真言宗の宗祖・弘法大師が伝えてきたものは、ご存じのとおり「密教」の教えです。この「密教」の教えとは何でしょうか。弘法大師は、その特徴を密教以外の仏教すなわち「顕教」と対比することにより明確にしています。その中で、最も分かりやすい特色が、悟りに至る考え方です。つまり「顕教」では悟りに到達するまでに、何代にも渡って生まれ変わり、気の遠くなるような時間を要するとしているのに対して、「密教」では今ある肉身のままで直ちに悟りに至ることができるとしています。ここでは、こうした弘法大師・空海が説かれた「真言密教」の教えについてご紹介します。
この身このままで仏になる--------即身成仏
私たちは死者に対して「迷わず成仏してください」と祈ります。この「成仏」とは文字どおり「仏に成る」ことです。では、「仏に成る」とはどういうことかといえば、迷いのない心で真理を知ること、つまり悟りの境地に達することであり、その境地に達した仏がいるという安楽の世界、即ち極楽浄土に往くことをいいます。当然のことながら、成仏することは難しく、顕教の場合は何代にも渡って生まれ変わり死に変わりながら、無限ともいえるような歳月を費やして修行することが必要としている程です。しかし、弘法大師は、全ての人間がもともと仏と同じように悟りの境地に達する資質を内に秘めており、修行によって本来の姿にたち返るなら、肉身のまま即時に成仏することができると説いています。これが真言密教の根幹ともいえる「即身成仏」説です。
真理をそのまま人格化した法身・大日如来の教え--------法身説法
「顕教」も「密教」も元は同じ仏教ですから、例えば「成仏」という考え方に代表されるように、教えそのものに相違があるわけではありません。ただ、対象とする仏教の教説が同一でも、これをどのように受け止めるかによって大きく異なり、一説では教説を表面的に捉えたのが「顕教」であり、さらに一歩踏み込んで教説の本質を捉えたのが「密教」であるとしています。
「即身成仏」の「即身」は、まさに一歩踏み込んだ姿勢を表すものといえますが、この大胆ともいえる教えを、弘法大師はどうして説くことができたのでしょうか。それは「顕教」が、応化身(おうげしん)すなわち歴史的人物である釈尊の説いた教えであるのに対して、「密教」は、法身(ほっしん)すなわち普遍的な真理である法を、そのまま人格化した大日如来の直接の説法であるとしたところにあります。つまり、弘法大師は釈尊の教えを超え、釈尊の悟りを成り立たせる真理そのものを仏(法身)として、教えの主体にしたわけです。
身体・言葉・心を仏と一体化する--------三密加持
真言密教の修行を「三密」の行といい、修行が目指すものを「加持」といいます。この「三密」についてですが、仏教では、生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いています。顕教では、人間のこれら三つのはたらきは、煩悩に覆われ汚れているということで三業(ごう)と呼んでいます。ところが、法身である大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象を大日如来の現れと説く密教では、人間の三つのはたらきも大日如来の現れであるから、本質的には人間も大日如来と同じであるとしています。ただ、大日如来のはたらきは通常の人間の思考では計り知れないということから、密なるものという意味で「三密」と呼んでいます。
また、「加持」については『即身成仏義』の中で、次のように記されています。「加持とは如来の大悲と衆生の信心とをあらわす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」つまり、「加持」とは、人々の苦を憐れみ救おうとする大日如来の慈悲と、人々の信心とを表しており、あたかも太陽の光のような仏の力が、人々の心の水に映じ現れるのを「加」といい、修行者の心の水が、その仏の日を感じ取ることを「持」といっています。
このことから「三密加持」とは、自らの身体、言葉、心という三つのはたらきを、仏様の三密に合致させ、大日如来と一体になることであり、具体的には、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)によって、仏様と一体になる努力をしていくことをいいます。弘法大師は、この修行によって授かる功徳の力と、大日如来の加護の力(加持力)が同時にはたらいて互いに応じ合う時、即身成仏が可能になると説いています。
あるがままに自らの心を知る--------如実知自心
弘法大師は、悟りとは何かという点についても説き明かしています。経典である「大日経」の中には「云何(いかん)が菩提とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」と記されており、「悟りとは何であるかというならば、あるがままに自分の心を知ることである(語訳)」と説いています。私たちは、悟りといえば、ごく限られた者だけが到達することのできる遠い彼方を想像しがちですが、弘法大師は、自らの心をあるがままに知ることであると教えているのです。人は、ともすると弱者を思いやることを忘れ、自らを戒めることもなく、耐え忍ぶことを知らず、怠惰に過ごし、その結果として悩み、迷っています。弘法大師は、自らの心に目を向け、汚れた心を知り、省みることが大切であるといっているのです。これが、真言密教の「如実知自心」という教えです。因みに「如」という字は大日如来の「如」と同じ意味であり、「如来」とは、「あるがままに、あるが如く、世の中を見る仏の世界から来る」仏様という意味です。
弘法大師は、「六大」すなわち「地大」「水大」「火大」「風大」「空大」「識大」という、六つの根源的なものが宇宙の万物を構成しており、仏も人間も本質的な差はないと説いています。また私たちが眼にしている現実の世界は、法身である大日如来の現れであるから、現実はそのまま絶対であるとも説いています。つまり、仏も人間も根源的なものは同じであり分かちがたいものであるから、大日如来の慈悲を固く信じ、悟りを求める心をもって仏と一体化できるよう努力をすれば、迷いから脱して真理を知ることができると教えています。