法話集
睦月
苦境の時こそ問われる「共に」の心
一般に修行僧を指導する立場にある者を師家(しけ)といい、修行僧が悟りを開くための課題として師家から与えられる問題のことを公案(こうあん)といいます。「何をいっているのか分からない」ことを「禅問答のようだ」と評したりしますが、「禅問答」とは、師家が提示する公案に対して、修行僧が答えてゆくことを指したものです。公案は修行僧にとって修行の成果が試される試験問題のようなものですから、一般の方からみると「何をいっているのか分からない」のも当然で古くから伝わる公案を見ても、修行僧を悩み苦しませてきたという程、難解な問題ばかりです。そんな公案の一つで、特に難しいとされているものに「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という禅の公案があります。果たしてどんな問題なのか、紹介してみたいと思います。
昔、あるところに一人のお婆さんがいました。ある日、街で托鉢をしている僧を見かけたお婆さんは「これは見所がある!」と思い、その僧を自分の屋敷に招き、庵を造って修行させました。そして二十年もの間、寝食の世話をし、修行を見守って来ました(仏教では、こうした行為も「供養」といいます)。
ある日のことです。「僧もかなり修行が出来たであろう」ということで、お婆さんは、世話を続けて来た娘さんに「今日、給仕が済んだら、あのお坊さんに抱きついてみなさい。そして『こんな時はどんな気持ちがしますか』と聞いて来なさい」といい付けました。娘さんは言われた通りに朝の給仕が済むと、僧に寄り添い「こんな時はどんなお気持ちがしますか」と尋ねたのです。
すると僧は、「枯木寒巌に倚って、三冬暖気無し(枯木が寒さに凍てついた岩に寄り添ったようなもの、真冬の最中に暖気など在るわけがないように、私には色気など全く無い)」と答えました。つまり、「貴女は燃えたぎる温かい体で私に抱きついたと思うであろうが、また、私を一人の男性と思ったかも知れないが、私は寒中の巌のようなもので、貴女を枯木としか思いませんし、私の心は動きません」と返したのです。
恥じらいながら戻って来た娘さんからの報告で、これを知ったお婆さんは、烈火のごとく怒って「二十年もこんな馬鹿坊主に只飯を食わしたのか」と僧を叩き出し、僧が修行していた庵までも「汚らわしい!」といって焼き払ってしまったというのです。
普通に考えると、この僧の答えは正解のように思われます。それを何故、お婆さんは怒ったのでしょうか。仮に僧が娘の誘惑にのって抱いたとしたら、お婆さんは怒らなかったのでしょうか。いやいや、それこそ「未熟者め!」といわれて叩き出されたことでしょう。娘を抱かないのは不正解、かといって娘を抱くのも不正解という難しい設定ですが、さて貴方ならどうしますか?というのがこの公案です。
確かに古い仏教の教えの中には「人間の煩悩は、煩悩を宿す肉体に起因しているので、修行によって肉体を枯木のように生気を無くし、思考を止めることこそ理想である」とした考え方もあります。先の僧が実践したのも、この教えであったといえます。しかし「婆子焼庵」の公案では、人間の本能を絶とうとする修行を否定しています。そして真の修行は、人間の本能を絶つことではなく、本能を否定せずに整理することであるとしているのです。
ここから導き出される公案の正解は「愛欲という本能を否定するのではなく、さばいてゆくこと」になります。何となく分かったようで分からないと思いますが、頭で考えて答えを導き出せるような問題ではありませんから当然です。事実、修行を重ねた僧でも、実際にどう対処すれば良いのかとなると、悩みが尽きないようで、次に紹介する阿闍梨と弟子のやり取りからも、その様子が分かります。
それは十三世紀前半のことですが、高野山の著名な学匠であった道範阿闍梨の弟子に対する手紙が残っています。「密教の観法をする時、雑念が生じて困っています。どうしたらよろしいでしょうか?」という弟子からの質問であったようです。それに対して道範阿闍梨は、「あなたもそうなのか、実は私もそうなのだ」という返事を出しています。そして、「あなたは雑念が悪であるから、それを極力取り除き、無念無想の純粋な境地に至らなればならぬと考えているに違いない。だが、雑念は悪で、純粋は善だと一方的に判断するから困惑するのだ。雑も純も、正も邪も、善も悪も、美も醜も、実は同じことだ」というように道理を懇々と説き聞かせています。
真言宗の常用経典として代表的な「理趣経」でも、人間の持つ欲望のエネルギーを肯定しており、その上で悟りへ向かう真心の在り方を説いています。先の公案のように己一人の悦びだけでなく、自も他も共に幸せであることを目指すことこそ、人間を生かす根本のエネルギーである大宇宙の法則に適っているといえるのではないでしょうか。
昨年の後半から一気に拡大した世界的な金融危機に端を発した不況の荒波は、まだ始まったばかりといいます。「企業は人なり」の精神も何処かに吹っ飛び、防衛本能とはいえ企業が人を切り捨てるニュースが連日のように報じられています。その意味では、今年ほど「共に」の精神が問われる年は無いように思われます。本年が、皆様にとって少しでも良い年となりますように・・・。
(合 掌)
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