自由民権運動

 正造は帰村後、赤見村あかみむら酒造兼酒屋の蛭子屋えびすやの番頭になったり、明治10年、西南戦争の時には、夜学閉鎖の問題がおこったりしたが、正造は日本の立場のみでなく、世界的視点にたち、自由民権者として歩みだそうとしていた。それには、まず正造の負債と将来の政治家としての生活資金のための経済的独立を得ることであった。西南戦争による物価高騰を見通し土地売買で3,000余円の利益を得たので「財産を犠牲ぎせいに供し、一身を公共に尽くす自由」を父に求めると、父は喜んでこれを許し激励したという。この時、父が正造に与えた某禅師の狂歌に「死んでから佛になるハいらぬもの 生きたる中によき人となれ」がある。


自由民権運動の第一歩(区会議員)
議員上任誓詞

 正造の自由民権運動の第一歩は、地元の地域の自治問題であり、明治11年7月、第4大区3小区の区会議員に選出されたことにはじまる。
 その時の誓詞が残され、また正造は赤飯を隣人にふるまい、沐浴もくよくして役職遂行すいこうを区村民に誓ったと述べている。彼が区会議員の役職を神聖なものと見ていたことがわかる。この後、村会設立案を起草し、仲間の区会議員に相談し県知事に提出した。正造の地方自治への渇望かつぼうを示すものである。




栃木県会議員
栃木県会議員当時の田中正造

 明治13年、栃木県会議員となり、県政レベルの民権、さらに国会開設運動にも精魂をかたむけ、10年間の県会在職中、地方白治の確立、住民側に立った地方税、小学校教育の充実などの主張に正造は力を入れた。
 三島道庸みしまみちつね栃木県令との対決では、加波山かばさん事件との関係もあった。その間、全国自由民権の流れのなか、明治13年8月23日には、春日岡山惣宗寺かすがおかさんそうしゅうじに会合し、「安蘇あそ結合会」が組織され、会長に正造が選出された。これは栃木県下の下毛しもつけ結合会に呼応したものである。これらの動きは、栃木県の国会開設運動に決定的意義をもつが、国会開設の方法の問題で下毛結合会と分離し、安蘇あそ結合会を「中節社ちゅうせつしゃ」と改称し独立。中節社代表として国会開設建白書を今泉・山口等代表とともに提出。また、正造の自由民権運動推進活動は、「栃木新聞」の発刊が重要活動の場であった。明治11年6月、第1号を創刊、月8回の割で刊行され、37号までで廃刊。翌12年8月再刊、正造が編集長となった。このことも大きな影響を残した。

【加波山事件とは】
明治の世相
 明治政府の地租改正による国民の困窮と西南戦争(明治10年)後のインフレ等により、国内に多数の政治結社が生まれる。
 地租改正反対のため明治9年の小瀬一揆や真壁一揆が起きた。これらが、自由民権運動を盛んにした。
 自由民権運動の勢いに押されて、明治23年に国会を開設すべきとの詔勅が出され、この運動の中から自由党(総理・板垣退助)が誕生した。しかし、明治政府は自由党を中心とする自由民権運動を圧殺しようとした。
福島事件(明治15年11月28日~12月1日)
 福島県令・三島道庸は、自由党を弾圧すると共に、不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。
 これに対して、千数百名の農民が弾正が原に終結し警官隊と衝突した。自由党員・河野広中らは政府転覆の陰謀があったとして、連座入獄させられた。これが加波山事件を誘発したと言われている。
加波山事件(明治17年9月23日)
 栃木県令を兼ねることになった三島道庸は、栃木県でも福島県と同様に自由党を弾圧すると共に、不況下の農民に労役を課して道路を建設しようとした。
 自由党左派16名(福島県人11名、栃木県人1名、茨城県人3名、愛知県人1名、平均年齢24歳)は、宇都宮の新栃木県庁舎落成式の日に県令・三島道庸らの暗殺を企てた。
 河野広体(広中の甥)らは、資金調達のために質屋を襲ったが失敗し、警察から追跡されることになった。また、鯉沼九八郎は暗殺用の爆弾を製造中に爆発を起こして大怪我をした。警察は警戒を強め、落成式は延期となった。
 彼らは、加波山山頂の加波山神社を本陣として、檄を発した。さらに茨城県真壁町の町屋分署を爆弾で襲う計画を立てたが、警察の包囲が厳しく全て捕らえられた。
 この事件に連座したと因縁をつけられ、正造は逮捕されたのである。


栃木県会議長

 正造は加波山かばさん事件の嫌疑けんぎを晴らし、悪名高き三島道庸栃木県令を県政から追い出したことにより県民から賞賛され、やがて県会議長に推挙された。正造は2期(①明治19年4月~明治21年3月、②明治21年4月~明治23年3月)にわたり県会議長を努めた。
 この間、帝政憲法が発布された明治22(1889)年2月11日には、栃木県会議長として皇居への式典に出席している。この時、正造は憲法が発布されたことに深く感激し感涙したとも伝えられている。この憲法が守られる限り世の中の不平等や不正が改められ悲惨ひさんな出来事が無くなると信じたからである。
 この憲法発布式に立ち会ったことが、後に正造が天皇に直訴する布石となったことは確かであろう。


国会議員
第1回衆議院議員選挙写真

 正造は第1回衆議院議員選挙(明治23年)に当選し以後、明治天皇直訴の直前、明治34年10月23日まで連続6回の当選を果した。
 衆議院選挙費用明細書が残されている。それは、第1回のもので費用総額3,485円に達し「驚くべき散財なり」と書き記しており、彼自身驚きあきれている様子が推察できる。この金額は、西南戦争による土地値上がり収益3,000余円を一生の生活設計として貯えたものが、たった1回の選挙で吹き飛んだことになる。これは以後、郷土の選挙費用に関する物語の種になっている。