第41章 第11代/垂仁天皇 すいにんてんのう
第11代/垂仁天皇すいにんてんのう には
第10代/崇神天皇と 第8代/孝元天皇の皇子/大毘古の命の娘 御真津比売みまつひめ の子として生まれた
伊玖米入日子伊沙知の命 いくめいりひこいさち のみこと が即位されました。
垂仁天皇の皇后こうごう は 第9代/開化天皇の孫の沙本毘売さほびめ です。
この皇后・沙本毘売の兄には、崇神天皇の甥にあたる 沙本毘古さほびこ がおりました。
兄・沙本毘古は 皇位の継承権を主張して 垂仁天皇の殺害を企てたが 失敗し軍隊に撃ち殺された。
この後 皇后・沙本毘売さほびめ は、兄の後を追って自殺してしまいました。
その後 垂仁天皇は 氷羽州比売ひばすひめ を娶り 16人の子が生まれた。
その子の中の大帯日子淤斯呂和気の命おおたらしひこおしろわけのみこと が 第12代/景行天皇けいこうてんのう に即位した。
この時代には、未婚の皇女が、斎宮いつきのみや (伊勢神宮)にお仕えする習わしが、出来上がっていて、
第10代/崇神天皇の娘・豊鉏比売とよすきひめ のあとを受け継いで、
垂仁天皇の娘・倭比売やまとひめ が 「伊勢神宮」いせじんぐう の神に仕える役目を担った。 「崇神天皇の御子」
第11代/垂仁天皇の娘・伊理毘売いりびめ は 第12代/景行天皇の皇子・倭建の命やまとたけるのみこと と結婚した。
だが 伊理毘売と景行天皇とは兄妹なので、叔母(伊理毘売)と甥っ子(倭建の命)の結婚でした。
ええ~!叔母と甥っ子(兄の息子)が結婚? まさか
あ!そういえば 神世の時代にも 「叔母と結婚」した話があったよな‥‥ボサツマン
垂仁天皇は神を祀る御心が大きく、河上部族に命じて 太刀千振たちちふる の刀剣(数多くの刀)を造らせた。
その刀剣は 「石上神宮」 いそのかみじんぐう に 奉納しました。
石上神宮の神刀・甕布都の神みかふつのかみ は 神武天皇が、熊野の地で毒気に当たり意識を失ったとき
高天の原の神の命めい をうけた「高倉下」たかくらじ が 神武天皇に届けた太刀です。
☆ 垂仁天皇と神のお告げ 垂仁天皇の祖霊供養
神を祀る御心が大きい垂仁天皇は 夢の中で 出雲の大神(大国主の命)のご神託を授かった。
垂仁天皇と自害した皇后(沙本毘売さほびめ)の間に 本牟智和気ほむちわけ の命 という子がおりました。
この子は 大人になっても言葉が出ないので 父の垂仁天皇も たいへん心配していました。
そんな ある夜のこと 父の垂仁天皇の夢の中に 「出雲の大神・大国主の命」が顕われて
「我が出雲の宮が荒れている 立派な神殿に直せよ ならば 御子は言葉を話すであろう」と ご神託を申しました。
翌朝 垂仁天皇は 本牟智和気の命の一行を 出雲の大神の参拝に 出発させました。
本牟智和気の命の一行が 無事に出雲の宮を参拝し終えて 帰り道のことでした。
☆ 奇跡が起きた!
ーあの青葉茂る山は 大国主の神をお祀りする祝はふり (神官)の祭場なのだーと
今まで1度も 言葉を発したことが無かった本牟智和気の命が 大きな声で喋り出したのです。
これを聞いた父の垂仁天皇は 出雲の大神に感謝申し上げ 出雲の神のお社やしろ の修理を命じた。
出雲の大神とは 天照大御神の弟・建速須佐の男命の六世の孫 国つ神・大国主おおくにぬし の命です。
神世の時代 大国主の命おおくにぬしのみこと は、天つ神の孫に自分が開拓した地上の国を献上したのでした。
垂仁天皇は 出雲の大神(大国主の神)に 感謝申し上げ供養の儀式を 盛大に執り行いました。
子・本牟智和気の命ほむちわけ・のみこと も 出雲の大神に感謝申し上げ 頻繁に参拝し大国主の神を供養した。
このように 荒れていた出雲の宮を修理したことで 出雲の大神のご加護を賜たまわり、
垂仁天皇の子・本牟智和気の命は 言葉が話せるようになりました。
☆ 神と約束!
