佐野が生んだ偉人  その行動と思想
船田小常と田中正造
【kawakiyoの解説】
 この記事は、平成12年10月22日号、下野新聞の「とちぎ20世紀」に掲載されたものの中から、田中正造に関わる部分を要約したものです。田中正造が栃木県屈指の教育一家「船田家」に関わっていたことなど全く知らなかったkawakiyoとしては、本当に驚いています。正造が船田家と関わりをもったのは正造が県会議員をしていた頃ではないでしょうか。

小常という人
船田小常
 船田小常は津田英学塾(現津田塾大)卒。夫は「文芸春秋」初代編集局長で作新学院図書館長となる斎藤龍太郎。同誌をめぐる文土の間で「美貌の才媛」として人気が高かった。昭和2(1927)年7月、芥川龍之介(35)は雑談相手の小常(24)に「人間35、6歳で死ぬのが一番いいようだね」と話し、灰皿をプレゼントした。自殺する5日前のことだったという。
 作新学院の名を全国に知らしめた昭和37(1962)年の高校野球の甲子園春夏連覇「陰の功労者は小常だった」といわれる。当時のある野球部員は、「部員のスタミナ源は小常先生が自宅でごちそうしてくれる料理。『おい○○、頑張ってるか』って、厳しい練習に耐える部員一人ひとりに声を掛けてくれた。就職後も仕事のことまで心配してくれたんです」と話す。
田中正造との関わり
 小常は明治36(1903)年1月、作新学院の創設者、船田兵吾とキミ夫妻の長女として生まれた。幼少期には、こんなエピソードが残っている。
 小常が自宅2階の書斎に行くと、髪を束ねた「田中のおじいさま」が座っていた。「嬢か。どれくらい重くなったか、じいに抱かってみてごらん」。女性のように柔らかい両手の感触が伝わる。
 「きょう、じいはお金持ちだから、嬢に1円あげるよ」。後を追って来た母が「駄目じゃありませんか、先生は。なぜ、こんな子供相手に無駄なお金をお使いになるのですか」と、たしなめる。「田中のおじいさま」は、「ごめん、ごめん。今度だけだよ」と謝った。
 この人こそ、足尾鉱毒問題解決のために明治天皇に直訴した田中正造だった。直訴事件の後、正造には刑事の尾行が付いていたが、「教育者の船田家に行くなら大丈夫だろう」と、刑事も追ってはこなかった。
 正造にとっては船田家が数少ない安らぎの場所であり、船田家には「反逆者」とみられた人物を受け入れる懐の深さがあった。
 金に窮していた晩年の正造からもらった温かい小遣い銭。後に作新学院で部活動の生徒を自宅に呼び、食事を振る舞って激励した小常の原点が、そこにあった。
作新学院の礎築いた「母」小常
 「王国」と呼ばれる船田家の基盤は、作新学院での私学教育。小常は、歯に衣着せぬ直言と行動力で学院を発展させていった。
 昭和16(1941)年4月。38歳の小常は、中とともに宇都宮市清水町(当時)に作新館高等女学校を設立した。しかし、昭和20年(1945)年7月の宇都宮空襲で焼失。髪が真っ白くなるほどショックを受けた小常だが、ここから小常の「戦後復興」が始まった。
 小常は進駐軍に接収された第14師団の敷地に着目。市内の私学の代表として、得意の英語で臆せず進駐軍と用地交渉に当たり、現在の同市一の沢の広大な学校敷地の確保に成功した。
 1947年には作新館高女と下野中学が合併して高・中等部を持つ作新学院となり、小常は副院長に就任。代議士で院長だった次兄・享二(故人)に代わって学院運営の先頭に立った。理容美容専門学院、幼稚園、小学部、女子短大と学院を拡大させたのも、小常の発案だった。
 「政界に出れば大政治家」とも評された小常だが、兄たちを支えるために「自分の役割は学院を守ること」とわきまえていた。
 作新学院は一校一家」の校風が伝統。「小常先生は、まさにそれを体現していた。学院の母だった」。同学院高等部女子部長が振り返る。
 「病気や事故に遭った生徒がいると、必ず自宅まで行って見舞う。保護者に不幸があれば、葬儀に参列して生徒と一緒に悲しみ、励ます。言葉はきついが、繊細で人間味のある人だった。『私学なんだから生徒あっての先生なのよ』。そう言われたのを覚えています」一方で小常は「船田一家」の中では「怖い人」でもあった。県知事を務めた中の長男・譲(故人)は、小常から自宅に電話があると、 緊張して受話器を持ちながら硬直していたという。
 小常の没後、後継の学院長に就任した譲は、追悼文の中で小常を「教祖的カリスマ」と表現し、「小常先生が横紙やぶりの活動を続けてきたことが、特長ある作新学院の校風をはぐくんできた。今この強烈な個性を失って、私たちの作新学院が個性喪失の無気力な模範生教育に陥らないことを十分戒心したい」と学院運営の心構えを述べた。
 

船田家の人々(政界に君臨 4大臣と知事排出)

船田兵吾
1868~1924
栃木県梁田郡上渋垂村(現足利市)出身、作新学院創設者
初代作新学院長
船田 中
1895~1979
衆院議長(2度)、元自民党副総裁、2代作新学院長
船田亨二
1898~1970
元賠償長、行政管理庁長官、3代作新学院長
船田小常
1903~1973
下野小学(作新学院の前身)初の女性教師、4代作新学院長
斎藤龍太郎
1896~1970
「文芸春秋」初代編集局長、元作新学院図書館長
藤枝泉介
1907~1971
元自治相、元衆院副議長
船田 譲
1923~1985
元参院議員、元栃木県知事、5代作新学院長
船田昌子
6代作新学院長
船田 元
1953~  
元経済企画庁長官、7代作新学院長、現衆議院議員