2月15日は、お釈迦様が入滅(にゅうめつ)された日です。入滅とは、涅槃(ねはん)すなわち煩悩の炎を吹き消した状態に入ることをいい、魂の輪廻という束縛から解き放たれ、永遠の安らぎの境地を得るという意味での解脱(げだつ)することをいいます。むろん、完全なる解脱は肉体の消滅、即ち「死」によって完結することから、宗教的に目覚めた人が死去することを意味しています。
ところで人が亡くなると「成仏してください」と手を合わせる方がいますが、人は亡くなると直ぐに仏に成れる、つまり涅槃に入れる訳ではありません。涅槃は弛み無い修行の先に見えて来るもので、しかも修行を続ける中で、ある日突然到達できるというものではありません。それは例えば煩悩の炎をひとつ一つ吹き消すように、一歩一歩近づいていくものです。修行は、その歩を進めるための行為ですから、煩悩に覆われた現世はもとより、亡くなったあの世でも魂の修行は続きます。
もちろん修行といっても、一般の方が出来ないような事を強いる訳ではありません。とかく信仰は、教理に傾き過ぎると形式のみが優先され、ともすると本質である心の在り方を見失いがちです。仏教は、非日常的な修行のみをもって悟りの境地、即ち涅槃を目指そうというものではありません。事実、お釈迦様が開いた仏教には、教えを解釈したものをはじめ、修行法や戒律について記したものなど膨大な経典がありますが、その教えは決して難しいことが説かれている訳でなく、ただ「涅槃に入る」ことを第一目標とし、この目標に向けて修行することの大切さを説いています。
このように涅槃への道は容易なものではありませんが、例えば修行の過程でひとつの煩悩が消えればその分だけ心が解き放たれ、安らぎを得ることが出来るのですから、現世を生きる私たちは、いつしか得られるであろう涅槃の境地を信じて、ひとり一人がそれぞれの日常の中で悟りを求め続ける心が大切であるということです。
鎌倉時代の高僧で、月を詠んだ歌が多かったことから「月の歌人」とも呼ばれた明恵上人は次のような一節を残しています。「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」---ここに出てくる「あるべきようは」とは、何でも受け入れる「あるがままに」と異なり、人は時によって、場所によって、さらには事によって、それぞれが本来あるべき姿を自らに問いかけ、その答えを探りながら生きてゆくことこそが大切であると、日々の行と心の在り方を説いたものです。
人が悟りを求める心をもって生きるようになれば、仏様の慈悲を観じられるようになり、やがて生きる悦びとなります。そして、この世は人だけでなく、草木から虫や動物に至るまで、地球上に生を受けた生きとし生けるもの全てが、大自然の恩恵を受けながら生きている事に改めて気付かされます。私たちは地球の長い歴史の中の一瞬を生きている生物に過ぎず、夜空に輝く星の瞬きのようなものです。
先日あるテレビ番組で、もし地球上から人類がいなくなったら地球はどう変わっていくかをコンピュータでシミュレーションし、映像化していました。それによると、人類がいなくなると、直ぐにアスファルトには草が生え、動物たちが街をうろつき始めます。やがて道路は殆どが草木で覆われ、様々な動物が生息するようになります。そして最終的には高層ビルや大きな橋も崩壊し、都市もジャングルと化して、それ迄そこに人類が生息していた形跡すらない地球の姿に戻っていました。
その地球の今を考えると、100年前には15億だった人口が60億を超える迄になり、この人口増加に伴い地球上の森林面積は100年間で半分以上が消滅したといいます。そうした影響もあってか、オゾン層の破壊や地球の温暖化が進み、世界各地で異常気象が頻繁に見られるようになりました。にも拘わらず世界の経済大国は、つい最近まで「自国さえ発展すれば良い」という我欲を丸出しに、限られた資源を貪り合い、例えば二酸化炭素の削減にも消極的でした。
それが、ここに来てようやく「エコロジー」というスローガンのもとに「地球に優しい」活動を模索するようになり、「心の時代」とまでいわれるようになりました。折しも昨年の後半から始まった100年に一度といわれる金融危機と世界同時不況によって、おそらくこの流れは否応なく進展することでしょう。ただ、これで「物の時代」は終わり、次は「心の時代」とする単純な発想では、人口がここまで増加した現実を考えるまでもなく、本当の「心の時代」を求めるのは難しいでしょう。
密教では「物」と「心」のどちらにも片寄ることなく、両方とも大事に取り扱うべきと教えています。この考え方を示すものとして、弘法大師が恵果阿闍梨の人柄を偲ばせるものとして「碑文」の中で記した言葉に次のような一節があります。「貧を済うに、財をもってし、愚を導くには、法をもってす。財を積まざるをもって心とし、法を惜しまざるをもって性とす」・・・つまり「物」に象徴される諸々の社会活動と、活動の根底にある「心」とは、切り離して考えられるものではないとしているのです。
この考え方を踏まえるなら、私たち人間は、正に今という時代を、地球と環境で、危機という事に対して如何に在るべきかを真剣に考えなければならないといえます。その向かうべき方向の手掛かりとして、密教では、欲望を否定することなく、むしろ「欲」という人間が本来持つエネルギーを肯定し、その奥にある悟りを求める欲「大欲」こそが、現世を生きる人間にとって大切であると説いています。その大欲をもって人類は、地球上の生きとし生けるもの全てが生かされていることを肝に銘じながら、何十年、何百年、何千年と時代が移っても、地球が大宇宙のなかで輝く素晴らしい星であり続ける為にどうすべきかを考えなくてはいけません。
(合 掌)