私の履歴書-黒沢酉蔵
【kawakiyoの解説】 この自叙伝は、昭和52年9月18日から同年10月13日まで、25回にわたって日本経済新聞の文化面に掲載されたものです。全25編の中から、田中正造に関する3編の文を以下に掲載します。 雪印乳業株式会社の創業者である黒沢酉蔵氏が、体験談を詳細にわたり記しているため史実を検証するのに大変参考になります。また、黒沢氏との交流を通して、田中正造の人格、人柄が偲ばれます。なお、本欄の公開にあたり快く資料提供をいただきました雪印乳業株式会社広報部様に感謝を申し上げます。 |
◆田中正造先生訪ねる-人生観決めた足尾鉱毒事件
人生には「出会い」というものがあって、それがその人間の一生を支配してしまうことがよくある。私もまた青春時代に、一つの偉大な人格に出会って、私の一生が決まってしまった。92歳の今日、しきりに思い出されるのは、やはりその偉大な人格のことである。その偉大な人格とは、公害問題の先覚者、田中正造先生である。
明治34年12月12日の朝、私は新聞の大活字によって、天下の耳目を聳動(しょうどう)させた大事件を知った。
12月10日午前11時すぎ、代議士田中正造が、栃木県足尾銅山から流出する鉱毒に苦しめられている被害農民救済のため、単身、天皇陛下の馬車に駆け寄り、直訴に及んだのである。新聞は、この事件を大々的に取り上げ、直訴状の全文を掲載した。
当時、私は数えで17歳、知人の松本氏の家に書生として住み込み、東京・文京区にある京北中学へ通う一苦学生の身であった。
「世の中にはエライ人がいるもんだなァ」
私は身ぶるいするほどの感動をもって新聞をむさぼり読んだ。もともと私は、茨城県の農村に生い立ち貧しい農民の生活は身にしみるほど知っている。
「田中先生は、その苦しい農民のために身を捨てようとされている」
これがじっとしておられようか。幸い直訴は陛下のご意向によって穏便に済まされ、田中先生はなんのとがめもなく釈放された。
「是非、田中先生に会いたい」…矢も盾もたまらぬ気持ちで、芝口2丁目の越中屋に田中先生を訪ねた。
行ってみれば、越中屋は行商人の泊まるような3等旅館である。とうてい天下の代議士が泊まるような宿ではない。そのことにまずビックリしたが、そのうえ紹介状とてない一少年の私に田中先生は快く会って下さった。
「ヤァ、よく来ましたね、どうぞお上がりください」…色白で、好々爺然としており、温顔まことに慈父のような印象である。議会で論客相手に迫ったあの烈々たる気迫なぞみじんも感じさせない。そうして、小僧の私の質問に対して、事件の真相や経緯などを丁寧に理路整然と話して下さった。そのうえ言外にあるのは、1歩も退かない正義感と切々たる人間愛であった。
私はなぜか、この人の前にひれ伏して合掌したいような気持ちになった。説明の不可解な「出会い」の一瞬というべきであろうか。
田中先生の直訴事件は、世間の中、特に学生間に衝撃波のように広がっていった。やがて、内村鑑三氏を団長とする「災害地学生視察団」が組織され、現地へ向かうことになり、東京都内をはじめ十指に余る学校から有志がぞくぞくと集まった。12月27日出発。私もその団に加わった。約1,500人ほどの大視察団である。
栃木県の谷中村、群馬県の海老瀬村など被害の顕著な渡良瀬川沿岸の村々を回り、演説会を開いて団はその日のうちに東京へ帰った。なるほど百聞は一見にしかず。田畑のあちこちに、上流から流れてきた鉱毒の混じった泥をかき集めて塚にしたものが累々とある。土地の人はこれを「毒塚」と呼んでいた。その名の通り、塚には緑青がうき上がって、みるからに毒々しい感じである。
ある竹ヤブに行ったらば、太い竹がスポンスポンと簡単に抜ける。鉱毒のためだ。これでは、とうてい作物なぞ育つはずがない。
累々たる毒塚の一つに、団長の内村鑑三氏は駆け上がって1,500人を相手に一流の弁舌で演説した。どのような内容だったか記憶にないが、聴衆に感銘を与えたことだけは確かだった。内村氏はその後、万朝報に「鉱毒地巡礼記」を連載した。
