◆ 足尾鉱毒問題
逼塞Ⅱ(足尾) 店網富夫画伯 絵をクリックで拡大! |
足尾銅山は、古河市兵衛が結んだ英国マジソン商会との契約を履行するため銅の増産に突き進んだ。また、払い下げを受けた国有林の無計画な伐採と銅山から発生する煙害(亜硫酸ガス)により山林の荒廃が進み、渡良瀬川の洪水を増大させ、鉱毒被害を沿岸の耕地と住民に及ぼした。
足尾銅山鉱毒問題が初めて国会でとりあげられたのは、明治24(1891)年12月25日の正造質問演説である。これより1週間前の同年12月18日「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出していた。「とに角、群馬・栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は足尾銅山から流れて」両沿岸の田畑1,200余町の広い地面に鉱毒を及ぼし、「2年も3年も収穫が無かったのである。特に明治23年という年は、1粒も実らない。実らないのみならず植物が生えないのである。」そして、18日の質問書には「去る明治21年より現今に至り毒気はいよいよその度を加え」とその鉱毒被害の経過を指摘した。
しかし、農民たちの必死の訴えを国は一切無視した。この時の担当すべき農商務大臣は陸奥宗光だったのである。
このあと明治34年に正造衆議院議員辞職までの11年間の議会における質問書・演説その他320件のうち鉱毒問題関係が半数を超えている。
足尾銅山鉱毒問題が初めて国会でとりあげられたのは、明治24(1891)年12月25日の正造質問演説である。これより1週間前の同年12月18日「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出していた。「とに角、群馬・栃木両県の間を流れる渡良瀬川という川は足尾銅山から流れて」両沿岸の田畑1,200余町の広い地面に鉱毒を及ぼし、「2年も3年も収穫が無かったのである。特に明治23年という年は、1粒も実らない。実らないのみならず植物が生えないのである。」そして、18日の質問書には「去る明治21年より現今に至り毒気はいよいよその度を加え」とその鉱毒被害の経過を指摘した。
しかし、農民たちの必死の訴えを国は一切無視した。この時の担当すべき農商務大臣は陸奥宗光だったのである。
このあと明治34年に正造衆議院議員辞職までの11年間の議会における質問書・演説その他320件のうち鉱毒問題関係が半数を超えている。
足尾銅山産銅量 | ||
年 | 産銅量(千斤) | 足尾/全国(%) |
明治10(1877)年 | 77 | 1.2 |
明治11(1878)年 | 81 | 1.1 |
明治12(1879)年 | 151 | 2.0 |
明治13(1880)年 | 154 | 2.0 |
明治14(1881)年 | 290 | 3.6 |
明治15(1882)年 | 223 | 2.4 |
明治16(1883)年 | 1,089 | 9.6 |
明治17(1884)年 | 3,849 | 26.0 |
明治18(1885)年 | 6,886 | 39.2 |
明治19(1886)年 | 6,052 | 37.2 |
明治20(1887)年 | 5,029 | 27.3 |
明治21(1888)年 | 6,368 | 28.6 |
明治22(1889)年 | 8,146 | 30.1 |
明治23(1890)年 | 9,746 | 32.3 |
明治24(1891)年 | 12,704 | 40.1 |
明治25(1892)年 | 10,899 | 31.6 |
明治26(1893)年 | 9,452 | 31.5 |
明治27(1894)年 | 10,755 | 32.4 |
明治28(1895)年 | 9,153 | 28.7 |
明治29(1896)年 | 10,964 | 32.8 |
明治30(1897)年 | 9,911 | 29.2 |
『古河市兵衛翁伝』
※ 単位の「千斤」は、現在では使われてないが、そのまま使用した。
一方、明治29年までの段階では、古河市兵衛(足尾銅山主)との示談契約工作がなされ、栃木・群馬鉱毒被害関係43か町村が示談契約を結んだ。
しかし、明治29年7月及び9月、特に9月8日の大雨、大洪水は、古今無例といわれ、渡良瀬川沿岸一帯に鉱毒を運び、その被害から大きな社会問題として注目を集め、局面は大きく転換していった。
しかし、明治29年7月及び9月、特に9月8日の大雨、大洪水は、古今無例といわれ、渡良瀬川沿岸一帯に鉱毒を運び、その被害から大きな社会問題として注目を集め、局面は大きく転換していった。
麦田の被害状況 |
ついに鉱毒問題の解決を示談という方法でなく、銅生産を止めさせる足尾銅山鉱業停止を目標とした沿岸住民運動が大同団結し、明治29(1896)年10月5日、渡良瀬村(現館林市)雲龍寺に「群馬栃木両県鉱毒事務所」を設立、同士たちは精神的契約書「雲龍寺の連判状」を結び組織作りが活発化した。
これを基に一大請願陳情運動へと高まり、その請願陳情の運動も1次・2次・3次としだいに深刻化し、明治33(1900)年2月13日の第4次請願陳情運動において川俣事件の発生に至ったのである。
これを基に一大請願陳情運動へと高まり、その請願陳情の運動も1次・2次・3次としだいに深刻化し、明治33(1900)年2月13日の第4次請願陳情運動において川俣事件の発生に至ったのである。
明治33(1900)年2月13日、足尾銅山の鉱毒問題を解決するため2千5百余名の被害民たちが決死の覚悟で第4回目の東京大挙押出し(請願)を決行した。
前夜から雲龍寺(邑楽郡渡瀬村・現館林市)に集結した被害民は、朝9時頃同寺を出発し東京へ向かった。途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村大佐貫(現・群馬県邑楽郡明和村)に到着。ここで2台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手前同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで、待ちうけた3百余名の警官と憲兵が暴力で
蹴散らし多くの犠牲者を出して被害民は
四散した。
この事件で被害民15名が即日捕縛された。翌日以降の捜査で100余名が逮捕され、うち51名が兇徒聚衆罪等で起訴された。これが川俣事件である。
【新聞による川俣事件の状況】