新聞報道に見る足尾鉱毒事件
田中代議士の質問書 【明治25(1892)年6月5日、毎日新聞】
 本会明治25年5月9日河野広中君、及び工藤行幹君は北海道殖民開拓に関する施政カ針、北海道官有物払下、北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び札幌製麻会社、北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件に付、同月11日塩田奥造君、新井啓一郎君及び箕輪勝人君、同鉄道始末に対する件に付、同月23日加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に関する件に付き、同月同日田中正造君は足尾銅山鉱毒加害の件、及び北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神戸造船所、釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関する件に付き以上の質問書を提出したるに、政府は未だ何等の答弁をもなさず。
 議院法第49条には「質問主意書は議長之を政府に転送し、国務大臣は直ちに答弁を為し、又は答弁すべき期日を定め、若し答弁を為さざる時は、其の理由を明示すべし」とあり、黙るに政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答弁をなさず、又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若し政府に於て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示せざるや。
 以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責任を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
  明治25年6月3日
    質問者 田中正造
    賛成者 塩田奥三 他2名

鉱毒加害の件につき政府の答弁書 【明治25(1892)年6月12日、毎日新聞】
 衆議院議員田中正造提出、足尾銅山鉱毒加害の件に付き、質問に対する答弁書。
 足尾銅山より流出する鉱毒の、群馬及び栃木両県下に跨る渡良瀬川沿岸耕作地被害の一因たることは、試験の結果に依りて之を認めたり、黙れども此被害たる公共の安寧を危殆ならしむるが如き性質を有するものにあらざるのみならず、かつその損害たる足尾銅山の鉱業を停止せしむべきの程度にあらざるをもって、鉱業条例第19条により、鉱業の特許を取消すべき限りにあらず、その既往の損害の如きに至っては行政官はこれに対し、何等の処分をなすの職権 を有せざるものとす。
 もっともこの如き被害を将来に防止せん為め、鉱業人は現に粉鉱の採聚器設置、水利土功会と契約して自らその費用を負担し、粉鉱を含有するの虞ある渡良瀬川河底の土砂排除の為め、両堰水門内に沈澱場を設け、時々之れを凌渫することとし目下起工の準備中なり、故に将来植物の生長を害するが如き、多量の鉱物を流出することなきものと認む。
右答弁候也。
   明治25年6月10日
      農商務大臣 河 野 敏 鎌

足尾鉱毒被害弁償後報 【明治25(1892)年8月28日、毎日新聞】
 栃木県下に係る足尾鉱毒事件は、鉱山営業主古河市兵衛氏と被害各村との問に条約を締結して、事落着したる旨前号に記せしが、なお聞く所によれば、同県下における足尾鉱毒の被害地は、下都賀・梁田・足利・安蘇の4郡の部落にして、その内数村は古河氏に対する弁償事作を、中山・横尾・川島・矢島・塚田・天海・新井・檜山・山口等の仲裁委員に委託し、他の数村はこれを折田知事、樺山足利梁田郡長、及び被害各村より選考したる査定委員に委任したり、而して此回古河氏と本条約を結びて事落着に至りたるは、万事を仲裁委員に委任したる部分、即ち下都賀都にては藤岡町・ 三鴨村・谷中村、生井・白鳥・部屋・蛭沼・新波・西前原・野木・野渡・甲の各大字梁田郡にては久野村、安蘇郡にては植野村・界村・犬伏町にして、これらの諸村が古河氏より受取ることとなりし弁償金は、総計3万5千余円なりと云う。
 又古河氏との談判を査定委員に委任せし村落にては、右査定委員が総代の資格をもって、去月中折田知事、樺山郡長、古河市兵衛氏等列席の上仮契約を締結したるも、未だ本条約を取結びて弁償金を受取るの運びに至らず、と云えば、被害村民と古河氏との関係、全く終了するに至るまでには、なお多少の日時を要すべしと元へり。

両毛鉱毒被害者の集会 【明治26(1893)年6月9日、毎日新聞】
 足尾銅山より流出する鉱毒、被害者は彼の古河氏が粉鉱採収器据付後、実際鉱毒を除き得るや否や、調査を要するに付人団結を計らんとて、上毛邑楽郡渡良瀬村、大島村、谷田村、海老瀬村の四村長が発起者となり、本月4日大島村に集会し両毛鉱毒倶楽部なるものを設け、向後の運動方針を講究する事に150余名の衆議一致し、終に懇談会を開き目下同県漫遊中なる田中代議士を招 待し、席上同代議士及び玉生嘉寿平・左山文随両氏の演説あり。
 翌5日午後1時より西谷田村に右同様なる懇親会を開き、会する者2百余名、席上田中代議 士、玉生・左山・木塚貞治等の諸氏演説をなし、近来同地方稀なる盛会なりし、因に記す、名演説の為め改進党に加盟したるもの来会者殆ど全員なりと。