私は、もう一人の学生と団を離れて居残り、さらに渡良瀬川を、藤岡、足利、桐生と上流へたどった。5日間の旅であった。被害状況はどこも同じようなものであったが、私は鉱毒のひどさをより深く知ることが出来た。田中先生の「まず現地をしっかりつかんで来なさい」のお言葉を実行したわけである。
◆青年行動隊を組織化-「家宅侵入罪」で逮捕される
明治35年正月、足尾銅山の鉱毒視察から東京へ帰って「学生鉱毒救済会」というものがつくられた。東京中で街頭報告会をやり、義捐(ぎえん)金品などを募ったわけだが、寒い冬季にもかかわらず熱心な聴衆が集まリ、着物、米、金などがどしどし寄せられた。それらの会で活躍した人々に、内村鑑三、木下尚江、河上肇、永井柳太郎氏らがいる。
ところが、文部大臣から救済運動は政治運動であるから学生は中止せよ、との命令が出され、この運動も1人減リ、2人減リして、ついにはしりすぼみになった。
私は田中正造先生に相談した。先生は「被害地の人にとって、鉱毒問題は自分たちの問題になる。そこらの青年たちはどう思っているのだろうか。なかなかそう思う青年はいないがね」とおっしゃる。これは、現地へ行って青年たちの中へ入り込め、というナゾであると私は判断した。
私は茨城県、水戸光圀公の「西山荘」の近くで育ち、水戸学の「知行合一」の思想を教えられていた。「知行合一」とは、考えたことは必ず実行するという思想である。田中先生の行動の基本も、この「知行合一」であった。
そう思い当たるや、私は学業なぞかなぐリ捨ててミノ笠、ワラジばきで現地へ行った。身体は小さいが、足はすこぶる速い。1日に20里(約80km)ぐらいは平気で歩けた。私は精力的に鉱毒の村々を駆け回り、まず「青年行動隊」の組織を目論んだ。
方々で集会を開き、路上で演説会を催し、中央から名士を招いて現地の有志と懇談する。その間、私は路傍のススキをしとねに野営したこともしばしばであった。そのうち、おおむね、村々の革新的な中堅青年たちと同志になることが出来た。
いずれも、24、25歳あるいはそれ以上なのに10(数えで18歳)の私が中心的に動くのだから妙だといえば妙だったかも知れない。 それら青年行動隊の中で、最も活発、理想的に発展したのが「利島村相愛会」であった。
利島村は、埼玉県下であったが、隣の川辺村とともに、やはり鉱毒の被害地であり、のちに遊水池化計画によって、廃村寸前まで行ったが、彼らの熱心で激しい活躍によってそれを阻止したものである。
相愛会の中心的人物は、山岸直吉、柴田健助、飯塚伊平、石井清蔵、荻原拓次郎氏らであり、飯塚、石井同志らとは、一緒に東京へ陳情に赴き、一夜、警察の留置場に泊められるというエピソードもあった。
こうした活動により、私はいつのまにか「小田中」と呼ばれるようになっていた。そうなると当然、官憲から危険人物として目を付けられる。栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県と歩くたびに、その先々の巡査が尾行する。それぞれ管轄が違うのだから、彼らは、私の行きつ戻りつに合わせてバトンタッチでもしていたのだろうか。思えば苦笑を禁じ得ない。
ところが、明治35年3月5日、私は群馬県館林の警察に逮捕された。容疑は「家宅侵入罪」であった。
鉱毒被害のひどい海老獺村の有力者S氏が鉱毒反対運動に水を差し「反対するより足尾と示談した方が得だ」と説き回っているという。それを聞き及んで私は、S氏宅を訪ねた。翻意させようと思ったのだ。それが待ってましたと「家宅侵入罪」になったのだった。
放り込まれたのは、前橋監獄。たった一畳半の独房に入れられ、くる日もくる日もしんねりむっつりのつらい試練であった。しかし、その生活で私は2人の優れた人物と知り合うことが出来た。
一人は、今村力三郎弁護士。当時、花井卓蔵弁護士と双璧をうたわれた名弁護士であった。しかも、金銭で左右されない清廉潔白な人格者でもある。
「黒沢君、弁護は引き受けたから安心して入っていなさい」…しばしば面会に来ては私を力づけてくれた。
