法篋印塔の法門 ほうきょういんとうの ほうもん
法篋印塔の法門とは?
法篋印塔の法門は ごくごくシンプルです。 即 苦が滅し楽が生じる法門です。
この法門は何々是々なになにこれこれ 斯く斯く然々かくかくしかじか などの、宗教的な教えはありません。
この法門は、信心するだけでは救われません。宗教団体でもないから、お布施は必要ありません。
信じるか信じないかは、論外なのです。 人間は、自分に与わった結果に納得した時のみ、信の心が生じます。
道場は無いので 当然に荒行・苦行の修行もありません。
又、無上の悟り/無上正等覚むじょうしょうとうかくや、完全な悟り/阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいの
境地を得ることも、目的ではありません。 むろん、霊媒術を用いることは、ありません。
又 先祖供養を勧めたり 浄行じょうぎょう のボランティア活動もありません。 お花も仏壇もお墓も売っていません。
……では 何なんだ? はやく話せ………
法篋印塔の法門は、衆生自ら如来にお願いし、現世利益を戴く霊験領受の法門です。
霊験領受の条件はただひとつ、苦から救ってほしい衆生が、真心一心にて、一切如来に願うことだけです。
つまり、修行を積み重ねて悟りを得る法門ではなく、如来の霊験/神明加護じんみょうかご を受ける法門なのです。
そこには、第三者の介入はありません。 衆生と如来が 直接に取引する法門なのです。
衆生は如来と直に面かおを向けて相対するので 衆生は如来に直接お願いできるのです。
まるで 活きの良い魚や野菜は 産地へ行って自分の目で見て調達するのが一番 という意味と同じです。
この経のなかで、世尊が
『若し、野鳥や走獣や虫類などの生類しょうるい が来りて、この法塔の影を受けたならば、また、
この法塔の周りの道場の草土くさつち を踏むならば、それら有情うじょう の者は、勝縁に恵まれて、
罪業ことごとく消滅し意に随い、現世には安穏を、後世では、極楽の浄土に生誕する』と説いています。
鳥や雀、虫、蚊虻蟻の類でも、塔の影に来り、場の草を踏むと、功徳により仏家に生まれる、というのです。
これらの有情の者は、信や不信も無く、欲心も無く、素直な純粋な心の念だけがあるのです。
小鳥や虫類に、信心はないでしょう、参拝やお賽銭を喜捨しませんしね。
そんな有情の生類でも、とても大きな功徳・利益が与わるのですね、 世尊スゲー話ですね……ボサツマン
衆生が如来の霊験領受れいけんりょうじゅ(ご利益)を得るには
まず、法篋印陀羅尼経ほうきょういんだらにきょう を 法塔の内部へ本尊として安置し 奉祭します。
そして、素直な心と謙虚な態度で如来と正対し 合掌・礼拝し 経本を手にもち 陀羅尼を読誦するだけです。
これだけで、その衆生は一切如来の霊験が授かり 即 現世利益が与わる(現世が幸福となる)法門なのです。
このように 法篋印塔の法門は 超シンプルな法門なのです。
陀羅尼経は真理の開示の経典 「経典の大意」
仏教では、現世にて善行を積むことで、現世を幸せに生き来世にも、極楽浄土で暮らすことができると説く。
つまり、現世利益・来世の利益,この二益を、ほとんどの仏教経典が、説いているのです。
しかし、一切如来心秘密全身舎利法篋印陀羅尼経(法篋印塔の法門経典)では、現世利益のみを説いています。
つまり、衆善奉行・諸悪莫作しゅぜんぶぎょうしょあくまくさ、良い事を行え・悪事はするな、という教えや、
勧善懲悪説かんぜんちょうあくせつ、悪人は地獄行き善人は極楽へ往くや、倫理観や道徳観は、見あたりません。
この故に、一切如来心秘密全身舎利法篋印陀羅尼経は、真理の開示の経典と、よばれるのです。
この経典では、仏は教えを説く立場にありません、衆生に利益を与える立場です。 衆生は霊験領受の立場です。
この経典では、仏の近くにいるのは、菩薩や摩訶薩でなく、無垢妙光むくみょうこう という名のひとりの人間です。
金剛手菩薩は、目の前で起きた神変について、途中から世尊に質問する役で登場してきます。
それに応え世尊、法篋印塔の因縁や由来や与わる功徳、法篋印陀羅尼等を説いている経典です。
注:金剛手菩薩=不動明王・「明王」
説法には二つの形式
多くの仏教経典は、随他意説法の形式で、仏が教えを説く立場で衆生は教えを聞く立場と ハッキリしている。
この形式では、必ず仏の側に菩薩がいて、この菩薩が衆生を代表して、世尊に質問するところから始まる。
しかし、法篋印陀羅尼経は、随他意ではなく、随自意説法なのです。 「随他意説法/随自意説法」
今も昔も、仏の教えを聞くとき、衆生が一番気になるのは?
