窮民救済の田中正造翁の入獄を憤る

【解説】 明治33(1900)年11月28日、田中正造は、川俣事件第15回公判で、検事論告に憤慨して欠伸(アクビ)をし、官吏侮辱罪に問われ、明治34(1901)年12月10日の天皇直訴事件後の明治35(1902)年6月16日に欠伸事件の有罪判決が下り、巣鴨監獄に41日間服役した。この時期に出された内村鑑三の論評である。
[明治35(1902)年6月21日、万朝報]=要約

内村鑑三の肖像

 田中正造翁の入獄は、近年まれに聞く惨事である。このことについて深く考える者ならば奇異の感に撃たれない人はいないだろう。
 勿論、翁とても完全無欠な人でないことは私も良く知っている。しかしながらこの罪悪の社会にあって、翁ほど私利私欲の無い人は多くなく、私が保証するところである。窮民の救済にその半生を費やし、彼らを死滅の淵より救おうとする外に、一つの志望もなければ快楽もないこの翁は、誠に明治時代の義人と称しても、けして過言ではないと思う。

 しかし、この人が、この窮民を弁護しつつある時に官吏の前で誤って欠伸(アクビ)をしたとして、その老体に死が近づかんとしつつあるにも拘らず、日本帝国の法律を問われて41日間、重禁固の刑罰に処せられたとのことである。私は法律学については詳しくないが、刑の適用の当否について云為するに由なしといえども、しかも現代の法律なるものは、情と慈悲とより遠く離るるあまりに、その結果ついにかかる希有の善人までを、獄に投ぜねばならぬに至ったかを思うと、涙潸然たらざるを得ない。

 田中正造翁に比較して、翁にこの苦痛を与えた原因といってもいい、古河市兵衛氏のことを考えてみたらどうだろうか。もし世の中に正反対の人物がいるとすれば、真に田中翁と古河氏である。二人ともほとんど同齢の人だが、一人は窮民を救おうと努力し、もう一人は窮民をつくりつつある。しかし、無辜(ムコ)の窮民を救おうとする田中翁は、刑法に問われて獄舎に投ぜられ、窮民を作りつつある古河市兵衛氏は、朝廷より正5位を賜り、交際を広く貴族社会にもち、キリスト教会の慈善家にまで大慈善家として仰がれ、日本中いたるところで優遇・歓待されている。

 田中翁は官吏の前で欠伸をしたとして、法律の明文によって罰せられ、古河市兵衛氏は7人の妾を蓄え、十数万人の民を飢餓に陥れるなど、明白に倫理の道を侵しているが、法律に明文が無いので、氏は正5位の位階をもって天下に闊歩している。私はこのことを想うとき、現代の法律なるものは、多くの場合において決して人物の正邪を判別するのに足りるものでないと思わないわけにいかない。

 しかしながら深く考えてみるに、古河市兵衛氏の位地は決して羨むべきのものでなく、田中翁の目下の境遇こそ、かえって私の慕うところである。「義のために責められるものは福なり」善をなし、義を行わんとして、それがために苦を受けるほど幸せなことはないのである。それでこそ始めて世界の義人の仲間に入ることが出来るのであって、ソクラテスの心を知らんと欲し、キリストの苦しみを思いやらんと欲すれば、吾人は必ず一度はこの苦痛を味わなければならない。正5位の栄位と、これに伴う栄誉を受けるのも幸福であるかもしれない。しかしながら、キリスト、ソクラテス等、世界有数の偉人の心を知るの栄誉は、明治政府がその寵児に与える位階勲章にも勝る、幾数倍の栄誉であることは、私が言うまでもなく明らかである。

 従って田中翁においては、今回の入獄に関して失望することなく、人生の快味のこの辺にあるを知り、人を恨むことなく、社会を憤ることなく、出獄の日を待って、更に一層の謙遜と慎重の態度をもって、君の終生の志望を貫かれんことを願い、これ君の友人の一人でもある私が、梅雨の空に獄中の君を思いやって、君のために書き記すところの祈願である。