もう一人は、婦人矯風会の副会頭、潮田千勢子さんである。婦人矯風会は、キリスト教を指導原理にした団体で、鉱毒被害者救済の運動にも力を注いでいた。そんな関係で、潮田さんは私に一冊の聖書を差し入れてくれた。この聖書によって私は初めてキリスト教を知り、のちにキリスト教に深く帰依するようになった。監獄生活が逆に私に一生の救いをもたらしたことになる。
今村弁護士らの努力で、一審無罪、検事控訴による二審も無罪であった。
結局、未決拘留6ヶ月の後、私は前橋監獄を出た。
◆京北中学を無事卒業-篤志家から月々10円の学費
明治35年秋、私は前橋監獄を出所したが、このくらいの試練でへこたれるものではない。田中正造先生に命を傾け、鉱毒被害者救済運動にいっそう身を入れた。
しかし、田中先生は、学業半ばで運動に没頭する私の将来を心配され、36年暮れ「ここらで学校へ戻って正式の勉強をしなさい」と言われた。そうして月々10円の学費を送って下さった。
この学費は、田中先生直接からではなく、今村弁護士の手を通じて私のもとに届けられていたが、私はてっきリ田中先生から出ているものと思っていた。従って、田中先生のさして潤沢でもない資力の中から割いて下さるのだから、私は「ありがたい」「もったいない」を通り越してむしろ受け取るのがなんとも苦痛で、いつも「もうお断りしよう、お断りしよう」と思い続けていた。しかし、私もまた貧乏苦学生、ついついそれに甘えていた。
ところが、戦後の昭和36年、ひょっとしたことで、この学費の出資先がわかった。栃木県の蓼沼丈吉さんという篤志家がその出資先で、蓼沼さんにあてた田中先生の手紙が発見されていきさつが判明した。
書簡は何通もあるが、その大要を記すと、まず、原田定助さんという人を介して、蓼沼さんに私のことを紹介し、学業の援助を願っている。
「…茨城県人黒沢酉蔵氏、将来の学業奨励に付御相談申上候」とあり、私の鉱毒救済の運動の仕方、前橋監獄に入れられたことなど履歴を述べ、
「同人の精神は、正造遠く及ばざる点多く、気力また及ばざる点多し。勉強また及ばざる点多く候。同人は第一正直にして一言発せば皆之を実行するの気象あり。概して正造の遠く及ばざる人に候。正造の事すべて貴下の知る所なり。正造は若き時は、少しく山気あリ、全身誠実というべからず。黒沢氏は毫末の山気なきのみならず、非常に堅固謙遜の人に候、正造より見れば欠点すこぶる少し」
たいへんなほめ上げ方で、少々照れくさいが、私は蓼沼さんという隠れた育英家に改めて感謝するとともに、田中先生の真情にも触れ得て、しばし涙滂沱(ぼうだ)であった。
さらに、田中先生が今村さんの手を通じて学費を渡されていたいきさつも、自分は老齢でもあり、万一の時のことを考えて、若い今村さんに頼んでおけば、のちも黒沢を助けてくれるであろうという深慮からであったという。まことになんとも深い深いお方である。
おかげで私は、明治38年3月、京北中学を無事卒業することが出来た。
太平洋戦争後、幾星霜かが過ぎ、昭和34年秋、私はたまたま鉱毒問題思い出の利根川の堤防に立った。
それ以前、26年10月、財団法人組織の「田中正造記念会」が設立され、佐野市春日岡山総宗寺境内の田中翁墓前で報告祭が行われた。
「…20年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦、満目惨怛の荒野となれり」という田中先生の直訴文を引用してあいさつしたが、それから8年後、堰堤に立ったとき、はるかに見渡す旧谷中村の遊水池を望見し、まさに「黄茅白葦、満目惨怛の荒野」の思いをまた新たにした。そうして、先生持論の国土第一主義の言葉を思い出したものである。
「国家の本はいうまでもなく国土である。国土は尚ぶべく愛すべく、また培わなければならない。従って国土の上に行われる農業は国の本である。ところが科学の進歩により工業が重視せられ、農業を凌ぎ、これを踏みつけにするようになってきた。まことに富国強兵に忠なるあまり……(鉱業の)害毒が国土を侵し、人命を脅かしているにかかわらず、国の政治がこれを是正し禁止しないばかりか、反って奨励を行い、あるいはこれを援助している。全く本末の転倒もはなはだしく亡国の徴といわねばならない……」
