7.旧谷中村合同慰霊碑 〔所在地図〕

所在地 栃木県下都賀郡藤岡町(渡良瀬遊水地・北エントランス付近)
合同慰霊碑霊園(H17.1.20撮影)

 昭和46年4月に建設省が元谷中村の子孫たちの要望で、遊水池内に散在した無縁墓地等を移転し、合同慰霊碑を建立した。
 合同慰霊碑を囲む塀の内側には、数多くの墓石がびっしりと安置されている。以前は夏季に訪れると雑草が伸びて確認することが出来なかったが、最近では良く管理されており、いつでも見ることができる。  〔H13.9.15記〕


合同慰霊碑霊園(H16.11.21撮影)合同慰霊碑(H16.11.21撮影)
内壁の墓石群(H13.9.15撮影)

 合同慰霊碑霊園の内側の塀には墓石と石仏が上下2段に整然と並べられていた。これら墓石の多くは江戸時代に作られたものが多く、
元禄(1688~1704)、正徳(1711~1716)、
享保(1716~1735)、寛保(1741~1743)、
宝暦(1751~1763)、安永(1772~1780)、
寛政(1789~1800)年間のものを確認することができた。


 合同慰霊碑敷地内の一隅に別の慰霊碑が二つあるのを確認できた。一つは工事関係者の殉職慰霊碑、そしてもう一つは旧谷中村居住者の子孫が建立したものだろう。


殉職者慰霊碑(H13.9.15撮影)

 渡良瀬川は台風がくるたびに洪水に見回れ、大正7年以降だけでも10度の洪水を確認できる。特に昭和10年、昭和13年(2回の洪水)、昭和22年(カスリーン台風)と大出水があり、高度な洪水調節機能をもたせた調節池を造成することになった。
 昭和38年から調節池化工事が進められ、内部が囲繞堤により区分された第1・2・3調節池が作られた。ハート形の第1調節池は昭和45年、第2調節池は昭和47年、第3調節池は平成9年にそれぞれ完成した。
 この工事の際に8名の関係者が殉職、これら工事殉職者を慰霊するため「渡良瀬遊水地調節池化工事殉職者慰霊碑」が昭和47年に建立された。(合掌)


 霊園敷地内の一角に高さ1mにも満たない小さな碑が設置されてあった。表面に書かれた文章はあまりにも意味深で趣旨の理解は難しいが印象深かった。
霊園の片隅にある石碑左石碑の文章

 上の石碑は、谷中村民の遺族が足尾鉱毒事件に立ち向かった先祖の闘いの魂を静めるために奉納したものと思われる。しかし、合祀を拒んだ一部子孫の墓地及び墓石は、今なお旧谷中村の延命院跡に残っている。