田中代議士の群馬県鉱毒被害地巡回 【明治26(1893)年9月1日、毎日新聞】
 栃木県選出代議士田中正造氏は、群馬県下に渡る足尾銅山鉱毒被害関係村の取調の為め、去る7月以来渡良瀬川沿岸各町村を巡回し、既に邑楽郡一円(22か町村)は、去月28日を以て終了し、同日は同郡の中心たる館林町において同町紳商青山・小室・斉藤・宮杉・荒井・千金楽・正田の諸氏発起となり、田中代議士が数10日間極暑もいとわず、各町村を巡回実査したる労を慰する為め、同地金松楼上において懇親会を開きたり。  同志会する者40余名に及び、午后4時配膳調うや斉藤半三郎氏開会の趣旨を述べ、次に田中代議士答辞として鉱毒関係被害の詳細を述べ、なお席上数番の演説あり、何れも田中代議士の運動を称賛し、各々胸襟を開き無事散会せしは、午後8時頃なりき、来会員の姓名は左の如し(略す)

足尾銅山鉱毒被害地人民の運動 【明治30(1897)年3月3日、読売新聞号外】
 足尾銅山鉱毒被害地である渡長瀬川沿岸罹災の人民2千余名は、鉱業停止請願の為め、昨日古河町まで来りしに、館林(群馬県)・佐野(栃木県)・古河(茨城県)等の各警察署にては、猶之を制止せんが為め、警官数10名出張し、一先づ之を制止せり。されども請願者は、これを聞き入れずして内8百余名は、昨夜窃かに出張して上京の途に就きたり。
 右の8百余名は、今朝6時を期して日比谷練兵場に集合し、まず近衛貴族院議長を訪問し、同議長に面会して委細の事情を陳述し、次いで鳩山衆議院議長を訪問したるに、鳩山議長は要務の為め面会を得ず、よって直ちに外務省に出頭して、外務大臣に面会せんと図れり。それは足尾銅山営業
主古河市兵衛氏か嚢に英国公使サトウ氏に依頼し、榎本農商務大臣に懇請する所ありたりとの風説ありしより、右被害民は先っ外務大臣に面会して右の事実を確め、尚ほ進んで談ずる所あらんとしたるなり。
 折柄麹町警察署にては、此報に接じ警部・巡査数10名出張して之を押止め、事情を陳述せんとならば、宣しく委員を挙げて穏かに談ずべし、若し聞かざれば止むを得ず、集会政社法によって処分すべしと諭したりしかば、一同一先づ解散し、三々五々午前11時頃より農商務省へ出頭したり、其後の委細は明日の本紙に詳報すべし。又、右罹災者等は何れも草鞍掛けにて、中には跣足の儘なるものも少なからざる由。

鉱業停止請願連動 【明治30(1897)年3月7日、毎日新聞】
   足尾鉱毒事件鉱業停止請願
 茨城県猿島郡境町長・長谷沢雅氏外24か町村、及び人民総代連署を もって、去る3日群馬県山田郡広沢・相生・境野の3か村は、昨5日就れも鉱業停止に関する請願書を、農商務省に提出したりという。
   出京せし町村
 栃木県都賀郡全部、足利の久野村及び吾妻村内2字を除く外の各部は29年6月再度契約の際、永久苦情を申立てざることに示談したるも、右両郡中部に伍する界村、植野村、犬伏村、堤外地群馬県邑楽郡西谷田村、大島村、渡瀬村は示談とりまとめざらしため、遂に出京して運動を始めたり。
   鉱毒調査委員会
 農商務省に於ては、昨日午前10時より織田・島田・福井・内藤・改野の諸氏集合し、足尾銅山鉱毒事件調査に関する委員会を開きたるが、多分一両日中に詳細を大臣に復命する事なるべしと。

足尾銅山鉱毒停止期成同盟会 【明治30(1897)年3月16日、毎日新聞】
 去る13日午后4時より、呉服橋外柳屋に於て開会、関係諸県の貴衆両議員、県会議員及び惣代等の諸氏50余名、集会協むの末左の決議を為せり。
  • 本会は足尾銅山鉱業停止期成同盟会と称す。
  • 足尾銅山鉱業停止の目的を達するため、4県選出貴衆両院議員の尽力を乞うこと。
  • 4県有志者は議院外に於て応援をなし、併せて当局者にその処分を迫ること。
  • 鉱業停止迎動は、願意を貫徹したる後にあらざれば、止まざること。
 なお、当日来会者諸氏にして、同会に金円を寄付せるもの少なからざりし と。

