◇ 正造の関係者 ◇

【kawakiyoからのお願い】
 このページに登場している人物について、足尾鉱毒事件に関わる事象面からのみ表現していますので、ここに描かれている功罪は、その人物の全てではありません。ここで批判的に描かれている人物についても、他の面では、より以上の功績を上げた人が沢山いますので、一元的な見方は慎んでいただきたいと思います。
 また、このページに登場する人物の殆どは、「関係リンク集」の「小説・不屈の田中正造伝」に登場していますので、そちらを一読されることをお薦めします。


新井奥邃 弘化3年5月5日(1846年5月29日)-大正11(1922)年6月16日
 田中正造が天皇への直訴を試みた翌月の『日本人』誌上に正造の行動と心事を擁護し、政府の責任を厳しく追及。それより前、奥邃は正造に伴われて鉱毒被害地を視察する。それ以後、二人の交流は正造が死ぬまで続いた。正造の日記から新井奥邃の著作の殆どを読んでいたことがわかる。
 また、1911年4月に政府の臨時治水調査会に提出された正造の「元谷中村急水留ノ要求及耕作回復ノ陳情書」及び「治水工事少ク成績多キ先決問題請願ノ陳情書」は、その執筆島田宗三、新井奥邃、逸見斧吉、木下尚江が関わっており、特に前者の論旨と文体は改竄に近い程新井奥邃の筆が加わっており、正造、新井両翁の合作と云ってもよい程のものである。
 なお、明治45(1912)年6月、谷中村の土地収用補償金額裁決不服訴訟中に東京の谷中村救済会が解散したため、正造や残留民が新たに弁護士を雇う資金に窮したとき、新井が門下の中村秋三郎弁護士を紹介したこともよく知られている。


石川啄木 明治19(1886)年2月20日-明治45(1912)年4月13日
 幼い頃から学業優秀であった彼は、明治31(1898)年岩手県盛岡尋常中学校に入学し、伝統的な立志の気風を身に付けた。盛岡中学の先輩には金田一京助がおり、その指導で雑誌「明星」を愛読するなど文学への関心も高まった。
 明治34(1901)年12月、田中正造が足尾鉱毒事件を訴えるため天皇に直訴したとの報を伝え聞くと盛岡中学生の啄木は、その思いを31文字に綴った。その歌碑が、栃木県佐野市の春日岡山惣宗寺にある。
 明治36(1903)年与謝野鉄幹と知り合い東京新詩社同人となった啄木は、様々な雑誌に長詩や評論を発表した。
 明治42(1909)年啄木は、東京朝日新聞社の校正係に就職し、同時に実生活に密着した三行分かち書きの短歌を発表して歌壇に新風を巻き起こした。明治43(1910)年、処女歌集「一握の砂」を刊行。また、同年の大逆事件をきっかけに社会主義思想にも接近し、評論「時代閉塞の現状」を執筆したが、発表されたのは彼の死後であった。貧困と失意の中、明治45(1912)年、まもなく大正となることも知らずに肺結核で、わずか26年の人生を終えた。


内村鑑三 万延2(1861)年3月23日-昭和5(1930)年3月28日
 明治34(1901)年6月21日から10日間ばかり鉱毒調査有志会の委員として鉱毒地を視察した折、田中正造も同行したことが契機となり親交を深める。内村は正造直訴後の明治35(1902)年暮れにも学生7人を連れ慈恵品を持参して鉱毒地を視察している。
 また、「万朝報」記者としても視察記や正造に同情的な文章を発表していた。正造に「聖書之研究」を贈っている。


榎本武揚 天保7(1836)年10月5日-明治41(1908)年10月26日
 戊辰戦争のおり、旧幕府海軍副総裁だった榎本は、品川沖から軍艦に乗り込んで脱出、函館五稜郭に拠って新政府軍に最後の抵抗を試みるが、明治2(1869)年5月に鎮圧された。
 時を経て明治29年8月9日に発生した大洪水は関東4県と東京の一部まで足尾銅山の鉱毒を運んだ。被害農民は新農商務大臣の榎本に陳情をしようと試みたが、榎本は無視をした。榎本のような優柔不断で無能政治家の遍歴を持つ者が古河市兵衛に買収されるのは簡単なことだった。
 田中正造の質問に対しての榎本の答弁書は、正造や被害民の心情を逆なでするもので、鉱毒被害は、自然現象がもたらしたもの。鉱業人・古河は充分な示談金を支払っていること。鉱毒流出は減少していることなど、単に古河の代弁者となるに等しかった。
 一方では被害民に同情しているかのような態度をとった。被災地を回り形だけの足尾銅山鉱毒調査委員会を作ったが実際には農民救済策を何一つ行わなかった。


