正造の誕生と人間形成
復元された母屋
 田中正造は、江戸幕府老中水野忠邦が天保の改革を開始した年の天保12年(1841)11月3日、下野国しもつけのくに安蘇郡あそぐん小中村こなかむら(現栃木県佐野市小中町)に出生、父富蔵とみぞう25歳、母サキ22歳の長男である。妹リンも4年後に誕生。幼名は兼三郎と呼ばれた。正造生家の一室に産室と伝えられる部屋もある。
 田中家は、祖父の時代より旗本六角家知行所小中村の名主で、正造まで代々続いていた。
 田中家の農業経営規模、すなわち田畑山林などは正造が「四代目の名主の家に生まれたるものの村中でやっと中等の財産に過ぎず」と言っていることと、現存する資料がほぼ一致する。その生家の質素なたたずまいを見ても理解できよう。
 
赤尾塾と正造の教育
 正造の人間形成における両親の教育への関心の深さを見よう。
 正造の父富蔵は温厚な性格で教育熱心な人物だった。正造は7歳ころ赤尾小四郎(鷺州)に入門する。赤尾は、もと備後びんご福山藩阿部家に仕えた200石取りの儒家であった。赤尾の指導は厳しく「史書五行唐詩選古文等の無点本むてんぼん(返り点や送り仮名などがない本)を一人で読めるようにならなければ講義をしない」との方針を採っていたので、正造が無点本を習得する前の安政3(1856)年に赤尾は死去してしまう。正造16歳のときである。正造は少しも赤尾から講義を受けることは無かったようである。
 正造の父は教育のため「一人扶持」(約米1石=約150kg)を赤尾への謝礼にしている。教育に対する父の厚い心が伺える。
 母もまた正造の性格が、人並みより強い・剛情ごうじょう・わがまま・自己中心的であることを心配し、雨の日に正造が反省するまで戸外に放置したことがあった。
 「おまえのように剛情では困る。近所の者もお前のことを悪く言います。」との一言は、正造の胸にこたえたと自叙伝に記してある。

【kawakiyoの一言】
 さすがに正造の親ですね!きちんと「しかり」「導き」「教育」していますね。正造のお母さんは、まさに古来の日本の母といったイメージが湧いてきます。
 今の親は、こうはいかないのでしょうね?。親による子へのいじめ、虐待、暴力など日々ニュースで賑わしていますが、惨々たるものがありますね。子に対して怒り、怒ることはできても「しかり」「導き」「教育」することは、苦手なようです。
 親と子の関係については、少し時代を逆戻りさせた方が良いのではないかと密かに思っているkawakiyoです。