榎本農商務大臣の鉱毒地視察 【明治30(1897)年3月26日、毎日新聞】
 足尾鉱毒事件は、今や天下の大問題となり、当局者においてもまた、相当の処置をなささるへからさるの時となりぬ。これに於て榎本武揚農商務大臣は、去る23日津田貴族院議員、板野西ケ原試験所技師を従へ、粗服微行して上野発の汽車に塔し、佐野より下車して鉱毒地を巡視せり。
 これより先き鉱毒地の人民数千は、政府の答弁書に満足せず、この上は農商務省の門に溢死して、一日も早く斯の疾苦を断つに如かずとの盟約忽ちここに一決し、早川田雲龍寺大広間に於て、一同水酒盛をなして永訣の意を表し、これより一隊は船、渡良瀬川を下りて上京の途に就き、一隊は市兵衛配下の被害村落に出没し、日頃欺嫡を事としつつある鼠輩を詰責し、再たび足其の地に入らしめざらんとて去る22日の如きは葦火天を焦がすばかりに焚き連らねて暁に達せりとの報、栃木・群馬の両警察本部、その他附近迄の警察署へ達せる後直ちに教名の警官富田停車場附近に出張し、足利・佐野・館林警察署の如きは、殆ど警部・巡査出切りの有様にて、同処に警戒線を張り、又た総代その他重立ちたる人々頻りに之れを制止して、漸く雲龍寺の請願所は3・40名を残すに至れり。
 かかる騒動あるべしとは、神あらぬ身の知るによしなき大臣の一行恰かも視察として同地に赴きたることなれば、初めの程は其何人なるかを知るものなかりしも、津田氏の数日前巡回せられたると、被害地農民中、総代として農商務省に赴き、親しく大臣に面接したるその節、大臣の相貌を知るものあり、かつ板野技師は数回被害地を巡視して、農民とも相知れるより、何時しか大臣たることの知れ渡り被害農民の喜び一方ならず、箪食壼漿の好意をもって大臣を迎へ、大臣も今は包むも詮なしとや想はれけん、2・3の人々には打明かして腕車を下り、親しく作物を見又農民の案内に伴はれて、各地の堤防乃至毒土浸入の田畑、彼の生き倒れたる病毒の竹林等、残る隈なく視察したる間には、さすがに感に勝へて座ろに、農民の究苦を察しけん、大臣も感涙を催されしとなん、斯くて大臣は植野より足利郡吾妻村大字下羽田に至り、早川田に至って引き返し、群馬県邑楽郡大島村附近を視察し、また植野に帰りて船津川の毒土累々たる土饅頭を見、それより界村に、又群馬県邑楽郡西谷田・海老瀬に廻り、古河より汽車に乗って帰京せりと云う。

鉱毒事件調査の結果 【明治30(1897)年3月31日、毎日新聞】
 鉱毒事件調査会は一時休会の姿となりたるが、聞くところによれば、今日迄の調査の結果は次のごときものなりと。
  • 鉱毒をもって田畑を侵害したるは人為にして、単に洪水の為めに田畑を侵害したるものにあらず。
  • 洪水は侵害の原因たらずとも、洪水によりて鉱毒を汎濫せしめたるは事実なり。
  • 而して洪水により、鉱毒を汎濫せしめたるは、山林の濫伐、土地の乱掘に基因するものなり。
  • 故に濫伐、乱掘を慎み、予防の方法を実行したらんには、今日の如き害毒を看ざりしならん。
  • 詮じ来れば、明治18年以来の怠慢より来りたるものにして、人為をもって今日の如き害毒を看ざりしならん。
 斯の如き調査の模様なりと云へば、この上は当局大臣の処分如何にあれば、大隈伯たるもの如何に処する乎。或はまた聞くところによれば、鉱業を一時中止して、充分なる除害方法成立の上か、あるいは損害を賠償する方法成立したる上にて、再び採掘せしむに至るならんとのこと。

野口春蔵・谷元八らの内務省陳情 【明治30(1897)年3月31日、毎日新聞】
   鉱毒事件
 委員等の内務・大蔵両省訪問 被害地より新たに上京せし委員、すでに従来在京の委員等2百余名は、一昨日内務省に出頭、寺原警保局長に面接し、陳状委員野口春蔵・谷元八氏より上京道途における沿道警官の横暴なる行為について、続々その状況を陳述せしも、警保局長には後日詳細取調の上、何分の取り計らいに及ぶべしとの事にて、詰り要領を得ずして内務省を去り、一同は直ちに足を大蔵省に向け、田尻次官に面接し、免税・減税の義に就き委員関口幸八・坂井与惣治氏等より、実際上における減免租なるべき理由を陳述し、同次官には大いに同情を表せられしをもって、一同は満足に同省を引取りたり。
 善後策における委員等の決心 政府においてすでに被害地調査委員の任命ありし上は、最早多入数の滞在すべき必要なく、寧ろ少数委員を残して、他は尽く帰郷するの優れるに如かずと決定し、善後の方針に就き、差し当たり各自居村の調査に着手し、あくまで鉱業の中止を請願すること、不親切なる県知事に辞職の勧告をなすこと等、漸次運動に歩を進むるの策を講ずと云う。
 被害民帰郷の途に就く 各村を通じて少教なる委員を滞京せしむるの方針に決定せしをもって、2百名以上の多人数は、昨日午前、道を日光街道に取り、千住を経て各帰郷の途につきたり。

