9.谷中村跡 〔所在地図〕


◆足尾鉱毒事件により地図から抹殺された悲劇の村
 明治10年(1877年)以降、足尾銅山から排出された鉱毒のため洪水のたびに、渡良瀬川の流域の村々では、作物が枯れ、豊富な魚介類が死滅するという被害が出ていた。明治33年(1900)に被害民が大規模な抗議行動(第4回東京大挙押出し)を起こした川俣事件、明治33年(1901年)の田中正造の天皇直訴事件等で、社会の耳目を集め国会でも大きな問題になった。

 明治政府は鉱毒事件の解決のため、毒の水をためる調節池(渡良瀬遊水地)の建設を行うことを計画した。その犠牲になったのが谷中村の住民である。谷中村では村ぐるみで「藤岡村との吸収合併」「土地の不当買収」「住民の強制立ち退き」に反対したが、施政権のある当局には勝てず明治39年(1906)、谷中村は藤岡町に合併され法律上、消滅した。結果的に土地は不当に安い値段で当局に買い上げられ、被害民たちは近隣の村々に、遠くは北海道の荒涼地へ移転していった。

仮小屋での生活を続ける

 その後も387戸、2,500余人の住民のうち16世帯約100名は、谷中村の遊水池化に反対し買収に応ぜず提内に留まっていた。これに対し、西園寺公望内閣は明治40年に土地収用法の適用認定を公告、谷中村を隣接の藤岡町に吸収合併させて、谷中村を地図上から、更には公の資料から全て抹殺しようと謀り、明治40(1907)年6月29日より7月5日までの7日間にわたって谷中村残留民家16戸の強制破壊を強行した。
 強制破壊後も谷中村残留民は、仮小屋を作り悲惨な生活を強いられながら抵抗を続けたが木下尚江らの勧告もあって大正6年(1917)、強制破壊から10年におよぶ反対運動を断念、全ての戦いが終わり谷中村は名実ともに消滅した。


旧谷中村遺跡

延命橋(えんめいばし)
 自動車で北エントランスから遊水地に入り、少し走るとハート形の第1調節池へ入るゲートが右側にある。このゲートは午前9時30分に開くらしいので注意が必要だ。駐車場はかなり広いので車を止めるのは楽である。
 谷中村遺跡への案内看板があり、それに従い進むと広場に出る。途中に小さな案内看板があるが、真っ直ぐ50m位進むと「延命橋」がある。この橋まで来ると遺跡の雷電神社及び延命院跡までは100m位である。大きなクヌギの木が目につくがそこが延命院跡である。。
雷電神社跡
 雷電神社は、旧谷中村のほぼ中央の丘の上に鎮座し、谷中村民の深く崇敬した社であった。
 足尾銅山鉱毒事件のおり、栃木県当局の谷中村強制買収反対運動に生命を賭けて戦った田中正造翁もこの神社をこよなく敬愛し、この社殿で村民青壮年と共に寝食を忘れて談じ、ある時は難戦苦闘する村民を慰め激励したところでもあった。
 田中翁は、病気重態の折、わが身を担架に乗せて遠く谷中に送り届けよと切望したほど翁が最後の静養を志したのもこの社地であった。
 この神社跡地こそ、日本公害の原点地・谷中村の存在を永久に証するに無くてはならぬ貴重な遺跡であるといえる。
延命院跡

 雷電神社の直ぐ隣に谷中村の人々を葬ったと思われる延命院跡がある。この延命院は、谷中村廃止に伴い何処へ移ったのだろうか…。
 墓石や石仏の多くは、渡良瀬遊水地の北エントランス付近に設置された「旧谷中村合同慰霊碑」に移設されたようだ。
延命院墓地跡

 延命院の墓地跡には、今も墓石が残っている。これは合同慰霊碑に合祀されることを拒んだ被害民のものらしい。
 なお、この場所には「谷中村遺跡を守る会」の連絡箱が設置してある。この連絡箱の中には、「自由にお持ちください」の会員用と思われる「谷中村たより」と「連絡ノート」がある。
延命院墓地跡(H14.2.11撮影)


 延命院跡の冬景色である。傍にはクヌギの木と思われる大木がある。春夏は青葉が生い茂り見事な樹形を見せるが、冬のこの時期には葉が落ちて自然の枝張りが見事である。
 また、この季節は北風が吹き抜け、一人たたずむと荒涼感をヒシヒシと感じ、消滅した谷中村に思いを馳せると一段の物悲しさを覚えた。
 この日、連絡箱に「谷中村たより」が置いてなく残念だった!
谷中村役場跡


 雷電神社・延命院の北方、約200mの位置に谷中村役場跡があった。昔は洪水地帯のため「水塚」という少し小高い丘の上にあった。跡地には四阿が建っていた。



H14.2.11撮影
水塚(個人屋敷跡)


 谷中村役場跡の付近には個人の屋敷跡が点在していた。いつ設置したのか幅10㎝、高さ70㎝位の案内用石柱があり、岩崎正作屋敷跡、大野孫衛門屋敷跡、大野豊蔵屋敷跡、大野音次郎屋敷跡などの表示があった。
 村役場同様、洪水に備えるためか小高い丘(水塚)に家屋を建てたようだ。今は土台の一つも残っておらず葦草が茂っているだけだ。

 次の動画は谷中村遺跡の様子を伝えています。momo357さま提供。


 現在、「谷中村遺跡を守る会」が、日本における公害問題の発祥地及び警鐘発信地としての「旧谷中村遺跡」の保存と田中正造翁精神の啓蒙普及に努めている。遺跡には守る会による説明看板が設置されており、初めて訪れた人にも当時の様子が容易に理解できるものとなっている。
 遺跡の中には、個々の家の所在跡や雷電神社跡、延命院墓地跡、役場跡などがあり、その歴史の重さに圧倒される。