荻野万太郎 明治25(1892)年-昭和19(1944)年
 足利銀行頭取を39年間勤めた他、渡良瀬水力電気や足利ガス、国の肝いりで作られた撚糸業の足利模範撚糸、染色の両野工業など足利市を代表する企業の設立に関与、役員に名を連ねる。近代足利市の礎を確立した人とも云われる。
 25歳で政界にも進出、町制、市制時代を合わせ37年間議員の職にあった。大正10(1921)年、市制施行に伴い初代市議会議長に選ばれ、12年間議長を務めた。
 田中正造の衆院議員辞職に伴い栃木県議になったこともある。県議会で谷中村の遊水地化に最後まで反対していた荻野は、遊水地化案の可決後に発覚した県議絡みの贈収賄事件で調査委員長を務める。汚職の実態が明らかになるにつれ「このような所に長く浸潤すると良心がマヒする」と考え、委員長報告を済ませると同時に議員を辞職してしまう。モラルを重視した荻野の一面がうかがえる。


河上肇 明治12(1879)年10月20日-昭和21(1946)年1月30日
 田中正造の運動を支えた鉱毒被害民救済婦人会による街頭演説会の際、衣類の寄付を求める演説に応じて、ある学生が着ていた外套をはじめ、身に付けている以外の衣類をまとめて寄付した。婦人会の人達がその衣類から名刺を見つけると、そこには「河上肇」と記されていた。
 河上は経済学者として京都帝国大学に在籍し、マルクス主義経済学の紹介に情熱を燃やし、平易な啓蒙的論述として「貧乏物語」を記した。


木下尚江 明治2(1869)年-昭和12(1937)年11月5日
 安部磯雄、幸徳秋水、片山潜、河上清、木下尚江、西川光ニ郎らが発起人となり、明治34年5月18日「社会民主党」を結成。しかし、翌々日警察当局により解散命令下る。これを報じた「万朝報」などが発刊禁止となった。
 当時の政治・社会情勢の緊張につれて、高山樗牛の「時代精神論」「日本主義論」などを代表とする上からの国家主義的風潮と、田岡嶺雲らによる下層貧民社会の現実に発する社会意識との中で社会小説が盛行した。尚江の小説は後者に属し、代表作に「良人の自白」「火の柱」がある。
 尚江は、田中正造の終焉に立会い、大正2年8月23日の茂呂・広瀬・吉岡の3医師が、残り一週間と診察したおり、一切の面会を謝絶するなど看護主任としての役を務めている。


木村新八郎
 明治3(1870)年、田中正造(30)が、江刺県花輪支庁(現秋田県)の下級役人となり、間もなく鹿角の任地へ着き最初の仕事となったのが凶作の実地検分をすることだった。稗糠に塩を混ぜただけの粥を啜りながら露命をつなぐだけの農民たちの悲惨な境遇を目撃し、直ぐに救済策を花輪支庁長に進言し救助米を取り寄せたりした。この時の支庁長が木村新八郎である。
 この時期、東北地方にあっては凶作のため、餓死者が多数出たが、正造の任地では、その対策が有効に働き餓死者が出なかった。これにより正造と木村支庁長は、深い信頼で結ばれ友人となった。
 しかし、皮肉なことに木村の殺害事件が発端となって、正造は2度目の獄に繋がれることになってしまうのである。