安蘇・足利郡の鉱毒運動方法 【明治30(1897)年4月1日、毎日新聞】
 鉱毒被害地方なる足利・安蘇両郡においては、その後なお数名づつの出京者ありて、容易に鎮定すべき模様在きことなるが、同地力の人民は運動の方法を左の如く定めたり。
  1. 鉱業停止の請願を為すこと、もし政府の採用するところとならずその目的を達せざる時は
  2. 被害地方人民一同が袂を連ねて出京し、農商務省に内務省に宮内省に陳状すべし、もしこの方法にして目的を貫くことが出来ない時においては
  3. 決死して運動し、席旗も竹槍も辞する所あらず。
 なお、安蘇郡のごときは、鉱毒の関係なき山間の山林にいたるまで総代を選び出京する有様にして、力とも紛騒の甚しきは植野村及び界村、足利郡毛野村、久野村等なりと云う。
 鉱毒事件の演説会 一昨日午後5時より神田美土代町青年会館におい て、開会せし鉱毒事件演説会の出席弁士は、栗原彦三郎・山口弾正・高橋秀臣・田中正造・津山仙・谷千城等の諸氏にて順次登壇、慷慨悲憤の演説ありたり、当日は雨天なるにもかかわらず聴衆6百余名に及べり。

鉱毒地巡見録 【明治30(1897)年4月15日、毎日新聞】
上州花輪にて  関美太郎
   庭田源八の宅
 雲龍寺を出でて吾妻村大字下羽田の庭田源八の宅に至る、庭田源八に隣して同じく庭田順平と言ふなり、両家共相応に資産を有し、この近傍にては物持をもって称せられ、入にも羨まれしものなるが、昨秋出水の折鉱毒侵入の為め、所有の田畑は悉く荒蕪に委し、今は窮落貧困憫む可き姿とはなれり、両家被害の概算たりとて書出せしところを見るに、源八の方は被害地の合反別8町7反9畝13歩にして、この損害金高1万3,522円ほど、又た順平の方は被害地の合反別8町9反9畝1歩にして、この損害金高1万3,866円ほどなり、源八の宅前渡良瀬川に沿へる堤上にも竹林の叢々たるものありけるか、この竹も悉く鉱毒の為め枯凋し力を要せずして容易に抜取るを得るなり、余等一行少時この処に休み居る間、毒泥に染みたる藁一把を拉し来り、前庭の中央にて焼きみせしか、その灰は凝固して釘の如くこれを投ずれば錚々として声あり、もって侵入せる泥砂の中には鉱物を包含することを測知す可きなり、谷将軍もまた被害地巡視の際源八宅内において試みに藁を焼みたりといふ。

   佐野
 源八宅を辞せし時は、夕陽まさに西山に傾かんとする頃なりしを以て往々船津川近傍の被害地を視察しながら佐野に至りて宿泊することに決し、伴ひ来りし腕車に駕し佐野に達して宿を斉藤に投ず、同処まで同行せし須永氏は此夕を以て告別足利に帰り、一行には福地小一郎氏加われり、この朝足利にて別れし後藤新平氏の一行は、足利より汽車にて佐野に出て佐野附近の被害地を視察せしとのことたりしか、同一行中後藤氏のみは雲龍寺より分離古河に往きしとて坪井次郎氏の一行は、斉藤に来宿せり、夜に入り坪井氏訪れ来りしか、源八宅にて焼きし藁灰を見せしに、余の試みし時は此の如くならさりしとて 驚き居たり。
   越名沼
 5日は午前8時佐野を出発し、腕車にて界村大字馬門に至る。界村は則ち群馬なり、一行には余等3人の外大塚・福地の両氏、この日天気朗かにして風また和に旅行には誂向きの天候たり。馬門にて下車し左に折れて越名に出づ、沼あり、越冬沼と称す、周囲には幾里なるやを知らされど、従前は魚族甚た多く越名地方の人民は大抵その魚鱗を撈漁し生計を営み居たりしか、鉱毒侵流後は魚族その跡を絶ち、俄に生計の途を失て窮困し居るもの少なからず。沼に沿ふて原あり、原を繞て秋山川流る、越名沼畔は阿蘇鉄道の終点にして阿蘇の特産物たる石灰は悉くここに運搬せられ、ここにて船積みをなし東都に輸送せらる、又た降雨あり、河水の増加せし時は東京より小蒸汽船も来往し、田舎としては一寸便利の処あり。

