UNKNOWN INFORMATION ( アランドロン関連何でも落書き ) ー 敬称略 −
既にご存知の情報でしたら御免なさい!( 新着情報が入り次第どんどん追加いたします )
( The residence gate of Alain Delon in Douchy )
ドロンは、モミの森の中にある大きな敷地の真ん中で暮らしている。そよ風が柔らかく吹き渡る。彼は一人この場所で目を閉じて、過ぎてはしまったが失われてはいない過去のことを思う。人を寄せ付けないこの敷地の中で、花の咲きほこる植え込みの影に、たった一人でいる。ロワレ県の片田舎のほとんど僻地にある56ヘクタールほどのこの敷地が、赤レンガの壁に取り囲まれ木々に覆われたこの土地が、錬鉄柵を介してパリから133キロ離れた県道脇に通じている。彼は、この地所とその真ん中にずっと前から建っていた巨大な建物を買ったのだった。右側にある管理人の家を過ぎると、踏み固められた土の道が果てしない下草や木漏れ日の中を蛇行しながら続いている。その道は人工的に造られた池の脇を通る。並木の中を、道は、景色の中をうねうねと縫っていく。1999年のクリスマスに森を根こそぎかきむしった大嵐のせいで、400本の木が打ち倒されたが、そのうち幾つかはまだ横になったままだ。白と褐色の馬も6頭おり、蓄殺場を逃れ、のんびりと牧草を食べながら穏やかな余生を過ごしている。彼らはもう人に乗られることはない。白鷺がアヒルの池の中を動き回っている。そして果てしなく続く道は高台にとどく前に、地平線の中に消えてしまう。土地の真ん中には、動物の堅牢な彫刻像に縁どられ、近代的で優雅な農家風の建物に周りを囲まれた長細いプール。これらの家屋は築30年だ。このうちの一つには発電装置が収容されている。このような建物が建てられる前、この辺りは谷の多い陰鬱で寂しげな平原で、真ん中にハーフティンバーとチャペルを構えたルイ.フィリップ時代様式の赤レンガ製3階建ての大きな城があった。この頃、ドロンは、ミレーユ.ダルクと暮らして2年になっていた。ヘルメットのような髪型、中性的な体つきの彼女は、その10年間のフランス映画のキャリアで、自由な女性、解放された女性という生意気で白熱した人間を演じていた。彼女は既に 「 恋するガリア 」 や 「 太陽のサレーヌ 」 に出演し、みずみずしい勝手気ままさを兼ねた陽気な無頓着さをお馴染みとしていた。アランと彼女が本当に出会ったのは少し前だったが、実際には何年か前にも2回ほどすれ違っていた。最初は、ミレーユが、「 Bons Vivants 」 のエピソードを撮っていたサン.モーリスのスタジオでだった。隣のスタジオセットで仕事をしていたコケティッシュなアランは、彼女に話しに来た。ジョルジュ.ロートネルの製作クルーの誰もが、そのことでミレーユをからかって楽しんだ。しかし、事はそれ以上進展しなかった。 その後彼らは、パリを抜けてスペインへ行く飛行機の中で再会していた。彼女は、そこで 「 Barbouze cherie 」 の撮影があり、彼は、「 名誉と栄光のためでなく 」 の撮影があった。彼らは、フライトの間じゅう話をした。ミレーユは現地に着くと、彼が彼女を見つけたりしないようホテルを変えた。「 彼が、少し恐かったから 」と、今彼女は言う。「 私は、彼が度を越していると思った。いや、それ以上。何もかも。美形すぎるし、強すぎるし、男らしすぎる。だから彼から逃げようとしたのです 」 こうして、この時もやはり事は、それ以上進展することがなく、互いがそれぞれの映画を終えた。スペインで会おうという計画は実現されなかった。彼女は、数年後、パリで彼とまたすれ違った。ちょうど1968年の5月革命のせいで、アランが、ジャン.コーが彼のために書いた戯曲 「 Yeux creves 」 の公演を中止しなければならなかった時だ。レイモン.ルーロー監督下で、彼は、引退したホモのレーシングドライバーの男めかけ Dino という役を演じていた。Curd Jurgens 扮する険しく冷たいレーシングドライバーは、マリー.ベル扮するコカイン中毒の億万長者と結婚していたが、彼女は、夫の情夫を自分のものにしようと狙っていた。上演は複雑を極めた。公演を守り、不安でいっぱいのマリーを安心させるために、アランは、「 ベテューヌの冷血漢 」 を含む15人のプロレスラーを雇った。しかし、開幕から一ヶ月、23回目の公演が終わると、1968年4月上旬にジムナーズ座は閉鎖した。アランは、憂鬱の時を過ごした、一方、その頃、彼に出会った喜びを確信したミレーユは、彼に電話をしていた。「彼を探していたわけではないけれど、彼に惹かれていた 」 と、彼女は何度か言った。彼女は、こうして、弱気な時を過ごしていた彼に好意と信頼を示し、再び活力を与えた。彼女は、その頃、イタリアで、ケン.アナキン監督、プールヴィル共演のアメリカコメディーを長いプリーツスカート姿で撮る予定があった。1927年のモナコ自動車ラリーを描いた映画「 モンテカルロラリー 」 だ。頭というよりは感情に身を任せて、アランはイタリアまで彼女に会いに行った。そして、今度は、事は進展した。彼は彼女と現地に滞在した後、「 太陽が知っている 」 のロケ先であるサントロペに行った。撮影を終えたミレーユも、サントロペまで彼に会いに行き、以来、彼らはずっと離れずに、撮影後パリに遠回りをしながら一緒に帰った。彼らは一緒に暮らすことにした。Douchy を購入したばかりだったので、ミレーユが、邸宅の建築長となった。彼女は、ブルドーザーを運転し、古い城やチャペルを取り壊し、壁を倒し、土をかき混ぜ、池を掘り、縁の領域を構想し、新しい屋敷の設計図を描き、映画アシスタントの一人である Lolo に手伝ってもらいながら、最初から最後まで工事を指揮した。「 私が全てコーディネートしたんですよ。全部気に入っています。アランは、私を全面的に信頼して任せてくれたから、私は構築して建てたんです 」 工事に専念しながら、手をセメントに突っ込むミレーユは、こうしてアランとずっと一緒にいた。「 私達は、ちょっと変わった雰囲気の中で生活していたんです。マルコビッチ事件は最高潮に達していたし、アランの周りには常に警察官がつきまとっていました。彼が一歩踏み出すごとに長い行列がついてまわって、いつも後をつけられ、監視されていました 」 Douchy の工事を一時中断し、アランは、自らプロデュースした 「 ジェフ 」 の撮影なためにアントワープとブリュージュに発った。ミレーユは、彼女がイタリアでジャン.マリア.ヴォロンテと撮った映画 「 枯葉の街 」 の宣伝ツアーでヨーロッパ中を駆け回っていたが、アランは、彼女に 「 ジェフ 」 の Eva 役を提案した。彼女は、それに OK し、当然のように彼とベルギーへ発った。「 私の人生のこの時期を思う時、私はこの頃、とっても強く激しい何かを生きていたのだという気がします。私達が乗り越えた試練が、二人をより強い絆で結ばせてくれました。まるで溶接でくっつけられたといってもいいみたいに。私は、彼を愛し、この人生において、俳優だとは感じさせないひとりの男性と暮らしました。アランとは、俳優としての存在を分かち合うと感じた事は、一度もありませんでした。俳優カップルなどと呼ばれないように、私達はいつでもできる限りをしてきたのですから 」 アランとミレーユが出会ったとき、彼らには映画界での共通点が全くなかった。監督も共演者も違っていた。少なくとも 1968年までは。彼らの唯一の橋渡しは、二人のかつてのせりふ作家ミシェル.オーディアールだった。彼女を指導したり、助言をささやいたりはしないアランのもとで、ミレーユは、今までよりも重みを増した役を演じる。「 ジェフ 」 での彼女は、ロマンチック極まりない風景の中で、盗賊団のボスである愛人の帰りを待つ女を演じたのだ。共謀者たちは、ボスが仲間の前になかなか姿を現さないため、彼が、宝飾品のつまったトランクを持って逃げたのではないかと疑っていた。彼女が話すたびに、寒さで白い息が口から出た。そして、今までスクリーンではなかなか泣くことが出来なかった彼女が、全てのシーンにおいて、ささやくような声と押し殺したような調子で、いつでもすぐにむせび泣くことができるかのように見えた。それまでの映画の彼女は、笑い好きなひょうきん者だったが、ここにきて突然、堅く無口な人間となった。 家の工事が終わると彼らは quai Kennedy のアパルトマンを出て、Douchy へと住み移った。彼らの玄関先のマットで寝泊りしていた世界中からやってきた少女たちをそこに残して。「 私が、アランの中で一番好きなのは、絶対にごまかしたりしないというところ、だから、彼の周りの人間はいつでも、自分たちが彼の人生の重要な位置にいるのだと感じることが出来たのです。私の目に彼は強く、そして繊細に写りました。そして、私は彼のように強く繊細な男性が私を必要としてくれているのが幸せでした。私は彼に安定感と、バランス、そして活力を与えることができたと思います 」 誰もがミレーユの活力を知っている。彼女が旧姓 Aigroz で、あるシナリオを書き下ろした時、それをもとにアランが 「 栗色のマッドレー 」 の製作を企画したのだが、当初は、彼女がアガート役を演じるはずではなかった。「 アランが私にその役を演じるよう望んだので、ぶっつけ本番で出演しました 」 ミレーユはアランと人生の14年という年月を共に過ごした。「 私達は、1982年に別れました。彼が突然決めたのです。でも、私達は、実際には離れなかったのです。腹を立てあっていたわけでもありません。ひどい言葉を掛け合った事など一度もありませんでした。私は、彼と一緒にいられない日が来るなどと想像もしていませんでしたので、とても辛かったです。死が二人を分かつまで彼と一緒にいられると思っていたのです。でも別の展開になりました。それを後悔してはいけないし、私は後悔していません 」 実は、アランは、Olivier Dassault を介してアンヌ.パリローに出会ったのだった。テストの後、彼は 「 危険なささやき 」 に彼女を起用していた。そして、その撮影中に彼は彼女に首ったけになってしまった。「 突如とした激しい一目惚れでした。なんとか抑えようとしても、できませんでした。理性が気持ちと闘いましたが、気持ちのほうが勝ってしまい、私はその感情がなくなってしまうのを待ちましたが、その感情は消えませんでした 」。 アランとアンヌは3年間一緒に暮らした。 - from Albin Michel alain delon, I'insoumis -
( 正面から撮影したドロンのアパルトマン 1988年10月23日撮影 )
ドロンは、「 エアポート79 」 で、シルヴィア.クリステルと共演。彼女は、「 エマニエル夫人 」 で一躍有名になった女優である。アラン.ドロンは、「 彼女は、私のスチュワーデスであり、以前の恋人であり、私たちは情事を重ねあうのです」 とおどけた調子で、コンコルドを訪れる記者に彼女を紹介し、「最初のシーンは、これまでのコンコルドの撮影ではなかったような 『 セクシー 』 なものを彼女と撮ります。でも、シルヴィアは腰までしか脱ぎませんがね…」 と付け加えた。アランは、共演者であるクリステルのあまりの美しさに戸惑っていた。また、彼女の方でも、共演者のアランの青いまなざしに参ってしまっていた。後年彼女は、その頃のことをこう回想している。「彼に始めて会ったのは、彼のパリのアパルトマンで写真撮影をした時でした。アランは、魅力的で、優しく、気が利き、大変心をそそられました。それから数日後、彼と別のパーティーで会いましたが、私たちは、アルコールも入っていたこともあって、たくさん笑って話して楽しみました。私は、まさに彼のとりこでしたよ。その後、ロケでロスアンゼルスに彼と赴きましたが、そこでの彼は、まったく違っていて、俳優としての集中力で信じられないほど全神経を仕事に注いでいました。全くの完璧主義者です。いつでも時間に正確で、楽屋では英語の台詞を何度も何度も練習していました。彼のようなプロと一緒に仕事が出来たことは、私にとって、光栄なことでしたね 」 私的な部分に関しては、クリステルは、少し返事を濁している。「 彼をもっと知りたかったのですが、彼は、役に集中しているし、彼に近づくことは難しかったです。彼にとって私は、『 狂った娘 』 でしかなかったのでしょう 」。
( ボワイアー砦、painted by Minako )
「 Dancing Machine 」 の公開以来、アラン.ドロンは、記者や評論家たちの標的になっている。職業的な批判ではない。とても辛辣なプライベートへの攻撃で、彼を圧殺している。その執拗さは、単なる芸術上の客観的な批評を超え、彼の友人であることを公然と自慢している者までもが、この悪評騒ぎに荷担し論争を盛り上げている。投げやりなドロン、狂ってしまったドロン、バンカーに閉じこもるドロンなど。「 私は、人々が私の映画を気に入らなかったことはわかります。でも、なぜこんなに激しく攻撃するのでしょうか?」 彼は、人を魅了もするが、いらいらもさせる。男は、彼を尊敬し嫉妬する。女は、彼に密やかに恋をし、自分だけのものにしたい。事実、今日一番辛辣な言葉を吐く記者は女性記者たちだ。孤独な狼ドロンは、役者としてではなく、男として裁かれ、やつれては、自分の巣穴に帰ってしまった。彼が「 秘められた園 」と呼ぶ、人間としての生活に。彼は言う 「 あなたがたは、私の人生の公的な部分、氷山の一角しかしらない。でも四分の三は、隠れているんですよ。恋愛? 私は、情熱を押し殺したことはありません。女性は、自分がしたいことを私にすればいい。その瞬間が、私の唯一のくつろげる時なのです 」 - from the article by Marc Deriez -
1959年、映画 「 太陽がいっぱい 」 の撮影では、イタリアでロケが行われることになった。そのロケ期間中、ロミーは、数日間アランに会いに来た。その間、彼女は、監督ルネ.クレマンに頼まれ、この映画に飛び入り出演するという経験もしている。こうして短いながらも、彼女は、Maurice Ronet と Billy Kearns と一緒にこの映画の冒頭に写っている。一方、アランも、監督から絶賛されていた。困難を極めた海上撮影では、危うく海に呑み込まれそうになったこともあったが、直感に任せ、監督が思い描いた通りのシーンを撮影できた。パリで上映された 「 太陽がいっぱい 」 は、クレマン監督の最高傑作とされた。そして、観客にとっても、批評家にとっても、ドロンは非凡な俳優となった。映画の成功は、国内にとどまらず、世界的なレベルまで達し、日本では早くもドロンは有名になりつつあった。ドロンは、思い出す。「 プレミアの後、大切な人から電報があった。そこには、『 君は、今やスターとなったのだ 』 とあった 」 彼の出演料は、一年足らずの間 ( 1959年6月〜1960年1月 )に、2百万フランから、3千5万フランに上昇した。たった、2年のキャリアで、これほどの成功を収めることは、フランス映画史上かつてなかったことである。
( ドロンのお気に入りのポスター )
( Delon at his office in New York )
1964年、アランは、至る所で賛辞を浴びる大スターとなっていた。そして、良い役を演じるだけでは飽き足らず、映画をプロデュースしたいと考えていた。Georges Beaume と共同で、映画製作会社 「 デルボー.プロダクション 」 を設立したのは、この頃であった。デルボーの名前は、ドロンとボームの名前を併せたものだ。こうして第一作目の 「 さすらいの狼 」 の撮影が、2月の最終週にはじまったが、山中でのシーンを撮影した際、アランは、怪我をしてしまった。爆破シーンで、バランスを失い、石だらけの勾配で、転倒し、直ちに病院に運ばれたのだ。骨折が心配されていたが、診断の結果は、血腫と打撲だった。夜にはホテルに戻ることが出来たが、撮影は一時中断となった。この映画は、呪われているのだろうか、この転倒の前にも、アランは、パリ近郊での撮影の際に親指を切っている。当時フィガロ誌の記者だったベルナール.ピヴォは、その時のことを覚えており、後年、フランス2チャンネルの自分の番組にドロンを招いた際、「 大道具係が、本物のガラスと偽のガラスを交換するのを忘れていたため、あなたは指を切られましたよね。あの時、あなたは、そのことで文句も言わず、誰かを責めたりもしなかった」 と、ドロンの冷静さに賛辞を送っている。一方、この映画の監督、アラン.カヴァリエは、ベルナール.ピヴォのこの言葉に必ずしも賛成ではないようだ。彼にとってアランは、気難しい俳優だった。「 監督を務めた私にとって、アランとの撮影は、まさに暴れ馬のロデオのようなものだった。繊細に調教するのではない。馬が、ついに疲れて暴走を止め、私と共に歩むのを受け入れるまで鞍にしっかりつかまっているのだ 」。
ドロンの義父、ポール.ブローニュは、16人もの従業員を雇う大きな肉屋を経営していた。
ドロンは16歳の時、自転車競技に夢中になり、毎週日曜日に自転車競技場へ通った。そして、ある日、ヨーロッパやアメリカのチャンピオン達の自転車を運ぶという役目に恵まれた。アランは、長い間、町のショーウインドーに飾られた自転車に釘付けになっていた。彼は、今でもその金額を覚えている。1万1千フランであった。( from Les mysteres Delon )
ドロンは、本を読む。日本語やロシア語で彼について書かれた本に微笑む。そして室内同様、犬たちを連れずには庭に一歩たりとも出ることはない。「 私は、孤独が好きです。強がっているわけではありません。それは、私の美徳でも何でもなく、私の性質なのです 」 Douchy は、あらゆる意味において彼の秘められた園である。彼が大切にする園。最も明るく最も暗い人生の時を過ごした園である。「 私は、休暇はとりませんが、家に戻り、鉄柵を一歩越えると、全てを忘れてのんびりできます。」 走り回るような人生を過ごした後、アランは、キャリアに気をもむことをやめた。心の傷を田舎で癒すことに専念する今の彼は、一瞬一瞬の至上の価値にしか興味がない。邸宅に引きこもり、彼は、毎日新たな価値を見出す。
( Delon and Maria Schneider in "Madly" )
アラン.ドロンの初恋の相手の名前は、レーヌ。ファーストキスは異様な感じがした。「 道徳罪を犯しているような気がした。その思いから解放されるのに10年かかった」 と彼は、述べている。
( Delon's Family )
大成功した「 Pour la peau d'un flic 」 ( 300万人以上を動員 ) から12ヶ月。アラン.ドロンは、監督として2作目の 「 Le Battant 」 を撮り終えようとしている。彼はまた、プロデューサーでもあり、スターでもある。この新しい 「 刑事もの 」 でも、アラン.ドロンは、1作目の成功の鍵でもあったお気に入りの素材を取り入れている。「 危うさとリスク、冒険とセクシーさ、これらが理想的にちりばめられています。」と彼は、1作目の当時語っていた。そして、新作はまさにそれなのだ。彼は、監督として限界まで挑戦した。周りを顧みないでしたため、スターたちにとっては辛いものであったが。彼は言う 「 映画監督は、私のキャリアのたまものです。私が恵まれているのは、独立して、アクションが自由にできることです。製作の自由も必要でした。私はどんな形であれ、エンターテイメントが好きです。」この映画には期待の新人であるアンヌ.パリローも出演している。彼女は、アラン.ドロンがチャンスを与えた女優の一人である。アラン.ドロンは、自分自身に与えられたチャンスも忘れたことがない。しかし、彼は、自分は、チャンスを受けるに値するとも思っている。ずっと前から、彼は、猛烈に仕事をすれば、頂点に立てると分かっていたのだった。彼は、全てを乗り越えた。妬み、非難、嫉妬、人生や成功に仕掛けられた罠。彼は、人生においても仕事においても挑戦に挑むのが好きだった。ボクシングの試合を開催したり、ヘリコプターの会社を設立したり、家具や香水の工場を作ったりなど、プロデューサーや俳優以外にも色々なことに挑戦している。映画と同じだけの情熱とエネルギーを注ぎ込んで。彼にとっての不幸は、フランスであまり成功しないということだ。アメリカでは、アラン.ドロンは、フランク.シナトラやエルビス.プレスリー並みの俳優である。しかも今、日本では、ドロンはまさに神とみなされている。しかし、我国では、なんと、彼はいつでも非難の的になっているのだ。フランス映画界のいわゆる 「 代表 」 というような人たちからは、彼はことごとく無視されている。カンヌでの賛辞もなければ、セザール賞へのノミネートさえないのだ。観客は、彼が大好きだというのに!彼が頂点に立ってからというもの、中傷者は絶えない。彼らしさを人に認めさせるのがどれほど難しいかをほのめかした彼の言葉がある。「 私は、容姿端麗で、富もあり、有名でもあります。しかし、好かれるには、癌にでもなるしかないですね!」 この不況の時代に、アラン.ドロンは、自らの会社の舵をとり、フランス映画産業を動かしている。ドゴール将軍は、ブリジット.バルドーは、ルノー社よりも多くのお金をフランスにもたらしていると言っていた。今では、他のスーパースターたちが彼女の後を継ぎ、フランス経済に活気をもたらしているのだ。これはまた、アラン.ドロンの挑戦の一つでもある。映画は産業だ。不況の中では、投資しないものは、どんどん後退していく。本来ならば、アラン.ドロンは、自分の財産を良いレートで銀行に預けただけで悠々と暮らしていける。映画界を大物として離れ、人に羨ましがられながら。しかし、それをする代わりに彼は、毎回プロデューサーとして自作に登場する。つまり、自分の映画に出資しているのだ。この映画界の冒険に彼は、毎回巨額な資金を投資している。失敗すれば大変な事になると彼は知っている。これも彼の挑戦の一つなのだ。一人の男の挑戦であり、国の挑戦でもある。近年のフランス映画、「 Pour la peau d'um flic 」 や 「 Le professeur 」 などは、アメリカ映画に格段に優る。数年前までは考えられなかったことだ。フランスは、アラン.ドロンについて行けば、もっと認められる。彼は再び 「 Le Battant 」 という名の一歩を踏み出す。
ブリジット.オベールは、アランの両親の良き友人であった。彼女は、アランの母を 「 ムネット 」、義父を 「 ポポール 」 と呼んで親しく付き合った。彼女は、アランの義父を、世界で最も素晴らしい男性の一人であるとしている。「 ポポールは、いつでもムネットの尻にしかれているのよ。ムネットがすべてを犠牲にしてまで息子を愛し育てるのを、黙って見ているだけなの 」。
( Delon in Frank Riva with Mireille ) - from Miss.Karina
大きなステーションワゴンを運転して、私は子供たちと、犬、猫、バービー人形やプラモデルをフランスでのヴァカンスに乗せていく。彼と私を離している最後の300km。アムステルダムから Douchy までの道のりは長い。早くヴァカンスになればいいのに! 夏、一番美しい時、二ヶ月の間、私たちは離れずに一緒に過ごすのだ。突然、携帯電話が鳴る。 「 Paris Match の Didier Rapaud です。Alain がこんなことになるなんて 」 私は仰天した。彼は付け加えた。 「 通信社が私に、Alain Delon がスイスの自動車事故で死亡したらしいと言ってきたのだけれど 」 こんな瞬間、女の頭の中では何が起こるか? 人生が、ものすごいスピードで頭の中を駆け巡る。二度の出産、いくつかの喧嘩、誤解、晴れの日、溢れる愛情、夫婦生活。私は彼が私たちを待っているはずの Douchy に電話してみた。つながらない。パニックと恐怖。子供には何も気付かれないようにし、少しアクセルを踏み込んだ。ヴァカンス、犬、猫の話をし、不吉な考えを消すために、ラジオのボリュームを少し上げたが、ラジオでニュースが流れるのではと不安になり、ラジオを切る。子供たちにとっては残酷すぎる。私はもう何もわからなくなっていた。エキストラにもなりたくないような映画の中を移動しているような錯覚に陥っていた。 B 級映画。悪夢。ちょうどその頃、Douchy では、電話がひっきりなしに鳴っていた。......................2000年7月19日は私にとって、暗い水曜日となった。私は、Douchy の自宅に一人、犬と共にいたが、夜9時、電話が何度も執拗に鳴り始めた。こんな遅い時間に鳴るのは珍しい。普段は、数少ない親友たちだけがかけてくるからだ。もしかしたら、私のパリのアパルトマンの警報か、警察の防犯センターによるものかもしれない。この邸宅を管理している夫婦が電話を選別する。スイスやパリなど各地からの電話らしい。私は好きな人たちのことを思った。誰か私の好きな有名重要人物が亡くなったのかと思った。最悪の事を考えた。何処に何が起こるか分からない。私は管理人たちにテレビニュースを見たかどうか聞いてみた。彼らは見たが、特に有名人の死亡報告はなかったという。また電話が鳴る。今度は、管理人がこう言った。 「 サン.トロペからお友達です。あなたが自動車事故で死亡したと聞いたそうですよ 」 私は答えた。 「 もし今度、そういう電話が来たら、こう言ってください。私は元気に生きていると 」 突然、全てが動転する。なんてことだ。ドロンの交通事故。三人のドロンが車で移動中じゃないか! 妻と子供たち。Rosalie、Anouchka、Alain-Fabien が。彼らは Douchy
( Delon with Catherine Information by Mr. Okamoto )
( Delon with his pet's dog )
ドロンの最も深い心の傷は、両親の離婚であると彼は言っている。 ( 2002年のドロンの発言より )
アランの実の父との外出は、木曜日と決まっていた。モンパルナスの映画館。しかし、彼にとってのスターは、どちらかというとボクサー達だった。1949年、敬愛するフランスチャンピオン Marcel Cerdan が、アメリカへ移動中の飛行機が墜落した。アランは、この訃報を祖母から聞いた。「 次の日、学校では、生徒も先生もみんな泣いていました。フランスじゅうが泣いたのです。彼の国葬が決まったくらいです。」と彼は、語る。この深い悲しみには、また思いがけない展開が待っていた。同じ飛行機事故の別の犠牲者、有名なヴァイオリニストの Ginette Neveu の死を彼が悼まなかったために、祖母から平手打ちを食らったのだ。「 祖母が、そのヴァイオリニストの死を悲しんでいるところへ、私が 『 そんなヴァイオリニストなんてどうでもいいよ。Marcel Cerdan が死んだんだよ、わかっているの? 』 と言った。そこへ、ピシャリとやられた。こうして当時、天才ヴァイオリニストや大演奏家について何も知らなかった私は、Ginette Neveu が何者であるかを初めて知ったのだった。彼女は、Marcel Cerdan と同じ飛行機に乗っていたのだ 」。
( Delon with Miss. Kurara Haruka at living room of Delon's apartment in Paris in 1986 )
( Delon with Mireille at Aix-En-Provence Villa )
( Delon with C.C and Lauren Bacall at his favorite reataurant in Paris on March 2nd in 1996 )
( Alain with Claudine Auger )
ドロンが、一番恐れていることは、老いることではなく、不能、身体の衰え、寝たきりになることらしい。 ( 2002年のドロンの発言より )
ナタリー.ドロンは、フランス映画界で主役となるのに、大して時間を必要としなかった。1967年11月の 「 サムライ 」 のギャラは、旧フランで3百万フラン。また、「 個人教授 」 では、1千万フランを稼いでいる。また、彼女の国際的キャリアの原点ともなるであろう 「 Fall Out ( 姉妹 ) 」 の撮影は、1月13日にシネシッタで始まったが、そのギャラは、旧フランで2千5百万フランと言われている。数字だけを見れば、圧倒されてしまう。しかし、これら数字は必ずしも的確に現実を反映しているわけではない。ナタリー.ドロンは、新人によくあるように、どんな役にでも飛びつくことはしない。役を断ることの方が、引き受ける回数よりも多いのだ。彼女は言う。「 始めは、ルックスが私の運のファクターでした。これは確かに必要な要素ですが、これだけで、全てが足りるわけではありません。スタジオの扉をくぐるのに、ルックスは助けとなってくれるかもしれませんが、スクリーンでは、ルックスだけでは認められないのです。ですから、そこに、選択のファクターという本質的な要素が加わります。自分の表現法、性格、気質を、演じなくてはならない人物と調和させることです。天才女優で、どんな役でも演じられるというなら話は別ですが、才能というものは、自分自身と役とのこの調和から生まれるものです。よく、輝かしいデビューの後に、有名なアイドルが自分に合わない歌のせいで、声を駄目にしてしまうことがあります。私も、自分に合わない役を引き受けていたらきっとキャリアを台無しにしてしまっていたでしょう 」 多くのスターの卵たちが、出世欲に駆られて、主役の座を保てるかもわからないまま、スクリーンへと駆け上がって行く中、ナタリー.ドロンは、待つということを心得ていた。彼女は、野心に燃えながらも、ただ身を立てるということよりは、成功することの方を重視していた。彼女のこの体験は、驚くべきことと言える。なぜなら、彼女は、闘うのに適した精神状態とは、とても言えない状況の中、成功していったからである。アランとの別れ、そして、彼らは離婚と、この世で一番大切なアンソニーを巡って、穏やかながらも争い状態にあった。しかし、シネシッタの街でナタリーは、スターとして両足をしっかりと地につけて暮らしているようだ。ヘアメイク係のマリエルと、ロンドンで三ヶ月間、彼女に、みっちりと英語を教えた英語教師でもある秘書のローズマリーに囲まれて。 - information from Jours de France N 737 1969 -
( Alain with Mireille at Douchy in 1980 )
