法話集
弥生
広げていきたい「和」の精神
古来、私たちの祖先は人が亡くなると霊魂として山に行き、やがて山頂から霊界に昇天するという山中他界観、山中浄土観をもって生活してきました。そのため山は神聖な場所とされ、山そのものが神仏として畏れ多い存在に位置付けられ、山で修行することは、神仏と一体になり超自然的な能力を身につけることが出来るとされました。山岳修行を第一とした修験道は、ここに端を発しています。
弘法大師の足跡を記した年表を見ると、大師が唐に留学する前の7年間というものは空白で、消息が明らかになっていませんが、おそらく、この間に全国の山々や霊場で修行し、己の仏心を磨いていたと考えられます。唐において恵果阿闍梨から正式に密教の伝授を受けられたとき、数十年の修行が必要とされる両部の大法を僅か数ヶ月で満行したのも、厳しい荒行の中で、密教の極意である大宇宙や大自然と一体となる行を既に修めていたからと考えられます。
大師が、それまでの印度・中国密教とは異なり、「即心成仏」という言葉を「即身成仏」としたのも、観想のみでなく、身体全体で悟るという日本人の「神人合一思想」に基づいているといえます。このように神仏の御心に己の心身を委ねて手足となり、生活する思想は、自と他の区別なく、自然と調和して生きるように心掛けてきた日本人ならではの思想といえるでしょう。
日本人は、四方を海に囲まれた国土と温暖な気候、豊富な食料に恵まれたこともあって、古くから争い事を嫌い、「和」の精神を大切にしてきた民族です。ここでいう「和」とは互いが譲り合い、馴れ合うのではなく、「自然の理」「宇宙の理」に沿った、より高い次元の調和を意味しています。大陸思想に基づいた国の中には、例えば国王が替わる度に対立する民族を滅ぼし、「共存共栄」など考えられないというような歴史を繰り返してきた国が少なくありません。しかし、日本では政敵や逆賊であっても殺されることが少なく、許し合い、共存してきた歴史があります。
このように私たちの国は世界に誇れる歴史と文化を持っていますが、世界の中で日本が果たすべき役割を考えた場合、本当の意味で世界に貢献しているとはいえません。大陸から輸入された文化を自国の思想に合ったものとして成熟させ、発展させてきた日本です。これからは、もっと自信をもって自分たちの文化を世界に発信して、和の精神を広げていくべきでしょう。
(合 掌)
仏の救い・癒しを想う
六十才で肺がんの手術をした母親が、五年後メニエル病を併発し救急車で病院に運ばれました。診察の結果、治療も出来ない末期のガン。病院のベットで、未だ独身の次男の行く末を思い「一人前の家庭を築く姿を見たかった」と、他家に嫁いだ娘にふと漏らしたそうです。それを聞いた娘さんは、家事の合間を縫って毎日毎日、時には台風の夜でさえ一回も欠かさず寺へ詣で、滝に流れるお不動様の水と、お薬師様の薬壷から出る霊水を届けました。
それから二ヵ月後、主治医によると、「治ってない訳ではないが、何度検査してもどうしてか、不思議に進行もしてない、このままでしたら本人の意志ですが退院されても良いですよ」。後での話ですが、母親は入院した時、二度と生きてこの病院を出ることは出来ないだろうと覚悟したそうです。しかし、一週間、半月、一ヶ月と、一日も欠かさず必死で仏様の「命の水」を届けてくれる娘の思いに「治りたい」、こんなにも私を思ってくれる我が子の為に、何としてでも「治りたい」少しでも良くならなければと。そして七十五日目、晴れて退院なさったのです。
これは正に、子が親を思う美しい姿に、救ってあげたいと仏様の慈悲の御手をさしのべてくださった証しでしょう。「念ずれば花開く」それは自分の為でなく、見返りを求めず無償で祈る「即身成仏」の姿そのものであったのです。それから五年後、次男も結婚し、子供も授かり、独立して家も建て、家族誰でも納得する静かな最後を迎えられました。主治医は、「あのお体でよくぞ今日まで。医者には分からない何かがあるんでしょうね」と、奇跡と言わんばかりに感心されたそうです。四国八十八ヶ所の番外札所である愛媛県大洲市に、昔、お大師様がこの地を巡錫された折、貧しさの余り、宿を貸すものが一人としていなく、橋の下で一夜を明かされた「十夜が橋」という橋があります。「行きなやむ浮世の人を渡さずば一夜も十夜の橋と思ほゆ」この人達をどうしたら救ってあげれるだろうと考えていたら時のたつのを忘れてしまったと詠んでいらっしゃいます。
よく最近「癒し」という言葉をを耳にしますが、殆どの人が、「誰かに癒されたい」という意味で使っています。何時から人は、「癒したい」他の為になにかをしたいという思いを大きく後回しにする様になったのでしょうか。貧しくとも、心豊かであった先人の時代からすると「癒し」が、一字違いの「卑しい」と聞こえてしまう時もあるのではないでしょうか。
六千名以上の貴い命が奪われた阪神大震災から十四年目の、一月十七日、被災された方々はどんな思いでこの時を迎えられたのでしょう。ある二十才の大学生の柩の蓋に母への最後の言葉「孝行一つ出来ず、ごめんな、ごめんな、ごめんな」と記してありました。その人達の相(すがた)と心を想い、どうか仏様、お大師様、来世と現世で行きなやむ人達を癒して救ってあげて下さいと、心静かに、一緒に祈りましょう。
(合 掌)
    
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