   高山
 越名沼畔の視察を終り、秋山川を小舟にて渡り高山に出つ、高山一部落の農民は概して養蚕を業とし、1年の生計を立て居ることなるが、これまた鉱毒のため、ありとあらゆる桑園を悉く荒廃に委し本年も既に蚕児発生の時期に近より居るに、桑樹の発芽覚束なかる可しとて農民一同愁へ居れり、実に高山の損害の如きは、その面積よりする時は他に比較して甚だ広大なりとは言を得ざる可けれど、一部落の処有耕作地約150町歩の内、120町歩までは鉱毒の侵害する処となりたりといふに至ては、その惨状聞くに忍びたるに非らすや、首藤氏この日微恙あり、高山より余等に別れ先つ群馬の一文渡に至りて待つ、而して余等は船津川の堤上を南に進み、麦畑・竹林等の同一なる惨状を呈し居るを見ながら杉の渡を越へ、渡良瀬川の南岸に出て、則ち群馬の地に入り沿岸を一文渡の方に下る、杉の渡より一文渡に至るの間は大島村にて、ここも沿岸一帯の地荒廃凄楚茫として草樹を見ず、誠に気の毒千万なる有様なり。

鉱毒視察の樺山内相 【明治30(1897)年4月20日、毎日新聞】
 三崎県局長、赤原警保局長、火野秘書官及び技師属官、警部等を従へて、去る10日鉱害地視察の途に上りたる樺山内相は、先づ茨城県の被害地を巡視し、それより栃木県に入り、下都賀郡吾妻村において、附近の村民5百余名集合せる際、急に左の如き一場の挨拶を為せり。
 鉱毒被害の事は政府も等閑に置くべからざるを察し、鉱毒調査委員会なるものを新たに設け、衛生上より、土木上より、その他種々の方面より之を
調査し、然る後、断案を下さんとするものなり。
 故に諸君も多人教出京したる如きことを為さず、各その堵に安じ、調査会の報告を待つべし、多人数出京運動したりとて、少数の運動者なりとて、政府は意見を左右するものに非されば、軽挙妄動して家業を廃するよりは、各その家に帰り、穏便に調査会の結果を待ちなば、諸 君の満足すべき報告も得ることならん。

大平山に篭りたる鉱毒被害民 【明治30(1897)年5月8日、毎日新聞】
 本月4日午前9時頃より、栃木県安蘇郡界村の鉱毒被害民およそ60名は、名を同志者の縲紲にあるものの不幸を慰むるに籍り、一同は栃木町附近の大平山に立籠れり、斯くと聞くや、警官等は専ら之 が鎮撫に着手し、五日午後10時に至り、大凡20名は解散し、残り40名はさらに栃木方面に向ひ進んで、県庁に迫らんとの形成に見えしも同日夜に至り一同帰村せしを以て今は全く平穏に帰せりと云ふ。

被害民1,500人、栃木町に入る 【明治30(1897)年5月13日、毎日新聞】
 曩に足利郡毛野村々長にして、古河派の運動者早川忠吉氏の宅へ侵入したるの嫌疑により、目下拘留中なる小野政吉・永島与八・石川兵蔵の三氏の公判は、去る11日栃木区裁判所に於て開かるる故、右公判傍聴のため、被害地の農民1,500名ばかり栃木町へ詰め掛けたり、折しも予めこの事あらんと察し、東京より憲兵30名、高崎より2~30名、その他警部・巡査およそ350名ばかり、之を途に要し防がんとせしも、農民等ついに町内に入り込みたり。為に裁判所前は人山を築き、混雑云わ ん方なく、市民はスワ椿事出来せりとて東西に奔走し、或いは屋根に登りて見物するなど頗る騒ぎ立ちしも、被害農民は至って静粛にして、敢えて不穏の挙動なく、何れも公判如何と気支へ只傍聴をのみ望みたり。
 されど場内限りあるを以て、100名だけ入場を許され、他は已むなく居村に引取りたり、右被告三名の内、石川兵蔵氏は証拠不充分にて無罪、小野政吉・永島与八の両氏は重禁固6か月に処せられたるも不服にて控訴せしという。

足尾銅山鉱毒既往の損害に関する陳情書 【明治30(1897)年8月22日、毎日新聞】
 足尾銅山鉱毒被害地の代表者として上京したる下記諸氏が、内務・大蔵・農商務の3大臣へ提出せし陳情書は次の如し。

