生類憐みの令(1685〜1709)

生類憐みの令とは


徳川綱吉(1646-1709)
 生類憐みの令とは、そのような名称の単一の法令を意味するのではなく、1685年(貞享2年|この年に出された、犬猫を繋ぐことを禁止し、犬猫が将軍の御成道に出てきても構わないとしたお触れが最初)から1709年(宝永6年|徳川綱吉の死去)の24年間にわたって、徳川五代将軍綱吉によって強力に推し進められた、人間(捨子、病人、囚人、被差別民など)を含む動物全般(犬・猫・馬・牛などの哺乳類、ヘビなどの爬虫類、金魚などの魚類、コオロギなどの昆虫...)に対する憐み(慈悲|生類をいつくしみ、楽を与える慈と、生類をあわれんで、苦を除く悲からなる心情)政策に関わる多数(総数135件)のお触れの総称です。

生類憐みの令の社会的・思想的背景


江戸日本橋界隈(17世紀中期)
 生類憐みの令の背景となった江戸時代初期の世相は、徳川幕府による幕藩体制の確立によって戦こそなくなったものの、一世紀を超えた戦国時代(1467年〜1573年)による社会の混乱や殺伐とした遺風が完全に払拭されていたわけではなく、捨子、病人や病牛馬の遺棄、試し切りに犬殺しなどの非道な行為が横行していました。

 また、江戸のような大都市では、犬の餌になる残滓が多く出ることから野犬が増加し、野犬に関わる諸問題は、幕府としてもそのまま放置しておくことができない状況にありました。例えば、歌舞伎者と呼ばれた時代の異端者などによる犬殺しや犬を食するような行為、そして捨子が飢えた野犬に襲われ食べられてしまうといったような無残な出来事も特段珍しいことではありませんでした。

 そして、生類憐みの令の思想的な背景としては、綱吉が帰依していた仏教(輪廻の思想や殺生禁断の教え)と神道(死穢や血穢などの穢れの概念)に加えて、封建社会の規律・秩序を啓蒙・維持するための思想として徳川幕府(家康)によって官学として採用されていた儒教(慈しみを広く他に施す仁の徳目、天地草木といった自然から人間に至るまですべてのものに内在する理(魂)の原理など)の影響があったものと考えられます。

生類憐みのお触れの例


生類憐みの令(貞享四年)

幕府直轄の犬小屋(シェルター)の運営

 江戸における捨て犬や野犬問題に関する状況は、生類憐み政策のなかで、犬愛護を推進するために数々のお触れが出されたにもかかわらず、一向に改善する様子が見られなかったため、幕府は自らが直接、犬の保護事業に乗り出します。有名な中野の犬小屋をはじめとする大規模な犬の収容施設(シェルター)を複数建設し、前代未聞のスケールの犬の保護事業を展開することになります。

喜多見村の犬小屋
 元禄5(1692)年、綱吉は喜多見村(現在の世田谷区喜多見)の幕府御用屋敷の中に、病犬と子犬の「介抱所」「看病所」「寝所」などを備えた犬の収容施設をつくりました。そこでは、給餌はもとより、犬医者による診察や薬の処方なども行っていました。犬の収容数は1年で約1.4万匹になり、雑務を担当する16〜17名の人足が常時犬の世話をし、手代(てだい|江戸時代、郡代や代官の下役として、民政一般をつかさどった地位の低い役人)などの役人が敷地内の巡回や犬医者の呼び寄せなどの業務を担当していました。しかし、幕府による犬の保護政策の拡大に対して、喜多見村の収容施設だけでは、江戸の無主犬(野犬)を含むより大きな犬問題に対処できるわけはなく、幕府は犬の収容施設の大規模な増設に乗り出します。

大久保と四谷の犬小屋
 元禄8(1695)年5月に、大久保と四谷に新たな犬小屋が完成します。犬小屋の広さは、大久保がおよそ2.5万坪(東京ドーム1.8個分)、四谷で約1.9万坪(東京ドーム1.3個分)で、犬の収容規模は大幅に拡大しました。そして幕府は、野犬の増殖を抑えるべく、まず江戸の雌犬から収容を開始したと言われています。また、人とのトラブルを未然に防止するという趣旨から、元禄8年6月の江戸の町触れで、「人に荒き犬」を収容しているので、そのような犬ががいたならば町奉行所に書面をもって届け出るように申し渡しています。

