六角家改革事件
 六角家領主六角越前守は江戸幕府の高家衆(幕府の儀式・典礼を司る家柄)で、下野国(現・栃木県)に安蘇郡・足利郡で7箇村、武蔵国2箇村など知行所あわせて表高2,000石の旗本であった。六角家ろっかくけは京都の烏丸大納言光弘からすまるだいなごんみつひろの次男で木工権頭もくごんどう六角広賢ろっかくひろかたが天保4(1647)年に輪王寺宮守澄法親王しゅちょうほっしんのう日光山門席として関東下向の折り、江戸に随行して六角家を称したのがその始まりとされている。
 小中村は相給あいきゅう(複数の大名・旗本によって1村が分割支配されている村)の村で、石高1,438石余の中、旗本六角家が1,012石余、旗本佐野家が409石余、浄蓮寺じょうれんじが16石余を領有、佐野領では名主石井郡造いしいぐんぞう、六角領では田中正造(祖父の方)・篠崎茂左衛門しのざきもざえもんが村政を担当していた。当時武家財政は火の車で、領主六角家も破産寸前の状態だったが、父富造は六角家の用人坂田伴右衛門とともに財政整理に努め、やがて負債償却を実現、5,000余両の剰余金を生むことに成功した。この功績で安政4(1857)年富造は割元(村々名主等の総取締役)に昇進、苗字帯刀みょうじたいとうを許された。関連人事により正造は17歳で小中村六角家知行所名主に選ばれた。
 江戸屋敷の普請ふしんとその先納金せんのうきんの件で問題が発生し、正造(27歳)は、これに対する各地農村名主指導層や農民の側の先頭に立って対抗した。
 正造はこれにより投獄されたが、正造自叙伝をひもとくと牢獄ろうごくでの生活など迫真の物語に思わず吸い込まれる。六角家事件で正造は在獄10か月と20日、明治2年の初め釈放された。

地蔵堂跡(堀米町)

 この後、堀米町の地蔵堂で手習塾としての寺子屋を開いた。この時期、食事の世話までした村民の協力は微笑ましい。
 塾長をして百日が経過した頃、かって正造が学んだ漢学塾の先輩である織田龍三郎が訪ねてきた。織田は明治新政府の役についており、正造に東京留学を勧めた。やがて正造は堀米ほりごめの寺子屋を出流山いづるさん事件で在獄、出所した恩師赤尾鷺州の嫡孫・豊に譲り、熱い勉学への思いを胸に明治2年、東京の織田龍三郎の門をたたく。しかし、その時には織田が免職となっていた。

 行く当てのない正造は織田の家に住み込み、下男のような生活を送ることになった。4か月を過ぎた頃、郷土の先輩で最近東北の江刺県大属となっていた早川信斎はやかわしんさいが出張で上京した折、正造を訪ねてきた。江刺県の小笠原知事も国府大参事も下野の出身なので、江刺県の役人に採用される可能性があると正造を誘った。
 正造は、織田らの勧めもあって早川に伴い江刺県えさしけん(現岩手・秋田県内)へと向かった。ところが江刺に着いてみると、小笠原知事も国府大参事も既に辞職して当地を去っていた。正造は途方にくれたが、2週間ほど待たされて、幸いにも江刺県の下級役人(附属補)に採用された。


【kawakiyoからのアドバイス】
 この頃、田中正造がどのように活動していたのかについては、「関係リンク集」の「小説・不屈の田中正造伝」をご覧頂くと面白いと思います。kawakiyoのサイトでは、表現できない部分が見事に描かれています。