子供が生まれる前は、ドロンは、懐古主義者であったと、彼自身言っています。子供が生まれた後は、子供たちのために、未来を向いていて、彼らには、ヴィスコンティやギャバンのことは、話さないそうです。 ( 2002年のドロンの発言より )
( Alain with Nathalie in 1960's )
( Delon with Nathalie and Anthony when Delon was shooting "La Veune Couderc" )
( The front door of Delon's former apartment in Paris on Oct 23rd 1988 )
( Delon at Pance Son Parfum in U.S.A )
Kiki とは、2年近く前からフランスとスイスで Alain Delon と同棲している Catherine Bleynie のことである。Catherine は美しく、金髪で、明朗だ。大スターである彼の人格に圧倒されず、自分自身であり続け、二人のバランスを保っている。Kiki こと Catherine に、Alain の新作、Jose Pinheiro 監督の 『 Parole de Flic 』 は捧げられている。「 今までとは全く違う Delon を引き出してくれた彼女にこの映画を捧げることにしたのです 」 と彼は言う。雑踏や噂から離れ、彼は Loiret 県 Douchy の邸宅に私を昼食に招いてくれた。『 Parole de Flic 』の話に入る前に、彼は、シャンパンを選び、三方が庭に面したガラス張りで、一方が夜になるとプールに開かれる見事なつくりのダイニングの巨大な暖炉の周りでせっせと動き回る。薪をかき混ぜ、厚い牛肉のリブを焼く。彼の所有地は55ヘクタール近くあり、森に囲まれた池と、木製の白い母屋 ( 室内プール、電子ゲームルーム、映写室、大きな調理室が備わっている ) の周りには6棟ほどの家がまとまっている。スピーカーがあちこち目立たないように置かれ、ロックやバイオリン音楽が流れる。我々は、この Paris Match の次のページでインタビューに登場する彼の好きな 『 人たち 』 について話す。彼は、この好きな 『 人たち 』 についての記事の編集長役を楽しんでいるようだ。「 私が Caroline 王女に書きたいのはこれです…。Eddy Michel や、私の友人 Prost にはこれを質問してください...。私の代子の Geraldine Danon については、彼女をただしゃべらせておくだけで十分です...。それから、Salat-Baroux 教授は、内容の濃い話で感動させてくれるでしょう...」 などなど。もてなしは続く。この俳優は王のようだ。シャンパンは良く冷え、太陽は Douchy に様々な影を投げかける。Chatherine は、テリーヌ、サラダ、最後にチーズを持ってくる。村で買ったフランボワジエ( ケーキ )。笑い声。本当に恨み言無しで、神は自らの地上体験をよみがえらせたのではないか、と思ってしまう。このようなエデンの園にこのようなカップルを生み出したのだから。そして、私たちは 『 Parole de Flic 』 について話す。1984年8月に映画が企画されると、Alain は、ジュネーヴで筋力トレーニングをし、撮影は今年の初め2月から4月に行われた。はじめはコンゴ( Kiki は彼に同行した ) で、次に今年特に冬の寒さが厳しかった Lyon、最後は Les Magrettes という Lyon の一地区をセットした Epinay のスタジオ ( Lyon 市長が現場での撮影を許可しなかったからだ ) でだった。6月には、100%映画製作に関わったAlain が、『 I don't know 』 というこの映画の主題歌を Phyllis Nelson と録音し、映画は7月半ばに完成した。途端に検閲からのブレーキがかかる。そして映画の宣伝の4秒間が13歳以下には禁止ということでカットされた。また映画自体も18歳未満には禁止される恐れがあった。Jack Lang は賢明にもこの勧告を延期した。 そして、8月半ば、パリや大都市に先駆けて、海水浴地の120都市で映画 「 Parole de Flic 」 が公開され、口コミで評判は広まった。 Deauville で映画が公開された最初の晩、ドロンは怖いもの見たさで、お忍びでカトリーヌと見に行った。そして、一般の列に並ぶつもりでいたが、結局気づかれ客席に案内された。映画が終わると観客は絶賛し、もう一度上映するというアナウンスが流れた。 その後、ドロンはレストラン Normandy で食事をしたが、レストランの給仕長がテーブルの上に電話を置き、アランは分刻みに120の都市での観客動員数を知らされた。 第一回の上映で20,000人が入った。すべてが動き出した。パリでも上手く行くはずだ。常にリスクを避けない Delon は、映画に登場する10箇所ほどの大きな滝でも演じきった。これらは正真正銘の滝だったので、撮影の最中、凍てつくローヌ川に飛び込んだ Delon が木の幹にしがみついた時、関係者はそれが演技ではなく本当に助けを求めているのかと思った。また、彼は子供の前でピエロを演じるシーンは、本物の幼稚園児に Pinder サーカス劇場でピエロを見せると言って撮影した。ピエロを見ていた観客は、ピエロ.オーギュストが Alain だとは全く知らされていなかった。私は彼が 「 良い子のみんな、こんばんは。今日は良い子でいたかな? うそつきはいるかな?」 と言って、ステージに上がったところを覚えている。ピエロの Alain は10回以上も作り物の鼻を落としそうになり、袖のカフスはくっつかず、カラフルなサスペンダーを何度も引き上げ、壊れた襟に息詰まりながら、「やめて、やめて、私はうそつきじゃないわ!」と叫ぶ小さな女の子の頬にキスを迫っていた。ショーの最後に、Alain は、サーカスのファイナルパレードをする。そしてかつらと偽鼻を取る。Delon だとみんなが分かった。Delon は、我々をあっといわせてくれた。舞台裏では、彼の親指から血が出ていた。ショーの最中に怪我をしたのだ。彼はおなじみの小型葉巻を吸っていた。技術者達が次のショーのための移動撮影装置のレールを敷いている間、彼はまるでオーディション後の役者の卵のように私に聞いた。20年のキャリアと72本の映画を撮った今、恐れるものがないはずの彼が。「 彼女は今朝、来れなかったんだ。今のシーン、彼女気に入るかな?」。もちろん彼女とは Kiki のことだ。この映画は、彼女のために作られたのだから。 - information from the article by Jacques Josselin from Paris Match 6 Sep 1985 -
( Alain Delon and Jean-Paul Belmondo - photo from Natacha )
( Delon in "Doucement Les Basses" in 1970 )
ドロンは携帯電話を5つ持っている。2つはスイス製、1つはフランス製、もう1つはイタリア製で、最後の1つは日本製の携帯電話だ。
( ミレーユのアランへの手紙 ) 「 カンボジアからの帰国が少し遅れました。私は、パリマッチでの、あなたの長いインタビューを見ました。あなたは言っています、『 私は、私と一緒になる一人の女性のことを夢みています。けれども、彼女はやって来ません。 』 私は、あなたが幸せではないと感じました。あなたが我慢できなくなった世界に目を開き、見るためのちょっとした努力をした遠い昔の何回かの朝のように。あなたは覚えていますか? そのような朝、あなたは全てに怒った、そして私は、あなたの代わりに電話に応じた。私があなたを助けたり、守ることが出来るたった一つの事でした。私は、あなたの幼い頃からあてがわれた、あなたの悲しみをとても良く分かります。そして、幼少時代からの苦難を完全に克服することは不可能なことです。夜になると、あなたは少し機嫌がよくなった。そして、話をしたがった。私は、あなたに、いつも同じ言葉を繰り返しました。 「 私の愛は、 演技ではありません。あなたは、ここにいる。私も、ここにいる。アンソニーは、宝物。人生は偉大。全ての人々は、あなたと同じ。あなたは、成功した。そして、あなたは、美しい、分別がある、賢い、勇ましい..... 今日、私は、あなたを元気ずけるために、別の言葉を探している今でさえ、私は、あなたの子供たちは宝物、そして彼らには、成長する為に、未だにあなたが必要です。と繰り返したいです。私は、別の言葉を探しています。というのは、月日が過ぎ、人が 年齢を重ねると、人は、本質的な事のみを記憶する事を学ぶからです。子供たちの次に本質的な事は、あなたの才能は、損なわれていないということです。アラン、それは無傷で、そのままです。最近、あなたは、それを舞台で証明しました。他の本質的な事は、あなたが、全世界の大勢の人々を、賞賛と愛情に目覚めさせるということです。あなたは、それら両方に値します。何故なら、あなたは、苦難をもろともせず、決して弱くなく、決して不満を言わないからです。あなたが、一つの人生を面白半分に、決定的に越えた。けれど、それはまた、牢獄とは無関係であったとあなたがいつも言うこの孤独以前に、誇らしげに、堂々と越えたことを私は見た。実際に、どこへでも現れ、人々は、私たちの為に、どれほど、あなたを愛し、評価するかを言う為に、あなたに直ぐに拍手を送る。けれども、祭りが終わると、あなたは孤独を感じ、あなたの犬たちに囲まれる。私が、あなたが跪いたと想えることは、私たちが、お互いに知り合い、愛し合って以来、初めてのことです。そして、このことが、あなたの命取りになるということを私は、知っています。時に、人生は、耐え難く非常なものです。私たちは、お互いにそれを、知っています。けれども、私たちは、またそれが、回復への驚くべき力を持っているということを知っています。人生は、あなたのようです。つまり、幾度かの悲しみに満ちた朝があり、幾度かの、とても壊れやすく、慰めを与える夜があるということです。 人生には、私たちの悲しみや、私たちの傷や、私たちの放浪の旅を忘れようとする価値があると私は、あなたに言いたい。あなたが夢みているこの女性、彼女は、列車の何処かにいます。ある日、あなたは、彼女に出会い、初めて彼女を認識します。あなた自身に彼女と出会う機会を与え、あなたの孤独を遠くに投げ捨て、そして私たちの元へ、お互いに知 らないもの同士の人々が出会うかのような大きな都市の熱狂へ戻ります。人生は、疲れもせずに修復するものです。私は、愛情の中で、あなたに会うことを、既に夢みています。あなたの笑い声を聞くこと、勝利の世界に戻るあなたに会うことを。そして、あなたの心臓がくたびれているなんて、私に言わないで下さい。あなたも私も、あなたの心臓が頑丈だということは知っています。心臓は、魂です。そして、一つの太陽光線が、直ぐに、それをより良くするでしょう。あなたの光に向かって進んで!私は、あなたと一緒です 」。 - Mireille - ( パリマッチ 2005年10月6日号より translation by Miss.Karina )
ドロンがミレーユより30分遅れてスタジオに来た時、雰囲気が著しく変わった。一つの電気の波、熱、緊張と歓喜の間の何か。若い助手たちは、ほのかな感動の中にいる。そして、より活動的になる。カメラのカチッ、カチッという音、この出会いの撮影は、共感に満ちたものである。ドロンは、ミレーユが、青白く、すらりとしているぶん赤銅色で、たくましい。ドロンは、ミレーユが控え目であるぶん、騒がしい。彼らは、一方が他を賛美する、願望なしに改心する理想的なカップルです。メーキャップは必要なく、ほんの少しのパウダーのみ。彼ら二人は、再び、大昔のパリマッチの表紙を飾った一枚の写真を見て、今日の写真のヒントを得る。彼らは直感に従って演じる。彼らは、携帯電話の番号を交換しあい、それから、気づかぬうちに一人の友人に電話し、彼らはお互いの容貌の印象を確かめる。彼女は、ドロンに犬たちのことを聞き、ドロンは、彼女の新しい家のことを聞く。彼らは、心でお互いに繋がっている。 - A report by Catherine Schwaab from Paris Match October 6th in 2005 issue - translation by Miss. Karina -
( Alain with Mireille in Nice on December 29th in 1974 )
「 私のチャペルは、瞑想の場です。そこの私が眠るのです。私はそこで、35匹の犬達の墓場の横に、埋葬されることを希望しています。墓所も既に掘られています 」。 - Alain Delon - ( パリマッチ 2005年9月15日号より )
2003年、ドロンはロザリーとの別離について次のように語っています。 「 私は、男性が女性にできるこの世で最高のプレゼントをロザリーにしました。自由です。実際には私たちは2002年の夏の初めに別れました 」 。
ドロンは、1998年の 「 パトルイユ.ド.フランス 」 のイメージとして選ばれた。幼い頃からの夢であった兵士たちとの雄々しい飛行が、52歳にして叶ったのだった。アルファ.ジェットに乗るためには、16G という加速度の過酷な 「 射出座席適正試験 」 を受けなくてはならない。サロン. ド.プロバンスで合格通知を受けた彼は、パトルイユのリーダー Velluz 司令官の機体に乗った。夢の実現はもとより、彼は、我々にも功績を残してくれた。飛行中に感じることは、想像を絶することばかりだ。加速につぶされそうになるような錯覚は、言葉ではとても言い表せない。体験しなければならない。我々に機上の様子を伝えるため、ドロンは、目前の計器板の上にカメラを設置し、スリリングな瞬間にシャッターを切った。アクロバット飛行や、二回の宙返り、一度の横回転に刺激され続けた30分間、8機の飛行機は互いに1.5メートルのタイトな間隔で動いた。ドロンは、パトルイユ.ド.フランスにすっかり魅了されてしまったようだ。
Rosalie は、モデルになる前は、法律の勉強をしていた。 特に国際関係の勉強をしていて、将来は、国連などの国際関係法律分野に進もうと考えていた。 ( Information from Miss. Karina )
アランとミレーユは、舞台で共演する。 タイトルは、「 マディソン郡の橋 」 ( 1995年にクリント.イーストウッドとメリル.ストリープ主演で映画化された。) 2007年1月から、パリのマリニ劇場にて。フランスでのタイトルは 「 Sur la route de Madison 」。 と 2005年12月22日 ( 木 )、Radio Channel Europe-1 でミレーユが語った。 - information by Miss. Karina and Mr. Vignol -
2004年7月30日、ドロンは、アニューシュカとアランファビアンと共に、モーリス島 ( リユニオン島から飛行機で約20分 ) にいた。彼らはレストラン Grand-Baie ( この島で最も美しい場所のひとつ ) で夕食をとった。彼らがここを去った後2時間後、大きな爆発が起こり、このレストランは破壊され、二人の人が死んだ。その二日後、ドロンはこのレストランで亡くなった若いカップルの葬儀に出席した。 - information by Mr.Vignol -
1960年代、女優 Annette Stroyberg とドロンは恋に落ちたらしい。Roger Vadim と結婚していた彼女は、2005年12月14日、67歳でその生涯を閉じた。彼女の伝記 「 Les Liaisons Scandaleuses 」 2004 editions du Pre aux Clercs によるとドロン、ブリジット.バルドー、ロベール.オッセンはこの伝記の序文で、「 彼女は、60年代、地球上で最も美しく、かわいらしい女性であった 。」 と書いている。 - information by Mr. Vignol -
ドロンは、パリ.マッチとのインタビューの際に、Rosalie Van Breemen との別離を打ち明けた。15年の同棲生活と二人の子供。 ( アニューシュカ12歳とアラン.ファビアン8歳 ) 「 すべては破裂してしまった 」 彼の口から聞けた唯一の破局の理由は、年齢差ということだけだ。 「 世代の違いは大きいと思います。32歳の差です。20歳の時に、私に青春を捧げたロザリーは今、その見返りとして、人生を取り戻したいのでしょう 」 別居から8ヶ月。ドロンは、ロワレ県のドゥーシーの邸宅と、ジュネーヴのレマン湖近くの家を行き来しながら過ごしている。彼はスイスの国籍を取得したが、ロザリーはしなかった。スイス人として、身分規定のために、彼は1年のうち半年はスイスで過ごさなければならない。一方、ロザリーは落胆を癒すべく、オランダの家族の元に戻った。アニューシュカとアラン.ファビアンの親権も彼女が得たため、彼らもオランダで学校に通っている。彼らの出会いは1987年にさかのぼる。21歳だったロザリーに彼が一目惚れしたのが、真剣な恋愛の始まりだった。
( ル.フィガロ 1986年3月号より )東京、大阪、福岡や京都に至るまで、我々の特派員 Pierre Laforet は、スーパースター、アラン.ドロンの凱旋旅行に同行した。彼は、生活や新しい恋人、そして政治的な意見を我々に語ってくれた。東京、大阪、福岡、京都などへ我々が密着したアラン.ドロンは、日本ではまさに生き神であった。広島訪問の際には、原爆犠牲者の慰霊碑に彼が花の冠を供える傍らで、丹念に手入れされた芝生 ( 立入禁止 ) が熱狂的な日本人たちに進入されボコボコにされてしまった。「 ママさん 」 たちが、彼を人目見たいと集まった。彼女たちは、精神分析医のように、朝まででも会社社長や役員たちの悩みを聞く会を結成し、時間によって3500~4500フランほどを受け取っている。 「 日本の女性たちには居場所がきちんとある。彼女らは、男性、異性との位置関係に不平も言わず、満足している。日本女性は外見的にも男性を真似しようとはしない。比較をしないのだ。今、ヨーロッパでは、女性たちはズボンをはいている。男性は少し前には長髪を自慢していた。全く無意味なことだ 」 とドロンは言う。「 フランスでは、日本人女性は、子供のころから従順で、人の靴を脱がせたり、気まぐれにも応じなければならないという奴隷のイメージがあるが、ばかげた話だ! 日本人女性がそのように生き、そのように育てられるのは慣習であり、我々が男性として生まれると同じように、彼女らも女性として生まれるのだ。プライドは一切傷つけられていない 」 Le Figaro - スター、アラン.ドロンの傍らで女性として生きることは、大変なことだと思います。あなたの恋人カトリーヌは、海外で初めてあなたの伴侶として紹介されてどんなリアクションを見せていますか? Alain Delon - 「 確かに、他の人と生活するのと違って、アラン.ドロンと生きるというのはとても大変なことです。でも、カトリーヌはすべて自分で抱えています。女性にとって、アラン.ドロンと生きることの難しさとは、彼を見つめ、感嘆し、評価するということではありません。相手がスターであるという現実的な機能にあるのです。相手に適応しなければならないという問題が生じます。私は、熱狂や、喜び、興奮それに悩みを分かち合いたいと願います。ですから、もしも、コミュニケーションがとれなければ、私の横に女性が一緒にいても意味はないわけです。私は、別へと移りますよ。私の生活に亀裂が生じるわけです。私は、このようにしか生きられません 」 Le Figaro - 「 飛行機の中、ずっとあなたが彼女の手をとり、彼女の肩に頭を載せていたのが印象的でした。彼女に対するあなたの愛情に心打たれましたが、これはあなたにとっては転機でしょうか?」 Alain Delon - 「私は、転機という言葉が好きではありません。終わってからでないと、転機を上手く活かせたのかどうかわからないからです。何の転機なのでしょう? 人生の? それとも、仕事上のですか? 仕事に関しては私は心配していません。けれど、プライベートについてはあまり話したくありませんね。それでも、二つの大切な願いはあるのですが。まず、一つ目は、一人ぼっちで人生を終えたくないということです。私の伴侶とともに生きていきたいということです。二つ目は、もし遅すぎなければ、子供や孫が欲しいということです。心の底では、今まで得たことのない家庭というものを築きたいと思っているのです。転機ですか? そんなことではありません。単に自覚の問題です。ずっと以前からわかってはいたのですが、今日初めて話ました。多分、フランスからとても遠い日本にいるからでしょう 」 Le Figaro - 「 あなたは自分がどんな人間なのかいつでも自覚されていましたか? 」 Alain Delon - 「 私は控え目ではありませんが、かといって慎みがないわけではありません。私の活力は聡明さです。私は自分がどんな人間で、人からどう思われ、どんな価値があるのかわかっています。幸せな人生を送れるのは馬鹿かお人よしぐらいでしょう。聡明で完璧主義であればあるほど、ヒューマニズムや人生について分析するというのが普通です。人間をわかればわかるほど、分析するのです。そして、苦しむのです。完璧さや絶対性というのは私の人生の目的で、未だ達していないのですが、そういったものを追求すれば、聡明さが失望を呼びます。私も何度も経験しました。今では、気にならなくなりましたが 」 Le Figaro - 「 不思議なのは、ここ日本やパリでも、あなたにはあなたを圧倒的に支持する人々の近くで生きることが必要だということです。あなたを隔てる壁が同時に存在するのですがね 」 Alain Delon - 「 アラン.ドロンの場合はとても複雑です。私は優しさや愛、そして喜びをもたらしたいという強い思いがあります。でも、一人のドロンをもう一人のドロンと離して考えることが出来なくてはなりません。自分自身のイメージと他人による私のイメージです。日本では私は神のように崇められています。人々は私に触れたり、私の手を撫でたり、指に接吻することに大喜びしています。まるで、大きなバリアを越えて、教皇の手に触れ、指輪にくちづけができたかのように。彼らは別世界の人間と通じていると思っているのです。下から上を見上げて。必要であらば、足にも接吻しようと。彼らには、自分が今接吻している者の手が、自分と変わらない一人の男の手だということがわかっていないのです。この神は、ただの白人男であって、黄色人ではないということだけなのです。そして彼にも、悩みもあれば、心配事も、欠点もあり、不備を埋めようともしているのです 」。
( Alain with Kiki )
1977年4月、5度目の来日をしたドロンは、赤坂のナイトクラブ 「 ラテン.クオーター 」 にお忍びで行った。
( Alain with Romy in July 1958 - photo from Miss. Karina - )
( 2000年のパリマッチ誌インタビューより ) PM : 週刊 「 Newsweek 」 誌 が、トニー.ブレアを年の人に選びました。どう思われますか? AD : 本当のことを言うと、私はイギリスが嫌いです。この国はいつでも、ヨーロッパと区別されようとしてきました。みんなが右側通行をしている時に、イギリス人は左側通行。みんなが時間を変える時には、彼らは一時間の時差があります。このように他と違うことを強調するということは、必ずしも頭の良い証拠ではありません。トニー.ブレアが年の人ですか? 私はいつだって、「 何かの人 」 であり続けましたから。彼が何か特別なことをしたのでしょうか? 私にとって大切なのは、彼が20年後へ残すものです。
ドロンは、2006年3月1日、「 Big movie of Vermeil of Paris city 」 と呼ばれる、名誉ある賞を、パリ市長 Bertrand Delanoe から受賞した。この会場には、ドロンの子供たち ( アニューシュカ と アラン.ファビアン )、ミレーユと彼女の夫、ナタリー.バイ、そしてカルディナ.カルディナーレらがいた。ドロンは、彼の子供たちについて次のように語った。「 アラン.ファビアンは、私同様、とても繊細です。アニューシュカは、すばらしい女優になるであろうと思うが、今現在、彼女は、ジャーナリストになりたいらしい 」 そして、ドロンはまたミレーユについて、「 私のあやまちによって彼女と別れた事を後悔しています」 と語ったらしい。尚、この 「 Big movie exposition Paris in cinema 」 は、Hotel Ville で、2006年3月2日から6月30日まで開催される。 この情報は、パリマッチ最新号 ( NO.2964 9th March 2006 ) に掲載されているらしい。 ( Information from Miss. Karina and Miss. Marie-Claire )
2006年3月17日、ミレーユ.ダルクが、パリにて、シラク大統領から、「 レジオン.ドヌール 」 勲章を授与されたらしい。尚、この式典に、彼女の夫と、アラン.ドロンが出席したらしい。- information from Miss. Marie-Claire -
ロザリーとアランは、結婚という形で愛を誓い合うことはしなかった。以前、彼は、こう言っていた。「 私は、女性の指に指輪をはめたすぐ後に、離婚するようなことはしたくないのです。だから、しばらく様子をみているのです。一生の結婚にしたいですので 」 彼はいつでも孤独と充実した愛のはざ間で生きてきた。情熱で愛し、愛される。これが、厳しい顔の裏に隠された、孤独で、悲観的で、傷つきやすい男の原動力なのではないだろうか? いつでも、女性が彼のカリスマを愛し、彼の 『 至上権 』 や他の人を惹きつけてしまう信じられないほどの魅力を受け入れてきた。「 私は、いつでも男性にというよりは、ご婦人方への私のある種の影響力を確信していました。ご婦人であれば、どんな年齢の人でも 」 女性たちは、彼が生きるために必要な自由も巧みに扱ってきた。「 私は、いつでも独立していました。独立と自由というのは、高くつくものです 」 短い恋愛もあった。モデルであり、歌手、作詞家でもある Nico 。23歳の若手女優 Anne Parillaud 。レーサー Didier Pironi の前妻 Catherine Bleynie.....。 また、ロザリーの前には、3人の女性がこのスターの心をつかんだ。ロミー.シュナイダーは言うまでもない。1959年3月22日、雑誌は、「 若娘たちの夢は断たれた。アラン.ドロン婚約 」 と報じた。5年続いた 「永遠の」 婚約者。ある晩、結婚を申し込もうと彼女の部屋の窓に小石をぶつけた彼の口からは、一言も発せられなかった。1964年に、22歳の Nathalie Canovas がアランの心を掴むと、ロミーは、もう彼とは上手くいかないことを悟った。「 私は、彼のような男性が必要としている母でもなければ、靴下を繕ったり、料理をしたり、彼の帰りを待っているような女性でもありませんでした。私は、女優であり、仕事をしたかったのです。私は、彼の成功に嫉妬していたのです 」 しかし、ロミーとアランという関係は、いつまでも尊重された。彼は、彼女への友情、忠実、そして愛情を守り続けた。「 La Piscine 」 の10年後、彼女は、語っている。「 私が、成功できたのは、アランのおかげです。彼が、私にしてくれたことは、決して忘れることはできません 」 1964年、彼は、ナタリーという無二の親友と結婚する。パスカル.ジャルダンは語る。「 彼は、もう一人の自分を見つけた 」 と。ナタリーは、アンソニーという子供を産んだ。彼らの2年間の生活は、「 ハネムーンの真っ最中に、大喧嘩するが、喜びに震えるほどに愛し合っている 」 という言葉に要約される。すぐに彼女は、自分の人生を築き、映画で成功したい思いに駆られる。「 それが我々を結びつけ、また引き離しもした 」 1967年の 「 サムライ 」 の公開一ヶ月前に、アランは、離婚を申し出た。その1年前に彼は、Dean Martin に、こう打ち明けている。「 私の妻である人は、スタジオに足を踏み入れてはいけないのです。私は、夫婦二人が、スターであるということ、イコール夫婦の終わりだと思っています 」 とは言うものの、彼は、その後の15年を優秀な女優ミレイユ.ダルクと共に歩むことになる。「 初めて会った頃から、私は、彼と、どんな風にでも、どこででも生きて行けると思った 」 と彼女は言う。「 本当の彼が、わからないまま行ってしまうということは、良くありがちです。彼は、時が経たないと心を開かないような人なのです。まるで、近くに見えるのに、一向に近づくことのできない山のよう 」 良いことも、悪いことも、手に手を取り合って、彼らは歩んだ。ミレイユが、アランに見出した少し 「 時代遅れの価値観 」 とともに.....。「 家庭、家族、誠実さ、友情、尊敬心.....。アランは、違う時代に生きるべき人なのかもしれない。彼は、本当の古老なのです 」 しかし、1983年、カップルは、破局を迎えた。この件に関して、彼は、こう語っている。「 私生活には、段階というものがあります。失敗を口にするよりも、私は、 『 変化 』 という言葉を用いたい。生まれた愛情は、成長し、変化し、絶頂期に達し、そして終わる。たとえ完全に失せてしまうのではないとしても。そして、私の星座である 『 蠍 』 にとって、愛が冷めるのはいつでも急激なのです 」。
( Alain Delon with Rosalie Van Breemen in Marseille 1980s - photo from Mr. Philippe Barbier - )
