第57章 応神天皇 (3)
応神天皇は名を 品陀和気の命 ほむだわけのみこと といい 「わけ」が付いた名です。
「ワケ」の名が付いた 応神天皇の時代を 「ワケ王朝」と呼ぶ。
又 第10代/崇神すじん天皇の時代は 名が御真木入日子印恵の命 みまきイリびこいにえのみこと なので「イリ王朝」と呼ぶ。
応神天皇の功績
応神天皇は 海部あまべ 山部やまべ 山守部やまもりべ 伊勢部いせべ の制度を制定した。
海部とは 朝廷に 海産物を 納貢のうぐ する部族。 山部とは 朝廷に 金・銀・鉄の鉱石などを 納貢する部族。
山守部とは 山部の部落を管理したり警備する部族。 伊勢部とは 伊勢の神(天照大御神)を 祀る部族。
応神天皇は 新羅人しらぎじん 百済人くだらじん 高麗人こまびと など 卓越した技術者を 多く渡来とらい させました。
応神天皇は 渡来人の技術者に命じて 灌漑用 かんがいよう の池 「剣の池」つるぎのいけ を造った。
同じく この時代に 武内宿禰 たけのうちのすくね が 「百済の池」 くだらのいけ を造った。
★騎馬民族説 応神天皇は騎馬民族だった
多くの学者たちは 応神天皇が 朝鮮半島から多くの人間を渡来させたことに 着目して
応神天皇こそが 騎馬民族の王 「沸流ふる 」であった と唱えています。
つまり 朝鮮半島から九州へ上陸し 大和の国を征服した騎馬民族の王が 応神天皇だという説です。
ちょっと待ってください また 頭の中がごっちゃ 髪の毛がぐっちゃ 混乱します ‥‥‥ボサツマン
学者の説が事実ならば 高天の原より降臨した 天孫降臨の主役 「邇々芸の命」 ににぎのみこと は
日本の筑紫(九州)ではなく 朝鮮半島に 降臨したことになるでしょう……おかしいでしょ
ならば 古事記の史実しじつ との違いを どう説明するか? どうだね 答えられるかね……ボサツマン そんな えばるなよ
学者の説を通すならば 天孫降臨された邇々芸の命の子孫しそん の 山幸彦 「穂々手見の命」 ほほでみのみこと や
その子の 「鵜葺草葺不合の命」 うかやふきあえずのみこと そして 初代/「神武天皇」 じんむてんのう も
そして15代/応神天皇も皆 朝鮮半島に住んでいたことになるじゃないですか。
疑問点?
そこで 邇々芸の命から応神天皇までの世代が 朝鮮半島に住んでいたとなると
応神天皇の母 神功皇后 じんぐうこうごう が 「百済国征服」した話と つじつまが合わないじゃないですか。
では 神功皇后は朝鮮半島の国で子を産んだ、ということなのか? スッキリ できね〜じゃないか……ボサツマン
●古事記/「第20章」に ハッキリ書いてありました。 ホホオ〜 ふむ ボサツマンの心は 晴れやかになった
邇々芸の命は 猿田彦の神の先導せんどう で 日向の国 高千穂の峰 「久士布留岳」くじふるたけ に 無事降臨しました。
邇邇芸の命は お喜びの言葉を 言われました。
「ここは 韓国 からくに と向かい合い 笠沙 かさ の岬を 通って来て 朝日が だだちに射す国 夕日の照る国 たいそう 良い国である」。
そして 底つ石根に宮柱 みやばしら を高天の原に届くまで高く立てて 鎮座なさいました と書いてあった。
う〜ん!まだ、なにかちょっとちがう また ボサツマンの心は 曇ってきた
古事記には 九州 筑紫の日向 つくしのひむか に降臨された と書いてあるし‥‥‥‥
そして 邇々芸の命は 「ここは韓国からくに と向かい合い 笠沙の岬を 通って来て‥‥」と 言っているし‥‥‥
でも 学者の先生たちは 日向の国でなく 朝鮮半島の韓国 からくに という説を 説いているし‥‥‥‥
とにかく 「韓国 からくに 」が 関係していることには 違いないのだが ‥‥‥ここまでは 理解できたが その先が疑問?
いったい!どっちなんですか? ボサツマン 頭がごっちゃごっちゃです
そうだ 朝鮮半島・伽耶の国の神話 「伽耶の国の神話」を見てみよう‥‥‥参考になるかも!
