上州花輪にて 関美太郎
庭田源八の宅
雲龍寺を出でて吾妻村大字下羽田の庭田源八の宅に至る、庭田源八に隣して同じく庭田順平と言ふなり、両家共相応に資産を有し、この近傍にては物持をもって称せられ、入にも羨まれしものなるが、昨秋出水の折鉱毒侵入の為め、所有の田畑は悉く荒蕪に委し、今は窮落貧困憫む可き姿とはなれり、両家被害の概算たりとて書出せしところを見るに、源八の方は被害地の合反別8町7反9畝13歩にして、この損害金高1万3,522円ほど、又た順平の方は被害地の合反別8町9反9畝1歩にして、この損害金高1万3,866円ほどなり、源八の宅前渡良瀬川に沿へる堤上にも竹林の叢々たるものありけるか、この竹も悉く鉱毒の為め枯凋し力を要せずして容易に抜取るを得るなり、余等一行少時この処に休み居る間、毒泥に染みたる藁一把を拉し来り、前庭の中央にて焼きみせしか、その灰は凝固して釘の如くこれを投ずれば錚々として声あり、もって侵入せる泥砂の中には鉱物を包含することを測知す可きなり、谷将軍もまた被害地巡視の際源八宅内において試みに藁を焼みたりといふ。
佐野
源八宅を辞せし時は、夕陽まさに西山に傾かんとする頃なりしを以て往々船津川近傍の被害地を視察しながら佐野に至りて宿泊することに決し、伴ひ来りし腕車に駕し佐野に達して宿を斉藤に投ず、同処まで同行せし須永氏は此夕を以て告別足利に帰り、一行には福地小一郎氏加われり、この朝足利にて別れし後藤新平氏の一行は、足利より汽車にて佐野に出て佐野附近の被害地を視察せしとのことたりしか、同一行中後藤氏のみは雲龍寺より分離古河に往きしとて坪井次郎氏の一行は、斉藤に来宿せり、夜に入り坪井氏訪れ来りしか、源八宅にて焼きし藁灰を見せしに、余の試みし時は此の如くならさりしとて
驚き居たり。
| | 越名沼
5日は午前8時佐野を出発し、腕車にて界村大字馬門に至る。界村は則ち群馬なり、一行には余等3人の外大塚・福地の両氏、この日天気朗かにして風また和に旅行には誂向きの天候たり。馬門にて下車し左に折れて越名に出づ、沼あり、越冬沼と称す、周囲には幾里なるやを知らされど、従前は魚族甚た多く越名地方の人民は大抵その魚鱗を撈漁し生計を営み居たりしか、鉱毒侵流後は魚族その跡を絶ち、俄に生計の途を失て窮困し居るもの少なからず。沼に沿ふて原あり、原を繞て秋山川流る、越名沼畔は阿蘇鉄道の終点にして阿蘇の特産物たる石灰は悉くここに運搬せられ、ここにて船積みをなし東都に輸送せらる、又た降雨あり、河水の増加せし時は東京より小蒸汽船も来往し、田舎としては一寸便利の処あり。
高山
越名沼畔の視察を終り、秋山川を小舟にて渡り高山に出つ、高山一部落の農民は概して養蚕を業とし、1年の生計を立て居ることなるが、これまた鉱毒のため、ありとあらゆる桑園を悉く荒廃に委し本年も既に蚕児発生の時期に近より居るに、桑樹の発芽覚束なかる可しとて農民一同愁へ居れり、実に高山の損害の如きは、その面積よりする時は他に比較して甚だ広大なりとは言を得ざる可けれど、一部落の処有耕作地約150町歩の内、120町歩までは鉱毒の侵害する処となりたりといふに至ては、その惨状聞くに忍びたるに非らすや、首藤氏この日微恙あり、高山より余等に別れ先つ群馬の一文渡に至りて待つ、而して余等は船津川の堤上を南に進み、麦畑・竹林等の同一なる惨状を呈し居るを見ながら杉の渡を越へ、渡良瀬川の南岸に出て、則ち群馬の地に入り沿岸を一文渡の方に下る、杉の渡より一文渡に至るの間は大島村にて、ここも沿岸一帯の地荒廃凄楚茫として草樹を見ず、誠に気の毒千万なる有様なり。
|