仏の教えを聞くと 自分はどう成るのか? 今の自分の人生が本当に良くなるのだろうか?
何がどうなっていって、良くなるのだろう? ……… こんなところが、一番気になるのです。
要は、次の三つでしょう。
1、仏が教えを説く目的は何なのか?。 2、その教えとはどんなことなのか?。 3、教えを聞くと自分はどう変わるのか?。
随他意説法では、教えを以って衆生を救済するのです。
衆生は仏の教えを聞き、その教えを日々実践体験を行っていくと、六根清浄となり煩悩を遠離おんり する、
その結果、仏の功徳が現成して救われるのです。 各宗門のほとんどが、随他意説法の経典が主です。
一方、随自意説法の経典では、衆生の現世利益を成就させる為に、仏がズバリ真理を開示しているのです。
法篋印陀羅尼経は、随自意説法の経典なので、衆生は功徳利益を得るのです。
仏教の真の目的
人間が肉体を捨て、あの世へ旅立つことを、死とよぶ。 そして、仏ほとけ さまになったといいます。
しかし、仏教の真の目的は、万人の永生解脱えいしょうげだつ なので、死んだ人のためにあるのでは、ありません。
永生解脱とは、永遠の悟りを得る、という意味なので、人間の魂は死せず永久に生き通しという前提があります。
仏教の根底には、人間は死ぬのでは無い・永遠に生き通しの存在なのだ、という教えがあります。
このように、仏教は、現世利益・来世の利益の二益を説いている宗教なので、
肉体で生きる現世と 肉体を捨てて生きる来世の 二つの世界の存在を、仏教で肯定しているのです。
世尊は、現世でも修行を重ね、来世でも修行を行っていくと、必ず皆、仏に成ることができる、と説いています。
だから、世尊は、現世も来世も含めて、法の実践を行なっていきましょう、と勧めているのです。
この来世を含めてという意味は、自分たちの先祖も対象になっているということです。
ご仏壇に向かい読経する慣習がこれなのです。だから、先祖供養も、仏教の重要な柱のひとつなのです。
つまり、仏の教えは、現世と来世の万人の幸福の道を、教えと真理の開顕によって、利導りどうしているのです。
仏教のほとんどの宗門では、経典の読経や本尊の教えを通して衆生の教化する方法が、主になっています。
寺院の本堂の本尊の前に合掌し読経することも、衆生を教化するひとつの方法なのです。
又、各宗派で定期的に行う講和の会も、その目的は同じです。 又、各人が家庭の仏壇に読経することも、
経典の読誦や解釈に自ら励むことも、その心は皆、真理の開顕を願う行為なのです。
衆生の一番の願いは、なんといっても、現世の幸福に違いないですが、この願いは、我欲の願いではありません。
この願いを本能願 ほんのうがん といいます。この本能願とは、仏の願いでもあるのです。
だから、岩をもぶち抜く力で祈り願うと、必ずやその願いは叶うと、宗教では説いているのです。
読経や祈りは、衆生にとって、最高の善行ぜんこう なのです。
法篋印塔の法門では、衆生の現世の幸福の道は、読経と祈りの直線上にある、と説くのです。
読経と祈りは、衆生と如来とを、直線で結ぶのです。
この法門では、教えが衆生を救うのではなく、衆生が真理の開顕を体現するー現世の幸福を得るーのです。
一切如来が衆生へ功徳・利益を与えるので、衆生の現世において、一切の苦悩が消え幸福が現顕するのです。
ここが、法篋印塔の法門と、他との大きな違いです。 宗門ではなく法門とよぶ理由がこれです。
衆生の現世が幸福になったことを、衆生の人生に真理が開顕したといいます。
衆生は、皆、自分にラッキー運を期待しています。 つまり、運の良い人生を生きたいのです。
ボサツマンも、運の良い人生を生きたいです。
つまり、一切如来のラッキー運を受けて、人生に真理が開顕することを、衆生は一番願っているのです。
だが、この現世利益は文字通り、現世限りで、来世には通用しません。 現世限定の功徳利益です。
ちなみに、阿弥陀如来を本尊とする各宗派では、南無阿弥陀仏 ナムアミダブツ と唱えると、
皆、極楽浄土に往くことができる、と来世の利益を説いています。
仏教の宗門の多くは、衆生が教えを学び、自から行を実践することで、おのずと功徳が現成すると説く、
だがこれだと、若し、教えだけ学び、法の実践(行)をしなければ、功徳は現成しないことになります。
しかし、法篋印塔の法門では、教えを聞ぶというプロセスを飛ばして、即、如来の霊験が授かるのです。
如来の霊験が授かると、幸せな人生が現成するというのですから、大変嬉しい法門だとボサツマンは思うのです。
同じ法を説いている
仏教では、皆、同じ法・真理・を説いているが、その教えの表現形式が違うので、各宗派に分派しているのです。
では、最初に、仏の教え、功徳の現成の道・行の実践の道、つまり『法』を説いたのは、誰なのでしょう?