 足尾銅山鉱毒の為め、去る明治12・13年より渡良瀬・利根両川沿岸の人民は衛生上、権利上その他私有の土地物件に少なからざる損害を蒙り、当時地方官より衛生上の注意を川へし地方ありしにも拘わらず、当時その意志充分人民に徹底せずして、沿岸人民が鉱毒の漸く人畜田園に及ぼす害の著大なるものあるを知らざること10年、その後同23年の洪水にて稲麦は発育せざること、及び竹木枯凋せる等の顕著なる事実を見るに及びて、始めて大に喫驚したる始末に候ざれば、その損害の如きも明治12、3年来のものを累計せば実に莫大なるべきも、ここに暫く明治29年6月までの調査を省き、同年7月以後11月までにおいて群馬・栃木・茨城・埼玉4県に及ぼせる被害地売買価格の下落を見積りたるに、昨29年11月迄において、およそ金979万9,125円87銭5厘を算出するを得、又植物・労働・肥料・漁業積置食物浸毒等の損害の重なるものを算すれば、金566万2,008円28銭8厘にして、即ち合計金1,546万1,134円16銭43厘の多額と相成り申侯、なお精密に調査すれば、この他に遺漏せるもの多々可有之、又昨年の浸毒より来る本年上半期麦作その他の被害と、新たに発見せし被害地方、即ち千葉県東葛飾郡、埼玉県北葛飾郡等の著しき毒害地と、東京府下の将来を調査せば更に又驚くべきものあらんと奉存候、如此訳柄に候故、既往及び現在に対する鉱毒の損害の措置は被害地回復の請願と相待って、行政府の御処分を請うは実に止むを得ざる次第に御座候、黙るにその損害御処分の請願書正式の手続を尽さんとするも、現在被害地の区域は1府5県、下流域30余里にわたり、反別数万町、入口10余万人、調査の種目数十か条(就中沿岸蚕飼繭糸業及び機業色染等に関 する被害の如きは最近の発見に係る)なれば、その調査の手数と至難とは被害地貧民の容易に為し能はざる処にして、又空しく多くの日数を費し貴重なる請願の時節を失はんことを心付き、我等在京委員は片時も猶予仕兼、不取敢我等在京委員にて一応陳情仕置侯次第に侯、追って詳細なる損害御処分請願書捧呈の上、行政府において精密なる御調査の上、公の処分あらせらる事に候へく、従って右調査御着手の御都合も町有之義と奉存候に付、次に被害種目の概要を列挙し御参考に供し置候。
   鉱毒に因れる個入の被害
  1. 地価の低落
  2. 地価落低による売買実価の下落
  3. 土質変悪による肥料の増加
  4. 土質変悪による収獲の減失
  5. 藁桿侵害による用料及び肥料の減失
  6. 刈草土取侵害による肥料の減失
  7. 桑葉収穫の減失
  8. 蚕繭糸の変象
  1. 機業絹綿糸色染に関する被害
  2. 染物その他製造用料水の被害による新井開堰費等の増加
  3. 染物その他製造料用水の被害による職工賃銀の増加
  4. 積肥浸毒による土壌培養力の滅失
  5. 毒水浸入による家宅倉庫の損失
  6. 家宅倉庫の浸毒による什器家具の損害
  7. 家宅倉庫の浸毒による穀菜その他飲食物の損害
  8. 苗代不発育の害
  9. 家宅の浸毒による家畜家禽の斃死
  10. 毒泥浸入による床下土砂の入替費増加
  11. 土中浸毒による水脈の閉塞及び新井新堰費増加
  12. 原野浸毒による茅葭の枯
  13. 茅葭枯凋による草屋根葺料買入費増加
  14. 河川沼地の浸毒による漁業の損害
  15. 漁業廃絶による栄養補足費の増加
  16. 穀菜その他飲食物の滅失による栄養補足費の増加
  17. 財産減失による衣食住の欠乏
  18. 貧困急激による身体の異状
  19. 貧困窮迫による浸害物喫食の害
  20. 井戸浸害による飲料の汚害
  21. 薪炭浸害による焚火の烟害
  22. 土質変悪による筋骨過労の害
   鉱毒による地方町村の被害
  1. 共有地の損害
  2. 共有家屋建物の損害
  3. 共有井水浚渫費の増加
  4. 共有肥料土取場の損害
  5. 共有沼池漁業の損害
  6. 共毛堤防の竹木草苔枯凋
  7. 戸口減失に図れる自治の被害
   鉱毒による地方税及び国庫の被害
  1. 竹木草苔枯凋による堤防の決潰
  2. 水源山林乱伐による土砂流出河底埋塞
  3. 河底埋塞による舟揖往来の減失
  4. 鉱毒侵害による用水路の損失
  5. 失産貧窮による救恤費の増加
  6. 貧困流離による戸数及び入口の滅失
  7. 官有地損害
 以上の外、国家及び社会に及ぼせる間接の損害は実に莫大なるものなりといえども、今ここに一々之を詳かに計数すべからざるものあるを以て暫く之を省く。
 以上陳情仕候也。
   明治30年8月21日
 鉱毒被害地在京委員 室田忠七、阿部滝三郎、関口幸八、糸井藤次郎、小林偵七郎

