北京オリンピックの日本代表選考が佳境を迎える中、中国ではオリンピックが雨で台無しにならないように、科学者が集まり空の雲を「消す」プロジェクトが進められているとか。ロケット弾を使ってヨウ化銀という物質を上空に散布して雨雲を作り、開会式会場以外で雨を降らせてしまおうという発想のようですが、先日、同じ中国の秘境に住むある民族が、自由自在に雨を降らせる事ができるということで、某テレビ番組のスタッフが「雨乞い」の様子を確かめに行くというドキュメント企画を観ました。「雨乞い」は標高4000m以上という山頂付近で始まり、村人が鐘や太鼓を叩くと雨雲が発生し、見事に雨が降り出したのです。その様子を観ながら、「そういえば、弘法大師にも雨乞いにまつわる話があったな!」と思いましたので、今回はこの話をしてみたいと思います。
時は平安時代初期の天長元年夏のことです。その年は、長期間に渡って雨が降らず大干ばつとなったようで、民の苦しみを案じた淳和天皇は、東寺(京都市南区)の弘法大師・空海と、西寺(平安京の造営に際して、東寺と共に二大官寺の一つとして創建された寺)の守敏大師に雨乞いの祈祷を命じました。先に祈祷をしたのは守敏大師で、17日間も雨乞いの祈祷を続けましたが、雨は降りませんでした。次は弘法大師の番です。もしこれで雨が降れば守敏大師の面目は丸潰れとなります。これを恐れた守敏大師は、雨の源(龍神)を封じ込める祈祷をして対抗しました。しかし弘法大師は、天竺の無熱池に棲む善女龍王を勧請して雨乞いの祈祷を行い、三日三晩に渡って雨を降り続けさせたといいます。話はこれで終わらず、面目を潰された守敏大師は、弘法大師に恨みを抱くようになり、ある日待ち伏せをして後ろから矢を放ちました。その時、何処からともなく一人の黒衣の僧が現れ、身代わりとなって守敏大師の矢を右肩に受け、弘法大師を難から救いました。実は、弘法大師の身代わりになった僧は地蔵尊だったといわれ、その後「矢取地蔵」と呼ばれるようになりました。
こうした弘法大師の法力にまつわる伝説は津々浦々にありますが、当山が位置する栃木県内でも数多く、例えば『昔、蛇尾川河岸の農家に弘法大師が来られて、一杯の水を求めた。しかし機を織っていた農婦は面倒だったので「水は無い」と嘘をいったところ、以来、蛇尾川はその辺りだけ流れなくなってしまった(旧西那須野町)』という話や、他にも『弘法大師が、畑でイモ掘りをしていた老婆にイモを所望したところ「これは畑の石だ」と断られた。それ以来、この地方のイモはすべて石のようになり「大師芋」と呼ばれるようになった(旧西那須野町)』という話、また『弘法大師が八溝山の麓を通過された際、美しい谷川が流れ、香気を放っていることに気づいた。大師がこの水を両手ですくうと、水の中に梵字が浮かび上がり、それを見て川上の八溝山が霊山であると悟った大師は、登頂しようとしたが、村人に止められ、人々を悩ます怪物「大猛丸」の存在を知る。それを聞くや否や、大師が虚空に「般若」と梵字で書くと、さすがの怪物も八溝山から退散した(旧黒羽町)』など様々にあります。
そんな弘法大師と当山の御縁は、大師が奥羽巡錫のおり、当地に留まり修行していた時、霊夢に地蔵尊が現れたので、一夜のうちに尊像を彫られて霊地と定められたという開山の話に始まり、それだけに当山を語る上で、地蔵尊と地蔵堂は格別の意味を有しています。現在の奥の院地蔵堂は、明治から昭和初期まで当山の住職を勤められた釈信浄律師によって建立されたものです。信浄律師は高僧釈雲照和尚の高弟で、東京目白の雲照寺で修行し、那須塩原市の雲照寺を経て金乘院の住職になられました。信浄律師は、夢枕に弘法大師が立たれたのを機に、当時古びた小さなお堂であった地蔵堂の新たなる建立を決意されたといいます。身長190センチの巨漢であった信浄律師は、自ら率先して近くの河原から石を運んで石垣を作り、厳しい戒律を守りながら実に十年の歳月をかけて地蔵堂を建立しました。堂の内外を飾る彫り物は、福島県の二本松から来られた親子四人の仏師が、丸二年住み込んで彫り上げた傑作で、特に堂内の「弘法大師一代記」は目を見張るものがあり、最高の寺院を建立しようとした信浄律師の情熱が強く感じられます。
3月21日は、弘法大師が弟子達への遺言を済ませ、高野山奥の院にて静かに入定を果たされた日で「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」・・・この世のある限り、救いを求める人がいる限り、悟りの世界がある限り、私は仏の教えを説き続ける、という永遠の誓いを立てた弘法大師の御縁日です。毎年、お彼岸の期間中に迎えるため知らず知らずの内にお参りされる方もおられるようですが、今年は、是非、弘法大師の誓いを噛み締め、大師のお導きにより正法護持を貫いた信浄律師の魂ともいえる当山の奥の院地蔵堂をゆっくりとご参拝ください。
(合 掌)