そのうえ、日露戦争の戦勝に酔いしれている時代に、剣による者は剣によって滅ぶと断じ、軍閥亡国論を説き、全世界の軍備撤廃を叫んだ。全く素晴らしい卓見と勇気である。
明治38年、私は北海道に渡って一牧夫となり、友人とともに現在の雪印乳業を興したわけだが、常に心の中には田中先生の国土第一主義に共鳴していた。私のいう「健土建民」(健やかな土地に健やかな民族がある)は、先生の持論を受け継いたものであり、私はこれを事業の信念としてきた。今日もまたその信念に毫の変わりもない。
黒沢酉蔵(92歳) |
明治34年12月12日の朝、私は新聞の大活字によって、天下の耳目を聳動(しょうどう)させた大事件を知った。
12月10日午前11時すぎ、代議士田中正造が、栃木県足尾銅山から流出する鉱毒に苦しめられている被害農民救済のため、単身、天皇陛下の馬車に駆け寄り、直訴に及んだのである。新聞は、この事件を大々的に取り上げ、直訴状の全文を掲載した。
当時、私は数えで17歳、知人の松本氏の家に書生として住み込み、東京・文京区にある京北中学へ通う一苦学生の身であった。
「世の中にはエライ人がいるもんだなァ」
私は身ぶるいするほどの感動をもって新聞をむさぼり読んだ。もともと私は、茨城県の農村に生い立ち貧しい農民の生活は身にしみるほど知っている。
「田中先生は、その苦しい農民のために身を捨てようとされている」
これがじっとしておられようか。幸い直訴は陛下のご意向によって穏便に済まされ、田中先生はなんのとがめもなく釈放された。
「是非、田中先生に会いたい」…矢も盾もたまらぬ気持ちで、芝口2丁目の越中屋に田中先生を訪ねた。
行ってみれば、越中屋は行商人の泊まるような3等旅館である。とうてい天下の代議士が泊まるような宿ではない。そのことにまずビックリしたが、そのうえ紹介状とてない一少年の私に田中先生は快く会って下さった。
「ヤァ、よく来ましたね、どうぞお上がりください」…色白で、好々爺然としており、温顔まことに慈父のような印象である。議会で論客相手に迫ったあの烈々たる気迫なぞみじんも感じさせない。そうして、小僧の私の質問に対して、事件の真相や経緯などを丁寧に理路整然と話して下さった。そのうえ言外にあるのは、1歩も退かない正義感と切々たる人間愛であった。
私はなぜか、この人の前にひれ伏して合掌したいような気持ちになった。説明の不可解な「出会い」の一瞬というべきであろうか。
田中先生の直訴事件は、世間の中、特に学生間に衝撃波のように広がっていった。やがて、内村鑑三氏を団長とする「災害地学生視察団」が組織され、現地へ向かうことになり、東京都内をはじめ十指に余る学校から有志がぞくぞくと集まった。12月27日出発。私もその団に加わった。約1,500人ほどの大視察団である。
栃木県の谷中村、群馬県の海老瀬村など被害の顕著な渡良瀬川沿岸の村々を回り、演説会を開いて団はその日のうちに東京へ帰った。なるほど百聞は一見にしかず。田畑のあちこちに、上流から流れてきた鉱毒の混じった泥をかき集めて塚にしたものが累々とある。土地の人はこれを「毒塚」と呼んでいた。その名の通り、塚には緑青がうき上がって、みるからに毒々しい感じである。
ある竹ヤブに行ったらば、太い竹がスポンスポンと簡単に抜ける。鉱毒のためだ。これでは、とうてい作物なぞ育つはずがない。
累々たる毒塚の一つに、団長の内村鑑三氏は駆け上がって1,500人を相手に一流の弁舌で演説した。どのような内容だったか記憶にないが、聴衆に感銘を与えたことだけは確かだった。内村氏はその後、万朝報に「鉱毒地巡礼記」を連載した。
私は、もう一人の学生と団を離れて居残り、さらに渡良瀬川を、藤岡、足利、桐生と上流へたどった。5日間の旅であった。被害状況はどこも同じようなものであったが、私は鉱毒のひどさをより深く知ることが出来た。田中先生の「まず現地をしっかりつかんで来なさい」のお言葉を実行したわけである。
◆青年行動隊を組織化-「家宅侵入罪」で逮捕される