鉱毒被害の惨状 【明治31(1898)年10月31日、毎日新聞】
 栃木県渡良瀬川附近は、去る7日の大洪水に今なお減水に至らずして、沿岸村々の民家は床上まで浸水しあるの惨状にて、田圃には採って食用に充つる作物無く、家にはこれより来年麦作まで支ふるの食物なく、唯に食物無きのみならず、飲料水すら悉く混入のため、近傍親戚故旧等より樽詰にて送り来り。 過般滞京と定まりたる50名の総代も、進んで当路の大臣に訴ふるの問題は、極めて至難なるに顧みれば、家族の飢餓を如何ともする能わず、止むを得ず一先づ2・3名の総代を残して帰郷せしめ、残り3名の総代は各自憲政党総務委員を訪いたるに、皆大いに同情を寄せられたりと。

渡良瀬川修築工事 【明治31(1898)年12月3日、下野日日新聞】
 政府は足尾銅山鉱毒問題に対し、古川市兵衛に予防工事を命ずると同時に、銅山の植樹並びに渡良瀬、利根両川の修築工事に着手する筈なりしが、渡良瀬川に対しては、昨年来麌々技師を派遣して、実地踏査を為さしめたる結果、已に設計計画 を竣へ、近々中に着手する事在りしが経費の都合により、33年度より3か年位の継続事業として70万円内外の経費にて、同工事に着手する予定なりと。

鉱毒処分の陳状書 【明治32(1899)年6月3日、下野新聞】
 東京芝口3丁目2番地の足尾銅山鉱毒処分請願事務所にては、今回又候左の陳状書を内務・大蔵・農商務3大臣に捧呈し、かつ被害地の各村に対し、一ケ村毎に不取敢郡長を経て陳情し、然る後連合村調印の上、郡長を経て請願書を差出すべき旨通知したりという。
  • 去る明治29年に比し、被害は数倍の惨状となりたり、今より必ず鉱毒を下流氾濫せしめさる事。
  • 渡良瀬川水源に関する山林樹木を禁伐し、土砂杵止を厳重にする事。
  • 河身全面の破壌を復旧し、両岸の崩落を抑止し、河底の埋没を防ぎ及び堤を増築し、その沿岸の毒土を除却し能はざれば、加害者に除去を厳命する事。
  • 従来被害濃厚地より、多年間納租したるの損害に対し、救助を与へらるる事。
  • 被害激甚地人民の流離転廃、及び貧苦毒食を為す所の窮民に、救助を与へらるる事。
  • 被害村々へ税欠額の補助を与へ、普通小学校及び村務を頽廃せしめさる事。
  • 人命救護の実を挙げられ、異例の死亡者を増加せしめざる事。
 右各条項に対し緊急の御処分無之、多数人民の権利生命を奪ひ、生業を停止せしままこれを救う能はざるにおいては、先ずもって至急足尾銅山鉱業停止を厳命せられて、然て各当局官省共通帯調査の上、厳重処分の順序に御着手あらんことを請ふ云々。

足尾鉱毒事件の詳報 【明治33(1900)年2月13日、毎日新聞】
 足尾鉱毒被害民の蜂起に関し、一昨目栃木県よりある筋に達したる電報に曰く、両3日来足尾鉱毒事件につき、佐野地方人民の東京に押寄せんとし不穏の挙動あるより、警部長水本兼孝は10日午後同地に出張し、憲兵20名もこれが鎮撫のため派遣せられたり。  しかるに彼等は多数人民の上京するは、運動上却て利あらずとし、しばらく上京を見合せ、稍や平穏に傾き、誓部長は本日(11日)午後6時帰庁したり、なお予て沿道警官にこれが鎮撫に関する訓令を発しありしも、直に以上の状勢を通知したり。

鉱毒被害民教千上京せんとす 【明治33(1900)年2月14日、毎日新聞】
 群馬・栃木両県の鉱毒被害民数千は、一昨日来その事務所たる群馬県邑楽郡渡良瀬村下早川田雲龍寺に集合し、昨朝その地を出発し、隊伍を組みて陸路上京の途に就かんとするとの報、その筋に至せし由なるが、群馬・栃木・埼玉の三県は、県内の巡査を挙げてこれが説諭解散に努め、府下に ては板橋・千住の両口に於てこれを防ぐため、憲兵巡査の配置に着手した。
 なお、昨日上州館林より被害民の発せる電報によれば、『請願人2万人上京』とあり、もってその状況容易ならざることを察知すべし。