 このように、喜多見村の収容施設では病犬と子犬の保護を主体としていたのに対し、大久保と四谷の犬小屋では無主犬の飼養を主眼としており、幕府の犬の保護活動は病犬と子犬から、より深刻な野犬対策へと拡大していきました。大久保と四谷の犬小屋における収容頭数は、元禄10年の町奉行所の書上(かきあげ|上申書)によれば、元禄8年10月の段階で42,108匹でした。

中野の犬小屋

中野御用犬屋舗(犬小屋)
 元禄8(1695)年10月には、さらに16万坪(東京ドーム11.3個分)に及ぶ犬の収容施設が中野村に完成します。収容された犬数や維持費用については、『政隣記(天文7(1538)年から文化11(1814)年までの加賀藩の史実を編年体で記録したもの)』の元禄8年12月の記録によれば、中野の犬小屋には、8.2万匹余の犬が収容され、犬1匹の餌代は1日当たり米2合と銀2分、その合計は1日銀16貫目であり、1年間の費用は金9.8万余両(1両の現在価値を13万円として約1,274万円)にのぼり、これはすべて江戸町人から徴収されていたとのことです。

 元禄9(1696)年に行われた修復・拡張工事の記録によると、中野犬小屋は、一棟25坪の犬部屋・犬餌飼部屋が290棟、一棟7.5坪の日除け所が295棟、一棟6坪の日除け所・餌飼所が141棟、子犬養育所が459か所、役人居宅8か所、長屋4棟、食冷まし所5棟、冠木門8か所、医師部屋、女犬養育所などがある壮大な施設で、面積は20万坪(東京ドーム14.1個分)を超えていました。このときの工事で大工延べ5.7万人余が駆り出され、費用の総額は銀2,314貫658匁余(金38,577両余|1両の現在価値を13万円として約50億円)と米5,529俵余とされています。また、『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき|元禄の頃、尾張徳川家の家臣であった朝日重章の日記)』の元禄9年6月12日のくだりには、中野犬小屋へは毎日30匹から50匹くらいの犬が収容され、犬の餌は1日当たり50俵に及んでいたと記されています。

 中野犬小屋は、拡大し続ける需要に対して更なる拡張工事が行われ、元禄10(1697)年4月には犬小屋とその周辺道路も含めておよそ29万坪余(東京ドーム20.5個分)となり、犬小屋は五つの「御囲場(犬小屋)」に分けられ、「壱之御囲」が3.5万坪(東京ドーム2.4個分)、「弐之御囲」が5万坪(東京ドーム3.5個分)、「参之御囲」が5万坪(東京ドーム3.5個分)、「四之御囲」が5万坪(東京ドーム3.5個分)、「五之御囲」が5.7万坪(東京ドーム4個分)といった規模でした。『徳川実紀(19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録)』には、このとき中野の犬小屋に集められた野犬の数は、「まもなく10万頭に及ぶ」と記されているのだそうです。

生類憐みの令に思う

 生類憐み政策に関わる運用費用が町人に課せられたことや、違反者に対する処罰が厳しすぎた(町人が生類憐みの令違反で厳罰に処せられた事例は少数とみる説もある)ことなどから、幕府に対する町人の不満や不信感は強く、多くのお触れはその効果を表すことなく、犬をはじめとする動物の遺棄や虐待は後を絶たなかったと言われています。そして、綱吉の死に際し、後継の六代将軍家宣(綱吉の甥)は、綱吉が言い残した、生類憐みの治世を100年以上継続するようにとの遺言を反故にし、早々と同法令を廃止し、斯かる罪で投獄されていた囚人を釈放しています。このようなことから、生類憐みの令は、犬公方綱吉による天下の悪法として、お犬様に対する待遇を面白おかしく描いたエピソードなどとともに揶揄され、後世に伝えられることになりました。

