天皇への直訴(上訴)
 明治34年12月10日、第16議会開院式から帰る途中の天皇に、鉱毒事件の解決を訴えるため直訴を決行した。しかし、警護けいご騎兵きへいがこれをさえぎろうと落馬らくばし、正造も転び警官にとりおさえられ果たせなかった。このときの様子が翌日の時事新報に報じられている。直訴した場所は、現在の東京家庭裁判所前付近である。
 直訴状は名文書きだった新聞記者・幸徳秋水が執筆し、その朝、正造が訂正加筆して実印を押した。現在は表装ひょうそうされ巻物になっているが、美濃紙みのし6枚を半折にし、こよりでつづりこんだもので、「謹奏きんそう 田中正造」の部分が表紙になっていた。
直訴状

 草莽ノ微臣 田中正造 誠恐誠惶頓首頓首 謹テ奏ス 伏テ惟ルニ臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕ニ近前スル 其罪実ニ万死ニ当レリ 而モ甘シテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民の為ニ図リテ 一片ノ耿耿竟ニ忍フ能ハサルモノ有レバナリ 伏テ望ムラクハ陛下深仁深慈 臣ガ至愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ(以下略)

【直訴状全文はこちらを参照】


直訴直後の田中正造
 と直訴文は流れるような名文であるが、幸徳秋水が「臣ガ狂愚きょうぐ」としたものを「臣ガ至愚しぐ」と訂正し捺印した。その他にも訂正加筆捺印されている。
 文章の流れ、調子をこわしてまでも訂正した正造の誠実さを知ることができる。直訴状は原田勘七郎(正造姪タケの夫)の孫、寛家に所蔵され現在に至った。この直訴にまつわる「毎日新聞」主筆の石川安次郎「日記」による直訴計画と「万朝報」記者・幸徳秋水との関係協議なども参考になる。正造の直訴一週間後に書いたカツ夫人宛て書簡なども、正造決死の心情と病身のカツ夫人に対する温かい思いやりを示している。郷土被害関係者は直訴を伝え聞いて、見舞金を集め上京慰問した。
 赤見村長大竹謙作、医師吉岡耕作(日記)、植野村、海老瀬村などにその証拠資料を今に伝えている。
(直訴に関する事実へLink)



◆ 中学生(現高校生)の反応と感性

 直訴の報を伝え聞いた盛岡中学生の石川啄木が、「夕川に葦は枯れたり血にまどふ民の叫びのなど悲しきや」と三十一文字にその思いを託した。
 郷土においても、直訴の年の4月に佐野に栃木県立第4中学校(現佐野高校)が誕生した。正造書簡にその創立にまつわる諸問題が明確に記載されている。そして、その中学生がその当時の鉱毒事件をどのように受け止めていたか、「月の渡良瀬川」の作文に「この下流は如何に惨状ならずや、鉱毒の田畑に侵入し、荒畑となりし幾万坪ぞ」と、その思いを残した。
 さらに正造が設立した平民倶楽部(のち両毛学寮)に佐中卒業生が正造とともに下宿し、その恩恵を受けながら勉学したのである。


【kawakiyoのコメント】
 この当時、新聞各社の記者たちが田中正造をどのように見ていたのか興味が湧いてきます。各社の記事を読んでみると正造に対しては大方が好感を持っていたようです。
 ここで直訴の翌日、明治34(1901)年12月11日付、読売新聞に掲載された記事を紹介します。「田中正造氏鳳輦に直訴す」の見出しで書かれたこの記事は、共感と敬意の念にあふれた感動的な文章となっています。その一部を次に紹介します。

…(前略)…
 「天に訴え地に訴え人に訴え社会に訴え政府に訴え法廷に訴え、請願となり陳情となり演説となり奔走となり運動となり大挙となり、拘引となり被告となり、絶叫となり慟哭となり泣血となり、千訴万頼慟天哭地してもなお、その目的を達成することができない鉱毒被害民の惨状を救うため、財産を棄て名誉を棄て妻子を棄て朋友を棄て政党を棄て議員を棄て、遂には己を棄てて一身を鉱毒事件の犠牲に供したる田中正造は、昨日ついに恐れ多くも議院より遷幸の御通路に拝跪して輦下に直訴するの非常手段をとるに至れり」
…(後略)…