黒沢酉蔵 明治18(1885)年3月28日-昭和57(1982)年2月6日
 黒沢酉蔵(16歳)は、田中正造直訴事件の翌日、正造が釈放されると会いに行っている。少年特有の英雄像に惹かれてのことだった。正造はこの酉蔵少年に対しても礼儀正しく紳士的に接した。
 正造の足尾銅山閉鎖すべしとの主張は、当時の殖産興国の風潮の中では、大方が閉鎖すべきでないとの意見を持っていた。酉蔵少年も正造のこの主張は極論過ぎると思っていたが、それでも正造に惹かれて酉蔵少年は以後4年間にわたり、田中正造の元で助手として働いた。
 その後、黒沢酉蔵は北海道にわが国最大の雪印乳業を創設し偉大なる経営者となった。晩年になって黒沢はようやく正造の主張の正しさを理解したと述懐している。


幸徳秋水 明治4(1871)年11月5日-明治44(1911)年1月24日
 高知県中村の酒造兼薬種業の町老役家柄の3男で出生。翌年父に死別。14歳の時、中村で開かれた板垣退助の歓迎会で祝辞を読む。木戸明の遊焉義塾に寄寓し、1987年上京、自由党幹部・林有造の書生になり自由民権運動に投じ、保安条例によって同年帝都退去を命ぜられた。一時故郷中村に帰るが、大阪に出て中江兆民の学僕となり、終生、兆民を師とし、父と思っていた。
 その後、板垣退助主宰の自由新聞に入り、以後広島新聞、中央新聞翻訳係を経て、万朝報に入る。日露戦争前の日本最大新聞「万朝報」論説記者の中心として名文書きとして有名だった。明治34(1901)年、足尾鉱毒事件で田中正造に頼まれ「直訴文」を起草している。
 明治43(1910)年6月1日、湯河原で本を書きながら静養していた秋水が、大逆事件に連座したとして、逮捕される。翌年1月18日公開裁判で判決言い渡し、24人が大逆罪で死刑(のち12人が天皇の特赦で無期懲役に)、2人が爆発物取締罰則違反で有期懲役の判決。1月24日秋水は市谷の東京監獄刑場で処刑された。


古在由直 文久3年12月20日(1864年1月28日)-昭和9(1934)年6月18日
 京都出身。駒場農学校卒。農学者で農芸化学を研究。東京帝国大学(現東京大学)教授、農科大学長となる。のちに総長となって関東大震災後の大学の復旧事業にあたる。
 足尾鉱毒問題については、田中正造が衆院で政府に質問すると、政府は被害の原因は不明とするもので、農商務省は汚染水の分析すら拒否していた。
 当時、農科大教授であった古在が、個人的に分析し被害原因が銅の化合物であることを証明した。このあたりの経過は、戦後の水俣病の経過と実によく似ている。


島田三郎 嘉永5年11月7日(1852年12月17日)-大正12(1923)年11月14日
 江戸に生まれ、沼津兵学校、大学南校、大蔵省英語学校などに学ぶ。明治7年に横浜毎日新聞に入社し後に主宰する。自由民権論を主張し立憲改進党創設に参加。衆議院議員に連続当選し田中正造の盟友となる。
 足尾銅山鉱毒問題、廃娼問題、シーメンス事件などに関与し活躍した。著書に「開国始末」「条約改正論」などがある。
 田中正造の分骨墓所の一つが栃木県佐野市の春日岡山「惣宗寺」にある。その墓石の全面には「嗚呼慈侠 田中翁之墓」との文字が刻まれているが、これは島田三郎の直筆である。


島田宗三 明治?()年?月?日-昭和55(1980)年1月23日(90歳)
 田中正造の谷中村復活闘争の同伴者ともいわれ、著書に昭和9(1934)年に出版した「田中正造の歌と年譜」や昭和47(1972)年刊の「田中正造翁余録」がある。
 島田宗三は生前、「自分の生涯は、失敗と後悔の連続です。ただ、あの人(正造)に出会えたことだけが幸せでした」と常に語っていたと言う(同日付朝日新聞)。


