1.田中正造生家跡 〔所在地図〕

所在地 栃木県佐野市小中町975番地

母 屋
復元された母屋

 宅地518㎡が栃木県指定史跡で、正造の生まれた育った母屋がある。建築の構造・手法から19世紀の初めごろの建築と考えられる。
 政治活動に没頭して不在がちだった正造は、この家に医師を迎え入れて村の診療所として役立てた。昭和初期になって母屋は茅葺屋根から瓦葺にするなど、新築に近い修理が施された。
 平成2(1990)年3月に着手された田中正造邸宅の保存修理工事は、県道拡幅工事に伴い、原状を変更することになった。この結果、新たに敷地を入手して所有地を確保し、母屋や土蔵等を北側に移築した。
 平成2年の保存修理工事は、建築当初の姿に復元を図ったが、屋根は防災と維持管理上の見地から茅葺屋根を型どった銅板葺として整備された。

 
隠居所・表門・便所
復元された隠居所

 明治の初めごろの建造と推定される。隠居所と並んで西側に表門と便所があるが、隠居所と同時代に建てられたものである。
 表門は1間1戸の腕木門と呼ばれる形式のもの。その門から北に向って直進して、母屋(診療所)の玄関に入るように配置されている。隠居所には正造の父と妻カツが住み、母屋は永く医師が住んでいた。
 隠居所は1階が間口と奥行きが4間半で、2階が間口と奥行きも4間の瓦葺屋根。1階は東西に大きく2分され、東側は2間幅の土間とし、土間には車井戸があったかと思われる滑車が梁に残っている。西側は2間半幅の居室とし、それは3部屋に区切られている。入口の雨戸には覗き窓があり、2階は5部屋に区切られ、天井は割合低く造られている。隠居所入口左手の部屋は、当初、父富造が正造と共に、雑貨品の商いをしていた。
 正造は亡くなる前、故郷の産業と人心の復興を願って、宅地と田畑(3反余)の全財産を村に寄附した。
 正造から小中農教倶楽部に寄贈された隠居所は、これまで何回か修理の手を加えて、小中町の人々に活用されていましたが、昭和24年からは佐野市の公民館第1号として、地域の発展に多大な貢献をしてきた。昭和57年に集落センターが建設されると、33年間の役目を終えた。

 

小中農教倶楽部
 正造から家屋を含む全財産の寄附を受けた小中村民185名は、大正2(1913)年8月10日、田中家の隠居所に集まり、「小中農教倶楽部」を設立して病床の正造に報告した。以来、小中農教倶楽部は、田中旧宅の維持管理にあたり、その活用を図るとともに、正造夫妻の追善供養を毎年9月1日に行っている。


生家の正造墓所
生家の墓所 (H13.9.23撮影)
生家の墓石 (H13.9.23撮影)

 正造の5分骨の1つが、ここに葬られている。生家の直ぐ南側に道路があり、それを挟んで墓所がある。面積は400平方メートル位はあるだろうか、樹木が植栽されており手入れも行き届いている。
 石版の石碑で「義人 田中正造君碑」と書かれており、石碑の表面には同郷の小堀鞆音の筆による田中正造翁の姿が彫られている。しかし、彫りが浅く石碑が北向きであるため逆光に遮られ、よほど注意してみないと見ることができない。