アランがカトリーヌに惹かれたのは、彼女の天真爛漫さであるという。彼女は決して何にでもイエスというわけではない。しかし、いざこざを作らないように自分の意見を述べることが出来る。単純に。また、彼女は、アランと同じく馬が大好きだ。最近、彼らはドゥーヴィルの友人の経営する馬牧場で週末を過ごした。彼のサラブレッド、アドリアン、リラ、アデュー.フランソワがそこで静かな余生を過ごしている。カトリーヌは、アランが共同所有者として一部所有するアリヴィアというという名の見事な種馬にもびっくりしていた。また、野生的なサラブレッドの子馬の美しさもアランと一緒に堪能した。彼らには、共通の感動、動物や種族の純潔さといったような美しく健全なものへの共通の嗜好がある。11月8日のアランの誕生日には、カトリーヌがパーティーを開いた。二人きりで。シンプルさが第一なのである。アラン.ドロンは複雑な人間ではない。外出も少なく、社交界も避けている。彼の生活は、パリ近郊のドゥーシーの田舎と、スター、そしてビジネスマンとして活躍するアデル.プロダクションの二ヶ所で展開されるが、今では、好きな田舎に引きこもって生活するためにセーヌ沿いのアパルトマンは、あまり使われなくなりつつある。香水事業にも多くの時間とエネルギーを費やしている。彼の海外出張のほとんどは、このためである。 最近も、アメリカへ飛び、ロスアンジェルス、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどの大都市を訪問した。「彼は、フランスの世界的な成功を象徴する人物」 と、アメリカの企業の重役たちは言う。確かにそうだ。フランス的な価値観を保ちつつも、彼は、アメリカ式のビジネスをする。野心的に、しかし寛大に、前進しつつも忠実さは失わない。ここ数年、良い仕事を好む彼は、同じ仲間と忠誠的な仕事をしている。取り巻きは必要ない。ただ、彼のように物事の価値がわかり、守る事のできる、意欲に満ちた人材だけが必要なのだ。パリでは毎日、仕事仲間とビジネスの展開について話し合い、自ら書類に目を通す。ファンに対しても同じだ。自ら長い時間をかけてオフィスでファンレターを読んでいる。彼は、情熱と情熱的な生活をこよなく愛し、信頼を第一に、充実した毎日を生きている。公正でありながらも、シンプルに、且つ実直に。彼のこんな生き方が、カトリーヌと彼を一緒にしたのだろう。ドロンは、スターである前に、秋の香りを静かに味わったり、彼女や犬たちと何時間も森を散歩したりすることが好きな、生きる喜びを噛締める一人の男なのだ。彼は、ぼうっとしていることがない。都会では、几帳面に計画をたて、時間を無駄にしない。田舎では、自然と完全に融合し、自然のどんなささいなざわめきにでも耳をかたむける。カトリーヌは今、この冷たさとは正反対の心優しい男と生活を共にしている。アラン.ドロンは野生動物のように、絶えず揺らめきながら生きている。自分のテリトリーの中でないと自由になることができない。それが、彼の真実である。 - from CINE Tele Revue N 48 29th Nov 1984 -
映画 「 あの胸にもういちど 」 のヒロインは 『 ルパン三世 』 に出てくる峰不二子のモデルになったと言われている。
( Delon with Romy and Jane Birkin at the Preview "La Piscine" on 1st January 1969 in Paris )
大統領から国家功労勲章シュヴァリエ受章者とされたアラン.ドロンは、3ヶ月前に生まれた娘アニューシュカの母親ロザリーを伴って、会場に現れた。直立不動でミッテラン大統領の眼を凝視したまま、アラン.ドロンはレジョン.ドヌール勲章を受け取った。ジャック.ラングはこのためにわざわざやってきた。また、レイモン.バールも友情のしるしに参加した。そして、3ヶ月になる娘の母親ロザリー。アラン.ドロンが、何をおいても守る二人の存在。「 公人としてのドロンは、もう一人ではありません。新しい人生の平安と幸せのために常に気をつけていかなければなりません。アニューシュカとその母親を、好奇心の的にするのはもっての外です。映画以外の場では、我々を、そっとしておいてもらいたいものです!」 ここ最近アラン.ドロンは、映画 「 Dancing Machine 」 の不発など、逆境に立たされてきた。しばしば彼の孤独は、サムライのそれに喩えられる。
ドロンは、ナタリーと離婚したことについては、息子に申し訳なく思っていた。「 結婚に保険はかけられない。夫婦というより子供のために、結婚の価値を信じていた。家庭生活というものが欲しかった。息子アンソニーの両親は、彼がたった4歳なのに離婚してしまうのだ。私の場合とは少し違うが、それでも失敗には変わりない。アンソニーを思う時、この離婚は、私の人生で最大の、唯一の失敗となる。私は 、愛を信じない。熱情しか。」 ドロンは、私生活の面では、忙しい撮影の合間を縫って、できるだけ幼い息子に父親らしいことをしようと心がけた。パリにいる時には、ナタリーのもとへ息子に会いに通った。また、パリを離れているときには、いつでも息子に電話できるようにした。ドロンは、ある記者にこう答えている。「 この前の晩、息子が私に何と言ったか想像がつきますか?『 パパは、いつもテレビで映画が始まるときに電話してくるんだから!』 と言いやがる!」 ドロンはロケ先にはいつも息子の写真を持って行った。離婚に関しては、「 息子が12歳でなくてよかった。もしそうだったら、新聞雑誌に書かれていることを彼に隠すわけにも行きませんし、学校で友達に悪口も言われたことでしょう。でも5歳ではまだわからない。パパが映画界で働いていると思っているくらいです」 と言っている。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
( アランと天体運行表 ) 太陽宮が蠍座で、上昇宮が天秤座にあるドロンは、人を魅了するための気高さをすべて持ち合わせている。蠍座の強い磁気と、天秤座の魅力である。蠍座の部分は、彼に権力の渇望や自己主張、そして、所有といった押さえがたい欲望を起こさせる。蠍座の人間は、人生を悲劇的にとる傾向がある。情熱に燃え、社会的野望、愛情、思想といった自分のアイデアを弄するが、その知性から出た考えをとことんまで保護し続ける傾向もある。他人に対し、知的影響力を及ぼしたり、「 人の間違いを正そうとする 」 点については、恐るべき弁護士としても発揮できたかもしれない。とはいえ、上昇宮が天秤座にあることによって蠍座の重々しさが緩和され、社交性や洗練されたエスプリといったある種の 「 軽さ 」 を彼に与えている。蠍座の興味の中心となるものが、性や死であるのに対して、天秤座では愛情が核となる。恋愛は、女性をライバルとして捉えれば捉えるほど苦い試練となるが、無制限な愛情や人間的な深い寛容は、蠍座のシニカルな面を子羊へと変えてしまう。仕事は、弁護士でなければ、常に人々、群集と関わる職業に向いている。ドロンは、政治家としても成功しただろう。どの場合でも、盛名を馳せる運命は出生時に決まっている。映画をしなかったとしても、別の分野で有名になったはずだ。
( Alain with Catherine who is called Kiki or Katinouchka from Delon )
アラン.ドロンは、映画のタイトルに 「 flic ( 刑事 )」 という言葉を入れるのが気に入っている。この言葉がタイトルに入った映画は、すべて成功しているからだ。
「 これは、すべて彼女のためにしているのです。」 もしも、愛娘と共演するのでなかったなら、アラン.ドロンは、このケッセルの 「 ライオン 」 の TV 版をきっと撮りはしなかっただろう。アニューシュカ、彼の 「 ニューシュ 」 は、カメラの前で初めて彼と共演する。「 自分が誰なのか、誰と共演しているのか、もやはわからなくなってしまいました。私と対話する彼女は女優として私の目に写っていましたし、彼女はまさに役になりきっていました。私以上にですよ!」 これは少し大袈裟かもしれない。確かに彼女は12歳にして、父親の演技の才能をしっかり受け継いでいるといえる。アフリカのサバンナの真っ只中で、彼女は、朝の8時から台詞を練習する。父親は、彼女の 「 気高さ 」 を引き出したい。たとえ早朝であっても、彼女の出演する全てのシーンに彼は付き添う。 「 彼女は、この職業に向いています。まるで1957年にインドシナから帰ってきたばかりの自分を見ているようです。 その時、私は22歳で、アレグレは、いつでも、『 演技するな、君のままでいろ、動いて、話して、普通に歩くんだ!』 と私に言っていました。スタジオでの次の仕事の時からは、まるで水を得た魚のように楽になりました。彼女にとっても同じことです。」 しかし、慎重なアニューシュカは、自己防衛ぎみで、ドロンが 「 君はスターだ!」 と言うことにイライラする。 「 パパがその言葉を使うのが私は嫌なの 」 撮影現場以外では、彼女は、ロココ調の部屋 ( 彼女の父に言わせると 『 まさにハリウッドスターのような部屋 』 )で、練習に明け暮れる。そして、既に父親と共演した9歳の弟アラン.ファビアンのコメントに耳を傾ける。アニューシュカとの共演は、アラン.ファビアンの時のようにすんなりとはいかない。年頃の若者がみなそうであるように、彼女も自己主張するのにしばしば反抗というやり方を使う。たとえ、パパが映画界の大御所と仕事をしてきた偉大な俳優であってもだ。 「 私がどのようにすればいいというのでしょう。私は、彼女に間違った演技をして欲しくないんですよ。」 彼女が、うんざりとしたため息をつくのを聞いた時には、彼も辛かったようだ。スイス、アフリカ折衷風の小屋を拠点に、ドロン一家は週6日という撮影プログラムに挑んでいる。たとえサバンナの真っ只中で、キリンやシマウマに囲まれていようとも、サファリツアーに来たのではない。 一日足りとも、遊んでいる時間はない。しかし、朝、朝食の時間にはすべてが窓から見えるし、また、探検家のアニューシュカは、家の裏に美しいアラベスク模様の木で装飾されたレイヨウの頭蓋骨を見つけた。夕食の最中には、父親の忠告も聞かずに、二人の子供は、夜の闇に忘れられた狩猟の戦利品を探しに行く。アランは不満だ。彼にとって、子供と過ごす一晩は、街で行われるすべての晩餐にも値するからだ。 子供たちは、明るく探究心旺盛で、知性と、不思議な大人らしさを兼ね添え、躍動している。そして、父親の機嫌の変わりやすさにも巧みに対応する。時々、まるで大人のように思えることがあるくらいだ。 「 アルフ 」 と呼ばれているアラン.ファビアンは、人なつこく、観察力に優れ、姉に少しも嫉妬しない愛らしい少年だ。姉の方はというと、彼ほど感情を顕わにしない。心配性な少女と、抜け目のない女性の中間といえる。父親と娘の関係は、まるで 「 カルメン 」 を見ているようだ。 彼女は、突き放し、彼は、何度でもやって来る。かと思うと、彼女が近づき、彼が、がなり立てる。彼女が、反抗すれば、彼は、穏やかになり、彼女が険しくなると、彼はなだめる。そして、彼女が微笑む。ドロンは言う。 「 私が、彼女に狂っているのがわかるですって? 仕方ありません、隠せないんですから 」 勤勉な子供たちは、オランダ語の漫画を読みながらも、休暇中の宿題を忘れない。アラン.ファビアンは日記、アニューシュカは作文だ。今後はフランス語で。これが彼らの母親の願いである。ロザリーについての話題は、避けた方が良いだろう。彼らの別離から、もうすぐ2年になるが、傷は、まだ生々しい。怒りも冷めていない。確かに、この永遠に広いアフリカで、ドロンが、一人で子供たちといるのを見ると、かわいそうになる。しかし、今晩、ドロンは、格別な瞬間を味わう。16時現在、日が撮影にちょうど良く赤く染まりはじめる。彼は、撮影の核となる悲痛なシーンを演じる。小さな撮影クルーで、ジープに乗って、「 待ち合わせの木 」 のところまで行く。樹齢千年にもなる巨大な木で、ピニェイロ監督が目をつけたものだ。シークエンスは、ヘリコプターから撮影された。撮影が、終わり、ヘリコプターの回転翼の騒音が消えると、辺りは、再び静かな野生の美の世界となる。ドロンは、長い間、一人でこの木の下に佇んでいた。 「 これほどまでに古く、偉大なこの木に身をもたせて、木のエネルギーを引き出したい。この木は、いつでもたった一本だけで立っている。サバンナで一番美しい木だ 」 秘められた感動の瞬間。ドロンは、自分とこの木を重ね合わせて見ていたのだった。孤独、悲痛な思い、人生は過ぎて行く。撮影につき物のヒステリーを超越すれば、映画を撮るということは、時には永遠について、つかの間ながら意識させてくれる。17時には既に闇である。明日は、危険なシーンでドロンは、ジープを運転しなければならない。アフリカの共演者 Ernest は、助手席で恐怖に慄くことだろう。しかし、アランは、きっと恐怖を見せないはずだ。
Kiki は、ドロンについて次のように言っている。 「 アランは、全てに極端な人間です。そして、彼のエネルギー、厳しさ。 『 Parole de flic 』 を撮り始めた時、彼は、ジュネーヴでの3ヶ月間、自分に絶対的な規律を課しました。毎日、ヒルトンで、彼は、プール、筋力トレーニング、ジム、きつい仕事を立て続けに行っていました。私は、彼の努力を心配しながら見ていました 」。
アラン.ドロンは、ジャン=マリー.ルペンの見守る中、ジャック.ラングの手から、芸術文化勲章の緑と白のリボンを受け取った。 「 この勲章は、大臣、あなたが決定したものです。私は、あなた以外の誰の手からもこれを受け取りはしなかったでしょう 」 彼の才能と30年のキャリアに栄誉を与えたこの瞬間、彼は自分の好きな人々に敬意を表した。ロミー.シュナイダー、ヴィスコンティ、エドヴィージュ.フイエール。そして、息子 ( 欠席 ) と名付け子ジェラルディーン.ダノンに語るように未来に目を向け、最後にミレイユ.ダルクのために、ジャック.ラングに 「 大切な彼女のラペンホールにも今後あなた方が色印を付けてくれることを願います。できれば、紫のがよいのですが 」 と嘆願を締めくくった。 ( ダルクは、この嘆願について事前に何も聞いていなかった。) - from Paris Match M 2533 in 1986 -
「 フランスは、もはやたいしたことのない国になってしまいました。どれだけのフランス人が、まだ残っているというのでしょう? デザイナー、料理シェフ。料理だけが世界に通用する国。これは何なんでしょうか? まさに発展途上国ですよ 」 彼は、自宅近くの丘で、こう言いながら枯葉を蹴った。黒犬のマニュは、そこいらを行ったり来たりしている。 「 自分を愛国者と呼ぶのにふさわしいのかはわかりませんが、ただ、私は、この国が好きですし、自分が後退の一途を辿るのを見るのがつらいのです 」 彼は、小さな声で 「 フランス 」 と発音する。「 ええ、確かに人々は、私が政治をすることを願っているようですね。私もしてみたいですよ。でも、今はすべて、いんちきで操られているんですよ。何もかもふざけたことです。私が、その中に入っていくことなど不可能です。私は、自分にとっての真実しか話せないのですから。公民運動も、もう過去のものです。幼稚園から、子供たちに人生とは何か教えるべきなんです。人生の基盤を。今の世の中は、権利しか追求しません。義務の方は、考えないのですから、権利だけを行使するのは簡単なことです。でも、これでは何も生まれません。義務だけが何かを建設できるのです。人間だけが、義務を持つ権利があるのです 」 セーヌ川に沿いながら、私たちは、アランが動物たちと暮らす三階建ての 「 砦 」 に到着する。庭には秘密の小道が走っている。私たちは、この難攻不落な建物に地下から入り、エレベーターでキッチンに到着する。アランは、くつろぎの表情に変わり、笑顔がこぼれる。寝室には、 「 可愛いミミ 」 とビーズの刺繍が施されたクッションが置かれている。私は、何故彼がこのクッションを置き続けているのかは聞かなかった。ミミは、一週間前ではなく、三ヶ月も前にここを去ったのであるが。 「 今、私は、むき出しになって、皮をはがれたような精神状態です。確かに外出もしないし、世間に進んで出て行かないのですがね。私は、映画界を避け、誰にも何も要求したりはしません。時々、外に出ると、人々の視線に耐えられないことがあります。まるで、襲われているかのような気分です 」
( Alain Delon and Mireille Darc in 1970s )
今年 ( 2006年 ) の10月にリリースされる Francoise Hardy のアルバムで、ドロンは、彼女とドュエットを歌うらしい。 - Information from Mr. Vignol -
ドロンは、何故、女性向けの映画を創らないのですか?という質問に対して、 「 私は、日没後の女性にしか興味ありません。日没前の彼女たちは、私を退屈させるだけです 」 と答えている。
あるインタビューで、「 よく不良役や悪役を演じてきたが、それは何故ですか?」 という質問に対して、ドロンは、次のように語っている。 「 真実は、単に映画は、金もうけのために出来ているというロマンも味気ないものです。我々の観客は、やくざものが好きなのです。泥棒が、警察を打ち負かすのを見るのが。今のフランスの映画製作者たちは、あまりにも偏狭です。私が自ら製作をするようになったのは、ベルモンドやバルドーとドロンを共演させたかったからです。でも、決していつも大金を稼ぐとは思わないでくださいね。 『 さすらいの狼 』 では、私は、大損をしましたよ。これも辛かったことの一つです。今、巨額の制作費をかけた 『 ボルサリーノ 』 では、出資者を思うとやきもきしています。でも、こんな不安は、俳優としての演技には微塵も見せてはいけないのです。観客は、何も知りません。ベルモンドと私は、製作者とスターという関係には映らないはずです。私たちは、友人同士であり、一緒にいるとリラックスできるのです」 - information from Jours de France N 784 1969 -
1973年、ドロンは Youssef Khaida とともに、ギャンブルに関わる。Khaida は、Benaim とともに、アルジェリア系フランスユダヤ人界で頭角を現し始めていた Zemour 兄弟と組んで事業を始める。アラン.ドロン不許可の伝記の著者 Violet は語る。 「 彼らの共同事業とは、まず、バーに関わることでした。それに、Zemour 兄弟は、ナイトクラブ ( Le Pariscope ) も所有していました。マルカントニーによれば、アラン.ドロンは、そこに出資して関わっていたようです。マルカントニーは、このナイトクラブだけが、ドロンが Zemour 一族と関わる唯一の事業となるよう彼を支援したそうです 」 唯一の事業だろうか? その後の事の運びを見れば、それがそれほど単純なものではないとわかる。 競馬界でも、ドロンは頭角を現そうとしていた。彼は、サラブレッドを購入する。そして、何度も失敗した挙句に、馬術所を創立している。共同出資者は誰だったのか? Benaim と Khaida だ。 「 厩舎を経営するために、彼は、競馬のプロを雇いました。繋駕フランス国内チャンピオン Jacques Imbert です。彼は、かつて誘拐犯として逮捕されたことがあります。Imbert は、ドロンを評判の高いコーチ Pierre-Desire Allaire に引き合わせます。プライド杯の、三連勝式で不正が行われたのはその頃でした。Imbert の息子で騎手の Louis Imbert は除籍となりました 」 数年後、Jacques Imbert は、銃撃からすんでのところで逃れる。ドロンは、今日、ナミュールにあるベルギーで最高級を争うカジノの経営者である。彼は、カジノの株を、資産家の Jean-Claude Mimran より買ったのだ。Jean-Claude Mimran は、別の高級カジノの経営を失敗した後に、このカジノの株を所有したのだった。この一件では、ドロンも対立に巻き込まれて危うい思いをしている。Mimran にナミュールのカジノの株を提案したのは、Khaida であった。このカジノは、1982年に火事でほぼ全焼している。そのしばらく後、Mimran は、カジノの1750株を手放す。そして、ドロンと Vincent Bertella がそれを買い、経営者となった。これまで定期的に更新されてきたドロンの為替は、2001年5月に期限切れとなる。 - information from Cine revue N 41 1976 -
Jean-Francois Deniau とのインタビューで、ドロンは次のように語っています。「 私は、海が嫌いです。海を前にすると、自分を無力だと感じるからです。私は、陸人間です。常に、地面に触れていないと駄目なのです。火の方が水よりも恐くありません。自分をまだ防衛できるような気がするからです。海は恐いです。ですから、あなた ( Jean-Francois Deniau ) のような大航海家や、Florence Arthaud のような女性を尊敬します。私には、決して出来ないことですから。インドシナに行くまでの一ヶ月の航海はまさに受難でした。私は、海には出かけません。私は、孤独好きですし、森や山で一人になるのは好きです。でも、海は嫌です。『 太陽がいっぱい 』 を撮った時、もう二度と海では撮影しないと誓ったものです。それほど具合が悪かったのです。こういった理由で、『 Le Crabe-Tambour 』 を断ったんですが、後で苦い後悔が残りましたね。 更に、ドロンは死について次のように語っています。 「 私は、死は恐くはありません。ただ、急死を望みます。身体不能に陥るのは嫌です。耐えられません。人は、自分自身の死についてよりも、他人の死について悲しむものです。無力感を味わい、不公平だと感じてしまうのです。私は、無力や、不公平に反対です。私は、今でも30歳の誕生日の時のことを覚えています。友人の一人が、華々しく祝ってくれました。ブラジルのオーケストラを連れてきて、ブリジット.バルドーも来てくれました。そして、翌日の雑誌に載せる言葉を一言私が書くことになりました。当時、若い馬鹿男だった私は、得意になってこう書きました。『 私は、30歳になったが、そんなことはどうでもいい!』 と。でも、今では 『 私は30歳になった。幸せです。』 と書きたいと思っています 」 更に、ドロンは言う、「 人は、『 私には7つの人生がある 』 というのを受け入れないんですね。人生は、一つだけ、それだけなんです。スポーツでも、政治でも、いろいろな分野にスターがいます。でも、スターというのは手に届かない存在です。ですから、手が届きそうな状態 ( 英語で 『 reachable 』 と言った方がぴったりになりますね。) になると、下の方へ引きずり下ろす。あなたも、私も、この問題に直面しています。でもこれは、特権ですよ 」。 - information from Paris Match N 2424 1995 -
ナタリーとの別離以来、アランは、仕事に夢中になっている。Eddie Barclay は、「 La Capilla 」 に、ドロンのためのヨットと船員に加え、ピアノ一台と二人のミュージシャンを用意した。Barclay は、ドロンをレコード界のスターにしたいようである。今後6ヶ月、ドロンは、LP 盤を収録する ( ミシェル.ルグランによる12曲 )。10月には、ジジ.ジャンメールと、ルドルフ.ヌレエフとの共演で、ローラン.プティのテレビ番組への出演予定もある。彼は、そこで、フレッド.アステアを真似ながら、アメリカのスタンダード 「 Lady is a tramp 」 を踊ることになっている。また映画では、1969年の12月まで5作品が彼のスケジュールを占めている。今、ドロンは、取り巻きに囲まれていながらも孤独である。一人で電話付きのキャデラックに乗っている。( アンソニーは、この電話をおもちゃ代わりにし、ナタリーは、この電話を絶え間なく使っていた。) また、ある時は、一人で、ハーレー.ダヴィットソンに乗っている。しかし、いつの日かバルドーを引き継ぐだけの強い切り札を持っているナタリーは、青のディノ.フェラーリを一人で運転しているのだろうか? - information from Jours de France N 737 1969 -
ナタリーは、親しい友人や、同僚たちからは、「Nat'」 と呼ばれている。
ドロンが、インドシナに行く時に乗った船の名前は、「 クロード.ベルナール号 」。
アランは、「 黒いチューリップ 」 の撮影のために、スタントマンの Yves Chiffre と共に、ビュイックでスペインに行くことになっていた。出発前に、彼らはロミーとマネージャーの Georges Beaume と共に昼食をとった。Chiffre は、今でも思い出す。「 食事が済むと、我々は、それぞれに分かれました。その時アランが、『 ちょっ遠回りをしていくよ。一人拾っていかなくてはならないんだ 』 と私に言ったのです。マンドリュー.ラ.ナプールの公団住宅の前で、アランはクラクションを鳴らしました。すると窓が開き、大変美しく、良く日に焼けた若い女性が出てきました。彼女は、鞄を担ぎながら走ってきました 」 その少し後、ハリウッドにいるロミーを Georges Beaume が訪ねた。「 君への手紙が一通あります。アランが、私の出発前に、私の書類に紛れ込ませたものです。私は、何も知りませんでした 」 これが別離だった。その後も、別の女性たちが彼の人生に登場した。すべてトップクラスの女性たちだ。しかし、硬派な男を演じるには、「 美しい娘たち 」 に平伏すだけでは駄目だった。ドロンは、「 悪い美男子 」 を演じていく。若いアランは、トゥーロンのバー 「 Marsouin 」 の常連 だった。このバーは、シャルル.マルカントニーの経営する店で、その兄弟のフランソワは、当時、窃盗、加重情状のある窃盗、隠匿、兵器の所有と横流し、公務員買収未遂、また、殺人嫌疑などで、すでに裁判所の知るところとなっていた。このマルカントニーが、ドロンの人生の影の部分に存在していくことになる。戦後の、マルセイユでナンバーワンの顔だった 「 メメ 」 の娘 Marie-Christine Guerini は言う。「 アランを父に紹介したのはマルカントニーでした 」 ドロンは、このボスから息子のように迎えられる。二人は、一緒にピストルの練習をし、Lucky という名の馬を買う際にも手を組んだ。 - information from VSD N 1205 2000 -
( Alain and Mireille in 1970s - photo from Mr. Vignol - )
ドロンの両親は、Bourg-la-Reine の小さな団地に住んでいた。母方の Arnold 家は、20世紀初頭、この地方に移り住んだ。ドロンの母 Edith は、3歳の時に母を失い、大変な資産家であった父はすぐに後妻を向かえ、Edith は、実の母親に似ているという理由でいじめの的となる。彼女はやがて家出をして、ある家で家政婦として働くが、その家は芸能界に縁が深く、彼女は、多くのアーティストたちと出会った。彼女が、Fabien Delon と出会い、恋に落ちたのもその頃 (25歳) であった。彼女が 「 Fafa 」 と呼ぶコルシカ島出身の彼も、アーティストで、自由気ままな暮らしをする映画狂であった。彼のオープンした映画館は、Edith により、「 Regina 」 と命名された。Edith は、この映画館の案内係になるために、調剤師助手の仕事を辞めた。その後、1960年代初めにこの映画館は閉鎖され、肉屋、本屋へと変わっていく様を、ドロンは、大いに悔やみながら見ていた。30年後、自治体がドロンに持ちかけたプロジェクトを、ドロンが受け、「 Regina Alain Delon 」 という文化センターがオープンした。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 written by Bernard Violet -
ナタリードロン曰く、アランは、スキーと寒さ、そしてクラゲと海が嫌いらしい。 From 「Don't cry, this isn't hard」 ( Pleure pas, c'est pas grave ) which this book was published in September 2006, was written by Natalie Delon. – information from Ms. Karina -
2006年11月16日、ドロンはパリマッチ誌主催の公式パーティー ( 3000号記念 )に名誉ゲストとして出席した。 他の名誉ゲストは、フランス国防大臣だった。 - information from Ms. Karina -
Francoise Hardy の New アルバム 「 Parentheses 」 にドロンが歌手として参加しているらしい。このアルバム、2006年11月27日リリースの予定。 - information from Ms. Marie Claire -
ナタリーはドロンと分かれた後、約20年アメリカのユタ州のサンダンスに住んでいたが、フランス人女性として、アメリカのブッシュ大統領がイラクを干渉した時以来、アメリカを離れた。 - information from Ms. Karina -
ナタリーが始めてドロンに出会ったとき、彼女は、スコッチスタイルのスカートを穿いていた。 - information from Ms. Karina -
ナタリーによると、ドロンは、思想は右でフランスの同属偏愛主義者であるらしい。 - information from Ms. Karina -
アランは5歳の時からピアノのレッスンを長年の間、定期的に続けていた。腕も良く、サンプレイエルで行われたコンクールでは、何度も入賞した。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 written by Bernard Violet -
1963年10月、アランは 「 Félin」 の撮影のため、再びルネ.クレマンと仕事をすることになった。今回のシナリオは、パスカル.ジャルダンに任されたが、ジャルダンはその頃、アラン.ドロンについて、長く感想を述べている。「 私の妻は、アラン.ドロンを思い起こさせる。この何の共通点もない彼らが、お互いに似ているのだ。私はアランを12年前に知った。彼は当時駆け出しの俳優で、知り合った翌日に私の車を台無しにしてしまった。その頃から、彼には何事にも行き過ぎる傾向があった。彼はすべての規格外にいた。彼は私を魅了した。彼は、彼をもっと知るために女になりたいと時々私に思わせる唯一の男だ。彼の豊かさは、その多様性にある。幾つもの人物が彼の中に宿っており、それら人物はお互いに仲が悪いのだ...