庭田清四郎 明治?()年?月?日-明治?()年?月?日
 田中正造は、谷中村の土地強制買収を不服とする裁判などがあり精力的に演説などを行っていたが、自分の生命が病魔に冒されていることを知ると、大正2(1913)年7月、運動資金の援助要請の目的もあって古参の支援者らへの挨拶まわりに出かけた。
 その途上の8月2日、正造は佐野の津久居彦七宅から谷中へ帰る途中、雲龍寺を訪ねたが住職は不在、庭田源八家に回ったが源八・恒吉父子も留守のため、分家の庭田清四郎家に廻り縁先に倒れこんだ。駆けつけた妻カツや多くの支援者らに看取られ闘病34日目の9月4日、帰らぬ人となった。
庭田家(現当主・庭田隆二氏)では、今もなお正造が病臥した部屋を当時のまま保存し、正造を慕い訪ねる人を快く迎えている。


原 敬 安政3年2月9日(1856年3月15日)-大正10(1921)年11月4日
 原は、明治38年の古河鉱業設立一周年記念に副社長として出席した。その2年後、明治40(1907)年には、内務大臣に就任していた。
 この当時、谷中村遊水地化に反対し堤内に留まっていた残留民は、わずか16戸であったが、それに対し、ときの西園寺公望内閣は明治40年1月26日に、土地収用法の適用認定を公告した。この時担当の内務大臣が原敬である。谷中村を隣接の藤岡町に吸収合併させて、村を地図上から、更には公の資料から全て抹殺しようと謀ったのである。そして同年6月29日からの谷中残留民家屋の強制破壊に繋がっていった…。
 時は過ぎて、大正7(1918)年、原敬内閣が成立した。原は、旧幕時代の南部藩の家老の家に生まれていたが、華族でも藩閥出身者でもなかったことから「平民宰相」として、国民各層の人気を集めた。陸海軍大臣、外務大臣以外の全ての閣僚を自派閥である政友会出身者で占めた初めての本格的政党内閣が生まれた。こうした原の立身出世には常に古河の後ろ盾があったのかもしれない


船田小常 明治36(1903)年1月-昭和48(1973)年
 足尾鉱毒問題解決のために明治天皇に直訴した田中正造には、直訴の後、刑事の尾行が付いていたが「教育者の船田家に行くのなら大丈夫だろう」と刑事も追ってはこなかった。
 正造にとっては、船田家が数少ない安らぎの場所であり、船田家には「反逆者」とみられた人物を受入れる懐の深さがあった。
 小常は、幼少にあって、金に窮していた晩年の正造に抱かれ小遣い銭を貰う。恐らくこの事は小常が成長するまでに何度となく親から言われ、小常の生き方に大きく影響を与えたと思われる。


古河市兵衛 天保3年3月16日(1832年4月16日)-明治36(1903)年4月5日
 京都岡崎の造り酒屋の二男として出生。生家の事業不振のため11歳頃から丁稚奉公や行商に出された。18歳の頃、商人を志し伯父を頼って盛岡へ。
 27歳の時、京都井筒屋小野店の古河太郎左衛門の養子となり古河市兵衛と改名。ここで商才を発揮し、生糸輸出に手腕を振るい、その功績が認められ、明治2年に井筒本家から分家が許された。
 その後も生糸貿易で活躍していたが、岡田平蔵とともに鉱山経営にも乗り出した。明治7年に突然に井筒本家の破産があり独立したが、その後の生糸取引の失敗で、鉱山専業を決意する。
 明治10年、志賀直道を説いて半額の支援を得た市兵衛は、当時休山同様であった足尾銅山を48,380円で買取、陸奥宗光の協力や渋沢栄一の資金援助を得て開発にあたった。
 明治14年の鷹の巣直利、16年の備前舘山直下の大直利の発見は、足尾銅山発展の基礎となった。その後、新技術の導入、銅山の電気、道路整備など近代化を図り、明治20年には日本の銅生産量の40%を超えるなどして、市兵衛は銅山王の地位を得た。しかし、大規模な開発は、足尾鉱毒事件を引き起こしてしまい渡良瀬川流域に甚大な鉱毒被害を及ぼした。
 明治36年、市兵衛は72歳の生涯に幕を下ろした。


