歴史絵を通して見る日本人と犬と猫の関係(10世紀〜19世紀)

 日本人が歴史のなかで犬や猫とどのように関わってきたのかを、歴史絵を見ながら辿っていきます。

平安時代の貴族の館の縁の下は犬の住処(10世紀)


春日権現験記の竹林殿の事
 これは、平安時代の貴族の物語を描いた絵巻物の一場面ですが、貴族の館の縁の下が、その当時の犬にとっては絶好の寝床だったようです。このように、町の犬の中には、裕福な身分の人々の邸宅や寺社などに住み着くことによって、生きながらえていた犬がいたようですがが、さらに運が良ければ、主や使いの者たちからひいきにしてもらえることもあったようです。

 しかしながら、町の犬は神道の穢れの原因になることがしばしばあり、穢れの概念が深く浸透し、その行動を縛られていた平安時代の宮中の人々や貴族たちにとっては、大きな悩みの種にもなっていたようです。犬の死(死穢)や出産(産穢)、あるいは犬が何らかの死体の一部を外から持ち込む不浄(咋入れ)などに遭遇した場合は、祓(はらえ)の儀式を執り行ったうえで、公式の儀式や行事への出仕は控え、引き籠らなければなりませんでした。このような穢れに対する対処方法については、平安時代中期に編纂された延喜式(律令の施行細則)によって事こまかく規定されていました。

 このように、犬には穢れに関わる問題があるためか、宮廷や貴族社会では、愛玩動物としては猫の方が受けが良かったようです。
 

特定の飼い主のいない町犬と大切に飼われていた猫(12世紀)

 これらはともに国宝で12世紀成立の「信貴山縁起絵巻」と「餓鬼草紙」の一場面ですが、町犬や村犬のほとんどは特定の飼い主がいない野良犬で、猫は、日本に入ってきたのが8世紀と遅く、まだまだ珍しい動物で、鼠を捕ることもあり、とても大切にされていたようです。

餓鬼草紙

下の猫の部分を拡大

信貴山縁起絵巻


裕福な貴族と外来狩猟犬(13世紀)

春日権現験記

 鎌倉時代の貴族の館に、鷹狩の猟犬として、大陸(元)から輸入されたグレーハウンドのような西洋犬の姿が見えます。当時の貴族がとても豊かな生活を楽しんでいたことが分かります。



犬追物(13世紀〜19世紀)

 これは、犬を馬上から弓で射る技を競う「犬追物」と呼ばれる競技で、矢は先端が丸く殺生能力のない鏑矢を用い、一辺約73m(40間)四方の馬場で三手に分かれて総数150匹の犬を放して行われていました。



猫がひもで繋がれ犬は放し飼い(14世紀)

 石山寺縁起絵巻の一場面では、商家で飼われている猫は、その希少価値から逃げないように紐で繋がれています。


石山寺縁起絵巻

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 絵本徒然草で犬が登場する場面ですが、一般的に犬を紐で繋ぐ風習はなく、飼い犬であってもほとんどの場合、放し飼いであったようです。


絵本徒然草

絵本徒然草


安土桃山時代の犬(16世紀)


南蛮屏風

 これらの歴史絵を見ると、日本人と西洋人の犬の扱い方の違いがよく分かります。

 ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイス(1532年-1597年、ポルトガル人、イエズス会員でカトリック教会の司祭/宣教師、『日本史』を執筆)は、日本人と動物の関係に関わる興味深い発言を残しています。「我々にとっては、人を殺すことは恐ろしいことであるが、牛や鶏や犬を殺すことは恐ろしくはない。しかし日本人は、動物が殺されるのを見ると肝を潰す一方、人殺しはありふれたことのようであまり驚かない。」




洛外名所図

洛中洛外図(国宝)



徳川将軍の鷹狩(16世紀〜19世紀)


将軍家駒場鷹狩図

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 これは、徳川十代将軍、家治の鷹狩風景ですが、鷹狩に用いる猟犬(鷹犬)が非常に大切にされた一方で、鷹犬以外の駄犬は広く鷹の餌として利用されていました。


紐から解かれる猫と紐に繋がれる愛玩犬(17世紀)


猫の草子

彦根屏風(国宝)

 上段は「猫の草子」の挿し絵ですが、これは、1602年、京都町奉行所によって一条通りの辻に高札が立てられ、猫の紐を解いて放し飼いにし猫の売買を禁止するお触れが出された様子を描いています。


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 下段は、江戸時代初期の遊里の様子を描いた国宝「彦根屏風」の一部ですが、愛玩犬を紐で繋いで外を一緒に歩くという、犬を紐で繋ぐ風習がなかった当時としては非常に奇抜で奔放な様子が、歌舞伎者(異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと)とともに描かれています。


庶民の中の町犬と富裕層の愛玩犬(18世紀〜19世紀)

 町犬は、特定の飼い主のいない無主犬(野良犬)で、紐で繋がれることなく自然で自由な存在として人と共生していました。犬を紐で繋ぐ風習は、支配層の鷹犬などの猟犬や富裕層の愛玩犬を除いて、一般庶民の間にはありませんでした。犬を紐で繋ぐようになったのは、明治維新による西洋化の影響を直接受けた結果だということになります。犬の行動を紐に繋いで規制することに、日本人の自然や動物に対する伝統的な考え方がそぐわなかったのではないでしょうか。

 一方、富裕層の愛玩犬、狆は、その白と黒の毛並が豪華な色柄の着物によく映える座敷犬、抱き犬として、大奥から各地の大名家、そして裕福な町人へと広がっていきました。狆は、その優雅で贅沢な生活ぶりから、普通の犬とは別格の生きものだとみなされていて、庶民の狆に対する憧れの気持ちは、歌舞伎・人形浄瑠璃の演目、『先代萩』の「いっそ狆になりたい...」という台詞によって今に伝えられています。


江戸名所図会(四谷内藤新宿)

勝川春章 雪図

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動物を擬人化するやさしい心(19世紀)

 江戸時代には、犬や猫などの身の回りの動物を擬人化した物語が人気を博しました。身近な動物たちの世界を人間の社会と重ねて見る発想が、動物たちを人間と同じような心ある存在として見る日本人の感覚にマッチしたのでしょう。そこには、動物として生まれた因果に同情する少し感傷的な思いも込められています。


朧(おぼろ)月猫の草紙

朧月猫の草紙


人と動物との無邪気な共生関係(19世紀)

 19世紀の犬猫と人間の純朴であどけない関係を描いた錦絵と犬の飼育書の一部です。


東京名所三十六戯撰 鉄砲洲

東京名所三十六戯撰 目黒

犬狗養畜伝