法話集
卯月
無常の中の生と死
「諸行無常」という語があります。仏教の基本的な考え方を表す真理の一つで、「諸行」即ち「この世にある一切の現象」は、「無常」即ち「常に変化して少しの間も不変はない」という意味になります。『平家物語』の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」という有名な一節があるので、ご存知の方も多いと思います。この一文の語意としては、「祇園精舎(というお寺)にある鐘の音は、この世の全てのものは流転しており不変ではないといっているように聞こえる・・・」になりますが、「諸行無常」を理解する上で参考になりますので、もう少し文の背景を紹介してみたいと思います。
祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)とは、インドにあった精舎すなわち寺院や僧院のことで、祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)と呼ばれていた地に建立された寺院や僧院であったので、略して「祇園精舎」と称されました。この祇園精舎には「無常堂」という御堂があり、精舎で修行を続ける僧が人生を全うし、いよいよ命が尽きるという頃になると「無常堂」に移って無常を観じたそうです。鐘の声とは、御堂の四隅に吊り下げられた玻璃(はり:ガラスまたは水晶)の鐘のことであり、僧が臨終を迎える時になると鳴り出し、「無常偈」即ち「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽(全てのものは無常にして、生じては滅びる性質なり、生じては滅びるが終わりて、静まり止むことこそ安楽なり)という四句の偈(げ:仏の教えや仏・菩薩の徳を称える韻文)」を説いて僧を極楽浄土へ導いたといいます。
さて現実に目を転じれば、季節は今「無常」を象徴するかのように移り変わり、例えば本格的な春の訪れを告げる桜前線が日本列島を北上しています。そして前線の下では美しく咲き揃った桜が人々の心を魅了しています。梶井基次郎は『桜の木の下には』の中で「桜の花があんなに見事に咲くのは、桜の木の下には屍体が埋まっているからだ」と評していますが、確かに黒々とした幹や枝に薄紅色の蕾が膨らんだかと思えば、真っ白な花を一斉に咲かせ、間もなく散ってゆく桜の花びらを想うと、その営みは儚く正に無常の美しさがあります。そんな花びらのように、この世に存在する全ての生物は必ず死を迎えます。もちろん現世を生きる私達も例外ではなく100年後には、ほとんどの人があの世へと旅立っていることになります。この点は誰もが分かっている事ですが、いざ自分の事となると怖ろしくもあり、また縁ある人がこの世から存在しなくなることを想えば哀しくもあるというのが現実です。
弘法大師は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」という一節を、「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」の中に残されています。人は何度生き死にを繰り返しても、なぜ生まれるのか、なぜ死ぬのかを知らない---この言葉は、生あるものの永遠の嘆きを指摘したものですが、同時に輪廻の流転を繰り返す私達は無常の存在であることを知るべきであると述べておられるように思います。つまり万物は流転しており、人が死ぬのも無常であることを理解すれば、先の「祇園精舎の鐘の声」ではありませんが、死に対する不安や哀しみが軽減され、その結果、限りある生命を大切にしながら一刻一刻を有意義に生きる事が出来るということではないでしょうか。
何年か前、二十代の女性が母親と一緒に護摩祈願に来られたことがあります。人伝えに当山の存在を知り、救いを求めて来られたのですが、彼女は進行性の悪性スキルス癌を患っていました。とても人懐っこそうで純粋な目をしていた女性でしたが、護摩祈願を受け、お経本を持って帰られてから数年後に残念ながらこの世を去られました。その後、母親が「彼女の闘病の記録を本として出版した」とのことで持って来てくださいました。話を聞くと彼女はいつも明るく前向きに闘病していて、どんな辛い治療も我慢し、最後まで生きることを諦めなかったそうです。同じ病気で苦しんでいる人を励ましながら、もう一度元気な身体に戻ることを願っていましたが、死期を覚ると縁のある人を病室に招き「ありがとう」とひとり一人にお礼をいって目を閉じ、静かにあの世へと旅立ったそうです。病院の先生は、「彼女のような最後は珍しい!」といって、とても感動していたそうです。
またある時、某病院の先生とお話する機会があり「最も印象に残っている人の最後」についてお聞きしたことがあります。その人は信仰熱心な方で末期がんを患っていたそうですが、いよいよ自らの死期を覚ると、自宅の布団に身体を横たえ、枕元に妻を呼び寄せ「おい題目を唱えろ!」といい、そのまま静かに息を引き取ったそうです。先生によると、今の老人は足腰が動かなくなることにより、寝たきりになり、やがて認知性になり、食べることも出来なくなってしまうそうです。しかし「胃ろう」といってお腹に小さな口を作り、そこから管を通して直接胃に栄養を送ると、肌の血色がとても良くなり、そのまま生を続けることになるそうです。様々な人の死に立ち会って来られた先生は、これが人の最後の在り方として本当に相応しいのかとも語ってくださいました。
こうしてみると人の命は長い短いの問題ではないことがよく分かります。つまりは人の死が無常であれば、生もまた無常であるということです。そんな生と死の無常の中に存在する私達がすべきは、無常の人生を全うし先にあの世へと旅だった人の思いを受け継ぎ、命の大切さと生きることの意味を、次の世代に伝えることです。そのためにも現世を生きる智恵として「無常」の本質を理解したいものです。
(合 掌)
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