ドロンが寄宿舎生活をしていた時の友人は、ダニエル.サルヴァデ。彼は、1984年に女優のMonique Tarbes と結婚して、現在は建築士となりパリ近郊に住んでいる。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 written by Bernard Violet -
2006年11月6日、ドロンは、アニージラルドの75歳の誕生日パーティーを主催した。Mireille Darc, JP Mariell, Alice Dona, Muriel Robin 他多数が出席 した。 - information from Ms. Marie Claire -
「 ああ、あなたベルギー人は黙れ 」 という本が 「 Vivement dimanche 」 というフランスの TV 番組の司会者Philippe Geluckによって出版された。彼は、この TV 番組から最も注目に値して面白い瞬間と引用を集めました。以下は彼の再集計です。どのようにして彼の本のタイトルが決まったのか、それはこの本の問題に関しての彼の会見談からの引用です。質問:「 あなたの本のタイトルの所以は何ですか?」 Geluck:「 我々は、ミレーユ.ダルクについて放送しました。部分的にアラン.ドロンについても。ミレーユはドロンに私達の決裂は、私にとって非常に辛かった。と告白しました。彼女は彼に 『 あなたが私を捨てた後、私がどれほど苦しんだか分かっていますか? 』 と言った。スタジオの観衆や600万人のTV視聴者の前でドロンは、青ざめた。しかし、彼は、『 はい、私は知っています。けれども、私もまたとても苦しみました。私は、私と一緒に暮らすことが簡単なことではなかったことを知っています。けれども、あなたと一緒に暮らすこともまた簡単なことではなかった 』 と誇張して答えました。そして私は、言葉をはさみ、『 これ以上、彼女を怒らせることはしないように注意して 』 と言います。彼は、私に、『ああ、あなたはベルギー人、黙れ!』 と答えます。私は、彼に、『ああ、あなたはスイス人、すべてはOKです。』 と投げ返した。『 一日で、あなたが16年間のラブストーリーを処理する時、再び私に会いなさい。』 と彼は続けた。それから私は、『 一つの私のものが29年間の間にあるので、あなたは運を持ちませんでした 』 と言った。その言葉は、彼を気絶させた。それから彼は、そのことについて話をするために舞台裏に来た。それ以来、このフレーズは、我々のチームで度々繰り返されていました 」 。 - information from Ms. Karina -
ドイツの雑誌 「 Die Actuelle 」 の記事によると。アラン.ドロンと彼の息子アンソニーとの間の古い確執が再燃した。映画スターであり、成功したビジネスマンであるドロンは、自分の相続財産の相続人からアンソニーを除外したがっている。ドロンは、彼の子孫に裏切られたと感じている。ドロンは、アンソニーとの全ての関係を断ち切った。最も最近の争い事は、フランス2チャンネルの TV 番組で、俳優であるドロンの息子の外見が、彼の父親と同じように女性にもてはやされることによって引き起こされた。現在アンソニーは、妻と二人の娘たちと一緒にロサンゼルスで暮らしている。彼は、「 私の両親が一緒に生活していた限りは、全ては順調だった。しかし、彼らが離婚して以来、私の父は、彼の全勢力で私を彼の欲求不満の対象として転嫁した。私は、『 ドロン 』 という名前を呪います 」 彼の両親は、1968年に離婚した。今、アラン.ドロンは、アンソニーが、彼の約1600万ユーロ ( この数字は、おかしい? ) 遺産を何も得ないという遺言を作成している。ドロンは、彼のより若い子供たち、アラン.ファビアンとアニューシュカに財産を分与するに違いない。アンソニーは言う、「 このようなことは、以前何度もあったつらい体験だ。しかし、それは実務的ではない。彼の金は、私には関係の無いことだ 」 。 - information from Ms. Karina on 27th November 2006 -
ドロンは1960年代初めにパリの8区の豪邸を購入した。この邸宅は、Massine 大通りと Bienfaisance 通りの交わる角にあった。4階建ての建物で、Bienfaisance 側には勝手口があったが、この入り口から地上階にあるアデルプロのオフィースに出入りできるようになっていた。その右側には、浴室とトイレの付いた2部屋のアパルトマンがあり、そこがステファン.マルコビッチの住居であった。建物の2階は寝室で、3階はレセプションルーム、4階は育児係の部屋だった。子供部屋には、壁紙と同じ青い枝葉模様の2重のカーテンがかかっており、その他の部屋の壁は、ベルベッドや絹などの布で覆われ、各部屋に浴室があった。主要寝室の浴室は、丸屋根構造で大変豪華な造りだった。そこには特別に設けたニッチに錫製の浴槽がはめ込まれていた。3階には、回廊へと続く階段の前に陶製のグレートハウンド犬が一対並んでいた。建物全体で700平方メートル、各階では約120平方メートルが居住空間に使われていた。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
( Alain and Nathalie in 1960s )
ドロンの好物は、パネ ( 表面にパン粉を付けたフライのようなもの ) したアンドゥイエット ( 臓物の腸詰め ) とレンズ豆を添えたプチサレ ( 豚肉の塩漬け )。 - information from 「Les mysteres Delon」 -
1970年代のドロンは、ランチタイムには、ドリンクと水しか飲まなかった。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
1970年代のドロンの運転手ジーナという人は、Ange Blanc という別名を持つ有名なプロレスラーでもあった。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 −
アランの銃への愛着に関して、アランの説明と事実に大きな違いがあるようである。アランは、「 西部劇が好きなだけ 」、と主張するが、ナタリーは、夫がかなりの量の銃を所有していたと言っている。ナタリーは、夫が事実を歪めていると知っていた。そして、「彼は、些細な事によく嘘をつきます。事実を釈明するのが嫌いなので、嘘をつくのです。」 とも言っている。フランス.ロッシュは、アランが日本から持ち帰った銃について、洒落にならない経験をしたことを覚えている。1963年4月のことだった。彼女の夫 Gilbert de Goldschmidt は、東京でユニフランスの主催する一週間のフランス映画祭に参加した。フランスからは何人かの映画スターらがやって来ていた。その中には、アラン.ドロン、フランソワ.トリュフォー、マリー.ラフォレ、フランソワーズ.ブリオン、アレクサンドラ.スチュワルトらがいた。映画祭の合間の自由時間に、彼らは高輪プリンスホテルの部屋に地元の商人に出向いてもらって、真珠のブローチやネックレスなどのショッピングを楽しんだ。唯一気がかりだったのは、おそらく税関に引っかかるだろうということだった。しかし、心配はこの税関の件にとどまらなくなってしまった。アランが、日本で購入した銃を腰に付けて持って帰ると言い出したのだ。仲間たちは冷や汗をかいた。ロッシュやブリオンが説得しても無駄だった。空港の税関に着くと、アランは、非常にリラックスしていた。彼の著名度、笑顔がものを言い、税関は困るような質問をしなかったが、ロッシュは、この狂気じみた行動のしっぺ返しが後々やってくるのではないか、と心配した。「 彼は、いつでも凶器やマフィアに深い愛情を持っていました。スリルを味わうのが好きなのです 」 と彼女は言った。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
ビヴァリー通り612番地のプールサイドで、アランは、この世のものならぬ至福の中で泳いでいた。彼は、MGM の招聘で仕事のためにハリウッドに来ていた。彼のために、或いは彼によって、計画された数々のプロジェクトは気品もスケールも言う事なしだった。ラルフ.ネルソンは彼を刑事もの 「 泥棒を消せ 」 で監督したがった。サム.ペキンパーは、ピエール.ドリュー.ラ.ロシェルの 「 L'homme a cheval 」 の映画化の準備を進めた。また、ジョージ.キューカーは、アランとシモーニュ.シニョレやナタリー.ウッドを共演させコレットの 「シェリ」 を現代衣裳で映画化しようと企画した。このうち後の二つの計画は実現されなかったが、どうしてもペキンパーと仕事をしたかったアランは、このウエスタン映画監督の一つのアイデアに同意を示した。それは、巨額な予算でのエキゾチックな歴史的冒険描写 「 Ready for the Tiger 」 で南アメリカの斬新なリーダー役を演じる事だった。しかし、スタジオは、政治的な関わりが明白なシナリオに衝撃を受け、絶対自由主義的で政治上全く公正ではない左翼的作品にたじろいだ。計画は保留となった。 唸るライオンがトレードマークのこの映画会社は、子供の誕生まで彼をそっとして、撮影の開始を遅らせ、ロサンゼルスのスタジオでの稽古をイタリア的に手っ取り早く段取るという特権を彼に与えていた。 ジャック.パランス、バン.ヘフリン、そして官能的なアン.マーグレットらに囲まれ、アランはこうして妻の近くで、毎日カルバーシティのスタジオに通い、夜には大急ぎで大量の買い物をした。アランは、Eddie Pedak を演じられて幸せだった。獄中生活の後に自由を取り戻し、正道に戻ると決めたところで、兄から汚い仕事を持ちかけられるという役である。アランは、毎週末、ビヴァリーヒルズの家に戻った。そして、撮影が終了を迎えると、彼は、美術担当の友人の申し出を受けて、家族とヴァカンスを過ごすために、彼のクエルナバカの邸宅を借りた。家族や従者らとともに、アランは、メキシコに発ち、彼の新しい住まいの庭が、ルイ.マルがこの1965年の春に 「ビバ!マリア」 の撮影で来たときに借りた住まいの庭と隣接しているものだと知った。この後、間違った噂が吹聴されないように、George Hamilton の監督で、不精な主人公、革命家 Flores の役をアランが演じたということは全くなかったが、この思いがけない滞在が噂に信憑性を持たせていた。その頃、アランには、既に共演したことがあり、一緒に一連の写真を撮った事のあるブリジット.バルドーとのキスシーンがあった。以前、彼は、「 La Verite 」 の指揮者ミシェルを演じるために、彼女とテスト撮影 ( 彼は、上半身は裸で、彼女は、ピンク色のタオル姿だった
1980年8月、ドレー監督との7作目になる 「 ポーカーフェイス 」 の撮影に入る。この映画は商業的大成功を収めたが、撮影中にはドロンが怒って現場を飛び出すなどのハプニングがあった。共演女優
( Alain Delon with Mireille and Dalida Di Lazzaro )
ジョゼ.ジョヴァンニ原作.監督の 「 ル.ジタン 」 の撮影は、アルプス地方のグラース近郊で行われた。共演者の中には、食堂のおかみ役を演じた
「 あなたの最初の記憶は?」 という質問に対して、ドロンは、「 母親の顔。銅製の浴槽の中に私を入れている母の顔です。」 と答えている。
第三回マラケシュ国際映画祭が、2003年10月3日から8日まで開催され、映画界の大御所がマラケシュに集った。2月に急死した映画祭創始者のダニエル.トスカン.ドュ.プランティエだけが不在だったが、土曜日には彼に捧げられたパーティーが開かれた。彼の妻メリータ、そして彼との間にアリアンヌとダヴィッドという子供をもうけたマリー=クリスティーヌ.パローの前で、イザベル.ユペールは、映画界がどれほど彼の不在を遺憾に思っているかを述べた。アラン.ドロンは、彼に対する尊敬の念を、彼の妻メリータに語った。このパーティーで、アラン.ドロンは、1000人もの招待客の前で、モウレイ.ラシッド殿下から勲章を受け取った。国王ハッサン二世との個人的な繋がりによる記章だが、モロッコと長年友情を深めているドロンには、計り知れない栄誉であった。その後、招待客たちは、立食ビュッフェへ移り、モロッコ料理を堪能した。翌日パリに発ったドロンは、もう一つの勲章を手にしていた。それは、共演者の一人であるクローディア.カーディナルから手渡された 「 エトワール.ドール 」だった。 - Information from Paris Match N 2838 in 2003 -
ドロンにとって 「 Regina 」 という言葉には、いろいろな意味がある。まず、彼の父親が経営していた映画館の名前。ドロンがデビュー前に家出して泊まっていたパリのホテルの名前。ドロンが行きつけのパリのレストランの名前。アレグレ監督のプロダクションの名前。
彼女の死について、アラン.ドロン以上に語れる人間がいるだろうか。彼は、彼女を情熱的に愛し、そしてその後には静かに愛した。 1968年にドレーの映画 「 太陽が知っている 」 で、彼女にキャリア復帰させようとしたのもドロンではなかったか。ロミーは、アランとの別離後、キャリアのために闘う気力を失っていた。ドイツに戻り、演出家ハリー.マイエンと1966年7月15日に結婚し、一児ダヴィッドをもうけていた。ロミーは、変わってしまった。子供に自分の全てを費やし、今まで味わったことのない、家族のぬくもりを大切にするために、もう働きたいとは思わなくなっていた。1968年、彼女の家庭は、崩壊した。離婚。彼女は、息子の親権を得るために闘った。子供と生きるために、財産の半分も諦めた。「 子供と別れるくらいなら、死んだほうがまし 」
1984年1月9日、ナタリー.バイとの共演で 「 Notre Histoire 」 の撮影が始まる。ナタリー.バイは、大物ぶるアラン.ドロンの存在に最初は、イライラしたものの、二人は次第に打ち解けて行った。現場で、アランはナタリー.バイの愛犬のフォックス.テリアをからかって遊んだりもした。また、自分の楽屋に彼女を簡単な食事に招いたこともあった。そのメニューは、ステーキとサラダ、そして一杯のボルドー赤ワインという簡素なものだった。この映画の役を演じるにあたって、アラン.ドロンは、何度も同じ質問を受けた。「 転機か?」 と。それに対し、彼は、次のようにコメントしている。「 ドロンの転機かって?笑わせてくれるよ。転機など存在しない。私は、いつでも自分のことをドロンと三人称で呼んできたし、これからもそれを変えるつもりはない。私の全キャリアを通して、私は、いつでも違う役を演じてきた。『 パリの灯は遠く 』 や、『 高校教師 』、『 若者のすべて 』 で演じた役に共通点があると言うのか?全くありはしない!大物俳優、つまり私のような大物俳優は、決まりきった役に閉じこもっているわけにはいかない。最近では、シャルリュスを演じたが、そこでもまた転機かと言われた。みんなマニアックになりすぎだ!私の役の選択が、私生活あるいは仕事上の変化を意味するのだと何が何でも決め付けようとするのはやめて欲しい。ある役を演じるのは、いつでも機会の問題なのだから 」
( Alain and Mireille at Forum des Halles in Paris on 5th September 1979 )
インドシナから帰還したアランは、夜間、人手を必要としているレ.アールの問屋で、荷物を運搬する仕事に就いた。深夜に終わる激務で、明け方、シャンゼリゼ近くの Mermoz 通りの部屋に戻った。同じ階には、エジプト出身の女性 Yolanda Gigliotti が住んでいて、彼に身の上を語るようになった。彼女は、ミスエジプトとなって、フランスへ出てきたが、フランスの後見人たちの約束と支援が日を追うごとに減っていくと嘆いていた。これが後のダリダである。アランは、自分についてはあまり語らず、ただ、「 インドシナから帰ってきたばかりだ 」 とだけ言っていた。彼は、まもなく、5区の安ホテルに引っ越した。そこには Halimi 兄弟も住んでいた。兄 Benjamin とアランは、毎晩のように歓楽街へ出かけた。こうして、彼は、サンジェルマン.デプレ界隈のサン.ブノワ通りにあるバーで毎晩過ごしながら、夜遊びの雰囲気に魅了されていく。そのバーには、役者たちが多く通っていた。ルックスがズバ抜けて良かった彼は、舞台デビューのオファーを受けたこともあった。結局、その企画自体が流れてしまい実現はしなかったが、当時多くの女性に追いかけられていた彼の成功を確信する者は多かった。有名なカフェ.ド.フロールの目と鼻の先にある、サン.ブノワ通りのあるバーで、彼は、アンティーユ出身のジジに出会った。彼女は、ダンサーだったが、ポリオにかかり数ヶ月前から両足を麻痺していた。同情した彼は、彼女の家まで送っていく。こうして、アランは、しばらくの間、彼女と幸せに過ごした。ブリジット.オベールと出会う日まで。1956年に彼と出会った時のことをブリジットは覚えている。「 その日私は、クラブ.サンジェルマンに踊りに行っていました。私にどうしても会いたい男の子がいる、と友人の一人が、私に言ってきたのはその時です。友人は、その男の子が向かいのカフェで私を待っていると言ったのです」 ブリジットの友人たちは、その青年が何者であるかは知らなかった。ただ、抜群の美貌であるとみんな口々に言った。しかし、彼女は、その見知らぬ青年に会うことを拒む。「 次の日も、その次の日も、彼は、申し込んできました。3日目になって、私は、彼に会う決意をしました。友人たちが言っていたように、確かに彼の容姿には人の目を釘付けにするものがありました。唯一困ったのは、彼が既にビールを15杯も飲んでいて、完全に酔っ払っていたことです 」 この日から二人は、「 時には花火が散ることもあったが、美しく素敵な 」 関係を築いた。彼らは、まず、7区のプレ.オ.クレール通りの地上階のアパルトマンで同棲した。部屋の真ん中には、噴水があった。ブリジットの思い出の中のアランは完璧で、優しく甘かった。彼は、時には、貯金をはたいて、彼女に豪華な贈り物もした。「 ある日、私がロケに出かけようとすると、彼は、私にスエードのブーツを差し出しました。素晴らしいブーツで、かなり値の張るものだったはずです。彼が、どうやってお金を作ったのかは知りませんでしたが、ロケの間、ずっとそれを履いていました。また、ある時は、私が舞台公演をしていたスイスまで彼は、会いに来ました。その時、彼は、ひどい風邪をひいていたのですが、私に会いたいと言って来たのです。本当に愛らしい少年でした 」 と彼女は回想する。アランの方は、ブリジットとの関係を語ることに多少恥じらいがあったようだが、何度か雑誌で語っている。彼が、ブリジットを自分の家族に紹介し、そこから家族づきあいが生まれたのもこの時期であった。ブリジットにとって、アランは、大した技量を持たない若者だということは明白だった。しかし、彼の野心だけは大きかった。彼は、役者になりたがったが、ブリジットは本気にしなかった。「 彼は、いつもこの世界に憧れていました。彼は、とにかく有名になりたがっていました。単に役者になるというのではなく 」 アラン.ドロン自身は、次のように述べている。「 当時、私は、特に何かの職業に憧れていたわけではなかった。ただ、何であれ、何か自分が大きなことをし、成功するのだと確信していた。それが、たとえ靴下売りだったり、保険勧誘員だったとしても 」 ブリジットは、最初は、役者の道へ彼をバックアップしなかった。彼を失うのが恐かったせいだ、と言われている。「 彼が、芸能界に呑まれてしまうのが恐かったのです。でも、彼が興味を示したのはこの世界だけでした 」 ある時、彼女は、彼に、報道写真家になるように勧め、ルポライターの Francois Reichenbach に紹介した。しかし、アランは、一年も下積みで、人のカメラを持ったり、暗室で写真を現像するのは嫌だった。彼女は言う。「 彼にそんなことをする気は、まったくありませんでした。すぐにでも成功し、有名になりたかったのですから 」 彼女は、いつまでも彼の一番の願いに反対するわけにはいかなかった。そして、彼を演技のレッスンに通わせ、芸能界への道を試させた。そこで出会った最初のコーチ Simone Jarnac は、ブリジットに 「 彼は、信じられないほどの才能がある」 と打ち明けている。1957年のカンヌ映画祭に、ブリジットは正式に参加した。アランは、それについて行き、彼女が家を所有する Saint-Paul-de-Vence に滞在した。映画祭でアランは、新人俳優のジャン=クロード.ブリアリと出会った。「 アランとジャン=クロードは、コートダジュールで知り合い、すぐに意気投合しました。彼らは、同じくらいの年齢で、同じような生活を送っていました。そして、同じ将来を夢み、成功する才能もあったのです。」 と彼女は語っている。アランは、コート.ダジュールで記者たちの注目を浴びた。ある記者は、「我々は、無料の映写会を催していました。大成功でした。そこでは、ある若い青年が、奇抜な方法でカメラマンの気を引こうとしていました。彼は、明らかにジェームス.ディーンを意識して、スポーツカーを乗り回していたのです。彼の名は、アラン.ドロンといいました 」 と述べている。アランには、この世界にコネはなかった。そのコネを作るためにも、人の目を引きつけずにはおかない自分の美貌と、すべての人を参らせる自分のまなざしを最大限に生かすしかなかったのだ。ブリジットは、彼の魅力が、男女を問わず功を奏することを知っていた。「 アランは、人を魅了するがままにしていました。そうして楽しんでいたのです」 彼は、ブリアリと現地の一流ホテルに出入りするようになる。そして、Micheline Presle に見出される。「 ホテルの片隅に、抜群にルックスの良い青年がいたのを覚えています。彼は、自分の周りをしげしげと観察していました 」 同じホテルでは、記者二人とも意気投合し、ブリアリを含め4人で外出したりもした。また、アランの魅力は、その年の映画祭の審査委員長であったジャン.コクトーさえをも無関心にはさせておかなかった。母エディットは今でも、映画祭終了の数日後に受けたジャン.コクトーからの奇妙な電話を忘れられない。「 ジャン.コクトーがどうやって私の電話番号を調べたのか私にはわかりません。彼は、アランとの関係に憤慨していました。だから、私はコクトーに言ってやったのです。『 だったらアランに平手打ちでも食わせれば良かったじゃないですか 』 とね 」 と母は語る。その他、映画祭には、ロミー.シュナイダーも出席していたが、彼女とアランが同会場に居合わせたかは不明である。パリに戻ってからのアランは、多くの異常行動をとった。ある夜には、外から自分のアパルトマンの鎧戸に向かって銃を数回撃ち、損害を受けた隣人が警察に通報している。また、ある日は、ブリアリとドライブするために、ブリジットに車を貸して欲しいと頼んだ。あまりの図々しい態度に、彼女は、「 私の車はタクシーじゃないわ 」 と答えると、彼は、ブリアリの待っている外に飛び出した。この続きは、ブリアリが次のように語っている。「 彼は、僕の方に向かってくると、ポケットからピストルを取り出し、彼女の車のドアに向かって一発撃ってドアを開けた。そして、小細工をしてエンジンをかけると、僕に、『 さあ、乗らないかい? 』 と言ったのだ。僕は、恐怖に怯えた。こいつは、狂ってる 」 ブリジット.オベールは、10歳も年下の彼と、長く付き合えるとは到底考えてはいなかったが、彼のひどい性格にだんだん耐えられなくなってきた。彼女は、彼について、「 多くのことに対して自分自身に勝たなくてはならない人 」 と形容している。また、後に共演することにもなる彼の友人 Marie Laforet も彼の怒りっぽさに何度か遭遇している。「 彼が、優しく、思いやりのある行為をとるのも多く見てきましたが、彼は、時には、女性をひっぱたくこともありました。彼女らが何か彼の気に入らないことを言ったからと言って。些細なことで、彼は、我を忘れてしまうのです。そして、真っ赤になって相手に平手打ちを食わせてしまう。アランは、自分のマナーとか、教育の無さをバカにされるのが恐いのです。そして誰かがそうすると、怒り狂うのです 」 しかし、このような生活の中でも、彼は、自分の目的を忘れなかった。彼は、ハリウッドへ誘われたのとほぼ同時期に、Michele Cordoue に見出される。彼女は、「 ジェームス.ディーン風 」 の役のために若い俳優を探している有名監督イヴ.アレグレの妻だった。アランは、スターたちの集まったワイン会の会場で、女の友人 Sylvaine Pecheral を介して彼女に紹介された。アランとブリアリの共通の親友でもある Sylvaine はその時のことを覚えている。「 私にとって、アランとブリアリは、ヨーロッパでナンバーワンでしたね。ただ、彼らは無名でしたから、誰もサインをもらいには来ませんでしたが。会場では、Michele Cordoue が私を呼んで尋ねました。『 あなたと一緒にいたあの美しい青年は誰なの?』 と。『 どっちの?茶色の目の?それとも青い目のほう? 』 と私が聞くと、彼女は、『 青い目のほうよ。私に今すぐ紹介してちょうだい! 』 と言い、そこで私がアランを呼んだのです。彼女は、アランにこう切り出しました。『 実は、私の主人が、若い不良役を探しています。あなた、演じてみる気はありませんか? 』 」 こうして、アランは、翌日アレグレに会った。2時間の対談の末、アレグレは、彼にすっかり惚れ込み、この映画初心者に役を与えることに決めた。ドロンは、役を受けた理由について、「 面白そうだったし、金にも困っていたから 」 と述べている。しかし、承諾には一瞬戸惑った。アレグレは、ジャン=ポール.サルトル原作の映画を手がけるなど、有名な大物監督で、彼と一緒に仕事をするのはこの上ない光栄だったが、この仕事を引き受けると言うことは、アメリカ行きを断念することを意味したからだ。迷う彼を、サルトルが説得した。「 君がキャリアに成功するのは、フランスだ。アメリカじゃない。故郷で1位を争う方が、ハリウッドで41番くらいの位置にいるよりずっといい 」 アランは、その通りだと思った。こうして、またしても運命が彼に目配せをした。というのも、アレグレの映画プロダクションは 「 Regina 」 という名前だったからだ。
( Alain Delon and Mireille Darc in 1970s )
メルヴィルとの 「 サムライ 」 の撮影にあたっては、ドロンはナタリーの起用に反対した。監督のメルヴィルは、ナタリーに光るものを見出していたので、Sand という芸名で彼女を使いたがっていた。(彼女が、ドロンの妻であると観客にわからないように) ドロンの躊躇には、プライベートな理由も入っていた。マスコミは、しばらく前からアランとナタリーの不仲を書き立てていた。マルコビッチが二人の仲を取持とうとしたが、駄目だった。「 サムライ 」 の公開の一ヶ月前に、アランは、パリ裁判所に離婚調停の申し込みをした。しかし、ナタリーとの関係は、すっかり終わってしまったわけではなかった。二人は、その頃、一緒に特別試写会にも顔を出したりもしている。彼らは二人とも別々に、それぞれの仕事をしていた。10月には、二人の別居が正式に裁判所から認められた。それにより、アランは、 Avenue de Messine の住居に、ナタリーは、シャンゼリゼに近い Rue Francois 1er のアパルトマンに住むことになった。ナタリーは、こう打ち明けている。「 この頃から私とアランとの間の亀裂は、とても深いものになりました。彼は、私が女優として仕事をするのを嫌がったのです。でも、それぞれが自分の地位に固執していました。そこで、私は、いえ私たちは、離婚しようと決めたのです。私は、サントロペに家を借りて、一ヶ月そこで過ごすことにしました。息子と、育児係りの女性と、シルビー.バルタンと一緒に。ステファンは、私をそこまで乗せて行き、翌日には、パリのアランの所へ戻りました。1967年8月15日頃のこと、ステファンは、事前に何も連絡しないで突然、私の所へ来ました。その頃、マスコミは、私とアランのことを書き立てていましたから、アランが、その件について私のもとに彼を遣したと言っていました。彼は、10日ほど滞在しました。彼が到着して2、3日経った頃、私は、病気で伏せっていました。その時、私は、ステファンと関係を持ったのです。そして、彼がサントロペにいたその後8日間、その関係は続きました。ステファンがパリに戻る時、私は彼に、私たちの関係はこれで終わりにしよう、私たちは馬鹿なことをした、こんなことで友情を駄目にしてはいけない、とはっきり言いました 」 パリへ戻ったナタリーは、アランとの生活をやり直そうとした。その間、ステファンは、夫婦と同居し続けていた。しかし、ナタリーとアランの関係は、決して元通りには戻らなかった。ロンドンでのロケ期間中、アランは、ナタリーに手紙を送った。その頃、彼女は、Avenue de Messine のドロン邸に戻って来ていた。「 ステファンが私に、アランからの手紙を持ってきました。そこには私が、過去を忘れることが出来るか、ロンドンに来てくれるか、という内容が書かれていました。その晩私は、ステファンと一緒にタンクルーの家に行って、翌日にはロンドンへ発ちました 」
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( Alain Delon with Ingrid Held )
1989年、映画 「 ヌーヴェル.ヴァーグ 」 で、アラン.ドロンは、ゴダールと仕事をすることになる。何の共通点もないこの二人が同じ映画を作ることを、関係者は、最初冗談と思ったくらいだが、二人は、パリのホテルのバーで初めて会い、話を進めた。ゴダールは、大変内気な性格で、初めて会う人の前では、人見知りをした。ドロンは、こう語る。「 私は、ゴダールをリラックスさせようと、『ああ、偉大なるマエストロ、あなたにお会いできるとはなんという喜びでしょうか!』 と言って、彼の前に現れたのだが、ゴダールは、更に萎縮してしまった。彼は、少し舌足らずに、『 私のアイデアをどう思われましたか?』 と私に聞いた。私は、ゴダールを真似して、『 素晴らしい考えですよ!』 と答えた。すると彼が、『 では、あなたは私のレジュメを読まれたのですね? 』 と言うので、私は、『 大変興味深い内容です』 と答えた。アラン.ドロンは実際には、ゴダールの説明の半分も分かっていなかった、と別の場所で告白している。だが、彼にとって、チャレンジは、大歓迎だった。アラン.ドロンは、ゴダールのためにすべてを受け入れようとしたが、撮影中は、ドロンとゴダールと彼の妻との間に摩擦が起こった。彼女が、夫である監督の代わりにしばしば指図を出したがったからだ。ドロンは回想する。「 この仕事を熟知し、尊重する私の前で、監督の横に座っている人間が、『 テイク4にします 』 などと言う。私は、彼女にこう言った。『 お願いですから、彼 (ゴダール)に選ばせて下さい。たとえあなたが選ぶのだとしても、私の前では、そうしないでください!』 撮影は、ゴダールの希望で、スタジオを外部者に完全に締め切った形で行われた。撮影クルーは、全部で6名ほどのスタッフで構成されていたが、これまで少なくとも80人のスタッフのいる撮影現場で仕事をしてきたドロンにとっては、大変な環境の変化だった。スタジオでのゴダールは、口数が多かったが、彼の言うことには、わけのわからないことが多かったと、ドロンは言っている。「 私にとって、大変だったのは、ゴダールの言うことの曖昧さ、不明瞭なところだった。例えば、彼は私に、『 それを左に置いてみてはどうかな、こんな風に 』 と私に言う。私は、彼の言葉どおりにする。するとゴダールは、今度は、撮影の後に、『 右に置いてくださいと言ったではないですか!』 と私に言うのだ。私が、『 いいえ、左とおっしゃいましたよ。まあ、どうでもいいことですがね。あなたのお好きなようにしますから、ただ、ちゃんと指定してくださいよね!』 と答えると、ゴダールは、『 だが、それこそ私にはわからないことなのだよ。それに、右だって左だって大した違いはないじゃないか 』 と、こう出るのだった 」 公開後、アランにとっては満足のいく出来栄えにも、批評家は冷たく、アラン.ドロンは、この失敗に深く傷ついた。 「 疲れた。もはや、目標さえ失ってしまった。」何もかもが、ごちゃごちゃになっているようだ。もう何も見えてこない。自分には、映画館や劇場に行ったり、家族と共に過ごす時間さえない。この夏、4日以上休んだことはなかった。竜巻に巻かれているような状態だ。もう何もわからない。頭がくらくらする。自分の方向性を取り戻さなくては。スピードがあまりにも速すぎた。休息が必要だ。このままでは、仕事の成果を味わう暇もない。75歳になるのを待つことなどできない 」 充電のために、アランはジュネーヴの邸宅にこもることにした。その家の入り口には、二頭のモロスが、警備のために常在していた。家の中は、絵画の傑作や、彫刻のコレクションでいっぱいだったが、彫刻の一つは、死んだ愛犬マニュのメモリアル碑として庭に立てられていた。家の名義は、彼の会社の社長の名前になっていたが、これはスイスにおける滞在許可書 C を取得するまでの対策であった。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
1986年当時、ロワレ県にあるドゥーシーのドロンの本宅のリヴィングルームには、室内プールが隣接していたが、その後、このプールは、10人ほどの人数を収容できる映写室に変わった。暖炉の横には、12世紀の絵画 「 狩の情景 」 が架けられている。
映画 「 ダンシングマシーン 」 では、監督 Gilles Behat と Alain とのいざこざは、映画史上初ともいえるほどのすざましさだった。ある関係者によれば、「 怒り 」 と 「 ハリウッド式気まぐれ 」 のちりばめられた6週間だったと言う。まずは、ドロンだった。彼は、共演女優が気に入らず、3日間現場を放棄した。次は、監督の Behat が一日スタジオから消えた。また、フレンチディスコ界のプリンスともいえる Cerrone は、はっきりしない理由でアランにスタジオから追い出された。そして、ドロンの振付師であった Redha。彼もよくわからない理由でドロンから攻撃された。とにかく、ほとんどすべてのスタッフと衝突し、撮影現場でドロンとの衝突を免れたのはたった二人だった。彼の衣装係と原作の Paul-Loup Sulitzer だ。それどころか、Sulitzer は、友人ドロンには、勇気、友情への忠誠、そしてプロ精神という3つの大きな長所があるとさえ言っている。「 彼は、臆病者ではない。必要とあらば、相手に食って掛かることもできる人間だ。ある時、サントロペのビストロで、アランがののしられたことがあったが、彼はすぐに腕まくりをした。彼には、いつでも相手と喧嘩し、打ち負かす準備があったのだ。」 映画の批評は散々で、「 アラン.ドロンは、あらゆる製作を台無しにしている 」 とさえも言われ始めた。自殺行為に走っていると。パリの社交界からは、「 アラン.ドロン気取りしている 」、あるいは、「 ドロン様気取りしている 」 とまで陰口をたたかれるようになり、友人の Jean Cau さえも、アランの行動に疑問を抱いている。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
