佐野が生んだ偉人
その行動と思想
Menu
田中正造という人
略歴(足跡)
正造の思想観
正造ゆかりの地
正造の関係者
正造研究グループ
新聞による鉱毒事件
正造関係の著作
正造関係目録
正造の狂歌集
関係リンク集
田中正造の略歴(足跡)
★★★
詳細年表はこちら
★★★
1841
(天保12年)
1歳
11月3日下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市)に生まれる。
名主富蔵の長男
1857
(安政 4年)
17歳
小中村六角家の名主に公選される
1863
(文久 3年)
23歳
大沢カツ
と結婚、六角家の改革のため活躍
1868
(明治元年)
28歳
六角家改革事件
により入獄11か月
1870
(明治 3年)
30歳
江刺県花輪支庁(現秋田県)の役人
となる
1871
(明治 4年)
31歳
上役暗殺の疑いをうけ投獄される。
獄中「西国立志編」や政治経済の本を読む。入獄2年9か月
1874
(明治 7年)
34歳
疑いがはれ小中村に帰り、
商売と勉学に励む。この頃より、自由民権者として歩みだす
1878
(明治11年)
38歳
栃木県第4大区3小区区会議員に選ばれる。
政治に一身を捧げることを誓う
1880
(明治13年)
40歳
栃木県会議員に当選、
以後4回連続当選。有志とともに国会開設運動に尽くす
1882
(明治15年)
42歳
立憲改進党に入党
1884
(明治17年)
44歳
栃木県令三島道庸の圧政に反対、
加波山事件
に関係したとして入獄3か月
1886
(明治19年)
46歳
栃木県会議長となる
1890
(明治23年)
50歳
第1回衆議院議員選挙に当選、
以後6回連続当選。この間改進党(のち進歩党、憲政党、憲政本党)議員として全国各地で演説
1891
(明治24年)
51歳
第2回帝国議会に初めて
「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」
を出す
1896
(明治29年)
56歳
渡良瀬川大洪水。
鉱毒水が広がり被害民大会
が開かれる。被害民とともに
足尾銅山鉱業停止運動
を開始。議会で鉱毒事件について、繰り返し政府に質問する
1899
(明治32年)
59歳
議員歳費値上げ案反対演説をし、歳費を辞退。
足尾鉱毒被害状況
を基に鉱業停止の質問
1900
(明治33年)
60歳
被害民第4回大挙押出し(請願)の途中、
川俣事件
起きる。憲政本党を脱退
1901
(明治34年)
61歳
衆議院議員を辞職
し、鉱毒事件を
天皇に直訴
1902
(明治35年)
62歳
川俣事件裁判での
官吏侮辱罪で入獄
41日間。
獄中で聖書を読む。この頃渡良瀬川下流の川辺・利島村(埼玉県)や
谷中村(栃木県)を遊水地にする計画
が起きる。
1904
(明治37年)
64歳
谷中村に住む。
遊水地化反対運動に励む
1905
(明治38年)
65歳
谷中村村民の第1回
集団移住
が始まる
1906
(明治39年)
66歳
新紀元社の例会、その他で谷中村事件を訴える。
谷中村の名が消され、藤岡町の一部にされる
1907
(明治40年)
67歳
谷中村残留民家強制破壊。
谷中村復活運動に活躍
1909
(明治42年)
69歳
渡良瀬川改修工事計画
が出される
「被害破道に関する質問書」を書き、友人島田三郎議員らの名前で衆議院に出す
1910
(明治43年)
70歳
関東大洪水。政府の治水政策を正すため
関東各地の河川を実地に調べる
1913
(大正 2年)
73歳
8月2日河川調査から谷中村への帰途、
病に倒れ9月4日死去
。遺骨は5か所に分骨し埋葬
戻る
佐野が生んだ偉人=田中正造へ