◆谷中村の歴史と鉱毒被害
 谷中村は、明治22年(1889)の市制・町村制施行により、下宮村したみやむら恵下野村えげのむら内野村うちのむらの3村が合併してできた村で、栃木県の最南端に位置し、人口2,700人、450年の歴史を持つ農村だった。この地は、渡良瀬川、巴波川うずまがわ、思川に囲まれた洪水常襲地帯じょうしゅうちたいであったが、反面、肥沃ひよくな土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としない程の沃田よくでんとも言われた。
 なお、この時期の合併は、明治21年(1888)から明治22年(1889)にかけて行われたもので市町村数が71,314から15,859に減少しており「明治の大合併」といわれた。
 谷中村の歴史は古く室町時代(1407年)頃、既に開けた赤間沼あかまぬま畔の豊かな村であった。その後、古河藩こがはん(茨城県)によって開墾かいこんすすめられ画期的な発展をげた。谷中村は古来こらいより地味肥沃じみひよくで、魚介類の生息も多く自然に恵まれた穀類豊穣こくるいほうじょうの平和な農村として繁栄を続けていた。
旧谷中村位置略図

 しかし、明治10年(1877)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒こうどくにより、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに明治20年(1887)以降には足尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡良瀬川沿いの広範囲に及び、谷中村も例外でなく農作物の立ち枯れや魚の斃死へいしなど被害は想像を絶するものとなり、明治29年(1896)以降は鉱毒問題が国家的社会問題となった。

◆鉱毒被害地域の反応
逼塞の谷(足尾) 店網富夫画伯
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 豊かな渡良瀬川の恵みを数百年にわたり享受きょうじゅしてきた農民たちの立ち上がりは、決して速くはなかった。農民たちが立ち上がる発端ほったんとなったのは明治22(1889)年と翌年の2年続いての洪水にあった。とりわけ明治23(1890)年8月23日の大洪水は安蘇あそ・足利・梁田やなだの3郡内の各所が、「濁水湛だくすいたたえ込みて一望限りなきの海原うなばら」となったと8月27日号の下野新聞しもつけしんぶんが報じている。このため鉱毒水に浸った農作物がことごとくくさるという事態が生じ、実際に土地と農作物の被害を体験してから、地元の農民たちによる鉱毒反対運動が活発化することになったのである。
 谷中村議会は明治23(1890)年11月に、損害賠償と精錬所せいれんじょの移転を求める決議を採択さいたくした。また、栃木県吾妻村あづまむらでも12月に開いた臨時議会で、足尾銅山の操業そうぎょう停止を求める「上申書じょうしんしょ」を提出することを決議した。この時期の反対運動の中心となった梁田村出身の長祐之や足利郡選出の栃木県会議員早川忠吾らは、足尾銅山の現地調査を行う一方、栃木県立宇都宮病院や農科大学助教授の古在由直らに土壌の分析を依頼した。古在の返事は翌年の明治24(1891)年6月1日に届き、「被害の原因は、全く銅の化合物かごうぶつにある」というものだった。
 これらを基に、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え続けた。これに呼応こおうするように被害住民も東京へ上京し請願せいがん運動を展開する中、明治33(1900)年2月13日に川俣事件が発生した。
 明治34年(1901)にも洪水があり、田中正造夫人・カツは、7月8日に鉱毒被害激甚げきじん群馬県海老瀬村えびせむらの見舞い並びに被害調査に入っている。鉱毒反対運動は渡良瀬川中流よりさらに下流の谷中村、埼玉県川辺かわべ利島村としまむら、群馬県海老瀬村などに移っていった。明治34年12月正造の直訴以後、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなり、鉱毒被害の真実に注がれるようになり、東京の大学生・中学生などが大挙して被害地の谷中村、海老瀬村、その他の村々を訪問するようになった。