ドロンは、ロザリーの祖国オランダでは、全くのお忍びでゆっくりできるらしい。誰にも邪魔されずにサイクリングをしたりして週末が過ごせる。そして90年代半ばに、ドロンは、北海から約3キロのところに家も購入した。「 ロザリーには、彼女のルーツが必要なんです。それに、半分オランダ人である子供たちにも、彼らの国を好きになって欲しいですし 」。
父の娘に対する素晴らしい仕草。「 アニューシュカは、素敵な子供です。性格も強く、彼女が駄目と言ったら、駄目なのです。私に対してもですよ!彼女がしたくないことを私が指示すると、彼女は、私を見て、私の真似をするんです。眉に皺を寄せて。これには、全くメロメロになってしまいます 」 - information from 「 Cine Tele Revue 」 No 9-2 Mars in 1995 -
ある6月の日曜日、アラン.ドロンは、家族とともにドゥーシーで過ごしていた。56ヘクタールの私有地。家族の誰もが幸せに満ちている。大きなキッチンの L 字型テーブルには、食事の支度が出来ている。庭で育てたアジサイのピンク色のブーケを背景に、伝統的な料理が並んでいる。ドライソーセージ ( ドロンは、自分の初めての職業をいつまでも忘れることなく、誇りを持ち続けている。)、ローストチキン、フィレンツェ風サラダ、ブリーチーズ、自家製生クリームの添えられたイチゴ。唯一の例外は、1982年もののシャトー.ラブールだ。食事の後、ロザリーが子どもたちをドゥーシーのお祭りに連れて行く間に、我々は、書斎に落ち着いた。大きな部屋で、大窓は森に面している。テーブルの上には、書類や、電話、新聞、画集がある。そして、彼の前には、ある雑誌の表紙のコピーが。その表紙には、「 アラン.ドロンとロザリー。彼女は、子供を連れて家出。カップルの危機。ドロン、手痛い打撃。世界ツアー、キャンセル 」 とあった。一家の父である彼は、戦闘態勢でこう述べた。「 我々のカップルが駄目になると言う者は、全員くたばらせてやる!フランスやアフリカでこれほどの事が起こっていながら、私の悪口しか書くことがないのか。」 「 真実は、実に単純です。私は今、ベルモンドとヴァネッサ.パラディの共演で、パトリス.ルコントの 『 Une chance sur deux 』 を、コート.ダジュールで撮影しているのです。ロザリーは、オランダの父親に会いに、Voorden に行っただけで、2週間後には、逆に彼女が子供たちと、コート.ダジュールのムージャンに私が借りた家に合流する予定なのです。それでも、彼らはこう書き立てるのでしょうね。『 手痛い打撃。世界ツアーをキャンセル 』 と!これは、全然関係のないことです。私は、世界ツアーを全く個人的な理由でキャンセルしたのです。もし必要なら書類を作成してもいいですよ 」 我々は、少し外に出た。「どんな夫婦にだって、嵐のような時はあるでしょう?でも、私の家族の問題は、私だけのものです。そして、こんな陰口を言う者には、『 くたばれ!』 と言ってやります。ロザリーと私は、もう10年も一緒にいるし、一緒に人生を終えるでしょう.....アニューシュカは今7歳で、かなりのことが理解できるようになりました。学校では、友達が 『 お父さんとお母さん、喧嘩しているの?』 と彼女に聞くそうで、こんな馬鹿げたことが、子供たちの心にずっと残ってしまう。こんな卑劣な行為に身をさらすわけにはいかないね 」 車が停まり、ロザリーが子供たちとお祭りから戻ってきた。子供たちは、仲良しの犬 Maya, Charly, Snoopy に会いに犬小屋の方へ走る。キッチンのドアの前には、ゴルフのための電動自動車が止まっている。「 パパ、一周しに行こう!」 ドロンは運転席に座る。アラン.ファビアンは、彼の膝の上、アニューシュカは、彼の横に立っている。彼らを乗せた車が森の中へと消えていく間、ロザリーは、野花で溢れるプールサイドへ歩いて来た。 「 たぶん私がオランダ人だからかもしれませんが、私は各国の品種に囲まれて庭いじりをするのが大好きなのです。いつだったか、珍しい植物をこっそりと持ってきたことがありました。アランは、喜ぶと同時に、少し憤慨もしていましたが。ここにあった城は破壊されてしまったので、私は庭だけでも再現したいのです。古い文献を見たり、写真を見たりしながら。この 『 cuisse de nymphe 』 と名付けられたバラを見てください。匂いをかいでみて下さい。こんなに香ばしい花を私は知りません。私が死んだら、この花を墓に入れて欲しいです 」 アランが戻ってきた。子どもたちは再び犬と遊んでいる。 「 今回のカップルの破綻という記事については、私もアランと同じ意見です。3ヶ月前にも同じような事がありました。私は恥ずかしさで、気が滅入ってしまいましたよ。ですから、今回はちょっと行き過ぎです。アランの存在のために、私の一部は公のものとなってしまいましたが、私は二人だけのものを大切にしていたいのです。ドゥーシーは、私たちの秘密の園。天国。何にも傷つけられてはならない場所なのです」 。 - information from Paris Match M 2533 in 1997 -
( Delon with his pet dog at artificial pond of his base in Douchy )
13年目にして初めての、ロザリー、家族とのビアリッツでのヴァカンス。彼女が夢見ていたものをアランは叶えた。自家用ヘリコプターの操縦席から、バスク海岸へ降り立った彼は、水着姿で何もしないでいることの素晴らしさを初めて味わった。世間のパパと同じように、10歳のアニューシュカと6歳のアラン=ファビアンを目で追いながら。ジュネーヴ近郊の Chene-Bougeries の所有地が気に入った彼は、1999年、スイス国籍を取得した。普段は時間に追われて、ヘリコプターで、現在チャペルを建設中のロワレ県のドゥーシーの家とを往復している。 しかし、今、ビアリッツのホテル.ド.パレで、ゆったりとした時間を過ごす彼は、「 ベッソン、ルコント、スピルバーグからの出演依頼が無い限りは 」 既に映画界からは引退を決意し、TF1 チャンネルのシリーズ 「 Fabio Montale 」 の撮影が始まるのをゆっくりと待っているだけだ。また、新学期に発売される写真集も目下 Henri-Jean Servat と丹念に仕上げている。彼は、リラックスし海を眺める。もうすぐ65歳になるというのに、砂浜の 「 アポ (ド )ロン 」 並みのボディーをしている。この前の6月には、イタリアで、週刊誌 「 Eva Tremila 」 に 「 もしも不能になったら、自殺するでしょう 」 と言って世間を騒がせたのだったが。それは、1972年に撮影した映画のテーマの暗示に過ぎなかった。 - information from Voici N 665/HEBDOMADAIRE DU 7 AU 13 AOUT 2000 -
( ロザリー アランのパートナー ) Cine-Tele Revue の依頼に、彼女は、プライベートに触れる最初で最後のインタビューに答えてくれた。彼女の小さな訛りはチャーミングだ。彼女は、オランダ人である事を誇りに思っている。愛情を込めて、彼女は、パートナーについて語ってくれた。( 彼女は、アランのことを 「 夫 」 と呼ぶ。) - information from " Cine-Tele Revue " N 46-16 NOVEMBRE 1995 -
1953年の初め、アランは、レンヌ近郊の Pont-Rean 訓練所に、「 H.R.( 別格 )」 軍人として迎えられる。「 別格 」 と聞いたとき、彼は、自分がエリート集団に配属されたのかと思った。しかし、実際には、専門教育を受けるには学力レベルが低すぎる者たちが 「別格」 扱いされているに過ぎなかった。アランの落胆は大きかった。「H.R.」 軍人はまず、デッキを一日中洗うか、一般教育を完璧にするかのどちらかを選ばねばならなかった。アランが選んだのは後者だった。Pont-Rean 訓練所に着いた彼は、私物をすべて家に送り返すように命じられる。 その代わりに、彼は海軍の軍服を受け取った。ベレー帽、縞模様のアンダーシャツ、紺色のシャツ、フラップパンツ、黒いネクタイ、ピーコート、ズックの作業服などだ。認識番号の書かれた記章も渡された。この記章はチェーンにくくりつけられ、ブレスレットのように左腕につけなければならなかった。彼のお気に入りの物だったと見えて、後に 「 Parole de flic 」 に出演した際に同じ認識プレートをつけている。まもなく、アランは、5人部屋に入る。そこには、2歳年上のレイモン.ブラスコもいた。彼もまた母親の再婚相手とうまくいかずに、厳しい規律への道を選んだのだった。訓練所での生活は、学問と肉体訓練との二つが中心となっていた。 日がたつにつれ、レイモン.ブラスコはアランの性格を把握していった。「当時の彼は、今のようではなかった。とてもおとなしく、控えめで、粋だった。何よりも心根がやさしかった。」 彼はまた、アランと町にくり出した時のことも覚えている。「 その日は、彼と町に踊りに行った。夕方の6時ごろ、専用バスで訓練所に戻ろうとしたが、もう食事の時間は過ぎており、夕食にはありつけないということがわかったが、彼も僕も一文無しだった。そこで、赤十字の収容所がフライドポテトを10サンチームで売っているということがわかった。アランは、それを買おうと僕に提案したが、僕には文字通りまったくお金がなかった。彼のポケットには20サンチームが入っていた。僕は彼に言った。『 行ってこいよ。僕はバスを待っているから 』 すると彼は驚いて、『 君が外で僕を待つなんて問題外だ。一緒に来るんだ。そして、一人一皿ずつフライドポテトを頼もう 』 と言った。彼は、僕がひもじかったあの日、僕に食べさせてくれた。ブラッサンスの歌にあるように、このことは一生忘れられない。」 また、ある時にはレイモンはまったく別人になってしまったアランを兵営に連れて帰ったこともある。アランがブルターニュ美人と恋に落ちてしまったのだ。「 その時の恋は、彼の Bourg-la-Reine 時代の少年期のものとは全く違っていた。彼はその日初めて本物のキスを味わったのだ。僕は、興奮しきった彼に翌日の朝まで耐えなければならなかった。」 これらの楽しい出来事は、軍による厳しい訓練を忘れられるひとときとなった。訓練終了後、レイモンはシェルブールへ、アランはトゥーロンへと配属され、二人は別れる。5年後に軍を離れたレイモンは、もう二度とアランに会うことはなかった。 「 彼の映画界のキャリアは、新聞、雑誌を通していつも見ていましたし、彼のインタビューもたくさん読みました。でも、彼があまりにも変わってしまったような気がしてならないのです。私の知っているあの青年とは全く別人になってしまいました」 軍では、アランは、新しい家族を作ったような気がした。しかし、本当の家族とも全く疎遠になったわけではなかった。彼の母エディット.ブローニュは、息子の出征からまだ立ち直っておらず、訓練所の上官に対し、息子の兵期延長への異議を、息子の知らぬ間に申し立てていた。トゥーロンでは、週末になると彼は 「 シカゴ 」 に通った。「 シカゴ 」 とは、いかがわしい界隈に名付けられた地元民による呼称だ。そして、その地区のバー 「 Marsouin 」 の常連となり、コルシカ出身のオーナー Charles Marcantoni ( シャルル.マルカントーニ ) と Rita ( リタ ) 夫妻に気に入られ、インドシナ出発前も帰国後も、気前良く夫妻からもてなされた。シャルル.マルカントーニは回想する。「 我々の客は、ほとんど海兵だったんですよ。彼ともこうして知り合ったんです。何故、彼を気に入ったのかというと、難しいですね。でも、客が良い友達になるということもよくあるものなんです。彼の友人たちは、うちや他のバーをはしごして、ちょっと立ち寄るくらいでした。でも、彼はよくうちに来たんです。常連でした。大人しく、愛想の良い青年だったことを覚えていますよ。17歳でした。海軍にいるのが嬉しかったのかどうか。多くの海兵たちは、契約時に支給される手当てが目当てで入ったのですから。そうでなければ、家族の束縛から逃れるためでした。同時に、彼らは戦争に係わっていたのです。戦場に行っていたのです」 アランの反抗ぶりは、トゥーロンでもすぐに将校たちや下士官らに注目されるようになった。彼は、懲罰にも恥じることなく、 「 親友がラジオを組み立てたいと言ったから、機材を盗んで一緒にラジオを組み立てた。」 と言っている。やがて、彼は契約を二年延ばして、インドシナへと出発する。サイゴンへ向かう一ヶ月の航海の間に、3度寄港しなければならなかった。エジプト、ジブチ、そしてシンガポールだ。インドシナは彼にとって、水田、目の細い女性たち、仲間といったイメージを与えた。フランスがアジアで行った植民地戦争は、政治的意識をもたらしただろうか。かつて Bourg-la-Reine で恐れられていた彼も、何故自分がこんな極東にいるのかわからなかった。 「 我々は、何故戦争が行われているのかも知らなかった 」 と、彼は語っている。彼は、インドシナの首都を、泥土の中に造られた、群集のひしめく平らな町だと捉えていた。彼は、やりきれない暑さにも、 「 常に水蒸気のために曇っていて、けっして青くはない空 」 にも不平を言わなかった。パリの流行より何年も遅れた流行、何週間も上演されるギャバンの映画、彼は、いつか自分がギャバンと共演する時がこようとは夢にも思っていなかった。「 それが、私にとって初めての最も素晴らしい映画の思い出だった。それは、フランスであり、ギャバンであった。人生において、誰もが自分の居場所から逃げてどこかへ行きたいと思うことがある。しかし、ついにそのどこかへ来たとたん、パリの地下鉄の切符や、フランス映画など、パリへと自分を結びつけるものが恋しくなるのだ。仲間も、私も、皆パリの地下鉄の切符をボロボロになっても財布の中に大切にしまっていた 」 彼は、小さな箱の中に、女優 Madeleine Lebeau の写真を貼っていた。彼女は、Bourg-la-Reine に住み、母親の店の客でもあり、友人でもあった。プロデューサー Clement Duhour の妻であり、「 Marcel Achard の愛人でもある 」 彼女に、彼は出発前に何度か道ですれ違った。彼は彼女と、彼女の妹の美貌の虜となり、妹のほうとは、しばらくの間つき合った。映画の撮影現場に連れて行ってもらったこともあった。インドシナの彼に、母は、毎日長い手紙を送り、週に一度は、バターや、鶏肉、ハム、そしてお菓子などを彼に送り続けた。しかし、アランの上司たちは、彼の母親に、 「 こんなにたくさんの荷物と手紙を受け取る志願兵は見たことがない 」 と皮肉を言った。その後、ジープ持ち出し事件で刑務所送りになっている息子を、母は、なんとか除隊させたいと考えた。 「 もう続けられそうにありませんでした。彼は、毎日を刑務所で過ごし、私は毎晩泣いていました 」 そして、ついに本国に返されることになる。復員手当ては差し引かれ、また、武器所持で更にトゥーロンで45日間拘置されなければならなかったのだが。本国に送還されてしばらくの後、遂に地中海地方を離れる時が来た。彼は、その前に 「 Marsouin 」 の常連たちに会っておきたいと思った。シャルル.マルカントーニとリタは、彼を 「 実の子 」 のように迎えてくれた。そこで、彼はシャルルの兄フランソワとも知り合う。彼は、暗黒街で名が知れていた。ドロンと知り合った時、彼には弟が紹介した無職のドロン青年との出会いは特に記憶に残らなかった。しかし、この出会いが今後、ドロンの人生に大きな影響を及ぼしていくのだった。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
ドロンは、1950年代におけるコブラ運動の巨匠たちやパリの学校によって表された一流の作品郡を含む彼の現代絵画のコレクションの大きな部分を売却することを決めた。そ のオークションは2007年10月15日、パリの Drouot Montaigne ホテルで20時30分から行われる。展示は12日から15日の期間。2007年5月、彼の所有する40作品の絵画が、Applicat Prazan Gallery に展示された。彼のコレクションには、Hans Hartung, Soulages, Riopelle, Maurice Estève, Manessier, Dubuffet, N. De Staël Géricault Delacroix and Millet などの他の別の作品もある。 - information from Ms. Marie Claire -
( Delon sleeps with Anthony in 1960s )
Beatrice Barton、Alain Delon そして Domenica Warluzel は新たな3人組を結成した。TSR社の女性チーフジャーナリスト兼プロデューサーの Beatrice Barton、俳優のAlain Delon そして法律家で、「 The tele one 」 のプレゼンター兼照明プロデューサーのDomenica Warluzel。彼らは、「 BBD Polymedia 」 というプロダクション会社を設立した。 - information from Ms. Marie Claire -
アレグレの熱意にも関わらず、アランの起用をプロデューサーたちに認めさせることは一種の戦いであった。プロデューサーらはこぞって、当時人気の Gil Vidal を使いたがったからだ。アレグレは、自分の発掘した新人ドロンを世に送り出すため、女性スター、エドウイジュ.フイエールの助けを請うことにした。 彼は、彼女に、カメラテストのフィルムを数本見せた。フイエールは、アランに他の俳優にはない何かがあると感じた。アレグレはまた、ドロンに的確なアドヴァイスをした。 「 君には、普段の君らしくいて欲しい。いつも通りに動き、いつも通りに歩くんだ。何か特別なことをしようなどと思ってはいけない。演技したり、役を演じようとするなどはもっての外だ。君らしくいろ。そうすれば君は自然に私の映画の主人公となる。」 最初の撮影は、ヴィクトール.ユーゴ通りのケーキ屋からケーキの包みを持って出て来て、車に乗るというシーンだった。初めてのカメラを前にしても、緊張した記憶がアランにはない。逆に水を得た魚のようにリラックスしていた。 「 とても簡単で至極当たり前のことのように思えた。それに、監督が非常に良くフォローしてくれた 」 と、彼は感想を述べている。アレグレは、アランの経験のなさをスクリーンで見せないように猛烈に仕事をした。女性共演者 Sophie Daumier は、彼の映画界における初キスシーンの相手となった。その後、アランは、イヴ.アレグレの兄、マルク.アレグレ監督と2本目の映画 「 黙って抱いて 」 の撮影に入る。そこで、初めて出会ったジャン=ポール.ベルモンドとは何シーンかを共演した。まだ無名だったベルモンドについて、ドロンは、 「 ジャン=ポールは、とても風変わりな容姿をしていた。彼は、まだ人気の新人と呼べるようなランクにはいなかった。」 と語っている。これがベルモンドとのライバル合戦の始まりだったが、この時点では、アランの名前の方がベルモンドの名前よりも大きくクレジットに載っていた。こうして、彼は、映画監督や、撮影共演者たちから認められていく。が、プロデューサーたちには受けが悪かった。 「 ルックスは良いが、無名 」 だったからだ。それを理由に、彼は、何度もチャンスを逃している。そんな状況を乗り切るためにも、 「 個人マネージャー 」 的存在になっていたジャーナリストの友人、Georges Beaume の力を借りて、アランは、自分の知名度を上げる努力をする。 こうして彼は、1958年春、有名映画雑誌で有望な男性新人の一人として紹介される。アランは、自分のスターとしての将来を固く信じていた。そして、次回作品では、この雑誌に一緒に紹介された新人たちの誰よりも自分がトップに上りつめるのだと確信していた。その次の映画 「 恋ひとすじに 」 では、ロミー.シュナイダーがアラン.ドロンを共演相手に選んだ。ブリアリは、 「 彼女は、写真を見て、アランに決めた。魅力的でハンサムで、しかも彼女の知らない俳優だからという理由で 」 と語っている。アラン.ドロンは、ただ驚くしかなかった。「 それを聞いたとき、私は、正直言って、バカのようにただ唖然としているだけだった 」
アラン.ドロンは、2008年1月25日 「 Golden Eagle 」 と呼ばれる Russian Movie Academy からの賞を授与されるらしい。尚、このもようは、Central Channel of TV Russia で放映されるらしい。 - information from Miss. Karina on 18th 2008 -
( Alain Delon with Romy Schneider in 1968 )
1970年3月のある朝、アラン.ドロンは、グレーのタートルネックとシェトランドのズボン姿で、「 仁義 」 の撮影現場に入った。彼は、この映画の役を演じるために、普段は栗色の髪を黒く染め、付髭を付けていた。「 ボルサリーノ 」 の主人公との混同を避けるためだという。この日の撮影は、吹雪の中で行われた。晩には、撮影クルーたちは、快適なオーベルジュ ( 小ホテル ) で過ごした。ランチ時には、ドリンクに水しか飲まないアランも、ディナーでは、多少のワインやウイスキーを味わった。宿の雰囲気はリラックスしたもので、大スターの彼も、スタッフたちと一緒になってゲームをして楽しんだ。メルヴィル監督の映画2作目にあたる 「 仁義 」 は、公開と同時に大成功を収めた。続く 「 もう一度愛して 」 では、ドロン自身の会社でプロデュースを務め、大規模な宣伝活動が繰り広げられた。それは「 ボルサリーノ 」 の際に項を成した宣伝方法で、何百台もの自家用車に映画のポスターを付けさせ、サンドイッチマンならぬ 「 サンドイッチカー 」 として、首都パリの道という道に、2週間走らせるというものだった。自家用車のオーナーたちは、広告を付けて走る謝礼として、90フラン分のガソリン券をもらった。この異例の計画には、大臣4人による承認が必要だった。文化大臣は、街の景観を損ねずに行うことという条件付きで許可を与えた。交通大臣も許可を与えるのに何ら不都合はないとみなしたが、残る問題として、 「 宣伝カーはシャンゼリゼ通り、ブローニュの森、ヴァンセンヌの森を走ってはいけない。」 という政令があった。結局、政令には、自家用車が走行する道のりを禁じる項目はなかったのだが…しかし、このような宣伝活動にも関わらず映画は、ボルサリーノほどは成功しなかった。 1971年、メルヴィル監督最後の映画となる 「 リスボン特急 」 の撮影に入る。これまで彼の役の定番となっていた悪漢から一変して刑事役を演じることについて彼は次のように語っている。「今回は刑事役なので、いつでもごろつきや不良役しか演じないと、これ以上非難されることはないだろう。敵陣営に回ったというわけだ 」 この映画は失敗に終わり、監督は大変失望した。しかし、ドロンが努力を惜しんだわけではない。監督のイメージする主人公像に近づくために、彼は体重を5キロ増やして撮影に挑んだ。太ったイメージが、サムライの主人公との混同を防ぐというねらいだった。この失敗の後、監督の側では、もう二度とアラン.ドロンとは仕事をしないと記者に発表。ドロンには、いくつかの癖があり、それが無意識のうちに出過ぎるから、という理由だった。この件について、ドロンは、 「 事実は全く逆です。メルヴィルとしばらくの間仕事をしないことにしたのは私のほうなのですよ。彼には多くの癖があります。でも、私は礼儀上、そのことを記者に公開したりしませんでしたがね。今だって、この記事のことがなかったら、あなた方にそれを話したりはしなかったでしょう 」 と反論している。続く 「 高校教師 」 では、無名で貧乏だった頃の友人ダリダのヒット曲が使われたり、タイトルを変更して監督と不仲になったりもしたが、映画は成功した。「 スコルピオ 」 では、ハリウッド映画へカムバックをすることになった。「 山猫 」 から10年の時を経て、アラン.ドロンは、バート.ランカスターに再会する。アランは、以前よりもずっと有名になっていた。ランカスターに再会した時、彼は 「覚えている?君が僕のボスだってことを?」 と言った。ランカスターは、それを聞くといつものように大笑いし、「 君のボスになるには私はもう年をとり過ぎているよ!今度は、君が私のボスだ!」 と返した。 その後の 「 ショック療法 」 は全くの惨敗だった。批評家には扱き下ろされ、観客たちは不満を表した。特にアランが、ヌードになったことで、新聞雑誌は皮肉を連ねた。この映画の画像は、今では、インターネットのあるポルノサイトで使われている有様である。アラン.ドロンが許可したものではないだろうが、彼の弁護士も全く動く気配がない。彼らがこのことを知らないのでなければ、恐らく訴訟を起こすほどの価値もないとみなされているのであろう。 しばらくして 「 燃えつきた納屋 」 の撮影に入る。この映画には、ベテラン女優シモーニュ.シニョレの他にも、当時新人だったミュウミュウが共演者にいた。監督は、ジャン.シャポーで、若い監督ではあったが、決して初心者ではなく、ロミー.シュナイダーと撮った初期の作品 「 La Voleuse 」 が大いに評価されていた。ドロンはシャポーをあまり知らなかったが、彼に対し気難しく振舞うことに決め込んだ。撮影現場ではドロンとシャポーの 意見は全く合わず、ドロンはシャポーの提案すべてに反対し、彼のアイデアを扱き下ろした。 撮影現場の雰囲気は険悪なもので、ドロンとシャポーの板ばさみとなった新人ミュウミュウは大変苦しんだ。「これ以上、彼らの不仲が続くなら私は降りるわ 」 と彼女は言っていたが、監督とドロンの争いはエスカレートする一方。ついにある日、彼女は誰にも行き先を告げずに姿を消した。関係者らは、あちこちを探したが、彼女は家にも戻っておらず、見つけ出すのは不可能だった。しかし数日後、彼女は何の前触れも無く戻ってきて、ドロンとシャポーの不仲は解決したのか、と聞いた。実際には、彼女の不在中に、ドロンが我を通して戦いに勝った形となり、撮影を指揮するようになっていた。そのため、現場は平穏さを取り戻し、こうして3週間の間撮影が何事も無く続けられた。しかし、シャポーの才能を知っていて、状況に苦しむものも多かった。優秀な監督ではあったが、アランと相性が合わなかったばかりに、シャポーは現場を指揮できなくなっていた。アランがパリへ行って留守の際、プロデュース側から現場指揮を頼まれたシモーニュ.シニョレは、間髪を入れずに、「 監督を選んだのは私たち自身です。シャポーは優秀な監督です。彼に映画を仕上げてもらいましょう 」 と答えた。 後日の記者会見でこの一件についてコメントを求められたアランは、次のように答えている。「みなさんは、私について誤解されているようですね。私が攻撃するのは凡庸な監督だけですよ。私が、メルヴィルやヴィスコンティを真っ向から非難したことは一度もありません。彼らは、大物です。確かに私は、『 燃え尽きた納屋 』 の監督を務める能力がなく、別の誰かが彼に代わる必要があったからなのです!」 。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
敬愛するアラン.ドロンを動物に喩えるとしたら、「 星の王子さま 」 のきつねに似ていると私は思う。彼が、我々に飼いならされることを受け入れてくれなくては、彼を知り、彼の友人になることはできないからだ。サン.ティグジュペリのきつねはこう言う。「 あんたがおれを飼いならすと、おれたちは、もう、お互いに、はなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたった一人の人になるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ。」と。私は、アラン.ドロンの友人であると主張するつもりはない。しかし、彼を飼いならすことができた人たちはみな、彼にとってかけがえのない存在となっているということを私は、知っている。警官であろうが、やくざであろうが、有名、無名、権力者、貧乏人であろうが、彼が際限も代償もなく与える友情は変わらない。彼は、いつでもこの友情を示してきたし、彼の実直さは、いやおうなしに尊敬の念を我々に起こさせる。 私の場合のような小さなレベルでも、私がプライベート或いは仕事で彼の助力を必要とする時には、彼はいつでも来てくれた。RTI の仕事の時のように、番組の推薦者として東奔西走することも顧みず。すべて私のために、彼の利益はまったくなしでしてくれたことだ。私の好きなドロンは、まさに君主だ。しかし、みんなが同じように敬意と忠誠を彼に寄せるわけではない。彼は、しばしば裏切られ、がっかりし、傷つき、打ちのめされたことだろう。だから、神経をまいらせないために、彼はしばしば 「 閉じこもる 」 ことが多い。私は、この仕事についてから、多くの有名人に会う機会があったが、公の場に現れるドロンを見る時はいつでも他にない感覚に駆られる。多くの視線が動き、ざわめきが空間を埋める様子…。そう、こんな雰囲気を私は他の誰が現れる時にも感じたことはない。もちろん、アランは、公の場にいるわけで、一般の人々に見られているのだから、人々が見たい彼を彼は見せている。人々が彼に認めたい人格を彼は演じる。が、このしばしば傲慢で、自信に満ち、横柄に見える、劇画化し、ゆがめられたドロンは、私の知っている情熱的で、温かく、面白く、繊細で気前のいい男とはかけ離れたものだ。たとえ試練の中でも、そして彼は本当に多くの試練を経験してきたが、彼は、不滅のように見える。今日の悪流の中にいても、彼はエネルギーを出し続ける。いつでも上を向く力を。彼が、人の存在よりも犬達と一緒にいるのを好み、一人でレヴィヨンを過ごすと決める時など、時々私は彼をかわいそうに思うことがある。また、Brando の死後、自分も死んだも同然だと、彼が私に打ち明ける時、私は、ショックに凍ってしまう。そして、彼が子供を悲しませないためだけに生き続けているのだと、私に知らせるとき、私は恐くなる。彼はよく、人は、成功と幸福の両方を一度に得ることはできないと言う。私は、彼の将来が彼にその逆を教え、人生の果てで、彼が人生にも成功したのだと思えるよう願いたい。きつねは、星の王子に、別れ際にこう言った。「 心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない。かんじんなことは、目に見えないんだよ 」 と。私にはドロンがこの文を書いたかのように思える。 - the article of Marc-Olivier Fogiel -
Rosalie と Alain Affelou が離婚しようとしているらしい。 - information from Ms. Marie Claire -
アラン.ドロンは、2008年春、フランスのケーブルテレビのイブニングニュースのキャスターを務めた。 - information from Ms. Marie Claire -
( Alain and Nathalie on 28th March 1968 )
1973年、ドロンは、ボクシングの世界ミドル級タイトルマッチの主催を計画し、Carlos Monzon とフランスのチャンピオン Jean-Claude Bouttier をリングで対面させることにした。マッチに備えて彼は、数年前から所有する Douchy の私有地に Jean-Claude Bouttier を試合前の46日間滞在させ面倒をみた。地元の歴史家によると、Douchy のドロンの私有地は、かつて Neverley 伯爵の領地だった場所で、ジャンヌ.ダルクが戦いの合間に、支持者のデュノワ伯や Xaintrailles 伯らと休養した場所でもあったという。アラン.ドロンは、この50ヘクタールの敷地内を、ミニ.モークのジープで、時には9歳のアンソニーを乗せて行き来した。トレーニングの間、プールの近くには赤いリングが設置され、敷地の奥には、6キロメートルに及ぶジョギングコースが、Jean-Claude Bouttier やその仲間のために用意されていた。この私有地に入ることを許された数少ない友人の一人は、「 几帳面なアラン.ドロンと、親切なミレーユ.ダルクは、非常に釣り合いのとれたカップルだった。ミレイユは、いつも笑顔で、リラックスし、自然体で、その場の雰囲気はとても気持ちの良いものだった 」 と述べている。また Bouttier 自身も、その時の環境を理想的なトレーニング場だったと言っている。「 このような雰囲気の中で絶好のコンディションになれないということがあるでしょうか?本当に地上の楽園でした。森の中の穏やかで快適な暮らし、鳥のさえずり。この静寂はとても貴重なものでした。Douchy でこんな暮らしをした後に、マッチで惨敗することなんて許されませんよ 」 余暇には、ボクサーたちは、ビリヤード台やジュークボックスのおいてあるゲーム室で過ごしたり、また、昼食事、夕食時には、アラン.ドロン専用のキッチンで大きなテーブルを二つ並べて食事をした。しかし、最高の環境で行われたトレーニングにもかかわらず、Bouttier は結局、試合で負けた。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
アンソニーの二人の娘 ( ドロンの孫 ) の名前は、Lou ( 1996年生まれ ) と Liv ( 2001年8月25日生まれ )。娘たちの母親は、Sophie。
