秋も深まり、当山の裏山(稲荷山)を歩くと木の実の降る音が聞こえるようになりました。そんな季節の移ろいを感じながら、思い出したのが宮沢賢治の童話集「注文の多い料理店」にある「どんぐりと山猫」のお話です。内容は、誰が一番偉いのかについて、頭の「尖っているのが偉い」「丸いのが偉い」「大きなのが偉い」・・・・と言い争いになり裁判になったドングリ達に対して、山猫の依頼を受けた少年が「この中で一番ダメで、滅茶苦茶で、まるでなっていないようなのが一番偉い」と判決したところ、言い争っていたドングリ達はシンとしてしまい裁判が解決したという話です。もちろんこの話は、ただダメなドングリが一番偉いといっているのではなく、「団栗の背くらべ」という表現もあるように、もともと僅かな違いしかないドングリが言い争っているのは愚かな事であるという諭しが含まれています。
考えてみれば、私たち人間の世界は大小さまざまに争い事が絶えません。どうすればというか、どのような視点に立てば、争い事のない世界を生きることができるのでしょうか。仏教では、人間同士の理想の世界を「インダラ網」という大きな網に喩えることがあります。インダラ(因陀羅)とは帝釈天のことでインドの帝釈天の宮殿にある網は、ひとつ一つの結び目に宝珠がちりばめられ、宝珠が互いに光り合い映じ合う様は得もいわれぬ美しさといいます。この網のひとつ一つの結び目はひとり一人の人間であり、光り輝く宝珠はひとり一人の仏性であるとし仏性が磨きあげられ、各人がそれぞれの特性をもって輝き合い映じ合った世界こそ、仏の理想の世界であると考えられました。この世界では、自分の結び目が解けていたら、網全体は不完全なものになってしまって役に立ちません。もちろん宝珠は反射し合っているため、一つでも割れたり、ヒビが入っていたり、汚れてしまっていてはダメだということになります。正しく他人の喜びは自分の喜びであり、他人の悲しみは自分の悲しみであるとする大慈大悲の世界です。
こうした人と人の結び付きは、大きな木にも喩えられます。何千何万という葉がついている木でも、全く同じ葉は一枚もありません。一枚一枚がどんなに似ていても、僅かですが違っています。しかも、これらの木の葉は何千という小さな枝、何百という大きな枝につながり、ついには一本の幹、そして根へとつながっています。この喩えは、人間もひとり一人は顔、容姿、性別、土地、国と違いがあっても、その根源は皆同じであるということを意味しています。そしてもし、このような考え方に立つなら、やがて自分以外の人たちは根を同じくする同胞であり、また、助け、育み生かしてくれた恩人であるという考え方が生まれてきます。確かに、永遠の視点に立ってみると、他人と自分は同じ大いなる命によって生かされており、長い歴史の中で生まれ変わり死に変わりながら、時には夫婦、兄弟、姉妹、友人、恋人と必ず何らかの縁でつながっているといえます。
インダラの網が教示しているように、人はひとり一人がつながっており、決して一人で生きているわけでなく、事実、一人で生きてゆくことはできません。当然のことながら、もし一人でも人との結び付きを疎かにする者がいれば健全な社会は成立しません。しかし実際には、この世に誰一人として同じ人間は存在しないし、それぞれの個性が異なる訳ですから、互いにバランスを保つ努力が無ければ、やがてはドングリのように争いが起こることになります。ここに、大きな木の喩えのように、ひとり一人がその根元に目を向け、同胞意識と感謝の念に目覚めることの意味があるといえます。
今の時代、地球規模では未だに紛争地域があり、「世界平和」が声高に叫ばれています。まさに大きな木の枝と枝との間にバランスを欠いている状態ですが、もし、これを脱するために私たちが出来ることがあるとすれば、まずは枝の先にある葉、即ち家族の中での調和を保つことではないでしょうか。親が子を殺め、子が親を殺める今という時代は、家族の間が壊れてしまっているように見受けられます。家族が集い、共同生活をしていく家庭は、ただ寄り添い合い慰め合うだけの場ではなく、時には調和を保つために互いに修正し合い、助け合いながら発展していく道場でもあります。調和のとれた「世界」を子孫に伝えるためにも、まずは、人と人のつながりの原点ともいうべき家族が、互いに魂を磨き合い、尊重し合い、補い合いながら調和のとれた関係を目指すべきでしょう。そのためにも今一度、大切な家族に目を向けて頂きたいと思います。
(合 掌)