勿論、問うまでもなく、八万四千もの数多くの経典で説法された「応身仏」釈迦牟尼世尊です。
釈迦牟尼世尊が、この功徳の現成の道を、衆生の機根に沿うて解りやすく説いたものが、現存の経典です。
なんで、こんなにも、多くの経典があるのか、その理由は、
仏の教えは、応病与薬おうびょうよやく の対機説法たいきせっぽう だからです。
世尊の言葉をかりると、衆生は皆様々に違うのです、機根が違う・苦悩が違う・望みが違う・つまり心が違うのです。
ボサツマンーそうでしたね、人は皆、DNA・遺伝子の配列が違うんだもね……… 「村上和男の言葉」・遺伝子学者
世尊は説法の前に必ず、瞑想して、賢愚まちまちな衆生が理解しやすいように、説法のシナリオを組み立てるのです。
世尊は「初転法輪」で四諦の法門を説いて、中道や八正道や六波羅密や在家五戒などの行を説き勧めました。
衆生が如来の功徳を授かるには、仏の教えを聞き理解し、自らすすんで、行の実践をしなければなりません。
世尊は、五種法師の行を「法師品第10」で説いています。
その五種法師ごしゅほっしとは、
受持じゅじ 仏の教えを深く心に信じる。 読どく 経典を読む。誦じゅ 経典の意味を理解し発声読経する。
解説げせつ 仏の教えの信解を深め人に教えを説く。書写しょしゃ 自分の信解を深めるため、経文を書き写す。
世尊は、仏の教えを聞くだけでも、功徳が与わると説いています。
確かに、仏の教えを聞くことは、人間を大きく成長させることでしょう。
でもそこに、自分だけが成長したから、これで良いと満足する衆生は、仏の教えを小さく捕えた考えです。
自他不二(自他共に)が、仏の教えの根幹なのですから、自分だけ良ければという考えが、いけません。
仏教の最終目標は、自分も他人も必ず仏に成ることです。 だから、教えを実践することが大事なのです。
たとえば、壁に飾った餅の絵を見て、腹の足しにしようとしても、絵の餅では、腹の足しになりません。
絵の餅は教えを意味します、絵の餅を見ると餅とはこういうものなのだ、と知ることができる。
そして、実際に餅を食べてみて、ああ、これが餅なんだと、理解します。 餅を実際に食べる、これが行です。
故に、どの宗派においても、経典を読誦することは、大切であると説いているのです。
○法篋印塔の法門の真髄
法篋印塔の法門では、衆生は教えを聞かなくても、真理を体得できる行の実践を、説き示しています。
衆生は、霊験成就の達成と同時に、自分の人生に功徳が現成されるのですから、とてもありがたいのです。
他の宗門にある、教え教えられるという、如来と衆生との位置関係は、本経の法門にはありません。
他の宗門においては、教えられるだけで、その目的の大半が達成されましょうが、
この法篋印塔の法門は、肝心の功徳・霊験が与わらなければ、それは、絵に描いた餅と同じになるのです。
故に、この法門では、法篋印塔を建立し、陀羅尼経を安置し奉祭、合掌・読経することが一番の使命なのです。
そして、自分が功徳利益を授かった後、他人にも施しをするという、自他不二の精神は変わりません。
衆生の極願である現世利益は、霊験成就、富貴成就、健康成就、この三つに代表される。
霊験れいけん については、次のページで………。
富貴成就は 如来の威神力が 救貧施福/貧乏な人を救い福を施す/の法果として 衆生が富貴成就を得るのです。
健康成就は 如来の威神力が 病難退治の法果として 健康を回復し 衆生が健康成就を得るのです。
…つぎへ…