「 Le Guepard 」 の撮影では、ドロンは、再びヴィスコンティと仕事をすることになった。ヴィスコンティは当初、アメリカ人役者バート.ランカスターを起用することに反対していたが、結局は折れ、それどころか、彼の身体的特徴がイメージしていた登場人物に適合するとわかった。アランは語る。「 撮影開始の数日前、ヴィスコンティは、私と共演者のクラウディア.カルディナーレに一緒に空港までランカスターを迎えに行かないか、と誘った 」 アランは、自分よりも23歳年上の大俳優ランカスターに出会った時、彼の体の大きさ、体格の良さに大変驚き、圧倒された。「 こちらが少し圧倒されるくらいだった。しかし、ランカスターの方でも実際は衝撃を受けていたのだった。彼はヴィスコンティの熱狂的なファンだったのだから 」彼と仕事を共にするうちに、アランは、彼の気さくさに感激するようになった。こうして、撮影現場には、各自が自らの母国語で話すという奇妙な雰囲気が作られていった。ランカスターと共演する最初のシーンの前、ドロンは、このアメリカの大役者のせいで、自分の存在感が薄れてしまうのではないかと心配した。そして、そのことをランカスターに隠さず伝えた。「 『 バート、君に話さなければならないことがあるんだ。そう、君に言わなければ楽になれない。僕は君に圧倒されているんだ 』 と私が言うと、彼は爆笑しながらこう言った。『 心配するな、大丈夫だから 』 撮影はこうして行われた。私は撮影中彼を、『 My Boss 』 と呼んでいた 」 この長期間の撮影中、アラン.ドロンは、ランカスターを観察し通した。撮影期間中に、滞在していた城でのこと。ある日、ロミーが、シチリアを訪れに数日間やって来た。アランによると、バートは、ロミーの魅力に無関心ではいられなかったと言う。「 バートは、彼女に魅力を感じていた。女優としても、一人の女性としても。ロミーももちろん、彼の存在が気になっていたようだった 」 シチリア出身のクラウディアも、この撮影における様々なエピソードを語っている。彼女は、アラン.ドロンの美貌に魅力を感じていた。彼女が 『 アラン.ドロンエピソード 』 と呼ぶものが、彼女の語った次のエピソードである。「 彼の魅力は、澄んだ意地悪なまなざし、筋肉質な体にありました。そして、何よりも、辛らつな皮肉。アランは、自分の魅力に自信がありました。そこで、彼は、ヴィスコンティと賭けをしたのです。私がすぐに彼に誘惑されてしまうと。ヴィスコンティは、こういったちょっと意地悪な遊びが大好きでした。ラブシーンの撮影中、アランは、私にこう言いました。『 クラウディア、僕は、偽りキスや愛無などはしたくない 』 と。でも、私には、この駆け引きがすぐに理解できました。策略を練って、本心を見せないようにしました。彼らの思う壺になりたくなかったのです。アラン.ドロンの魅力に耐えられない愚かな娘のようには振舞いたくなかったのです。ヴィスコンティはこうして、私を尊敬するようになりました。私が罠にかからなかったことが、彼の気に入ったようです。彼は、私が小さな娘ではなく、強い女なのだとわかったのです 」 アラン.ドロンのこの誘惑ごっこは、やがてヴィスコンティの激怒の的となった。クラウディアによると、その日、ヴィスコンティは、彼女がアランと演じた屋根裏部屋のシーンの出来に憤慨していたという。「 ヴィスコンティは、その機会に、アランに日頃思っていたことをすべてぶつけました。みんなの前で彼を侮辱したのです。その時のアランのことを私は覚えています。私たちは、同じソファーに一緒に座っていましたから。彼は、勇気を出そうと、ヴィスコンティに口答えしないように自分を抑えようと、私の手をとって握っていました。ヴィスコンティの怒りは、アランが彼に抱いていた尊敬心を打ち砕きはしませんでしたが、彼は自分を抑えるために、私の手をつぶれるほど強く握り締めていました 」 ヴィスコンティとドロンのいさかいには他にも理由があったようだ。「 Le Guepard 」 の撮影が遅れていたせいで、アランは、契約済みの次の撮影との狭間で不安定な状況にあったのだ。ヴェルヌイユとの 「 地下室のメロディー 」 の撮影は既に始まっていたが、ヴィスコンティは、自分の映画の役者を放そうとはしなかった。クラウディアとは、「 エピソード 」 にある一件にも関わらず、その後も長い親交が続いた。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
ドロンは、まだロミー.シュナイダーと正式に婚約している中、モロッコ出身のスペイン人 Francine Canovas ( 後のナタリー.ドロン ) と出会う。この出会いについてアランとナタリーの供述は異なっている。アランの側では、友人の Poniatowski 王子に彼女を紹介されたと言っている。( 彼女は、離婚調停でフランスに来ていた。しかし、その後彼女は、二度とフランスを離れなかった。) が、一方、ナタリーの側では、ナイトクラブで彼に偶然出会ったと言っている。彼女は、実名を Francine Canovas というが、フランスではナタリーと呼ばれることを好んだ。1941年8月モロッコ北部で、スペイン領出身の母と、アルジェリア出身のフランス人の父の間に生まれた。父親は、モロッコで運送会社を経営していたが、彼女が父親に初めて会ったのは8歳の時で、その後も、14歳の誕生日まで再会できなかった。こうして彼女は、母親と二人で、カサブランカの質素なアパートに暮らしていたが、1959年、18歳の時、フランス北部からの召集兵で4歳年上の Guy Barthelemy と結婚。結婚式は、カサブランカのフランス領事館で行われた。二人は、その後、モロッコで生活していくことを選ぶ。数ヵ月後、女の子が生まれ、ナタリーと名付けられたが、夫婦の関係にすぐに亀裂が入り、1963年に離婚。娘の父親が親権を取った。彼女は、最終的な離婚手続きが終わらないうちに、パリへの移住を決意したが、娘に会いに、モロッコにも時々帰っている。1963年5月のこと、彼女は、アランから「 黒いチューリップ 」の撮影で一緒にスペインに来ないかと誘われ、乗り気でついていく。その時車を運転していったのは、スモーキングジャケット事件以来顔を見なかった Chiffre だった。出発直前に、ロミー、アラン、Chiffre、Beaume の4人で普通に食事をしたこともあって、Chiffre は、ナタリーの突然の出現にただ唖然としていた。アラン.ドロンは、スペインが好きだった。撮影期間中、マドリッド近郊に、豪華な別荘を借りたが、ロミーとアランの破局の噂を聞きつけて嗅ぎ回っている記者たちから逃れるには不十分だった。ドロンは、細心の注意を払ったが、ある日、一人のパパラッチが屋敷に侵入し、ナタリーの写真を撮ったため、Georges Beaume とChiffre と共に対処することにした。 「 まずは、我々の中では最も社交的な George が、そのパパラッチにフィルムを渡すよう頼んだ。しかし、パパラッチは、煮え切らない態度を見せた。そこで、苛立ったアランが彼からカメラを奪い、フィルムを取り上げた 」 と Chiffre は述べている。その後、ドロンは、住居侵入と職業機材破壊のために訴えられ、深夜1時に警察官に手錠をかけられ警察署へ連行されたが、結局は、明け方に釈放された。 撮影は、要求の高い監督のために、ドロンにとっても、スタントマンの Chiffre にとっても難航した。二人にとって、唯一の慰めとなったのは、ナタリーの尊敬に満ちた眼差しだった。彼女は、二人の大胆なスタントを目を輝かせて見ていたのだった。一方、ロミーは、婚約が破棄されたとは信じたくなかった。1963年は、ロミーにとって人生最悪の年となった。まず彼女が目にしたのは、「 黒いチューリップ 」 の撮影現場の写真だった。「 どの雑誌にも同じ写真が載っていました。椅子に座っているアラン。そして彼の膝の上に座っている女性 」、と彼女は述べている。一時の気まぐれだと信じたかった。アランが、多くの女性を惹きつけずにはおらず、また、彼も女性に好かれることを好むということは、ロミーは承知していたが、この一件は限界を超えてしまった。ドロンとロミーが最後に会ったのは、ローマだった。ロミーは回想する。「 そこでも、いつも同じでした。私たちの間で何も変わっていないかのような。アランは、ハリウッドへ発つ私を空港まで送ってきました。離れてから、最初の数日は、いつものように電話し合い、全くいつも通りでした。ただ一ついつもと違っていたのは、噂がどんどん雑誌に載るようになっていったということです。ナタリーという女性との婚約に関する記事が 」 その後、ロミーのもとに、George Beaume がドロンからの手紙を持ってきた。彼は、「 ロミー、今、君のありったけの力を奮い起こさなくてはならない 」 と言って、彼女にその10枚にも及ぶ長い手紙を渡した。それは、別れの手紙だった。 それから何ヶ月もの間、彼女は苦しんだ。苦しみと絶望が彼女を襲い、彼女と親しい者たちによれば、この別離は彼女にとってまさに悲劇だったという。彼女の友人でジャーナリストの France Roche は、この別れについて、正式に France-Soir で発表した。彼女は語る。「 ロミーは、結婚のために何もかもをしました。彼女は、アランと生きていくために、すべてを受け入れたのです。でも、アランは、彼女にいつかこう言いました。『 いいかい、簡単なことなんだ。3ヶ月間口論しなかったら結婚しよう 』 と。彼にだって自分の言っていることがどういうことかわかっていたはずです。彼らは、いつも口論していたのですから。別れの後、ロミーは、しばらく精神安定剤を飲んでいました。夜には、信じられないほど彼女の手が震えて…それでも何ヶ月もの間、彼女は、彼を愛し続けました。彼の車にメッセージを残したり。それと同時に、彼女を誘う別の男性たちと出かけたりもしていました。きっと自分にはまだ魅力があるのだと自分に言い聞かせるためだったのでしょう 」この別れについては、また、ドロンのコンプレックスのせいであったのではないかとも言われている。ドロンは、ある日こう言っている。「 彼女は、自分が最も嫌いな階層の生まれだった。彼女のせいではない。ただ、彼女にはその階級の生き方が身についていた。彼女が20年間生きてきたものを、私は5年では消すことができなかった。二人、或いは、三人、四人のドロンがいるように、二人のロミーがいた。彼女にだってそれはわかっている。私は、一人のロミーを何よりも愛し、もう一人を同じくらい憎んだ 」 ロミーの見解は、この意見と同じではなかったが.....。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
( Delon and Dalida perform the music video shoot for their duet "Paroles Paroles" at the residence of Dalida in Montmartre in Jan 1973 )
2008年11月8日、ドロンの娘アニューシュカと彼の孫が、 ドロンの誕生日を祝うために 「 Madeleine 」 劇場にかけつけた。その晩、ドロンは、盛大なパーティーを 「 Hotel Crillon 」 で開いた。ドロンとアニューシュカは、2009年9月から舞台で共演する。ですから、アヌーシュカは現在、有名な演劇学校 「 Cours Simon 」 でレッスンを受けている。アニューシュカの目の色は、片方がグリーンでもう片方がブラウンらしい。 - information from Ms. Marie-Claire -
1966年、ドロンがハリウッドを離れることにしたある日、悲劇が起こった。ドロンの愛犬ブレンドがビバリーヒルズの道を横断していた際、車に轢かれて死んでしまったのだ。その日、ドロン夫妻は、パーティーを催していたが、この事故のためにパーティーは早めに切り上げられた。アランの苦しみを和らげようと、ジェーン.フォンダのエージェントは、シャーリーと名づけられた見事なシェパードを彼に贈った。この犬はまもなく、ドロンの別の犬たちと一緒にタンクルーで暮らすことになる。
アラン.ドロンには、犯罪者に惹かれるところがある。ヘロインの密売でポワアッシー勾留所に入れられていた日本のヤクザを支援したこともあったらしい。このヤクザは、1982年に結局釈放されているが、彼の日本帰国後、コロの絵画盗難事件の重要証人とされたり、また、アラン.ドロンが日本に行く際のボディーガードを彼が務めたりした、とも言われている。噂では、アラン.ドロンとその男は、ある店の入り口で二回に渡り写真を撮られている。東京では、この男は、アラン.ドロン.ディフュージョンの代表として振舞った。しかし、1987年に、北京で、日本の民放の特派員にこの件について質問を受けた際、「 Paroles de flic 」 のプロモーションに来ていたアランは、そのヤクザとの交友を全く否定した。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
1995年、Cesar 映画祭の審査委員長となったドロンは、自分が常連となっているシャンゼリゼの有名なレストラン 「 フーケ 」 で打ち上げをした。その日のメニューには、すべて彼の映画のタイトルが付けられていた。「 Samourai 」( トリュフと春野菜のサラダ )、「 La Picin e 」 ( ホタテ貝の白ワイン煮 )、「 Monsieur Klein 」 ( 子牛のタン、アミガサダケ添え )、「 Notre Histoire 」 ( ケーキ )。しかし、この晩、ドロンは 「 Nico Icon 」 という名のドキュメンタリーがドイツで撮影されたことを知らされ、晩餐の魅力も半減した。これは彼にとって悪い知らせだったからだ。それは1988年に他界したドイツ人歌手ニコについての映画だった。彼女は生前、数ヶ月間、アラン.ドロンの愛人だった。彼らは、「 太陽がいっぱい 」 の撮影の頃に知り合った。撮影が終わると、アランとニコは、ニューヨークへ滞在。彼らは、カクテルパーティーに一緒に参加したりした。そんな二人に、1962年、息子が生まれた。映画監督 Nico Papatakis ( 彼女の芸名も彼の名に由来する )は、この出産の目撃者となった。彼は語る。「 ある日、彼女は私に電話をしてきた。誰かと恋に落ちて、妊娠している。生むつもりだ、と。彼女は、父親の認知を獲得したいと言った。それはアラン.ドロンの認知を意味した。私が、彼は本当に認知するつもりがあるのか、と尋ねると、彼女は、『 もちろんよ、彼は私と結婚するつもりよ 』 と答えた 」 しかし、「 山猫 」 の撮影を終えたドロンは、彼女の出産に一切関心を示さなかった。彼は、友人を介して、彼女にそれがどんなに馬鹿げた頼みなのかをわからせようとした。数ヵ月後、彼女は、2歳のアルロン( 愛称アリ )を連れてアランが 「 さすらいの狼 」 を撮影するスタジオに足を運んだ。彼を説き伏せるためだった。しかしその二日後、彼女は、当時アランのパーソナルマネージャーだった George Beaume から、「 アランに会おうとするなら、スキャンダルとなる。そんな望みは捨てることだ!」 と言われる。そこで彼女は、裁判に争いを持ち込むことにしたのだった。しかし、それでもアランは認知しない。彼女は裁判に負けた。 子育てと歌手を兼務していたニコは、アリを空港やホテルに連れて歩くことに疲れてしまった。こうして、彼女は息子を、アランの実母エディット.ブローニュに委ねることにした。エディットは、アリを実の子のように可愛がって育て、ドロン姓を与えようとも考えたが、結局現在の夫のブローニュ姓を与えている。現状でドロン姓を与えたら、アリは法律上アラン.ドロンの弟となってしまい、息子ではなくなる。こうした配慮からブローニュと名づけたのだった。エディットは、息子アランについて、厳しい意見をニコのドキュメンタリー映画で述べている。「 私は大変質素に暮らしている。世間は、ドロンが私を城に住ませ、使用人を使わせていると思っているが。」また、アリを引き取ったことについて、「 家に来たとき、彼は2歳だった。座っていた私の夫の腕の中に飛び込み、ちぢこまった姿が、私たちの心を強く打った。息子 ( アラン ) に再会した時、私は彼がアリを息子と認めるものと信じて疑わなかった。しかし、アランは、私がこの幼児を引き取っていた ( その二年前からアリは既に我が家にいた ) ことを知ると、彼は、事務所を通じて私に電話をし、子供か彼か、どちらかを選べと言ってきた。私の夫は、『 お前は一人で食べていけるが、この子はまだ一人で起きることもできないのだ 』 とアランに言うように私を促した 」 また、アリについては次のようにも語っている。「 私たちが引き取る前、アリは、母親とベルギーなどあちこち移動する放浪生活をしていました。アリは、駅前や空港でポテトチップスぐらいしか食べたことがなかったのです。ある日、アリの母親は、アメリカからオレンジを持ってきました。オレンジですよ!私は、絶句した夫と顔を見合わせました。オレンジを受け取るには受け取りましたが、彼女は普通の人間ではない、と思いましたね。3年振りに我が子に会ったというのに。私は、彼女宛に小包を送ったりしていたのですよ。それもすべて戻ってきてしまいましたがね。彼女は、私たちに居場所を知らせずに、あちこちを転々としていたのです。死去する前、彼女は、私に長い手紙をくれました。アリを私に委ねると。彼女は、その手紙で私に、アリを育てて欲しいと心から頼んでいました。変わった人でしたが、私は、彼女が大好きでしたよ。彼女ほど美しく頭の良い女性に会ったことはありません。彼女が、波乱に満ちた人生を送らなければならなかったことを悲しく思います。でも、それが人生なんですね。苦しみを抱えてでも生きていかなければならないのです...」 。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
1990年、新たな家庭にアランは幸せを見出した。1987年に知り合ったロザリーとの間に娘 Anouchka が生まれたのだ。彼女とは30歳の年齢さがあったが、彼は、それを自分が若返る秘訣とし、「 アドヴァイスをしましょう。自分よりも若い人と暮らすことです。いつまでも若くいるための唯一の秘訣ですよ 」 とインタビューに答えている。また、ある雑誌のアンケートで、フランス女性のセックスシンボルに選ばれたことについて、「 自分は全ての女性のために生きている、と、これまで交際してきた女性たちにいつも言っていた 」 ことなどを明かした。今は有名な歌手となったパトリシア.カースも、少女の頃は、アラン.ドロンのミーハーなファンだった。彼女のアルバム 「 Je te dis vous 」 ( 邦題:永遠に愛する人へ ) は、アラン.ドロンに捧げられている。それに対し、ドロンは、ある番組で、「 彼女は、美しい。大好きだ 」 と答えている。その二日後、二人は、フォーションのレストラン 「 Trente 」 で、聖アランの日を祝っているところを、パパラッチに撮られている。 - information from 「 Les mysteres Delon 」 -
( Alain with Nathalie at Orly Airport on 29th April 1965 )
1991年6月、「 Cine-Tele-Revue 」 は、ドロンとエルザと 「 カサノヴァ最後の恋 」 を撮影すると伝えた。これほどまでに違う二人の俳優の対面はどのようなものになるのだろうか? この映画は、話題になりそうだ。エドゥワール.ニエルマン監督にとって、カサノヴァ役は、アラン.ドロン以外に考えられなかった。年齢も、整った容姿も、強い意志とプライドも。アラン.ドロンは言う。「 今回のカサノヴァは、必ずしもはつらつとしていなければいけないわけではないんですよ。彼は年をとり、ほぼ破産状態にあるのですから。彼は50歳です。彼の時代では、この年まで生きる人は少なかったですから、すでに大変な年寄りなのです。この役が私を魅了したのは、彼の死にもの狂いの愛の追及です 」 そして、マルコリーナ役は、しばらく歌だけに専念してきたエルザに決まった。「 選ばれた事に幸せを感じると共に、誇りに思います。いつか自分が、アラン.ドロンの相手役になるとは夢にも思いませんでした。」 とヒロインは語る。数ヶ月前、彼女は、映画界復帰のための大役を探していた。そして、彼女は、カサノヴァに口説かれる娘役が募集されていると知った。そして、主役がアラン.ドロンだとは知らずに、彼女はオーディションを受け、9月に抜擢されたのだった。それでは、アラン.ドロンとの撮影は、どのようなものなのだろうか? 「 素晴らしいです。彼は、難しいシーン、私が怖気づくような少し官能的な悩ましいシーンを撮らなければならない時に、アドヴァイスをしてくれます。彼は、本当に忍耐強く、上手くいかない時には、私を励ましてくれます 」 モンペリエから数キロの撮影が行われているモジェール城に注ぐプロヴァンスの太陽のように、現場の雰囲気はやわらかい。今日は、唯一、現場が揺り動かされている日だ。18世紀の衣裳をつけたエキストラが50人ほど登場し、そのまわりでは、技術者やアシスタントが動き回っている。エルザとアランは、そこから離れたところで、談笑している。彼は共演者に大変満足しているようだ。「 この映画の前は、私はエルザをあまり知りませんでした。監督は、本当に素晴らしい選択をしましたよ。この女性には、−彼女は既に18歳ですから女性と呼ばせて頂きますがー、彼女には大物の謙虚さと役者のセンスがあります。本物のアーティストです。彼女には本当に驚かせました 」 5,500万フランの予算がつぎ込まれたこの映画は、間違いなく1992年のフランス映画で最もスケールの大きいものとなるだろう。9月16日に撮影は始まった。ロケは、ヴェニスの前に、まずモンペリエ、エクサン.プロヴァンス、パリ周辺で行われる。アラン.ドロンは言う。「 この映画は、執着と、悪巧みと、苦悶と、そして流血の入り交じった素晴らしいものとなるでしょう。まるで、恋愛映画のように!」 アラン.ドロンについては、我々は、もう何もかもを見てきたと信じていた。が、モジェール城で、彼は、これぞ俳優魂なるものを見せてくれた。この映画の撮影現場の素晴らしい雰囲気は既に知っていた。しかし、そこに半裸で爆笑する彼を、我々は見たのだった。ところで、何故アラン.ドロンは、コートの下に何も着ていないのだろうか? この答えは、18世紀には、ある策略が色事師の間に流行していたということにある。それは、撥ね退けられた色事師が好きな女性の家へ忍び込み恋人に取って代わろうというものだった。アラン.ドロンは、ロレンツィになりすましてマルコリーナと一夜を過ごす。朝、逃げなければならない彼には、ライバルのコートを羽織る時間しか残されていなかった。これが、アラン.ドロンがドアの前で半裸で立っている理由だ。監督は、衣裳係に指示を出した。「 ここではカサノヴァは裸でいるものと考えられているんです。彼にはライバルのケープを羽織る時間しかなかったということを忘れてはなりません。他の服が下に見えてはならないのです。」 監督のアシスタントである日本人女性ヒロミは、ちょうどそこへ通りかかった恵まれた目撃者だ! 撮影開始の前に、衣裳係の女性は、衣裳を少し修正する。彼女がそのために、コートを後ろへ引張るので、ドロンは帽子で前を隠さなくてはならない。爆笑だ。「 私は、確かにセックスシンボルですが、だからといってすべてみんなに見せなくてはいけないということはないでしょう!」。 - Cine-Tele-Revue No 43 October 1991 -
20歳のロミー.シュナイダー、23歳のアラン.ドロン。二人の笑顔は、あらゆる新聞雑誌の一面を飾っていた。彼女は、ドイツの寵児。彼は、フランス映画界の誘惑者として既に名を馳せ、若い女性たちは、彼に熱を上げていた。二人は、ピエール.ガスパール=ユイ監督の 「 恋ひとすじに 」 で共演し、60年代で最もグラビアを飾ったカップルとなった。アラン.ドロンは、自ら彼女との出会い、5年間の恋愛、そして別れがどのようなものであるかを語った。ロミー亡き今、ちょうど10年前に書かれたこの文章は、大変感動的な記録となっている。まず、告白しなければならない。ロミーに出会う前、私は、愛について既に自分が何もかも知り尽くしてしまったと思っていた。そして、22歳にして誰かに愛着を持つことなど不可能となっていた。私は、始まったばかりの自分のキャリアのために大変忙しく、たとえ絶世の美女であったとしても、そのような私を虜にすることは難しく思われた。ところが、運命がまるで私に平手打ちを食らわしたかのように、こんな私の思いを打ち消した。その頃、私は、既に3~4本の映画を撮っており、どれも成功していたが、あるプロデューサーが 「 恋ひとすじに 」 でロミー.シュナイダーと私を共演させることにしたのだ。初めて彼女に会うとき、私は、礼儀だと思い、大きな花束を抱えて空港で彼女を待ちながら、この 「 歴史的 」 瞬間をカメラに収めようとしているカメラマンたちに悪態をついていた。プロデューサーに大金を稼がせると評判のロミーの目を初めて見た時、私は、彼女が好奇心と情熱に満ちた、純粋で素晴らしい少女なのだとわかった。「 プリンセス.シシー 」 のような尊大さを恐れてはいたが、実生活でのロミーは、とても柔らかい人間なのだと悟った。一目惚れ?確かにそうだったのかもしれない。でも、私は何も言わなかった。「 恋ひとすじに 」 のウイーンロケの最初の数日間は、スターである彼女に対するスタッフのちやほやぶりと、彼女の気まぐれさに私は、イライラした。しかし、彼女の仮面も長くは続かなかった。私が初日に感じ取った本当のロミーは、見せかけの威厳にもはや隠れることができなくなった。そして、私は、ロミーが私を愛していると確信するようになったのだ。この点だけにおいても、「 恋ひとすじに 」 は、私にとって恋愛映画だといえる。クランクアップになると、ロミーは、私をパリに訪ねてきた。そして、私達は、もう2度と離れないと決めたのだった。私達のこの決心を、ロミーの家族は、あまり良く思わなかった。私に会うために飛行機で往復をする彼女は、友人や、フランス、ドイツの雑誌の中傷の的となった。私は、最愛の娘の誘拐者となり、また雑誌にはスキャンダルに書き立てられ、噂は歯止めが利かなくなっていた。有産者らしく世間体を気にするロミーの両親は、取り乱し始めた。大切な娘のために、なんとか記者や世間を沈静させ、この噂を食い止めようと、本心とは裏腹に私との婚約発表をさせようと彼は考えた。こうして事は運んだ。ホテル界の王者と言われるロミーの父親は、ロミーの母マグダ.シュナイダーと共有するルガーノの豪邸にヨーロッパじゅうの記者を呼び寄せた。私は、この豪奢な日、記者の殺到を今でも忘れることができない。しかし、ただ愛し合うことだけが全てだったロミーと私はその時、この贅沢な婚約式を世間の好奇心を満足させる演出なのだと考えていた。この芝居とは裏腹に、私達の愛は、まったく自由で素晴らしいものに思えた。すべての参加者が満足する中、私達は、婚約し、そして幸福だった…それでは、何故婚姻を拒絶したのかと思われるかもしれない。その答えは、ロミーも私と同じ人種だったから、ということだ。つまり、私を愛しながらも、彼女は、女優である自分を捨てていなかった。その上、彼女は、更に難しい役に挑戦し、常に成長していきたいと願う女優だった。私達は、愛し合っていたが、二人の最大の目標は、俳優としてのキャリアだったのだ。ロミーは、完璧主義者だった。そして、猛烈に仕事をしたいと願っていた。私は、それを友人達と話し合う上で確信していた。彼女の運命は、大女優になることであり、アラン.ドロン夫人になることではないのだと。彼女は、この私の確信に苦しんだのだろうか?そうかもしれない。女性には、不思議な一面がある。もしも私が、彼女に正式に結婚を申し込んでいたら、彼女は、自分のキャリアなど投げ出していたのかもしれない。何度彼女に結婚を申し込んみたいと思ったことだろうか?私は、あの6月の晩を今でも覚えている。何週間も仕事で会えなかったロミーと私は、やっと二人だけでいられるタンクルーの 「 隠れ家 」 で落ち合うことができた。ロミーと離れていることは、私を苦しませたが、その日は、そのロミーが私の傍らにいたのだった。私は、突然考えた。「 何故こんなに狂ったように仕事をしているのか。ほとんどの時間を彼女なしで、家庭を築こうともしないで。ロミーに 『 結婚しよう、そして他のことは成り行きに任せながら二人で歩いてゆこう、私達の子供に愛を費やそう 』 と言う方が懸命ではないのか?」 と。日が明けようとしていた。私は、決断の必要性を感じていた。ロミーの部屋の窓に小石を投げつけて、ロミーが現れたら、「 すぐに来るんだ!私達の結婚をみんなに予告しよう!」と言うつもりだった。そう、あの日6月の朝、言うつもりだった。自然が美しく、彼女は、私の婚約者だったからだ。しかし、私はしなかった。ロミーの窓にただ小石を投げただけだった。その時ほど私が彼女との結婚の近くにいたことはなかった。その日は、何もかもが、考えることなしに速く自然に決定されなければならなかったのだ。しかし、時が過ぎ、私達は、また仕事に追われる日々に戻っていった。それでもある日、彼女と結婚の日取りについて決めるに至ったことがあった。ロミーは、ウエディングドレスを決め、私も結婚指輪を選ぼうとしていた。しかし、それでもだめだった。何故か?それは、私がある晩、一人の女性に出会ったからだった。ナタリーだった。彼女と私は良く似ていた。二人ともその事を好ましく思っていた。私達はよく、人前で兄妹のふりをして楽しんだ。「 私の妹をご存知でしたか?」 などと言って、人々が驚いたような顔をすると私達は爆笑した。こうして噂の兄妹ごっこをし、人々に信じ込ませながら、私達は大いに楽しみ笑った。ところで、笑いは時として我々を愛に導くことがある。ナタリーと私に訪れたのもそれだったのだ。ロミーとの別れはもちろん辛いものだった。しかし、私は、彼女にとっても私にとっても、妥協しながら家庭を築いていくよりは、二人の美しい思い出に傷をつけずに生きていく方が賢明なのだと感じていた。ロミーにもそれがわかっていた。
( Alain with Nathalie )
1961年6月、アランとロミーは当時二人が所有していたモンテ.カルロの仮住まいで休養した。アランがアントニオーニと 「 太陽はひとりぼっち 」 の撮影に入る前のつかの間の休暇だった。7月に入って彼の撮影が始まると、二人はマネージャーが借りたローマの別荘 に移った。私道の奥には普段、外交官や、富豪が住んでいる場所で、近所には貴族らの邸宅や、日本大使の住まいなどがあった。ロミーもヴィスコンティとイタリアで仕事を続けていたため、二人はその場所でしばし一緒に暮らした。億万長者の住むこの地区にある彼らの隠れ家では、アニエスという家政婦が彼らの身の周りの世話をしていた。アランはこの若いイタリア女性と冗談を言い合うのが好きだった。彼女はフランス語がわからないものの、アランが冗談を言うたび、首を大きく前後に動かして爆笑するのだった。また、この邸宅にはバルザックやプルーストなど、素晴らしい蔵書が揃っていたが、アランはわざわざパリからレコードプレイヤーと、自分の
1996年は、ドロンの年と言える。彼は、「 Variations enigmatiques 」 ( 謎の変奏曲 )で、28年ぶりに Theatre Marigny の舞台を飾り喝采を受け、また、メキシコの灼熱の太陽の下、Bernard-Henri Levy の初長編 「 Le jour et la nuit 」 の撮影をした。わざと独創さを図ったような雰囲気や大胆なシーンのため、この映画は論争を巻き起こしているが、彼のような大スターにとっては、逆に嬉しいことだ。1997年もまたドロンにとっては充実した年となりそうだ。5月には、Patrice Leconte の映画で Jean-Paul Belmondo と共演、その後、Eric-Emmanuel Schmitt の戯曲をブリュッセルをはじめとする世界各地で公演して周る。仕事面では、俳優 Alain Delon は夢見たすべてを手に入れた。40年のキャリア、堂々のスターというイメージはすたれていない。最近では、彼がゲスト出演した Anne Sinclair のテレビ番組 「 7 sur 7 」 が、かなりの高視聴率を記録した。そして、ブエノスアイレスからベルリンまで、彼は騒動を起こして歩く。何が彼をいまだに駆り立てるのか? おそらく、彼にとてもふさわしい華々しさ好みと、チャレンジャーというイメージを子どもたちに残したいという誇りだろう。中傷にも構わず... 70年代のはじめに22本もの映画を撮ったドロンは、ここ6年間で、3本の映画に出演しただけだ。「 もう二度とタンクレディ役が出来ないが、『 Le jour et la nuit 』 でアレクサンドルを演じられたことは幸せだ」 と語った61歳のアラン.ドロンは、今も現役のスターで、Visconti 風の革命的な活発さは衰えていない。喜びや苦しみとともに長年が過ぎ去ったが、この永遠の Samourai は、今もはつらつとし、勝ち誇った目、機敏な手腕で、自分に正直であり続ける。まるで、野獣が巣穴の中でもいつでも駆け出せる状態にあるように。彼が全く変わっていないといえば嘘になる。今、彼は以前とは別の希望や必要、別の優先事項がある。最優先は、彼に二人の素晴らしい子供を与えた女性、Rosalie に関することだ。「子供たちが生まれてからは、仕事をしているとなんだか罰されているように感じてしまう。私が望むのは、彼らが20歳になるまで神が私に命を貸してくれるということだけだ。人生の困難や人の非道さに備えて、彼らに十分な準備をさせ、守ってやりたい」 と彼は、強い語気で言う。世界一愛する子供、Anouchka と Alain-Fabien のために、ドロンは、彼の価値観、すなわち栄誉、尊厳、友情がただの言葉ではないということを示してきたという。「 今の社会は、退廃に満ちている。この世紀はひどすぎる。何の尊敬心もない。地球はだめになっている。将来に開けられた唯一の窓は家族。人生の優先事項だ 」 愛 ( 誰もがこの言葉にそれぞれの捉え方があるが ) は、今も彼の主要な原動力だ。「 私が感じることを理解するには、60歳という年齢で小さな娘を持たなければならない。成功と失敗で人生とキャリアを築き、ある日突然この調和を発見した時、人は感嘆し続けるだろう。」貰うよりも贈る方が好きでサプライズに弱い彼は、11月8日、マリニ劇場の舞台に彼の子どもたちが誕生日を祝うべく上がって来た時、声がなかった。「 挨拶の時、客席中が、ろうそくを手に立ち上がったのが見えた。私の知らないところで、何か思いがけないことが行われているのだと感づいた時、驚きとともに嬉しくなり私は振り向いた。子供たちが手に花をいっぱい持ってやって来る。私の人生の中で、最も偉大なる幸福な瞬間だった。感動的な衝撃で、彼らの腕の中にひざまずくと娘が『 パパ、どうして泣いているの?』 と聞いた。私は、『 愛する子よ、私は幸せなんだよ 』 と言った 」。 - from the article by Ingrid Fallay -
