佐野が生んだ偉人  その行動と思想
北海道入植者の帰県活動

 北海道入植後25年目の昭和12年4月15日、入植者28名の連名で栃木県知事に帰県請願書を提出したが、無視される。昭和19年に2回目の帰県請願書を提出したが叶わなかった。昭和46年、入植60周年記念日にあたる4月21日、13戸の農家が集まり栃木県知事と県会議長宛に3回目の請願書を提出した。

その内容は…
 「日本の公害の原点であります栃木県渡良瀬川で引き起こしました足尾鉱毒事件を肌で体験しました私どもは先祖伝来の田畑をこの被災により奪われ、あるいは『企業によって生ずる功利は被害者個人の損害に優先する』との建前を堅持した当時の県や政府によりまして土地収用法が適用され、強制買収の過酷な憂き目に遭い、ついに私どもの父祖の意に反しまして明治44年4月21日に第1回集団移民として66戸が、大正2年に2回目30戸が、現在の佐呂間町に入植せしめられました。
 (中略)ここに、第3回目の渡良瀬川流域土地貸下請願におよぶものであります。なにとぞ、私どもの逼迫した窮状を調査くださるよう特段のご配意賜りますようここに13名の連名をもちまして、伏して請願申し上げます。」
 …と記されていた。

 当時の栃木県知事であった横川信夫は、早速検討を開始し、入植者の受入を決めた。昭和47年3月9日、65歳の今泉米次郎ら7世帯20人が第1団として宇都宮駅へ降りた。61年ぶりに踏んだ郷土である。18歳の時に旧谷中村を出た佐藤ハルは81歳になっており最年長だった。
 一行は栃木県庁に横川知事を訪ね帰郷の挨拶。横川知事からねぎらいと励ましの言葉を受け、新居となる栃木県下都賀郡壬生町の雇用促進住宅に落ち着いた。