田中正造の略歴(足跡)Index
1841(天保12年) 1歳11月3日下野国安蘇郡小中村(現栃木県佐野市)に生まれる。名主富蔵の長男
1857(安政 4年)17歳小中村六角家の名主に公選される
1863(文久 3年)23歳大沢カツと結婚、六角家の改革のため活躍
1868(明治元年)28歳六角家改革事件により入獄11か月
1870(明治 3年)30歳江刺県花輪支庁(現秋田県)の役人となる
1871(明治 4年)31歳上役暗殺の疑いをうけ投獄される。獄中「西国立志編」や政治経済の本を読む。入獄2年9か月
1874(明治 7年)34歳疑いがはれ小中村に帰り、商売と勉学に励む。この頃より、自由民権者として歩みだす
1878(明治11年)38歳栃木県第4大区3小区区会議員に選ばれる。政治に一身を捧げることを誓う
1880(明治13年)40歳栃木県会議員に当選、以後4回連続当選。有志とともに国会開設運動に尽くす
1882(明治15年)42歳立憲改進党に入党
1884(明治17年)44歳栃木県令三島道庸の圧政に反対、加波山事件に関係したとして入獄3か月
1886(明治19年)46歳栃木県会議長となる
1890(明治23年)50歳第1回衆議院議員選挙に当選、以後6回連続当選。この間改進党(のち進歩党、憲政党、憲政本党)議員として全国各地で演説
1891(明治24年)51歳第2回帝国議会に初めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出す
1896(明治29年)56歳渡良瀬川大洪水。鉱毒水が広がり被害民大会が開かれる。被害民とともに足尾銅山鉱業停止運動を開始。議会で鉱毒事件について、繰り返し政府に質問する
1899(明治32年)59歳議員歳費値上げ案反対演説をし、歳費を辞退。
足尾鉱毒被害状況を基に鉱業停止の質問
1900(明治33年)60歳被害民第4回大挙押出し(請願)の途中、川俣事件起きる。憲政本党を脱退
1901(明治34年)61歳衆議院議員を辞職し、鉱毒事件を天皇に直訴
1902(明治35年)62歳川俣事件裁判での官吏侮辱罪で入獄41日間。
獄中で聖書を読む。この頃渡良瀬川下流の川辺・利島村(埼玉県)や谷中村(栃木県)を遊水地にする計画が起きる。
1904(明治37年)64歳谷中村に住む。遊水地化反対運動に励む
1905(明治38年)65歳谷中村村民の第1回集団移住が始まる
1906(明治39年)66歳新紀元社の例会、その他で谷中村事件を訴える。谷中村の名が消され、藤岡町の一部にされる
1907(明治40年)67歳谷中村残留民家強制破壊。谷中村復活運動に活躍
1909(明治42年)69歳渡良瀬川改修工事計画が出される
「被害破道に関する質問書」を書き、友人島田三郎議員らの名前で衆議院に出す
1910(明治43年)70歳関東大洪水。政府の治水政策を正すため関東各地の河川を実地に調べる
1913(大正 2年)73歳8月2日河川調査から谷中村への帰途、病に倒れ9月4日死去。遺骨は5か所に分骨し埋葬