谷中村の遺跡を守る会の活動
谷中村遺跡入口立看板(H12.10.28)
谷中村遺跡入口立看板

 旧谷中村遺跡に一番近い駐車場から南へ30mほど行くと写真の立看板が設置してある。この看板は「谷中村の遺跡を守る会」が設置したもので独特の文字が遺跡の雰囲気を醸し出す。
 この看板を左に折れ約50mほど進むと下の写真の位地に立つことができる。

谷中村遺跡入口(H12.9.23)
谷中村遺跡入口

 谷中村遺跡の入口部分、ここから東に向うと遺跡群がある。手前のベージュ色は休憩用のベンチ、正面中央の小さく見える看板は下の写真である。

遺跡案内用看板(H12.10.28)
遺跡案内用看板

 この看板は、谷中村遺跡を守る会が立てた案内看板である。独特の雰囲気を醸し出す文字がなんともいえない。左に向うと「谷中村役場跡」、右は「雷電神社跡・延命院墓地跡」と表示されている。

雷電神社・延命院墓地跡への入口
(H15.7.11)
雷電神社・延命院墓地跡への入口

 上写真の右手約20mの位置にある案内用小看板。「旧谷中村遺跡・延命院跡・共同墓地・雷電神社跡」と表示してある。正面の小道を約200mほど進むと下の写真へ着く。

延命橋(H15.7.11)
延命橋

 この橋は「延命橋」と命名されているが恐らく元からあった橋ではないだろうと思われる。 この橋を渡ると延命院墓地までは、100m位であり除草作業の後ならば正面の大きな木の下に墓標が見え隠れする。

雷電神社跡(H15.9.30)
雷電神社跡

 田中翁は、病気重態の折、わが身を担架に乗せて遠く谷中に送り届けよと要望したほど翁が最後の静養を志したのもこの社地であった。
 この神社跡地こそ、日本公害の原点地・谷中村の存在を永久に証するに無くてはならぬ貴重な遺跡であるといえる。

延命院跡(H15.9.30)
延命院跡

 雷電神社跡の隣り合わせに「延命院跡」がある。そして、かって延命院に架けてあった鐘が、幸手市の火の見櫓に使われていることが発見され、関係者の熱心な交渉により平成14年に戻ってきた。
 ここのはレプリカだが本物は藤岡町歴史民族資料館に展示してある。

延命院墓地跡(H15.7.11)
延命院墓地跡

 延命院墓地跡に設置されている谷中村遺跡を守る会の連絡箱、この中に「連絡ノート」と「谷中村たより」が置いてある。
 谷中村たよりは数十部あるが、無くなった時点で終りということなのだろう。今日は35号が置いてあった。

延命院墓地跡と彼岸花(H15.9.30)
延命院墓地跡と彼岸花

 墓標の周りを取り囲むように咲いている彼岸花。彼岸の時期にあわせ見事に咲くが、根には毒が含まれているらしい。子供の時、親からこの花に触ってはいけないとよく言われたものだ。
 守る会では、彼岸花の開花時期にあわせて除草作業を行っているが、平成11年(1999)は花芽を刈ってしまったらしく花が咲かなかったらしい。

見事に咲いた彼岸花(H13.9.23)
見事に咲いた彼岸花 ヒガンバナ科の多年草。中国原産といわれ、古く日本に渡来し、本州以西の各地の土手、路傍、墓地などの人家の近くに生え、また、まれに栽培もされる。高さ30~50㎝。地中にラッキョウに似た鱗茎があり外皮は黒い。秋、葉に先だって花茎が伸び、頂に六個の花被片をもつ赤い花が数個輪生状に集まって咲く。花被片は長さ約4センチメートルの披針形で外側に巻き縁がちぢれている。花後、鱗茎から線形の厚い葉を叢生する。古くは救荒作物の一つとされていた。全草に有毒成分を含むが煎汁を腫れもの、疥癬(かいせん)などに塗ると効果がある。漢名、石蒜。地方によりマンジュシャゲ、シビトバナ、テンガイバナ、ユウレイバナ、ステゴバナ、ハミズハナミズ、などの別名がある。
墓石と彼岸花(H12.9.23)
墓石と彼岸花

 反対側(南側)から撮ったショット。墓石と彼岸花、なぜかよく似合う。しかし、なぜか物寂しい。

谷中村役場跡(H12.9.23)
谷中村役場跡

 延命院墓地後から直線で北西へ約300mの位置に谷中村役場跡がある。その隣は個人の農家跡があり東屋が建っている。7月に来た時は夏草で茫々としていたが今回は除草作業の後らしく綺麗になっていた。これなら東屋も使われるだろう。

大きな桑の木(H13.9.22)
大きな桑の木

 カイコの餌である桑の木が約15~16mにも及ぶ大きさになっている。樹齢は何年経ったのだろうか。
 平成13年9月11日に上陸した台風15号の影響により、ここ遊水池は水面が上昇し危険として、しばらくの間閉門されていた。写真にあるヨシの黄土色の部分が浸水部分である。