5.田中霊祠 〔所在地図〕

所在地 栃木県栃木市藤岡町大字藤岡堤外6384番地
説 明
田中霊祠の鳥居(2001/9/15 撮影)

 正造が死ぬまで反対し続けた新渡良瀬川、その掘削した土を捨てた場所に田中霊祠がある。この地は南に渡良瀬川が流れ、東に谷中村のあった渡良瀬遊水池に接し、背後には鉱毒事件の背景となった足尾山系の山々がひかえている。この霊祠には、田中正造翁の分骨5分の1とカツ子婦人を祀ってある。
 田中正造は大正2年9月4日73歳で死去し、雲龍寺で密葬、惣宗寺で葬儀、その後分骨式が行われた。元谷中村内に分骨(5分骨)された正造の遺骨は、旧谷中村高沙の嶋田熊吉邸内に石祠をたて、遺骨を納めて田中霊祠としてたたえまつられたが、渡良瀬川の河川改修により、大正6(1917)年3月3日に現在地に移転された。現在の建物は、昭和32年に新築されたものである。


田中霊祠御堂(2003/9/30 tue 撮影)

 旧谷中村残留民18戸のうち改修工事の土砂場に移った6戸が、この霊祠に祀られた分骨を守り抜いてきた。
 当初は草も生えないような荒地だったが、今では杉林がうっそうと茂っている。
 分骨葬が神式で行われたため、霊祠には鳥居があり、毎年4月4日の例祭日には神官が祝詞を奏上する。


正造の偉業を伝える石碑
(2004/11/21 Sun 撮影)

 入口の鳥居をくぐり境内に入って直ぐ右手に、高さ5メートル程の巨大な石碑がある。「渡良瀬川」「谷中村事件」の著者で正造の辛酸を見事に表現した大鹿卓による撰文が刻まれている。
 この撰文の内容を知りたいが、かなり大きな文字で刻まれているものの石碑が高すぎて上の方は読み取ることが出来ない。せっかくの撰文なのでどなたかプリントにして渡良瀬遊水地にある「谷中村連絡箱」みたいな形にして置いて頂くと誠にありがたいと思う。
 また、境内には正造の歌碑以外に右翼の大頭目であった頭山満の碑もある。右翼の大親分も正造の生き様に感銘を受けざるを得なかったようだ。


田中霊祠を安置する森
(2004/11/21 Sun 撮影)

 田中霊祠は、県道「佐野-古河線」を佐野市から古河市方面に進み藤岡町へ入る直前の渡良瀬川と平行して走る道路がある。
 道路の北方(佐野から進むと左側)に畑1枚をはさんで小さな森がある。そこが田中霊祠である。
 道路からの入口に小さな案内表示が立っているが、注意して見ないと直ぐに通り越してしまう。東武鉄道「東武日光線」の踏切まで来てしまったら約500メートルほど戻ろう。