメリア裁判所に呼び出されたのだ。 法廷で、彼は、町の闘牛所の入り口で入場を拒否されて喧嘩騒ぎを起こしたいきさつの説明を求められた( 闘牛の開始時間に遅れて到着した彼に、係員が次の闘牛を待つように伝えたが、そこで徴発され喧嘩になった。というものだった。)この一件は、このロケの二つの嫌な思い出のうちの一つとなった。 もう一つの嫌な思い出とは、美容整形手術に関する噂をたてられたことだ。ドロンは数年来、「 水差しの取っ手 」のようだと時々友人に言われる自分の耳にコンプレックスを抱いていた。これまで彼は、この生まれつきの欠点を髪で上手く隠してきた。しかし、この撮影で髪を刈ったのをきっかけに、彼はこの欠点を改善したいと考えた。彼が美容整形を受けたというのは全く事実に反するのだが、様々なメディアが書きたてた。 ドロンは、こういった噂は真っ向から否定する か、全く相手にしないかのどちらかだった。- information from Les mysteres Delon -

 

  • ( Alain with his beloved wife Nathalie)

  • ナタリーとの離婚以来、彼は自分の殻に閉じこもっていた。ミレイユに出会うまで。その後、ミレーユは彼にとってなくてはならない人となり、彼女との生活を守るため、彼はquai Kennedy の砦へ引っ越した。また、ミレーユと一緒に過ごすため、田舎の家も建てた。このドゥーシーの家の工事は、ミレーユが指揮をすることになった。アランとミレーユの隠れ家。 そして、アランの愛息アントニーも。ミレーユは、溢れるやさしさをもって、彼の第二の母になっただけでなく、かけがえのない友となった。女性の力は男性の領域を超えている。 以前は、ブルージーンズに、タバコとウイスキーを片手に、夜をさ迷い歩いては、女性をものにしていた彼。ミレーユなしでは、こう変わらなかっただろう。ドロンがこの家を造ったのは、幼少の頃から思い描いていた王国を作るためであった。 プレイルームに、ハプスブルク家のお城に見られるような武器庫、また、100近くもの銃や、カービン、ピストル、剣なども壁にかけられている。この荒らしい冬の景色の中、ここに暮らすアランとミレーユは、もはやスターというよりは、その日その日を生きる幸せなカップルといえる。

    ... to be continued

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