衆議院の鉱毒被害に関する質問  【明治33(1900)年2月16日、毎日新聞】
 田中正造登壇、鉱毒に関する彼の質問演説は、ここに於てか3回の多きに達っせり、彼は先回宣言せし如く、その質問続発の実行に着手せるものの如し、彼にして真摯熱誠の政友を有し、もって激烈なる対抗を政府になしたらんには、本問題の如きは数年前すでに一段落を告ぐべかりしなり、惜しむらくは、この問題が田中正道一個の問題の如く解せられ、進歩党時に田中の熱誠に動かされて2・3の行動ありしも、アイルランドのバーテル党の如くならず、終に今日惨害に至らしめぬ。
 被れ登壇するや、先づ自己の進退行動が常に党派のために動かされるが如く疑わるるを憾み、本日をもって断然憲政党を脱し、その身辺の疑惑を一掃し、これより猛然として政府に対抗せんことを告ぐ。
 彼はこれより現在官民の争闘を説きて、その実相を政府に問ふところあらんとす、彼れ涙説を為すこと殆ど1時間にわたり、その熱誠は満場を感動せしめしが、最後に一言を断じで曰く、「余今政党を脱して独立の地に立つ、これ本問題が党争にあらざるを明にせんが為なり、しかれども余にして、なお選挙区民の意を迎えんが為めに、本問題を捉えつつあるを疑う者あるを恐れ、数日を期して断然議員の職を辞退すると決心す、今日この時において職を辞さざるは、なお1・2回の質問演説をな為さんがためめなり」と、満場この言葉を聞いて粛然たること稍久し、嗚呼、彼れ熱誠ここに到る、一個の田中正造能く浮薄なる風潮を戒むに足らんか。

衆議院の鉱毒事件に関する質問  【明治33(1900)年2月24日、毎日新聞】
 田中正造の登壇、ここに到りて5回、彼れ政府の答弁に滞足せずして、14議会における最後の質問を試みる、彼れは鉱毒被害地に関する政府の失 政を中心として、内閣各省の紊政を列挙せる書類を朗読せり、これに依りて更らに演説すること1時間、慷慨し悲憤し罵倒してその壇を下れり。

足尾鉱毒事件 【明治33(1900)年3月2日、毎日新聞】
◎被告事件の拘引 凶徒聚集被告事件は、爾後愈々その手を伸ばし、栃木県安蘇郡植野村栗原才次郎、群馬県邑楽郡小林善吉、同上小林定七郎の3名は、日本橋警察署へ拘引の上、昨朝前橋地方裁判所へ押送されぬ。
◎被害地民の困難 被害民の重立てる者は凶徒
聚集の被告事件のため、続々拘引せられ、妻子の飢餓に泣<者多し。
◎寄附金 去月24日までに芝口なる鉱毒事務所へ、寄附したるは、大竹貫一(50円)、小林庄太郎(50円)、山崎義明(10円)、蓼沼丈吉(10円)、三田作蔵・早川進六(1円)等の諸氏なり。

鉱毒入監惨状 【明治34(1901)年2月14日、野州日報】
 足尾銅山鉱毒被害地の多人数が昨年請願のためと称し、上京の途次、警官、憲兵のために抗拒せられ、これに抵抗したるより兇徒聚集罪に問はれ、その首謀者は当時鍛冶橋監獄に拘禁中なるは既記のごとくなるが、その家族は日々の生活に も困難する有様なるをもって、過日来、陳情委員を上京せしめ、芝口の事務所に滞在して、頻りに内務省に迫るも、当局は冷淡にも取合ざるより、この上は昨年の如く、多人数上京するより外なしと決心し居れりと云ふ、果して然るや否や。

田中正造氏の議員職辞退報告書 【明治34(1901)年10月29日、毎日新聞】
 選挙区民に贈れるもの。
 謹んで栃木県第3区衆議院議員選挙人諸君に申上候、正造儀これまで諸君の御信用を受け、衆議院議員に当選し、多年在職罷在候処、数年来専ら足尾銅山鉱毒被害の救済に関し、奔走致し来り候ため、議院において内治外交の大政に献替して職責を尽す能はざるのみならず、諸君に応答の義務をも欠き候程の次第にて、国家に対し誠に慙愧狃
怩の至に存侯に就ては、一昨23日断然議員の職を辞退致し候、是より諸君と共に粉骨砕身、鉱毒問題の解決に従事仕候間、此段諸君に御報告仕り、併せて従来の御厚誼を奉謝候、敬具。
 二白、目下郵便料に乏しく、かつ折悪しく選挙人名簿持合せ無之に付いちいち申上兼候、ひとまず処、御近在選挙人中御知己の諸君へ宜しく御致声の程をも併せて奉願侯。