古河市兵衛夫人(タメ) 明治?()年-明治34(1901)年11月30日
 明治34年11月、鉱毒被害民救済の活動を開始した「鉱毒地救済婦人会」の会合に、古河市兵衛夫人・タメは、密かに女中を出席させた。テレビもラジオも無いこの時代、新聞の報道だけでは、夫人はちまたの運動の意味が全く理解できないでいたらしい。帰ってきた女中からの報告を聞き、初めて鉱毒被害の実態を知った婦人は、悲観して、その夜の明治34(1901)年11月30日神田橋から身を投げ入水自殺する。


三島通庸 天保6年6月1日(1835年6月26日)-明治21(1888)年10月23日
 田中正造が、栃木県会議員時代にぶつかった最も大きな問題は、三島通庸栃木県令との抗争である。
 三島は、鹿児島生まれで明治7(1874)年に酒田県令に就任したのを皮切りに、鶴岡県令、山形県令を経て、明治15年1月に福島県令を兼任した。ここで有名な福島・喜多方事件を起こして民権派を弾圧すると、その勢いをかって栃木県令を兼任したのである。
 三島は殖産興業の基本は道路にあるとして山形・福島・栃木の3県で総延長で約1,400kmにおよぶ道路を建設した。そのため三島のあだ名は「土木県令」であった。
 三島の道路建設の特徴は、沿道の住民に寄付と労力提供をなかば強制したことだろう。寄付金はあらかじめ予算化され割り当てられ、巨額の寄付金を負わされた人の場合は、一時銀行が全額を立替えて献金し、本人は後で銀行に払い込むという巧妙なものであった。こうした強引な手法が人々の怒りを招くことになり紛糾が絶えなかった。
 田中正造は、この三島に真向から対立し、三島の暴政についての証拠集めしながら政府関係者に訴えるなどしていた矢先に加波山事件が発生し、正造もこの事件に連座したと疑われ、3度目の投獄となった。


南挺三
 明治30年5月27日、明治政府(東京鉱山監督署長)は、足尾銅山に対し第2回目の鉱毒除外防止工事命令を出した。この工事は、東京鉱山監督署長であった南の目こぼしで期日内に達成。南は、のち古河に入社し重役(足尾鉱山所長)となった。


陸奥宗光 天保15年7月7日(1844年8月20日)-明治30年(1897年)8月24日
 明治24年12月、田中正造が初めて足尾鉱毒事件に関する国会質問を行った前年、渡良瀬川の洪水で水に浸った農地のあらゆる作物が壊滅的な被害を受けた。水は翌年になっても引かず、その年は一粒の米さえ実らなかった。
 農民たちの必死の訴えを国は一切無視した。時の農商務大臣・陸奥宗光の二男潤吉が古河市兵衛の娘婿養子となっていた。こともあろうに農民の利益を代表すべきはずの農商務大臣が、実は古河一族の身内だったのである。
 それにもまして、殖産興国の時代にあって、銅は絹と同じに外貨獲得の大切な資源として扱われ、その増産の為には一地域の農民の犠牲など取るに足らないことだったのかも知れない。


山川健次郎 嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日)-昭和6(1931)年6月26日
 田中正造の天皇直訴事件は、正造は狂人であるという誤った意識を世間に植え付けただけでなく、鉱毒救済運動については益々盛んとなったのである。
 その盛り上がりの中、時の文部大臣や東京府知事らが、この救済活動に学生らが参加するのは直接政府に関与する行為であるから全面禁止するとの方針を出した。それにもかかわらず帝大の山川健次郎総長は、これを是認した。
 最上級の知識人は鉱毒事件の本質を見抜いていたのである。


栃木県議会議長 明治?()年?月?日-明治?()年?月?日
   (工事中)


栃木県藤岡町の人々 明治?()年?月?日-明治?()年?月?日
   (工事中)


茨城県古河町長(鷹見銈吾) 明治?()年?月?日-明治?()月?日
 明治40年に谷中村残留民家16戸の強制破壊を強行するにあたり、栃木県から古河町(現茨城県古河市)に人夫の要請があったとき、当時の古河町長(鷹見銈吾)は、「古賀町からは一人といえども人夫を出さない。」と要請を拒否。更に町民に対しては「行きたい者は行ってもいい、しかし、二度と古河には帰ってこないように。」と言い切ったのである。
 当時、谷中村近辺の町村がどのように見ていたか伺うことができる……。