江刺県時代の正造
 正造(30歳)の江刺県での生活は、「御用雑記公私日誌」に克明に記録されている。正造の名前は、はじめ「正造」や「正蔵」と記していたことが正造の「公私日誌」だけでなく、江刺県えさしけん正造関係資料等によって証明できる。
 江刺県での活動は、東北地方の冷害による救助窮民きゅうみん取調べのための仕事であった。江刺県とは、岩手県遠野町に本庁、鹿角郡かづのぐん花輪町(現秋田県鹿角市花輪)に分局があった。
 明治3年3月、正造は江刺県役所に着く。江刺県は朝敵として仙台・南部両藩処分の上に成り、下閉伊郡しもへいぐん遠野町に本庁を置いた。正造は本庁到着後、すぐに鹿角かづの二戸にのへ九戸くのへ三郡を管轄かんかつする花輪町の分局勤務を命ぜられ赴任した。
 ここで東北農民の惨状の実態をつぶさに体験し、同じ農民の有様に涙を流し「此民のあわれを見れバ東路の 我古郷のおもひ出二ける」と和歌に託している。また、故郷小中村の両親宛の手紙に彼の心情を切々と伝えている。

 
御用雑記公私日誌


上役暗殺の嫌疑
 その江刺県で一大事件にまきこまれた。上司木村新八郎殺害事件である。明治4(1871)年2月3日、正造がリウマチス治療の湯治の直後のことであった。花輪支局の小使から知らせを受け、直ちにかけつけ、瀕死ひんしの木村に応急措置を施し医者を呼びにやらせるとともに犯人逮捕のための手配を指図した。木村は医者が到着する前に息を途絶え、犯人の痕跡は全くつかめなかった。正造は事件の顛末てんまつを江刺県に報告し、一旦は元の仕事に戻った。
 ところが事件から3か月後、意外にも正造自身が犯人容疑で投獄されてしまう。日頃から二人が仕事に熱心なあまり口論を交わしていたことや、事件後正造の着衣ちゃくい血痕けっこんが付いていたことが理由とされた。長期にわたり犯人逮捕が出来ない当局が体面を保つため、栃木出身者でよそ者の正造を「いけにえ」にしたのではないかとの疑惑も拭い切れない。
 正造は花輪支局で、巡回出張中の弾正台の役人の取調べを受ける。明治になっても拷問ごうもんを伴った審問しんもんは江戸時代同様であり正造もむちで何度も打たれた。その後、正造は縄で縛られ足かせをはめられ、囚人用の駕籠かごで野山を越えて江刺県本庁に送られた。江刺本庁でも無罪を主張する正造に「そろばん責」などの拷問が続いた。さらに厳しい東北の冬の寒さが正造を襲った。同室の囚人4人が凍死すると正造は死んだ囚人の着衣を貰いうけ凍死から免れた。
 年が開け、廃藩置県はいはんちけんにより明治5年3月に江刺県が廃止され岩手県が新設された。正造は江刺県獄から盛岡の岩手県獄へ移され、2年9か月(3年と20日正造誌)の獄中生活を送ることになる。
 明治6年になると監獄則かんごくそくが制定され獄中の生活が改善された。それまで床板ゆかいたであったものが畳を敷かれ、食物や書物の差し入れもできるようになった。正造は生命の危機が無くなったこの時期、自己鍛錬たんれんに努めた。西洋の翻訳本ほんやくぼんを手に入れ、新しい政治や経済の知識をむさぼり吸収した。スマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編さいごくりっしへん」の朗読反復練習は、まさに「1年有半」、正造のどもり矯正きょうせい、そして後年の弁論演説ばかりでなく、政治・経済への深い理解、そして思想形成にも大きく影響を与えた。さらに、「英国議事院談」の読書も正造後半の自由民権思想の刺激となり政治志向への大きな源流となったと思われる。花輪分局の地にも正造の伝承、資料が生々しく残されている。

嫌疑がはれ無罪放免
 事件後、静岡に移っていた木村の息子が正造の無罪を証言してくれたことなどもあって、明治7(1874)年4月5日、正造は、岩手県令・島惟精しまいせいから無罪放免を申し渡された。出獄すると岩手県官吏・西山高久にしやまたかひさの宅に引き取られ約1か月間摂養せつようにつとめた。
 西山は、正造の在獄中にも鶏卵けいらん2個を毎日差し入れるなどして面倒を見てくれた人物でもあった。5月9日、迎えにきた叔父に伴われて正造は盛岡をあとにし、花巻、遠野、石巻などを経て、故郷・小中村に帰った。明治2年8月の出郷以来、まる5年ぶりの帰郷であった。
 帰郷すると母は2か月前に亡くなっており、戸籍には「正造、処刑に処せられたり」と記載されていた。