プルーストの登場人物にもなり得るアラン、思い出を集めるのが好きなアランは、自宅の部屋という部屋に散らばった写真フレームを通して、過去と現在の幸福の形跡をずっと抱いている。彼は、この写真コレクションを誇りに思っている。全てとは言わないまでも、ほとんどが白黒で、そこに彼という存在のあらゆる面が凝縮されている。書斎、上映ルーム、映写室、ビリヤードルーム、彼の寝室、そして子供たちの寝室の壁という壁に。サンタフェの刑務所の独房に訪問を受けるカルロス.モンソン。映画界での彼の後見人エドウィジュ.フィエール。デザイナーが彼女に試させようとしている、桃皮のような肌触りのドレスの一つに指を滑らせて、もの思いにふけった様子で、「 このドレスにはドロン風の滑らかさがあるわ 」と言っている。「 太陽が知っている 」 のロケ中、サントロペでのディナーで隣同士になったロミーとブリジット。この二人のスターが一緒に写っている唯一の写真だ。Jean-Claude Boutier のトレーニングを見守るミレーユ。父親の肩と腕に抱かれた赤ん坊のアンソニー。ブレルとブラッサンス。アランを息子、兄弟、或いは父親に持ちたかったと、緑のインクで書いてあるモーリス.シュヴァリエ。ロザリー、アニューシュカ、アラン=ファビアンが共に、或いは別々にいるところ。フレームは所狭しと掛けられている。ヨンヌ川にそう遠くない田舎邸宅 「 La Brulerie 」 で、写真に忠実なアランは、自分のリズムで生活している。青々とした広大な芝生の真ん中に佇むプールに横たわり、2匹( 犬は他にも、雑種、ドーベルマン、シェパード、マスチフ、ベルジアン、マリノアなど14匹いる。犬たちは、鎖やアスファルトとは無縁で、邸宅の大庭園を走り回り、主人を決して見捨てる事はないだろう ) の犬に囲まれ、彼は今ひとり静かに時を過ごしている。「 Fabio Montale 」 のマルセイユ撮影のために、二日自宅を離れては、鉄柵に囲まれた家に閉じこもりに戻ってくる。彼の下の二人の子供とその母親の不在中、彼は、そこに一人で住んでいる。 - information from Albin Michel alain delon, I'indompte ( 1970~2001 ) Henry-Jean Servat -
( Alain with his mother Edith on 19th September 1963 )
Alain、君は今どこにいるのか?もう何世紀も君を見ていない。何も無い。電話さえも。私たちの間には空白ができている。Mireille と君が別れた日から音信不通だ。敵意も口論もなかった。私が君について何か言ったり、書いたりしたわけではない。そして、君が私にそんなことをしたわけでもない。何も。空白以外は。もちろん、君は有名人だから、君のことを風の噂で聞いたし、何度もテレビで見た。新聞で君の 『 恋愛 』 ( この言葉を選ぶのに苦戦したが ) の様子も読んだ。そして、君を一種の神話としているもの、また解放的であると同時に貝のように堅く ( 中に真珠があるか見たくて ) どんなナイフを使っても開けられない奇妙な混合人間にしているものは何かも見た。これらが君をスターにしている。時間の経過とともに、君の過去とともに、女性を完全に麻痺させる君の外見的な誘惑とともに。君の映画の失敗や成功。時々周りを面食らわせるような君の立場の取り方。君が発信している驚くような雑多なイメージ。これらは全く問題ではない。頂上にいようと、嵐のような人生の波乱の真っ只中にいようと、君はスターだ。合理的ではないが、そうなのだ。君という人物は、人を惹きつけ、興味を起こさせ、拒絶か賞賛の的となり、人を熱中させるのだ。それは、役者であるということの所為でも、君の恋愛人生の所為でも、君のビジネスマンという顔の所為でも、ゼロが気が遠くなるほど並んだ値段で芸術品を売買するコレクターということの所為でもない。君という人の所為だ。君がこれほどの激しさと誠実さで生きてきた矛盾に満ちた性格の所為なのだ。君は何か平凡なことが訪れるように抜け目無くふるまう。抜け目無くというのは、間違った表現かもしれない。何故なら君にあるのは計算ではないからだ。それは、爆発であり、コントロール不可能かコントロールされていない反応の連鎖だ。野生的な高慢と、獰猛な自己破壊に煽られた自画自賛だ。 君の中には、いこじでありながらも素晴らしい動物がいる。虫たちは罠にかかった時、罠から逃れるために自分の足を食べるという。君もそんなタイプだ。君は罠にはまり、自分の一部を切断して罠から逃れることができる。そして、腹ばいで巣穴にゆっくり向かいながら、自分でもわからない何かすべてを呪うのだ。人生、運命、人を。君は蠍のなかの蠍だ。自己破壊するために自分を愛し、自分を愛するために自己破壊する。そして周りにいる人たち、君が捨てるまで周りにおいておく人たちは、この君の性格の急激な変動から逃れられない。結果として、それが伝説を生む。そして伝説は広まり、君は中傷されたりもする。君は、誰も自分を理解していないとか、誰も今まで自分を理解したことがないと言い、お決まりのパターンでカーテンを閉め、孤独、巣穴に閉じこもる。君を好きなのは君の犬たちだけだ。君は片隅に入り込み、自分の傷痕を舐め、そして君は自分の血の味が好きだから、この作業に奇妙な快感を覚える。君の中には Carlos Monzon の一面がある。残酷なパンチを受け与える仕事ボクシングを君が好きなのは偶然ではない。特に Monzon を、ある日妻も栄光も人生も窓から投げ捨てたこのパンパのヒョウのような、ちょっと頭のいかれた、スーパーチャンピオンを君が好きなのは偶然ではない。彼はひとりでに人を魅了し心配させる。 君の仕事が上手く行かないという話 ( なぜなら、君の絵画販売はさっぱりだし、最新映画でつまづいてひどい評価も受けている ) ばかりか、こういう噂も聞いた。( パリではもっぱらの話だ ) 君は徐々に、Alain Delon 気取り、いや、『 Delon 様 』 気取りし、人の話を聞かず、バンカーのくぼみに閉じこもり、De Gaulle から Jack Lang に移行し、フランスからスイスへ、スイスからパリへ、パリからマラケシュへ、マラケシュからブルターニュへ移動し続けていると。それに君が争奪戦に関わっていることをほのめかすようなことも。私自身は君の Monzon 的性格にすっかり信頼を寄せている。君の心の挫折 ( これに関しては君にも罪が無いわけではない )、すさまじい 『 事業 』 と卑劣な奪い合い、君の仕事上の失敗と成功、秩序を欠いた美しい絵画への目覚め ( 後には研ぎ澄まされたが )、スポーツ、犬、Manu ( 君が嘆いた巨大な犬 ) への情熱。ありすぎるのであとは省くが、こうして君は死に、生き返る。君は狂人のように突き進む。そして、賞賛や意欲の気分によっては、間違いを犯し、それを認めず、忘れ、あるいは思い出し、準備無しに首を突っ込み、ある時は、秀いで、ある時は意気消沈したかと思ったら再び燃え上がり、人や自分に対してとても聡明かと思えば、おそろしいほどのおめでたさと盲目さを見せてくれる。 今君はどこに向かっているのか。私にはわからない。私が確信しているのは、君がどこかに向かっているということだ。この世のどんな力をしても、女性、家族の愛情、友情も君を止められない。君は燃える火を背負って生まれてきたのだ。君が消そうと走れば走るほど、火は生き生きとし君を氾濫させる。そして、君は消すために水に飛び込むような男ではないからそれは続く。どんどん悪く。どんどん良く。君は今どこにいるのか?いつも君のことを考えると私の脳はカオスでいっぱいになるが、いつも君のことを考えると私の脳はカオスでいっぱいになる思い出と君に対する友情だ。それはしばしば私の理性を混乱させる。なぜなら私は本当に君にまた会いたいのかもう分からないから。君のようなやり方で、君の影を追いかけて窓から飛び降り、袖をつかんで君を引き止め、君の頭の中の金と混ざるよう鉛を入れるために。 - information from the article written by Frederic Musso in Paris Match 13 Dec 1990 -
Caroline de Monaco 「 王妃、あなたにお手紙を書かせていただきました 」。 -Alain Delon - 王妃、またあなたにお手紙を書かせていただきました。私が「 また 」 というのは、以前も書かせて頂いた事があるからです。お返事がありませんでしたので、あなたが覚えていらっしゃるのか( 私の筆跡は規則的で、字を縦長く斜めに傾いて書く癖があります )、この最初の通信があなたのもとに届いたのかどうか私には分かりません。もちろん私も不躾でしたし、あなたへの敬意に免じてあなたをお許しします。10年以上前、私がボクシング選手権を開催していた時、私は Monte-Carlo におりました。Monzon 対 Benvenuti のリターンマッチで、あなたは、私の何列か前にご家族と一緒におられました。第2ラウンドで Benvenuti が KO 負けしました。会場中が立ち上がり、リングを見つめ、刻々とカウントがされ、ゴングが鳴ると、勝者に喝采の嵐となりました。Monzon は全力で走った後の野獣のように勝ち誇った表情をしていました。私たちは彼を賞賛していましたが、突然私は誰かがリングへのウエーヴを切ったのを感じました。それはあなたでした。私たちの視線がほんの一瞬合いました。まるで、王妃であるあなたと俳優の私が公共の場外でのつかの間の知り合いであったかのように。あなたは素晴らしく、美しかった。子供時代を終え、女性としての笑顔を予見させていた。翌日、私はあなたにこう手紙を書きました。『 王妃、公国もあなたのような美しい王女がいるとは本当に恵まれています 』。 私は返事を望んだでしょうか?間違いありません。この瞬間から、王妃、あなたに私は一種の愛情抱き、遠くで心からあなたの生活にまつわるエピソードを追っているのです。辛いエピソードも幸せな話も。それも、少女だけが男性に見せられるあの視線を共有したからです。それから、私たちは良く偶然お会いしましたね。公式パーティーや知り合いの舞台裏で。ある晩、私たちはマキシムで食事をしましたね。聡明なあなたは他の人に常に気配りをして、私の仕事である俳優の世界にも詳しく、芸術と人生に関する情熱的な解釈に富んでいました。あなたはまさに周囲が思った通りのあなただったのです。いえ、それ以上です。あなたは私の手紙のことには触れませんでした。王妃という仕事は大変な仕事です。スターでいることが難しいように。そして、王妃、あなたはスターであり、王妃なのです。公人としての義務、人々の目が常に注がれている責任を負うことがどんなに大変か、私は誰よりも分かっています。苦悶を隠す強さと、不安を覆う笑顔がどんなものか知っています。よく、私は、あなたを思います。なぜなら私は、あなたの課題を知っているからです。王妃、公国はこんな素晴らしい女性がいて本当に恵まれています 」。 - information from Paris Match 6 Sep 1985 -
人間一人は、この無数の銀河星雲に比べたら何でもありません。人と星は同じ微粒子から出来ています。我々は、みんな星の子供です。共に生きていこうではありませんか。何故、狂気によって物が死んでいくのか?野蛮な資本主義。情報社会。毎日おぞましいこと、犯罪があります。コミュニケーションはどんどん減って、人は雲の中を歩くようにインターネットで歩き渡り、心に要塞を作って閉じこもっている。私にとって、世界一素晴らしいことは、家族と一緒にいることです。Rosalie、二人の子供、犬たち、そして鳥、すずめの Peewee と。 - Alain Delon – - information from Paris Match 20 Jan 2000 -
Frederic Musso : あなたにとって、新たなミレニアムへの移行は何か特別な意味がありますか? Alain Delon : 私は、至福千年説の信者ではありませんし、神が概数の時に、特別恵みを与えてくれるとも思いません。世間では、2000年問題、飛行機、エレベーター、銀行で混乱があると騒がれてましたが、私にとって一番大事なのは人の心を通過するものです。事は単独に起こるわけではありません。一番卑劣なのは狂気、破壊欲です。チェチェン、コソボ、アフリカで起こっていることを考えてみてください。そして、鳥たちを汚染している海の重油流出問題も。もしも未来のためにひとつ願い事が出来るとしたら、私は無責任な人たちによってこの地球が駄目にされつつあるという事実を、政治家、つまり責任ある者達にしっかり理解して欲しいと思います。ブラジルでは、『 世界の肺 』 アマゾンが破壊されています。大昔からの環境メカニズムも狂いつつあります。世界化、石油問題、地球の温暖化...。すべてお金のため。エコロジストがやるだけやっても、本当の手段は、政治家だけが使えるものです。 Frederic Musso : 自殺したいと思ったことはありますか? Alain Delon : 子供たちの誕生の前にはあります。人には生きる権利も死ぬ権利もあります。人は、世の中のしくみがわかった時、もう何ももたらせないとわかった時、一人ぼっちの時、自殺を必然的に考えるものです。今は、子供たちのために自殺は除外されていますが、肉体的、医学的な問題となるとまた別です。もし、寝たきりになり、癌が全身に転移したら、私は最後まで待たないでしょう。そういう状況でない限り、自殺は考えられません。 Frederic Musso : あなたは芯から Samourai の孤独が身についているようですが。あなたには友達がいますか? Alain Delon: 長年の友達がいます。彼らは必ずしも有名人ではありません。Monod 教授は 「 友情とは結んでいくものだ 」 と言いました。人はよく、「 私の友人を紹介します 」 とか 「 私の友人です 」 と言いますが、『 友 』 というとき、そこには別の意味や響きが含まれてくると思います。私の父は 「 もしこの世に一人でも友があれば豊かだ 」 と言っていました。私は孤独が好きです。それは、美徳でもなんでもありません。私の性質です。自分に課しているわけでもありません。私はこれで幸せなのです。 Frederic Musso : あなたは Loire 県にお住みですが、先日の大嵐の被害は受けましたか? Alain Delon : 400本の木が根っこから倒れました。マッチ棒のように折れたものもあります。でも、私は運が良かったです。子供も犬もみんな無事でした。フランスでは死者が出たり、家が破壊されたりしましたから。それでも、怒りのもとになることはありましたよ。8日間も電気がなかったからです。幸い家に発電装置がありましたが、それでも、始終それを作動させているわけにはいきません。パリから100キロ離れたところで、1週間電気なしの生活とは、困ったものです。特に、この国では大統領が誓願の中で、国の主要責任である公共事業、安全、連帯について強調しているのですから。Frederic Musso : あなたはいつも政治に興味を示してきましたが、今では地球規模の視野をお持ちのようですね。年の功でしょうか? Alain Delon : それは今日唯一可能な視野です。( 彼は机の上に写真を探す。夜の青を背景にした銀河系の写真で、『 You are here 』 というばからしくて目が眩みそうなキャプションがついている ) - information from Paris Match 20 Jan 2000 interview by Frederic Musso -
( Alain and Nathalie with their son Anthony in mid 1960's )
Alain Delon : 私は我が国の事を思うと悲しくなります。この国は働くこと、創ること、生きることの喜びを失ってしまったようです。連休を得ることしか考えていません。復活祭の連休、メーデーの連休、ヴィクトワール( 勝利 )の連休... 。我々の勝利はまだ遠いでしょう。 Arthur Conte : フランスの真髄は、復活にあります。フランス史の最初の法則がそうです。フランスは、立ち往生し、落ち込んでいると見える時に限って、次の瞬間、輝かしい奇跡を起こしたりするのです。確かに大きな問題を抱えていますが、個人的には私はフランスへの信頼を全く失っていませんよ。 Alain Delon : でも、今回は悪いことが多すぎます。傷痕は今までよりずっと大きいような気がします。この国は、何と言いましょうか、筋力も、魂も失ってしまったと思いませんか? それとも、中毒になっているというのは間違った表現でしょうか? Arthur Conte : あなたがそのようなことを言うのですか? 私は、あなたを常にバイタリティーに溢れ、映画製作を精力的に続け、成功に成功を重ねていくような人だと思っていましたよ。あなたにとって創造が喜びでしょう? 何故、他の人間もそうでないと言えるのですか? Alain Delon : Mitterrand 大統領を信頼できますか? 彼は矛盾だらけで危険に満ちた道を歩んでいます。いつか、『 Mitterrand のようなうそつき 』 という熟語ができるでしょう。彼は約束したことすべての逆をしています。こんなことは初めてです。確かに彼の厳格さ、誠実さは評価に値すると思います。でも、彼は出来ない約束ばかりをしています。 Arthur Conte : 真面目な話、彼は少なくとも三つの 『 大事業 』 で、引退後の引継ぎを楽にしてくれていると言えますね。第一に、少なくとも50年間は、集産主義にはならないでしょう。第二に、自分でも気付かずに、野党のリーダーがしたいことを代わりにやってくれています。第三に、ここが彼の矛盾点ですが、自由主義の効果を人々に教えてくれています。政権では自由主義的というよりは行政的だった野党の人たちにまで。 Alain Delon : 確かにそうですね。自分のしていることにいつか気がついたら、彼はどんな顔をするでしょう? でも、彼を信頼した勇気ある人たちにとっては痛いですよ。 Arthur Conte : 教訓。リーダーとなる人は、守れない約束はたくさんしないということですね。 Alain Delon : 悔しいです。なぜなら、多くの人は、社会主義派の実施や Mitterrand に幻滅したとしても、右派にはならないですからね。Mitterrand に幻滅したと言いながら、他の人には投票しないでしょう。左派への幻滅が、右派の支持に繋がらないのです。私は、特にたいした理由もなく仕方無しに Veil 派に投票した友人をたくさん知っています。また、棄権する方がいいという人もたくさんいます。 Arthur Conte : その点は、おっしゃる通りですね。 Alain Delon : でも、私は Mitterrand 自身には何の悪感情も抱いていません。悪いのは、Mitterrand が政権につくような状況を生み出してしまった前政権の人たちです。 Arthur Conte : それは、今更どうにかなることではないでしょう。もう遅すぎますし、彼らを今更非難することはむしろ有害ですね。 Alain Delon : Chirac と Giscard の所為です。それでも、彼らは何事もなかったかのように右派を代表しているのですから。 Arthur Conte : 私は、あなたと全く逆で、彼らは失敗を通して多くを学んだと思います。 Alain Delon : 彼らがくだらないことを熱心に話している時、私が何を想像するかわかりますか? まるで、女の喧嘩です。そうでなければ、まるでポーカーです。彼らはゲームに何が賭けられているかわかっていない。何百万もの人々の幸せがかかっているのに。 Arthur Conte : 今、右派を責めても仕方が無いでしょう。やめましょう。 Alain Delon : ええ。でも、意味の無い口論ばかりです。いつも同じことばかり言って。彼らは気がついているのでしょうかね? だれか、彼らにはっきりと言ってやれないのでしょうか? Arthur Conte : Le Pen について話してください。 Alain Delon : 私は彼の党で政治活動をしようなどと考えたことは一度もありません。戦闘的な政治は私の仕事ではありません。でも、彼には3つの資質があります。彼はとても気持ちの良い性格で、人々が密かに思っていることをはっきり口に出し、他の政治家と違う態度で話します。彼の語調や言葉は退屈な政治家たちに比べて刺激的です。 Arthur Conte : 私も彼と同じ時期に国会議員をつとめました。確かに、彼はとても気持ちの良い人間で、率直すぎるくらい率直で、友情に忠実です。ただ、彼には他の野党にはない自由があります。 ( 極右が政権にのぼることはまずないので、言いたいことを好きなだけ言えるという自由 )近い将来責任をとらなければならないということは全くありませんので。 Alain Delon : 確かにそうですが、肝心なのは、彼が他の誰も言わないことを言っているということです。彼は自分の分別をはっきり伝えているんですよ。私も外国人労働者達は尊重されるべきだと思いますし、フランスは有益な外国人を受け入れるべきです。また彼らにも利権のためのストをする権利があると思います。しかし、彼らがフランス人労働者の仕事をとってしまうことには納得いきません。こんな考えは、ファシストでも何でもないと思います。私は、俳優、映画のプロデュサーの Alain Delon として話しているだけです。 Arthur Conte : あなたも ( 他の政治活動をしている俳優のように )、政治野心があるのかと言われるでしょう? Alain Delon : 私は現実的です。道を歩けば、人々は私を絶賛してくれますし、サインを求めてきますし、暖かい言葉をかけてくれます。しかし、もし私が立候補したとしたら、1.4 % ほどの支持しか得られないでしょう。私も含めて他の多くの俳優たちは政治に対する意見を言っています。フランスの俳優が政治的な討論に参加することは以前はありませんでした。 Arthur Conte : 現在、一般大衆の中に不安があります。フランス各地で講演をしていると、それが良く見えます。ですから、人々が好きな俳優に政治的意見を求めたとしても、何も驚くことではありません。あなたもおっしゃっていたように、プロの政治家の証言とはまた違った政治の証言を世間は聴きたいのです。 Alain Delon : 私は De Gaulle を崇拝していました。Pompidou を尊敬していました。彼らは、今日我々が我慢しなければいけない連中とは大違いです。私には政治的野心はまったくありません。映画で十分です。Reagan のようになりたいと夢見たこともありません。しかも、Reagan は俳優としては全くだめでしたが、政治家としては見事でした。彼が大統領になって、ひどい Carter を追い出す前は、カリフォルニア州の素晴らしい州知事でした。私は、政治家ではありませんが、政治家について思ったことははっきり口にしていくつもりです。彼らが機嫌を損ねてもそれは仕方ありません。新しい中心人物が必要なのですから。 Arthur Conte : あまり厳しくならないでください。Valery Giscard d'Estaing は素晴らしい国家元首です。フランス政治の分析においては、最も優れた人物の一人です。Jacques Chirac はバイタリティに溢れた政治家で、パリ市長という任務を通して、重要な計画の運営能力を示しました。また、デマゴギーに左右されない Raymond Barre は、並外れた価値のある男で、他国からも羨ましがられています。ですから、我々彼らの味方であるべき者が、彼らを攻撃してはいけませんよ。 Alain Delon : それでは誰が Giscard にメディアに出すぎだと教えてあげられるのですか? 彼は、もっと人目に触れないよう慎むべきですよ。 Arthur Conte : 私はいつでも彼に言えますよ。主要な選挙が近づいたら、いつものように真の友人として彼に会って、厳しく話しましょう。でも、彼の判断や分析はすべて慎重です。 Alain Delon : 彼には言うことが一杯あります。遅すぎるよりは、早目がいいですよ。 Arthur Conte : 繰り返しになりますが、集産主義、国家管理主義、派閥主義に対する戦いの最中に、民主主義者同士の闘争をあおるようなことはあまり良い考えではないと思いますが。 Alain Delon : わかりました。大切なのは政治家たちがフランスのために一致団結するということです。政治家たちにはテレビで、出来合いの言葉から離れて、もっと能動的であって欲しいと思います。私が望むのは、情熱的に核心をついて話す政治家です。どんなに知的でも、ロボットのような人に投票するのは嫌です。ロボットは、Fabius や Chevenement や Attali ( すべて左派の政治家 ) のような連中だけで十分です。彼らはみな、すたれたイデオロギーの機械的な奴隷です。野党の人間は機械的なロボットであってはならないのです。 Arthur Conte : テレビを通してすべて裁かれてしまいますね。 Alain Delon : 私はほとんどテレビを見ません。ボクシングの試合以外は。これも今では、テレビであまり見られなくなってしまいましたが。私が一番不満なのは、フランスのチャンピオンたちに闘争心がなく、厳しいトレーニングをコツコツと積むことが出来ないところです。これらチャンピオンたちは、我々の国を象徴していると思いませんか? 長期にわたって継続的に君臨できないのです。一試合では見事な成績を収めても、すぐに没落。真の男がいないのです。柔な国には、柔なスポーツ選手しか育ちません。それでも、野党のリーダーたちの欠陥に気がつくくらいの頻度ではテレビを見ています。彼らがテレビで見せることといったら、柔なことばかりです。 Arthur Conte : 批判しているだけではだめです。分析批判は簡単です。解決策と具体案を提案するなら別ですが。 Alain Delon : 最終的には、もし誰かを支持しなくてはならないとしたら、病前の Pompidou のような、真剣で堅固な人を選びます。私が気に入るのは、事実をはっきり言うことの出来る人です。たとえ、言い方が人に気に入られないとしても。考えていることを恐れずに口に出すことのできる 『 きっぱりした人 』 です。 Arthur Conte : あなたは悲しい悲しいと言っていますが、映画ではあなたの役は全て悲しい役です。それに、あなたの好きな英雄は Attila のようですね。 Alain Delon : それに好きな音楽家はワーグナーで、好きな画家はミレーで、『 晩鐘 』『 落ち葉拾い 』 が好きです。戯曲のヒロインで最も好きなのは、メッサリーヌです。もっと明るい役を演じることもできます。実生活では、私は明るい人間ですから。ただ、良い環境は必要です。世間は、私がビジネスに興味津々だと思っているようですが、そんなことはありません。多少のリスクを負ったり、失敗の際には責任をかぶることもできます。俳優としては、失敗を経験したことはありません。映画 『 Monsieur Klein 』 でのプロデューサーとしての失敗はあります。でも、私はいつも体当たりして困難の中で挑戦してくことが好きなのです。私が悲しいとしたら、社会状況が現在、霧に包まれた状態で、偽善者や、計算高く腹黒い連中、ごまかしが多すぎるからです。私はごまかしが大嫌いです。人間の長所で私が一番好きなのは偽善者でないということです。だから私は犬が好きなのです。犬は絶対に裏切りませんから。 - information from the dialogue with Alain Delon and Arthur Conte in Paris Match 18 May 11984 -
( Alain Delon with his dog in 1963 )
部屋の中に黒い犬が二匹。気高く、警戒心が高く、時々獰猛だが、ほろりとさせられることも多い。左の一匹はMANU ( マニュ )、7歳。右の一匹は Alain Delon、48歳。二匹とも極限の孤独状態にある。父親から息子への愛情、息子から離婚したばかりの父親への愛情のようなものが生まれている。Mireille Darc の犬である MANU は、快活な犬で、病中の彼女に気力を与え続けたが、今では、『 Darc-Delon 』 というフランス映画のシンボル的なカップルは終わってしまった。新聞、雑誌や噂好きな大衆の格好の餌食となっている。「 で、あなたが与えていた美しいカップルというイメージはどうなってしまうのですか?」 「 私はイメージを与えたことなどありません。人々が私の意志とはうらはらに、勝手に騒ぎ立てていただけのことです。ですから、こんな私を見たあなたも私生活を守るように気を付けることですね。私はもう人生を変えはしません。私にはもう人生がありません。もう二人の人生ではないし、人生と呼べるものはなくなってしまいました 」。傷ついた男の苦しみ。愛犬と同じ眼差し。そして、こちらが戸惑うような率直さ。「私の仕事が、特にビジネスが、現在これ以上上手くいくということはないようなので、もしかしたら別の部分はこれ以上悪くはならないかもしれません。人生は、一方で運を与え、他方で運を引き取るようになっていますから」。 「 人生があなたから Mireille Darc を引き取ったとお思いですか?」 「 人生が彼女を私から取っていくのを私は止める事が出来ませんでした。でも、これからもずっと残っていくはずの別の絆が私たちの間にはあります」。その絆は尊重するとして、世間は Alain Delon に対して単にこう言いたいのだ。もしかしたら、彼は有毒で、彼に触れる全てを痛めつけるのではないか、と。この蠍はそれを良く知っていて、肯定するだろう。そして、こう付け加える。「 私は 『 人々 』 を傷つけましたが、良いこともたくさんしたと思います。そう言われますし 」。『 人々 』 とは、もちろん女性たちのことだ。そして多分、他の誰よりもまず Romy Schneider という一人の女性のことだろう。この3時間のインタビュー中、私が一度も彼女の名前を出さなかったのにもかかわらず、彼はまるで呪文のように何度も彼女について話した。 彼は、彼と同族の理解し合える彼女を奪ったこの俳優の世界を恨めしく思っている。「 彼女は、栄光、才能、天分と引き換えに得たものに、つまり人々の視線に、耐えられなくなっていました。彼女は、傷痕、裂け目だらけになり、身包みはがされ、むき出しにされたばかりか、皮まで剥がされていたような状態でした。常に犯されているように感じていた彼女の苦悶、苦しみは計り知れません。Marilyn、 Bardot、 Martine Carol、Jane Russell も同じ苦悩を味わいました。俳優は女性の職業ではないのかもしれません。これを理解できる人は本当に少ない。Romy や Isabelle Adjani は、私と同種の人間ですが、彼女らが天分と引き換えに得たものは、これほどの犠牲、苦しみなのです」。ブルーグレーの目の際には、Romy Schneider を回想してか少し水滴が見える。周囲には、この亡き女優の写真があちこちに飾られている。彼お気に入りの写真は、彼女が 『 La Piscine 』 の撮影のためにフランスに戻ってきた時のものだ。彼はニース空港で彼女を待っていた。彼女は大きく微笑んでいた。『 ヨーロッパの若い婚約者たち 』 は再会し、映画ファンから避けられていた Romy Schneider はその後、第二の輝かしいキャリアを描く。 Alain Delon は彼女についてまた語る。女優に厳しい年齢を敵にまわしながら。「 女優たちが化粧をして、年齢が分からないように悲痛な戦いをしているのを見ると、私はいつも年齢にひどい不公平があると思います。私は48歳で、堂々と年を言えます。自分の年は、まず人の視線で感じますが、今のところ、何ら変わった様子はありません 」。Alain Delon の人生には横這い状態がない。ただ変化が、そして多分、ますます孤独で 『 野生的な 』 新しい分岐点がいつもあるだけだ。総分析、検討、再スタート、反省は彼には似合わない。ただ突き進み、失敗でさえも絶対に後悔しないのが彼だ。「 出演して後悔した映画は一つもありません。一度も仕方なしに出演したり、強制されて出たことはありません。時々、テーマや製作チームの選択を誤ったことはありますが、いつも自分で全て決めてきました。私が出演した68~70本の映画は刑事ものばかりではないということを、さも驚くべき事実のように言う人がいますが、私はあらゆる種類の映画をあらゆる客層のために撮ってきました。人の記憶は、いつも最後の映画にとどまってしまいます。ですから、Melville 監督作品や、『 Le Guepard 』、『 Le Professeur 』、『 Mr.Klein 』、『 Rocco et ses Freres 』 があったことを思い出してください」。Visconti、Melville は、彼が決して忘れることのない巨匠である。Alain Delon のスタジオには、彼自ら Visconti のローマの邸宅で撮った Visconti の写真と、『 Ossessione 』 や 『 Rocco et ses Freres 』 などの初期の映画で、この監督が使っていたメガホンがある。また、カメラの接眼レンズに釘付けになっている Delon の写真の上に書かれた Jean-Pierre Melville の献辞 『 私が監督ではなくてプロデュースをする初めての映画では、このようなあなたの表情を見たい 』 も、置かれている。この献辞を読めば、Alain Delon が自らの初監督作品 『 Pour la peau d'un flic 』 の最初の映像に寄せた献辞がよく理解できる。 Boulogne のスタジオ内にある彼の事務所兼アパルトマン兼住み処には、他に2枚の写真がある。一枚は、ソフト帽をかぶり、きっと薄い唇を結んだ Jean Gabin の見事な写真のポストカードで、もう一枚は Dalida di Lazzaro である。Joseph Losey や Luchino Visconti が Proust にあこがれたように、Alain Delon は、Visconti の思い出として Volker Schloendorff 監督の『 Un amour de Swann 』 に最近出演した。スワン役 = Delon、シュルリュス役 = Brando というキャスティングに決まっていたが、しばらく後には、Delon が年輩のシュルリュス男爵役を演じるようになり、劇場ポスターでは、Jeremy Irons と Ornella Muti に続いて3番目になってしまう。彼は、たいしたことはないと言っているが。この映画公開前には、Romy Schneider や Shirly Mac Laine のように彼が 『 とても意識している女優 』 Nathalie Baye との共演で、Bertrand Blier の 『 Chambre a part 』 ( この映画は実際には 『 Notre histoire 』 というタイトルで公開されています。) も撮り終えているだろう。そして、その少し後には、Andre Techine 監督の 『 Lune de Miel 』 ( Pascal Bruckner の原著 『 Lune de fiel 』 をこんなタイトルに変更するとは、なんということか。映画界の人間は、縁起かつぎが好きである。) も。相手役にはおそらく Chatherine Deneuve が起用されるだろう。また、その間にも、『 映画界の公務員 』 になりたくない Alain Delon はビジネスにも力を入れるだろう。