明治35年正月、足尾銅山の鉱毒視察から東京へ帰って「学生鉱毒救済会」というものがつくられた。東京中で街頭報告会をやり、義捐(ぎえん)金品などを募ったわけだが、寒い冬季にもかかわらず熱心な聴衆が集まリ、着物、米、金などがどしどし寄せられた。それらの会で活躍した人々に、内村鑑三、木下尚江、河上肇、永井柳太郎氏らがいる。
ところが、文部大臣から救済運動は政治運動であるから学生は中止せよ、との命令が出され、この運動も1人減リ、2人減リして、ついにはしりすぼみになった。
私は田中正造先生に相談した。先生は「被害地の人にとって、鉱毒問題は自分たちの問題になる。そこらの青年たちはどう思っているのだろうか。なかなかそう思う青年はいないがね」とおっしゃる。これは、現地へ行って青年たちの中へ入り込め、というナゾであると私は判断した。
私は茨城県、水戸光圀公の「西山荘」の近くで育ち、水戸学の「知行合一」の思想を教えられていた。「知行合一」とは、考えたことは必ず実行するという思想である。田中先生の行動の基本も、この「知行合一」であった。
そう思い当たるや、私は学業なぞかなぐリ捨ててミノ笠、ワラジばきで現地へ行った。身体は小さいが、足はすこぶる速い。1日に20里(約80km)ぐらいは平気で歩けた。私は精力的に鉱毒の村々を駆け回り、まず「青年行動隊」の組織を目論んだ。
田中霊祠にて、田中翁の肖像画と当時の 親交者たち(左端が黒沢酉蔵;昭和35年) |
いずれも、24、25歳あるいはそれ以上なのに10(数えで18歳)の私が中心的に動くのだから妙だといえば妙だったかも知れない。 それら青年行動隊の中で、最も活発、理想的に発展したのが「利島村相愛会」であった。
利島村は、埼玉県下であったが、隣の川辺村とともに、やはり鉱毒の被害地であり、のちに遊水池化計画によって、廃村寸前まで行ったが、彼らの熱心で激しい活躍によってそれを阻止したものである。
相愛会の中心的人物は、山岸直吉、柴田健助、飯塚伊平、石井清蔵、荻原拓次郎氏らであり、飯塚、石井同志らとは、一緒に東京へ陳情に赴き、一夜、警察の留置場に泊められるというエピソードもあった。
こうした活動により、私はいつのまにか「小田中」と呼ばれるようになっていた。そうなると当然、官憲から危険人物として目を付けられる。栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県と歩くたびに、その先々の巡査が尾行する。それぞれ管轄が違うのだから、彼らは、私の行きつ戻りつに合わせてバトンタッチでもしていたのだろうか。思えば苦笑を禁じ得ない。
ところが、明治35年3月5日、私は群馬県館林の警察に逮捕された。容疑は「家宅侵入罪」であった。
鉱毒被害のひどい海老獺村の有力者S氏が鉱毒反対運動に水を差し「反対するより足尾と示談した方が得だ」と説き回っているという。それを聞き及んで私は、S氏宅を訪ねた。翻意させようと思ったのだ。それが待ってましたと「家宅侵入罪」になったのだった。
放り込まれたのは、前橋監獄。たった一畳半の独房に入れられ、くる日もくる日もしんねりむっつりのつらい試練であった。しかし、その生活で私は2人の優れた人物と知り合うことが出来た。
一人は、今村力三郎弁護士。当時、花井卓蔵弁護士と双璧をうたわれた名弁護士であった。しかも、金銭で左右されない清廉潔白な人格者でもある。
「黒沢君、弁護は引き受けたから安心して入っていなさい」…しばしば面会に来ては私を力づけてくれた。
もう一人は、婦人矯風会の副会頭、潮田千勢子さんである。婦人矯風会は、キリスト教を指導原理にした団体で、鉱毒被害者救済の運動にも力を注いでいた。そんな関係で、潮田さんは私に一冊の聖書を差し入れてくれた。この聖書によって私は初めてキリスト教を知り、のちにキリスト教に深く帰依するようになった。監獄生活が逆に私に一生の救いをもたらしたことになる。
今村弁護士らの努力で、一審無罪、検事控訴による二審も無罪であった。
結局、未決拘留6ヶ月の後、私は前橋監獄を出た。
◆京北中学を無事卒業-篤志家から月々10円の学費
