佐野が生んだ偉人  その行動と思想
正造の天皇直訴に関する事実

 これは、平成12(2000)年5月15日に宇都宮市で開催された文芸講座「文学にみる田中正造-その思想と行動をさぐる」の講演会で渡良瀬川研究会代表幹事の布川了さんが話して下さった中から「直訴に関する事実」を要約して掲載しました。

◆ 布川了さんの講演から
 直訴については、昔から木下尚江の説が通説であったんですが、その後、東海林さんが調べ、「それは違う。正造の個人プレーではない。用意周到に前から練り上げていた共同謀議だ。参画したのは、石川半山と幸徳秋水だ。石川半山の日記にもちゃんと書いてある」と言っています。東大法学部に半山日記があるんです。ただ、半山日記を読んでも、頭の中に木下尚江の「正造直訴」が入っていると、あっと思って読んでも、通過してしまう。だから、「これは本当かな、嘘かな」と改める見方で読まないと、せっかくの貴重な資料も眠ってしまう。
 ただ、東海林さんもちょっと勇み足がありました。直訴の後、半山と秋水と正造が総括会議をやったと書いてある。しかし、これは違うんですね。その違いを後閑さんが実によく読んで、半山日記にはこう書かれているので、東海林さんの読み取りが違うのだという。でも、後閑さんの説にも部分的な間違いはある。

 幸徳秋水の妻の師岡千代子が戦後、当時の回想録『風々雨々』を書いています。その中で、田中さんが幸徳家に来たのは、12月9日の昼間だと。秋水とひそひそ話しをしているうちに、秋水に呼ばれ、「奉書を買って来い。田中さんの乗ってきた人力車でお前が行って来い。女中では駄目だ」と言明された。それで、新橋へ奉書という立派な紙を買ってきたら、田中さんがご苦労さまと言ったので、これは田中さんが使うのだなと思っていた。翌日の10日になって、家へ刑事が何度も訪ねて来るので、何だろうと思い、秋水がいる中江兆民の家に行った。中江はまさに臨終の前で、その枕元へ千代子が行って、「何度も警察が来るけど、どうしたらいい。」と聞くと、「それはおれが正造の直訴状を書いたからだ」と秋水は言う。その時は既に直訴したことが知られていましたからね。千代子は、私が昨日買ってきた紙を使ったんだと、背筋がゾクゾクしたと書いてある。したがって、10日が直訴なら、9日の昼間である。

 しかし、木下の話、つまり、幸徳の話だと、「実は12月9日の深夜に田中がやってきた。それで、明日、直訴をする。失礼があるといけないので、あんたが書いてくれと無理やり頼まれた。」となっている。「気は進まないが、老人が命がけでやろうすることを断るわけにはいかない」と言って、木下を説得するんです。木下にすれば、「直訴なんて、社会主義者のやることではない。天皇にすがるなんて、 けしからん。」と腹が立ったのですね。それに対し、幸徳が取り繕って話をする。そして、徹夜で書いて、朝に届けた。それを田中は黙って懐に入れ、人力車で出ていった。これが今生の別れだと思ったのでしょう。田中は直訴状を持って、天皇御付きの護衛に突き殺される。それを願っていたわけです。

 ところが、不幸なことに田中は生きてしまった。殺されれば、効果は絶大なものがあったのです。ところが、護衛の曹長が馬を急転回させたから、転んでしまった。それで、助かってしまう。助かってしまえば、直訴状も取り上げられ、うやむやにされる。田中は気が違って、天皇に何かしようとした。それで、終わりにされてしまう。田中が殺されれば、写しを持っていた秋水が発表する段取りだったのだと思うのです。ところが、正造は生きてしまった。それじゃあ、どうするかと慌てて、取り繕う形で「実は、夜中に来たんだ」と話をしているんです。

 それを師岡千代子が知っていたかどうか。「昼間に来た。」とは書いてあるが、夜に来たとは書いていない。仮に深夜に来たとしたら、千代子は知らずに寝たままで過ごせるだろうか。今だって、深夜に誰か来れば、何で今頃と言いながらも、夫だけ起きて応対することはないでしょう。妻も起きて、お茶ぐらいは出すと思うんです。まして、明治ですからね。だが、ずっと昔の記憶を戦後に書いているから、 千代子の記憶違いだと最近の研究者は言っている。しかし、千代子にすれば、「間違いはない。12月9日に書いたのだ。」と。確かに書いているのです。しかし、その奉書を使ったのではない。佐野市郷土博物館には、正造の使った直訴状がちゃんとあります。半紙6枚を綴った表書きに「謹奏」と書いてあります。今はつながっていて1枚になっていますが、6枚綴りの半紙なんです。

 調べてみると、幸徳秋水は11月12日に書いている。佐野の郷土博物館の直訴状はみんなそうですが、秋水が書き、正造がメッタメタに直して判子を押してある。そういう珍しいものです。私がうっかりしていたのは、日付が明治34年12月で止まっていて、日が書いていない。普通、公的な文書なら、12月10日と入るでしょう。ところが、10日と書いていない。随分前に宇大の先生と学生が来た時に説明したら、宇大の先生から「何で、日が入っていないのだ」と言われ、あっと思い、返事ができなかったのです。

 それでわかったのが、実は11月12日に書いたのです。12月の帝国議会開院式は、秋水が11月12日に書いた時にはわかっていない。だから、12月で止めておいた。11月12日に書いたのが間違いないのは、幸徳秋水の自筆の年譜の中に、「11月12日に田中正造の直訴状を草す」と書いてあるんです。千代子の方は、秋水が自分で書いたのは間違いないけれど、私が買ってこいと言われたのは12月9日だ。こちらも、間違いない。こう言うわけです。
 それじゃあ、真実はどうかと言えば、簡単なんです。12月9日に書いた奉書は、秋水が新聞発表用にとっておいた控えです。正造が実際に使ったのは、11月12日に半紙に書いたもので、それが今もあるのです。そうなると、はっきりします。秋水は11月に書いたものを12月に体裁を整えています。その間、正造に文句を言われ、直せと言われたが、直さなかった。それなので、正造はこんなものは使えないと、最初に書いた下書きにいっぱい書きこみ、天皇にぶつけるわけです。

 一番肝心な部分は、秋水は「足尾銅山を止めろ」とは書いていない。しかし、被害民と正造の10年からの大運動は、鉱業停止です。秋水の直訴文は、単に「鉱毒が流れないようにしてくれ」なんです。だから、それでは駄目だと、正造はきちんと「加毒の鉱業を止め」と書きこみ、天皇に迫った。ところが、新聞発表は秋水の方が先に出ますから、新聞の方を使うと正造の本当の直訴の願いが抜けてしまうところがあります。だから、どれでもいい訳ではない。しかし、荒畑寒村の『谷中村滅亡史』は、新聞を使っています。「加毒の鉱業を止め」が入っていない。

【kawakiyoのツブヤキ】
 う~ん!さすが布川さんですね。自由民権家としての田中正造と社会主義者の木下尚江・幸徳秋水の心理的な駆け引きをよく掴んでいますね。掴んでいるというより調べ上げたというほうが良いのかな。確かにそうだろうな…。現代と違って、当時の時代を生きる人物なら、一見歩みよった風に見えても、基本的には全く違うだろうからなあ…。う~ん!なるほどなぁ~