なぜなら、この男の3つ目の顔は、彼が自称するよう 『 ビジネスマン 』 だからだ。馬、ボクシング、ヘリコプターを経て、また新しいものに心奪われるまでは現在のところ、Alain Delon ブランドの香水、時計、スカーフ、ネクタイ、ベルト、ワイシャツなどが94ヶ国に広まっている。彼は日本と香港から先日帰国したが、その地で女性店員たちとのカクテルパーティーに出席し、彼女らを魅了する海外スターの第一号となった。秋の始めにはアメリカにも行った。( アメリカでは彼のブランドは百貨店で販売される )また、近東、アラブ首長国連邦、南アメリカ、そして彼にとって最初の市場で本社所在のスイスでも商品を購入することができる。フランスでは、あまり真剣に受け止められなかったため需要を待った。フランスは商売下手で成功しすぎることに警戒心が強い国だ。 Alain Delon はいつも生活保護受給姿勢のフランス人のこんなメンタリティーが嫌いである。 「 言うまでもなく、左派の責任です。すでに Giscard の頃からこの問題は始まっていましたが.....。この有様を見てください。考えの狭さ、腹黒さ、ねたみ、それに、何という矛盾でしょう。家族基盤を再構成しようとする一方で、妊娠中絶や成年18歳を合法化しています。パリ中の壁という壁は、蝿取り紙のように広告がへばりついています 」。「 それでは、他の人たちのように、積極的に政治に政治コミットをなさったらいかがですか?」 「 いいえ、私はデカルト派の妥協しない性格で、軍人、将軍、現場型の人間です。政治家ではありません。それに、どの党に属すれば良いのでしょうか。政党が欠けているのではありません。足りないのは優秀な人材です。もしも De Gaulle 将軍が今いたら、私は彼に地の果てまで着いて行ったでしょう。今では、彼と敵対していた Mitterand を含め、みんながみんな De Gaulle 将軍を模範にしています。私は Pompidou も好きでした。世間では、ただの繋ぎの大統領と言われていましたが、彼のような繋ぎならまた欲しいと思います 」。 Alain Delon の考えはエスカレートし、極右への共鳴にまで至る。「 極右的な考えを包み隠さずに見せることが、勇気ある行為だなどと言わないでください。もしも、勇気というものが人々が密かに思っていることをはっきり言うことでしたら、密かに思っているだけの人々が臆病なのでしょう 」。Alain Delon が道徳的な話を始めると、聞いている側もまた彼の社会人としての責任に説教をしたい気持ちに駆られる。ちょうど我々の頭上には最新映画 『 Le Battant 』 のポスターがある。ピストルを手に、暴力を賛美しているかのような。Alain Delonは答えて言う。「 我々の映画は無害です。現実はしばしばフィクションよりもひどいことがあります。Spaggiari 事件、郵便列車事件、それにテレビニュースで流れるもの 」。 「 それでは、あなたの言うことに 100% 耳を傾けたとして、行き着く先はあなたの息子さん Anthony ということになりますね?」 「 もちろん父親としての責任はあります。優しく接したら良いか、力ずくで接したら良いのか、威厳を用いるべきか、愛想を用いるべきか、イライラしながら考えるのは辛いです。『 Alain Delon の息子 』 でいるのは容易いことではありませんが、『 Alain Delon の息子の父 』 でいるのも容易いことではありません。忍耐には慣れています。私は強い人間ですから 」。Alain Delon は、続ける。「 あなたにも関わることなのですよ、Patrick、強い人間というのは。良い仕事をする人間は話題になります。番付にも登場しますし、新聞紙上では、P.P.D.A. ( この対談の聞き手 Patrick Poivre d'Arvor のこと。彼の通称で略称。) と呼ばれたり、Bebel ( Jean-Paul Belmondo のこと。) などと呼ばれたりして、嫉妬や恨みに会ったり、人々の様々な意味での関心の波に呑まれたりもするでしょう。自分の殻に閉じこもることになるでしょう。そして、その時ひとりぼっちだと感じるでしょう。分かる人はごく少数です。世間に対して、『 知らないことを話題にしないで、黙れ 』 と、言いたくなりますよ 」。そして Alain Delon は、頭を離れない Romy Schneider についてまた話し始める。「 人は、孤独の中に長く居すぎると、苦しみに襲われたり、時には死に至ったりもします。彼女は衰弱死しました。それが、彼女の病名です 」。「 あなたにもこういうことはありますか?」 「 ええ。でも、おそらく彼女らと同じ状況にはならないでしょう。私には男性特有のエネルギーがあります。死のうと決めたら即断行です。苦悶の時期は私にもありました。正常な男で、『 自殺したい 』 と言ったことのない人はいないのではないでしょうか 」。十字架の付いたロザリオをビジネス用アタッシュケースに入れて持ち歩いている Alain Delon のセリフだ。( ロザリオがキリスト教的で女性的な物だという事をほのめかして、彼の自殺に関する発言との矛盾を指摘している )彼は、私がその矛盾に気が付いたと気づき、気まずい様子だったが何も言わなかった。十字架のロザリオは、彼のブルゾン、ブルージーンズ、ベルトにぶら下げられた鍵、 象毛でできたブレスレットには似合わない。たばこも酒も飲まず、昼食を摂らず、果てには少しの運動もしない彼の厳格な生活習慣とも似合わないものである。我々の隣では、MANU がうなっている。この MANU と Delon という二匹の犬は顔を見合わせる。山猫もずいぶん遠くに行ってしまったようだ。 - information from the article by Patrick Poivre d'Arvor in Paris Match 16 Dec 1983 -
( Alain with Nathalie at the location spot Congo of the movie "Les Aventuriers" in 1967 )
この夏 Christine Angot と共に Alain Delon に会った時、彼は Rosalie との別れという耐え難い出来事に失望と孤独を隠せぬ状態だった。その後、状況は急展開し、Anouchka と Alain-Fabien の母親である彼女は、めがののビジネスマン、別の Alain と結婚した。( Alain Delon は、15年間の Rosalie との生活で、彼女と婚姻関係は結ばなかった )Delon 行きつけのこのレストラン『 Costes 』 では、彼が来るといつも空気が変わる。しかし、彼に接するウエイトレスたちも、様子を伺う客たちも、彼がたった一人でも12匹の犬と、三つ足の猫 ( 車に引かれていたところを拾ってきた ) と一緒に新年を迎えたとは想像もしなかっただろう。もちろん、招待はたくさんあったのだが、彼はこう考えていた。「 もし何かするのなら、緊急医療サービスで働く友人を手伝いに行きたい 」。同じような辛さを人前で堂々と噛み締めて行ける人は多い。しかし、彼にはもうそれを続けることはできない。今、彼は、パートナーたちとの失敗にも関わらず築き上げてきた自らの血族にしがみついている。つまり、兄弟のように仲がいい3人の子供たちと2人の孫たちにだ。若かりし頃の彼を思い出させる落ち着いた Anthony とは、真の合意に達した。まだ小さな子供たちに対しては、彼はどちらかというと甘い。そして、夕食の席でも堂々と12歳の娘の携帯の留守電にメッセージを残す。テーブルでみんながびっくりしているのにも構わず、「 いとしい子よ、今どこにいるんだい?電話してくれるよね 」 と哀願する。以前、下の子供たちは遠隔地オランダに住んでいた。今は近くにいるとわかっているのに手が届かない。Paris Match : あなたの孤独な幼少時代について話して下さい。Alain Delon : 4歳の時、両親が離婚したので孤独な子供時代を過ごしました。母が薬剤師助手として生計を立てていたため、私は里子に出され、Fresnes の退職した夫婦 Nero の家で育てられました。私は彼らを本当の家族だといつも思っていました。Paris Match : 愛に飢えていたと思いますか? Alain Delon : 愛情はたっぷりもらっていました。しかし、愛とは別のものです。私の両親は二人ともその後の人生をやり直したので、それぞれに新しい子供がいます。ですから、9歳になった時、私は寄宿舎に入れられました。私は少し負担になっていたのです。その後私は、聖ニコラ修道学校の寄宿舎を3回ほど追い出されました。Paris Match : 手におえない子供だったのですね。Alain Delon : 『 ひどい子供というのは、ひどく不幸な子供だ 』。私は15歳の時、この中等部を退学し、17歳で海軍に( 親は大喜びでした )入りました。私はまたも私を排斥した彼らを憎みましたが、こうしてインドシナ半島に行きました。 Paris Match : あなたはいつも軍隊のことをまるで家族のことのように話しますよね。Alain Delon : 私は根っこから軍国主義的な人間で、軍隊とは一国の脊髄であると考えます。私がしてきたことすべて、そして現在の私と成功があるのはこの軍隊のおかげです。5年間の軍生活が私に尊敬、規律、厳格とは何かを教えてくれたのです。大変誇りで感謝しています。Paris Match : 時々、ご自分があまりにも厳格すぎると思いませんか?Alain Delon : 私のような公人は、時として知名度が人物を先回りしてしまうことがあります。 Delon は Alain を超えてしまっているのです。常に肩に荷を背負い続け、あちこちに姿を現し、演じ続けなくてはなりません。本当にとても疲れます。そのため私は鎧を鍛えなくてはならなかったのです。ただし真の私は必ずしもみなさんが知っている私とは限りません。私は複雑な人間で、私の中には半ダースほどの人間が住んでいます。彼らの仲はとても悪く、常に争いです。穏やかな人に気難しい人。激しい人と優しい人.....。そこから、私のぶっきらぼうな怒りや、胸を裂くような悲しみ、粗暴な放棄、苦悩が生まれるのです。Paris Match : お子さんを得たことで、あなたは丸く、自然になりましたか? Alain Delon : いいえ、私は最初の子 Anthony を38年前に得ました。人生の一大事でした。しかし、そこで歴史が繰り返されてしまいました。私と子供の母親との仲は長続きせず、息子は私が彼の年齢の4歳の時に私がいた状況と同じ状況に入りました。人生最大の恐ろしい失敗でした。私が経験したことの中で、絶対に二度と起こしたくなかったことを起こし、とても辛い残酷な時期でした。その時私は、「 自分は何をしてもだめだ。自分の味わったことを繰り返すことしか私にはできないのか 」 と思いました。そしてまた今回も、みなさんご存知のように、まさに同じ事が繰り返されてしまいました。私の12歳と8歳の子供たちに。私にとって、家庭、子供に関することは失敗の連続です。Paris Match : しかし、あなたとお子さんたちは、強い絆で結ばれていると感じますが.....。Alain Delon : 子供たちは私の命です。彼らよりも大事な物はこの世にありません。特に、二人の小さな子たちはそうですね。Anthony は、もう善良な立派な男性になりましたから。小さい子たちはまだ無垢な時期にあり、苦しんだことがありません。私は彼らの人生に待ち構えている苦しみから彼らを守りたいのです。彼らの人生初めての大きな苦しみが父親の死ということになって欲しくないので、出来るだけ長生きして、気丈でいたいと思います。Paris Match : 彼らの前ではあなたの威圧さは消えてしまうような気がするのですが、あなたはどんな父親ですか? Alain Delon : 私はいつも威圧的に見せかけています。というより、いつも極端なのです。子供たちに対して私は、優しく何でも受け入れ、認め、何でもしてあげますが、突然、厳しくなったりもします。しかし、やはり子供たちには完全に参ってしまうのが常で、特に、娘の前ではそうです。彼女の望むような父親でいようとしています。Paris Match : それはあなたの新たな一面ですね。Alain Delon : いいえ。Anthony の時も、彼の母親と離婚するまではこうでしたよ。彼が、4~5歳の時、彼の望むような父親でいようとしていました。しかしその後、私は彼を失いました。30年前の法律は、父親に養育費の支払いと、涙を拭うためのハンカチぐらいしか認めてくれませんでしたから。Paris Match : あなたは60代にして 『 若い 』 父親ですね。Alain Delon : 私は父親であると同時に祖父でもあるという奇妙な立場にあります。Anthony の子供たちの年齢は彼らの叔母と叔父、つまり私の下の子供たちの年齢とほとんど一緒なのです。子供たちにとって、私は祖父の年齢にあります。子供たちが学校から出てくるのを待っている時、外見上は私は若く見えるので違和感ありませんが、内面は他の両親たちととても違います。しかも私の子供たちは、ゲームボーイやDVD に囲まれ、私よりも2世代も進んでいます。昔とは子供の育てかたが全く変わってしまいました。Paris Match : つまりあなたが経験した軍隊の規律ももう適用できないということですね。Alain Delon : 確かに。今では兵役もなくなってしまいましたし、若者たちにとって軍隊とはプロだけの仕事になってしまいました。この規律と尊敬の道徳が一様に叩き込まれなくなってしまったのは嘆かわしいことです。Paris Match : 以前、Anthony とあなたの諍いはよく話題になりましたが。Alain Delon : 父親と息子という関係はいつも難しく、Delon 家だけの問題ではありません。私たちの問題は、彼が学校を退学になり、兵役に行くのを拒否し、私に反抗的、拒絶的になった思春期に訪れました。17歳の時に私は軍隊にいましたが、彼はその年齢の若者らしく馬鹿なことをしていました。彼が母親と住んでいたことも複雑でした。Alain Delon の息子であるがために、彼は自分自身を確立しなければならず、とても苦しみながら生きていたのです。確かに、強力な親のコネのおかげで物事がスラスラと行くこともあります。しかし、「 Alain Delon の息子と一緒にナイトクラブに行った 」 という類の偽の友情や好意もあります。Paris Match : 雑誌では、あなたが認知したがらなかった子供 Ari Boulogne についてもよく取り上げられましたが。Alain Delon : この辛い話を向けられてからもう40年になります。30年前に裁判所はこの件について判決を下したはずですが.....。Mireille Dumas と Ardisson は彼らがどんなに人を苦しめているのか分かっていません。おそろしく犯罪的です。もう既に過去の人となってしまったこの青年は、精神的にもろいばかりか、ある日彼が本当にくじけた時、彼の周りには誰もいなくなってしまいますよ。Paris Match : あなたも批判されるともろいと言われますが。Alain Delon : 私は、キャリア、仕事面で批判されるのには耐えられません。人間的面では、好きなことを言ってもらって構いません。全く気にしませんから。しかし、仕事面では、99%非難の余地はないはずです。実際、俳優としての悪口を言う人はとても少ないです。Paris Match : 人間的面 - 俳優的面というあなたの分裂症は、心の平安にあまり役に立っていないと思うのですが。Alain Delon : 信頼できる友人がある日、「 Alain は全てに才能がある。幸福になること以外は 」 と私を描写しました。この言葉は私をぞっとさせ、その時私はそれが本当なのだと悟りました。人間は、私が40年来味わい続けてきたような成功を保ちながら、さらに幸福でいられるようには出来ていないのです。スタール婦人は、「 栄光は幸福の輝かしい喪である 」 と言いました。私の幸福は、充実、喜び、失望の瞬間に途切れ途切れに存在しています。Paris Match : これら極端な瞬間は、俳優という仕事によってさらに色濃くなりましたか? Alain Delon : もちろんです。私は80本の映画に出演し、そのほとんどが主役です。80通りの人生と言ってもよいでしょう。だから、俳優というのは他の人に比べて老いるのが遅いのです。政治家もそうです。アドレナリンが元気にしてくれるのです。Paris Match : 身体や顔の衰えを辛く思うことはありますか? Alain Delon : いいえ、まったく。最初は、私の内面と全く一致しない自分の容姿が好きではありませんでした。映画ではほとんどメイクを断ってきましたが、若い時にはあまりにも童顔だったので、ペンシルで輪郭を強調しなければなりませんでした。今では、歳をとることは苦ではありません。年齢とともに生きていかなくてはなりませんから。50歳の時、私は肉体鍛錬に飽き、やめました。そして、好きな物を好きなだけ食べていますが太りません。Paris Match : 美容整形についてはどう思われますか? Alain Delon : 美容整形は女性のためのものだと思います。私自身は絶対にしません。なぜなら、たいていは整形したとわかるからです。男性に関しては賛成できません。それに、女優たちの唇が整形によって不幸にも腫れ上がってしまったのを見ると恐ろしくなります。こういう悪い面しか見えません。Paris Match : 女性について話していただけますか? Alain Delon : 私の人生はすべて、女性たちのおかげです。軍隊の後、私の初めての社会生活は女性のおかげで開始しました。私は芯からロマンチストで、いつでも情熱をもって女性を愛してきました。キャリアの中でしてきたことは、Rosalie, Mireille, Nathalie, Romy すべて私が一緒に暮らしていた女性のためです。彼女らのためにいつも最も偉大で美しく、強くありたいと思っていました。なぜなら、私にとって大切なのは私が愛し、私を愛する女性が私に注ぐ視線だからです。いつも彼女たちをうっとりさせたいと思っています。Paris Match : あなたの前のパートナーは12月12日に結婚されましたね。 Alain Delon : もし良ければ、このことについては後日お話させてください。いわゆる 『 商業結婚 』 の話に、子供たちや孫たちを引き合いに出したくないのです。たった1年前、私は女性にできるこの世で最高のプレゼントを Rosalie にしました。自由です。実際には私たちは夏の初めに別れました。この自由を彼女は受け取り、周知のことをしました。 - information from the interview with Catherine Schwaab in Paris Match DU16 AU22 JANVIER 2003 -
( Alain Delon and Mireille Mathieu with Pele in 1970s )
Paris Match : 最近あなたが健康上の理由でツアーを取り消されたと聞いたのですが。どこが悪いのですか? Alain Delon : 私の身体の中でいつも最も弱かった部分、心臓です。この血管の障害をフランス一の男と分かち合うことが出来て誇りに思います!もっとも、私は田舎にいて、彼は病院にいましたが! Paris Match : あなたは親しい人たちには、ここのところあまり調子が良くないと言っているようですね。何故ですか? Alain Delon : 自分を哀れに思うことが私は嫌いなのです。そんなことは出来ません。要は全体的なことなのです。一種の倦怠感というか、時は過ぎ、友人達は次々といなくなっていく。年はとるし、家族はバラバラ。「 再びやり直した 」 という家族の話を聞くと、やりきれなくなります。これらの家族は 「 やり直す 」 前には、「 バラバラ 」 になっていたんですよ!このことについては誰も触れませんがね。でも、これは死ぬほど辛いことです。Paris Match : 若くしてアイドルになったということが、時々あなたの現実感覚を妨げてはいませんか? Alain Delon : その逆です。そのことが私の現実感覚をより強化しました。もしも私にこの現実感覚が無かったならば、こんなに不幸ではなかったでしょう。明晰さは、幸福の癌ですから。 Paris Match : もしも今あなたの傍らに女性がいたら、きっとあなたは幸せを取り戻すと私は思うのですが。Alain Delon : 私もそう夢見ていますよ!本当に全身で願っています。待っています!Paris Match : 最近あなたが舞台に出演した時、多くの女性たちがあなたに魅了されていましたね。うっとり魅了され、完全に参ってしまっていたようですが! Alain Delon : 確かにそうです。芝居をしている時ほど、多くの誘いを受けたことは今までにありません。短い手紙や、携帯メール、それとなくアピールされたり、真面目に誘いをうけたり、ひそかに誘惑されたり、何でもありです。かなりのずうずうしさで!確かにそうなんです。でも、私の側でビビッとくるものがないのですから、仕方がないではないですか... Paris Match : でも、ビビッとくる時には一歩踏み出してみなくては。それとも、その感覚はいつも即時なものなんですか? Alain Delon : そうです。いつもそうでした。「 彼女こそが!」 という即時的な確信です。1000分の1秒です。一ヶ月もかかるものではありませんよ! Paris Match : 25~30 歳くらいの若い女性と一緒にいることを想像していますか? Alain Delon : いいえ。どちらかというと、成熟した人、人生や別れが何たるものかを知っていて、賢い人です。本物の女性ということです。全てを教えなくてはならない若い女性はだめです。ピグマリオンごっこはもうこりごりです。 Paris Match :
Rosalie Van Breemen が Roverto
Agostinelli とドイツの教会で2010年夏に結婚式を挙げたようである。
( Alain and Nathalie in Venice 1960s )
ドロンは、1962年のドイツ映画「 Die Rote 」に a passenger として出演した。Helmut Kautner のドイツ映画「 Die Rote 」( The Redhead )は、Alfred Andersch の小説が原作である。そして、1962年6月30日にドイツで封切りされた。また、1962年の The Berlin Film Festival でも上映された。ほとんどの出演俳優たちは無名であったが、Gert Frobe ( 多くのフランス映画に、ベルモンド、ギャバン、バンチュラらと出演している )がスター俳優として出演している。別の興味深い事実は、ドロンがそれまでドイツ映画に出演したことが無かったということである。この映画のほとんどが、イタリアのベニスで撮影された。ドロンは、1962年3月、「 Marco Polo 」の撮影中であった。だから友情出演だったのであろう。この映画、フランスでは「 La femmerousse 」( Red woman イタリア語で「 La rossa 」 )というタイトルで公開された。アメリカでは、「 The Redhead 」というタイトルで既に公開されていた。 - information from Mr. Oleg And he has to be inserted above information into IMDb as below http://www.imdb.com/title/tt0056429/fullcredits#cast -
ドロンは、「 ジェフ 」の共演者に、自ら思案の上、ミレイユ.ダルクを起用した。「 バルドー、ドヌーヴ、ダルクの他に、どのフランス女優と私が恋人役を演じられるというのか?」とアランは言っている。また、この映画には、駆け出しのフレデリック.ド.パスカルも出演した。フレデリック.ド.パスカルは、アデルプロの社長でもあるアランとの出会いに大変喜んだ。少なくとも、映画が公開されるまでは...。彼は語る。「 当時、私は、建築現場などで働いており、映画にはあまり出ていなかった。『 ジェフ 』の撮影に私を呼んだのはアランだった。彼は私に悪役を与えた。最初は端役だった。しかし撮影開始から数日後、ラッシュを見ていたアランは、大変感激し、脚本を書いたジャン.コーに私をストーリーの最初から最後まで出演させるように頼んだ。こうして私は、最後に彼を殺す役を得たのだった。この件に関しては、アランは本当に良くしてくれたと言える。」その証拠として、クランクアップの数日前には、アラン.ドロンがフレデリック.ド.パスカルにある提案をした。アランはフレデリックに才能を見出し、自分の事務所で彼をスターに仕立て上げたいと考えたのだ。 「 Artmedia を出るんだ。後は Georges Beaume が君を引き受けるよ。私の言うとおりにすれば、君はスターになれる。」とアランは、フレデリックに告げた。フレデリックは、スターという言葉に拒否反応を覚えた。「 私は別にスターになりたいとは思っていなかった。しかし、あまりアランには逆らわないようにした。彼に対しては、誰もあまり逆らってはならないのだ。さもないと、自分が馬鹿に仕立てられる。」1969年4月、映画公開から数日後、フレデリックは Chambiges 通りのアランの事務所に出向いた。事務所のドアには、アルブレヒト.デューラーのものと同じ形の A.D. のイニシャルが掲げられている。そのドア越しからはいつものようなタイプライターの音や、電話のベルは聞こえてこなかった。アランがいつものように紺ブレを着て、グレーのスラックスを穿いていたか、フレデリックは忘れてしまったが、しかし、その時のアランの異常に強張った表情だけは今でも忘れることができない。アランは映画「 ジェフ 」の悪評に腹を立てていた。ストーリーの対話から出演者に至るまで映画は、あらゆる雑誌で扱き下ろされていた。しかし、フレデリックに対する評価は少し違った。中でも、ヌーヴェル.オプセルヴァトゥール誌では、「 万能の俳優 」としてフレデリックは賞賛されていた。 フレデリックは、何故アランが今日、自分をこんなに冷たく迎えるのかわかった。彼を訪ねてきたフレデリックに対しアランは、「 何の用だ?欲しかったものがこうして紙に現れたんだろう?さあ帰ってくれ。君は大の大人なんだから自分でキャリアを築けるはずだ。」フレデリックには驚きが隠せなかった。アランの反応がわからなかった。アランはフレデリックが批評家たちを丸め込んだと思っているのだ。批評家などフレデリックが一人も知るはずがないのに。その後、何週間か、フレデリックは電話や手紙でアランに説明を求めた。しかし、返ってくるのは沈黙と侮辱だけであった。フレデリックが人間不信に陥った瞬間であった。今では田舎でゆったりとした生活を楽しむ彼だが、いまだにアランの行動が理解できない。 - information from " Les mysteres Delon " -
ナタリーは、1962年当時、カサブランカの Roches Noire という町にある映画館「 Roxy 」のキャッシャーをしていたらしい。
アランは、映画「 冒険者たち 」のレティーシア役にナタリーを起用して欲しかったらしい。 - information from Joanna Shimkus -
周囲が期待したように、アランとナタリーの関係は、1964年春に正式なものとなった。婚約パーティーは、アンティーヴのナイトクラブ、ラフィエアスタの浜辺で盛大に行われた。ドロンにとっては格好の場所で、ナタリーと水遊びやボートをする以外にも、一人でパラセイリングに挑戦したりもした。この社交パーティーにはパリの有名人が続々と集まった。 パーティーから4ヵ月後の1964年8月13日、彼らはある役場でひっそりと結婚式を挙げた。フランソワマルカントー二は、この挙式に呼ばれた数少ない人物の一人だった。この秘密の式が意味するものは何だろうか?彼らの友人たちは、長い間、式は翌年の秋、アメリカで行われるものだと聞かされていた。秘密はナタリーが妊娠8ヵ月だったことにあった。このことがマスコミに知られれば、大変な騒ぎになるに違いなかったのだ。ある記者は、「こうして、北アフリカ出身のスターの卵は、ロミーシュナイダーとドロンとの別れの後、多くの美女たちが物欲しげに見ていた地位を手に入れた」と書いている。 また、アランがこの結婚によって変わるのかどうか疑問視していた者もいる。友人のパスカルジャルダンにとっては、この結婚はショックだった。「彼がナタリーと結婚した時、私は、彼らがあまりにも似ていることに驚いた。彼はもう一人の自分を見つけたのだ。彼女は彼が女になったようなものだった。 彼女は彼の恋人でありながら、同時に妹のようでもあった。」式が終わるや否やアランは、ロンドンに飛んで、「黄色いロールスロイス」の撮影をした。 - information from Les mysteres Delon -
1964年、アランドロンはベルモンドがフランス一位になったことに苛立っていた。ヘラルドトリビューンのインタビューに彼は次のように答えたという。「アメリカや日本で有名なのはこの私だ。それに、アメリカ人は私を必要としている。 彼らは世界市場の47%を一国だけでシェアしているが、私が行けば、残りの53%も彼らのものになるだろう!アメリカでは、良い映画を製作するためのノウハウが整っている。フランスでは、時々赤字を出すようなアマチュアしかいない。私のような自立した俳優はフランスでは嫌われるのだ。 私は俳優同士の集まりにも参加しない。」彼のこの発言は、本心だったのか、それとも新聞社の罠だったのだろうか。とにかくこの発言はフランスのマスコミで大騒ぎとなり、取り沙汰された。この記事が報道された時、アランドロンはロンドンにいた。当然のこととして、彼はこのような過激な内容に驚いた。 そして、友人のアドヴァイスに従い、新聞社を告訴することにした。まずは、ヘラルドトリビューン社の社長宛てにテレグラムを送り、断固としてこのようなインタビュー受けていないと主張した。その後は、フランスのフィガロの社長に宛てて、祖国フランスや友人ベルモンドに対してこのような過激な発言は決してしていない、と送った。 やがて彼は、家族同伴で、自家用車のフェラーリと愛犬のグレートデンの「ブレンド」とともに、15個のスーツケースを携えてアメリカに上陸する。アメリカでは、彼の発言に関する記事は、どちらかというと好感を呼んでいた。 人々は、ドロンが実際に発言したかどうかは別としても、同じ内容を考えぐらいはしただろうと思っていた。 彼は、アメリカでは「太陽がいっぱい」以来、フランスで最もロマンチストな俳優として知られていた。この「フランス版ジェームズディーン」を歓迎するため、アメリカの大物プロデューサーEddie Fisherはハリウッドのセレブがこぞって集まるパーティーを催した。 長男が生まれた数日後、アランはハリウッド第一作目の撮影に入った。プロダクションからは豪華な別荘があてがわれていた。また、ナタリーが出産する際に、ドロンが冷静さを保てるようにと、現場のスタッフたちも大変気を遣っていた。 しかし、この映画はヒットせずフランスでもアメリカでも失敗に終わった。「あんなへぼなシナリオと、気まぐれな監督では、アランドロンに才気を発揮しろと言っても無理だ。」とある批評家は書いている。 そんな中、ドロン夫妻にとっての息抜きとなったのは、ある作家に付き添って行ったメキシコ、アカプルコでの滞在だった。滞在場所には、フランスから、ブリジットバルドーやジャンヌモローらがロケで来ており、夜には彼らと合流し、お祭り騒ぎとなった。 ドロン夫妻のヴィラは、ブリジットのヴィラに接していた。ハリウッドへ戻ると、Reader the Tiger のプロジェクトが取りやめになったことで、アランはMGM を激しく非難した。このことで、アメリカの大手映画会社と彼の関係が悪くなる。 そしてこの知らせを聞いたフランスの事務所でも、アランドロンはアメリカではうまく行かないのではないか、と噂され始めた。しかし、このような対立にも関わらず、ハリウッドでの私生活は彼にとって何にも勝るものだった。 アンソニーと一緒にいる時間をたくさんとり、ナイトクラブへはたまに顔を出すくらいだった。 また、彼はその頃、撮影でスペインにも行っているが、この映画の撮影中には、珍妙な事件があった。ドロンがアルメリア裁判所に呼び出されたのだ。 法廷で、彼は、町の闘牛所の入り口で入場を拒否されて喧嘩騒ぎを起こしたいきさつの説明を求められた( 闘牛の開始時間に遅れて到着した彼に、係員が次の闘牛を待つように伝えたが、そこで徴発され喧嘩になった。というものだった。)この一件は、このロケの二つの嫌な思い出のうちの一つとなった。 もう一つの嫌な思い出とは、美容整形手術に関する噂をたてられたことだ。ドロンは数年来、「 水差しの取っ手 」のようだと時々友人に言われる自分の耳にコンプレックスを抱いていた。これまで彼は、この生まれつきの欠点を髪で上手く隠してきた。しかし、この撮影で髪を刈ったのをきっかけに、彼はこの欠点を改善したいと考えた。彼が美容整形を受けたというのは全く事実に反するのだが、様々なメディアが書きたてた。 ドロンは、こういった噂は真っ向から否定する か、全く相手にしないかのどちらかだった。- information from Les mysteres Delon -
( Alain with his beloved wife Nathalie)
ナタリーとの離婚以来、彼は自分の殻に閉じこもっていた。ミレイユに出会うまで。その後、ミレーユは彼にとってなくてはならない人となり、彼女との生活を守るため、彼はquai Kennedy の砦へ引っ越した。また、ミレーユと一緒に過ごすため、田舎の家も建てた。このドゥーシーの家の工事は、ミレーユが指揮をすることになった。アランとミレーユの隠れ家。 そして、アランの愛息アントニーも。ミレーユは、溢れるやさしさをもって、彼の第二の母になっただけでなく、かけがえのない友となった。女性の力は男性の領域を超えている。 以前は、ブルージーンズに、タバコとウイスキーを片手に、夜をさ迷い歩いては、女性をものにしていた彼。ミレーユなしでは、こう変わらなかっただろう。ドロンがこの家を造ったのは、幼少の頃から思い描いていた王国を作るためであった。 プレイルームに、ハプスブルク家のお城に見られるような武器庫、また、100近くもの銃や、カービン、ピストル、剣なども壁にかけられている。この荒らしい冬の景色の中、ここに暮らすアランとミレーユは、もはやスターというよりは、その日その日を生きる幸せなカップルといえる。
... to be continued
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