◆遊水地化計画
 被害民の足尾銅山操業停止要求に対し、明治35年(1902)、政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡台地を開削し渡良瀬川を赤間沼あかまぬまに流下させる。)と鉱毒水を沈殿ちんでんさせるための貯水池建設計画を立て、渡良瀬川沿岸に候補地を求めた。その候補地となったのが谷中村及び埼玉県川辺村かわべむら利島村りしまむらである。
 あいまって鉱毒問題の世論喚起の反応は、明治35年に時の桂内閣に「第二次鉱毒調査委員会」を設けさせた。ところが、この委員会の「足尾銅山に関する調査報告書」(明治36年3月)は「渡良瀬・利根とね及び思川おもいがわの合流する付近に」貯水池を設ける必要性を方向づけた。
 埼玉県の川辺・利島村の遊水池計画は、両村民が明治35年1月には計画を知り、すばやく団結して正造の指導を受け、徴兵・納税の義務を拒否する決議を行い運動を強めたので、ついに埼玉県知事は「よんどころなく」中止することとなり、その年の10月に県の段階だんかいでつぶれた。
 一方、栃木県では明治36年1月、臨時議会に谷中村買収予算案を提出したが、この最初の案件は否決された。しかし、明治37年12月9日の臨時議会に、再び谷中村買収予算案(明治37年度土木治水費追加予算として)を提出した。「人民を滅亡させるのか」との反対意見がべられたが、10日深夜、採決さいけつを強行し、賛成18・反対12で可決させた。ついに谷中村の買収計画は、具体化したのである。


◆田中正造の谷中村居住
水没した谷中村の雷電神社付近
(明治37年頃)
 明治37(1904)年7月30日、64歳の正造は、単身で谷中村の川鍋岩五郎かわなべいわごろう方へ移り住んだ。谷中村こそ正造にとっては鉱毒問題の中心地であり、憲法破壊、人道破壊の集約された姿の村と考えてのことである。

◆谷中村民等の集団移住
 正造と谷中村民は、貯水池建設と谷中村の廃村に反対したが、政府と栃木県は堤防修復に名を借りて谷中村を3年間水づけにするなど手段を選ばず用地買収に着手、それに応じた第1回谷中村民の集団移住が明治38年(1905)から開始された。

買収金額金48万円也
堤内 970町歩
堤外 230町歩
戸数 387戸
人口 2,500人余

 移住先は、栃木県藤岡町ふじおかまち野木町のぎまち小山市おやまし南那須町みなみなすまち・群馬県板倉町いたくらまち、埼玉県北川辺町きたかわべまち、茨城県古河市こがしなどであった。
 また、明治44(1911)年4月には、谷中周辺の農民が、栃木県の強引な誘掖ゆうえきにより「栃木団体」を結成して北海道へ移住した。66戸中、最も多いのは部屋村41戸だった。落ち着く先はオホーツク海の寒風が吹き込むサロマの谷あい(現・北海道常呂郡ところぐん佐呂間町さろまちょう栃木)だった。
 同じく「群馬団体」が、鉱毒被害地の板倉町いたくらまち30戸、邑楽町おうらまち10戸、佐野市6戸他の計73戸によって結成され羊蹄山ようていざん麓の真狩まつかりに入った。これは北海道庁の拓殖計画に沿うものでもあった。
 しかし、移住民の殆どが定着に至らず、その後の帰県活動へと変遷するのである。

◆谷中村消滅
 明治39年4月栃木県知事白仁武しらにたけしは、谷中村の廃村と藤岡町への合併を谷中村議会で決議させようと謀ったが、村議会はこの案を否決した。しかし、白仁知事は村議会の否決を無視し、明治39年(1906)7月1日、「谷中村を廃村にして藤岡町に合併する」と発表した。これにより谷中村は、法制上も消滅し事実上の廃村はいそんとなった。
 明治40年1月26日、まだ谷中村に残留する村民に対し、政府は土地収用法を認定する公告を出した。



◆谷中村残留民家の強制破壊
谷中村残留民と共に
(前列左から二人目が正造)

 谷中村の遊水池化に反対し買収に応ぜず提内に留まっていた村民は、わずか16戸であったがこれに対し、西園寺さいおんじ内閣は明治40年1月26日に土地収用法の適用認定を公告こうこくした。この時担当の内務大臣が原敬である。谷中村を隣接の藤岡町に吸収合併させて、谷中村を地図上から、さらには公の資料から全て抹殺まっさつしようとはかり、明治40(1907)年6月29日より7月5日までの7日間にわたって谷中村残留民家16戸の強制破壊きょうせいはかいを強行したのである。

【時事新報の記事あり】

仮小屋生活を続ける谷中残留民
 強制破壊後も谷中村残留民は、仮小屋かりごやを作り悲惨な生活をいられながら抵抗ていこうを続けた。正造は残留ざんりゅう民とともに谷中村復活を図り、関東各地の河川調査の実態をまとめ、政府政策の誤りを指摘しようとしたが、大正2(1913)年8月2日河川調査から谷中村への帰路、病に倒れ、9月4日死去した。
 残留村民は、その後も抵抗を続けたが木下尚江らの勧告かんこくもあって大正6(1917)年2月、強制破壊から10年におよぶ反対運動を断念だんねん、全ての戦いが終わった。