神世の時代 垂仁天皇の先祖は 大国主の神と約束していました。
それは 葦原の中つ国を献上した「大国主の神」(出雲の大神)を 末永くお祀りするという約束でした。
大国主の神が出雲の神になった理由⇒「第18章大国主の言葉」
天皇家の始祖の 「邇邇芸の命」ににぎのみこと が地上へ降臨したから 長い年月が過ぎてしまい、
大国主の神のお社が老朽化して 先祖が固く誓った約束事も 忘れさられようとしていた頃に、
垂仁天皇の御子が 言葉が不自由な状態になっていたのでした。
このことは 先祖からのお知らせ・お気づきだと‥‥‥‥ ボサツマンは思う
垂仁天皇が 夢で見たことは 先祖伝来の約束事を守れ というご神託だったのです。
垂仁天皇は それに気づいて反省して 先祖供養を行いました。
先祖が子孫に 夢を見せて知らせることがあると 現代でもよくあるのです。
神社参拝・祖霊殿の供養は 子孫が行うべきことなのです‥‥‥‥‥合掌
「世尊夢について説く」:「夢の中の説法を説く」
☆ 垂仁天皇と不老不死の実
垂仁天皇は 「多遅摩毛理」たじまもり に命じ 常世の国とこよのくに に咲くという ときじくの木の実が
不老不死の薬草と聞き 永遠に不老の身を得る木の実を 探させました。
だが 多遅摩毛理が常世の国の木の実を採って 帰還した時は すでに 天皇が亡くなっておりました。
多遅摩毛理は 天皇の御墓の前で 泣き叫びました。
原文:「登岐士玖能迦能木実」とは 「時とき じくのかくの木の実」 俗に言う 橘たちばな の実 のことです。
葉が多い陰橘かげたちばな や 実だけの矛橘ほこたちばな や 温州蜜柑うんしゅうみかん などのことです。
常世の国 とこよのくに とは 幸せ満ちる永遠の生命の国 ー理想郷 不死の国 ユートピアーのことです。
アダムとイブは エデンの園という不老不死の神の国で 暮らしていたが
煩悩を生じ迷い 神の国から人間界(肉体・物質・楽と苦の世界)に 暮らすはめになりました。
オイラも 楽園で 永遠に暮らしたい↗です ‥‥‥‥ボサツマン
☆ 秦の始皇帝 不老長寿の薬・徐福伝説・
2200年前 秦の始皇帝も 不老長寿の薬を 世界中に探し求めた。
読売新聞に 秦の始皇帝と不老長寿の薬に関する記事がのっていました。
秦の始皇帝の部下が 日本に来ていたのか・知らなかった。 オイラが知る訳ないか?‥‥ボサツマン
記事: 2010年3月28日 読売新聞より
秦の始皇帝の命令で 不老不死の霊薬を求めて 中国の「徐福 じょふく 」が日本に渡ったと伝えられる。 「徐福上陸地」
「徐福 じょふく 」の上陸地として 数々の伝説が残る佐賀市諸富町に 22年前から祀られていた。
「徐福像」の修復作業が終わり 27日にお披露目の 記念式典が行われた。
「徐福像」が まつられる「東搦金立権現神社」 ひがしがらみきんりゅう ごんげんじんじゃ に 近隣住民 約50人が集まってきた。
「徐福像」が まつられている”ほこら”に 美しく修復された「徐福」の陶人形が戻ってきた。
また 徐福が 渡航に使用したとされる船の模型も 地元の船大工の手で再現され 今回 新たに奉納された。
22年前に 徐福の陶人形を制作 今回の修復にも携わった 人形師・倉富ひろみさんは、
ー徐福像を なんとか元の姿に修復することができ とてもうれしく思う 末永く愛される徐福像であってほしいーと 述べている。
崩御 垂仁天皇は 御年・153歳で崩御されました。 合掌
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