渡来人の名前
渡来人の主な名は 秦氏はたし 呉氏くれし 漢氏かんし 王仁氏わにし など
渡来人の数は ひとつの族で 数百から数千 秦氏はたし にいたっては 1万人以上だったらしい。
その後 秦氏一族は 日本の歴史上における重大な位置を占め 多くの神社を建立していくのです。
渡来人の活躍
百済の国主こきにし の照古王 しょうこおう は 雄馬1頭 雌馬1頭 太刀 大鏡を 応神天皇に献上した。
また 百済の国の和邇吉師 わにきし は 論語10巻 千字文一巻を 持って渡来した。
この和邇吉師 わにきし の”きし”は のちに 「岸」きし となった。
さらに 有名な渡来人として 韓国 からくに の鍛冶職人の卓素 たくそ や 呉 ご の国の西素 さいそ などが知られる。
また 渡来人の須々許理 すすこり は 酒の醸造技術を伝来し大御酒おおみき を醸かも して 応神天皇に献上した。
この大御酒を飲み 喜び愉快になられた応神天皇は
「須々許理すすこり が 醸か みし御酒みき に 我 酔ひにけり ことなぐしゑなぐしに 我酔ひにけり」と 歌った。
ことなぐしゑなぐしー 無事平穏な気分や愉快な気分のこと。
ほろ酔い気分で歩いていた天皇は 道にあった邪魔な大石を 御杖で ”はっし”と 軽く打った。
すると その大石は みずから ころがり 走り去って 道を開けた。
ここから 諺ことわざ が生まれた 「堅石も酔人を避く」 どんなに堅い石も 酔っぱらいは嫌いなので避ける。
この時代に来朝した 「秦の造 はだのみやっこ 」の祖は 秦氏 はたし のボス/「弓月の君 ゆづきのきみ 」です。
伝記によると 弓月の君が応神天皇に 秦氏はたし の渡来を 積極的に願いでたとある。
しかし 弓月王国 ゆづきおうこく は 神話的存在の国らしく 実在の信憑性は薄いらしい。
また 渡来人の漢の直 かんのあたい は 漢氏かんし の首長で阿知使主 あちのおみ の支族。
また 呉服 ごふく は「呉の機織り」 クレハトリ と読み 呉 ご の国から来た 機織り はたおり 技術者の呼び名。
のちに 呉服ごふく は日本にて 服部 はっとり という名の部族を形成した。
天皇の陵墓 りょうぼ 巨大な陵墓をもつ三人の天皇
日本で一番 世界でも一番の陵墓は 第16代/仁徳天皇 にんとくてんのう の陵墓。 全長・475mの前方後円墳。
その面積は エジプトのピラミッド 秦の始皇帝の陵墓を超えて世界一位。
第二位は 応神天皇の陵墓。 第三位は 17代/履中天皇 りちゅうてんのう の陵墓。
この三人の天皇の御代は 華やかしく栄えた時代であった といえるでしょう。
また 「古事記」の重要な記述 つまり 「要」かなめ といえば この応神天皇記です。
そうです 歌や曲ならばサビ 寿司ならばわさび そば・うどんは 唐辛子 焼き肉は 大蒜 ニンニク
マスター 麦酒 ビール もう1本追加 ‥‥ 脱線しすぎました すいません!
※ 「隼人の舞・国栖の奏」はやとのまい くにすのそう
天皇へ国の物産を献上し 服属の意を表わす儀式の歌と舞のこと。 国栖 くにす とは 吉野の国主 くにす をいう。
「
1 吉野の国主くにす は 大雀の命を褒めて 歌を捧げた
「誉田の日の御子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本剣 末ふゆ 冬木の素幹が下樹の さやさや」
意味: 誉田 ほむだ の 大雀 おおさざき の御子 あなたのつけているその太刀は 本物の剣なのに
元は 剣つるぎ なのに 末のほうは 何本にも増えていて 冬の木の幹の枝木のように さやさやと音が鳴る」
この歌にある剣は 「石上神宮」いそのかみじんぐう の神宝 かむたから 七枝刀 しちしとう のこと。
七枝刀は ”ななつさやのたち”と読み 西暦369年 百済の王 くだらのおう が献上した。
2 吉野の国主くにす は大雀の命に大御酒を献上し 歌を詠んだ
「樫の木で 横臼を作り その横臼に醸した大御酒 おいしく召し上がれ われら吉野の御大将」
吉野の国主くにす は 吉野の樫の木で幅広い臼 うす を作り酒を醸造して 大雀の命に献上した。
国主は 口鼓 くちつづみ (口を丸くして掌で打って声を出して)の儀式を行い 酒を献上した。
この歌は 「大贄 おおにえ 」(天皇に献る食物や酒)を献上する時に 歌われた。
この歌から分かるように 吉野の国主たちは 大雀の命 おおさざきのみこと に 厚い信頼を抱いていた。
そうなんですね 国主くにす たちの 厚い信頼があったからこそ 大雀の命が天皇になったのですね……ボサツマン
応神天皇:崩御
応神天皇は 394年(甲午・ひのえうま) 9月9日に 御年130歳で崩御されました。 合掌
応神天皇亡きあと 大きな事件が起きました。兄(大山守の命)が 末弟・和気郎子の抹殺を 企てた。
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