明治35年秋、私は前橋監獄を出所したが、このくらいの試練でへこたれるものではない。田中正造先生に命を傾け、鉱毒被害者救済運動にいっそう身を入れた。
しかし、田中先生は、学業半ばで運動に没頭する私の将来を心配され、36年暮れ「ここらで学校へ戻って正式の勉強をしなさい」と言われた。そうして月々10円の学費を送って下さった。
この学費は、田中先生直接からではなく、今村弁護士の手を通じて私のもとに届けられていたが、私はてっきリ田中先生から出ているものと思っていた。従って、田中先生のさして潤沢でもない資力の中から割いて下さるのだから、私は「ありがたい」「もったいない」を通り越してむしろ受け取るのがなんとも苦痛で、いつも「もうお断りしよう、お断りしよう」と思い続けていた。しかし、私もまた貧乏苦学生、ついついそれに甘えていた。
ところが、戦後の昭和36年、ひょっとしたことで、この学費の出資先がわかった。栃木県の蓼沼丈吉さんという篤志家がその出資先で、蓼沼さんにあてた田中先生の手紙が発見されていきさつが判明した。
書簡は何通もあるが、その大要を記すと、まず、原田定助さんという人を介して、蓼沼さんに私のことを紹介し、学業の援助を願っている。
「…茨城県人黒沢酉蔵氏、将来の学業奨励に付御相談申上候」とあり、私の鉱毒救済の運動の仕方、前橋監獄に入れられたことなど履歴を述べ、
「同人の精神は、正造遠く及ばざる点多く、気力また及ばざる点多し。勉強また及ばざる点多く候。同人は第一正直にして一言発せば皆之を実行するの気象あり。概して正造の遠く及ばざる人に候。正造の事すべて貴下の知る所なり。正造は若き時は、少しく山気あリ、全身誠実というべからず。黒沢氏は毫末の山気なきのみならず、非常に堅固謙遜の人に候、正造より見れば欠点すこぶる少し」
たいへんなほめ上げ方で、少々照れくさいが、私は蓼沼さんという隠れた育英家に改めて感謝するとともに、田中先生の真情にも触れ得て、しばし涙滂沱(ぼうだ)であった。
さらに、田中先生が今村さんの手を通じて学費を渡されていたいきさつも、自分は老齢でもあり、万一の時のことを考えて、若い今村さんに頼んでおけば、のちも黒沢を助けてくれるであろうという深慮からであったという。まことになんとも深い深いお方である。
おかげで私は、明治38年3月、京北中学を無事卒業することが出来た。
太平洋戦争後、幾星霜かが過ぎ、昭和34年秋、私はたまたま鉱毒問題思い出の利根川の堤防に立った。
それ以前、26年10月、財団法人組織の「田中正造記念会」が設立され、佐野市春日岡山総宗寺境内の田中翁墓前で報告祭が行われた。
「…20年前の肥田沃土は今や化して黄茅白葦、満目惨怛の荒野となれり」という田中先生の直訴文を引用してあいさつしたが、それから8年後、堰堤に立ったとき、はるかに見渡す旧谷中村の遊水池を望見し、まさに「黄茅白葦、満目惨怛の荒野」の思いをまた新たにした。そうして、先生持論の国土第一主義の言葉を思い出したものである。
「国家の本はいうまでもなく国土である。国土は尚ぶべく愛すべく、また培わなければならない。従って国土の上に行われる農業は国の本である。ところが科学の進歩により工業が重視せられ、農業を凌ぎ、これを踏みつけにするようになってきた。まことに富国強兵に忠なるあまり……(鉱業の)害毒が国土を侵し、人命を脅かしているにかかわらず、国の政治がこれを是正し禁止しないばかりか、反って奨励を行い、あるいはこれを援助している。全く本末の転倒もはなはだしく亡国の徴といわねばならない……」
そのうえ、日露戦争の戦勝に酔いしれている時代に、剣による者は剣によって滅ぶと断じ、軍閥亡国論を説き、全世界の軍備撤廃を叫んだ。全く素晴らしい卓見と勇気である。
明治38年、私は北海道に渡って一牧夫となり、友人とともに現在の雪印乳業を興したわけだが、常に心の中には田中先生の国土第一主義に共鳴していた。私のいう「健土建民」(健やかな土地に健やかな民族がある)は、先生の持論を受け継いたものであり、私はこれを事業の信念としてきた。今日もまたその信念に毫の変わりもない。