 しかし一方で、江戸をはじめとする大都市の野犬対策、捨子対策、社会的弱者の救済(施行米の支給)などといった具体的な施策の実効性、あるいは殺伐とした戦国遺風を一掃しようとした世直し説などの観点から、生類憐みの令による綱吉の治世を再評価する動きもあります。確かに、徳川幕府の絶対君主による政(まつりごと)という特殊性はあるものの、動物愛護運動が国の政策として、これだけの規模と密度で実践された例は、人類史上非常に珍しく貴重であり、これを単に犬公方綱吉による常軌を逸した悪政とだけ片づけてしまうのは少しもったいないように思います。この壮大な歴史的社会実験から、もっと本質的で有意義な議論として、自然を構成する多様な生命と人間社会に関わる真理や理念や教訓のようなものを学び取ることはできないか、我々現代人は、時空を超えてこのような課題に真剣に取り組むべく、綱吉の生類憐みの治世を改めて見つめ直してみる必要があるのではないか思います。

 それでは、徳川綱吉の生類憐みの令による治世から、具体的にどのようなことを学び取ることができるのでしょうか。それは、根本的に人間社会がどうあるべきかということについてのビジョン、あるいは自然を構成する多種多様な生命と人間との関わりにおけるあるべき姿とは何かといったことではないでしょうか。現代の我々の社会には、このような国としての理念が不明確であり、綱吉が残した足跡からそのヒントやエッセンスのようなものを学び取ることができるのではないかと思うのです。

 綱吉は、日本の伝統や宗教(神道と仏教)、そして儒教(江戸幕府の官学である朱子学)から多くを学ぶことによって、人のふみ行うべき道について揺るぎない信念を築き、自然を構成する多種多様な生命と人間との関わり方、そして人間社会のあるべき姿について確固たるビジョンを持っていました。以下に、綱吉の信念を支えた三本の大きな柱について補足します。


 人間を含む生類は、すべて霊魂が宿る尊い存在であり、その中でも人間は、万物の霊長として、人間の弱者および人間以外の生類に対して慈悲を施し仁愛をもって接するべきものであり、万民がそのような精神をもって日常振る舞うことができるようになれば、その結果として泰平の世の中が実現すると、綱吉は考えていたのではないでしょうか。そのような社会の実現が綱吉の百年越しの壮大なビジョンであり、そのための万民の行動規範が生類憐みの令であったのではないかと思います。違反者に対する厳罰は、(現代とは人権に対する考え方が全く違う)江戸時代という時代背景と、徳川将軍という絶対君主による治世の特殊性を考慮したうえで考えると、この行動規範から外れた無慈悲な人間は、生類および人間社会にとって有害な存在であり、理想の社会実現ためには排除の対象になるといった論理が成立するのでしょう。あくまでもこの点については割り引いて考えたうえで、現代に生きるの我々が、綱吉が生類憐み政策によって成し遂げようとしたことから学ぶべきことは、以下のようなことではないかと思います。

 @人間を含む自然を構成する多種多様な生命と生命間のつながりといったことに対する理念的な解釈の枠組みや土台
 Aその枠組みや土台の上に、どのような世の中(社会)を築くべきなのかといったビジョン
 Bそのビジョンを実現するための精神的枠組みと行動規範

 現代の我々の社会は、自然および自然を構成する多種多様な生命とのかかわりにおいて、多くの矛盾と問題を抱えています。例えば、既に多くを失ってしまった地球上の生物の多様性をいかに維持していくのかといった問題、自然の生物資源を必要以上に奪い続ける乱獲の問題、人間の一時の都合による大量の動物の殺処分の問題、家畜に対する最低限の福祉はいかにあるべきかといった問題など、地球上の環境、生態系、多種多様な生命の行く末に、あまりにも大きな影響力を持つに至った我々人類に突きつけられているこれらの問題に対して、しっかりとした理念に基づいた対応を迫られています。

 我々現代人は、科学の目を通してより多くのことを知るようになりましたが、その一方で、まだ知らないことや、多くのことを知ってしまったが故に見えなくなってしまったもの、あいるは、恐らくそこに存在するはずだけれども、その原理や法則が解明できないでいるようなものなどがたくさんあります。綱吉が持っていた人間社会に対する問題意識や理想の世の中を実現するための政治理念、そして綱吉が実際に取った行動を素直で謙虚な心でに見つめ直すことによって、現代の我々が本来見えていなければならないはずのものが見えてくることになるのかもしれません。320年前に綱吉が歩んだ道のりが、時空を超えて現代の我々に、より良い地球の未来のために重要なヒントを与えてくれそうな気がしてなりません。