最近、『千の風になって』という歌が話題になっています。といっても、実は、つい最近知ったような次第で、どんな歌なのか調べてみると次のような歌詞でした。
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私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
・・・(以下略)・・・
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なるほど、この歌詞を読むと、故人の霊が「お墓に眠っている暇もないくらい、清々しい気持ちで修行をしているので悲しまないでください」と語りかけているようで、新仏を出したばかりで、まだ悲しみの癒えないご家族や人々にとって、たいへん慰めになるのではないかと思います。ただ、世の中にはいろいろな受け止め方があるもので、先日ある席で「そこに私はいません」という一節が話題になり、「墓にいなのなら、墓参りに行く意味がない」とか「墓参りに行ってない人にとって言い訳になる・・・」といった意味合いの冗談話に花が咲いていました。
実は、この話には必ずしも冗談といえない面があり、さまざまな法要の後に壇家様や出席者とお話をさせて頂いていると、時折、「故人の霊は、普段、何処にいるのでしょうか?」といったお尋ねがあります。例えば「故人の霊は、お盆にあの世から帰って来るといいますが、お盆でない普段は、お墓にいないのでしょうか?」というのです。
真言宗では、故人が戒名を授かると、仏弟子として御本尊である大日如来の世界に導かれ、悟りに至るための修行が始まると説いています。その修行の程は、現世に生きる私たちの受け止め方にもよりますが、ある意味で厳しく、例えば「あの人は仏様のような人だ」といわれ、生前は慎ましく穏やかに生きた方でも、慎ましくするあまりに施しの心を疎かにしていたら、修行を要するというのが真言宗の考え方です。ですから普段は済世利人(さいせいりにん:世のため人のため)・衆生済度(しゅじょうさいど:人間をはじめ生あるものすべてを救済し悟りを得させること)の誓願のもと、仏様の使いとしてお役に立てるように厳しい修行をしているというのが本来の姿です。
このように述べると「やっぱり、お墓には居ないんだ!」と思われる方がいるかも知れませんが、故人の霊はお墓にも居ます。現世に生きる私たちの感覚では、「あそこに居るなら、ここには居ない」とか、「仕事中(修行中)だから、話をすることができない」などと考えがちですが、仏様の世界は物質的なものとして把握するものではありませんから、故人の霊は冥界にも、お墓にも居ることができるし、お墓参りをすれば修行中でもお話をすることができるのです。もっと分かりやすくいえば、例えば、当山のように不動明王を御本尊としている寺院は他にもたくさんありますが、どの寺院にも不動明王はいらっしゃいますし、また、それぞれ独立して家庭を持つ兄弟が親の供養をしたいということで、二体の位牌を作り開眼供養をすれば同じ二体の仏様が誕生し、そのどちらにも親の霊がいらっしゃることになります。
このように、故人の霊は、普段から冥界にも、お墓にも、菩提寺にも、お位牌にも居るので、お墓やお仏壇に線香を供え、心に想うことで、いつでもお参りする人の心に現れることができるのです。そうした意味では、お盆というのは特別で、先の「あの世から帰ってくる・・・」というお尋ねに対して、「冥界での修行がお休みに入り、ご家族と共に過ごしたいという霊の心を表したもので、帰ってきたから冥界には居ないかというと、そうではなく冥界にも居るとお考えください」とお答えしています。「迎え盆」や「送り盆」の日に故人の精霊をお迎えしたり、お送りしたりする時も同じことがいえます。
弘法大師は、私達人間は大日如来から分かれた存在であり、大日如来と心を通わせる努力をすれば「成仏」できると説いています。つまり、すべては心の問題であり、大日如来の慈悲を信じ、故人の霊を供養する気持ちがあれば、霊はいつでも側にいて見守ってくださるということです。
(合 掌)