田中正造の人権・平和思想

◆ 戦争は罪悪である
 これは現在ではあたりまえのことですが、19世紀・20世紀になっても国と国との間では「戦争は正義」「力によって物事は解決する」という考え方が根強く存在していた時期ですから、「戦争は罪悪である」という田中正造の主張は大事なことなのです。
 田中正造は三宅雄二郎宛の書簡(明治37年11月26日)のなかで「戦争の罪悪は論を要せず」と述べ、「戦争は必要なりとする事ありとするも、我国の内政の如き、公盗横行の政府にして妄りに忠直の人民を殺すことを敢えてするものの戦争を奨励するに至りて言語道断なり」と言っています。


◆ 世界の軍備は全廃すべきである
 ここが田中正造のすごいところですが、あの時代に「世界の軍備は全廃すべきである」ということを主張しています。これは「田中正造翁談」(明治41年4月5日付)の記録の中にあるのですが、ちょうどこの時期にオランダのハーグで万国平和会議が開かれ、そのニュースを正造が聞いて谷中村から東京へ出かけていって、そこで陸軍・海軍の全廃ということを主張します。
 この時、日本は日露戦争で勝っており、この時期こそ「日本が世界の前に素っ裸になって、陸海軍を全廃すべきだ」と正造は言うのです。「これが弱小国の口から出るのでは折角の軍備全廃論も力が無いが、大戦勝の日本は軍備全廃を主張する責任がある。いや、権利がある。」とこのように言ってます。
 さらに「この機会を逸してはならぬ、是非ともこの一大主張をたずさえて日本の全権が出かけねばならぬ」「もし万国平和会議で日本の主張を拒絶して軍備全廃を拒否したなれば、日本だけでも陸海軍を撤去しなければならない」。「勝って兜の緒を締めよ」ということを、世間で一概に軍備を拡張することだと思うのは大変な誤解である。「勝って兜の緒を締めよ」というのは、それこそ軍備全廃ということを言うのだ、と正造は言ってます。


◆ 国家間の紛争は話し合いで解決すべきである
 正造の日記(明治44年6月9日付)に書いていますが「対立、戦うべし。政府の存在する間は政府と戦うべし。敵国、襲い来たらば戦うべし」と述べ、その戦うのに「腕力殺伐」と「天理による」との二つの道を区別すべきで、「予はこの天理において戦うものにて、倒れてもやまざるは我が道なり。天理を理解しこの道実践のもの宇宙の大多数をえば、すなわち勝利の大いなるものなり。道は二途あり殺伐をもってせるを野獣の戦いとし、天理をもってせるを人類とする。人類は天理をもってせるものなり」。野獣には言葉がない、だから意思の通じない時には腕力を使うのだ、人間には言葉があるじゃないか、言葉があるのにどうして腕力を使うのだ、言葉で、つまり話し合いで解決が出来るはずだ。と書いています。
 これは現代では集団安全保障という概念でとらえるべき問題です。これがこの時期に田中正造が主張していることなのです。国家間の紛争は話し合いで解決すべきであると…


◆ 人民を救うことを訴えています
 正造が更に偉大なことですが、日露戦争の時期に、日本とロシアの両国の人民の立場に立って人民を救うことを訴えています。これは黒澤酉蔵宛の書簡(明治38年1月31日付)で述べています。「ロシア政府の暴挙にして請願人を虐殺す。これ決してロシアのこととして見るべからざるなり、我が国もまさに相同じ。予は泣いて日露両国の貧民に代わりて両国の義人に訴えるものなり。なかんずく谷中村の惨事はその最たるものなり」と言うのです。
 「血の日曜日事件」というのが、1905年の1月22日にロシアの首都ペテルブルグで起きました。これは「労働者の待遇改善」「政治的自由の確保」「日露戦争の中止」を請願する労働者・民衆のデモに対して、軍隊が発砲し2千人以上の死傷者が出たという事件です。この「血の日曜日事件」が発端になってロシアの第一次革命が起こるのです。この革命は成功しませんでしたけれども、その後の1917年のロシア革命につながっていきます。
 この「血の日曜日事件」の直後のニュースを知って正造は、ロシアの人民と谷中村をはじめとした日本の人民との連帯の気持ちをここで表しているのです。そして正造の心の根底にあるものは……人民を救う……です。


◆ 人民があって国家がある
 これは今の日本国憲法の立場ですが、当時の大日本帝国憲法では、国民は全部「臣民」なのです。大日本帝国憲法には国民というのは出てきません。臣民というのは天皇の家来である民ですから天皇あっての臣民。人民があって国家があるのではなく、国家があり、天皇の統治のもとに臣民がいるという、これが大日本帝国憲法の基本的な立場ですから、そういう中で正造は日記(明治36年10月16日付)に書いていますが、「人民があって国家がある」ということを日露戦争の時に、鉱毒問題は対露問題、ロシアとの戦争の問題よりも先決問題だ。谷中村の問題は日露戦争よりも大問題だと主張するわけです。このことは何度も繰り返し正造は言っています。


◆ 植民地問題について
 日清戦争によって日本は台湾を植民地にしました。「新領土台湾を得たるも本国は多大の土地を滅亡せしめたり」。これは正造が友人の梅原薫山の無実の罪をそそぎ清める会合でのあいさつ(明治36年11月10日)のなかで述べていることです。「明治26年、7・8年の戦没で我が日本は台湾を新領土としても、ちょうどそれと同時代に我が日本は伊豆と安房とを合わせたよりも大きな土地を失ったではないか」。つまり鉱毒の被害によって台湾の土地よりももっと広い土地が滅亡しているではないかということを正造は訴えます。
 「なお軍国に借りて社会を蹂躙し、私欲をたくましゅうとする悪魔を撲滅し国民は国民としての権利、人道を保全することを努めよ」と田中正造は日露戦争の始まった時に訴えています。


◆ 人権は法律よりも重い
 正造の日記(明治45年3月24日付)の中に、「人権また法律より重し。人権に合いするは法律にあらずして天則にあり」と主張をしています。なによりも人権というものを田中正造は、正面にうちだしているわけです。


◆ 地方自治は国家の基礎である
 地方自治こそ国家の基本にいならなければならないということを正造は言ってます。「日露戦争たけなわの時にあたりて国家の基礎団体たる町村を破壊することを為す。すなわち谷中村は日露戦争に際して無法に自治体を破壊されたるなり」、これは「建白書」(明治45年~大正元年)のなかで述べています。常に地方自治体を基礎にして国のあり方を考えなければいけないという思想を田中正造は述べています。


【2000年第28回渡良瀬川鉱害シンポジューム配布資料より】