◆ 所在地 佐野市金井上町2233番地
◆ 沿革
惣宗寺・正月の賑わい |
天台宗比叡山延暦寺の末寺で、天慶7年(994)に藤原秀郷が春日岡(現在の城山公園)に建て始め、翌年竣工したと伝えられている。江戸時代(1602年)の唐沢山城移転に際し、現在地に移築された。
またここは、関東三大師として有名で、厄除け、方位除けの祈願寺である。正月には百万人の参拝者が訪れ賑わいをみせている。
境内にある東照宮は、元和3年(1617)徳川家康の遺骸を久能山から遷葬の際、一泊したのにちなんで建立された。
水子地蔵尊、子育地蔵尊、金銅大梵鐘、春日稲荷大明神、縁結び道祖神、パゴダ供養搭、田中正造分骨墓所、石川啄木歌碑など、見るべきものが沢山ある。
石川啄木の歌碑 (H13.9.23撮影) | 田中正造の分骨墓所 (H13.9.23撮影) |
◆ 正造の分骨墓所
上右の写真は、田中正造の五カ所ある分骨地の一つである。生前、正造が自然石をこよなく愛していたことから、墓石には渡良瀬川流域産の石を使っている。その墓石の全面には「嗚呼慈侠 田中翁之墓」と国会議員時代の盟友であった島田三郎が書いた文字が刻まれている。
なぜ分骨地の一つに惣宗寺が選ばれたのかを探ると、正造の自由民権運動当時に「中節社」の事務所がここに置かれていたことや、正造の本葬が営まれた場所であるということが、その理由として考えられている。
◆ 正造の葬儀
正造の葬儀 |
正造はここを自由民権運動の本拠地として活躍した。大正2年10月12日に正造の本葬が当寺で執行され、渡良瀬川両岸被害地はもちろん全国各地より関係者が葬儀に参集、その数は数万人となり、正造の終焉にふさわしい葬儀であった。
遺骨は惣宗寺のほか佐野市小中町、栃木市藤岡町、館林市雲龍寺及び埼玉県北川辺町(いずれも現市町名)の5か所へ申請により分骨埋葬された。